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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第6話『ペルソナ・プリンセス』
47/132

その6『仮面をかぶった王女様』


『――でもしょうがないわ。それがあの子の性格だもの』


 部屋は静かだった。物音がしないという以前に、そこを包み込む重苦しい雰囲気が静寂さをきわだたせている。

(マーセルさん……)

 昨日の発作のショックで昏睡状態におちいったマーセルは、いまだ意識を取り戻そうとしなかった。いや、医者の診断によれば、このまま目覚めない可能性も高いという。

 いつ、そのときが訪れるかわからない。

 医者は昨日から何度か席を外しただけで、ほぼ付きっきりだった。今は宿の管理人であるアーカーソン夫妻もいる。

 そしてティースはその部屋の隅で壁に背を預け、心臓を鷲づかみにされるような緊張感の中、ただ祈るだけだった。

(……シーラ)

 外はすでに暗くなっており、相変わらずの雨が降り続いている。時計に目を向けると、どうやら彼女の部屋を出てから2時間以上は経過しているようだ。

(いったい、どうするつもりなんだ……)

 視線の先、ベッドの横に待機する医者の表情は変わらない。深刻なまま。本来忙しいはずのアーカーソン夫妻がここに付きっきりなのも、おそらくは両親の代わりに彼女の最後を看取るつもりでいるのだろう。

 部屋にはすでに、紛う事なき死の匂いが漂っている。

 それを逆転させることは、普通に考えれば不可能だった。

 不可能――のはずだ。

「……」

 目を閉じて、大きく、ゆっくりと、息を吐く。

 しんしんと降り続く雨の音。自分の心臓の鼓動さえ聞こえてきそうなほどの、静けさ。

 そんな空気に誘われて、ふとした拍子に近付いてくる情景。

(……カザロス、か――)

 ティースの故郷――カザロスの街は非常に雨の多い土地だった。だからこういう薄暗い雨の日には、目を閉じるだけでその情景がまぶたの裏に浮かんできてしまう。


『――あの子はそういう性格なの。一途だから無茶でもなんでもしてしまうし、臆病だからひとりで抱え込んでしまう。いっそすべてをさらして後悔してしまう方が楽なこともあるのにね』


