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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第7話『デビルバスター・ハンターズ』
53/132

その4『狩猟、続行』


 ネービスの誇るデビルバスター部隊『ネスティアス』。

 その軍服風の制服は通常は深緑色だが、その中でトップの10人である『ディグリーズ』は漆黒の制服に身を包んでいる。

 そしてこの日の昼過ぎ、ルナジェールの街にその漆黒の制服を身につけた人物が2人、姿を見せていた。

 片方は『月神』リゼット=ガントレット。

 長くも短くもない長さの金髪をやや後ろに流した男装の麗人風の外見。袖に書かれた字はディグリーズでは最下位を示す『玖』だが、もちろんその実力は並のデビルバスターをはるかに上回る。

「ルーベン、見てごらん。ほら、とても美しいイヤリング。すごく似合うと思わないかい?」

 そう言ってリゼットが示したのは、一歩間違えれば悪趣味じゃないかと思われるほど大きな赤い石のついたイヤリングだった。

「そうですか。どっちかというとこっちの方がいいんじゃないかと」

 そう答えたのが『白の御子』ルーベン=バンクロフトである。

 大陸全土を見渡しても非常に珍しい先天性の白髪だが、今はひさしの大きな帽子で隠されている。袖に描かれた字は『伍』。ディグリーズでは上から6番目にあたる。

 そんな彼らの年齢は23歳と20歳。話し方や態度を見ての通りリゼットの方が少し年上だった。

 ルーベンは露店に並べてある、これまた悪趣味な小さなドクロ――ではなく、生首型の彫刻がついたイヤリングを手に取ってリゼットに示す。

「ほら、これなんかすごく似合いそうですよ」

「あぁ、ダメダメ。カレルはああ見えてそういうの嫌いだから。嘘じゃないよ。長年付き合ってきたこの僕が言うんだから間違いない」

「それは残念」

 ポン、と、投げ捨てるように生首型のイヤリングを元の場所に戻すルーベン。すると、どういう仕組みになっているのか、生首が笑い声のような音を出した。

「じゃあ、ルーベン。次の店に行ってみよう」

 結局、先ほどのイヤリングは買わないらしいが、普通に考えてそれが正解だ。

 彼らがそれを贈ろうとしている相手――同じくディグリーズのひとりであるカレル=ストレンジは、どんなデザインだろうとイヤリングなんてものを好んで身につける人物ではない。お土産に買ったところでただの嫌がらせにしかならないだろう。

 ……いや、彼らにしてみればそれこそが目的だったのかもしれないが。

「ああ、そうそう。受付嬢のお土産もきちんと買っていかないとね。あの子猫ちゃんはなかなか気まぐれだから、一度機嫌を損ねると大変なんだ」

「気まぐれっつか、欲まみれなだけですよ、あの受付。こないだラドフォードさんのお土産とかふつーに質屋に売り飛ばされてましたし」

「ああ、でも困ったな。あまり愛を配りすぎると八方美人だと思われてしまうね。ここはやはり何人かに絞るべきかな」

 悩みながら次の店に向かうリゼット。そのななめ後ろをトコトコとついていくルーベン。

「思われるというか、もう思われてません?」

「うーん、どうしようか。カレルのニヒルな魅力も捨てがたいけど、アレッタの愛らしい笑顔も忘れられない。弱ったなぁ」

「……もう面倒だから、通り名を『両刀使い』にでも変えてもらったらどうです?」

 まったく会話になっていない。まあ、リゼットの方が話を聞いてないのでそれも当然だろう。

 ちなみに、彼らの後ろにそれぞれの率いる部隊員がズラッと並んでいることからわかるように、これは決してバカンスなどではない。任務の合間の小休止みたいなものである。

 中にはそんな2人の行動に眉をひそめる者もいるが、大半は好意的に受け止めているようで、彼らにならって家族や恋人への土産を買っている者もたくさんいた。

 ……と。

 そんな彼らのなごやかな雰囲気を一変させたのは、その途中で入ったひとつの伝令である。

「ネアンスフィア……『キラーアント』?」

 リゼットのつぶやきに、ルーベン隊を含めた隊員たちに一気に緊張が走る。

「……ネアンスフィア?」

「ネアンスフィアだって……?」

 そんなざわめきを前に、馬から下りた伝令がかしこまって答えた。

「はい。かなり確度の高い情報とのことですので、至急現場に急行願います。もしそれが事実であり、かつ可能であるならばただちに殲滅せよとのこと。また、増援としてディグリーズ『捌』隊と、その他2部隊の計3部隊がすでにネービスの街を出立しております」

「……来なくていいのに」

 ボソッとつぶやくルーベンに、リゼットはそれをたしなめるようにチラッと彼を見て、すぐに伝令の方へと視線を戻した。

「わかりました。伍隊と玖隊はただちに現場へ急行します。ルーベン、行くよ」

「はいはい。ふう、相変わらず人使いの荒いことですね」

「補足ですが」

 伝令はさらに言葉を続けた。

「現場の村には、ネアンスフィアの標的となった3人のデビルバスターが入っているとのことです。フリーのデビルバスターが2人と、残るひとりはディバーナ・ロウの者らしいとの情報もあります」

「ディバーナ・ロウの?」

 チラッと振り返ったリゼットの視線の先で、ルーベンの表情がかすかに動いた。

「……ま、しかたないんで行きましょうか」

 なにげない風を装ったルーベンの言葉には隠しきれない起伏があり、どこか色素の薄かった瞳が鋭さを増す。

 その理由を知っているリゼットは特に不審がることもなく、ただうなずいて、

「うん。……みんな! 心の準備はいいかい!?」

 部隊員を振り返って叫ぶ。

 おぉぉぉ! と、空気を震わすほどの声が返ってきた。

 先ほどこの街に着いたばかりだったが、その疲れなど微塵も感じさせない。

 どんな状況であれ。

 どんな内容であれ。

 ネービス領内を脅かす魔の者には決して容赦せず、躊躇なく殲滅する。

 それがネービスの誇るデビルバスター部隊、ネスティアスだった。

 ――とはいえ。そんな彼らが村に到着するには、どれだけ楽観的に見積もっても丸1日は必要である。

 それまでの間、獲物となったデビルバスターたちがネアンスフィアの手から逃れ続けることができるのかどうか。

 あくまで客観的に見れば、答えは明らかだった。

 否、である。




 ザザザザザザッ!

