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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第6話『ペルソナ・プリンセス』
44/132

その3『ホントはワガママで嫉妬深い?』


 ロマニーにある温泉宿はすべて街の管理する公営宿だ。

 にも関わらず、街の外れにところ狭しと並ぶ温泉宿は、実にバリエーションに富んでいる。外観に凝っているものもあれば食事を売りにする宿もあり、そこにはある種の競争関係が存在しているようだった。

 さて、そんな宿の中のひとつ。

 『アーカーソン』という夫婦の管理する温泉宿は、大小合わせた部屋数が30前後。収容人数は最大100人程度という中から大規模の宿である。

 他の多くの宿と違って混浴はひとつもなく、男性用の風呂がひとつなのに対し、女性用は景色に趣向を凝らした複数の露天風呂があり、どちらかというと女性客をターゲットにした温泉宿ということができるだろう。

 夕暮れ時。

 その宿から歩いて1分程度の場所にあるアーカーソン夫婦の自宅。そこから出てきたひとりの少女が、家の中に向かって一礼した。

「色々とお世話になりました、ニューマンさん」

 そう言って美しいブロンドのポニーテイルを揺らせたのはシーラである。そんな彼女に対し、家の中から返ってきたのは、おそらくかなり年輩と思われる男性のねぎらいの声。

 シーラはもう一度礼をしてその家を離れる。

 その右手には1冊のノートがあり、そこには今日までの3日間、ニューマン=アーカーソンから学んだラダコーン草に関するデータがびっしりと書き込まれていた。

「ふぅっ」

 疲労を吐き出すようにため息をつき、歩みを進めた先は、ニューマンの息子夫婦が管理する温泉宿の方だ。

 裏口から宿に入ると、借りている部屋に向かって廊下を歩いていく。視線の先の通路を、どうやら温泉から上がったばかりらしい3人の女性客が横切っていった。

(これで私の仕事は終わりだけど……)

 この街にやって来たのが3日前の夕方。それから丸々3日の間、シーラはずっとニューマンの元に入り浸り、早々にその目的を達していたのであった。

 ただ、これですぐに帰路につくというわけにはいかない。

(……ティースの仕事はどのぐらいで終わるのかしら)

 そう。彼女はもうひとつの目的を持ってこの街にやってきたディバーナ・ロウの第四隊、通称『ディバーナ・ゼロ』に同行してきた身なのである。

 だから、基本的には彼らの任務が終わるまではここに滞在しなければならないのだ。

(ファナは温泉を楽しんで、なんて言っていたけれど)

 もちろんシーラも多少はそのつもりでいた。ただ、このロマニーという街は、温泉以外にそうおもしろいものがあるわけでもなく。

(いくらなんでも、ずっと温泉に入っているわけにもいかないしね……)

 しばし考えた末、シーラはその視線を自らの左手の中に落とした。

「……そうね」

 そこに携えていたのは、持っていたノートと同じぐらいの大きさの鍵付きの箱。

 その瞳に少しだけ暗い陰が過ぎって。

 シーラはそっとつぶやいた。

「もう、あまりのんびりもしていられないわね……」


 ――と。


 本日の任務を終えたティースがそんな彼女の後ろ姿を見つけたのは、ちょうどそのときだった。

「あ、シーラ! おぉーい!」

「……」

 その声にシーラは足を止めて振り返り、玄関のほうから駆け寄ってくるティースの姿を確認すると、

「……ふぅ」

 思わず口をついたため息は、実は彼女自身にしかわからない複雑な心情から出たものだったが、それを他人に察しろというのも無理な話。

 案の定、シーラに駆け寄ったティースは微妙に情けない顔で速度を緩めながら、

「そ、そんな。会うなりいきなりため息をつかなくてもいいじゃないか……」

「別に。お前の顔を見るのが嫌でため息をついたわけじゃないから」

 残念なことに、彼女の方にも積極的にその誤解を解こうとする意欲はない。……いや、正確には、その気があってもできない事情があった、というべきか。

 なんにしても――表面上は、彼女がただ不機嫌そうにしているようにしか見えず、ティースは続ける言葉を失ってしまった。

「……」

 そんな彼の様子を見て、シーラはしばらく言葉を探しているようにも見えたが、結局なにも言わずにそのまま立ち去ろうとする。

 これまでとなにも変わらない、なんの進展もない、いつものやり取りが展開されようとしていた。

 ……と、そのときである。

「あ。おかえりー、ティースくん」

「え?」

 そこに少しだけ変化をもたらしたのは、第三者の声だ。

 ティースが動かした視線の先――シーラのさらに向こうからひとりの女性が彼らに近づいていた。

「今日は早かったのね。お疲れ様」

「……」

 シーラはその女性の動きを見て眉をひそめた。

 というのも、彼女はまるでシーラの存在が目に入らなかったかのように、彼らの間に割り込むようにしてティースの目の前に立ったのである。

「あ、マーセルさん。どうも、こんばんは」

「はぁい、こんばんは」

 にこやかにそう答えたのは、やや背の高い女性だった。

 歳はティースたちよりも明らかに少し上で、本人の話によれば21歳。やや目尻が下がり気味の一見おとなしい印象だが、ラフに着崩したバスローブからは桃色に染まった肌がかなり露出している。わざとそうしているのか、単にルーズなのかは不明だ。

 マーセル=バレット。ここの宿泊客で、本人いわく『某成金商人のひとり娘』ということだが、それも本当かどうかはわからない。

 もちろんティースにとっても、その真偽はそれほど重要なことではなかった。

 それよりも――

「昨日より帰ってくるの遅かったから、今日は会ってくれないのかと思って心配しちゃったじゃない」

 そう言って、まるでしなだれかかるように、実際には触れない距離でティースに寄り添うマーセル。

「あ、ええ。今日はちょっと……」

 当然、ティースはたじろいだ。

 ……そう。彼にとって重要だったのは、彼女が、彼のもっとも苦手とする、いかにも女性らしい色香にあふれた人物であり、そして数日前のちょっとした出会い以降、ティースに対してきわどいアプローチを繰り返すようになった、ということである。

