その4『夕日の中の犯意』
学園都市ネービス。
そのど真ん中を走る大通りをまっすぐ北に進み、一般住宅地と高級住宅地のちょうど境界あたりを西の方角に向かってしばらく進むと、高い柵に囲まれた、一辺がキロメートル単位であろうかという広大な敷地が見えてくる。
それこそがこのネービスで、いや大陸全土でも有数と言われる大貴族ミューティレイク家の敷地であった。
門をくぐり、そこから数百メートルを歩いてようやく到達する2つの大きな建物。左側が本館、右側が別館で、この2つの建物は内部通路でつながっている。
そのうちの右側――別館の正面玄関を抜けて玄関ホールに入ると、初めてここを訪れた者はおそらく面食らうのではないだろうか。
天井を飾る豪華なシャンデリア。正面に位置する大階段。きらびやかな装飾類。……それらの雰囲気とはあまりにもかけ離れた、まるで場末の酒場のような質素な丸テーブル群がそこには設置されていたのである。
そして今、その丸テーブル群のひとつには、2人の人物が腰掛けていた。
「やれやれ。ようやく仕事を終えて帰ってきたと思ったら大変なことになっているみたいじゃないか」
本来なら朝食を終えた後の優雅なひとときを迎えているはずの屋敷は今、滅多に見られないほどの大騒動に見舞われているところだ。
その理由については言うまでもない。
「まさか総大将様が昨日から行方知れずとは。いくらあの天然コンビでもネービスの街でひと晩も迷子になるとは思えんがな」
つぶやくようにそう言ったのは、額に灰色の布を巻いた青年だった。布の隙間からは無造作に伸びた濃い金髪がかすかにのぞいていて、全体的にこの屋敷の雰囲気にはそぐわない、どちらかといえばアウトローな雰囲気の男である。
一方。
「キミらはまだひと仕事終えてきたんだからいいじゃない。あたしたちなんて敵のアジトの見当つけて、さぁこれからってときに呼び戻されたのよぉ?」
そう答えたのは、頭に大きなお団子を2つ結った女性だ。少々子供っぽい髪型ではあるが、それ以外の見た目は明らかに大人、おそらく20代と思しき女性だった。
「で? どうすんだい、総隊長殿?」
男が少々からかいの混じった口調でそう問いかける。だが、女の方は大して気に掛けた様子もなく、
「アオイくんがついてるんだし、滅多なことはないと思うけどね。そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないの?」
「相手にもよるんじゃないか? 連絡も取れてないってことは、少なくともそれなりの相手に狙われた可能性が高いと思うけどな」
「ま、大丈夫でしょ」
女はパタパタと手を振って答えた。
「この世には、美形の男は死なないって法則があるのよ。知らなかった?」
「そんなもんがあったらブ男の遺伝子はみんな淘汰されて、世の中とっくに美形だらけになってるだろうよ。ま、その理論だと俺も大丈夫なわけだが」
鼻だけで笑って、男は椅子から立ち上がる。
「ま、手掛かりもなにもないこの状況じゃ、とりあえずしらみつぶしに探すしかない。ひとまずナイトとファントムを全員投入するってことでいいか?」
「そりゃいいんだけど、こうなった以上は屋敷の守りも少し考えたほうがいいんでない?」
「そこまでは知らんよ。ま、カノンの天才少年様にでも任しときゃいいんじゃねえの?」
「うーん、ちょっと不安な感じもするけど……あ、フィリスちゃん! ちょっとこっち!」
「あ、はい!」
女の声と手招きに反応して、食堂に続く通路を歩いていた使用人の少女、フィリスが駆け寄ってくる。
若干ながらクセのある髪が子羊を思わせる、生真面目で純朴そうな少女だった。歳は女よりも明らかに下、10代なかばだろう。
「なんでしょうか、アクア様」
両手を前で重ねてかしこまるフィリスに、女――アクアはうなずいてみせて、
「んとね。あたしとレイくんは、これからファナちゃんを迎えに行くことになったから」
「え……お嬢様の居所がわかったのですか!?」
身を乗り出したフィリスだったが、アクアはすぐに手を振る。
