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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第6話『ペルソナ・プリンセス』
45/132

その4『ファースト・キスは罪の味』


 まだ昼すぎだというのに、ティースの部屋は薄暗かった。

 もちろん雰囲気の話ではない。いまだに弱まることを知らない雨のせいだ。

 ティースはベッドに腰掛け、その正面のソファには普段着のマーセルが座っていた。彼女がバスローブから普段着に着替えるまでの間にはまたひと悶着あったのだが、それはここでは割愛することにしよう。

「……なんてことがあったんです。だからひとくちにデビルバスターって言っても、ホントに色々な人がいて」

 意外と言うか、あるいは当然と言うべきか。

 ティースがいくつかの体験談を話して聞かせる間、マーセルは一度たりとも彼に迫ったりすることはなく、好奇心に目を輝かせ、じっとその話に聴き入っていた。

 そして話し終えた彼を、憧れの視線で見つめるのだ。

「……うらやましい。私も男で、もっと体が丈夫だったら、あなたみたいなデビルバスターになりたかったわ」

「ははは。前も言いましたけど、俺、まだデビルバスターじゃないですからね」

 ひと息ついたところでティースは窓の外に目を向けた。

 先ほども言ったように雨は降り続いており、ときおり雷鳴も聞こえてくる。

(……ふぅ)

 どんどん暗くなっていく空模様は、今のティースの心そのもののようだった。

 少し視線を動かして部屋の壁を見つめる。

 その先にあるはずの隣室――シーラの部屋からは物音がまったく聞こえてこない。

(温泉にでも行ってるのかな……)

 再び、雷鳴。

「あら……今の、近かったわね」

 マーセルが窓の外を見つめながらそう言った。

「……ええ」

「この雨だとさすがに露天には入れないわ。屋根の下も悪くはないんだけど、やっぱり自然が見渡せる露天の方が開放感があっていいわよねぇ」

「……そうですね」

「今度、一緒に入る?」

「ええ、そう……――って、お断りしますッ!」

「つまんないわねぇ」

 マーセルはクスクスと笑って、

「うわの空でも、そういうのはちゃんと拒否しちゃうのね」

「そりゃあ……え?」

 ティースが少し驚いた顔をすると、

「う・わ・の・そ・ら。……ここに戻ってからずっとよ。私の相手をするのは退屈?」

「す、すみません。そんなことはないんですけど」

 気づかれないようにとティースは気を付けていたつもりだったのだが、どうやらしっかり見抜かれていたらしい。

(年の功、かなぁ……)

「なんかいま、失礼なこと考えなかった?」

「えっ……そ、そんなことないですよ!!」

 つくづく嘘の苦手な男であった。

 だが、マーセルは特に気分を害した様子もなく、

「あのシーラって子が、そんなに気になるんだ?」

「え、いや……」

 そのときちょうど、廊下を戻ってくる足音が聞こえた。

 もしかするとシーラかもしれない。

(やっぱ温泉に行ってたのかな……)

 ピタリ、と、その足音が部屋の前で止まる。

 ティースは一瞬ドキッとしたが、足音はすぐに通り過ぎ、やがて隣室のドアの閉まる音が聞こえてきた。

「……ふぅ」

 ホッ、と胸をなで下ろす。

「……」

 そんなティースの動きをマーセルはしばらく無言で見つめていた。だが、やがてなにごとか思いついた顔で、悪戯っぽい笑みを浮かべると、

「もし私が大声で悲鳴を上げたりしたら、あの子どんな顔をするのかしら」

「えっ!?」

 ティースはベッドから腰を浮かせて、

「やっ、やめてくださいよ、ホントにッ!」

「やめてほしい? じゃあキスしてくれたら、やめてあげよっか?」

「マーセルさんッ!」

「あはは、冗談冗談」

「シャ、シャレになってません……」

 疲れた顔で肩を落とすティース。

「ふふ、そうね。でも、私の言った通りだったでしょ? あの子、きっとものすごくワガママな性格だって」

「う……」

 確かにあんな場面を見せてしまった後だと、反論するのはなかなか難しかった。マーセルのその評価が正しいと思っていたわけではないが、いつもの彼女はそうじゃないんだと言ったところでどうにもならない。