「……」

 ほんの3年にも満たないほどの過去。

 それほど遠くない。

 なのに、いつからか遠い昔だと思っていた情景――


『だけど、それがあの子だから。止めても言い聞かせても無駄かもしれない。だからもし、あなたがそれを助けてあげたいと思うのなら――』


 ……ドスン。

「?」

 なにか重いものがぶつかるような音に、ティースはハッと我に返った。

「なんだ?」

 音がしたのは部屋の外だ。それが彼の空耳ではない証拠に、医師とアーカーソン夫妻も怪訝そうな顔でドアの方に目を向けていた。

「……」

 結局、ドアに一番近い位置にいたティースがそれを確認することになる。

 だが、彼が手を伸ばすより一瞬早く、ドアは向こうから開き始めた。

 ノックもない来訪者に対し、初老の医師の制止の声が飛ぶ。

「こら。この部屋は勝手に――」

「シーラ? ……おい、シーラ?」

 医師の声は途中でさえぎられた。さえぎったのは他ならぬティースの怪訝そうな声。

 彼がそんな声をあげたのは、そこに明らかな異常を認めたからだった。

「シーラ、お前――」

 慌てて彼女に駆け寄るティース。

 ……異常はそこにいる誰の目にも明らかだった。

「あまり大声は出さないで……病人がいるのだから……」

 開いたドアに頼るように左手をつき、ゆっくりと部屋の中に入ってきたシーラは、肩で小さく細かい息をしていた。

「おまっ……ど、どうしたんだよ、その顔――!」

 彼女はどちらかといえば肌の白い方である。だが、そのときの彼女はそれどころの話ではなく、ほとんど血の気がない、まるで死人のように真っ青な顔をしていたのだ。

 2時間前にティースが会ったときも、確かに疲れた様子はあった。だが、それを考慮に入れたとしても明らかに異常だ。

 だが、

「どきなさい、ティース……」

 シーラはそれを説明することもなく、フラフラと部屋の中に入ってきた。

「どうした?」

 一度は彼女をとがめようとした医師も、その異常な様子に席を立って、

「そんなフラフラの体で。キミ、彼女を支えてあげな――」

「どきなさい……!」

「!」

 射すくめるようなその視線に、ティースは伸ばしかけた手を思わず引っ込めてしまった。

 そのままシーラは彼を押しのけるようにして歩みを進めていく。

 フラ、フラと。

 だが、その視線がベッドの上へと向けられると、口元にかすかな笑みが浮かんだ。

「よかった。まだ無事のようね……」

「おい、キミ……」

「どいて……」

 医師。そしてアーカーソン夫妻。

 誰もが驚いた様子で彼女を見ていたが、やがて、

「……待ちなさい。いったいなにをするつもりだ?」

 医師が、彼女の右手にあるものを見てそう問いかけた。

 とがめるような口調だった。

「なにを……?」

 それもそのはず。

 彼女の右手にあったのは薬包紙だ。中になにか入っていることもわかる。

「薬よ……」

 シーラは素直に――いや、取りつくろう余裕などなかったのだろう。そのまま答えて、

「マーセルに呑ませる……心臓の薬……っ!」

 言いかけた彼女の体が、突然ひざから崩れ落ちた。

「シーラッ!」

 慌てて駆け寄っていくティースだったが、シーラはすぐに立ち上がって、

「大丈夫。めまいがしただけ……」

 医師が困惑顔で言った。

「……キミ。なんだかわからないが、彼女を隣の部屋へ連れていって寝かせてあげなさい」

「え……あ」

「ダメよ……」

 ティースの肩に手をかけ、深い息を吐きながらシーラはゆっくりと立ち上がった。

「……この薬を、彼女に――」

「連れていきなさい」

 だが、医師はそう言って彼女の前に立ち塞がると、

「キミがなにをしたいのかはわからないが、無理はいけない。後で私が診てあげるから、今はおとなしく部屋で休んでいなさい」

 言葉は柔らかかったが、有無を言わせぬ口調だった。

 そしてその言葉はもっともだ。医師として、彼女が手にしている得体の知れない薬の使用など許すはずもない。

 だが、

「いいから、どいて……!」

 シーラは引き下がらなかった。

 それも当たり前だった。彼女は本気でマーセルを救おうとしていたのだ。引き下がるはずがない。

「……」

 医師はため息とともに、ティースに視線を向けた。

「キミの知り合いだろう? そんな状態で無理をしては危ない。早く連れていってあげなさい」

「――」

 ティースはためらった。

 正論である医師の言葉。常識人として従うべきは、もちろん彼の言葉だろう。客観的に見たその正当性はティースにだって理解できたし、それが当然でもあった。

 その様子を見守るアーカーソン夫妻にしても、ティースに向ける視線は同じだ。妻の方はシーラの必死な様子に戸惑いを見せていたが、夫の方は非常識な闖入者に対して明らかに不快な表情をしている。

