その3『追い込み開始』
早朝、くもったネービスの街の空を、1匹のカラスがまるで逃げるようにせわしなく飛んでいった。
雨か。あるいは厄の前触れか。
とはいえ。
「あれれ?」
そんな空の下の一角にあるミューティレイク邸の人々にとっては、その日は特にいつもと変わらない朝だった。
15分ほど前、1階のホールでヴァレンシアという使用人の少女がちょっとした騒動を巻き起こした直後ではあったが、それを含めて、いつも通りの朝である。
さて、ここはそんなミューティレイク別館の執務室。
そこには今、いつもの3人――すなわち、当主であるファナ=ミューティレイクと2人の執事たちがいる。
「ね、ちょっとちょっと、アオイさん。これ――」
「ふわぁぁぁ……はぁ、なんれすかぁ……」
入り口付近に突っ立ったアオイは寝ぼけ眼をこすっていた。首が徐々に傾きかけてはハッと目を醒まし、10秒もしないうちに今度は逆の方向に傾いていく。
「……」
そんなアオイを一瞬で見限ったリディアは、視線を180度移動させて、
「ねぇねぇ、ファナさん」
「どうなさいました?」
リディアの机と直角に配された執務机のファナは、貴族の娘らしい優雅な装いをすでに整えており、その表情は起きたばかりの眠気など微塵も感じさせなかった。
何度もアッチとコッチを行き来している頼りないボディガード兼執事の男性とは大違いである。
「これ、アオイさんにも見習って欲しいなぁ」
「はい?」
「あ、ううん、ひとりごと。……でさ。この影裏からの報告なんだけど。62番ね」
と、リディアは手にしていた紙切れ――ディバーナ・ロウの情報部隊『影裏』からの報告書をファナに示す。
それを見たファナは机の上に積まれた書類の束から、なんのためらいもなく1枚の紙を選び出して、
「この、第四隊に関する報告書でしょうか?」
「うん、それそれ」
リディアはそう言いながらピラピラと紙を振って、
「ま、大したことじゃないんだけどさ。今回の作戦に協力してくれるデビルバスターがいるじゃない? ジン=ファウストって人と――」
「はい。このネービス領で活躍なさっているセレナス=カンファイスさんと、もうひとりは普段、大陸の中央付近で活動されている方と聞き及びましたわ」
「そうそう。その、もうひとりはどうも女の人らしいんだけど」
「まぁ。では、ティースさんは少々お困りかもしれませんわね」
ほんわかとした微笑みを浮かべるファナ。もちろんそれは、ティースが女性アレルギーであることを踏まえての言葉であった。
「うん。……でさ。今回の現場って山奥の村じゃない? で、実はその女の人、山のふもとの街でお供を連れて歩いていたらしいんだ」
「?」
それは別段変わったことでもなんでもなく、ファナが不思議そうな顔をしたのは当然だ。
もちろんリディアも、そんなことは百も承知で、
「大したことじゃないと思うんだけどね。報告にもついでみたいに書かれてただけだし」
そう前置きしてから、言った。
「なんかそのお供が、少し時間を置いてから後を追うように山に入っていったんだって。……ちょっと変だと思わない? 一緒に戦うつもりなら一緒に入っていけばいいんだし、戦わないならわざわざ危険な場所に入っていくことないと思うんだけど」
「……」
ファナはきょとんとした顔でリディアを見た。
それから少し視線を泳がせると、やがてゆっくりとうなずいて、
「それは確かに、少し不思議ですわ」
「でしょ? まあ、だからどうだってわけじゃないんだけどさ」
そう言って、62番の報告書を机の上に放るリディア。
確かにささいなことだ。そのささいな矛盾を解決する理由など、考えようと思えばいくらでも思いつくであろう。
「……」
だが、ファナは考え込んでいた。
その、ささいな不可思議。多忙な彼女であれば、まったく気にしなくても当然の、あまりに小さな報告。
実際、その情報でたとえどのような推測を立てたとしても、それを根拠に動くことは現実には不可能だろう。
さらには、ちょっとしたアクションを起こそうにも、第四隊がいる村は外界から隔離されているにも等しい山奥で、魔の脅威にさらされている場所でもある以上、非戦闘員である『影裏』を現地に直接派遣するわけにもいかない。
戸惑い。
一抹の不安。
――ティーサイト=アマルナはまだまだ未熟だ。戦闘能力はレイやアクアたちデビルバスターはもとより、同じ候補生であるパーシヴァルにも劣るし、判断力だって、長くディバーナ・ロウで働いてきたドロシーやギレットには遠く及ばないだろう。
そんな彼を隊長に据えたことには、当然、本来の任務をこなすこととは別の思惑、別の期待があった。だからこそ、力不足である彼に与える任務の内容には、これまで以上に気を遣ってきたつもりだった。
今回のことも、そう。
事前に情報を集めて把握している限り、敵は取るに足らない下級の獣魔たち。
それに対し、味方はアルファを含め4人ものデビルバスター。
命を賭して戦うこの世界に絶対はないとはいえ、客観的に考えれば狼がネズミにケンカを売るような、それほどまでにたやすい任務だった。危険などまずありえない。