「ああ、ゴメンゴメン。迎えに行くってゆーか、探しに行く?」
「あ……そういうことですか」
フィリスは視線を落とし、見るからに落胆した。
それを見た男――レイが口元をゆがめて、
「泣かしたな」
「泣かしてないっつーの」
横からの茶々をアクアは軽く流して、
「で、悪いんだけど、ナイトとファントムのみんなに準備するように伝えてくれる? あとついでに、レアスくんに留守番よろしくって頼んどいてくんない?」
「あ、はい。それは構いませんけど」
言ってから、フィリスは自信なさげに目を伏せて、
「私で大丈夫でしょうか? レアス様、お留守番はあまりお好きではないようですけど……」
「そりゃ大丈夫だ」
背中に2本の曲剣を背負ったレイが笑いながら答える。
「あの天才少年様は、年上の女にゃめっぽう弱いからな。駄々こねるようならちょっと泣きそうな顔でもしてやりゃおとなしくなる」
「はあ」
「大丈夫だ、フィリス」
レイは突然真剣な表情になり、ゆっくりと手を伸ばしてフィリスの頬にそっと触れた。
「あ、あの、レインハルト様……?」
戸惑った様子の彼女と、レイの視線が真っ直ぐに交差する。
「どんなに根性のひん曲がった男だって、こんなにも可憐なキミのお願いを断ることなんてできやしないさ。もっと自信をもって――」
「こら」
パコン! と、レイの後頭部が派手な音を立てる。
「って……」
「レイくん。ウチの可愛いフィリスちゃんをたぶらかすなんて、冗談でもおねーさん許さないわよ」
音の主は、アクアの手にいつの間にか握られていたスリッパだ。
「……人聞き悪いな。ちょっと自信をつけさせてやろうとしただけだろうに」
「誰彼構わずそういうこと言ってなきゃ、信じてあげなくもないけどさ。ああ、フィリスちゃんは気にしないでね」
「は、はあ……」
どうしたらいいかわからないという様子のフィリスに、アクアはパチリとウインクしてみせる。
「大丈夫大丈夫。心配しなくても、あ・た・し・のフィリスちゃんにはぜぇったいに手出しなんかさせな――」
パコン!!
「った~~~~!」
「お前も欲望だだもれじゃねーか」
よほどクリーンヒットしたのか、後頭部を押さえたアクアは涙目でレイを振り返って、
「あ、あのねぇ! あたしのはレイくんとは違うの! ただ可愛いものを愛でようという純真な、言うなれば芸術性に満ちた愛なのよっ!」
「なにが芸術だ。ただの独占欲だろ」
「あ、あの――……」
そんな2人のやり取りについていけないフィリスは、どうしていいかわからずにオロオロするばかりだった。
アクア――アクア=ルビナート、23歳。
レイ――レインハルト=シュナイダー、20歳。
公のものではないが、彼らこそがミューティレイク家の誇るデビルバスター部隊『ディバーナ・ロウ』の総隊長及び総副隊長というべき存在であった。
魔を狩る者、デビルバスター。
それは普通の人間、普通の武器では太刀打ちできない魔に対し、対等に渡り合えると認められた者たちのことだ。
魔に日常を脅かされる人々にとっては尊敬と憧憬の的であり、その称号があるだけでなにもせずとも一生を食べていくのにも困らないと言われている。
さて。
大陸全土の水準からいうと、このネービス領はかなり治安の良い土地ではあるが、それでもやはり魔の脅威にさらされることは少なくない。
そんなネービスには、2つの有名なデビルバスター部隊が存在する。
ひとつめは、言わずと知れた領主ネービス公が抱える公的デビルバスター部隊『ネスティアス』だ。
大陸全体を見渡しても3本の指に入る規模とそれに見合った実力者を有するこのデビルバスター部隊は、ネービス領における対魔の要であり、切り札的存在でもあるといえよう。
そしてもうひとつ。
ネスティアスとは比べ物にならないほど小規模ながら、高い知名度と人々からの支持を集める部隊が『ディバーナ・ロウ』だ。
大貴族ミューティレイク公の支援を受けるこのディバーナ・ロウは、軍隊的な性質を持つネスティアスがフォローできないような細かい案件のうち、個人のデビルバスターを雇って解決することも難しい貧しい人々のために動くとされる組織だった。