 もしティースがこれ以上ためらえば、おそらく彼が代わりにシーラを部屋から追い出そうとするだろう。

 だが――

「ティース……!」

 そんな周りの雰囲気に気付いたのか。

 シーラは唯一、自分の味方になりうる青年に対して言葉を向けた。

「……」

 さらにためらうティース。

 そんな彼を非難するのは酷だろう。

 医師という存在は、病人に対して絶対的なものであり、たとえそれが間違いであったとしても、知識を持たない者には反論するすべがない。

 そしてこの場合、ティースにはもちろん反論するほどの知識はなく、知識を持つシーラにしても学生の身。

 長年医師を勤めてきた男と、いまだ学生である少女。そこに存在する常識の壁は、当然のごとく厚い。厚すぎる。

 信頼してないからためらったのではなく。

 信頼しているからこそためらったのだ。

 そうしてその結果――

「……みなさん」

 左腕で彼女の体を支え。

 顔を上げると同時に、ティースの視線は医師、そしてアーカーソン夫妻をまっすぐに見つめた。

「彼女の……シーラの言うとおりにしてあげてはもらえませんか?」

 その瞬間、そこにいる3人の表情を過ぎったのは、まったく同質のものだ。

 『不可解』。

 それはまるで常識外の存在に向ける視線。

 どれだけ彼女が必死でも。いくら彼が真摯に訴えたとしても、受け入れがたい。

 そこに存在する常識の壁は、あまりにも厚すぎたのだ。


 ――そして、異変は突如として訪れる。


「っ……! っっ……!」

「!?」

 それまでは比較的静かに眠っていたマーセルが苦しみ始めたのだ。

「マーセルさんっ!」

 ティースたちの前に立ち塞がっていた医師が、表情を引き締めてベッドに向かう。アーカーソン夫妻もまた、身を乗り出してベッドに視線を向けた。

「っ……はっ……はぁっ……!!」

「発作か……」

 医師の言葉は冷静だった。手元にあった塗り薬を手にする。気休めだった。もともと劇的な効果が望めるものではない。

 おそらく最期の時。

 ベッド上のマーセルの様子に、誰もがそれを予感していた。

 ――いや。

 ただひとりを除いて。

「……ティースッ!」

 ふらつく体を押して、そして全霊を込めてシーラが叫ぶように言った。

「どんな手を使ってもいい……! 彼らを……彼らを全員、ここから追い出しなさいッ!」

「えッ!?」

「聞こえないの……ッ!? ティース、急いで……ッ!!」

 彼女の顔は真っ青なまま。……いや、先ほどよりも悪くなっていたかもしれない。

「シーラ――」

「キミ、こんなときに悪ふざけは!」

 ついに堪忍袋の緒が切れたか、アーカーソン氏がシーラに向かって手を伸ばす。

「――」

 おそらく彼女の体はそれに抵抗する力を持たないだろう。

「ティース……ッ!」

 限界。

 それはもう誰の目にも明らかだ。

 だが――

「ティース、忘れたのッ! 私は……私は『そのために』ここにいるのよッ!!」

「!」

 ハッキリとした声、そして瞳の炎は、確実なる意志をそこに宿していた。

 まばゆいばかりの、強靱な意志。

「……!!」

 チカチカと。

 目の奥がフラッシュした。


『――支えてあげて。あの子の無茶を、無茶じゃなくなるように、一番近くで支えてあげればいいの』


(あぁ――)

 その勘違いは、彼の錯覚だったのか。

 あるいは、彼女自身がそうなるように仕向けたのか。

 それは、わからない。

 だが、それが単なる勘違いであったことは、今の彼女を見れば一目瞭然だった。

(……変わってなんかない。あのころと同じ……同じままなんだ――)

