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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第6話『ペルソナ・プリンセス』
43/132

その2『関係改善の決め手は温泉旅行』


 まだ2月だというのに、ネービスではまるで春のような陽気が数日間に渡って続いていた。

 道の端に少しだけ残っていた雪は完全に消え、気の早い草花は今にも芽吹こうかとしている。

 そんなうららかな日のミューティレイク邸の昼どき。

 正門を抜けて敷地内に入り、本館及び別館へと向かう道を半分ほどたどった後、進路を右へ変えてしばらく進んでいくと、そこにはまるで小さな丘のように隆起した場所がある。

 てっぺん付近は建物の2階と3階の間ぐらいの高さがあり、そこに立てばミューティレイクの敷地のだいたいが見渡せる場所だった。

「平和だなあ」

 そこに、ティースの姿があった。

「あたたかいし、風はちょうどいいし……」

 あまりに安穏としたセリフは、今もなお、汗だくになりながら特訓を続けているディバーナ・カノンの連中に聞かれたら、袋叩きにされそうな言葉である。

「ホント、平和だ……」

 丘の頂上に1本だけ生えた大きな木に背中を預け、ティースの口からはもう一度その言葉がもれる。

 彼がディバーナ・ロウの第四隊『ディバーナ・ゼロ』に所属するようになってから今日でちょうど1週間。

 この日は午後から、恒例となった執事のアオイによる授業を受ける予定だったのだが、直前になって彼に急用ができてしまい、1時間ほど予定が空いてしまったのである。

 そんなわけで、ティースはせっかく空いたこの時間を、気分転換のために使っていたというわけだ。

「ふぅ……」

 涼やかな風が走り抜けた。

 視線の先にはミューティレイクの本館と別館があり、庭では使用人たちが動き回っているのが小さく見える。

 ……と。

「ティース様!」

「……ん?」

 その声に遠くに向けていた視線を戻すと、白と紺の清潔感あふれるミューティレイクの使用人服に身を包み、長いストレートロングの髪を風になびかせて、小走りに駆け寄ってくる顔見知りの姿が見えた。

「リィナ?」

 その姿にティースは少しだけ胸を躍らせる。

 リィナ=グレイグ=クライスト。彼にとっては昔馴染みであり、最近再会した元王魔の少女である。

(……似合うなぁ、やっぱ)

 そんな少女の姿には、彼でなくとも多くの男性が胸を踊らせることだろう。それほど、そのスタイルは彼女にピタリとハマっていた。

「どうしたんだ、リィナ。仕事は?」

 リィナが近くまで来るのを待ってそう問いかけると、彼女はティースの眼前で立ち止まって少しだけ息を整えた。

 その姿を見てもわかるように、彼女はこのミューティレイクで屋敷の掃除やベッドメイクなどを中心とした、いわゆるハウス・メイドの仕事をしている。

 人間とは違う常識を持つ彼女のことを、ティースも最初は心配して見守っていたのだが、思っていた以上にうまく溶け込んでいるようで、最近ではあまり気にするようなこともなくなっていた。

「今はお昼休みをもらいました。それで、ティース様がここにいると聞いたので――」

 リィナはそう言って手にしたバスケットを示し、ニッコリと笑顔を見せる。

「一緒に食べようと思って、持ってきたんです」

「それで、わざわざ走って?」

 ティースは少しあきれたようにそう言ったが、もちろんそんな彼女の申し出がうれしくなかったはずもない。

「近くにいるのに、こうしてティース様と話す機会もなかなかないですから。隣、失礼しますね」

 リィナは服が汚れないようにと持っていた大きめのスカーフを地面に敷いて、そこに腰を下ろした。

 長い髪がふわっと風に踊る。

 それをなんとなくながめながら、ティースもリィナの隣に腰を下ろした。

「では、食べましょうか?」

 リィナがそう言いながら、さっそくバスケットのフタを開く。

 中に並んでいたのは、パンの間に具を挟んだ、いわゆるサンドイッチだった。ただ、挟んである具は、あまり見慣れない感じのものが多い。

 もしかして、と思い、ティースがリィナの顔を見ると、

「あ、今日は厨房にあった余りものをいただいて、見よう見まねで自分で作ってみたんです。こちらの世界の食材は見慣れないものばかりで、まだ良くわからないんですけど、自分で味を確認して合いそうなものを選んで」

「あぁ……なるほど」

 そういうことならば、普段見慣れない組み合わせがあるのも当然だろう。

 するとリィナは少し不安そうな顔をして、

「あの……もし口に合わないようでしたら、すぐにちゃんとしたのを持ってきますから――」

「ああ、いや。味は確認したんだろ? だったら絶対に大丈夫だよ」

 もちろんティースはそう答えた。

 彼女が少ない休み時間を利用してわざわざ作ったものだ。多少の味など気にするはずもない。

 ……と、思っていたのだが。

(あれ。でも、待てよ。リィナって確か――)

 『そのこと』を思い出したのは、ひとつめ――見た目からして一番無難そうな、すりつぶした玉子のようなものが挟まったサンドイッチを口に運んだあとだった。

(……!!)

