その1『まずはゲーム探しから』
(こいつらは確か、地の七十五族――!)
大陸でも最北に位置するという関係上、ネービス領は決して交通の要所というわけではない。どちらかといえば『遠い国』というのが、大陸人の共通認識だろう。
にも関わらず、領内にいくつかある街道を馬車が頻繁に行き交うのは、学問を修めんとする人々を中心に、それだけ物資の需要量自体が多いためである。
さて、それらの馬車の主な終着点であるネービスの街。そこへ達するための主な道筋は5つある。
まず西に国境を接するモンフィドレル領からのルートはほぼひとつで、ネービス最西端の都市グランドウッドを通り、ネービス領の中央付近にあるラグレオ山を北に迂回してホルヴァートからネービスへ到達する道だ。
そしてネービス領の南と東を広く接するグレシット領からは、その国境付近に位置する大きな街――かつては最前線の城塞都市であったユーイング、スタークホルム、ベルン、ヴァニィリッツという4つの都市をそれぞれ経由するルートがある。
そしてこのうち、一番東に位置するヴァニィリッツ以外の3つのルートをたどる人々は、その次にネービスの街からすぐ南にあるルナジェールという大きな街を目指すのがお決まりだった。
ルナジェールの街。
学園都市ネービスから直線距離で40キロ程度。馬車なら朝に出発すれば夕方ごろには楽にたどり着けるし、徒歩でも朝早くに発てばその日のうちにたどり着くことは不可能ではない。
元は首都ネービスを守るための最重要拠点として繁栄したこのルナジェールは、今はネービスの街へ向かわんとする人々のための中継地点として大きく栄えている。他の領土からネービスの街を訪れる人々の、実に8割弱がこの街を訪れることになるのだから、それもそのはずだろう。
当然、ルナジェールからネービスへと続く街道には厳重な警備が敷かれており、1時間に複数回、警邏隊が巡回を行っている。賊が出没すればまたたく間に制圧され、魔が出現すればネービス公直属のデビルバスター部隊『ネスティアス』がすぐさま飛んでくる。
その街道は、ヘタをすればネービスの街そのものよりも安全だ――などと、真顔でそんなことを口にする者さえいるほどだった。
さて。
この物語の主人公であるところのティーサイト=アマルナが獣魔退治の依頼を受けたのは、4月の初日のことだ。いや、実際に獣魔に遭遇したこの日が4月の初日だから、依頼はそれ以前に受けたものだったろうか。
まあ、それはともかく。
このティーサイト――通称ティースはつい先日、ほぼ成り行きでディバーナ・ロウの第四隊、通称『ディバーナ・ゼロ』の隊長に任じられたばかり。この日も唯一の部下であり、自らよりもディバーナ・ロウの在籍期間が長く、はるか上の実力を備えるデビルバスター、アルファ=クールラントを引き連れ、現場にやってきていた。
その現場とは、ネービスとルナジェールをつなぐ重要な大街道……などではもちろんなく、そこからだいぶ北東に外れた小さな街道付近である。
平坦な道ばかりの大街道とは違い、整備もそれほど行き届いておらず馬車通りも少ない街道であるが、それが道である以上、多かろうと少なかろうと利用者はいるのだから、もちろんこれも立派な任務だ。
それにまあ……今の彼の状況から言って、あまり大きなプレッシャーのかかる任務よりも、こういった小さな任務のほうがありがたいという事情もあって――
昼下がりの荒野の中。
しん……と、一瞬だけ静まり返る。
聞こえるのはかすかな振動。
足の裏から伝わるかすかな振動。
なにかが、地面の中を動き回る音。
「アルファ!」
大きめの岩山を背にしたまま愛剣『細波』を構え、油断無く辺りをうかがいながらティースは叫んだ。
「そいつら、どっから飛び出してくるかわからない! なにか障害物を背にして戦うんだッ!」
言ったそばから、ティースの真横の土が盛り上がる。
「っ……!」
ティースは即座に反応した。
飛び出してきたのはモグラのような形をした『地の七十五族』。体こそ人間の半分もないが、両手の鋭い爪で土の中を高速で移動し、瞬時に飛び出しては獲物を切り裂く厄介な獣魔だった。
本来、その素早い動きと土を隠れ蓑にする戦術に手を焼くところだったが、今のティースのように大きくて堅い物を背にして戦えば話は別である。
背後から襲われる心配さえなければ、それほど手強い相手ではないのだ。
細波が獣魔の腹を真一文字に切り裂く。手のひらに確かな感触。それが確実に致命傷であることを確認し、ティースは次の襲撃に備え、すぐに体勢を立て直した。
そして、
「アルファッ!!」
もう一度叫ぶ。
その視線の先。
その声を向けられた人物――アルファ=クールラントはなにもない場所に立ち尽くしたままだった。
長い銀色の髪と季節外れのマフラーが風に踊る。
構えるわけでもなく。
視線を巡らせるわけでもなく。
まるで倒されるのを待つだけの木偶の坊のように。
「アル――」
だが、もちろんそうではなかった。
それはティースの言葉が途中で途切れたことからも容易に推察できる。
……前触れもなく、彼の背後から飛び出す地の七十五族。彼らは土の中からでも相手の背後を取る術を知っており、そうすることで獲物の反応が遅れることを知っていた。
しかし――彼らの爪が切り裂いたのは空気と、残像。
明確な感情など持っていないはずの獣魔が、驚愕にも似た反応を示す。
風か。
霞か。
……いや。
光だった。
「っ……」
何度も見たはずのその光景に、ティースはまるで色褪せることを知らない戦慄を覚えてしまう。
一閃。
まさに言葉通りの、一瞬の煌めき。
アルファの持つ光の和槍『誘蛾灯』が獣魔を切り裂く。
目にも止まらぬ動き。
それ自体は他の人物でも何度か目にしたことがあった。デビルバスターと呼ばれる人々は総じて、人の目にも止まらない動きを見せることがあるからだ。
しかし――アルファのそれは、他のデビルバスターたちと比べても明らかに違っていた。