ただし、ネスティアスが公的部隊であるのに対し、ディバーナ・ロウはあくまで私的部隊であり、だからこそその構成員や素性については公にはされていない。
ここらでいったん、ティース宅へ話を戻すことにしよう。
「シーラのやつ、本当に大丈夫かな……」
連絡係としての使命を帯びた彼女が家を出ていってから、すでに20分ほどが経過していた。
ファナやアオイはもちろんのこと、顔を知られているかもしれないティースも窓から離れたところに待機していて、あまり大っぴらに外の様子をうかがうことはできない。
大丈夫だろうとは思いつつも、ティースの心はやはり不安でいっぱいだった。
そんな重い空気を察したのか、アオイが口を開く。
「いくら魔の者とはいえ、この街のただ中で大っぴらに動くわけにはいかないでしょうし、心配はないと思います。あるとすれば、我々のことを目撃した付近住民が、悪意なく敵に情報を与えてしまった場合ですけど――」
心配そうな顔をするティースに、アオイは微笑んで言葉を続けた。
「昨日ここに案内される途中も周りに気を配っていましたが、もう暗くなりかけていましたし、目撃者はいたとしても少数でしょう。そこからこの家を特定されるようなことはまずありえないと思います」
「……昨日の帰り道なんて、そんなのぜんぜん気にしてなかったよ」
そう答えて、ティースはこのアオイという人物のことを少し見直した。いや、正確に言うと『見直し直した』とでもいうのだろうか。
「それに正直、敵はすでに諦めて姿をくらませている可能性が高いと思います。残った2人だけでは戦力不足は明らかでしょうし、あれ以上の戦力がそう簡単にこのネービスの街に入り込めているとも思えません」
そう言いきる彼は、朝の失態など帳消しにするほど頼もしく見えた。
「そっか」
ティースは少し安堵しつつ、
「あ、そういやさっきの……ディバーナ・ロウのことだけど」
順調であれば、迎えがここにやってくるまで1時間ぐらいだろうか。せっかくの機会だったので、今のうちに話を聞いておくことにした。
「アオイさんもやっぱりデビルバスターなのか?」
「……いえ」
ちょっと間があって、アオイは答えた。
「正式なデビルバスターの称号は持っていません。私はあくまで姫のボディガード……いえ、ボディガード兼執事ですので」
「へぇ。アオイさんぐらい強ければ、デビルバスター試験も受かりそうな気がするけど」
そんなティースの感想に、アオイは右手を胸に置いて、
「私は姫に一生を捧げることを誓っています。ですからそのような称号は必要ないんです」
「……へぇ」
ティースは感心した。
どうやら彼は典型的な忠義の人らしい。
(性格もいいし、これで朝に強かったら完璧超人かもしれないなあ)
ついついそんなことを考えてしまったティースだったが、ひとつぐらいなら欠点も愛嬌というものだろう。
「でもディバーナ・ロウがそこまでミューティレイク家と深くつながっていたとは知らなかったなあ。でも考えてみると、デビルバスターを何人も抱えるなんて、確かにファナさんとこぐらいの財力がなきゃできないよな」
ティースのその言葉は確かに正しい。デビルバスターはかなりの高給取りだ。並の金持ちぐらいではひとりを抱えるのにも苦労するだろう。
ただ。
「実はそうでもないんです」
アオイが苦笑しながらそう言った。
「我々にも色々事情がありまして。ディバーナ・ロウの皆さんにお支払いしている給金は――」
「他の使用人の方々と比べて、5割ほど多くお給金をお支払いさせていただいておりますわ」
ファナがにこやかにそう続けた。
「5割?」
ティースはその言葉を聞き咎める。
デビルバスターと呼ばれる人々がどの程度の収入を得ているのかもちろん詳しいことまでは知らなかったが、一般的なイメージからすると普通の人々の数十倍だろう。
つじつまが合わない。
「……あ、そっか。ミューティレイクの使用人だから、それの5割増しっていうと結構な額なのかな?」