唯一気になることがあるとすれば、先ほども言ったように、その舞台が外界とは隔離された山奥であるということだが、彼女がそこまで考えなかったことは決してミスではないだろう。
というより、そんなことまで考えていては、彼に与える任務などひとつもなくなってしまう。
だから常識的に考えて、彼女の判断は間違いではなかった。
リディアの提示した不可解も、それが直接危険につながるという類のものではなく。
そして――
「……」
漠然とした違和感を胸に抱えながらも、ファナは結局そのことを保留し、その日の執務を再開せざるを得なかったのであった。
それと、ほぼ同時刻。
遠くの地にいるファナの想いとは裏腹に、ティースたちの周囲は緊張の渦に呑み込まれようとしていた。
「……間違いない。ネアンスフィアさ」
山奥の村は圧倒的に静まり返っている。その様はまるで廃墟、立ち並ぶ家々が墓場のように見えるほどだった。
薄曇りだった空は今にも落ちてきそうにその厚さを増しており、吹きすさぶ風は湿った死の匂いを運び、カラスの鳴き声はまるで死霊の叫びのよう。
そして今、この押し潰されんばかりの負の空気にさらされた村の中で、アルファ、セレナス、マリアヴェル、そしてティースの4人は、村の外れ近くにあるマリアヴェルの借宿に集まっていた。
ティースが問いかける。
「セレナスさん、村の人たちは……?」
「村の中心付近の家に固まるよう指示したさ。まあ、なにも言わんでも家から出てみようだなんて、みんな思わんはずだけども」
セレナスの返答にホッと息を吐いたティース。
それはもちろん、村の人たちが少しでも安全になったことを喜んでのことであるが、そんな彼の安堵は、この状況においては少々まとはずれでもある。
なにしろ――
「ま、どっちにしろ、相手がネアンスフィアだとすりゃ、奴らの狙いは最初からオイラたちさ。村を襲撃したのも、おそらくオイラたちを誘き寄せるためってことさな」
「……」
重い空気が立ちこめた。
デビルバスター・ハンターズ――ネアンスフィア。
ひとつのまとまった組織でないがゆえに、その実力、危険度にはピンからキリまである。だが、総じて彼らはデビルバスターにとって驚異的な存在であり、そしてそんな彼らが今、ティースたち4人の命を虎視眈々と狙っているというのだ。
マリアヴェルが窓から外をうかがっている。
ちりん、と、鈴が音を立てた。
「力押しで迫ってこないのは、私たちをもてあそんでいるのかも、ね」
「奇襲でなきゃ勝ち目が薄くなるから、ってのは楽観視しすぎかぃ?」
「否定しないよ。でも、それを根拠に行動を起こすには少し心もとない、かな」
そんなセレナスとマリアヴェルの議論に、ティースが口を挟む。
「セレナスさん。敵がネアンスフィアだっていうのは、間違いないんですか?」
だが、間違いであることを期待する彼に、セレナスはあっさりと答えて、
「ジン=ファウストの額に、ネアンスフィアの刻印が刻まれていたのを見なかったかぃ? 誰かがなんらかの理由で模倣してるのでなきゃ、間違いないさね」
「……額、ですか」
ティースは眉をひそめて、それから力無く首を振った。
あのとき、懸命に目を逸らさないようにしていたとはいえ、さすがに生首の額に刻まれた刻印にまでは目が届かなかった。
……いや、あの状況では、たとえ見ていたとしても、ただ顔面が無惨に切り刻まれたようにしか見えなかっただろう。
「さて、どうすっかね」
セレナスの不自然なほど明るい口調は、それなりの死線をくぐり抜けてきたことによる自信なのか、あるいは単なる強がりか。
マリアヴェルが問いかける。
「あなたの意見は?」
「全員で逃げるのが上策さね」
それは一見情けなくも思える消極的な意見だった。
だが、マリアヴェルもあっさりと同意して、
「そうだね。間違ってない」
確かに、敵の規模がまるで見えない上、外界との連絡も容易ではない。圧倒的に情報が不足している現状は、彼らにとってとてつもなく危険で不利な状況である。
それはこの重い空気を肌で直接感じ取っているティースにも充分に理解できた。
だが、
「……俺たちが逃げ出したりしたら村が襲われませんか?」
そんなティースの疑問に、セレナスはうなずいて、
「それは充分有り得るさ。あるいはオイラたちが逃げることを見越して森に罠を仕掛け、待ち伏せてるかもしれない。どっちにしろ賭けってことさな」
そしておもむろにテンガロンハットを押さえ、歌い始める。
「人生なんて~しょせんは~バクチ~の~繰り返し~、ここが~人生の分岐点~今年一番の見せどこ~ろ~、べべん。ってな感じで、そろそろ意見をまとめましょか」
「……」
ティースは口を開きかけたが、すぐ思い直したように黙り込む。
彼の意見はとっくに決まっていた。
(だって、村の人たちを見殺しにするわけにはいかないじゃないか……)
決して恐ろしくないわけではない。
ジン=ファウストのあまりにあっけない最期には途方もない戦慄を覚えた。未知の敵に対する恐怖は、死そのものへの恐怖にさえも匹敵した。
それらが心臓に爪を立て、恐怖に腰が浮き上がりそうになり、不可視の圧力に足がもつれて地面に伏してしまいそうにもなる。
だが、それでも。
「俺は――」
「村の人を見殺しにするようなことはできない――」
「え?」
「……だよね?」