他の者たちの動きが一瞬の爆発的なイメージであるのに比べ、アルファの動きはあまりに造作なく、流れるような一連の動きすべてが最初から最後まで速い。
表情が動かないせいもあるだろうが、そこにはある種の余裕すら感じられた。
真っ二つになって地面に落ちる獣魔の体。……いや、それは地面に到達する寸前、さらに4倍ほどの数のパーツに分裂して落ちる。
高速。
いや『光速』と言っても過言ではない。
その圧倒的な力の前では、獣魔が遠い昔から培ってきた戦術などまるで無意味のようだった。
「……」
そしてティースはただ、呆然とその姿を見つめている。
いや、違う。
見つめている以外に、やるべきことがなかったのだ。
戦術などとうに超越し、造作もなく獣魔をほうむっていく彼――アルファ=クールラントの前では――
「……はぁ」
翌日の朝、ティースはなんともいえない虚脱感に包まれていた。
とはいえ、外は文句のつけようがない快晴。暖かさを増す春風は肌に心地よく、庭を見渡せば色付き始めた木花が心を踊らせる。
そんな最高の朝にも関わらず虚脱感が先に立ってしまうのは、もちろん当人の方に問題があるに他ならない。
ネービスの街の大貴族、ミューティレイク邸別館の2階にあるティースの自室。
備え付けの机の上には資料のようなものが山積みになっており、崩れた一部の資料が足元にも散らばっている。
ベッドの上には寝癖のついた頭を撫でつけながら浮かない顔をする部屋の主。
チラッと机の上の資料の山を見つめ、そしてもう一度。
「……はぁぁぁぁ。うまくいかない」
ため息と同時に、半分諦めたようなつぶやきがその口から漏れる。
なんともため息の似合う男だ。
とはいえ、そんな彼の心情も理解できないわけではなかった。
彼が第四隊の臨時隊長となってから3週間。その間にこなした任務は3つ。もちろんどれも彼の身の丈に合った任務ばかりで、先の街道での任務もそのひとつだった。
ミスらしいミスをしたわけではない。突然隊長に任じられて、慣れないことをやらされているわりには健闘してるといってもいいだろう。
もちろん机の上の山を見ればわかるように、その陰には彼の涙ぐましい努力があったわけなのだが……しかし。
実のところ彼に期待されていたのは、ただ単に任務をこなすというだけのことではなかったのである。
(……やっぱ無理だ。だいたい向こうにその気がないのに、どうやって打ち解けろっていうんだ)
彼の部下――アルファ=クールラントはひとことで言えば一匹狼だ。
この3週間、ティースは自らの中でまだくすぶっていたわだかまりをすべて投げ捨て、少しでも彼の内面に迫ろうと挑戦してみた。
何度も何度も話し掛け、あるいは協力を呼びかけ、そして任務の際にはフォローすることを試みた。敬語を止め、対等な言葉遣いをするようになったのも、多少強引に近付いてみようと考えた末のものだ。
しかし、悲しいかな。
その結果わかったことといえば、彼が屋敷の誰ともほとんど交流を持っていない正真正銘の一匹狼であるということと、そして彼が、他人の助けなどまったく必要としない、とてつもない実力の持ち主であるということだけだった。
「あーあ……」
ぼふっとベッドに寝転がり、天井を見上げる。
(ファナさんは信じてるなんて言うけど、でも、あいつに人間らしい心があるなんてとても思えないよ……)
どちらかといえば他人の善意を信じるタイプのティースがそう感じるのだから、よほどのことだった。
(……よし。ファナさんには悪いけど、いい加減辞退させてもらおう。こんなこといつまで続けてたって――)
と。
ティースがそんな決意をし、ベッドから足を下ろしたときであった。
コン、コン。
控えめなノックの音。
「?」
時計を見る。掃除の時間にはまだ早い。
「誰だ?」
問いかけに返ってきたのは、明るい少女の声だった。
「あ、ティースさーん。おはようございまーす」
「え? セシル?」
「はぁい」
「あ、ちょ、ちょっと待って」
意外な人物の来訪に、ティースは少し慌てた。
セシル……セシリア=レイルーンは、この屋敷に住む13歳の少女である。
ティースにとってはまだ女性であることを意識せずに話せる年齢の相手で、また彼女の方も話しやすいからと言ってよく彼になついている。いわばかわいい妹分だった。
だから彼が慌てたのは、別にそれが恋焦がれる相手だったからとか、逆にとてつもなく苦手で大嫌いな相手だったからというわけではない。もちろん見られてマズいことをしていたわけでもない。
では、なぜ慌てたのかというと――
「お、おはようセシル」
寝癖を押さえつけながら扉を開けると、そこに立っていたセシルは大きく可愛らしい瞳でティースを見上げて、
「おはようございます、ティースさん。今日も昨日と同じでいいお天気ですよ」
「あ、ああ。そうだなぁ」
屈託のない笑顔に、ティースの胸を過ぎったのはほんのわずかな罪悪感。
だが、セシルの方はそんな彼の心情など察した様子もなく、
「こういう日は外に出て、太陽をいっぱい浴びながらもみんなと一緒にお昼寝するのです。ポカポカしてすごく気持ちいいんですよ」
「はは……いきなり昼寝するんだ? 遊んでからとかじゃなくて?」
「え? ……あ、ひどいです、ティースさん」
「へ? なにが?」
ティースがわけもわからず聞き返すと、セシルは不満げに口を尖らせて、
「そんなだから1ヶ月前に履けたはずのスカートが履けなくなるんだぞー、とか思いました? 思いましたね?」
「えっ……いや! いやいやいや! そんなことこれっぽっちも思ってない――っていうか、俺が知るわけないよそんなこと!」
弁解する彼の言葉は至極もっともな話であったが、それでもセシルは口を尖らせたままうつむいて、
「いいんです、事実ですから。でも、女の子にそんなヒドいことを言うティースさんは赤点です。落第で再試験で丸刈りです」
「ま、丸刈りはさすがに嫌だなぁ」
苦笑。
いい加減、ティースも彼女のこういう反応には慣れてきており、それが楽しく感じるようにもなっていたし、また微笑ましくもあった。