だが、ファナは怪訝そうに首をかしげて、
「厳密に比べたことはないですけれど、他とそれほど違うというのは耳にしたことがありませんわ」
「そ、そうなの?」
やはりつじつまが合わなかった。
無理やり合わせることは可能だったが、それだとディバーナ・ロウのデビルバスターたちは、常識ではちょっと考えられないような報酬しか手にしていないということになりそうなのだ。
「あ」
複雑な表情のティースに、ファナは思い出したように手を叩いて、
「それ以外にも他の方と違うところがありました。デビルバスターの方々はお客様用の個室を自由に使っていただけます。朝昼夕の食事や間食などもこちらで用意させていただいておりますし、ヒマなときにはお昼寝の時間までついてますわ」
「……」
冗談なのか本気なのか、満面の笑顔でそう言い切ったファナに、ティースはなにも言葉を返すことができなかった。
(一般的な使用人の5割増しぐらいってことは、えっと、たぶん――)
頭の中でそろばんが弾かれる。
かなり曖昧な計算ながら、はじき出された答えはおそらく間違ってはいまい。
(……本当なのか?)
かなり甘めに算出しても、それは一般的なデビルバスターに支払われる金額の5分の1以下だろう。
もちろんそれだって、来月の生活すら危ぶまれるティースにしてみれば夢のような収入であるが、しかしデビルバスターという称号に見合うものとは到底思えない金額である。
彼女流の冗談なのか。あるいは真実なのか。
その答えは、彼女の隣にいる執事が明らかにした。
「ティースさんの疑問はもっともだと思いますが」
主人とは違い、ティースの困惑を承知しているらしい様子でアオイは答えた。
「ティースさんが思っているほど資金が余っているわけでもないんです。ディバーナ・ロウは私設部隊ですから公的援助が得られるわけでもありませんし」
「でも、そのデビルバスターたちはそれで納得してるの?」
アオイは苦笑した。
「ほとんどの方はやはり個人でやるか、ネスティアスの方に行ってしまうでしょうね。向こうはそれに見合うだけのお給金がもらえますから」
「そりゃそうだろうなぁ……」
というより、それでもなおディバーナ・ロウに所属している人間がいるということの方が驚きだった。
アオイがフォローするように、
「ただ、悪いことばかりではありませんよ。我々はその分サポートの方に力を入れてますから、働く環境は向こうよりいいはずです。あとは、その……」
ちょっとだけ口調が曖昧になった。
「みなさん色々と事情が――」
「みなさん、楽しい方ばかりですわ」
「……」
満面の笑顔で微妙にピントのズレた発言をするファナに、ティースは一瞬だけきょとんとして、
「……はは」
思わず笑ってしまった。
(確かに……楽しそうではあるかな)
そのトップであるところの彼女を見る限り、ディバーナ・ロウという部隊は相当に働きやすい場所なのかもしれない。
もちろん、実際に所属しているデビルバスターたちには、それ以上のなんらかの理由――アオイが言いかけたようななにかがあるのかもしれないが、もしティースの前に同じ選択肢があったとしたら、あるいは彼もまたディバーナ・ロウを選ぶかもしれなかった。
(ま、俺なんかにはまったく縁のない話だけどさ……)
と。
「あ、そうそう。それについて昨日からティースさんに言おうと思っていたことがあるんです」
アオイが急に名案を思いついたかのような顔で言う。
「?」
不思議そうなティースの視線に、アオイは微笑みながら、
「私たちはデビルバスターの育成も行っているんです。もしよければ」
そう前置きし、あながち冗談でもないような表情で言ったのである。
「ティースさんも、挑戦してみませんか?」
「……え?」
戸惑うティースに、アオイは少しだけ身を乗り出して言葉を続けた。
「あれほどの実力があるのなら、ティースさんにも充分にその資格があると思います。少なくとも私はそう感じました」
「……?」
(あれほどの実力、って……?)