 小刻みに茂みをかき分けるその音は、その主が常人では考えられないほどの速度で動いていることを示していた。

「……」

 長い銀色の髪が宙に躍り、頬に刻まれた新しい傷跡からはかすかに血がにじんでいる。身にまとうハートマークのセーターはすでに敵の返り血に汚れていた。

 ――異常だ。

 なにが異常かというと、その浴びた返り血の量である。

 そのデビルバスターの青年、アルファ=クールラントは光速だった。同じディバーナ・ロウのデビルバスターであるレアスやアクアのように爆発的な瞬発力を持っているわけではなかったが、一連の動きすべてが淀みなく、しかも速い。返り血が吹き出すよりも速い。だから、返り血を浴びるということがほとんどない。

 ……そのはずだった。

 では、この日に限ってなぜ?

 理由は簡単だ。このときの彼が本調子にはほど遠い状態にあったからである。それに加えて、敵の攻め手が狡猾だったということもあるだろう。

 彼が徐々に追いつめられているのは確かだった。

「……」

 一緒にいたはずのセレナスの姿はすでにない。

 視界に映るは、一面の木々。

 木。

 木。

 木。

 ……おかしい。明らかにおかしい。

 いくら非常事態でも、帰り道を見失ってしまうほど彼は愚かではなかった。入るときには確実な目印をいくつも残していたし、その目印をたどってきているはずだ。

 だが、進めど進めど、村にたどり着かない。

「……アルファ!」

 森の中に声が響く。

 聞き覚えのある声にアルファは思わず立ち止まった。

 ティーサイト=アマルナの声だ。

 ――仲間の声は生への希望。死を恐れる人々にとって、それは万人が等しく持つ安堵の快楽だ。

 しばらくして、森の中から声の主が姿を現す。

 慌てた様子で駆け寄ってくるティースは、同じように敵に襲われていたのか、手には剣を持ってすでに臨戦態勢を整えていた。

「……」

 アルファはゆっくりと神槍『誘蛾灯』を下ろす。

 そして、

「……かっ……!」

 槍が一閃し、ティースののどを貫いた。

 ――いや。

「……」

 どさっ、と地面に崩れ落ちたのは、ティーサイト=アマルナとは似ても似つかない、まったくの別人だ。

 幻覚。

 ……狩猟者は用意周到だった。大掛かりな罠で獲物を追い込み、弱ったところで甘い罠に引き寄せ、そして確実に狩る。追いつめられた人間に対して、それは非常に有効な手段といえるだろう。

 こうなってくると、今まで頼りにしてきた目印も、どこかで偽物を見せられていたと考えるのが自然だ。

「……」

 しばし考えた後、アルファは空を見上げる。

 分厚い雲に覆われた太陽の位置を探すのは容易ではなかったが、そこらにある切り株の年輪と合わせて考えればおおよそ方角の検討はつく。

 現在地の把握ができないだけに決定的な方法とは言いがたいが、なんの頼りもなく動くことに比べればずっと有意義だろう。

「……こっちか」

 そうして彼は森の中を再び歩き始める。

 狩猟者の悪意があふれる死地へと向かって。




 死の恐怖。

 死とは生命にとっての終焉を意味するものであり、その先は疑いようもない零の世界だ。零になにを乗じても零であるように、どんなに大きな喜楽の感情も死の恐怖の前ではその輝きをなくし、必ず打ち負けてしまう。

 もちろん死と隣り合わせに生きていればそれが麻痺することもあるし、努力によってその恐怖を押さえ込むことも決して不可能ではない。平静を装う程度のことであれば充分可能だろう。

 だが、しかし。

 それがこんな小さな村の、ごく平凡な子供たちだったとしたら、どうだろうか。

「……そりゃ、事実を目の当たりにしていないのなら、まだわかるんです。恐怖を知らない、実感していないという可能性もありますから。でも」

 カラスが上空を旋回している。

 村はちょうど昼食時。だが、のんびりと昼食を摂っている者など、この村の中にはひとりもいなかった。

 不吉な風が家のドアをガタガタと揺らす。

 カラスの鳴き声。

 ほこりっぽい空気。

 無表情な足音。

「半壊したたくさんの家を見ればわかるように、今回の敵は実際に村に入り込んで破壊活動を行っていて、村の人たちはそれを目の当たりにしてるはずなんです。だったら――この村の様子は明らかにおかしい。どう考えたって」