「それでどうだったの、今日の成果は?」

 そう言いながら、マーセルは少しティースから離れた。

 完全にシーラの視界を塞ぐような体勢になったが、気づいていないのか、あるいはわざとなのか、彼女のほうには目もくれずにいる。

「……」

 シーラがさすがに気分を害した様子で目を細めた。

 その表情の変化に気付いたティースは慌てて、

「あ、えっと……そうですね。今のところは獣魔らしき影も見てないですし、痕跡も見つかってないです。なにしろ、襲われたって人の証言もあいまいで――あ! シーラ!」

 途中で言葉を止め、無言で背を向けたシーラを追いかけようとする。

 だが、

「い・い・か・ら」

「ぐえぇぇっ!!」

 首にタオルらしきものが巻き付けられ、ティースは思いっきりのけぞった。

「マ……げほっ……マーセルさん! 殺す気ですかっ!」

 顔を真っ赤にしてせき込みながら抗議したが、マーセルは澄ました顔で、

「だって、抱き付いて引き止めたら、また気絶しちゃうんでしょう?」

「そっ……それはそうですけどっ!」

 実は数日前、ティースはすでに彼女の前に『醜態』をさらしており、女性アレルギーのことを知られてしまっていたのである。

 そうこうしているうちに――

「あ。……あーあ」

 シーラの姿は廊下の向こうへと消えてしまっていた。

 がっくりとうなだれるティース。

(また、これかぁ)

 ここに到着した日を含めて、はや4日。

 シーラとの関係改善をもくろむティースにとって、仕事仲間として否応なしに顔を合わせる今回の任務は、期せずして与えられた絶好の機会ともいえた。

 しかし――

「そんなことより、今日の話を聞かせて? ね?」

「は、はぁ……」

 ここに来た日に出会ったこのマーセルという女性の存在は、ティースにとって完全に予定外だった。

 こうして親しく会話を交わすだけなら別に問題ないのだが、なぜか彼女はシーラに対して明らかに敵対心のようなものを向けていて、結果的にティースはシーラとの会話の機会を何度か失っていたのである。

 しかも悪いことに――

「まあ……いいですけど、あまりおもしろいことはないですよ?」

 このティースという男、いくら相手が苦手なタイプであっても、理由もなく邪険にするようなことはなく、そんな彼の態度がまた状況を悪化させてもいたのだった。

「そんなことないない」

 マーセルは手をパタパタと振って、

「デビルバスターをこうして間近で見るのって初めてなの。どんな話を聞いても興味深くておもしろいわ」

「いや、俺はまだ候補生なんですけどね。それなら、俺じゃなくてアルファさんに話を聞いた方が……」

「アルファって、あなたと一緒に来た美人でしょう? そりゃ、あんな顔でデビルバスターしてるっていうのにも興味はあるけど、あの子はなんだか気難しそうだし――」

 そう言って、マーセルは口元にやや色っぽい笑みを浮かべる。

「どうせなら男の子の方がイロイロと楽しいじゃない?」

「はぁ」

(……あの人も一応男ってことになってるんだけどなぁ)

 どうにも、マーセルの言葉にはいちいち含みのようなものが感じられて、そのたびにティースはたじろいでしまう。

 ただ、そう思ってはいながらも。

(……俺って、そんなにからかい甲斐があるのかなぁ)

 ティースはこの日も結局、マーセルに乞われるまま、彼女の話し相手となったのだった。




「アルセフィと……黄昏の一葉を――黄昏の一葉って、なんのことかしら……?」

 外の日が完全に落ちたころ、宿の一室には明かりが灯っていた。各部屋備え付けの机の上に、本のページをめくる音が定期的に響く。

「でも、これは……おそらく胸の病か。どちらにしろ関係なさそうね」

 その部屋の借り主であるシーラはすでに寝巻姿で、黒塗りの重厚感のある分厚い書物を右手に、辞書のような古い書物を左手側に置いて、その間にノートを挟み、手にはメモを取るためのペンを握っていた。

 視線は真剣そのもので、ときおり難しそうな表情をして眉間に皺が寄る。

 事実、彼女が手にしているのはかなり古い言語の辞書で、それを専門に学んでいる人間であっても、かなり手こずるような内容のものだった。

 だが、やがて、

「……ふぅ」

 ため息をついて椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げながら眉間の辺りに指を当てる。

 ポニーテイルが大きく揺れた。

(いまいち、気が乗らないわね……)

 あまり集中できていない。

 もう一度ため息をついてから、どうしようか、と考えた。日が沈んでいるとはいえ、寝るには少しだけ早い。かといって温泉には先ほど浸かってきたばかりだ。

「……」

 そうしていると、シーラの視線は自然と部屋の壁に移動した。その向こうはティースの借りている部屋だ。

 人が戻ってきた気配はない。

 時間を見る。

 シーラにとって寝るにはやや早い時間とはいえ、夜は夜だ。照明家具のない家庭なら当然にベッドに入っているような時間だし、常識的なマナーとして他人の部屋を訪ねていい時間はとっくに過ぎていた。

(……なにをやっているんだか)

 ほんのわずかな不機嫌が、その端正な眉に浮かんだ。

 実を言うと、ティースがあのように仕事で知り合った女性に好意を寄せられるのは、それほど珍しいことではない。彼はその職業の割には優しい性格だったし、基本的に『いい人』だからだ。

 大抵の場合はその『いい人』止まりで終わるのだが――それはともかく。

 シーラはそんな彼のロマンスを意図的に邪魔しようなどと考えたことはなかった。彼にもチャンスがあれば恋人を探す権利があると思っていたし、それによって自分が不利益を受ける――たとえば彼の支援が受けられなくなるのだとしても、それはそれで仕方がないとも思っていた。

 もともと彼に義務などないことを、シーラは当然わかっていたからだ。

 ただ――。

(ホント、なにをやってるの……)

 この日、彼女はなかなか部屋に戻ってこないティースに対し、明らかないらだちを覚えていた。

 その理由?