「それで? 今日はこんな朝早くからどうしたんだい?」
その問いかけに、セシルはパッと表情を変えて、
「あ、そうでした。実はですね、ティースさんにもプレゼントがあって持ってきたんです」
「プレゼント? 今日ってなんかあったっけ?」
なにも思い当たらずにティースは首をひねる。
彼の19歳の誕生日は1ヶ月前に過ぎていたし、その他、プレゼントをもらうような心当たりもなかった。
と、そんな彼の疑問にセシルは明るく答えて、
「ティースさんは特別です。毎日が感謝感激雨あられ日和ですよ」
「あ、雨あられ日和? 変な日和だなぁ」
独特の物言いにもう一度苦笑い。
「でもなんで俺が特別なんだ? 俺より仲のいい人なんて他にいっぱいいるじゃないか」
そう問いかけたティースに、セシルはニコニコしながらさも当然のように答えた。
「だってティースさんは、お兄ちゃんともとても仲良くしてくださるのです」
「……」
胸がチクリと痛み、ティースは思わず視線を泳がせた。彼女の顔を見た瞬間に感じていた後ろめたさが、再び胸に浮かび上がる。
……そう。
信じがたいことだが、あのおよそ人間らしくない冷徹なアルファと、この暖かくほがらかな少女セシルは、兄妹なのである。
「お兄ちゃんはちょっとだけ照れ屋さんなので、あまり屋敷の皆さんとお話できないのです。でも、ティースさんがいてくださるおかげで、お兄ちゃんは私がいないときでもひとりっきりにならなくて済みます。ひとりっきりはとても淋しいですから」
笑顔でそう続けたセシルに、ティースは聞こえない程度の小さなため息を吐く。
(……ちょっとだけ照れ屋さん、か)
もしそうであったなら、どれだけ気が楽になることだろう。
だが現実は、ちょっと照れ屋さんどころか、そういう類のものですらない。
それはいわば『断絶』だ。
なにを問いかけても返ってくる答えはすべて事務的で機械的。そこに感情が入り込むことはなく、彼の言葉のすべては状況描写に過ぎない。言葉は通じても、心が通じることは決してない。
大げさにいえば、言葉の通じない犬や猫の方がよっぽどコミュニケーションが取りやすいかもしれなかった。
完全にお手上げ。かすかな光さえ見えない。
だからこそティースは先ほど、白旗を揚げることを決断したのだった。そしてその判断は客観的に見ても、決して間違ってるとは言い切れないものだ。
だが――
「だからティースさん。これからもお兄ちゃんと仲良くしてあげてくださいね」
「……」
そんなセシルの笑顔を目の前にすると、ティースの決心はまた揺らいでしまうのだった。
その日の朝食後。
「タナトス、ネアンスフィア、ヴァルマシード、そしてベルリオーズ」
アオイの口からその4つの単語が飛び出したのは、もはや恒例となった勉強会の際であった。
「今日は私たちディバーナ・ロウを取り巻く状況について、少し詳しくお話ししたいと思います」
冒頭でそう切り出し、後に出てきたのがその4つの単語。そのうちのひとつはティースにも聞き覚えのある単語であり、そこから考えれば、他の3つがどういった意味の言葉なのかも容易に推測できた。
「主にネービス領周辺……中には大陸全土に及ぶものもありますが、そこに悪名を轟かせるのがこの4つの組織ですね」
ティースは真剣な顔で耳を傾ける。
――大陸のあらゆるところに存在する『魔の組織』。
それらは規模も目的も千差万別。2、3人で徒党を組んだだけのものもあれば、国家に脅威を及ぼすほどに統率された集団もある。ただ人を襲うことを楽しむものもあれば、なんらかの明確な目的を持って戦いを仕掛けてくるものもある。
中には以前ティースが協力した『キュンメル』のように、救済を目的とする組織もあるだろう。
それだけ様々な組織が存在するのだから、この大陸で起こる魔絡みの事件の何割かは、彼らが裏で糸を引いていると思って間違いはない。とするならば、彼らの目的や行動理念を理解しておくことは、任務の際の判断材料として大きな意味を持つのである。
もしも隊長として指揮を執る立場であるならば、なおのこと。
「まずはティースさんもよくご存じのタナトスですが……」
おそらくはアオイも、彼にそういった意識が多少なりとも芽生えていることを感じ取って、この話を切りだしたのだろう。
「彼らはニューバルドという氷の将魔を総帥とする、比較的小規模の集団です。幹部と呼ばれる将魔の存在が数人確認されているものの、明確な組織としての形態を取っているわけではありません。普段はそれぞれが好き勝手に行動し、必要に応じて招集される。そのためか、個々が様々な場所で様々なタイプの事件を起こし、その真の目的もいまいち知れません。ただ、ひとつだけはっきりとしているのは――」
眼鏡の奥の穏やかな瞳が一瞬だけ細められた。
「私たちディバーナ・ロウを執拗に狙っているということ。そして私たちにとっても、仇敵と言っても良い存在であるということです」
そこに、普段の穏やかな彼には似つかわしくない炎が宿る。
「……」
もちろん、その理由をティースは知っていた。
4年前の5月。
その雨の夜に、ミューティレイク邸はタナトスの大規模な襲撃を受け、当時のディバーナ・ロウは壊滅した。
デビルバスター、隊員、使用人、そして前当主――つまり現当主であるファナ=ミューティレイクの父親まで、数多くの人々が命を落とし、当時、屋敷にいた者で難を逃れたのは、両手で数えられるほどの人数だという。実に100人以上もの人間がここで命を落としたのだ。
彼らの慰霊碑が敷地の隅にあり、そして毎日必ず誰かがそこに黙祷を捧げているのを、ティースは何度も目にしていた。
「ただ――」
アオイはひとつ息を吐いて気持ちを切り替えたらしく、再び穏やかな表情に戻って、
「実はタナトスという組織の危険度は、5段階でいえば下から2番目程度でして、一般的な話で言えばそれほど取るに足らない存在なんです」
「え?」
「意外ですか?」