 食べた瞬間、口の中に広がったのは、この世のものとは思えない甘ったるい香り。

「どうですか?」

「い、いや……うん」

 狼狽しながらも、もう一度サンドイッチを口に運ぶと、背中になにかむず痒いものが走った。

「お、おいしい……かな」

「本当ですか?」

 パァッと、リィナの表情が輝いた。

「それじゃあ、私もいただきますね。あ、ティース様も遠慮せずにどんどん食べてください」

「あ、ああ……」

 ひとつめを完食して、再びバスケットの中へ視線を移す。

 ……サンドイッチという見慣れたはずのものが、ティースの目には未知の食べ物のように見えていた。

(そうだ。リィナって、とんでもない甘党だった……)

 先ほど思い出したのはそのことである。

 スクランブルエッグのように見えたのは、バナナらしき甘い果物をベースにしたクリームだ。しかも標準的なそれよりもかなり甘さが強化されている。

 決してまずかったというわけではないし、おいしそうにそれを口に運んでいる彼女のように、そういう味を好む者も中にはいるだろうが、ティースはそうではなかった。

 ついでに言えば、リィナのそれは一般人の常識を少々、いやかなり逸脱したレベルであり。

 正直なところ、ティースはたったひとつ食べた時点で、すでに強い胸焼けを覚えていたのである。

「……ティース様?」

 手を止めたティースを不思議そうに見つめるリィナ。

「えっと……いや」

 正直に打ち明けようかとも思ったが、絶対に大丈夫と言った手前それも気が引けて、ティースは結局ふたつめに手を伸ばしてしまった。

 手に取ったサンドイッチの中身は、おそらくラズベリージャム。他の怪しげなものよりは、正体の知れているそれが一番無難だと感じたゆえの選択だった。

 だが、それはもちろん『甘い』考えで――

「ここのジャムは少し甘さが控えめのようなので、砂糖を加えてみたらちょうどよくなりました」

「あ、そう……」

 ふたつめ、完食。

(うっぷ……)

 それが食べられないレベルなら、心を鬼にして拒否することも可能だったのだろうが、なまじ普通に食べられるものだっただけに、そうすることもできないまま――

「ごちそうさまです」

「ごちそうさま……」

 結局5つほどのサンドイッチを食べ、ティースの体は完全に糖分過多の状態におちいっていた。

(うぅ、口の中が甘ったるい……なにか飲み物――)

 おそらくはそんな彼の心情を(中途半端に)察したのだろう。リィナは準備済みのコップを彼に差し出して、

「飲み物です。どうぞ」

「……」

 普通の牛乳……のように見える。だがもちろん、それがどんな味であるかは想像するまでもなかった。

 なんとか牛乳らしき甘ったるい液体を飲み干して――

(……今度、折を見てそれとなく忠告してあげなきゃ)

 ティースは心にそう誓いつつ、今日のところはひとまず別の話題を振ることにした。

「……そういや、リィナ。仕事はだいぶ慣れたかい?」

「ええ。思っていたよりも大変です」

 リィナは後片付けをしながら、素直にそう答えた。

「だろうなぁ……」

 あれだけの広さの屋敷だ。いくら人数がいて分担されているとはいえ、毎日の掃除だけでも大変な手間だろう。

 まして彼女には、仕事という行為自体が初体験のはずなのである。

「でも楽しいです。みんな親切ですし、充実というんですか? そんな感じがします」

「……そっか」

 その言葉に、ティースは改めて胸をなで下ろした。

 このミューティレイクはその家柄だけあって厳しい職場だが、代わりに環境はしっかりと整っている。仕事に対する真剣な気持ちさえあれば働きやすいはずだし、リィナにとっては最良に近い条件だったのかもしれない。

(でも、これも全部ファナさんのおかげだ。ほとんどなにも聞かずに2人を雇ってくれて……)

 言うまでもないことだが、リィナもエルレーンも素性を証明するための正式な戸籍などはもちろん持っていない。だが、ファナは、ティースが保証人になるという条件のみで彼女たちの面接を行い、結果こうして採用される運びとなったのである。

 このミューティレイクのような家柄のはっきりした家では、本来考えられないことだ。

 ただ、執事のリディアいわく、別にティースたちが特別扱いだったわけではなく、ディバーナ・ロウ絡みではそういったこともそこまで珍しくはないらしかった。

 そして――

「それじゃあ、私はそろそろ仕事に戻ります。ティース様」

 ゆっくりと立ち上がったリィナは、弾んだ笑顔で彼を見下ろした。

「ああ。無理しないようにな」

 ティースも顔を上げ、太陽を背にした彼女を見上げる。

 あたたかな風が吹いて、まるでその周囲だけひと足先に春が訪れたかのような、そんな錯覚に襲われた。

「ティース様こそ体には充分に気をつけてください。私、仕事中も、食事中も、寝る前も、いつでもティース様のことを思っていますから」

 あたたかな微笑み。まるで花が咲いたかのような笑顔。

 ティースはやはり少しだけドキドキしてしまって、

「あ……ああ。ありがとう、リィナ」

 胸焼けはいつの間にか消えていた。

 あまりにストレートで、あまりに純粋なその言葉は、特にここ最近のティースにとっては新鮮で、たとえお互いにそういう意識がなかったのだとしても、彼の心をいちいち躍らせてしまうのである。

「それでは、ティース様。また」

 そう言って小走りに遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、ティースは温かい気持ちで見送っていた。

 ……と。

(あれ?)