 あのマーセルという女性が事あるごとに、明らかに邪険な、敵対心らしきものを見せてくること。それもまったく関係がないとはいえないだろう。

 だが、決定的な原因はそれではなかった。

(お前は――)

 その眉間に、やや深い皺が刻まれる。

(……お前はリィナのことが好きなんじゃないの? だったら、あんな女にデレデレしている場合じゃ――)

 コン、コン。

「!」

 ちょうどのタイミングでノックの音がした。

 シーラは壁からドアの方へ視線を移動させると、右手にしていた本をパタンと閉じる。

 そして、

「誰?」

「あ、起きてたか? 悪い、遅くに」

「ティース?」

 ほんのかすかな安堵が彼女の声に浮かぶ。

 だが、その先はいつものそっけない言葉に変わった。

「なにか用?」

 用心のため部屋の鍵はかけてあった。閉じた黒い背表紙の本を鍵付きの箱の中に戻し、体をドアの方へと向ける。

 返ってきたティースの声は、どことなく遠慮がちだった。

「あ、ほら……なんていうか、そろそろお互いの進行状況について話をしておきたいなと思って。時間ないか?」

「……」

 一瞬の沈黙。

 シーラの脳裏に先ほどの会話が過ぎった。少しだけ頭の奥がピリピリする。

「……まだ、話し足りないの?」

「え?」

「あの女に思う存分話したのでしょう? だったらもういいじゃない」

 言ってから、我ながら意地の悪いことだと思った。もちろんティースは、その状況が彼女の帰還時期にも関わるからこそ、わざわざ知らせに来たのだろうから。

「あ、あのさ、シーラ」

 ドアの向こうの声は、相変わらず遠慮がちだった。

「マーセルさん、ちょっと変わったところはあるけど、別に悪い人じゃないと思うんだ。だから……」

 フォローするような言葉。さすがのティースも、シーラがマーセルのことをよく思っていないことには気付いていたようだ。

 ただ、その言葉が導く結果――つまり、そのフォローがシーラにどう捉えられるかというところにまでは考えが及ばなかったようである。

「だから、なに?」

 自然と冷たい声がシーラの口をついていた。

「え? いや、だからつまり……」

「私があの女に腹を立てていて、だからお前の話を聞こうとしないんだって、つまりそう言いたいの?」

「え……」

「馬鹿じゃない」

 いらいらしてくると、強い言葉が止まらなくなる。

 知らず知らずに首筋を押さえていた右手が、ゆっくりと上のほうへ移動した。そのままそこにある結び目の上の髪飾りに触れる。

 ほんの少しだけ、それを引っかくようにして、

「馬鹿じゃないの」

 もう一度、そう言った。

 ……おとなびている。クールだ、と彼女は他人によくそう言われる。

 しかし、それは大きな間違いだ。ただ彼女は、表情と言葉を凍らせるのが得意なだけで、その胸の中に渦を巻く感情はむしろ他人よりも強い方かもしれなかった。

「そもそも、私が腹を立てるのだとしたら、それはあの女ではないわ。お前に対してよ、ティース」

「……え?」

 まったく自覚のない返事。

 またいらいらが募ってきて、言葉はさらに鋭さを増した。

「お前がどこの女と深い関係になろうが、本来だったら私には関係ないわ。でも――」

 言葉の途中で、びっくりしたような反応が返ってくる。

「な……シーラ! マーセルさんは別に、そんな――」

「けれど」

 抗議の声を逆にさえぎって、シーラは続けた。

「リィナにはきっと関係のあることよ。ティース、そうでしょう?」

「え? リィナ?」

 戸惑ったようなティースの声に、シーラはきっぱりと言い放つ。

「はっきり言っておくわ、ティース。お前があの子を好いていて、あの子と結ばれたいと考えているのであれば、私はお前の浮気を絶対に許さない。あの子を傷つけるようなことだけは、絶対にね」

「え……えぇっ!?」

 ティースは驚いたような声だった。その表情は容易に想像できる。おそらく彼は慌てながら顔を火照らせているところだろう。

「ま、待ってくれよ! 前にも言ったけど、俺は別に……そりゃリィナのことは大切だし、色々と助けてもらったりして感謝もしているけど、そんなことまで考えているわけじゃないよ!」