「でもあいつ、いいところもたくさんあるんですよ」

「ふぅん、たとえば?」

「たとえば――」

 考える。

 いいところ。彼女のいいところ。

 ……だが。

「思い浮かばない、と」

「ちっ、違います! ちょっと今はたまたま――」

 実際、思い浮かばなかったわけではない。ただ、そのほとんどが少し昔のものばかりで、今の彼女に当てはまるものかどうか自信が持てなかったのである。

 そんな焦るティースに、マーセルは小さく首を傾けて、

「可愛いところ、とか?」

「そ、そんな見た目の話じゃなくて!」

「ええ、違うわ。見た目の話じゃない」

「え?」

 意表を突かれた顔のティース。

 マーセルは手を組み、なにやら意味ありげに微笑んで、

「ワガママにも色々あるってことよ。世の中、従順なお人形さんばかりが可愛いわけじゃないでしょう?」

「はぁ」

 ティースにはいまいちよくわからず、

「えっと……つまり、あいつのワガママが可愛いってことですか?」

「ぜんっぜん。ナマイキすぎて腹立つ」

「?」

 さらに混乱。

「でも、ほら。それは立場にもよるでしょう?」

「はぁ」

 やはり理解できなかった。

 マーセルはそんな彼の反応をいちいちおもしろそうに見つめている。

 そして、ふと。

「ねぇ、ティースくん」

 その声が厚みを増した。

「はい?」

「ひとつ確認させてもらってもいい? 一応ね」

 明らかな雰囲気の変化。

 だが、ティースは気付かず普通に聞き返す。

「なんですか?」

 マーセルは組んでいた足を下ろして揃え、穏やかに彼を見つめた。

「私、こう見えて――というか、たぶん見た目通り、結構遊んでる方よ。実家は田舎だけどそれなりに金持ちだったから、あたしひとりを遊ばせておくぐらいの余裕はあってね。付き合った男も手の指じゃ数えられない。同時に4人の男と交際してた、なんてこともあったわ」

「……」

 言葉通り、意外だとは思わなかった。

 ティースをからかったり誘惑したりする態度は余裕にあふれていて、それなりの恋愛経験を積んでいることはさすがの彼でも想像できたのだ。

「でもね」

 だが、マーセルの顔は少しだけ自嘲的に歪んだ。

「こんな体になってここで療養するようになってから、今までちやほやしてくれた男どもは、誰ひとりとして顔を見せなくなったわ。まぁ、私も期待してたわけじゃないけど」

「……」

 その話は、マーセルの身の上を多少聞かされていたティースには理解できた。

 なにも彼女が被害者だという話ではない。たとえば彼女が逆の立場だったなら、やはり付き合っていた男たちの見舞いになど行かなかったのだろう。

「それで気付いたわけ。……あぁ、私、せっかく健康で若かったあの日々を、なんてつまらないことで浪費してたんだろうって」

「……マーセルさんはまだ若いし、これからがあるじゃないですか」

「ふふ、ありがと」

 マーセルは素直に嬉しそうな顔をして、

「初めて会ったときも、確かそう言ってくれたわね。私、あなたのその言葉が本当に嬉しかったの。……ねぇ、ティースくん。私が言いたかったのは――」

 言葉を切って、まっすぐにティースを見つめる。

 その一瞬だけは、冗談もからかいもなく。

「そのこれからを、あなたと一緒に歩かせてもらえませんか、ってこと」

「え……」

「からかってないし、冗談でもないのよ」

 先回りしてマーセルはそう言った。

 それから小さく首を振って、

「いいえ、最初から冗談なんかじゃなかった。今朝だって、さっきだって、本当にあなたとキスができれば素敵だなって、そう思ってたのよ。我ながら乙女チックなのが照れくさくて、冗談みたいになっちゃったけど」

「え……ぇ……え?」

 思考停止。

 その言葉を吸収するのに数秒、意味の解析に数秒、その後、返す言葉を探すためにまた数秒。

 ティースがマーセルに言葉を返したのは、たっぷり20秒ほど後のことだった。

「あ、あの。でも俺、こんな体質ですし……その」

 しかもその口から出たのは、あまり気が利いてるとは言えない返事だ。

 ただ、マーセルの方もそんなことは最初から期待していなかったようで、

「いいのよ、そういうのは。とりあえずね。そりゃ、あなたに抱き締められたらきっと幸せだと思うけど、でも、そうでなくてもいいし、長く一緒にいれば解決できるのかもしれないし」