 気付いたのは、たったそれだけのこと。

 言動、態度がどうであれ。その根っこの部分は昔となんら変わりないという真実。

 そして、

「……」

 それだけで充分だった。彼が行動するのに、それ以上の理由はいらなかった。

 剣が鞘をこする。

 昨日の魔の襲撃以来、念のためずっと身につけていた愛剣――『細波』。


『……お守りなんて、私には必要ないわ』


 あたたかく柔らかく細めたその目には、疑うなんて言葉そのものが馬鹿らしく思えるほどの、明確な信頼の色が宿っていて――


『だって、お前がずっと私を護るのだから。そうでしょう、ティース――』


「動かないでください」

 その一瞬、その場にいるすべての人物の動きが停止した。

 誰もが、彼の行動に目を見張る。

 医師、アーカーソン夫妻。……そしてシーラでさえも。

「動かないで」

 もう一度、ティースはそう言った。

 彼が抜き放った細波の切っ先は、なにもない宙を指していた。ちょうど、医師とアーカーソン夫妻の間を裂くように。

「この剣は、善意の人に向けるものじゃない。だから、あなた方に剣を向けることはありません。……でも、動かないで。彼女の邪魔はしないでください」

「キミは……なにを――」

 気でも狂ったのかと言わんばかりの表情で、医師はティースを見た。

 もちろん、ティースがネービスから来たデビルバスターチームの一員であることは知っているだろう。だからこそ、その行動はあまりにも理解しがたいものだったのだ。

「彼女の言うとおりにしてください。……お願いします」

 剣をピクリとも動かさずに、ティースは小さく頭を下げた。

「なにがあったとしても、責任は俺が取ります。だからお願いします」

「……なにを馬鹿な!」

 それまで穏和だった医師が、その言葉に激昂して一喝する。

「人の命がかかっているときに、責任もなにもあるものか! ふざけるのもいい加減にするんだッ!!」

 その言葉には、長年、患者の生と死に関わってきた者の、強い思いが込められていた。

「……だからこそ」

 だが、ティースは決して怯まずに言い返す。

「助けたいんです。俺はマーセルさんを助けたい。その希望がここにある。俺はそう信じているんです」

 グッと足指に力が入る。

 その視線をシーラの方に向けた。

「さぁ……シーラ、急いで。薬をマーセルさんに」

「ティース……」

 さすがの彼女も、まさかティースがそこまですると思わなかったのだろう。少しの間は驚きに固まっていたが、やがてグッと唇を結び、薬を手にマーセルのもとへ歩いていく。

「動かないで」

 ティースがその場の3人を牽制する。

「……」

 さすがに刃物を出されては、誰も動けなかった。

 ただ、医師は顔を歪め、

「キミたちは……自分がなにをしているのか、わかっているのか」

 彼らをにらみ付けるようにして言った。

「これは犯罪だぞ。彼女が命を落とせば、殺人の罪を犯したも同じことだ」

「……」

 その言葉は重い。たとえマーセルが助かったとしても、あるいは罪に問われることかもしれない。

 それほど、今の彼らの行動は非常識だった。

 だが――

「構いません」

「!」

 驚愕の表情を浮かべる医師に、ティースは答えた。

「俺みたいな馬鹿にだって、なにもしなければマーセルさんが死んでしまうことぐらいわかります。だったら俺は――いえ、俺たちは小さな可能性にでも賭けたいんです。……助かると、俺はそう信じています」