言葉をさえぎったのは、まるで琴線をくすぐるかのような美しい声色。
驚いて見つめたティースに、マリアヴェルはふふっと微笑んだ。
「顔に出てるよ、ティースさん。でも、今回は私もその意見に味方してみようかな。なんとなく、ね」
「……マリアさん」
「セレナスさん? あなたはどうする?」
「ふふん」
マリアヴェルに視線を向けられたセレナスは鼻を鳴らし、膝でリズムを取り始めると、やはりおもむろに歌い始めた。
「せ~いぎを胸に、悪を~誅し~弱きを助け、強きを~挫く~、で~んこうせ~っかのデビルバ~スタ~オ~レは~オ~レは~つ~よくて~か~れいな無敵の~戦士~」
そして最後にポポンと膝を2回、強く叩いた。
「全員で逃げたところで事態が好転するとは限らんし、そもそもヒーローが逃げ出しちゃ観客の皆さんも納得しないさね。……ま、オイラにまかしとき。この正義のデビルバスター、セレナス=カンファイスさんが華麗なるイリュージョンを披露してみせるさ」
「セレナスさん……」
なんとも心強い2人の言葉に、ティースはじわりと胸が熱くなるのを感じた。
デビルバスター、とひとくちに言っても、その中身は様々だ。自らの利のみを追求する者がいれば、中には邪悪にその両手を染め、目の前に立ちはだかる者もいるだろう。
だが幸いにして、ティースの眼前にいる2人のデビルバスターたちは、そういった類の者ではなかったらしい。
(……よし)
グッと拳に力が入る。
決して事態が好転したわけではない。だが、たったこれだけの決意を交わし合っただけでどうにかなりそうに思えてしまうのだから、雰囲気というのは本当に大事である。
そしてこうなれば、実力的に大きく劣るティースとて足手まといになってはいられない。
「じゃあ、さっそく具体的な方針を決めましょう」
少しでも役に立ってみせようと決意を新たにし、先陣を切って口を開いた。
「ジンさんがあんなに簡単にやられてしまうほどの相手ですし、まずはとにかく単独行動を避けるのが基本だと思いますけど……どうですか?」
セレナスとマリアヴェルの反応をうかがうと、どちらもその提案を否定する素振りは見せない。
自信を持って、ティースは続ける。
「じゃあ、これからは可能な限り一緒に行動するようにしましょう。いくら敵が強いとしても、全員一緒ならそう簡単には――」
だが。
まるで、その加熱した空気に冷水を浴びせるかのように、冷たく抑揚のない声が響いた。
「止めた方がいい」
「え?」
熱しかけていた場の雰囲気が、一瞬にして静まり返る。
全員の視線は声の主――それまで一言も発さず、まるで他人事のように窓際にたたずんでいたアルファに集まった。
「アルファ?」
ティースの問いかけに対し、アルファはいつもの調子であらぬ方向を見つめたまま、もう一度、
「止めた方がいい」
そう言い放つ。
いつもの通り多くは語らない。だが、いくら変わり者とはいえ、なんの理由もなくそんなことを言う人間ではなかった。
「死体を見た」
「え? どういうことだ?」
アルファは淡々として答える。
「ジン=ファウストの受けた初撃は無防備な背中から、致命傷ではないが、戦闘能力の大半を奪う一撃だ。おそらくまともに戦ってすらもいない」
「……?」
ティースはその言葉の意味をすぐに理解することができなかったが、
「無抵抗……予期せぬ一撃……」
セレナスは神妙な顔をしながら考え込んで、それからチラッとアルファを見る。
「『だまし』があった……?」
「え、だまし? ……ジンさんが、誰かにだまされて殺されたってことですか?」
ティースの問いにセレナスは腕を組んでうなずくと、
「あれだけの実力者があっさりやられちまったことを考えると、むしろそう考えるのが自然かもしれんさ。もしかしたら敵に幻の人魔が混じっていたのかもしれん。けど……」
セレナスはただでさえ細い目をさらに細め、アルファを見つめた。
「どうも、先ほどの発言と合わせて考えると、そちらさんの言いたいことはそれだけじゃないっぽいさね」
「え?」
「……」
無言のアルファと、セレナスの視線が交錯する。
一度はなごみかけた場の空気が、少しずつ、緊張を増しているのがわかった。
「セレナスさん……?」
わけのわからないティースをよそに、
「なるほど、ね」
今度はマリアヴェルが納得顔でうなずくと、こちらはいつもと変わらない瞳をアルファに向けて、
「アルファさん。つまりあなたは、ここにいる誰かを疑ってるんだ?」
「え? マリアさん……?」
表情は微笑んだまま。それは意図のつかめない微笑みだった。皮肉のようにも、あるいは余裕のようにも見える。
マリアヴェルはそのままティースを見て、
「だって私たちはお互い初対面。もしもネアンスフィアが最初から計画を立てていたのなら、この中に『裏切り者』――ネアンスフィアが紛れ込んでいてもおかしくない。ジン=ファウストの死体の状況からして、その可能性も決して否定はできない……そういうことだね?」
「そんな……」
まるで考えてもいなかった可能性に、ティースが驚きの瞳をアルファに向けると、彼は視線をゆっくりと外の方へ向けながら、ためらいもせずにうなずいた。
「……そんな馬鹿な!」
ティースはすぐに腰を浮かせて反論する。