そんなティースの反応を予想していたらしく、アオイはそう言って少し笑う。
「そりゃ……あれだけの力を持ってる奴らが取るに足らないだなんて……」
それは彼には想像できない世界だった。
だが、アオイは言った。
「いえ、彼ら個々の力が取るに足らないというわけではありません。確かにタナトスの幹部たちはおそらく全員が強大な力を持っていますし、それは他の組織の中核を成す魔よりも強力かもしれません。ただ、彼らの人数、目的、行動、それらをすべて総合した上で、国家を転覆させるほどの力は持っていないという判断なんです」
「国家転覆……」
それもまた、なかなか想像しきれない規模の話だった。
「逆に言うと、そういう可能性を持つ組織も実際に存在しているということですよ。ヴァルマシードやベルリオーズという2つの組織は、そういった意味でネスティアスが警戒している連中ですね。ただ、逆にそういう連中は私たちと関わることはあまりないと思いますから……関わることがあるとすれば、残るひとつのネアンスフィアでしょう」
「ネアンスフィア……?」
ティースは腕を組んで少し難しい顔をすると、
「そういやその名前、どっかで聞いたことあるんだよなぁ」
首をひねる。
「ええ。一般的な知名度でいえば、おそらく先ほど挙げた4つの組織の中でもっとも上だと思います。活動範囲も大陸の広範囲に及んでいますから」
そして、ひと呼吸。
「――デビルバスター・ハンターズ」
「え?」
「と、そう呼ばれることが多いですね、彼らは」
「デビルバスター、ハンター……?」
復唱して、その意味を理解しようと試みる。
もちろんハンティングするデビルバスター、ではない。
「デビルバスターを狩る者……?」
アオイはうなずいて、
「ええ。彼らはまさにハンティングをする感覚でデビルバスターの命ばかりを狙うのだそうです。正確に言えばひとつのまとまった組織などではなく、同じルールに則ってそのゲームに参加する複数の魔の組織をまとめてネアンスフィアと呼びます。もちろん相手が相手ですから、それは彼らにとっても命がけのこと。……そういう狂った連中です」
「……」
ティースにしてみれば、デビルバスターというのは雲の上の存在だ。ディバーナ・ロウの4人のデビルバスターも、これまでに何人か出会ったその他のデビルバスターも、全員がとんでもない実力の持ち主ばかりだった。
そんな彼らばかりを付け狙うデビルバスター・ハンターズ――ネアンスフィア。
「そ、想像できない世界だなぁ……」
もちろん想像できるはずはなかった。
この数日後、彼自身がそんな危ない連中と関わってしまうことになるなどとは――。
「……また、増えてる」
つぶやいた少女の声は、驚いたような呆れたような、そのどっちとも取れる感情に彩られていた。
書物というものは基本的に、というより至極当然のことなのだが、どこからでも読むことができる。内容の理解ができないとか、物語がつまらなくなるだとかそういったリスクはあるにせよ、いきなりページの最後から読み始めることだってできるし、それはすべて読み手の自由だ。
だが、しかし。
今、彼女――シーラ=スノーフォールの手の中にある重厚な黒表紙の書物は、そんな常識をまったく無視した代物だった。
ページをめくる乾いた音が室内に響く。
「この前までは白紙だったのに……」
そんな彼女のつぶやきを、もしも間近で見ている者がいたとしたら、あまりの不思議さに首をかしげることだろう。
なぜなら、目を細めながら彼女が見つめるそのページも、それ以前のページも、それ以降のページも、最初からすべてが白紙だ。……不自然なほどに白。古い書物に見られる黄ばみすらも見当たらない。
そのはずだった。
だが――
「……腐食の楔を……征服する……腐食の楔?」
そうつぶやく彼女の目は、間違いなくその白紙をとらえている。暗唱しているようにも思えないし、どうやら彼女の目には文字が映っているとみて間違いないだろう。
片手に古代文字の辞典を手にしているところを見ると、おそらくは古い文字で書かれたなにかが。
あまりに不気味な代物だ。どう考えてもまともなものではない。もちろん彼女自身もそれは認識しているようで、普段は鍵付きの箱にきちんとしまっていたし、他人の目に触れさせないようにもしているようだった。
コン、コン。
「!」
ノックの音に、シーラは本を素早く机の下に隠した。
そして平静の声で問いかける。
「誰?」
振り返ると、金糸のようなポニーテイルの髪が揺れる。これ以上ないほどに整った美貌が部屋の扉へと向けられた。
声が返ってくる。
「シーラ様。私です」
「リィナ?」
シーラはホッと息を吐いてすぐに席を立ち、扉へと向かった。そんな彼女の表情に、旧知の友に対する親愛の笑顔があふれる。
「どうしたの? ……あら。エルも一緒だったのね」
「シーラ。元気してた?」
そこに立っていたのは、身長180センチ以上はあろうかという長身の女性と、対照的に140センチほどしかない小柄な少女。
リィナ=クライストとエルレーン=ファビアスは、このミューティレイクで使用人として働く、少々ワケありの2人だ。そしてシーラにとっては先ほど述べたように旧知の仲であり、気の置けない親友なのである。
完璧な美貌を持ち、どこか気高く隙のなさそうなシーラ。
高すぎる身長に、穏やかで優しげな暖かさを持つリィナ。
そして小柄で愛らしい外見に、明るい笑顔のエル。
なんともバラバラな個性を持つこの3人は、その華やかさも手伝ってか、最近では屋敷でも有名なトリオとなりつつあった。
ただ、当の3人はそんなことを意識する様子もなく、
「ちょうど、リィナと同じ時間に昼休みをもらえたんだ。それで、シーラも今日学園休みだって聞いてたから、お昼を一緒しようかと思って」
エルの言葉に、隣のリィナが同意してうなずく。
「昼? あ、もうそんな時間?」
意外そうに時計を見るシーラに、エルはクスクスと笑って、
「どうしたの? 好きな男の子のことでも考えてた?」