「馬鹿な……」

 医師は絶句した。だが、これ以上はなにを言っても無駄と感じたのだろう。それに、どちらにしてもマーセルに施せる処置がないことも事実だった。

 その後は身動きひとつせず、シーラの行動を目で追うだけだ。

「……マーセル。聞いたとおりよ」

 ベッドまでたどり着いたシーラは、苦しむマーセルの体を軽く押さえ、そして薬包紙を開く。

 その中に入っていたのは、ややムラサキがかった粗い粉末状の薬。

 そしてシーラは強い言葉で言った。

「必ず助かるわ。……だから生きなさい。でないと、承知しないから――」






 ……ティースは薄暗い部屋の中にいた。


 重苦しい沈黙。肌に触れる空気はどこか湿っぽく、雰囲気はまるで、あのゲノールトにあった地下牢のようだ。

 そして、

「……資格を持たないものの医療行為を黙認、補助したばかりか一般人を剣で威嚇」

 沈黙を切り裂くように響いたのは、断罪するような冷たい男の声だった。

「さらに因果関係はハッキリしないものの、その行為の直後に病人が死亡、か」

「ま、待ってくれ!」

 思わず反論したティースの両手は後ろに括られていた。

「まだ死んでなんかいない! 小康状態だって医者が――」

「いいえ」

 今度は女の声だった。

「さっき死亡が確認されたそうよ。ティースくん、残念だけれど」

「そ、そんな……」

 すぐ近くから、また別の声が聞こえる。

「それは仕方ないさ、ティースくん。覚悟の上だったんだろう? ま、医者としての立場から言わせてもらえば、今回のことはなかなかに興味深い出来事だったけどね」

「……」

 ティースはガックリとうなだれた。だが、すぐにハッとした様子で顔を上げると、

「そうだ! シーラは? あいつはどこ行ったんだ!?」

「ああ、彼女なら退学になったよ」

「た、退学!? そんな!」

「ま、心配するな。あれだけの美人がどうでもいいような一般人と付き合ってるってのは、重大な社会の損失だ。俺がその補填をしてやるとしよう」

「ええ!? ま、待ってくれ! あいつにはれっきとした恋人が――」

「なんだい、ティースくん。もしかして一度キスしたぐらいで恋人気取りかい?」

「ばっ……馬鹿な! お、俺はそんな大それたこと――」

「大丈夫よ、ティースくん。シーラちゃんがいなくても、あたしが代わりに可愛がって、あ・げ・る」

「えっ!?」

 暗闇から手が伸びる。とっさに身をかわそうとしたティースだが、なぜか体が動かない。

「うわわわわっ! た、助けてくれッ! ……お助けを! か、神様ぁぁぁっ!」

 そして手のひらが頬に触れた瞬間、彼の意識は急速に暗闇の中へと落ちていったのだった。


 ……

 ……

 ……


 カーテンの隙間から射し込む強烈な日差し。

 昨日までの雨が嘘のような快晴だった。

「は、離してくれぇ……俺は女の人はダメなんだぁ……」

「……」

 ベッドの上で苦悶の表情を浮かべるティース。

 彼の特異体質を知らない人間が聞けば、なにやら勘違いをしてしまいそうな寝言であったが、そんな彼のそばにいたのは幸いにして事情を知る者だ。

「お、お願いだから手を離してくれぇ……気絶……気絶する……神様、お助けをぉ……」

 さらに寝言をつぶやきながら身をよじると、ちょうど顔面が日差しの直撃を受ける角度になった。

「ん、んん……」

 そのまぶしさに、ようやく彼の意識が覚醒を始める。

 同時に、ギシッとベッドのきしむ音。

「……あれ?」

 混濁した意識。

 まぶたの裏に入り込む強烈な光の刺激。

 鼻孔をくすぐる柔らかな香り。

「!」

 ティースは勢いよく身を起こし、自分の両手首を確認した。ぶんぶんと手を振り、窓の外に視線を向けるとホッと息を吐く。

「ゆ、夢か……ふぅぅ、ひどい夢だったなぁ」

「ずいぶんとうなされてたわね。どんな夢だったの?」

「え? ああ、聞いてくれよ」

 差し出された冷たいタオルを受け取りながら、ティースは答えた。

「我ながらホントひどい夢なんだ。たぶんレイさんとマイルズさんとアクアさん……だと思うんだけど、3人が俺を囲んでて。今回のことで俺を責めまくるんだよ」

「今回のこと? マーセルのこと?」

「ああ。夢の中じゃ助からなかったことになっててさ。それで必死に神様に助けをもとめ――って、うわぁッ!!」

 そこでようやく、その不自然な状況に気付く。

「シ、シーラお嬢様! どうしてここにッ!?」

 シーラは怪訝そうに目を細めて、

「お嬢様? ……なに? まだ夢の中?」

「え……あ」

 ティースはハッと気付いた様子で周囲をキョロキョロと見回すと、やがてごまかすように頭を掻いた。

「す、すまん。その……か、神様とごっちゃになったみたいだ」

「それは理解不能ね」

 苦笑するシーラ。

「……あ」

 てっきり怒られるか馬鹿にされると思っていたティースは、驚きながら彼女を見つめる。

 ななめ上から射し込む朝の光に照らされた彼女は、おしゃれな黒いベルベットのトップにロングスカート姿だった。