それが一体なにを指して言った言葉なのか、一瞬わからなかった。
が、すぐに気付いて苦笑する。
「……ああ。えっと……ほら。あれはまぐれみたいなものだから。大体どうやって勝ったのかすら覚えていないよ」
だが、アオイはすぐに首を横に振った。
「夢中だったにせよ、あなたが魔の者に勝利したのは確かですよ、ティースさん。あなたの中にある素養が発揮されたからこそ勝てたんです。そうでなければ、まぐれやラッキーだけでどうにかなる相手ではありません」
「……」
どうやらからかっているというわけではなさそうだった。
意外な話に、ティースは思わず考え込んでしまう。
(俺が、デビルバスターに……?)
そんな大それたこと、思いついたこともなかった。
確かに彼も人並みに剣の腕に自信を持ってはいる。だが、それはあくまで普通の剣使いとしての話だ。人外のものを相手にするデビルバスターともなれば、話の次元そのものが変わってくるだろう。
「訓練次第では、あのときの力をいつでも発揮できるようになると思います」
「……」
アオイの口調がどんどんと熱を帯びていく。
「もしティースさんがその気になってくださるのなら、訓練からデビルバスター試験まですべて私たちが面倒を――」
「アオイさん」
それを止めたのはファナだった。
「ティースさんが困ってらっしゃいますよ」
「は……」
わからない顔をするアオイだったが、考え込むティースの様子を見て自分が熱くなっていたことを悟ったようだ。
「あ。す、すみませんでした。勝手にどんどん話を進めてしまって……」
「あ、いや、別に構わないよ」
恐縮するアオイにティースは手を振ってそう答えたが、
「ただ――うん。どっちにしても俺には無理だと思う。そんな根性ないし」
笑いながら、少し冗談にまぎらせた。
「たいして大きな志も持ってないしね。アオイさんみたいに、立派な信念みたいなものがないから」
「……そうですか」
残念そうなアオイ。どうやら彼は本気でティースを引き込みたかったらしい。
先ほどの賃金条件などから邪推するなら、ディバーナ・ロウは慢性的な人材不足なのかもしれない。
「誘ってくれるのはうれしいんだけど……」
「ティースさんにはきっと、他にやるべきことがあるのですわ。そうでしょう?」
「……え?」
横からの言葉にティースがファナを見ると、彼女はニッコリと微笑んで言った。
「シーラさん、サンタニア学園で薬草学を学んでいらっしゃるそうですね」
「あ、うん。そうなんだ」
「サンタニア? あのサンタニアで?」
アオイは驚いた顔をする。
「そういえば昨日いただいた傷薬も……そこらの市販のものよりずいぶんとできのよい薬だと思ったのですが、もしかして彼女が?」
そんなアオイに、ティースは頭を掻いてちょっとだけ誇らしげに答えた。
「そう、あいつの作った薬だよ。勉強してない割に色々な薬を作るのだけは得意みたいで。……って、ファナさん。学園の話はシーラから直接聞いたの?」
「はい。昨晩、色々お話しさせていただきました。シーラさんのことや、もちろんティースさんのことも」
「色々……?」
「詳しい事情はお尋ねしませんでしたけれど、ティースさんはシーラさんの学費を稼ぐために頑張ってらっしゃるそうですね」
「あ、まあ……」
その言葉を聞いて、一体どこまでしゃべったのかと少し不安になる。
彼女――シーラは気に入らない相手に対しては非常に素っ気ないし当たりもきついが、根っから気難しいというわけではなかった。気を許した相手に対しては、むしろ積極的であるとさえいえるだろう。
今朝の様子から察するに、ファナは彼女にとって『好印象』に分類された模様であり、それならば本当に余計なことまで色々しゃべっていてもおかしくなかった。