「まさか。そこまで時間を持て余してないわ」
シーラはさらっとそう返して、
「じゃあ、どうしましょうか? 下に降りる? それともここで?」
「ここにしよ。ホールも楽しいんだけど、たまには3人水入らずもいいでしょ?」
「薬草くさいけど、大丈夫かしら」
シーラが冗談めかしてそう言うと、エルはお人形さんのような小さな頭をキョロキョロと動かして、それからニッコリ微笑むと、
「大丈夫。シーラの匂いしかしないよ」
「なんか微妙ね、それ」
苦笑するシーラに、あとから小さくお辞儀して入ってきたリィナも、ほんの少しだけ鼻を動かしながら、
「これ、なにかの香草ですね。すごくいい香りです」
シーラは答えて、
「ええ。香水にも使われるいくつかの香草を自分でアレンジしたものよ。……テーブル、少し小さいけど。2人ともそっちのソファに座って」
「あ、自分で作ってるんだ。シーラ、いっつもいい匂いだもんね」
エルはちょこんとソファに腰掛け、それから手にしていたバスケットをテーブルの上に乗せる。
その隣に座ったリィナもうなずきながら、
「さわやかで気品があって、私もシーラ様にピッタリの香りだと思います」
「そんなたいそうなものじゃないわ」
その謙遜は香草の調合技術に対するものか、あるいは自分自身に対するものか。とにかく、そう言いながらシーラは自らもソファに腰を下ろした。
リィナが昼食の準備を始める。
そのバスケットを開いた途端、リンゴの甘酸っぱい香りがただよった。
「あら……」
思わず声を漏らしたシーラに、その反応を期待していたのかエルは嬉しそうに、
「リンゴ、大好きだったよね。ちょっと季節が違うけど、コックさんに干しリンゴをもらったから」
リィナがそれに続けて、
「こっちのリンゴは真っ赤なんですね。向こうでは黄緑色のものしかないので、初めて見たときはビックリしました」
「こっちにも赤以外のリンゴはあるわよ。でも、確かに赤の方が一般的ね」
シーラはそう答えながらも、なにごとか気にしたようにチラッと扉の方を見る。
「あ、心配しなくても大丈夫だよ、シーラ」
その理由を察したエルがすぐにそう言った。
「声が伝わりづらいように、ちょっとだけ空気の流れを調整してるから。少しぐらいそっちの話をしても平気」
言って、少し指先を振ってみせる。
ひゅぅっ、と、窓の閉じた部屋に、かすかな風が吹いた。
「……便利ね、それ」
「これでも『元』王族だから」
冗談っぽくエルはそう言った。
……彼女たち――リィナとエルは元々、人ならざる者、つまりは人魔だ。
2ヶ月ほど前『朧』という特殊なアイテムによって人に姿を変えたために魔力の大半を失ったが、それでも元が強大な力の持ち主であるため、今もそれなりの魔力を行使することができる。
もちろん、その正体を周りに知られるわけにはいかない。魔であるということは、たとえ事実がそうでなくとも、人間に恐怖を与えるものだから。
――とはいえ。
「それに朧の効果は完璧だもん。ちょっとした話を聞かれたって証拠なんてないし、確かめる方法もないよ」
もっともな話だった。シーラも納得して、扉から視線を戻す。
そうしてにぎやかな昼食が始まった。
内容は主にリィナやエルの仕事の話、あるいはこの4月からサンタニア学園の薬草学科に復学したシーラの学業の話。
同じ屋敷内で過ごしているとはいえ、3人が一同に会す機会はそれほど多いわけではなく、その分だけ話は弾んだ。
性格はもちろんのこと、立場、あるいは種族すら違う3人ではあったが、傍から見てる限りは普通に仲の良い少女たちとなんら変わりはなかった。
と、そんな中。
「そういえば……2人とも、『腐食の楔』ってなんのことだかわかる?」
「え?」
「腐食の楔、ですか?」
ふと尋ねたシーラの言葉に、あっけに取られた顔をする2人。
シーラがそれを尋ねてみたのは、ほんの思いつきだった。少なくとも一般的に意味の知られている単語ではなかったし、それならばダメ元で『一般外の知識』を持ち合わせているであろう彼女らに聞いてみようか、と思い立ったのである。
だが、それは思いの外、素晴らしい閃きだったようで、
「それは魔界の言葉で、ということですか?」
首をかしげながら聞き返したリィナに、シーラは少し驚いた顔をして、
「知ってるの?」
リィナはうなずく。
「はい。最近ではあまり使われなくなった表現ですけど、『腐食の楔』というのは魔界では幻覚能力を指す言葉です」
「幻覚能力?」
「油断とか心の隙間を突いて間接的に攻撃する性質から、見えないところから腐らせていくという意味で、そういう言い方をしたそうですよ」
「……」
その言葉に少し考え込むシーラ。
やがて少し真剣な表情になって、
「ねぇ、リィナ。もう少し詳しく話してもらえる?」
「え? それは構いませんが……」
リィナは戸惑うような素振りを見せたが、それでもすぐに答えて、
「シーラ様は魔の10属性について知ってますか?」
「ええ。少し勉強したわ」
「でしたら……幻覚能力は10属性のひとつ、『幻』の魔が使う力のことで、大きく『感情』『五感』『記憶』の3つに分けられます。基本的には、対象者に錯覚を起こさせる能力です」
「錯覚?」
「はい。……疑惑を不信に、怒りを殺意に、主に扇動や不和を起こさせるために使われるのが『感情』の幻覚。ナイフを一輪の花に見せかけたり、私の声をエルさんの声に置き換えたり、あるいは小石がぶつかった程度の痛みを激痛に変えたりするのが『五感』の幻覚。そして記憶の混乱や置き換えをするのが『記憶』の幻覚です」
「……」
整理するかのように少し視線を泳がせるシーラ。
その説明自体は、言葉そのものから受ける印象と大差なく、容易に理解することができるものだった。
「私もそれ以上となると、あまり詳しいことはわからないのですが……エルさん?」
「あ、うん」
その求めに応じ、どうやら彼女よりも詳しいらしいエルがバトンを引き継いだ。