「なるほど、ね」

 窓際にたたずむマリアヴェルはそっとうなずいて、窓の外へ視線を移す。

「つまり、そういうことなんだ」

「……マリアさん」

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。

 足音はその大きさを増してくる。

 不自然なほどにゆっくりと、まるで行進するかのように。

 窓の外を見つめたまま、マリアヴェルは言った。

「確かに、ね。本当に獣魔が村中を荒らし回っていったのなら、いくら私たちが来たからといって、子供だけを外で遊ばせたりするはずがないよね」

「……」

「――でも」

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。

 足音は複数。

 それもひとつ、ふたつではない。

 10か、20か。それ以上か。

「ほんの少しだけ、気付くのが遅かった……かな」

「ひひひひ……ひひひひひひ……」

「ヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」

「へ……へへへへ……」

 笑い声。

「……」

 のぞき込んだ窓の外には、脂ぎった複数の瞳が見えた。

「ひひひひひ……ひひひひひひひひひ……」

「ヒヒヒ……ヒヒヒヒヒヒヒ……」

「へへ……へへへへへへへ……」

 子供。

 女性。

 老人。

 昨日、無邪気に遊んでいた子供がいる。

 道ばたで何度か見掛けた顔もある。

 少し前、言葉を交わしたばかりの青年もいる。

 そしてその先頭には、皺だらけの頬を緩めてニコニコとする好々爺。

 村長。――村長を装っていた老人。

 それらが皆、同じ笑みを浮かべていた。

 引きつったように頬を吊り上げ。

 前歯を剥き出しにし。

 目尻にはたくさんの皺を寄せ。

 そして――

「ひひひひひ……ひひひひひひひひひ……」

「ヒヒヒ……ヒヒヒヒヒヒヒ……」

「へへ……へへへへへへへ……」

 一様に、同じ笑み。

 愉悦。

 獲物を追いつめ、そして引き金を引き絞る瞬間の愉悦。

「……」

 異様な光景に、ティースの背筋が震えた。

 誰もが、つい先ほどまでは友好的な笑みを浮かべていた。獣魔の襲撃に怯え、村を救いにやってきたデビルバスターたちを頼り、救世主と崇めていたのだ。……そのはずだった。

「村そのものが罠、とはね。敵がそこまで大規模だなんて考えもしなかったよ」

 マリアヴェルのつぶやきに、ティースは無言で窓の外を見つめる。

 家を囲む『元』村人たちは、その多くが人魔の姿をさらしていた。

 おそらくは数日の効果をもたらす『封魔』で姿を変えていたのだろう。現在も5分の1ほど人間の姿が混じっているのは、個人差で封魔の効果が長続きしているためか。

 とはいえ、これだけの人数であれば、そのことによる戦力減もささいな問題である。

「村は、とっくに全滅させられていたんですね……」

 つぶやくように言ったティースの言葉に、マリアヴェルは窓の外を見つめながらうなずいて、

「おそらく私たちの元に依頼が来る前から。私たちを罠に掛けるためだけに、ね」

「っ……」

 カチリ、と、細波が音を立てた。

 ――湧き上がる、灼熱。

 おそらくは30人を超える人魔たちと、彼らが従えるそれ以上の数の獣魔たち。見たところ大半が下位魔、あるいは最下級の獣魔だが、いくらなんでも多勢に無勢だった。

 もしこの場にアルファとセレナス、さらにジンがいたとすれば結果はわからない。だが、マリアヴェルと、そして戦力的に劣るティースの2人だけでは、いくらなんでも無茶な戦いと言わざるを得ないだろう。

 戦えば、確実に命を落とす。

 そしてこの状況では逃げることもまた難しい。

 ――死の恐怖。

 その感情は確かにティースの胸の中にも存在する。

 だが、それ以上に――

「そんなことで村の人を……ッ」

 ぎりっ、と、歯のきしむ音が静かな家の中に響いた。

 煮えたぎる怒り、憎しみ。

 それは時に冷静な判断力を奪い、合理的とは言いがたい行動に誘う危険な感情だ。……だが、頭で理解してはいても、それを押さえることは今の彼には不可能だった。

「許せない……ッ!」

「……」

 マリアヴェルはそんな彼を冷静な瞳で見つめていたが、ふと、その口元に笑みが浮かんだ。

 誰も見ていない。だが、誰かが見ていたとしてもおそらくは意図のつかめない、それは不思議な感じの笑みだった。

 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。

 ゆっくりと近付いてくる足音。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 それを遠巻きに、ニヤニヤしながら眺める群衆。