(まさか、俺の恥ずかしい過去の話とかファナさんに暴露してないだろうな……)
心当たりはありすぎる。なにしろ古い付き合いだ。
「あいつ、俺のことをどのぐらい話したの?」
おそるおそる、ティースはそう尋ねてみた。
「はい。シーラさんに無理を言って、たくさんお話ししていただきましたわ」
あっさりうなずいたファナに、ティースはまるでこの世の終わりのような深いため息を吐いた。
「そ、そっか……それでどんな悪口を言ってた?」
「悪口?」
「だらしないとか要領悪いとか頼りないとかどんくさいとか?」
言っていてあまりに情けなくなってくるが、それは彼自身が自覚している弱点である。それに普段から正面切って言われていることだから、その程度なら彼にとってはまだダメージが少ない。
恐ろしいのは、その具体的事例を挙げられている場合だった。
しかし、
「はあ。そういう類のことはおっしゃってませんでしたわ」
「じゃあどんな悪口を――」
「……」
ファナはなにか不思議なものを見るかのような目でティースを見た。
それから少し考えるように視線を泳がせて、
「ティースさんはシーラさんのことがお嫌いなんですか?」
「……え?」
唐突にも思えるその問いかけに、ティースは思わず言葉に詰まってしまった。
「あ、いや、俺がどうこうじゃなくて……っていうか、あいつが俺のことを嫌ってるっていうか……」
「はあ」
「ほら、見てたらわかるだろ? なんだかわかんないけど、最近はほとんど邪魔者扱いでさ。あ、これって娘にウザがられる父親みたいなもんなのかな」
最後は少し冗談に紛らせた。ティースも別にファナに対して愚痴るつもりはなかったのだ。
「……」
ファナは再び思いを巡らせるように首を傾け、それから少し、ほんの少しだけティースの真意を探るように上目遣いになった。
「おふたりの事情がわかりませんので、私にはなんとも申し上げられませんけれど……それはティースさんの思い違いだと思いますわ」
「……はは。そうだといいんだけど」
気を遣われているのかと思って、ティースは笑いながらそう言った。
ティースの方はもちろん、シーラに対する悪意などこれっぽっちも持ってない。だが、その逆がどうなのかは――少なくとも彼女の態度を素直に受け止めるなら、おそらくティースの感じ方は正しいものだと言えるだろう。
しかしそれでもファナは首を横に振って言った。
「昨晩は、私がシーラさんのベッドをお借りしましたの」
「え? ……ああ」
急に話が変わって戸惑うティースだったが、そんな彼女のテンポにも少しは慣れたようで、すぐに言葉を返す。
「あいつならやりそうだなぁ。ファナさんを俺の使っているベッドになんて寝かせられない、だろ?」
「はい。確かにそうおっしゃってました」
ファナは素直にうなずいて、それからニコリと微笑んだ。
「ですから、ティースさんはきっと愛されておりますわ」
「……え?」
今度はまったくわからなかった。隣のアオイでさえわからない顔をしているのだから、ティースが彼女の思考を理解できなかったのは仕方のないことかもしれない。
(……お金持ちって、やっぱ変わった人が多いのかなぁ)
そんなことを心でつぶやくティースだったが、彼女のそれは金持ち云々とはおそらく関係ないだろう。
「ティースさんはもちろん、シーラさんのことを愛していらっしゃるのですね?」
続いたファナの言葉に、ティースは先ほどの言葉の意味を理解することを諦め、すぐに気持ちを切り替えて答えた。
「そういう言い方をするとなんだか変な感じだけど」
照れたように頭を掻く。
もちろん彼女の言う『愛してる』に特別な意味など含まれていないことは、その前後の会話から理解している。そもそも彼女は、ティースとシーラのことをまだ兄妹だと思っているはずだった。