「ボクもそんなに深くはわからないけどね。リィナの説明に付け加えると、幻覚能力ってたくさんの縛りというか、ルールがあるの。たとえば――」
そう言いながら、テーブルの上にあったナイフとスプーンを手に取ると、それらをシーラの目の前にかざしてみせる。
「ボクがシーラに対して、こっちのスプーンもナイフだと錯覚させる能力を発動しようとするでしょ? でも、いきなりやろうとしても、それはできないんだ」
「? どういうこと?」
「うん。幻覚能力は発動するのに必ずなんらかの『条件』を必要とするの。……あくまで一例だけど、たとえば幻覚を見せようとする前に、こっちのナイフの形を相手にきちんと記憶させておきゃなきゃならない、とか」
「……なるほどね」
納得した様子だったが、シーラはすぐに疑問を投げかける。
「でも、それって特に難しいことでもないんじゃないかしら? だってナイフの形ぐらいだいたいの人が覚えてるでしょ?」
エルはうなずくと、
「この場合はね。だけど――」
そう言いながら今度はスプーンだけを置き、その手にナプキンを取る。
「同じようにボクがこのナプキンをナイフに見せかけるには、さっきよりも少し難しい条件が必要になってくる……どうしてかわかる?」
「え? ……」
視線を泳がせて考え込むシーラ。
だが、その時間はそれほど長くはなく、
「スプーンに比べると、形とか質感が遠ざかったから?」
「うん、正解。ボクの声をシーラの声に置き換えることは比較的簡単だけど、ティースの声に置き換えるには少しだけハードルが上がる。なんとなくわかるでしょ?」
エルはにっこりと微笑んだ。
「錯覚を大きくしようとすれば、それだけ発動条件が厳しくなったり強い魔力が必要になる。それが基本。……あともうひとつの基本。幻覚の力は原則として『1対1』なの」
「1対1?」
「うん。ひとりの幻魔が同時に使える幻覚はひとつ。ひとりの相手に対して同時に錯覚させられるのもひとつ。ただし『五感』に関する幻覚だけは例外として、まったく同じ内容であれば、同時に複数の相手に効果を発揮することもできる、とか」
「……わかるけど、ちょっとややこしそうね?」
「うーん、わかりやすく言うとね……」
エルは少し考え込むと、
「彼らはみんな1枚だけシールを持ってるの。たとえばボクが幻の人魔だとすると、ボクは今、このシールに『ボクの姿をティースと間違える』という力をかけて、シーラにペタッと貼り付ける。するとシーラはボクのことがティースに見えてくる」
「ええ。それはわかるわ」
「でもボクが持ってるシールは1枚だけだから、リィナに貼ることはできなくて、もちろんボクのことはそのまま見えてる。だけど――」
そう言って、エルレーンは手のひらを自分の額に当ててみせると、
「今度はそのシールを自分の額に貼り付けてみる。すると、リィナも含めて周りの人全員、ボクのことがなんとなーくティースみたいに見えてきちゃう。これが例外的な使い方。ただこの使い方には欠点もあって、魔力の弱い下位魔なんかがこれをやると、相手によって効果が出たり出なかったりする。だからあまり好まれないみたい」
「なるほどね。……じゃあ、その例外的な使い方が『五感』の幻覚に限られるっていうのは?」
「『感情』と『記憶』はどちらも相手の深い内面に強く干渉するものだから、そもそもシールを直接貼らないと効果そのものがない、ってことかな。……どう? これだとちょっとはわかりやすい?」
少し上目遣いでそう言ったエルに、シーラは微笑んで、
「ええ、ものすごく。エル、あなた教師の才能があるかもしれないわね」
「ホント? やったぁ」
冗談交じりのお世辞ではあったが、エルは割と本気で喜んでいるようだった。
「あとは同じ人にシールを2枚貼れないっていうのも大事かな。ボクがティースの姿を、リィナがティースの声を錯覚させようとしてそれぞれシーラに貼っても、魔力の強いほうしか効果が表れない、みたいなね」
「そう聞いてみると、思ったほど使い勝手のいいものではないみたいね?」
「うん。自分で使うわけじゃないからわからないけど、幻の属性は最弱っていうのがあっちでの一般的な意見だからね。……でも」
エルはまるで謎かけのように言った。
「――王を討つ兵は、あなぐらの中にこそ産まれる」
「?」
怪訝そうなシーラに、エルは少しまじめな顔をして、
「向こうで良く口にされる教訓だよ。あなぐらに隠れ住むのはもっとも弱い者、幻属性をやゆして使われる言葉。でも、王を討つ兵――王は格上、兵は格下。つまり格上の魔を討てるのは、幻属性の者だけだ、という意味なの。……これはちょっと大袈裟な言い方だけど、でも、単純な力差を埋める可能性がもっとも高いのは幻属性。それは確かにそうかなとボクも思う」
「使いよう……ということね」
そんなエルの言葉は、シーラにも理解できなくはなかった。
……実際のところ、王魔よりも強い将魔、将魔よりも強い上位魔というのはどの属性でも存在する。どんな種族であれピンキリだし、格下が格上を倒してしまうことは、珍しいことではあっても充分に起こりうることだ。
ただ、歴史を紐解いていくと、それが起こりうる確率がもっとも高いのはやはり幻属性で、そしてそれは当然、魔と魔の間に限ったことではない。
エルの口にした教訓と似たようなものが、デビルバスターたちの間にも存在する。それはつまり過去、幾人もの腕利きのデビルバスターたちが、本来恐れるに足らないはずの幻の下位魔や上位魔の手に掛かって命を落としているということでもあるのだ。
「でも、シーラ様。どうして急にそんなことを?」
と、リィナが不思議そうに問いかけた。
それは当然の疑問だろう。今の話は、少なくとも薬師を目指すこのシーラという少女には、まったく必要のないはずの情報だったのだから。
だが、
「そうね……単なる知的好奇心、じゃ答えにならない?」
さらりとかわすように答えるシーラ。
だが、リィナは納得できない顔で、
「腐食の楔なんて、最近は魔界でもそんなに耳にしない言葉ですから……」