 最初のひとりが扉に手をかけるまで、あと30秒はかからないはずだ。

「……」

 ティースの足に力が入る。

 あとはいつ踏み出すか、だけだった。

 かなり高確率の死が待ち受ける、その最初の1歩を。

 ――だが、しかし。

 ちりん。

「……?」

 そんな彼の機先を制するように、マリアヴェルが彼の眼前に割り込んだ。

 かたん、と。

 彼女の武器――雪姫が床を離れる。

「ティースさん」

「……マリアさん?」

 マリアヴェルはニッコリと微笑んで、それから小さく息を吐いた。

「行きましょう」

 ちりん――……

 鈴を鳴らし、マリアヴェルはゆっくりと歩を進める。

 覚悟か。

 あるいはなにか胸に秘めた策があるのか。

 ともかく、彼女はティースよりも先に動いた。

「目覚めよ、雪姫――」

 パキ、パキパキパキ。

 長い棒の先に集まった冷気が、そこに大きな刃を形成していく。

 生者を死に誘う大鎌――デスサイズ。

 ちりん――……

 美しい音色。

 外の足音が少しずつ近付く。

 30メートル。

 20メートル。

 そしてマリアヴェルは、一度だけティースを振り返った。

 細めたその瞳を一瞬過ぎったのは、懐旧の影か。

「マリア……さん?」

 ――しゃん。

 9つの鈴が一斉に鳴り響く。

 ――しゃん。

 周囲に、まるで天使の羽根のような白い結晶が産まれた。

 キラキラ、キラキラと。

 衣がひるがえる。

 あまりに幻想的な彼女の姿はほんの一瞬だけティースの心を奪い、足をその場に縫い止めた。

 そして――

「……ッッ!!!」

 空気が真っ二つに避けた。

 声にならない断末魔の叫び。

 紙のように切り裂かれた木製の扉の向こうで、ひとりの人魔が血しぶきを上げながら倒れるのが見えた。

「歌い、舞い、踊れ――……」

 デスサイズを振り抜くモーションすらも、まるで神に捧げる踊りの一部であるかのように。

 9つの鈴が宙に跳ねる。

 その口が琴のような音色を刻んだ。

「雪姫よ、永久に、儚く……」

 ――しゃん。

 笑い声と怒号。

 同時に、地を揺るがすほどの足音が響く。

 敵の、一斉突撃。

「マリアさん――ッ!!」

 驚くティースの視線の先で、マリアヴェルはなんの策を弄すわけでもなく敵の集団の中心に向かって駆けていった。

 鈴の音色に合わせ、薄暗い灰色の中空に舞ういくつもの血しぶき。

「がぁぁぁぁぁぁぁッ!」

「きぃぃぃぃぃぃぃッ!!」

 数十匹の獣魔が放たれる。

 大きなリス型の風の七十一族、狼型の氷の七十一族、大柄な猿型の地の七十三族。

 肉片が弾け飛び、鮮血が中空を満たし、断末魔の叫びがこだまする。

「――」

 マリアヴェルはそれでもためらうことなく、光の粒のような雪の結晶をまといながら死地へ入り込んでいった。

 深く。

 さらに深く――

「マリアさんッ!!」

 ティースも慌てて細波を抜き、その後を追いかけた。

「マリアさん、待ってくれ! せめて俺と一緒に――!」

 だが――

「……え?」

 外に飛び出し、その直後の状況を目の当たりにして。

 ティースはようやく気が付いた。

(マリアさん……?)

 なんの策も弄さずに飛び込んだ……そう見えた、その裏に隠された彼女の意図。

 彼女の『作戦』に。

(まさか――)

 周りを囲まれようと、背後を取られようと、マリアヴェルはまるで気にも留めた様子もなく、ただ敵の中央を駆け抜けていた。

 敵の一撃がその衣をかすめ、美しい髪が数本、宙に舞う。

 ――きぃ……ん。

 鈴がひとつ、弾け飛んだ。

(まさか、まさか……ッ!!)

 想像にティースの背筋は震える。

「マリアさんッ!!!」

 ひときわ力を込めて地面を蹴った。

 そんな彼女の思惑を阻止するために。

 だが――遅い。

「ひひひひ……ひひひひひひ……」

「ヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」

「へ……へへへへ……」

 獣たちが血しぶきを上げながら倒れ、人魔たちは武器を振り上げて獲物を狩らんとする。

 マリアヴェルの振るう雪姫は次々に敵の命を奪い――同時に、確実に傷ついてもいった。

 美しい衣の袖が裂け、そこから白い腕がかすかにのぞき、すぐに赤く染まった。

「……」

 それでもマリアヴェルは止まらない。

 止まらずに、敵の群の中に呑み込まれていく。

 そして――

「マリアさんッ! 待って! ……マリアさんッ!!」

 大波が、引いていくように。

 必死の叫びもむなしく、ティースはその場にひとりだけ取り残されようとしていた。

 ――それもそのはず。ネアンスフィアはあくまでデビルバスターを狩ることが目的のゲームだ。その他のネズミやモグラを狩ったところで当然ポイントになりはしない。

 つまりティースの存在など、最初からネアンスフィアたちの眼中にはなかったのだ。

 だから――

「マリアさん! ……マリアさぁぁぁんッッッ!!」

 もちろん、ティースとて2本の足を持っていて、走ることができる。ただボーっと取り残されるばかりではなかったが、そんな彼を、敵がいつまでも放っておくはずがない。

「っ……くっ……!!」

 きびすを返してきたひとりの人魔に、ティースの足は否応なしにその場に止められてしまった。

「くそ、マリアさん……!」

 最下級とはいえ曲がりなりにも人魔である。そう簡単に退けられる相手ではない。

 はやる心を懸命に押し込めながら、打ち、払い、斬りつける。

 ――どすっ。

「なんで……」

 そして、ティースの口からつぶやきがこぼれた。

 手のひらに鈍い感触を残し、貫いた下位魔の体から細波が抜ける。血が流れ、息の根を止めた下位魔がドサリと地面に崩れ落ちた。

 血なまぐさい空気が辺りに漂う。

 両腕は返り血で赤く染まり、飛び散った赤黒いものが頬に付着して――ティースは顔面を歪めた。

「どうして……ッ!!」

 歪んだ視界の中。

 まるで津波がさらっていった後のように、マリアヴェルとそれを追いかけるネアンスフィアたちの姿は、すでに彼の視界から消えていたのだった。

「っ……!」

 細波を握った拳が震える。

 やり場のない怒り。

 あまりの不甲斐なさ。

「どうして、マリアさん……ッ!」

 一緒に戦い、協力して、ほんのわずかでも生き残る可能性に賭けるつもりだった。

 ひとりでは絶望的であっても、ふたりならどうにかできるかもしれない、と、絶望的な状況であってもティースは本気でそう考えていたのだ。

 しかし彼女の方は、そう思っていなかったらしい。

「……どうしてそんなことするんだよッ! 生き延びるんだって! みんなが生き残る方法を考えようって! そう、言ったじゃないかぁッ!!!」

 むなしく吸い込まれる叫び声。

 吹き抜ける灰色の風。

 ――あれだけの敵を相手にすれば、大陸最強クラスのデビルバスターであろうとも切り抜けることは容易ではないだろう。奇跡でも起こらない限り、彼女は命を落とす。そしてこの絶望的な状況で奇跡など起こるはずもなかった。