 それはおそらく本心だった。仮に彼の心が実際には彼女に惹かれていたのだとしても、自覚といえるほどのものではなかったのだから。

 だが、それを信じるシーラにとっては、そんな彼の言葉はひどく言い訳じみて聞こえた。

「……そんなに」

「え?」

 眉間に皺を寄せ、吐き捨てるようにシーラは言った。

「そんな言い訳をするほどあの女が気に入ったの? そんなにあの女を抱きたい?」

「ばっ……!」

 ドアの向こうから戻ってくる声も、さすがに大きくなった。

「いきなりなに言ってんだよ! 俺はただあの人と話をしてるだけで――それにお前だって知ってるだろ!? 俺が女の人に触れない体だってこと!」

「……ああ、そうね」

 出てくる言葉が容赦なく傷付けていく。

 そうなると、もう止まらない。

「じゃあ、その体質に感謝するべきなんじゃない? そうでなかったら私だけでなく、エルやリィナもきっとお前のことを軽蔑していたと思うわ」

「なっ……違う! 俺はそんなつもりこれっぽっちもないし、お前だって知ってるだろ! 俺がそんなこと考えるような人間かどうか――!」

 鋭い、呼吸。

 そして、

「黙れ」

「……!」

「黙りなさい、ティース」

 短く、鋭利な言葉に、抗議の声は一瞬で沈黙した。

 かすかな空白。

 その後、冷たい言葉はさらに続いた。

「お前のことなんて、どうでもいい。ただ私の考えはさっき言った通りよ。それだけ覚えておきなさい。他に話すことなんてなにもないわ」

「……」

「部屋に戻りなさい。……聞こえた?」

 返事はない。抗議の意思表示なのか、ドアの外の気配は動かなかった。

 もう一度。

「戻れと、そう言ったのよ。聞こえたでしょう?」

 今度は抵抗することなく、明らかに落胆したような空気を残して、気配は部屋の前から去っていく。

「……」

 シーラはしばらく無言でドアを見つめていた。

 他人の前ではそうそう見せることのない、強い感情。しかしやがて、その視線はゆっくりと床の上に落ち、ため息がそこに続いた。

 強い嫌悪感のようなものがその表情を過ぎり、視線は流れてベッドの上へ。

 ぼふっ。

 しばしの間があって、シーラは髪飾りを外してポニーテイルをほどき、そのままベッドに仰向けに転がった。美しい光沢の金髪がベッドの上に広がる。

「……ホント馬鹿。なにを言ってるのかしら……」

 もう一度、ため息。

 怒りをぶつけたところで気分が軽くなるわけではない。むしろ逆だ。

 それはリィナのために言ったことだと、無理やり自分をなぐさめようとはしてみたものの――

「あの子がそんなこと喜ぶわけないじゃない……」

 そうつぶやきながら3度目のため息。

 そしてシーラは手の中にあった髪飾りをそっと見つめ、目を細めた。

「……本当にもう。どうするのが正解なのかわからなくなってきちゃった。……ねえ、教えて。私はいったいどうするのが正解なのかしら――?」

 その日、深く沈んだ彼女の気持ちが晴れることは最後までなかったのだった。




 翌日の朝。

 空はあいにくの雨模様だった。

「はぁ」

 朝食後、ティースは自室で外へ出る準備を進めている。

 ベッドに腰掛け、撥水加工のほどこされたフード付きのコートを脇に置き、滑り止め用の薄い手袋を付け、ぬかるんだ地面に対応するため、大きな突起のついた靴を用意する。

 左腰の金具に愛用の剣『細波』の鞘をしっかりと留め、固定されていることを確認。

 と、そうしながら、

「はぁぁ……うまくいかないなあ」

 ため息とともに、窓を叩く雨の空を見つめた。

 そんな彼のため息の理由については言わずもがな。本日の空模様のように曇った彼の心には、昨日のシーラの言葉が重くのしかかっていたのである。

「今日はひとまず誤解を解かなきゃな。リィナのこともそうだけど、マーセルさんのこともちゃんと説明して……だいたい、俺がそんなこと考えるわけないじゃないか。普段冷静なくせに変なところで早とちりなんだよ、まったく。マーセルさんだってそんな悪い人じゃないって、少し話せばわかるはずなのにさ」

 ぶつぶつ、ぶつぶつと。

 ひとりごとはいつしか愚痴へと変わっていた。

 そうしながら右の腰に、昼食と応急処置用の簡易な道具と薬を詰めた巾着を装着していく。

 今日は雨ということもあり、それほど深く入り込む予定はなく、それ以上の装備を持っていくつもりはなかった。

 そこで、ふと思い出す。

「そういやファナさん……今回は薬くれなかったな。あれ、市販のものより使いやすくて好きだったんだけどなぁ」

 腰のベルトをきっちり締める。

「シーラの仕事、どこまで進んでいるのかな。もう終わったのかな……こっちが先に終わったら手伝って――あ、でも、どうせ邪魔だって言われるだけか……あーあ、なんかこう、劇的な効果のある魔法の言葉とかないのかなぁ」

 ひとりごとは止まらず、思考は巡り巡って。

「……はぁぁ」

「どうしちゃったの、ため息なんかついて?」

「うわぁっ!」

 ティースがびっくりして顔を上げると、

「あ、マーセルさん……?」

「おはよ、ティースくん」

「あ、おはようござ――って、なんで人の部屋に勝手に入ってきてるんですか!」

 いつの間にか目の前に立っていたマーセルは、相変わらずの白いバスローブ姿、今日は頭にもタオルを巻いていた。

 体は湯気が立ち上りそうなほどに上気しており、やはり温泉から上がったばかりのようだ。

「だって、ドア半開きになってたから」

「え? ホントですか?」

「ええ。だから入っていいのかなって」

 マーセルは平然とそう言って、ベッドと向かい合うひとり掛けのソファに座って無造作に足を組んだ。

 バスローブからのぞくスラリとした足に、ティースは慌てて視線をさまよわせながら、

「それでもノックぐらいしてくださいよ。……それと! その格好で足を組んだりしないでください!」

「ん?」

 マーセルは自分の足元に視線をやって、

「ああ……ごめん。って」

 どうやら自分でも気付いてなかったらしい。バスローブのすそを直し、それから少し興味深げにつぶやく。

「男の人に肌を隠してくれって言われたの、父以外では初めてだわ。脱いでくれって言われたことは何度もあるけど」

「……」

 ティースの顔は真っ赤だった。

「同じ男でも、色々な人がいるものね」

 マーセルはそう言って手を組み、そこにあごを乗せ、興味深げに上目遣いをする。

「あなたは、私が付き合ってきた男たちとは正反対。ホント、興味深いわ」

 ティースはやはり視線をウロウロさせながら、

「そうやって前屈みになるのもやめてください。その……み、見えますから」

「ああ。これは、ちゃんと見せようとしてるのよ?」

「うわぁっ! と、とにかく!」

 慌ててそっぽを向くなり、ティースは大きく咳払いをしてベッドから立ち上がった。

 視線はあらぬ方向に向いたまま。

「俺、そろそろ行きますから! マーセルさんも部屋に戻ってください! それに、そんな格好でウロウロしていたら風邪ひきますよ!」

「うーん」

 マーセルは苦笑しながら体を起こし、頭をかいた。興味深い視線は薄れていなかったが、そこにやや怪訝そうな色も入り混じって、

「あなた、もしかしてあの娘に遠慮してるの?」

「へ?」

「あの偉そうな態度の娘よ。なんて言ったっけ?」

「……シーラのことですか?」

 本人に聞かれたらまた機嫌を悪くされそうだと思ったが、マーセルの言葉に該当しそうな知り合いといえば、どう考えてもシーラのことしか思い浮かばなかった。

「ああ、シーラとか呼んでたっけ? あの生意気そうな子。あなたには悪いけど、私、最初から気に入らなかったのよね。あの子の目」

「目?」

 確かに、比較的冷めているように感じるシーラの視線は、人によっては嫌う者がいるかもしれない――と、ティースはそんな風に思ったのだが、マーセルが口にしたのはそれとまったく正反対の言葉だった。