「だって昨日、俺はこの2人と少なくとも2時間近く一緒にいた! もし人魔が人に姿を変えていたんだとしたら、そんなに長い時間は保たないはずだろっ!」
だが、アルファは動じず答えて、
「『封魔』を使えば、何日でも姿を変えられる」
「それじゃ魔力が使えなくなって戦闘力が落ちる! そこまでのリスクを侵す価値があるとは思えない!」
「……」
「……」
答えないアルファ。
にらみ付けるティース。
――この場合、客観的な視点でいえば、どちらの意見が正しいかを断定するのは非常に難しい。
『封魔』は人魔が人間に姿を変えるためのアイテムだ。特別な制約もなく使用できる代わりに、ティースが言ったように人間としての姿を保つ間は魔としての力を完全に失い、また一定の時間が過ぎるまで自分の意志で元に戻ることもできない。
しかもこの『一定の時間』は『封魔』の種類の他に個人差もあるため、いつごろ効果が切れるかを正確には特定できず、使用するリスクは確かに大きいのだ。
しかし、だからといってメリットがないわけではない。もし敵が複数で頭の良い集団であるとするならば、使い方によっては有効な手段であるとさえいえるだろう。
と。
そんな2人の対立に突破口を示してみせたのは、セレナスだった。
「……まぁまぁ」
緊張を解すように大きく息を吐きながら、
「疑われてるオイラが言うのもアレだけど、冷静に考えて今回はティースくんが正しいと思うさ」
「……」
まるで反応を見せないアルファに対し、セレナスは軽く苦笑してみせて、
「そもそも初対面のオイラたちに化けたところで、あのジンさんがそこまで心を許すはずがないし、やっぱメリットが少なすぎる。だましがあったとしたら、そんなちっぽけなもんじゃなくもっと狡猾な罠さね、きっと」
マリアヴェルもまたうなずいて、
「ジン=ファウストにそう疑える傷を残したのも、あるいは仲間割れを画策する敵の思惑の内かも、ね」
「……」
ぽぅ……と、アルファのもつ『誘蛾灯』の穂先に小さな明かりが灯った。
ゆら、ゆら。
ゆら、ゆら、と揺れる。
「……」
アルファはなにも答えない。反論が思い浮かばないのか、反論する気がなくなったのか。その表情から真意は見えないが、少なくとも全員の結束に賛同する気がないことだけは確かだった。
「ちなみに、アルファさん?」
マリアヴェルの言葉に、ようやくアルファの視線が動いた。
そして彼女は、そのまま問いかける。
「『裏切り者』がいるとしたら、誰だと思う?」
「……」
ゆら、ゆら。
誘蛾灯の明かりがその瞳の中で踊る。
視線は、まっすぐにマリアヴェルを射抜いたまま、動かなかった。
そしてマリアヴェルの表情も、微笑んだまま。
「私? どうして?」
アルファは淡々と答えて、
「セレナス=カンファイスにはデータがある。容貌も、三つ又の細剣『雷針』も情報通り。別人である可能性は低い」
「なるほど。それに比べて、私は確かに素性不明、ね」
マリアヴェルはおかしそうにクスクスと笑った。
あまり深刻そうではない。初見からそうだったが、彼女もまた、いまいち真意の知れない態度の持ち主だった。
「……」
アルファは無言のまま。
あからさまに険悪なムードにならないのは各人の性格ゆえだろうが、場の空気は確実にしらけ始めていた。
これから命運を共にし、協力して危地を脱しようというには、あまりに頼りなく、あまりに情けない雰囲気。
裏切り者など存在していないのだとすれば、それはおそらく敵にとって思う通りの展開であっただろう。
そして、
「……もう、やめよう」
その空気をもっとも敏感に感じていたのが、ティースだった。
先ほど激昂してしまったことを反省するかのように、今度は言い聞かせるような口調をアルファに向ける。
「アルファ。お前の言うことももっともだけど、俺にはマリアさんが敵だなんてどうしても思えない。確かに俺たちは昨日が初対面だけど、でも、この人が昨日見せてくれた色々な表情が偽りだったなんてどうしても思えないよ」
そんなティースの言葉に、マリアヴェルは鈴のような音色でのどを鳴らして、
「巧妙な演技かも、とは思わないの?」
「……」
ちくり、と、その胸に痛みが走った。
だまされた経験は、彼にとって深い傷跡だ。
だが、
「思いません。……というより」
彼の長年つちかってきた人生観は、その一事だけでいきなり人間不信におちいってしまうほどヤワでなかったし、彼の中にある基本はいつも、他人を信じる心だ。
もちろんそれがいつの場合も絶対に正しいとは言えず、今回それが吉と出るか凶と出るかはわからなかったが――
「俺はここにいる全員を信じます。会って日は浅いし、薄っぺらいと思われるかもしれないけど、でも信じられると、俺は勝手にそう思ってますから」
「……」
「……」
マリアヴェルはゆっくりと目を閉じ、セレナスはテンガロンハットに手を置いて目線を隠した。
そしてそのひとことに、よどんでいた空気が流れ始める。
たったのひとことだ。
根拠もなにも感じられない、まるで無責任な発言。
だがこの場に限って言えば、ティースのその単純明快な言葉は、確実にその場にいる者の心を動かしたようだった。
ただひとりを除いて。
「……」