「……」

 カァッと、顔が熱くなる。

 どうやら彼女は本当に本気のようで、さすがのティースもそのことに気づいていた。

「え、えっと、その……」

 あまりのことにどうすればいいのかわからず、適当なことを口走ってしまいそうになったが、それをなんとか我慢し、ゆっくりと呼吸を整えた。

 真剣な想いには、きちんとした言葉で答えなければならないと、そう思ったのだ。

 ゆっくりと深呼吸を繰り返し、目を閉じる。

 少しずつ心臓の鼓動が収まって、頭の熱が引いていく。

 そんな『準備運動』の彼を、マーセルは黙ってじっと見つめていた。

 1分、いや2分以上は経っただろうか。

 ようやく、ティースは口を開いた。

「すみません。俺、それには応えられないです」

「……」

 マーセルは特に落胆した様子もなく。ただ、彼が最初の言葉を発したその瞬間だけ、長いまばたきをした。

 ティースは正直な気持ちを言葉に乗せていく。

「その……マーセルさんみたいな人にそう言ってもらえるのは、本当に嬉しいです。でも俺、今は他に考えなきゃならないことがたくさんあって、それに――」

 目を閉じてさらにひと呼吸。

 ゆっくり目を開け、まっすぐに見つめて言った。

「マーセルさんのことを一番に考えられる自信はないです。だから……すみません」

「……」

 外の雨は少しずつではあるが、弱まっているようだった。雷鳴もここ数分はその鳴りを潜めている。

 静かだ。

 隣の部屋で動く人の気配が感じ取れてしまいそうなほどに。

 やがて――

「わかった」

 マーセルは少し乗り出していた体をゆっくりと引き、ソファに背中を預けた。

「というか、会ってまだ何日かしか経ってないし、当たり前といえば当たり前よね」

 そう言ってから、マーセルは少し考えると、

「別に、今すぐ私のことを一番に考えてくれる必要はないんだけど……と言ったら、やっぱり困っちゃう?」

「……困ります。俺、そんなに器用な人間じゃないんで」

「そっか。それなら仕方ないわね」

 すっきりした様子だった。

 本人が言うように、この結果は予測していたのだろう。

「それじゃこの話はこれでおしまい。また色々な話、聞かせてくれる?」

「ええ、それはもちろん」

 ホッと息を吐く。

 そして同時に、ほんの少しの不安が胸を過ぎった。

(……こんな返事で、良かったのかな)

 余計なことまで言ってしまった気もしたし、もっと気の利いた言葉があったような気もした。ただ、それらはすべて済んでしまったことで、考えても仕方のないことだ。

 なにより目の前のマーセルの表情を見れば、それが少なくとも間違った言葉でなかったことは明らかで。

「なんだかホッとした顔ね?」

「あ……その、俺、こういうの慣れてないもので」

「そう。意外ね」

 だが、そう言った直後、マーセルの表情はなぜか悪戯っぽい笑みに変わった。

「でも、安心するのは、もしかしたらまだちょっと早いかもしれないわよ?」

「え?」

 ティースが怪訝な顔をしたそのとき、隣室のドアの開く音が聞こえた。

 一瞬の沈黙の後、ノックの音。

「え? あっ……」

 もちろんその主が誰であるかは明らかだった。

「ど、どうぞっ!」

 思わず腰が浮き、声がうわずる。

 ……それはティースにとっては予期せぬ事態だった。先ほどのシーラの剣幕から、任務を終えて帰る日ぐらいまでは顔を合わせてくれないんじゃないかと、そう考えていたからだ。

 しかしノックの音は比較的冷静。

 カチャ――

「……」

 ゴクリ、と、のどが鳴った。心臓の鼓動音が再び高まっていく。

 マーセルの告白といい、今日はティースにとって不測の事態の連発だった。

(お、落ち着け……わざわざ向こうから来てくれたんだ。誤解を解くチャンスじゃないか! ……あああ、でも、もし絶縁状を叩きつけに来たんだったらどうしよう! いや、それどころか訪ねてくるフリをして空気扱いされたり、もしかしたらベッドに葬式用の花とか置かれるのかも!)

 そんなことは絶対にありえないのだが、とにかくなかなか見事な混乱っぷりである。

(ぁぁぁ、そんなひどい扱いされたら、しばらく立ち直れないかも……)

「ティース」

「?」

 聞こえた声は、やはり冷静だった。

 しかも――ドアの向こうから現れた彼女の姿に、ティースは一瞬だけ意識を奪われる。

「……シーラ?」

 やや複雑な金糸の刺繍が入った黒いベルベットのトップにロングスカート。先ほどまでの普段着とは明らかに違う出で立ちで、ドレスとまでは呼べなくとも、彼女の普段着の中では飛び抜けておしゃれな、いわゆるよそ行きの服だった。