「あれはね。きっと、ものすごくワガママで嫉妬深い女の目よ」

「へ?」

 まるで予想外の表現に、ティースは固まってしまった。

 それから、思わず苦笑が浮かぶ。

「そ、それはないと思いますけど。ワガママかどうかはともかく、どう考えても嫉妬深いようなやつじゃないです」

「あら。どうしてそう思うの?」

「だってあいつ、そういうことに関しては結構ドライですから。一応恋人がいるみたいだけど、扱いがかなりおざなりな感じですし……」

 デートの約束をすっぽかしたり、存在自体を軽視するような彼女の発言は日常茶飯事だった。

 マーセルは意外そうな顔をして、

「そうなの? というかあの子、私があなたに近付くたびに、ものすごく不機嫌そうなオーラを漂わせていたから、てっきり……」

「それは……」

 確かにそれは今回ティースも少なからず感じていた。

(やっぱリィナのことを考えて、かなぁ……)

 彼女が本気でティースとリィナをくっつけたいと思っているのならば、ああいう態度を見せたことも納得はできる。

 ただ、それにしても少し唐突な気はした。

「ま、わからないけど。なんにしても嫌な子だわ」

 そう言ったマーセルはその言葉通り、不快感を隠そうともせずに、

「言いたいこともロクに言わないくせに、自分の権利だけはいっちょまえに守ろうとしちゃって。子供みたい」

「こ、子供? あいつが?」

 やはり意外な評価に、ティースはビックリして、

「で、でもあいつ、言いたいことは結構言ってきますよ。昨日だって俺、結構色々言われましたし」

「昨日? ふぅん……」

「え?」

 なにごとか思いついた顔をして、マーセルが椅子から立ち上がる。

「ちょっ……マーセルさん」

 ティースは思わず後ずさろうとしたが、すぐ後ろにはベッドがあってそこに尻もちをついてしまう。

 マーセルはゆっくりと近付いてきていた。

「仕事仲間かなんなのか知らないけど、いくら顔が綺麗でも、ああいう女とは付き合わない方が身のためよ……」

 そう言ってティースの顔をのぞき込むようにする。

 2人の距離は、すでに相手の体温がかすかに感じられるほどになっていた。

「あ、ああああの! マーセルさん!!」

 顔が近すぎて正視することすらできず、ティースはどうにか顔をななめ上にそむけて、

「お、おれっ! そろそろ行かなきゃ!」

「大丈夫よ。1分ぐらいで終わるわ」

「なにがッ!?」

「ティースくん、あなた、もしかして――」

 そんな彼の反応にマーセルは満足そうに目を細め、口元に妖艶な笑みを浮かべると、

「キス、って、したことない?」

「えッ!?」

 ティースの顔が噴火したように真っ赤になった。

「ま、まさかっ……ま、ままま待ってくださいっ! そっ、そんなことしたら、俺、気絶しちゃ――!」

「大丈夫よ。気絶した後も、私がリードしてあげるわ」

「ぜんぜん大丈夫じゃないですっ!」

 マーセルは本気のようだ。……少なくともティースの目にはそう見えていた。

 体は触れないように、顔だけが少しずつ近付いてくる。

(ど、どうするッ!?)

 心臓がひっきりなしに警鐘を鳴らしていた。

 逃げ道はない。逃げる方法があるとすれば、目の前の彼女を突き飛ばすことぐらいだが、そんなことが彼にできるはずもなかった。

「こらこら、ティースくん。そうやって顔を背けてたらちゃんとできないでしょう?」

「できないようにしてるんですよっ!」

「ふーん」

 するとマーセルは意地悪な笑みを浮かべて、

「だったら、このまま抱き付くわよ?」

「ひぃっ!」

 反射的に恐怖に体が固まる。

 奇妙な話だが、彼女のその言葉は彼にとっては充分な脅し文句になるのである。

 その隙を狙って、まるで懐柔するようにマーセルの言葉は続いた。

「試しに軽く、ほんの数秒よ。あなたが気絶しない程度。それにキスだったら、もしかしたら気絶しないかもしれないじゃない?」

 どういう理論か謎だったが、今のティースにはそれに疑問を抱く余裕すらなかった。

 とっさに思ったのは――

(だっ、抱き付かれて気絶するよりはマシか……?)

 だいぶ混乱していたようである。

「よしよし」

 観念したように動きを止めたティースに、マーセルは満足そうにうなずいた。

 体の距離はほとんどゼロに近かったが、彼女は器用にも触れないようにつま先を伸ばし、顔だけを近付けていく。

 動きに合わせ、かすかな空気の流れが頬を撫でていった。

 あと約10センチ。

「……っ」

 頭の奥が熱くなって視界がチカチカし始める。石鹸の匂いが鼻孔をくすぐって、さらに心臓の鼓動音が速くなった。

 が、ふと――……脳裏に少女の顔が思い浮かんで。

(……な、なにやってんだ、俺!)

 ティースは寸前で正常な思考を取り戻した。

「マーセルさん、やめてくださ――ッ!」

 そう叫び、手近にあった道具袋を使って彼女を押し戻そうとした、そのときだった。


 ……バン! と、音がして、マーセルの動きが止まる。


 ティースもまた、驚きに顔を上げた。

「え……?」

「……あら?」

 そして2人同時に、音の発生源――部屋の入り口へと視線を向ける。

 それは、ティースの部屋のドアが閉まる音だったようだ。そして廊下のほうからは誰かの立ち去っていく足音が聞こえてくる。

 ティースはそのことに気づいて急激に青ざめた。

「マ、マーセルさん。もしかしてドア……開けっ放しだったんじゃ――」

「え? ああ、そうね。閉めた記憶がないかも」

「……」

「あっ、ティースくん!」

 マーセルの制止の声も振り切って、ティースは慌てて廊下へ飛び出していく。

「おい、シーラ!」

 廊下にシーラの姿はなかった。

 代わりにそこに立っていたのは――

「ティース」

 首筋まで覆うほどの分厚くダボダボのセーター。そこにマフラーを巻き、さらに上から撥水用のコートを身にまとった、……彼の上司でもあるアルファ=クールラントだった。

「あ……アルファさん」

「出発の準備はできたのか?」

「いえ、えっと……」

 その言葉に任務のことを思い出し、それから辺りをもう一度見回しながらティースは尋ねた。

「あの……アルファさん。シーラを見ませんでしたか?」

「ああ。見た」

 と、アルファは相変わらず独特のややハスキーな声で即答し、隣の部屋――シーラの部屋に視線を向けた。

「そ、そうですか……」

 つまり、彼女はすぐに自分の部屋へ戻ったのだろう。

(ってことは、さっきのはやっぱりシーラか……)