無言のまま、アルファの視線は再び他人事のように外の景色を眺めていた。
動かない。……いや、この程度で動くものなら、ティースとて最初から苦労はしていないだろう。
「アルファ……協力して、くれないか?」
「……」
そんな呼びかけにも反応はない。聞こえてはいても、返答する言葉を探そうともしていない。そうすることが無意味であると、そう主張しているかのように。
「アルファ……」
そんな彼の態度に、ティースは絶望する。
真摯な言葉さえも伝わらない。それが取り柄であり、悪くいえばそれしか取り柄のない――回りくどい言い回しや説得を苦手とするティースにとって、もうそれ以上の言葉は思い浮かばなかった。
……と。
「なら、こうしちゃどうだぃ?」
そんな状況を見かねたセレナスが妥協案を示す。
「単独行動が危険なのはティースくんの言った通りさね。けど、疑ったまま行動をともにするってのもあんまウマくない……ってことで、とりあえず二手に分かれるのさ」
「え? 二手に?」
「そ。片方は精力的に動いて真相を暴く。もう片方は万が一に備え、村を守るためにここに残る」
セレナスは軽く両手を広げてみせて、
「ここにいるのは曲がりなりにも何度も魔と戦ってきた人間ばかりさ。ひとりならともかく、ふたりで手を組めば、敵がよほどの手練れでもない限りあっさりやられることもないっしょ」
「二手、ですか……」
確かに悪い手ではない。全員で動くよりは危険だが、このままではアルファが単独行動を起こそうとするのも時間の問題だ。ならばそうした方が賢いだろう。
仕方なくティースはうなずいて、
「……わかりました。マリアさんも、それでいいですか?」
マリアヴェルは迷った様子もなく、
「構わないよ。……ただ、希望を言ってもいいのなら」
ちりん。
「私はティースさんと一緒に行動させて欲しいな」
「え?」
ティースはビックリした。
「そ、それは構いませんけど、いいんですか?」
彼が戸惑ったのは当然だ。どう考えても4人の中でもっとも実力の劣る彼と一緒に行動することは、ヘタをすれば足手まといになってしまう可能性もあり、それを嫌いこそすれ、望む理由などあるとは到底思えない。
だが、
「なんとなく、ね」
ちりん。
もう一度鈴が鳴って、マリアヴェルは微笑でティースを見つめると、
「あなたに興味があるから」
「……え」
痺れのようなものがティースの全身を走り抜ける。
美しさと儚さが同居したその声色には、確実な引力があった。
「……じゃ、じゃあ」
ハッと我に返り、ティースは少し顔を赤くしてマリアヴェルから視線を外した。
「アルファ。お前とセレナスさん、俺とマリアさんで二手に分かれて行動する、ってことで、構わないか?」
「……」
アルファはゆっくりと外から視線を戻してティースを見つめ、そして数秒。
その後ろにたたずむマリアヴェルを見つめた。
視線が交錯する。
だが、すぐに、
「君がそれでいいのなら、構わない」
やはり興味をなくしたように視線を外しながら、そう答えたのだった。
ザザザザザザザッ!!
風の七十一族は体長1メートルほどのリスのような形の獣魔だ。鋭い爪と牙を持つのは大抵の獣魔に共通のものだが、この獣魔は背中の中心に穴のようなものが空いており、そこから瞬間的に強烈な風が吹き出る。殺傷能力こそそれほどないものの、バランスを崩したり視界を失ったりするには充分な威力であり、その動きの素早さもあって群れで現れた場合には充分な警戒を必要とする獣魔だ。
――とはいえ。
「……」
鋭い視線が獣魔の動きを見抜く。横にステップを踏んで風撃を避けたティースの細波が、風の七十一族の体を捉えた。
骨を断つ感触が腕を伝わって肩に抜ける。灰色の空の下に獣魔の赤い血が飛び散って、服をかすかに汚した。
少し乱れる呼吸。だが、動きにはまだまだ余裕があった。
「次――っ!」
ティースたちが二手に分かれてから2時間後。
厚い雲の向こう側で太陽が頂点に達しようとしていたこの時間、突然村に現れた獣魔――風の七十一族たちは、他の村人などまるで眼中にないかのように、村の中を見回っていたティースとマリアヴェルを目掛けて襲ってきた。
その数は4匹。
……なんとも微妙な数、と言わざるを得ない。
この小規模な村の住民だけであればそれでも充分な脅威だったかもしれないが、今この村には都合3人のデビルバスターが滞在している。
そのうちの2人が調査のため出払っているとはいえ、七十台の獣魔が4匹という戦力は、たとえ新米デビルバスターひとりであっても余裕で対応できる数だ。
まして、この場にはそのデビルバスター――マリアヴェルだけではなく、それなりに場数を踏んだティースという存在もあるのだから。
「よしっ、2匹目……マリアさん! そっちは!?」
「終わったよ、ティースさん」
振り返ったティースの視界には、彼よりもひと足先に戦いを終えたマリアヴェルの姿があった。
周囲をうかがい、もう敵の気配がないことを確認して、ティースはマリアヴェルへと歩み寄っていく。
「……って。マリアさんのその武器……ものすごいですね」
「ん?」
ちりん……。
彼女が手にしている長い棒。先ほどまでは単なる棒だったはずのその先端には、いつの間にか氷で出来た刃が備わっていた。