「あ、えっと……」

 別に彼女のその格好を見るのが初めてなわけではない。だが、普段目にするのと、こうして見慣れぬ土地で目にするのとでは、印象がまるで違って見えていた。

 ティースはベッドから腰を浮かせながら、

「ど、どうしたんだ? 急にそんな……どこかにでかけるのか?」

 ピントのずれた問いかけに、シーラは一瞬だけマーセルのほうを見たが、すぐにその視線をもとに戻した。

 そして、

「さっきは悪かったわ」

「え?」

「ごめんなさい。どうかしてた」

 ティースの思考は再び停止する。

「え、えっと……シーラ?」

 急な態度の変化に、ティースの戸惑いはまったく消えなかったが、

「……そ、そっか。わかってもらえてよかったよ」

 ひとまず仲直りはしてくれそうだ――と、ホッと胸をなでおろす。

 ……もしもティースがもう少し疑り深い性格であれば、そのシーラの台詞がまったくの棒読みだったことに気付けていただろう。

 つまり、不自然だったのだ。

 だが、ティースはそれに気付くことなく、安堵の笑顔を浮かべながら、

「俺の方こそ、きちんと説明できなくてゴメン。俺、そういうのあんまり得意じゃなくて、それでいっつもお前を怒らせたり……」

「……」

 ティースの言葉を聞きながらゆっくりと部屋に入ったシーラは、無造作にそんな彼の元へと近付いていった。

「でも、良かったよ。もしかしたらもう口も利いてくれないんじゃないかと不安で――……シーラ?」

 そんなティースがようやく異変に気付いたのは、彼女が目の前までやってきてからのことである。

 相変わらずの冷静な表情。

 ――冷静? いや違う。そう思っていたのは彼だけだ。

「……」

 小さく息を吸う音。

 ……冷静だから静かだったわけではなく、おそらくは緊張で堅くなっていたのだ。

 ティースはその違いを見抜けなかった。


 そして次の瞬間――


「!??」

 世界が、真っ白になった。

 ……いいや、世界はいつも通りだ。外の雨は弱まりつつあり、時計はいつも通りに時を刻み続け、隣の隣の部屋ではアルファが相変わらず、じっとしたままどこか1点を見つめているのだろう。

 真っ白になったのは、ただひとり、この部屋にいるティーサイト=アマルナという男の頭の中だけだ。

 いや、正確に言えばもうひとり、それに近い状態になっている者もいたのだが――それはともかく。

 なにが起きたのか。

 一体どうなったのか。

 ティースの頭はそれを容易には理解しなかった。

 ただ感じたのは、口の中のかすかな痛み。脳天にまで響いてそうなそのズキズキというかすかな痛み。

 なんの香りだろうか、とにかく心地よい、それだけで胸がドキドキしそうな甘い香り。

 そして。

 そしてくちびるに感じる、柔らかく温かな感触――

「――」

 動けない。

 手が添えられているのは、左の頬だけだった。そこに細く美しい指がそっと添えられている。体はどこも押さえつけられていない。なのに、体が固まって動けなかった。

 息もできない。

 少しずつ白以外の色を取り戻し始めた視界の中で、透き通るような水飴の髪が揺れているのがわかった。乱れた幾筋かの金糸が、首をかすかにくすぐる。

 心臓の鼓動は、まるで自らを追いつめる足音のようにゆっくりと、だが確実に強くなっていった。

「――」

 最初の衝撃からようやく感覚を取り戻した頭は、次に、温泉に長く浸かったよりも強烈な熱と、麻薬のように甘美な快楽に侵され始める。

 あと10秒もそうしていれば、彼の頭は確実にのぼせ上がっていただろう。

 ……実際にそうしていたのは、ほんの数秒だった。慣れた者にしてみれば、ほんの軽い、挨拶がわり程度のものだったかもしれない。

 ただ、ティースにとってそれは、とてつもなく長い、現実とは思えない世界の出来事に思えていた。

 そして、

「っ……っ……」

 目の前にあったものが、ゆっくりと離れていく。かすかな吐息が、すぐ近くに聞こえた。

 甘い吐息。

「――」

 思わずわき上がった衝動。

 離れていくそれを引き留めようと、手が伸びる。

 ――いや。

「……――は?」

 それは寸前で止まった。

 あまりにも遅すぎる『認識』によって。

「あ、あれ? ……シーラ? 俺――」

 美しい少女の顔がすぐ近くにある。それはいつものクールで冷たいものではなく、これまでに見たことのない、まるで熱病におかされたかのような表情だった。

 現実味のない光景。

(ぁ……)