 すぐにでも弁解したい気持ちに襲われたが、そんなティースの事情を知らないアルファは淡々と言った。

「それで。もう、準備はいいのか?」

「あ……いえ。……ええ、はい」

 出発予定時刻はすでに過ぎていた。さすがに個人的なことで任務にまで支障をきたすわけにはいかない。

(シーラ……)

 ティースの胸には暗雲が立ちこめていた。それも先ほどまでの曇り空ではない。雷雲を伴った大荒れの空模様だ。

(昨日あんなこと言われたばっかなのに、最悪だ……)

 ティースはガックリと肩を落としながら、それでもどうにか気持ちを切り替えて本日の任務へと向かったのだった。




 ラグレオ山の東側、崖のように切り立った場所にあるその洞窟からは、地を這うようにいくつものパイプが伸びている。周囲には監視小屋のようなものが建っていて、許可なくそこに近付くことはできないようになっていた。

 見ての通り、ここが温泉を汲み上げる装置の設置された洞窟であり、報告が正確であればここに何匹かの獣魔が棲み付いてしまったということである。

「アルファさん……」

 管理団体の職員2人が見守る中、ティースたちは3日連続でこの洞窟の入口へとやってきていた。

 雨は少し強さを増している。コートを着てはいても、水が少しずつ中へと染み込んでいるのがわかった。足元も頼りなく、靴の周りは雨と混じった泥でぐちゃぐちゃだ。

 洞窟は天然のもので、もともとこの用途のために掘られたわけではない。だから、装置の設置されている辺りから奥のほうはどのぐらいの深さや広さがあるのかもはっきりとはわかっていなかった。

 ティースはその入り口の岩肌に触れ、それから地面を――この天気で足跡など残るはずもないが――じっと観察しながら、黙って洞窟の奥を見つめるアルファに問いかけた。

「もう3日目ですけど、ホントにこの洞窟の中にいるんでしょうか……?」

「さあ」

「さあ……って」

 チラッと振り返ると、彼らを見つめるロマニーの職員2人が、どことなく不審そうな顔を見せていた。

 それも無理はない。

 ティースは色々調べるような素振りを見せているからまだしも、アルファはただ黙って洞窟の入り口に突っ立って奥を見つめているだけだ。

 しかも、聞き込み中心だった調査初日を除いてずっとこんな調子だから、この天気も相まって、付き合わされている方としてはうんざりしているのだろう。

(……なにを考えてるんだろ)

 ティースが見つめるアルファの横顔には、表情らしい表情がほとんどなく、なにを考えているのかさっぱりつかめない。それがまた不安に拍車をかけた。

 少しだけ視線を下のほうに向ける。視界に入ったのは、アルファが手にしている和槍だ。

 長さはアルファの身長と同じ、170センチぐらいだろうか。長い柄の部分にはなにやら文様のようなものが刻まれており、その穂先は薄暗い中でもかすかな光を反射して――いや、どうやらそれ自体がぼんやりと発光しているようだった。

 見た目からして、明らかにいわく付きの代物である。

(そういやいつだったか、アオイさんが言ってたな。アルファさんも神具を持ってるって……)

 おそらくはそれが彼の持つ神具なのだろう。

 そんなことを思い出しながら、ティースは再びアルファに問いかけた。

「あの、アルファさん。そろそろ洞窟の中に入って探索することも考えたほうがいいんじゃないですか?」

「……」

「あのー……」

「……」

 まるで反応がない。

(……ダメだ、こりゃ)

 聞こえていないのか、それともあえて答えないだけなのか――常識的に考えればおそらく後者だろう。

(こっちも打ち解けるにはまだ時間かかりそうだなあ……)

 と、そのとき。

 カツ、カツ……カツ、カツ……

「?」

 かすかに甲高い音がティースの耳に聞こえてきた。なにごとかと見てみると、アルファの持っている和槍の刃先がかすかに振動し、足元に転がる小さな石を打ち付けている。

「……?」

 アルファの様子は変わらない。……いや。

「あ、アルファさん? どこ行くんです?」

 突然歩き出すアルファ。その足が向いた先は――洞窟とは真逆の方向だった。

「もういい」

「えっ? もういいって……今日の調査はもう終わりってことですか!?」

「……」

 カツ、カツ……カツ、カツ……

 返事はない。だが、どうやら肯定のようだ。

「ちょっ、アルファさん!? ……あ、す、すみません。そういうことらしいので、今日はありがとうございました!」

 モタモタしていると見失ってしまいそうで、ティースは慌てて2人の職員に頭を下げ、雨でぬかるんだ地面を蹴ってアルファの後を追いかけた。

「アルファさん! もう終わりってどういうことですか!」

 曇り空で太陽の位置は確認できない。だが、まだ昼にもなっていないことは確かだろう。

 アルファの足は、確実に宿の方に向かっていた。

「ま、まさか本当に終わりなんですかっ!?」

「……」

 カツ、カツ……カツ、カツ……

 どうやらホントにそれで終わりのようだった。




 デビルバスターになるような人間は当然のことながらかなりの戦闘力を持っているし、魔と戦うために必要な判断力もある程度は備えている場合が多いだろう。

 ただ、優秀なデビルバスターだからといって、チームに入って同じように活躍できるかというと、必ずしもそうではない。むしろ全体を見れば、それを苦手とする者のほうが多いかもしれなかった。

 一匹狼、とでも言おうか。誰かと協力して事に当たることを苦手とする人々。

 アルファという人物は、どうやらその枠で括られる性格のようだった。第四隊にずっと隊員がいなかったというのも、おそらくそういった事情によるものだろう。

 それが彼の素養によるものなのか、それとも単に経験が少ないせいなのかはわからないし、それでも他のチームと同じように活躍しているのだから、彼が有能なデビルバスターであることに疑う余地はないのであろうが、しかし。

(俺、なんのためにここに来たんだったかなぁ……)

 ティースがそんなことを思い悩んでしまったのも当然のことだろう。

 はっきり言って今の彼は、ただアルファに付き従うだけの付き人、もっと悪く言えばなんの役にも立っていない影のようなものだった。

(……でも。ファナさんのことだし、きっと俺をアルファさんと組ませたのは理由があるはずだ)