 手にしたティーカップに静かに口を付けるその様は、まるで現実感のない、絵画から飛び出した美しい令嬢のようだ。

「と、ところで……」

 思わず視線が釘付けになりそうになるのを、どうにか理性でひっぺ返して、

「こんな朝っぱらから、いったいどうしたんだ?」

 シーラは答えた。

「お前に、礼を言おうと思ってね」

「……礼?」

「ええ」

 そう言って、ゆっくりとティーカップを下ろし、小さな皿の上に乗せると、

「昨日のこと。元はと言えばすべてお前のおかげ――」

「あああ、昨日といえばッ!!」

「?」

 突然ティースはなにごとか思い出した様子で身を乗り出すと、

「お、お前、体はもう大丈夫なのか!? だ、大体なぁ! 作ったこともない薬をいきなり自分で飲んで試してみるだなんて、いくらなんでも無茶すぎるだろッ!」

「え……えぇ、そうだったかも」

 確かに彼の言うとおり、シーラは昨日、自分で作った心臓の薬を試用したために血圧が急低下してしまい、あの出来事の後ですぐに気を失ってしまったのである。

 幸い2時間ほど後には意識も回復し、見る限りは後遺症などの問題もないようだったが、それでも彼が無茶だと叫んだのはもっともだった。

 だが、それに対するシーラの態度はそっけないもので、

「結果的に無事だったのだからいいでしょう。そんなことより――」

「そ、そんなことッ!?」

 その言葉にティースは怒る――かと思いきや、情けないことに泣きそうな顔になって、

「お、お前なぁ! 俺がどれだけ心配したことか! あんな真っ青な顔で倒れちまうもんだから、も、もしかしたらお前のほうこそ、そのまま死んじまうじゃないかって――」

「……」

 それに対してシーラの口から出かかった言葉は、やがて思い直したようにため息に変わった。

 こうして興奮した彼には、ちょっとやそっとの言葉などまるで無意味だということを、彼女はよく知っているのだ。

 だから――

「そ、そりゃお前が一生懸命マーセルさんを助けようとしてたってのはわかるけど、で、でも少しは自分の体のことも考えて――」

 そんなティースの言葉をさえぎったのは、ちょっとやそっとの言葉ではなく、明確な『行動』だった。

「――へ?」

 それは2度目の邂逅だ。

 2日前と同じ香り。

 宙に小さく躍る水飴の髪。

 左頬に添えられた、白く細い指。

 そして徐々に頭の奥を焼いていく、甘美な熱。

 ただ、2日前と少しだけ違っていたのは――

「私を護って戦ってくれたナイトに、ほんのささやかなお礼よ」

「……」

 右頬に手を当て、ティースはしばらく惚けていた。

 その手の下に残っている柔らかい感触は、2日前に感じたのと同じもの。そこに残った温もりは、間違いなく目の前にいる少女のものだ。

「え……あ――」

「特別な意味も卑劣な意図もないから安心なさい。いま言ったように、単なるお礼。それとも、頬でも恋人同士じゃなければダメかしら?」

 少しからかうようなシーラのその言葉に、ティースの顔は急速に沸騰した。

「い、いや、ダメもなにも……いや、だって、その、別に命がけとかでもないし……あ、いや、俺が言いたいのはそんなことじゃなくて……え、ええっと、その――」

 どうやら頭の歯車がうまく回っていないようだ。

 その後もなにやら意味のわからないことを言いかけては思い直して止めるという作業を繰り返したが、最後にティースの口から出てきたのは――

「なんていうか……も、もったいない」

 シーラは一瞬だけきょとんとしたが、やがてその言葉の意味に気付くと、吹き出すように笑った。

「……なに言ってるの。馬鹿みたい」

 確かに。女性から祝福のキスを受けて『もったいない』などと言い出す男はそうそういるものではないだろう。

 ティースはさらに顔を真っ赤にする。

「じ、実際にそう思ったんだから仕方な――そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないか」

 そんな抗議の声にも、シーラはおかしそうにクスクスと笑いながら、ゆっくりとテーブルに肘をついた。

「そんなにもったいないと思うのなら――」

「え?」

 そんな彼女から向けられた悪戯っぽい視線は、いつもの凛としたものではなく、

「いっそ、私を恋人にしてみたらどう? そうすれば、もったいないなんて感じるヒマもなくなるんじゃない?」

「ばっ……!」

 ティースの心臓は一瞬だけ跳ね上がった。

「じょ、冗談はやめてくれよ! そんなことあるわけないじゃないか!」

「でしょうね」

 彼女の悪戯っぽい表情はすぐに消えてしまったが、口元には柔らかい笑みが浮かんだままだった。

「知ってたわ、ずっと前から。そんなお前だからこそ、恋人でもないのに2年間も一緒に暮らしてこられたのよ」

「……」

 その言葉にティースは少し驚いた顔をした後、以前マイルズに言われた言葉を思い出していた。

(……やっぱ信頼されてたんだ)