「っ……」

 これまでにも幾度となく感じてきた、途方もない虚脱感。

 だが状況は、彼が立ち止まっていることさえも許してはくれなかった。

「……ォォォォォォォ――ン……ッ!!」

「!?」

 突如鳴り響いたのは、地を震わすほどの叫び声。

 ビリビリ、と、空気が震えた。

「な……」

 常識では考えられないような強烈な遠吠え。

 おそらくは村を囲む深い森の中から。

 ティースはハッとする。

「……アルファ。セレナスさん――」

 灰色になった胸に、ほんのわずかな灯がともる。

 そう、まだすべてが終わったわけではなかった。彼には責任がある。ディバーナ・ロウ第四隊隊長としての責任が。

「行かないと。敵のことを知らせないと――」

 そしてティースは森に向かって歩き出した。

 唇をかみしめ、手にした細波に再び力を込め……一瞬だけ目尻に浮かんだ涙を払い。

 悪意が渦を巻いて待ち受ける、死の森へと――




 白い閃光が弾け飛ぶ。

「る~るる~、正義~無敵の~デビルバスタぁぁぁぁ~」

 バン! バン! バチバチバチバチッ!!!

 衝撃と、焼け焦げる匂い。

 木の幹に叩きつけられ、宙に投げ出され、乾いた土の上に転がった獣魔たちは、雷針から鋭く伸びる雷に次々と打ち付けられ息絶えていった。

「ふふふ~ん、アンタら、ちょっとばかし相手が悪かったさね~」

 現在残ったメンバーの中で、今回のような戦いにもっとも向いているのが彼、セレナス=カンファイスだった。

 彼の持つ神具『雷針』は非常にトリッキーな特性を持っている。

 まず、その刀身に貫かれ生命活動を終えた者は、体内に残った魔力を雷に変換され、その骸から2本の稲妻を放出する。放出された稲妻は、最初に貫かれた者よりも魔力の弱い者を自動的にサーチし襲い掛かる……それが延々と続いていく。

 つまり、最初に集団でもっとも魔力の高い者を仕留めることさえできれば、たったの一撃で、その効果範囲内(およそ半径10メートル)にいるすべての敵の身を打つことさえ可能だった。

 『連鎖雷』。

 それが雷針の特殊能力だ。生命力の弱い七十台の獣魔であれば、どれだけ大きな集団でもただの一撃で全滅させることさえ可能な力を秘めているのである。

「ほいっ……と」

 再び7体の獣魔が連鎖雷に打たれて命を落とし、地面に転がった。

「ど~うせなら~花火のよ~うに~色鮮や~かに生きて~死んで~」

 クルン、と、まるでサーカスの一芸のように雷針を右手の中で回転させ、左手をテンガロンハットの上に置いてピタッとポーズを決めるセレナス。

 とはいえ……彼も決して無傷というわけではない。肩を見ればそれなりに息が切れてきていることがわかるし、体のあちこちには獣魔の攻撃による傷と相応の出血があった。

 ただ、それさえも彼の周囲に転がる獣魔たちの数と比較すれば、驚くべき軽傷であることは間違いないだろう。

「さてさて、なかなか功を奏さぬ敵さんの、次なる一手はいかなるものか~、みなさま、刮目してご覧あれ~」

 リズムに乗った口上は獣魔たちを使役する人魔を挑発するためのものだろう。つまりは木々の陰に隠れてなかなか姿を見せようとはしないネアンスフィアたちに対しての発言である。

 と、そのように陽気に振る舞うその一方。

(……さて。アルファさんはティースくんたちのとこにたどり着けたかね)

 彼は至極冷静な思考で敵の攻勢が弱まったのを見計り、懸命に息を整えようとしていた。

 じわっ、と、左の脇腹からあふれた血が服の表面に染み出してくる。

 それはつい先ほど、村人を装うネアンスフィアに不意の一撃を受けてしまったときのものだった。

 疲労もダメージも見た目よりは深い。

(間に合ってればいいがね……ティースくんもマリアさんも、ここで死なせてしまうには惜しい人たちさ……)

 彼がアルファと別れたのは――自らおとり役を買ってここに残ったのは、この森の中でついに正体をさらけ出したネアンスフィアのことを、村に残った2人に伝えるためだ。

 無謀だ、と、冷静な誰かは言うだろう。

 いくら対複数の戦いが得意だと言っても、あまりに無勢すぎる。必ず命を落とすとは言わないまでも、とてつもなく危険な状態であることに変わりはなかった。

 森に潜むネアンスフィアたちは、村にいた者たちと比べるとその数も少なく、アルファと2人での行動を続けてさえいれば、彼の生存率は飛躍的に上がっていたことだろう。

 だが、しかし。

 このセレナスという男は脳天気で破天荒な印象とは裏腹に、非常に義理堅く、また人情味にあふれる性格だった。手遅れである可能性に自らのリスクをプラスして天秤に架けてもなお、彼は村にいるティースとマリアヴェルに危険を伝える選択肢を選んだのである。