 そんなことを自分に言い聞かせ、どうにかそれに対するモチベーションを保つことには成功していたのだが。

(……それにしても)

 今の彼にのしかかっているのは、実を言うとそれよりも大きな悩み事だった。

「……はぁぁ」

 思い出して思わずため息。

 アルファに遅れること数分。雨の中、ティースが宿に戻ってきたのは昼を少し過ぎたぐらいの時間だった。

「シーラのヤツ、きっとまだ怒ってるんだろうなぁ……どうしよう。なにかうまい言い訳を――って、別にやましいことはなにもないんだけどさ」

 やましいことどころか、ティースはどちらかといえば被害者――いや、被害者になりかけていたほうである。

 しかしまぁ、そんなことを説明をしたところで、おそらく今のシーラには聞いてもらえないだろう。

「マーセルさんも冗談が過ぎるよな……ったく。あんなことしなくたって、ちゃんと話し相手ぐらいはするのに」

 そしていまだにティースは、マーセルから自分に向けられている好意が本物だとは、これっぽっちも思っていない。

 それは自己評価が低い性格だから、ということももちろんあるのだが、それに加えて彼は、女性というのは基本的に、本当に好きな相手にはあまり積極的になれないもの――という、少々偏った認識の持ち主だったのである。

 彼がそういう考えを持つに至ったのは、彼がもともと住んでいた地域の風習なんかも関わっているのだが、まあ、それはともかく。

 もちろん例外があることもわかってはいるものの、マーセルに対しては、ヒマつぶしに女慣れしていない自分をからかって遊んでいるんだろう、程度の認識しか持っていなかったわけである。

「とにかく、どうにかしてシーラの機嫌を直さなきゃ。話聞いてくれればいいけど……あの感じだとヘタしたらしばらくは無視されそ――」

「……」

「……」

 宿の玄関から廊下に出たところで、ティースはそこにいた人物と一瞬見つめ合ってしまった。

 2秒ほど固まる。

 そして、

「……おわぁっ!!」

「ご苦労様。ずいぶんと早かったわね」

「シ、シーラか……ただいま」

 たまたま通りかかっただけなのか、あるいはアルファが戻ってきたことを知って、ティースを待っていたのか。その真偽は不明だが、少なくとも彼女の機嫌があまりよくないであろうことは確かだった。

(……まだ心の準備できてないのに)

 引きつった笑みを浮かべたティースの背中を、冗談抜きの冷や汗が流れた。

 話す機会すら与えられないよりはマシだと、ポジティブに考えるべきだろうか。

 とにかくなにか言わなきゃと思い、

「あ……えっとアルファさんがさ。急に今日は終わりだって言い出して。楽が出来てラッキーだったなって……」

「そう。ま、どうでもいいわ、そんなこと」

 軽くおどけてみせたものの、どうやら効果はなかったようだ。その冷たい視線はまるで永久凍土のようである。

 そしてシーラは続けた。

「別に今朝のことを言い訳しろとも言わない。済んだことは仕方がないし、私がなにを言ったところで過去を変えられるわけでもないわ」

 その言葉にティースは慌てて、

「待ってくれよ、シーラ。今朝のは別に、未遂というか、そもそもマーセルさんはただふざけて――」

 シーラはキッとティースをにらんだ。

「私がしゃべっているのよ。いつ、誰が、お前に発言を許したというの?」

「――」

 反射的に体が固まった。

 気を取り直した様子で、シーラが続ける。

「私がお前に言うことはひとつだけ。今後、あのマーセルという女を近付けないようにしなさい」

「え?」

 拍子抜けした表情のティースに、シーラは片手を腰に当ててため息をついた。

「今朝のことがお前の意思じゃないことなんてわかってるわ。でも、そういうリスクがあるとわかってるなら、未然に防ぐよう努力なさいというだけのこと。簡単でしょう?」

「あ、ああ……なるほど」

 思っていたほどの罵声もなく、過酷な罰ゲームもどうやら回避できそうな気配に、ティースは思わずホッと胸をなでおろしかけたが、

「……あ。でも待ってくれよ。別にさ、昼間とか周りに人がいるところで話したりするのは構わないんだろ? マーセルさん、本当に俺の話を楽しみにしてるみたいで」

「……」

 だが、シーラは明らかに不満そうな顔をした。

「どうして? 別にお前がそこまでしてやる必要なんてないんじゃないの?」

「どうしてって……」

 ティースは口ごもった。

 その様子はどう見てもなにか隠し事がある人間の態度で、シーラはさらに表情を堅くする。

 そして、

「それはお前が――」

 と、そう言いかけたときだった。

「ちょっと。聞き捨てならないわね、今の話」

「!」

「あ……」

 視線を横に向けると、廊下の奥からマーセルがこちらに向かってくるのが見えた。

 ちょうど良いタイミング――いや、ティースにとっては、最高に最悪なタイミングだったのかもしれない。

 その証拠に、視界の端に見えるシーラの表情はますます険しくなっているようだった。

「ずいぶんと横暴な話だわ。そりゃあなたは私よりもティースくんとの付き合いが長いんでしょうけど、だからってそんな権利があるとも思えない」

 マーセルの口調は相変わらず挑戦的だった。いつものように温泉から上がったばかりなのだろう。見慣れた白のバスローブ姿で、一歩間違えば扇情的ともいえるその格好は、全体的にシックな装いのシーラとはまるで正反対である。

「あなたには、関係のないことよ」

 シーラもどこか挑発的な口調でそう言った。彼女がまともにマーセルと言葉を交わすのはこれが初めてだったはずだが、最初からケンカ腰だ。

 もちろんマーセルが黙って引き下がるはずもなく、

「関係大アリよ。ねぇ、ティースくん」

「……彼に近付かないで」

 ティースに近付こうとしたマーセルを、シーラが足を小さく踏みならして牽制する。

「……」

 マーセルはピタッと足を止め、そして横目で彼女を見つめると、その眉がほんの少しだけつり上がった。

「いったい何様のつもりか知らないけど、あんまりワガママが過ぎると、彼に嫌われちゃうわよ?」

「関係ないわ。あなたと違って、別に好かれようと思ってやっているわけじゃないもの」

「へぇ。じゃあどういうつもりで邪魔をするのか、ぜひとも聞かせてほしいものね?」

「……」

 シーラは一瞬だけ返答をためらったが、すぐに言った。

「話す必要ないわ」

「だったら、私もあなたの言葉には従えないわね」

 軽く手を振って、マーセルが再び歩き出す。

 ……空気が凍り付いた。

(えっと……)