死神の大鎌――氷のデスサイズ。
神秘的なたたずまいの彼女にとって、それはミスマッチのようでありながら、どこか絵になる雰囲気も漂わせていた。
聖者の持つ凶器。
それは堕天使のような美しさ、とでも言おうか。
「これで終わりだね」
「ええ……どう思います、マリアさん?」
ティースはそう言いながら、腰にぶら下げたタオルで細波の血を拭った。水に濡れたような細波の刀身は自ら血と脂を弾き、ひと拭きで使用前とまったく同じ状態に戻っていく。
「ネアンスフィアならある程度はこちらの力量も察しているはずだし、少なくとも本気ではないと思う」
パキン。
硬質な音を残し、マリアヴェルの武器『雪姫』が再びその刀身を隠した。……こちらは血を拭う必要すらないらしい。
ちりん。
風が吹いて、9つに分けた彼女の髪が揺れた。
同時に空気を震わす、鈴の音。
「様子見、ですか……?」
「そうかもしれないし、なにか他の意図があるのかもしれない。たとえば私たちを村の中に足止めしておきたい、とか」
ちりん、ちりん……
確かに実際にこうして襲撃があったことで、村を守る立場の彼らはそう気軽に動けなくなっていた。
(いずれにしても、まだ敵は本気じゃないってことか……)
戦いの余韻が消えると、途端に体がブルッと震えた。風は相変わらず湿っぽく、空の雲は徐々に厚みを増している。
見上げると、低い空をカラスが旋回していた。
まるで次の獲物を待ち望んでいるかのように。
(……少し、不安だけど)
そのときティースが覚えていた感情は、人であれば誰もが持つごく当たり前のものだ。
細波を握りしめる手のひらはじっとりと汗をかき、何度握り直しても乾く気配がない。動悸は静かに、だが力強く肋骨を叩き続け、頭の奥はともすれば思考を放棄し、現実から逃げ出してしまいそうになった。
そよぐ枝葉に、まだ見ぬ敵の幻影が見える。
風の音が誰かの断末魔の悲鳴に聞こえる。
――だが。
(でも……村のみんなもこんな恐怖と戦ってるんだ)
それを想像すると、彼の心は逆に奮い立つのだ。
(隔離されたこんな場所で、魔の襲撃にさらされて……)
決意の思考は、生き残るための最善の道を探して巡る。
(守って、そして生き残らなきゃ。なんとしてでも――)
「ふふ……いい風だね、ティースさん」
「……え? は、はぁ」
目を閉じ、空を見上げるマリアヴェルはあくまでマイペースだった。
ちりん。
風が吹いて、鈴が揺れる。
と。
「あ、そういやマリアさん。昨日から気になってたんですけど……」
「ん?」
空を見上げたままのマリアヴェルに、ティースは尋ねた。
「その鈴、どうしてひとつだけ白いんですか?」
「これ?」
彼女の9つに分かれた髪のそれぞれにくくりつけられた鈴。9つのうち8つまでは普通の色だったが、よくよく見てみるとティースの言うようにひとつだけ色のない真っ白の鈴だった。
すると、マリアヴェルは白い鈴のついた髪の先端を左手に取って、
「これは、大好きな人からのプレゼント、なの」
「え……あ、はは、なるほど」
その返答に、ティースの顔には思わず微笑みが浮かんだ。
(マリアさんってちょっと不思議な感じだからあまり想像できないけど、でも恋人ぐらいいてもおかしくないよなぁ)
それを想像するだけで、なんとなく幸せな気分になるティース。つくづく単純というか、純粋な男であった。
「でもしゃれてますね、白い鈴なんて。俺はよく知りませんけど、確かネービスで主流のミーカール教では縁起のいいアイテムですよね?」
「ふふ、確かにそうらしい、ね」
マリアヴェルは少しおかしそうに笑って、手にしていた髪の先端を再び風に流した。
鈴が鳴る。
「でも、私の産まれたところでは、白い鈴は不幸の象徴だった」
「え?」
その言葉がまとう雰囲気に、ティースの口元に浮かんでいた笑みが止まった。
「それもただの不幸じゃなくて、不幸な幸せ。転落を前提とした幸福を意味する、とても、とても不吉な品。……もちろん、あの人はそんなこと知らずにプレゼントしてくれたのだけど、ね」
「……」
まるで他人事を語るかのようなマリアヴェルの表情に、ティースの幸せな気分はアッという間にしぼみ、今度は逆に胸が締め付けられる想いに襲われた。
と、同時に悟る。
……決して口に出して聞けはしないのだが、おそらく彼女の言う『あの人』は、すでにこの世の者ではないのだろう、と。
「ティースさん……あなたは、あの人によく似てるの」
突然マリアヴェルはそう言った。
「え?」
「昨日あなたと話していたら、久しぶりにあの人の言葉を思い出しちゃって」
当然のごとく戸惑うティースに、マリアヴェルは懐かしむようにゆっくりと目を閉じ、そしてその美しい声色で詩のように言葉を紡いだ。
「……救える者がたったひとりであったとしても、ひとりでも多くの命を救うことができるのなら、他にどんな戦う理由が必要だろう。だから私は戦う。私を犠牲にしても戦い続ける。それがもしも、お前に理解されなかったとしても――ってね」
よどみのない口調。
おそらくは一語一句、言葉の隅々まで鮮明に記憶しているのだろう。
「結局、私には最後まで理解できなかった」
目を閉じたままつぶやくその姿に、ティースのまぶたはかすかに震えた。