「だってさ……」

 ふぅっ、と、ひときわ大きな息を吐いて、そしてセレナスはキツネを思わせる細い目をさらに細め、口元に小さな笑みを浮かべた。

「信頼してもらったのなら、やっぱそれに応えるのが正義のヒーローってもんさね」

 それが利己的な人間に言わせれば、無意味で愚かな行為だったとしても。

「……ォォォォォォォ――ン……ッ!!」

 突然響いた遠吠えに、大気が震えた。

 ゆっくりと、セレナスの口元から笑みが消える。

「……やっぱ隠し玉があったかぃ」

 周囲で蠢いていた獣魔たちが、急に萎縮して戦意を失っていく。……最下級とはいえ、獣魔。その集団を遠吠え一発で黙らせるなど、そうやすやすとできることではない。

 そして。

「……こいつぁ」

 セレナスの口元にもう一度、笑みが浮かんだ。……それは先ほどとは意味合いが違っていた。

 体を駆け抜ける緊張に思わずこぼれた、引きつった戦慄の笑み。

「なんだぃ。単なるザコの寄せ集め部隊かと思ったら、最後にとんでもないもんを隠してたらしいさ……」

 ガサッ、と茂みが揺れる。

 やがてその木々の向こうに現れたのは、ひとりの人魔と、1匹の獣魔。

「……ヘヘ。役にたたねぇクソどもだ。ヒヒヒ」

 人魔の方は20歳ぐらいの青年だ。人間とは明らかに違う長い耳に、数え切れないほどのピアス。セレナスと同じように細い目は、しかし彼とは正反対に濁りきり、その口元には街の片隅に寄生するチンピラを思わせる嫌らしい笑みが浮かんでいた。

「しかもよりにもよって男の方かよ。クソおもしろくもねぇ。ヒヒヒヒヒ」

「……」

 下位魔だろう。デビルバスターであるセレナスにしてみれば、たとえ疲労し、いくつかの傷を抱える現状であっても遅れを取ったりする相手ではなかった。

 だが、しかし――

「……」

 その傍らにたたずむ1匹の獣に、セレナスの視線は釘付けになったままだった。

(風の二十七族、ウィルヴェント――)

 その形は狼、に一番近いだろうか。

 黒に近い深緑色の体毛はふわふわと風に揺らいでいるが、その割に金属のような尖った光沢を放っており、その全身が放つ異様な雰囲気は他の獣魔とは明らかに一線を画している。

 鼻先は狼のように長く口も大きいが、不思議なことに牙は見えず、耳は頭のてっぺん付近に2つ……いや、頭の側面にも耳らしきものが付いていた。

(……風穴を開ける者――かぃ)

 風の二十七族、ウィルヴェント。『風穴を開ける者』という異名の由縁は決して比喩などではなく、彼の能力そのものだ。

 牙のないその口から放たれるドリルのような形状の鋭い風は、標的に文字通りの風穴を開ける。その威力は対魔用に強化されたフルプレートにすらたやすく穴を穿ち、その中身を一撃で葬るほどに強力とされていた。

 また、そのような特性をひとまず置いておくとしても、二十台の獣魔といえばその能力は将魔にすら匹敵し、単独でこれを仕留めるには中堅のデビルバスターでもなかなか難しく、通常は複数のチームで相手することが基本である。

「また、ずいぶんと身の丈に合わぬペットをお持ちで……」

 それだけの力を持つ獣魔であるから、通常、彼らを使役するのは将魔でもひと握りの実力者か、あるいは王魔クラスなのだが、相手が獣である以上、それ以外にも決して不可能というわけではない。