「耳にする機会があったのよ。友達からね」
「シーラって変な友達がいるんだね」
そう言って、エルは笑った。
シーラの言葉をそのまま真に受けたわけではなさそうだが、それでも彼女はそれ以上追求することはなく、
「なんにせよ、少しでもシーラの役に立てたなら嬉しいよ。……ね、リィナ?」
「え……あ、はい」
その言葉に、リィナもニッコリとうなずいて、
「シーラ様とティース様のお役に立てることが、今の私にはなによりの幸福ですから」
「あら。嬉しいわね」
シーラはもう一度苦笑した。
リィナの言葉は、まるでお芝居のセリフか、そうでなければ口のうまい商売人の常套文句だ。だが、その表情には一点のためらいもなく、また打算の色も皆無である。
見ている者を思わずなごませてしまうような、その雰囲気。
先ほどの発言が本心からの言葉であることを疑う者は、少なくともこの場にはいないだろう。
(……ホントいい子だもの、ね)
シーラも心からそう感じている。
だからこそ、多少こちらの常識に欠けていても、うまく人間たちの中に溶け込めているし、周りから好かれもするのだろう、と。
「……」
「さ。じゃあそろそろ行こっか、リィナ」
ちょうどバスケットの中身もなくなったようだ。
エルが立ち上がると、リィナもうなずいてそれに従う。
「では、シーラ様。また」
「……ええ、またね」
「?」
シーラの返事がワンテンポ遅れたことに、エルは怪訝そうな顔をしたが、それについては特に追求することもなく、
「じゃあシーラ。勉強、頑張ってね。男の子のことばかり考えてちゃダメだよ?」
「ええ、そうね。今度からはあなたじゃなくてリィナのことを考えるようにするわ」
「むっ」
エルはわざとらしく膨れてみせて、
「君といいティースといい。ホントに失礼だよ、もう」
「ほら。早く行かないと叱られるわよ」
「ふん、だ。いこ、リィナ」
隣でクスクス笑うリィナに、エル自身も結局おかしそうに笑い出してしまう。
そんな2人に向けられたシーラの笑顔にも、やはり一点のくもりもなかった。
衝撃。
甲高い音。
手の平を突き抜け、耳の奥と肩口に飛んでいく痺れ。
血液が体中を駆け巡り、脳の奥が熱く、全身が高揚し、汗が飛び散った。
「ぉぉ――ッ!」
一歩、踏み込む。普段頼りなく見えるはずのティースの長身は、鬼気迫る気迫をまとってそこに威圧感すらも漂わせていた。
「っ……」
そんな彼に対するは、彼よりも10センチ以上小柄な少年、パーシヴァル=ラッセル。両手にはかなり長めのトンファーを携え、こちらも視線は真剣そのものだ。
「くっ……!」
一撃を受けたパーシヴァルの表情が歪む。バランスが崩れた。
好機。
その一瞬をティースは逃さない。
打ち払い、目にも止まらぬ一撃を見舞う。
勝利を確信。
――いや。
「えっ……!?」
突然、視界から少年の姿が消えた。
と同時に、右手を襲う鋭い痺れ。
「つっ……」
甲高い音とともに宙を舞う木刀。
肩口に軽く鈍い痛みが走って、背後に気配が現れて――
「――そこまで」
のどにグッとトンファーが押しつけられ、冷静な声が響いて、場に張り詰めていた空気は霧散した。
荒い息。
外から聞こえる犬の鳴き声。
焼け付くような暑さ。
今までは意識もしなかった周囲の状況が、急にリアルに動き始めた。
「……惜しかったっすね、ティースさん」
ゆっくりと背後の荒い呼吸音が離れていく。
もちろんティース自身の呼吸も荒い。だが、勝負の結果とは対照的に、どうやらパーシヴァルの方が疲労の色は濃いようだった。
「気ぃ、抜いたでしょ? そんなんじゃいつまで経っても俺には勝てないっすよ」
パーシヴァルは息を吐きながらタオルを首にかけ、置いてあった水筒に口を付ける。
必要以上に強気な言葉は彼が思いのほか追いつめられていた証だったが、言葉の中身そのものは真実でもあった。
だが、ティースは納得できない顔でその場に座り込んで、
「俺が気を抜いたわけじゃないってば。君の動きが急に速くなったんじゃないか」
「はは。それを気を抜いたっていうんですよ」
パーシヴァルも壁に背を預ける形で座り込み、もう一度水筒に口を付けてのどを潤すと、
「俺たちは多かれ少なかれ、ある程度の心力を前提に戦ってるんだから、ほんの少しの気の緩みが一般人よりもはるかに大きく跳ね返ってくるんスよ。俺も確かにピンチだったから速く動こうとはしたけど、それ以上にティースさんの動体視力が急激に落ちたんじゃないっすか?」
「……うーん」
そんなパーシヴァルの言葉に、ティースはやはり納得できない顔で頭をかいて、
「心力がどうこうと言われても、意識してやってるものじゃないからわかんないよ……」
「そのうち慣れますよ。心力の基礎はとっくに身に付いてるみたいだし、あとは感覚をしっかりつかんで、気を抜くクセさえなくせば――」
「気を抜くクセに関しちゃ、お前が偉そうに言えることでもないしな」
「……げ、隊長」
そんな2人に歩み寄ったのは、ディバーナ・ナイトの隊長であるレインハルト=シュナイダーだ。
そしてここはもちろんナイトの詰め所。
午前中にアオイの授業を終えたティースは、午後から志願してナイトの面々とともに稽古を行っていたのである。
彼らに歩み寄ったレイは相変わらずのラフな服装にどことなく投げやりな態度で、パーシヴァルに言い放った。
「今のにしたって初撃をしっかり受けてりゃ、あそこまで追いつめられてない話さ。……ま、それで窮地におちいるのは俺じゃないから別にいいがな」
「うぅ……すんません」
「……」
ひょうひょうとした態度の割に、彼の指導はいつもだいたい的確だ。ただそれは、教えることに秀でているというよりも、観察力、洞察力の高さが表れているということだろう。
さらに、その言葉が今度はティースへと向けられる。
「お前はちょっとばかし、自分の感覚に頼りすぎかもしれんな」
「え?」
レイは自分のこめかみ辺りをチョンチョンと叩いて、