(マリアさん……)
その背後に見えたのは、おそらくはなんらかの悲劇。それを平然として語ろうとする彼女のその姿がとても物悲しく見えたのだ。
そしてティースは視線をななめに落としながら、
「……マリアさんが戦い続けるのは、その人が戦っていた理由を知りたいから、ですか?」
「え?」
まるで考えていなかった、という顔だった。
だが、やがてマリアヴェルは表情を緩めると、
「なるほど、ね。そういう考え方もあるんだ」
しゃん――
少し強い風が吹いて、9つの鈴が一斉に音色を奏でた。
まるでそれを合図にしたかのように、雰囲気が戻る。
「……さ、ティースさん。敵の攻撃も終わったようだし、いったん家に戻って休もうか」
そう言ってきびすを返すマリアヴェル。
だが、
「……あ、いえ。ちょっと待ってください」
「ん?」
すでに歩き始めたマリアヴェルが振り返ると、
「その前に、少し村の人たちに話を聞いてみたいと思うんです」
「話?」
「ええ。昨日のジンさんの行動について調べてみようと思うんです。ジンさんがいったいどこでやられたのか。村の中なら俺たちが誰も気付けなかったのは変だし、村の外ならどうしてひとりでそんなところに行ったのか気になって」
マリアヴェルは納得したようにうなずいて、
「でも、それを調べてどうするの?」
「セレナスさんが言ってたでしょう? ジンさんほどの人がだまされたのだとすれば、それはきっと狡猾な罠だって。じゃあ、その罠の正体を暴くことができれば、この先の戦いを有利に運べると思うんです」
「……」
「情報を集めて、そして考える。どうすれば守れるのか。どうすれば生き延びられるのか。……でも俺はまだ未熟だし、色々見落としたり、考えが及ばなかったりすると思うんです。だから、マリアさん。それを補ってもらえませんか? みんなが生き残るために」
そんな彼の視線を受けて、マリアヴェルは目を細めた。
やはりなにかを思い出すような表情。
そして少しだけ嬉しそうな顔をして答えた。
「……もちろん。協力させてもらうよ」
「る~るるるる~、はじけと~ぶ、せ~んこぅ~」
弾け飛ぶ閃光。
三つ又のレイピアからほとばしった稲妻が、背後から飛びかかろうとした風の七十一族に命中し、何度も何度も打ち付け、吹き飛ばす。
魔力、あるいは生命力の強い魔であれば致命傷とはならない。だが、最下級に位置される七十台の獣魔にとって、それは充分に致命的な威力だった。
「……」
そこから視線を少し移すと、陽気な歌のセレナスとは対照的に、淡々と獣魔を退治していくアルファの姿がある。
光の力を込めた神槍『誘蛾灯』が、目にも止まらぬ速さで敵を切り裂いていく。
停止と行動。
一定の速度と一定の威力。
まるで無駄がなくほとんど波のない戦い方は、まるで彼の性格を表しているかのようだった。
ただ――
「ふぅん」
すでに自らのノルマを果たしたセレナスは、まだ1匹の獣魔と戦っている彼の背中にひとりごとをつぶやく。
「サン・サラスってあんなもんかね」
「……」
おそらくアルファの耳には届かない程度の声。
『誘蛾灯』が最後の獣魔を捉える。
もちろん常人には目にも止まらない速さ――だが、セレナスの目にはその動きがしっかりと捉えられていた。
避けろ、と言われれば、余裕を持って避けられただろう。
「……ふぅん」
キツネのような細い目に少し拍子抜けしたような色を浮かべながらも、セレナスはすぐいつもの人のよい陽気な表情に戻って、
「お疲れさん~。しかしまぁ、失礼なヤツらさね。オイラたち相手に最下級の獣魔がたったの6匹とは」
振り返るアルファの表情はいつもと変わらない。
事も無げに、地面に落ちた獣魔の死体を一瞥すると、
「敵はまだ本気じゃない」
「ま、それはそうさな。ジンさんがやられたぐらいだもの。……さて、どうすっかね。もっと深く行ってみるかぃ?」
セレナスはそう問いかけた。
彼らが今いるのは、村から歩いて15分ほど入り込んだ森の中だ。敵の出方を見て、いざとなれば村にいるティースたちに救援を求めることも可能であり、なおかつ村に異変があれば戻ることもできるような位置である。
「……」
アルファは黙ったまま森の奥を眺めた。
だが、ほとんど思考することなく、ゆっくりときびすを返す。
「……戻るのかぃ?」
少し意外そうにセレナスはそう言った。
「ま。マリアさんのことを疑ってるなら、ティースくんが心配な気持ちもわからんでもないさね」
「……」
アルファは答えない。
だが、彼の判断はおそらく正しいだろう。こうして実際に敵の襲撃があったとはいえ、まだ真相が浮かび上がったとは到底言いがたい。
それどころか、レベルの低い獣魔が出現したことで、ジン=ファウストの死がさらに不可解になったとさえ言える。
深入りせずに様子を見る。それがもっとも安全な方法に間違いはなかった。
だが、しかし。
そういった思惑というのは、大体の場合にして思い通りにはいかないもので――
「!」
急に足を止め、振り返るアルファ。
セレナスはとっさに『雷針』に手をかけ、そして辺りをうかがった。
「悲鳴?」
2人の耳に確かに聞こえた、助けを求めるような甲高い女性の声。
ガサガサガサッ!!