 おそらくこの下位魔はなんらかの方法、偶然、巡り合わせ……ありとあらゆるものが積み重なって、この身の丈に合わぬペットを手に入れることに成功したのだろう。

「とすると、ジンさんがヤラれたのは、ただ罠にかかっただけってわけでもなさそうかね……」

 くるん、と、雷針を1回転させ、半歩下げた左足が力強く地面を抉る。バチ……ッ、と、その右腕を小さな電流が駆け抜けた。

 そんな彼の構えを見て、チンピラ風の人魔が再び下品な笑みを漏らす。

「ヒッヒ……いいのか? それとも、あのマリアヴェルとかいう女のように抵抗して、じわじわとなぶり殺しにされる方が好みなのか?」

「……」

 その言葉に、セレナスの眉がほんの少しだけ動いた。

「ヒヒ、俺は連中と違って優しいからな。抵抗しないなら、両手両足くっついたまま綺麗な姿であの世へ送ってやってもいいんだぞ?」

「……。それはそれは。ご忠告痛み入りまする」

 あくまで陽気なピエロのような口調で、しかし細めた目には無表情な怒りをたたえ、セレナスは右手に持った雷針を軽く振るった。

 バチッ。

「しかしま、残念なことにオイラはこの逆境って言葉がひじょ~に大好きでね。なんつってもオイラは絶対無敵、正義のヒーローだからさぁ」

「……ヒヒ、バカが。だったら苦しんでみじめに死ね」

 ためらいも、駆け引きもない。その人魔は心の底から人の命を軽んじ、それを奪うことになんのためらいも持ち合わせていないようだった。

 同時に、ウィルヴェントの瞳に闘志の炎が灯る。

「ォォォォォォォ――ン……ッ!!」

「……」

 セレナスのこめかみからひとすじの汗が流れ落ちた。

 だが、それとは裏腹に、彼の太股を叩く左手が自然とリズムを取り始める。

 じわり、と、脇腹の赤黒い染みが広がった。

 だが、口からあふれだしたのは、やはり陽気な歌。

「……ラララ~無邪気な笑顔のた~めならば~、た~とえこの身砕けて~流砂に成り果てようとも~」

 バチ……バチバチバチ……ッ。

 じりっ、と、左足がさらに深く地面に食い込んだ。

 細い目がさらに細められ、雷をまとった三つ又のレイピア『雷針』が、人魔と、その横で威嚇のうなりを上げる風の二十七族――ウィルヴェントに向けられた。

「……さて。それじゃ始めようかね。雷光のイリュージョンを、さ!」

 不利であることは承知の上。だが、それをわかっていても、もう引き下がれない。

 たとえそれが、勝ち目の薄い戦いだったとしても――。




 一方。

 ティースが森の奥にアルファの姿をようやく見つけたのは、彼が森に入り込んでから1時間半ほどが経ったころである。

「……アルファ!」

 深い木々の向こう側にチラリと見えた銀色の髪、若干着ぶくれしているハートマーク付きのセーター。

 あまりに特徴的なそれらのパーツは、どうやっても他人と見間違いようがなかった。

「良かった、無事だったか!」

「……」

 そう言って駆け寄るティースに対し、アルファは無言の視線を向けた。そして次の瞬間にはホッと安堵の息を吐く。

 この深い森の中で偶然にも出逢えたことは、奇跡とまでは言わないまでも運の良いことだった。ヘタをすればさまよったまま、ひとりずつネアンスフィアたちに殺されてもおかしくない。

 彼らはそんな、絶望的な状況にいたのだ。

 アルファはかなり疲労している様子だったが、見たところ大きな外傷はないようである。

 ティースはさらに彼に近付いて、辺りを見渡しながら、

「……セレナスさんは?」

「……」

 その問いに対し、黙って首を横に振るアルファ。

「そうか……」

 ティースは落胆の色を隠せずそうつぶやいたが、それ以上詳しく問いかけることはなかった。

 事情は移動しながらでも聞くことができる。今はともかく、少しでも安全を求めて移動することが必要だった。

 そしてティースは、肩で息を吐く彼に手を差し伸べると、

「お前も気づいてるかもしれないけど、あの村はもう全員、ネアンスフィアに――」

 その手を取ろうとした。

 だが。

「……えっ?」

 その華奢な、まるで女性のような白い手が、ティースに触れる前に。

 風が、裂けた。

 風?

 いや――それ以上か。

 それは目にも止まらぬ速さ、目にも止まらぬ一撃だった。

 ドスッ!

「っ……」

 アルファの口からあふれた、まるで押し潰された空気のような、声にならないうめき声。

「――え?」

 一瞬の安堵に気を緩めたティースの口から、ため息のような声がもれた。

 森の奥から光速で迫った、その一撃。

 ごぽっ……

「アル……ファ……?」

 彼の胸から刃先らしきものが生え、そこから赤黒い液体があふれ出る。

 左胸。もっと正確に言えば胃の少し左上――つまり、心臓を、寸分違わず。

「――」

 なにが起きたのか、ティースはすぐに理解できないでいた。

 もちろん、目の前の現実が信じがたかった、ということもある。だが、彼が驚愕したのは、その先の展開に対してだった。

 つまり――

「ティース」

 肉を抉る生々しい音とともに、胸に穴を開けたもの――槍の穂先が体から抜け、そしてあっけなく息絶え地面に崩れ落ちるアルファ。

 ……いや、それは正確ではないか。

 ティースは呆然とその光景を見つめながらつぶやいた。

「アルファが……2人……?」

 そう。

 ティースの眼前でアルファの体を貫いた槍の持ち主もまた、アルファだった。つまり今、その場にはアルファが2人存在していたのである。

 ティースが状況をすぐに理解できなかったのも仕方ないだろう。

 だが、地面に崩れ落ちた骸を見下ろしてようやく気付く。

「まさか、幻覚……?」

 ティースの言葉にアルファは小さくうなずいた。

「ネアンスフィアにはどうやら、少なく見ても4、5人の幻魔が混じっている」

「……」

 たったいま地面に崩れ落ちたアルファ――『アルファだった者』は、その手に小型のナイフを握っていた。

(これが、幻覚能力――)

 もしも本物のアルファが駆けつけていなかったら、どうなっていたことか。

 それを想像して、背筋がゾッと冷える。

 先ほど手を差し伸べたその瞬間、ティースは目の前の人物に一片たりとも疑いを抱いていなかった。おそらくはナイフが体に突き刺さるその瞬間まで――いや、ナイフが突き刺さってもしばらくは状況を理解できなかったことだろう。

 もっとも、気付くチャンスがなかったわけではない。

 あまりにも安易な安堵の表情、あっさりと見せた弱気の色、それらがいつものアルファらしくなかったのはもちろんのこと、あの状況で一言も発しなかったことも、冷静に考えれば不自然なことだ。

 しかし。

 そうは言っても、あの状況でその違和感に注目することがどれほどに難しいか。知識ではわかっていても、いざとなるとそう簡単なことではない。

 ましてなんらかの理由で焦り、あるいは安堵し、その感情に大きな波が起きている状況であればなおのこと。

「幻魔がいるとわかっているときは、必ず姿とともに声も確認することだ。大抵の場合はそれで済む」

「……ああ」

 姿と声。視覚と聴覚。その2つを常に同時に確認できるならば、幻覚能力は恐れるに足らない。

 幻覚能力の基本は『1対1』だ。

『1人の魔が同時に使える幻覚の種類は1つ』

『錯覚の対象物は1度に1つ』

『1人の相手に同時に起こさせることのできる錯覚は1つ』

 それらの知識を思い起こしながら、改めてティースはアルファに問いかけた。

「……それでアルファ。セレナスさんは?」

「別れた。君もマリアヴェルとはぐれたのか?」

「マリアさんは――……」

 視線を落とし、拳をグッと握りしめる。

 セレナス。

 マリアヴェル。

 生きている可能性は低いだろうか? いや、必ず死んでいるとも限らない。彼ら2人は少なくとも数年の経験を持つデビルバスターで、たとえ敵の戦力が勝っていたとしてもそうむざむざやられてしまうような連中でもないだろう。