 ホッと胸をなで下ろした。

 そしておそらくその信頼は、やはりマイルズが言ったように今もそれほど色褪せていないのだろう。

 そのことが急に誇らしく思えてきて、ティースはコホンと咳払いすると、

「当たり前だろ。俺はお前の保護者なんだから。お前の望みは出来るだけ叶えてやりたいと思うし、お前が望まないことはしようと思わないよ」

「……」

 その言葉に、シーラの微笑みはほんの少しだけ表情を変えたが、ティースはそのことには気づかなかったようだ。

「……感謝してるわ」

 シーラはそう言った。

「え?」

「すべて私のワガママだもの。私の勝手な事情でお前を傷付けて、利用しているだけ。だから――」

 少し、視線が流れた。

「嫌になったら、やめればいいだけのことよ」

「あ、お、おい」

 彼女が立ち上がるのに合わせて、やはりどこか心地よい香りが漂った。

「私はお前が思っているよりずっと自分勝手で悪い人間だわ。その証拠に、ほら。お前がこうしていくら頑張っても、見返りなんてほとんどないに等しいじゃない」

 そんなシーラの言葉に、ティースはきょとんとした顔をして、

「見返りってなんだ? っていうか、それとお前が自分勝手だってこととどう関係あるんだ?」

「……」

 振り返って眉をひそめるシーラ。これにはさすがに呆れたようだ。

 ただ実際のところ、ティースは自分のやっていることがたいしたことだとはこれっぽっちも感じていないのである。

 もちろんそこには彼なりの考えがあって、彼なりの理由もあるのだが、それを知らない人間には理解できなくとも仕方あるまい。

 そしてティースは屈託のない笑顔を浮かべると、

「それに俺、お前のワガママだったらぜんぜん嫌じゃないし、頼られるのは逆に嬉しいから、どんどんワガママを言って欲しいって気もするよ」

 気楽に言ったつもりだったが、シーラは困ったような顔をした。

「……お前がそんなだから。私は」

 ポツリとつぶやき、そして深いため息。

「馬鹿は死ななければ治らないと言うけど、どうやら本当のようね」

「馬鹿って……いやそりゃ、確かに頭は良くないけど、そんなストレートな……」

「じゃあ強調でもしてみる? 史上最大、救いようがない、唯一無二の――」

 小さく息を吸って、

「馬鹿」

「……」

 これにはティースも返す言葉が出ず、ため息とともに肩を落とした。

(ああ……ちょっといい雰囲気になったと思ったのに、結局これか……)

 いや、しかしそれは鈍感な彼が気付いていなかっただけのことだろう。今回の出来事は彼らの関係に確実な変化をもたらしており、それは第三者が見ても思わず首を傾げてしまうほどに顕著だ。

 彼がその変化に気付くのも、そう遠い未来のことではない。

 ただ、それが彼にとって手放しで喜べるものかどうかといえば、断言することに多少のためらいはあるのだが――






 時と場所は移り、その日の夕方、ミューティレイクの屋敷には1台の馬車が到着していた。

「……」

 音もなく馬車から降り立ったのは、長い銀髪と蒼い瞳の美青年。細身の体に季節外れな厚着、ハートマークのついたセーターは本来笑いを誘う格好であるが、実際のところそんな彼を笑う者はいない。

 と、いうより――近付こうとする者がいないのだ。

 このアルファという人物は、この変わり種ぞろいのミューティレイクにあってもさらに飛び抜けて異質だった。そんな彼にあえて近付こうとする者はほんのひと握り。

 さて。

 そんなひと握りの中に、ミリセント=ローヴァーズという使用人がいる。

「お帰りなさいませ、アルファ様」

 馬車を降りたところに直立不動で待機していたその女性は、前髪をやや横に流したショートカットで眼鏡を掛けており、見た目はいかにも生真面目な印象だ。

 22歳の若さで『侍女長』の肩書きを持つ彼女は、当主であるファナ=ミューティレイクの信頼厚き側近であり、執事であるアオイやリディアとは違った面でファナをサポートをする重要人物だった。