「!」
そんな彼らの視線の先から、茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。
さらに、
「た、助けてくれぇぇぇぇぇッ!」
今度ははっきりと、確実に助けを求める声が聞こえた。
村人か。
あるいは外から来た人間か。
「……あっちさ!」
方角を特定するなり、セレナスはすかさず地面を蹴る。
「……」
対するアルファはほんの一瞬だけためらった。
――方角は森の奥。これ以上奥に入り込めば、なんらかの不測の事態に対処できなくなるかもしれない。
「……」
だが、結局は彼の足も地面を蹴った。
その時点で考えられるいくつかの可能性のすべては根拠の薄い推測でしかなく、助けを求める何者かを見捨てる理由にはならなかった。また、すでに先に行動を始めたセレナスに単独行動を強いることも得策ではないだろう。
最初から選択肢はなく、止むを得ない。
「……」
表情はいつもと変わらぬまま。
アルファは長い銀髪を揺らし、セレナスの後に続いていったのだった。
「……」
だましたのは、果たして誰なのか。
ジン=ファウストの遺体の推定出血量と、その場に飛び散っていた血の量から判断すると、彼が命を奪われたのが死体の発見場所でないことはわかっていた。
村の中にそれらしき痕跡はどうやら見当たらない。
とすると、残る可能性は森の中……つまり彼はあの日、単独で森の奥へ向かったということになる。
――なぜ、単独で行動したのか。
たとえ腕利きのデビルバスターであっても、単独行動に大きな危険が伴うことは当然に承知しているはずだった。ひとりでは緊急時の手当をするにも不便だし、なんらかの錯誤、なんらかの小さなミスがそのまま死に直結することもある。
それはどれだけ経験を積んだデビルバスターにも共通して言えることであり、経験があればあるほど強く認識しているはずのことだった。
しかも今回の場合は他に3人ものデビルバスターがいたのだ。たったひと声かけるだけ。普通に考えれば単独行動を取る必要などない。
とすると、ジン=ファウストの単独行動の理由として考えられるのはせいぜい3つほどだろう。
ジンが自らの力を過信し、そして命を落としてしまうような愚か者だったか。
それとも、単独で行動しなければならないほど緊急の事態だったか。
あるいは――『本当は単独ではなかった』。つまり、一緒に行動していた誰かが実は敵だった、という可能性だ。
「そういや昨日の夜、日が沈んだ後、セレナスさんがジンさんと一緒に森の中に入っていったのを見ましたけど……」
「……」
今さっき聞いたばかりの村人の言葉を頭の中に何度も呼び起こし、ティースは考え込んでいる。
だましたのは、誰なのか。
ティースは歩きながら、ふと、後ろのマリアヴェルを振り返って尋ねた。
「……セレナスさん、そんなことひとことも言ってませんでしたよね?」
「そうだね。彼がジンを最後に見たのは、私たちと一緒にいたあのときだと言ってたよ」
「村の人の見間違えって可能性は……」
「でも、セレナスさんの格好はこの村じゃ見掛けないものだし、見間違える方が難しいかもしれない」
「……」
不可解だ。
ティースはさらに考え込む。
その証言――昨日の夜、一緒に歩くセレナスとジンを目撃したという証言をしたのは、ひとりではなかった。先ほどの青年に加え、若い少女と、30代後半の女性。
3人の村人が同じことを証言しているとすると、マリアヴェルの言うとおり、全員が見間違えたということはどうしても考えにくい。
とすると、出てくる結論は明らかだ。
3人の村人が嘘をついていないと仮定するならば、セレナスが偽ったとしか考えられない。
「じゃあ、なんのために嘘をついたんだ……?」
「……」
マリアヴェルは黙ってティースを見つめていた。
「嘘をついて得することなんてなにひとつ――」
そう。普通に考えれば嘘をつく理由などない。
それこそ。
それこそ敵――つまり、ネアンスフィアの一味だというのでなければ。
「……」
ティースは首を振った。
考えにくい。
どうしても、考えにくい……だが、そうすると矛盾がどうしても晴れない。
八方塞がりだった。
(どういうことだ……まさか、でも――)
焦る心を懸命に落ち着かせながら、さらに思考を巡らせる。
思考を巡らせていて――ふと。
「……?」
ティースは辺りの景色が見覚えのある――昨日、セレナスたちと会話をした場所であることに気付いた。
足を止める。
目の前には昨日寝転がった、だだっ広い草むらがあった。
――思い出す。
声をかけてきたセレナスとマリアヴェル。
被害の爪跡を残す家々を見つめながら、言葉を交わした。
青空を泳ぐ雲。
気持ちの良い春風。
鼻孔をくすぐる草の香。
楽しそうに駆け回る子供たち。
セレナスが世間話をしようと申し出た。
アルファの話題。
ジンの話題。
マリアヴェルがティースに質問し。
そんな彼女の過去を勝手に想像して、セレナスは半泣きになりながら謎の歌を歌った。
その後、遠くに子供たちと遊ぶジンの姿を見つけ。
ジンが子供好きらしいという話をセレナスから聞いて。
その後、別れて――
(……あれ?)
そしてふと、覚えた違和感。
「……そんな、馬鹿な」
「?」
「なんであんな――」
ハッとして背後を振り返るティース。
目の前には不思議そうな顔をするマリアヴェル。
その向こうには一面の畑。
壊れかけの家々。
ジンと子供たちが遊んでいた広場。
鬱蒼と生い茂る森――
「……!」
――よみがえる恐怖。
まだ見ぬ未知の敵。
それは、その一端が垣間見えたことによる恐怖だった。
戦慄。
恐ろしい想像。
(そんな、馬鹿な……でも、もしそうだとしたら――)
確信ではない。
かすかな矛盾から導き出された、あくまで可能性。
だが、その恐ろしい可能性は、すべての矛盾に対する完璧な回答を備えていた。
手練れのデビルバスターであるジン=ファウストが、あまりにも無抵抗に殺されてしまったこと。
そして今、村人から得た証言。
「……」
何度も言うが確信ではない。ティース自身、その可能性についてはまだ半信半疑だ。
だが、もしもそうだったとしたら――
「……マリアさん」
内心の動揺を懸命に押さえ込みながら、ティースはマリアヴェルを振り返った。
落ち着いた口調。
彼としては迫真の演技だったといえるだろう。
「とりあえず、アルファたちと一度合流しましょう」
もしそうだとしたら、今のこの状況はとてつもなく危ういものだった。
最悪の可能性。
そう。
彼の中で芽生えたその可能性が事実だとしたなら、彼らは今、全滅の危機に瀕しているといっていい。
(信じられない……信じられないけど、でも――)
まだ見ぬ敵。
巧妙に隠された悪意。
(敵は、もしかしたら――)
風が吹いた。
運ばれてきたのは、死の香り。
彼の閃きは重大であり、そしてほんの少しだけ遅かった。
ネアンスフィアたちの狩りは、これからが本番だったのだ。