「もっと頭を使えってことさ。相手がこう動いたから、こう返す。相手が怯んだから踏み込む、ってんじゃ後手に回りすぎる。それもこいつみたいなアホが相手なら構わんが――」
「げ。隊長、それはちょっとひどくないっすか」
だが、パーシヴァルの抗議はまるで無視されて、
「俺ならそれを利用して、逆にお前の動きをコントロールできる。そうして先回りすることができる。だから、どんな状況でも、どんな窮地でも常に考えるクセを身につけた方がいい」
「戦いながら、考える……?」
「ああ。……駆け出しに特に多いんだがな。ロクに考えもしないで、簡単に捨て身とか投げやりになったり、あるいは渾身の一撃、最後の一撃とか勝手に決めつけて戦おうとする。頭のいいヤツってのは、そういう連中がどのタイミングで思考を放棄するか知っていて、そいつが罠にかかるのを手ぐすね引いて待ってるもんなのさ」
「あ、頭を使う、か……」
少し情けない顔になるティース。……あまり勉学に通じてない彼にとって、頭を使うという行為はどこか苦手意識があった。
レイは少し手を広げて、
「ま、自分の感覚の方がずっと大事と主張する連中も多いがな。ウチじゃアクアなんてのがその典型だが、あいつの場合は自分の感覚というより『野生の勘』だ。真似しようとは考えない方がいい」
「野生の勘……」
ティースはアクアの顔を頭に思い描き、吹き出しそうになるのをどうにかこらえた。
「……あーあ、隊長。そんなことが耳に入ったら、あの人また怒りますよ」
「すねた女の御機嫌を取るのも男の仕事だろ?」
軽くおどけるレイに、パーシヴァルは不満顔で反論した。
「んなこと言って、隊長。いつも面倒になったら俺の方に丸投げじゃないっすか! 俺がそれで何度ひどい目にあわされたか――」
「社会勉強だと思っときゃいいさ。あいつほど扱いやすい女はそうそういないし、練習台にはもってこいだ。……もっとも」
と、レイはからかうような薄い笑みを浮かべた。
「あまりデレデレしてると、肝心の本命に逃げられちまうかもしれんがな」
「な……」
パーシヴァルの顔が真っ赤になる。
「な、なに言ってんすか! 俺は硬派なんです! デレデレとか本命とか、そんなもんはいっさいないっすよ!」
わめき立てるように抗議するパーシヴァル。それだけで動揺しているのがバレバレである。
(……ああ、こういうことか)
ティースはなんとなく、レイの言う『相手をコントロールする』の実例を目の当たりにした気分だった。
(でも、なんだろ、本命って。パースにもやっぱ好きな子がいたりするのかな)
いまいちそういったことに疎いティースであったが、まったく興味がないわけでもなかった。
「ま、そういうことにしとこう。……で、続きだが」
散々パーシヴァルをからかった末、レイは自分から話題を戻して、
「頭と勘、どっちが本当に大事かなんて議論はナンセンスだが、両方備えているに越したことはないし、天性の勘ってやつはやろうと思って備わるもんでもないが、戦術ってのは知恵と経験で身につけられるもんだ。やって損はない」
「う。が、頑張ってみます」
そう答えながらも、自信はまったくなかった。
(……俺ってきっと、レイさんよりはパースの方のタイプだろうしなぁ)
思わず苦笑するティース。それは彼の謙遜などではなく、おそらくは限りなく真実に近い実感であった。だが、そういった自分の弱点を自覚している辺りが、彼の良いところでもある。
そんな心情を見抜いたのか、レイは再びからかうような表情になって、
「ま、頭のいい男は女の扱いもうまいもんだ。あの王女様にいいように振り回されてるお前にゃ、ちょっと難しい話か」
「……かもしれませんね」
反論できる言葉があろうはずもなく。
と、そんなところへ、
「ティース」
「え?」
「……おや」
突然の来訪者。
真っ先にその気配に気付いたレイが振り返って、そして少し大げさに驚いて見せた。
「珍しいじゃないか。ここに顔出すのは何年振りだ?」
そんな皮肉な笑みの先。
「なぁ、アルファ」
そこにあったのは、銀色の髪に蒼の瞳。相変わらずの凍り付くような雪の仮面に、まるでアンバランスなハートマーク付きのセーターとマフラー。その手に携えるのは、光の力を込められた神槍『誘蛾灯』。
アルファ=クールラント。
ディバーナ・ロウ、4人目のデビルバスターにして、世代最強を意味する『サン・サラス』の称号を持つ17歳の青年(?)であり、どう考えても不自然なことだが、現在はティースの部下に当たる人物だった。
「1年は経ってない」
特におもしろくもなさそうに、いや、それどころかなにも感じてさえいない表情でそう答え、アルファはそのままティースへと視線を向けた。
「ティース。ファナが呼んでる。任務だ」
「え、あ。ああ、わかった」
「やれやれ、相変わらずせっかちなことだ。たまには、ゆっくりしていってみないか?」
「ゆっくり?」
まるで凍り付いたままの表情の、その瞳の奥に、ほんのわずかにいぶかしげな色が浮かぶ。
「こんな場所でも、茶ぐらいは出せるがな」
「水分なら補給したばかりだ。いま他に必要としているものはない」
「……なるほど。それじゃ仕方ない」
少々おどけた調子で、レイはお手上げとばかりに両手を広げてみせた。
(ああ、やっぱりレイさんでも同じなのか……)
それはそうであろう。なにしろ、この兄のことをあれだけ慕っている妹のセシルに対してさえ――少なくとも外から見る限りは、まるで変化がないのだから。
(なのに……そんな人のことを、俺がどうこうできるわけないじゃないか……)
それでもセシルは彼のことを優しいと言い張る。仲良くして欲しいと懇願する。
ファナはそんな彼に対し、信じていると言う。
セシル。
そしてファナ。
「はぁぁぁぁ……」
そんな2人分の期待を否応なしに思い出させられ、ティースは今すぐにでも逃げ出したい気分になってしまうのであった。
――もっともこの数日後、彼はそんなことを考える余裕すらないほどに、大変な事態に巻き込まれることになる。