 そして彼女は、めったに別館に姿を見せないアルファへの連絡係としての任務も持っていたのである。

「ご苦労様でした」

「別に苦労はしなかった」

 玄関に出迎えたミリセントに対し、そっけなくそう答えるアルファ。

 まるで会話をすること自体に興味がないかのように。

「そうでしたか」

 だが、ミリセントもそんな彼の反応に慣れている。事務的にそう答え、用件だけを伝えた。

「別館でセシリア様がお待ちです」

「セシリアが? そうか」

 特になんの感慨もなさそうにうなずいて、アルファは別館の方へと歩みを進めていった。

 足音もなく、その背中が遠ざかっていく。

「……ふぅ」

 見送ったミリセントの口から小さなため息がこぼれた。

 と、同時に。

「お、聞きました。今のため息、しかと聞き届けましたよ、ミリィさん」

「……」

 無言で振り返ったミリセントの視界に現れたのは、やや調子の軽そうな10代後半の青年だ。

 着ているものはやはりミューティレイクの使用人服だったが、白を基調にしたやや特殊なデザインは、彼が厨房で働くコックであることを示している。

「さすがのミリィさんも、あの人は苦手ですか」

 青年は笑顔のままミリセントに近付いてくると、アルファが去った別館の方角を見つめて、

「しっかし相変わらず気難しい人みたいですね。妹の方はいつも俺のお菓子をうまそうに食べてくれて可愛いんだけどなぁ」

 ミリセントは答えた。

「別に気難しくても問題ありません。口ばかり達者なお調子者よりは、よほどお嬢様のお役に立ちますから」

「はは、ま、そりゃそうですね」

「……」

「え、なんですか、その目……って、え? 口ばっか達者なお調子者って、もしかして俺のこと!?」

 ミリセントはそんな彼を横目で見て、

「他にいないでしょ。せっかくの機会ですから忠告しておきますが、あまり調子に乗って遊んでばかりいるとそのうちクビになりますよ、シュー=タルト」

「またまたぁ。ミリィさんも冗談がうまいんだから」

 青年――シュー=タルトというお菓子みたいな名前の菓子職人は、手をヒラヒラさせながら笑った。

「俺がいなくなった屋敷を想像してみてくださいって。あまりの淋しさにみんな泣き出すに決まってますから」

 そんな彼に対し、ミリセントは右手を手刀の形にして、真面目な顔のまま答えた。

「ひと太刀で頭を飛ばしてあげるから安心して」

「……『クビになる』って、そっちの意味ッ!?」

「ま、冗談はともかく」

「ブラックすぎますよ、ミリィさん……」

 ミリセントはアルファが消えていった別館の入り口へもう一度視線を移動させて、

「私は構わないと思うのだけど、中にはいるのよね。彼をどうにか周りに馴染ませたいと思う方々が」

「そうですねえ。俺もどうにかミリィさんともう少し馴染みたいなぁ、なんて」

「……」

「完全シカトっすか……」


 ――と。


 そんな会話が後方で繰り広げられているとも知らずに、アルファは屋敷の別館へ足を踏み入れていた。

 そして彼がドアを開くと同時に、

「あっ」

 幼さを残した少女の声が、広い玄関ホールの中に響き渡る。

「おかえりなさい、お兄ちゃん!」

 栗色のセミロングが揺れた。

 同時に彼へと向けられたのは屈託のない笑顔。……彼に向けられる感情としては、もっとも違和感を覚えるであろうもの。

 あまりにも純粋な、親愛の情。

 ただ、

「セシリア」

 残念ながら、アルファから彼女に向けられたのは、先ほどミリセントに向けたものと大差ない、そっけないものだった。

「ミリセントから聞いた。私になにか用なのか?」

「30点!」

「……?」

 白く冷たく美しく整ったその顔に、若干の困惑の色が差す。

 それに対するセシルは、いつものように人差し指をピッと立て、まるで生徒に言い聞かせるような口調で続けた。

「おにーちゃん。そういうときは、ただいまー、わざわざ待っててくれてありがとー、って言わなきゃダメなのです。……はい」

「……?」

「待っててくれてありがとー。……はい」

「……」

 困惑が色を増す。

 ……無感動で孤独を好む兄と。屋敷の人々に可愛がられ、人と関わることを喜ぶ妹。

 おそらく、この屋敷内においてもっとも奇妙なカップリング。

 それがこのアルファとセシルだった。

「あ、それとね。今日は学園で――あ、座って座って」

「……」

 そして2人のかみ合わないやり取りは、屋敷の人々の好奇の視線を浴びながら、それからもしばらくの間続いたのであった――。


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