 鼻孔をくすぐる残り香。

 そして、くちびるに残った感触――

「……!?」

 ティースはハッと口を押さえる。

 感触が残っていた。

「!?」

 目を見開いて、眼前の熱っぽい表情の少女を見つめる。

 少女――それはまぎれもない、彼の良く知る少女だ。

 状況と記憶。

 それらが彼の頭の中で少しずつ手をつなぎ始め、そしてたったいま起こった出来事の輪郭を明確にしていく。

「……!!?」

 理解した瞬間、2度目の衝撃がティースを襲った。

「なっ、なななななっ!!!」

「……」

 すぅっ、と、息を吸う音。左頬に添えられていた手が離れていくと同時に体の呪縛が解け、浮き上がったまま固まっていたティースの腰はストンとベッドの上に落ちた。

 困惑の顔で見上げると、シーラは彼と目を合わせようとはせず、すぐに視線を外して後ろを振り返った。

「……」

 その状況を黙って見つめていたマーセルも、しばしの間、驚きの表情を崩さなかったが、やがて我に返った様子で目を細め――そして無言のままソファを立つ。

 ……パタン、とドアが閉まった。

 部屋がしんと静まり返る。

 雨音がほんの一瞬だけ強さを増したような気がした。

「……」

 小さく、深く息を吐く音。

 それはティースではなく、シーラのものだ。……なにより今の彼には、そんなに落ち着いて深呼吸するほどの余裕もなかったのである。

 口を押さえたまま真っ赤になっていた顔が、急激に青ざめていく。

「な、ななななな……あああ、お、おまえっ……」

「落ち着きなさい、ティース」

 シーラは対照的に落ち着いた口調で、背中を見せたままゆっくりと窓際まで歩いていく。

「別にたいしたことではないわ」

「だ、だだだって、おまえ……い、いいいいま……」

 呂律がうまく回っていない。頭は完全にオーバーヒートしてしまっていた。

 そんなティースに、シーラは窓の外を見つめたままでそっけなく言い放つ。

「いいじゃないの、キスくらい。別に初めてのことでもないでしょう?」

「……」

 沈黙に、シーラは少しためらった様子で、

「もしかして……初めて?」

「……」

 黙ってコクコクとうなずくティース。

「そ、そう……」

 その口調には少しの動揺が見えた。

 視線はかたくなに窓の外を見つめたままで、ティースのほうを振り返ろうとはしない。

「それは……その、少し悪かったわ。……そうね。お前、そんな体だものね」

「そ、それより……お、お前……」

 言いかけて、思い出したように深呼吸。

 1回、2回、3回。

 そこまでやって、ティースはようやくまともな言葉を取り戻した。

「俺のことは、どうでも……そ、それより、お前。いったいなにを考えて――」

「私はいいのよ。慣れてるもの」

 シーラはそっけなくそう言った。

「な、慣れ……?」

「なに? なにか不思議?」

「いや……」

 確かに、普段の彼女の言動からすれば、そうであったとしてもおかしいことはなかったが――

「だから、お前もなにも気にしなくていいわ。別にいいじゃない。初めてならなおさら、貴重な体験ができたとでも思えば――」

 そこでシーラは初めて、ティースのほうを振り返った。

 そして、彼がずっと手で口を押さえたままであることに気づくと、その美しい形の眉をひそめる。

「……そんなに嫌だったの? それなら、すぐに口でも洗ってくればいいじゃない」

「え……い、いや、そういうことじゃ――」

「だったら、なに?」

 シーラの口調は明らかに不満げだった。……いや、彼女でなくとも、確かにそのときのティースの態度は、女性のプライドを傷付けるものだったかもしれない。

 だが、しかし。

 もちろん彼が口を押さえていたのは、決してそんな理由からではなく――

「く、口の中……歯がぶつかったところが、痛くて……」

「……」

 ハッとした様子で、シーラもまた自分の口を軽く押さえた。彼女の口の中にも、やはり同じ痛みが残っていたのだ。

 そしてシーラは気まずそうにしながら、視線を再び窓の外へと移した。

「……仕方ないでしょ。そういうものなのだから」

「そ、そういうものなのか……」

 とりあえず納得するティース。いや、納得したというより、それ以上追求する余裕がなかったというのが正解か。

「そ、それより」

 と、話題を戻す。

 心臓の音はようやく収まりつつあったものの、顔を上げて目の前の少女を見ると再び熱がよみがえってきた。

 そこでティースは視線を外し、あらぬ方向を見ながら、