だからティースははっきりと答えた。
「そりゃあ、そうでなきゃこんなことしてないよ。とにかく、あいつを無事に卒業させることが今の俺の唯一の目標だからね」
「ご立派です」
「はは……――ありがと」
応援の意を込めて向けられたその言葉に、ティースは心の底からファナに感謝した。
実を言うと、彼は出発前にシーラに言われたこと――彼の心配が余計なお世話だと言わんばかりの彼女の言葉に、深く傷つき密かに落ち込んでいたのだ。
シーラを無事に卒業させること、それが唯一の目標だと言った先ほどの言葉は誇張でもなんでもない。そんな彼女にあんなことを言われたのでは、落ち込むなという方が無理な話で、それが今のファナの言葉によって少し報われたような気がしたのだった。
(そうだよな。とにかく今はそれだけを……)
と、そこへ。
「……姫。どうやら迎えがきたようです」
窓から外をのぞいたアオイがそう言って2人を振り返った。
耳を澄ますと、ガラガラガラ、という馬車の音が聞こえてくる。
どうやらシーラがうまくやってくれたようだ。
「わかりました」
うなずいて、ファナはすっと立ち上がった。
「ティースさん、このたびは本当にお世話になりました。シーラさんにもよろしくお伝えください」
「いや、気にしなくていいよ。……こちらこそありがとう、ファナさん」
ティースはもう一度礼を言って、そして大きく息を吐く。
(そう……なんだよな)
そして再確認した。
今はシーラを卒業させる以外のことを考える余裕なんてないし、その必要もないはずだ――と。
ましてデビルバスターを目指すなんてこと。
どう間違ってもあり得るはずがない。
……そう。
少なくとも今回の、この事件が起きなかったなら。
そのようなことは絶対になかったはずなのである――。
日が西に傾き始める。
中央大通りの喧噪はピークを過ぎ、ここからは淋しくなる時間帯だ。
ひっきりなしに往来していた馬車、学園群から戻ってくる学徒たち、買い物に現れた主婦、あるいは元気に走り回る子供たち。
美しいブロンドの髪の少女――シーラはその喧噪の中、通い慣れた道の角を左に曲がり家路をたどっていた。
細い路地に入ると、大通りの綺麗に舗装された道と違って足もとが少しデコボコになっている。歩きにくいというほどではないが、ハシャギ回る子供が足を引っかけて転ぶ光景を良く見掛ける場所だった。
「危ないわよ――」
鬼ごっこでもしていたのか、前方不注意で自らにぶつかりそうになった子供に軽く注意を与え、再び前方に長く伸びる自らの影をたどっていく。
「……」
立ち止まって、ふと背後を振り返った。
特に変わった光景はない。
朝も結局、変わった出来事には遭遇しなかった。
(ファナはこの付近が監視されてるかもしれないと言っていたけど……)
もちろんこういうことに関しては素人以外の何者でもない彼女だ。もしかするといつもと違うなにかがあったのかもしれないが、少なくとも彼女の邪魔をするような者は現れなかったし、今ごろはおそらくファナも無事に屋敷へと戻っているだろう。
(できればもう少し、あの子と話してみたかったけど……)
二度と会う機会はないであろう、ファナという少女の顔を思い浮かべながら、再び正面に向きなおる。
そして。
「――!」
シーラは息を呑んだ。
「お嬢さん」
彼女の眼前3メートルほどの位置に、壁に背を預けるようにひとりの男が立っていた。
つい先ほどまで彼女の視界の中には誰もいなかったはずだ。それが、背後を振り返っていた数秒ほどの間に、突然男が現れたのである。
頭に巻かれたバンダナのような布。身にまとった雰囲気は旅人風といえばいいのか、ならず者風といえばいいのか。少なくとも堅気の人間には見えなかった。
「悪いな。怖がらないでくれ。少し聞きたいことがあるだけだ」