 その渦中で、おそらく一番の当事者であるティースはただオロオロするばかりだったが、会話が途切れたその一瞬に、どうにか勇気を振り絞って口を開く。

「あ、あの、マーセルさん。シーラは別に悪気があってこんなこと言ってるわけじゃ……そ、それにシーラもさ。なにもそんな言い方しなくたって――」

「ああ、いいのよ。ティースくん」

 必死にフォローしようとするティースに、マーセルはニッコリと笑って言った。

「こう見えても色々経験してるの。こういうワガママなお嬢ちゃんの扱いも慣れたものよ」

「ちょ、ちょっとマーセルさん!」

 明らかに火に油を注ぐ発言である。

「……」

 案の定、シーラの表情は急激に険しくなった。

 大抵の場合において、実際の年齢よりも大人として扱われてきた彼女にとって、マーセルのその言葉はおそらく想像以上の侮辱だったのだろう。

 そしてシーラは言った。

「……ティース!」

「は、はいぃっ!」

 ティースは体を硬直させ、そして彼に近付こうとしていたマーセルも動きを止めてシーラを振り返った。

 そのときのティースとマーセルの距離は、およそ2メートルほど。

 シーラはそれをにらみ付けるように、

「もう忘れたの!? 私はお前に、その女を近付かせるなと、そう言ったのよッ!」

 激昂。

 まるで彼女らしくもない――……いや。それはしょせん、彼女のことをよく知らない者たちの言葉だろうか。少なくともティースは、シーラという人間の中にそういう激しい気性が存在していることも知っていた。

 ただ――

「……お、おい」

 それがとてつもなく珍しいものだったことに違いはない。

 少なくともこのネービスに来てから、いや、ネービスに来る前の少しの期間を含めても、ここまでの激情を彼女が見せたことはほとんどなく。

 だからティースはそんな彼女を見て、先ほどまであった焦りや恐れよりも、戸惑いや心配の感情のほうが先に立ってしまった。

「シーラ、ちょっと待ってくれ。もっと冷静に話を――」

「……いえ。いいわ、ティースくん」

 だが、たったひとり冷静な顔でマーセルが口を挟んだ。

「決めるのはあなただもの。どうしようと私は文句も恨み言も言わないわ。……あなたが決めて。あなたが近付くなと言ったなら、私はもうあなたの前に姿を見せないようにするわ」

「え……」

 ティースは驚いてマーセルを見た。

 あくまで落ち着き払っている。シーラのように怒鳴ることもなければ、ティースのように動揺することもない。

 それを見て、ティースの心は少し落ち着いた。

 冷静な思考が戻ってくる。

(……俺は――)

 シーラの言葉には極力逆らわない。それが彼の基本だ。実際、彼が真っ向から彼女に逆らうことなど稀だった。半年に一度あるかないかだろう。

 だが――。

「俺、そんなつもりはないですよ。マーセルさん」

 このときばかりは、きっぱりと、ティースはシーラの言葉に逆らうことになった。

「!」

 驚きの表情を浮かべるシーラ。

「ティース! お前――」

「シーラ……」

 次に彼女に向けたティースの視線は、明らかな戸惑いに満ちていた。

「お前……どうしちゃったんだ? 俺にだったらともかく、他の人にそんな理不尽なこと言うなんて、ぜんぜんお前らしくないじゃないか。……俺、今回ばかりはお前の言うことを聞くわけにはいかないよ」

「……!」

 シーラの表情に明らかな動揺が走った。

 目を見開き、口はなにかを言いかけて止まったまま。手は無意識のまま首筋に触れる。

 その次に表れたのは、失望。

 そして――

「マーセルさんはさ。ちょっとふざけ過ぎるところもあるけど、別に悪い人じゃない。もっと、ちゃんと話してみてくれないか? お前ならきっとわかってくれ――……あっ!」

 ティースの言葉は最後まで続かなかった。

「まっ……シーラッ!」

 ブロンドのポニーテイルを大きく揺らし、シーラはすでに彼らに背を向けていた。

 表情は見えない。追いかけることもできなかった。

「……シーラ」

 ポツリとつぶやくティースの声にも、大きな動揺があって。

 ……ここに来て改善を図るはずだった彼女との関係は、さらに悪化の一途をたどってしまったようだった。

(ああ……なんで、こうなっちゃうのかな……)

 失望感に、ティースは天井を見上げて大きなため息を吐いたのである。






 ――悔しい。

 悔しい、悔しい、悔しい!


 うつ伏せに倒れ込み、ベッドのシーツをグッと握りしめる。

 ティースがあれほど明確に反発するのは、めったにないことだった。

 たとえばその原因となったのがリィナやエルだったら、彼女は特になにも思わなかっただろう。だが、出会ってたった数日の相手のことを、彼がシーラの言葉よりも優先するなんてまったく考えていなかったのである。

 ……もしも今の彼女が本来の彼女だったなら、まずはその理由について考え、あるいはいくつかの可能性に思い当たって冷静に戻れていたかもしれない。

 だが、ここのところ彼女の歯車は狂いっぱなしだった。大きな環境の変化があって、いくつもの想定外があり、そのたびに妥協や設定の変更を行ってきた結果、今はその立ち位置すらもあいまいになっていたのだ。

 どうすることが自然で、どうすることが正解なのか――端的に言えば、彼女は自分を見失っていたのである。

 そんな状態にあった彼女の心が真っ先に求めたのは、この閉塞状態を打ち破るための変化だった。本来の慎重な彼女なら決して求めることのない拙速の変化。

 混乱した頭の中、ひとつの方法が思い浮かぶ。

 彼女の手の中には、圧倒的なアドバンテージがあるはずだった。

(あいつはきっとリィナのこと……だったら、これはリィナのためにもなるはず……)

 下唇をかみ、ゆっくりとベッドの上で仰向けになる。

(心配しないで……私は認めないわ。絶対に――)


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