「ま、まじめに答えてくれよ。今のは、いったいどういうつもりだったんだ……?」

「どういうつもり? 決まってるじゃない」

 一方のシーラは事もなげに答えた。

「あの女を、お前から引き離すためよ」

「え? ……あ、あれ?」

 そこで初めてティースは、マーセルが部屋を出ていったことに気付いたようだった。

 シーラは彼女が出ていったドアへ視線を移動させながら、

「あの女はお前には決して触れられない。だったら、こうすればきっとショックを受けると思ったのよ」

「え……?」

 その言葉にティースは驚いてシーラに視線を戻した。

 それから言葉の意味を理解すると、ゆっくりと目を見開いていく。

 ――頭の中に掛かっていたモヤが一気に晴れた。

「……」

 そして。ドクン、と。

 心臓が今までとは違う意味の鼓動を打つ。

 だが、そんな彼の変化には気付かずシーラは続けた。

「ホント迷惑な話だわ。お前がもっとしっかりしていれば、私がこんなことをする必要はなかったのに。でも、これでお前もリィナに――」

「お前……」

「?」

 ピタッと、シーラの言葉が止まった。と同時に、怪訝そうな視線がティースを振り返る。

 そして、

「お前、そんなこと――」

「え?」

 それを見たシーラの表情が凍り付いた。

 のどを絞るようなティースの声は、それだけで怒鳴り出すのを必死にこらえていたことがわかる。

 声は震え、押さえきれない怒りは表情にも浮かんでいた。

「そんなことのために……?」

「え……?」

 そのとき彼が見せたような怒りは、これまで一度たりとも、彼女に対して向けられたことはなかったかもしれない。

 だから動揺した。

 彼女らしくもなく、それを隠す余裕すらもなく。

「マーセルさんは……」

 それでもまだ、ティースは我慢しているようだった。

「あの人は真剣に俺のこと好きだって、そう言ってくれたんだ。なのに……」

 シーラは目を見開いたまま。

「……ぁ」

 そして我に返ったような顔をすると、そこから血の気が引いていく。

「あっ、ティース。私――」

「っ……」

 ティースは苦しそうな表情で唇を噛み、ベッドから立ち上がった。そのままドアへ向かって歩き出すと、その手前でピタッと足を止め、視線を床に落とす。

「……慣れてるからとか、なんとも思ってないとか……それなら、それはそれでいいよ。俺はお前と違ってそんな風に思えないけど、男だからさ……でも」

 彼自身、まだ気持ちの整理がついていないような、そんな複雑な表情で続けた。

「誰かの真剣な想いを、そんな軽い気持ちで、そんな卑劣な方法で踏みにじろうとするのは……それは、絶対にしちゃいけないことだ。いくらお前でも、それがたとえリィナのためだったとしても」

「……!」

 ハッとした様子でシーラは反論した。

「違う! 軽い気持ちなんかじゃなくて、私はただ――」

 言いかけて、思い直したように止まる。

 その後に出たのは、明らかに力無い言葉だった。

「……ただ私は、あの子の――」

「リィナは、絶対にそんなこと望んだりしない」

 ティースは力無く首を振って、

「……ごめん。俺しばらくお前の顔、まともに見られそうにないから」

「え……待って! 待ちなさい! ……ティース!!」

 だが、ドアを開いたティースの足が止まることはなく――。


 ――パタン。


「ぁ――」

 思わず手を伸ばす。

 だが、それはあまりに遅すぎた。

「……」

 遠ざかっていく足音。

 窓を叩く雨の音。

 静けさに包まれる部屋。

 そして――口の中に残ったかすかな痛み。

「っ……」

 目を伏せて服のすそをグッとつかむ。ベルベットの生地に大きな皺が出来たが、そんなことを気にする余裕もなかった。

(なんで……あんなこと――)

 ズキズキと痛む。

 たぶん、理由はわかっていた。

 普通に考えていれば、やる前からすべて予測できたはずのことだった。しかし今日の彼女は普通ではなかった。ただ、それだけのことだ。

 視線が流れる。

(……どうしようもない、馬鹿)

 窓にうっすら映った頬の上を、雨が流れた。

(馬鹿みたい……最低ね、私……)

 激しい後悔と、そして自己嫌悪に包まれながら――。




 ――そして一方。

 勢いよく部屋を出ていったティースの方はというと――


(……あっ、あああああ、どっ、どうしよう! あ、あんなことまで言うつもりじゃなかったのにぃぃっ!!)