男は自らの外見がどんな印象を与えるのか自覚しているらしく、少し口調を緩めてそう言った。
「……いきなりそこに立っていたからビックリしただけよ」
我を取り戻し、いつもの強気でそう返答するシーラ。
もちろんひとり歩きの女が彼のような身なりの男に止められれば少々警戒するのは当然のことだ。だが、今はまだ日が沈んでもいないし、数分置きとはいえ人通りもある。声を上げれば少なくとも数人には声が届くだろう。
「そうか、失礼した。で、ちょっと聞きたいんだが……この辺りで、変わった格好の女性を見なかったか?」
「変わった格好の女性?」
すぐにそう切り返したシーラだったが、男の言葉がなにを意味するのかは理解していた。
(……ファナのこと、かしらね)
確かにあれだけお金のかかった服装なら、この辺りでは充分に変わった格好だろう。
そしてその次にシーラの頭を過ぎった疑問は、目の前のこの人物が敵なのか味方なのかということだった。
「あいまいすぎてよくわからないけど、心当たりはないわね」
即座にそれを判断して自然に返答した彼女の言葉は、少なくとも男に不信感を与えることはなかっただろう。
そうしながらシーラは考えを巡らせていた。
(まだ解決してなかったのかしら……)
シーラがファナのことを警邏隊に伝えてからおそらく6時間以上は経っている。普通に考えればすでにファナは発見された後だと考えるべきだろう。
ただ、たとえばシーラが家を出た後でなにか不測の事態が起こり、そのために警邏隊やミューティレイク家の人々がファナを発見することができないでいる……という可能性もまったくないわけではなかった。
(それか、敵がまだそのことに気付かず探し続けてるって可能性もあるわね……)
早く家に戻って事実を確かめたい衝動に駆られる。
ただ、目の前の人物が何者であるかわからない以上、軽はずみな行動は取れなかった。
シーラは細心の注意を払って言葉を続けていく。
「誰か捜しているの? その格好からすると、あなた傭兵かしら?」
「ま、そんなところだ」
「どんな人を捜しているの?」
「とある貴族のお嬢さんだ」
「家出かなにか?」
「ああ……まあ、そんなところか」
男は細かいところまで語りたくないようだった。
「……残念だけど」
少し考えたフリをして、結局シーラはそう答える。
「わからないわね。他を当たって」
「そうか」
うなずいた男とすれ違い、シーラは振り返ることなく進んでいった。
……彼女の判断はおそらく正しかっただろう。
今の会話だけでは相手が何者なのか判別できない。無理に探ろうとすればボロが出る。ファナを探している味方という可能性もあったが、敵がそのフリをしているという可能性も捨てきれない。
(でも……)
すっかりすべて解決済みだと思っていただけに、これはシーラにとっても予想外の出来事だった。
角を曲がり、男の視界から消えたことを確認してその足は自然と速度を早める。
(なにかあったのかしら……)
ほんの少しだけ彼女の鼓動が速くなる。
遠くに聞こえる街の喧噪。
長く伸びる影。
オレンジ色に染まる地面。
見慣れた景色。見慣れた通学路。帰路の奥に映り始めた、見慣れた自宅……それを視界にとらえ。
そして――路地から飛び出してきた『なにか』に気付いたときは、すでに遅かった。
「ッ……!?」
突然彼女を襲った『凶器』は、彼女に声を出すことさえも許さなかった。
(な……に……!?)
それが痛みであることさえも認識できないまま。
彼女を貫いた衝撃は、一瞬にしてその感覚すべてを奪っていった。
――訪れたのは、闇。
(ぁ……)
最後の一瞬に彼女の脳裏に映ったものはなんだったのか。
それを認識することすら許されることはなく、そして彼女の意識は闇に包まれた。