「2人を探すつもりか?」

 そんなアルファの問いかけに、ティースは一瞬だけためらったが、

「……探したい」

 それがどれだけ無謀であるかは理解している。だが、それでも口に出さずにいられなかった。

 視線を落とし。やるせなさに肩を震わせながら、

「マリアさんもセレナスさんも、きっと本当にいい人たちなんだ。こんなところで……あんな卑劣な連中に殺されていいような人たちじゃない……!」

 言葉の端に怒りがにじむ。

「だから、助けられるものなら――」

「諦めることだ」

「……」

 ギリッ。

 淡々としたアルファの返答に、ティースの拳にもう一度力がこもった。

 ……これは分岐点などではない。正しいただひとつの道のほかはすべて、間違いなく破滅へ通じる道なき道だ。

 それは理解していた。

 理解していながら、それでもティースは、そこに残ったわずかな可能性を捨てきれなかったのだ。

 いい人たちだと思ったから。そんないい人たちが、許しがたい悪に蹂躙されてしまうことが、悲しく、そしてどうしても納得できないことだったから。

「わかってる。わかってるけど――」

 だが、

「……どちらにしろ」

 状況は、やはりそんな彼の思いを踏みにじった。

 ティースの言葉には直接答えず、アルファは相変わらず淡々とした口調で言う。

「まずは、この包囲を崩さなければならない」

「え?」

「……ひひ」

「ッ!」

 風に乗った笑い声に、ティースは弾かれたように辺りを見回した。

 と、同時に、

「ひひひひ……ひひひひひひ……」

 ひとつ。

「ヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」

 ふたつ。

「へ……へへへへ……」

 みっつ――いや、それ以上。

 全身の神経が逆立った。

「……こいつら――!」

 迫っていたのは、彼らを仕留めんとする狩猟者たちのギラついた瞳。

 1、2、3、4、5――マリアヴェルを追いかけていった連中ほど多くはない。だが、それでも10人あまりの人魔たちと、それを上回る数の獣魔の気配が、薄暗い茂みと木々の奥に垣間見えていた。

「こいつら――ッ!!!」

 胸にくすぶっていた熱が急激に勢いを増す。

「ひひひ……女だ、女の方をヤれ……」

「……」

 アルファは無言のまま辺りを見据えている。その瞳の中で、槍の先に灯った明かりがかすかに揺れていた。

「ヒヒ……んじゃ、オマケの方は獣どもに任せとくとするか、ヒヒヒ……」

「っ……!」

 煮えたぎる。

 吐き気がするほどに心臓が跳ねた。

「へ……へへへへ……ヒへへへへへへ」

「ひひひひ……ひひひひひひ……」

「ヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」

 笑い声が反響する。

 森の中に。

 頭の中に。

 心臓が早鐘を打つ。

 ティースの脳裏に焼き付いていた映像が、まぶたの裏によみがえった。

 全滅した村。

 無惨なジンの遺体。

 セレナスのひどく陽気な歌声。

 マリアヴェルのどこか陰のある微笑み。

 そしてネアンスフィアたちの、異常な、あまりにも異常な悦楽の表情。

 目の奥がチカチカとフラッシュして――そしてティースは、のどを振り絞って叫んだ。

「……お前たちの思い通りにはならない! なってやるものかッ!」

 水しぶきが跳ねた。

 鞘をこすった細波が風をまとう。

 ざんっ、と右足が土の地面を抉って、炎の灯った瞳は森を覆う悪意の群れをにらみ付けた。

「あがなわせてやる! お前たちが奪ってきた、たくさんの命にッ!!」

「ひひひひ……ひひひひひひ……」

「ヒヒヒ……ヒヒヒヒヒ……」

 怒りの声にも、返ってくるのは気味の悪い嘲笑のみ。

 追いつめた獲物が懸命にあがく様を、楽しそうに見つめる狩猟者の瞳。

 生ぬるい風が吹いて、遠くでカラスが鳴き声をあげる。

 そして、ポツリ、ポツリと。

 空が泣き始めた。




 甲高い、カラスの声。

 まとわりつくような生ぬるい空気が辺りに漂っていた。

 土の上に残るいくつもの足跡は、そこで獣と人が争いを繰り広げたことを示していて。

 木の幹には焦げた跡。

 ポツ、ポツ、ポツ。

 消えた雷鳴を追いかけるように降り出した雨。

 ポツ、ポツ、ポツ。

 それらはさらに強さを増し、土の地面に、深い茂みに、木の幹に吸い込まれていく。

 ――ポツ。

 最後に、水滴がその者の顔面を打った。

「……」

 言葉はない。

 ポツ、ポツ。

 1滴、2滴、3滴――

 地面に伏したまま。

 ポツポツ、ポツポツ……

「……」

 ポツポツポツ……サァァァ――――

 雨粒が雨糸に変わっても、その者は動かなかった。

 地面を汚す、赤黒い水たまり。

 見開かれたままの瞳。

 時計を止めた――心臓。


「……ォォォォォォォ――ン……ッ!!」


 そして霧雨の中、勝利を意味する遠吠えが響き渡った――


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