 あれだけのタンカを切ったにも関わらず、廊下に出て少しすると我に返り、すぐさま後悔に頭を抱えていた。

 ……こういう男なのである。少なくとも、あのシーラという少女に対しては。

(あああ、終わった。完全に終わった。……馬鹿! 馬鹿野郎! もっと他にいくらでも言い様はあったのに! そういうやり方は良くないぞって、もっときちんと諭してやっていれば――)

 もちろんティースは、自分の言い分が間違っていたとは思っていない。彼女のやり方に怒りを感じたことも確かだ。

 だが、当然のことながら彼女と絶交だとか、しばらくは距離を置くとか、そんなことを本気で考えていたわけでもなかった。

(本当にもう顔を合わせてくれなくなったらどうすりゃいいんだ……言い過ぎたって今すぐ謝りに行けばまだ――で、でもあそこまで言っちゃったら戻るに戻れないし……はぁぁ、なんであんなことまで言っちゃったんだぁぁぁ……)

 ガックリと肩を落とす。

 だが、あのときは熱くなっていて、勢いのままに言葉を口にしてしまったのだ。

 正常な思考を失っていた。

 ……怒りのせい? それはもちろんある。

 だが、実をいうと、彼が正常な思考を失っていた一番の原因は怒りではなかった。

「……」

 無意識に右手が口元に触れると、途端にカァッと顔中が熱くなる。

(だ、だって、俺――)

 鼻孔をくすぐった香り。

 すぐ近くに感じた体温。

 柔らかな感触。

 そのすべてがいまだ鮮明に残っていた。

(そりゃ、あいつは慣れてて平気なのかもしんないけど! 俺なんて初めてで、なにがなんだか……!)

 思い出すだけで、心臓の鼓動が異常な速さになる。

 ぶつかった前歯はまだかすかに痛んだが、正直なところ、あのときは痛みなどまったく気にしていなかった。

(あ、あんな――うぅ)

 のぼせて、壁に手をつく。

(せ、背中に電気みたいのが走って……まるで夢の中にいるみたいにフワフワして……あ、あいつの体温が――って、あああああ、なに考えてんだ、俺ッ! この不心得者! 罰当たりッ!!)

 ガンッ!

「いてっ!」

「なにやってるの、ティースくん」

「うわぁっ!」

 壁に頭を打ち付けたと同時に声を掛けられて、ティースは思いっきり飛び上がった。

 振り返ると、

「一見脳天気そうに見えるけど、あなたにも自殺願望なんてものがあるの?」

「あ、マーセルさん……」

「壁に頭を打ち付けて死ぬのはやめた方がいいわよ。カッコ悪いし、たぶん苦しいから」

 クスクスと笑いながら、近付いてくるマーセル。手にはタオルとバスローブを抱えており、どうやら温泉へ向かうところだったようだ。

「そ、そんなんじゃ……って、そんなことより!」

 言い訳しようとして思い出し、そしてティースはすぐに頭を下げた。

「さ、さっきは、その……すみません! あいつ、本当はあんなヤツじゃないんです! ただ……その、ものすごく友達思いなところがあって、それで――」

 だが、

「え? なんの話?」

「へ?」

 互いに不思議そうな顔で見つめ合う形になった。

「え、えっと……」

 戸惑うティース。だが、マーセルの表情にとぼけている様子はない。なぜ謝罪されるのか本当に理解していない顔だ。

「私を振ったこと? それとも、もしかしてあのシーラって子のこと?」

「あ、えっと……後の方です」

 素直にそう答えると、マーセルはますます首をひねった。

「どうしてあなたが謝るのかわからないんだけども?」

「あ、いえ、その……あ、後であいつの方からもどうにかして謝らせますから」

「じゃなくて」

「?」

「別にどっちにも謝ってもらう必要ないじゃない」

「へ?」

 再び見つめ合う2人の脇を、温泉の方から戻ってきた3人組の女性がブツブツと文句を言いながら通り過ぎていく。

 どうやら今日の雨に文句を言っているらしく、確かに露天の多いこの宿では、雨が降るとその魅力も半減してしまうのだろう。

 マーセルはその3人組を横目で見送りながら、

「雨、まだ上がらないみたいね。でも少し弱まってはいるみたいだし、もし夜になって止んだらもう一度入りに行こうかしら?」

「あのー……。だってマーセルさん、さっき怒って部屋を出ていったんじゃ……」

「え?」

 そんなティースの問いかけに、マーセルはあっけに取られたような顔をした後、明るく笑った。

「あはは、まさか。そりゃぜんぜん悔しくないって言ったら嘘かもしれないけど、もうフラれちゃった後なんだし、そんなことで怒るわけなくない?」

「そ、そんなもんですか……」

「邪魔しちゃ悪いと思って出ていっただけよ。私、あの子に嫌われているみたいだしね」

 どうやらこのマーセルという女性、ティースが思っていた以上にさばけた性格らしい。

 ひとまず安堵する。

 だが、すぐ思い直したように視線を落として、

「あ、でも、やっぱり後で謝らせますから。あいつ、マーセルさんを俺から引き離すためだけにあんなことしたらしいんです。それは、絶対に良くないことだと思うんで」

「引き離すため? ……そういえばさっき、友達思いがどうとか言ってたわね?」

「……ええ」

 ティースは謝罪の意味も込めて、正直に事情を話すことにした。

 リィナという友人がいること。彼女と自分のことについて、シーラが早とちりをしているらしいこと。それが先の出来事の原因だということ。

「だから……その。あいつ、ただマーセルさんに当てつけるためだけにあんなこと」

 もちろん、それを話すことによってシーラの印象がさらに悪くなることも懸念した。だが、それによって多少なりとも嫌な思いをしたであろうマーセルには、話しておかなければならないと思ったのである。

 だが、その話に対するマーセルの反応は、彼が予想していたものとは大きく違っていた。

「……ぷっ。あはは……アハハハハハハハッ!!」

「へ? マーセルさん?」

「ぷっ……くくくっ……」

 体を小さく折り曲げ、右手で口元を押さえ、顔を真っ赤にしている。

「……? あの、マーセルさん……」

「ごっ、ごめん。ちょっ、ちょっと……あははっ。おもしろすぎて……っ……!」

「?」

 ティースにはまったくわからない。自分の言葉を思い返してみてもおもしろいことなどひとつも言ってなかったし、そもそも彼は怒られることまで想定していたわけで――

「な、なにかおかしかったですか?」

「え? あ、ううん……ごめんねぇ」

 言いながらも、マーセルはまだ顔を赤くして、

「そ、それは確かにものすごく友達思いね……うん。なかなかできることじゃないわ」

「はぁ」

「あー……笑いすぎて心臓止まるかと思った」

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫大丈夫」

 ようやく体をまっすぐに起こすと、マーセルはうんうん、とうなずいて、

「そういうことならなおさら、謝ってもらわなくていいわ。私はぜんぜん気にしてないし、むしろ笑いを提供してくれて感謝したいぐらいよ」

「な、なにがそんなにおかしかったんですか?」

 鈍感な彼も、さすがにマーセルの言葉に含みがあると感じたらしい。

 だが、マーセルはきっぱりと、

「教えてあげない」

「そ、そうですか……」

 どうにも納得できないティースだったが、それでもどうやら穏便に済みそうだ、と、胸をなで下ろした。

「じゃあ、ね。……あ、それと」

 マーセルは両手のタオルとバスローブを抱え直して、

「生真面目なあなたのことだから、そのことでケンカでもしたんじゃない? もしそうだったら、早めに仲直りした方がいいわ」

「はぁ……」

 それについては図星だったが、あれだけシーラのことを嫌っていたらしいマーセルがどうして急にそんなことを言うのかも不思議だった。

 マーセルはそんな彼の心を見抜いたかのように、

「だって、もうフラれたんだもの。あの子を嫌う理由はなくなっちゃったじゃない?」

「え……あ、俺、声に出してました?」

「いいえ。勘……というより、あなたがわかりやすいだけ」

「……」

 遠ざかっていくマーセルの後ろ姿を見つめながら、ティースは首をかしげるのだった。

(お、女の人って、不思議だなぁ……)






 ――雨はどんどん弱まっている。


「夜には上がる。そうすればきっと……」

 ベッドの上で、アルファはじっと一点を見つめていた。

 外の様子なのか、あるいは窓際に飾られた鮮やかな紫の花を見つめているのか。……いや、もしかするとなにも見ていないのかもしれない。

 隣室での些細な騒動など、まるで気に留めた様子もなく。

 その口が、かすかなメロディを紡ぎ始めた。

「揺れる、揺れる、誘蛾灯……」

 少しかすれた歌声が、静まり返った部屋に響く。

「おいで、おいで、光の誘うままに……」

 長い銀色の髪がかすかに流れる。その青味を帯びた瞳は、やはり何者も映してはいない。

 部屋の中で、ぼんやりとした光が揺れ始めた。

 雨足が弱まると同時に、西の方に傾きかけた太陽は夜の訪れを告げ始めている。

「揺れる、揺れる、誘蛾灯……ユラ、ユラ、ユラ――」


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