 リィナを追っていた視線の先。

 そこに、やはり彼の方へと向かってくる見覚えのあるシルエットを見つけた。

 リィナとは少しデザインの違う使用人服に身を包み、なぜか同じようなバスケットを手にした、輝くポニーテイルの少女である。

(……シーラじゃないか)

 シーラ=スノーフォールは、彼が保護者として面倒を見ている少女で、このネービスでも伝統のあるサンタニア学園の薬草学科に通う三回生……だったが、今は諸事情により休学しており、4月から三回生をもう一度やり直すことになっていた。

(でも……なんでまたあんな格好してるんだ?)

 思わず首をかしげる。

 確かに、ティースが2ヶ月ほどここを留守にしていたときは、彼女自ら志願してここの使用人として働いていたようだった。

 だが、彼が戻った今となってはもう、その必要はないはずである。

「あ、シーラ様ー」

「あら。リィナじゃない」

 屋敷に戻っていくリィナとこちらに向かってくるシーラは、当然のごとく途中ではちあわせ、そこでなにやら立ち話を始めたようだった。

 ただ、内容はティースの耳にはほとんど届いてこない。

(なに話してるのかな……?)

 少し気にはなった。

 ……意外と言うべきか、あるいは当然と思うべきなのか。シーラは久々に再会した2人――リィナとエルレーンに対しては、ここ数年見たこともないような驚きをあらわにし、彼女たちが使用人として正式に働きだすまでの数日間は、自分の部屋に2人を泊めて、夜通し語り明かすほどの喜びようだった。

 過去のことを考えれば当然の反応ともいえるが、最近の彼女の態度から見れば少しだけ意外でもあり――

(……なにが、変わったのかな)

 視線の先で言葉を交わす2人は、お互いに成長したこと以外は昔とまるで変わっていないようにも見えた。

 リィナは先ほどティースに向けていたのと同じ微笑みだったし、対するシーラも、最近の彼には見せないような屈託のない笑顔を浮かべている。

 ……いつごろからだっただろうか。

 彼女があの笑顔を、決して見せないようになったのは。

(まいったなぁ……)

 苦笑しながらも、胸の奥が少しだけきしむ。

 ティースだって、そのことをどうでもいいと思っているわけではないのだ。ただ、慣れてしまい、なかば諦めてしまっただけで、それが彼にとってネガティブなできごとであることに変わりはなかった。

「あ……」

 どうやら会話が終わったらしい。リィナが屋敷の方へと戻っていく。

 そして――

「おっ……おーい、シーラぁっ!」

 同じようにそのまま去っていこうとするシーラを、ティースは思わず大声で呼び止めていた。

「……?」

 シーラが立ち止まり振り返ったのを見て、慌てて腰を上げて走り出す。

「なに? どうしたの?」

「いや……はぁっ……」

 慌てすぎたのだろう。たいした距離でもないのに、ティースの息は少し切れていた。

 ゆっくりと息を整え、それから顔を上げて、

「ほ、ほら……最初、こっちに向かって来てただろ? だから俺になにか用があったんじゃないかと思ってさ」

「ああ……」

 シーラは納得したようだったが、すぐにそっけない言葉がそれに続いた。

「あったけど、もうなくなったのよ」

「え? あっ……ってことは、俺じゃなくてリィナを探しにきたのか?」

「……」

 シーラは少し考えるように視線を流した。正直に答えるか、適当にあしらうか迷ったのだろう。

 その思考が一体どのような順序をたどったのかは定かではないが、結局シーラは正直に答えることにしたらしく、

「これ」

「え?」

 彼の目の前に差し出したのは、手に持っていたバスケットだ。

「お前の昼食を持っていくようにエルに頼まれたのよ。あの子が用意したのだけど、急に仕事を頼まれたらしくて、代わりにね」

「あ……あぁ、そういうことか」

「でも、リィナが先に持ってきてたようだし、もう必要ないでしょう? だから戻ろうとしただけ」

 シーラはそう言いながら屋敷の方を振り返った。視線の先では、ちょうどリィナが屋敷の中に戻っていくところだ。

「そ、そっか……」

 なんともタイミングの悪い話である。

「そういうことよ」

 そう言って背を見せるシーラ。

「あ……待った」

 だが、ティースはとっさにそれを引き留めて、強引に会話をつなげる。

「そ、そういやさ。エルのヤツ、俺ひとり分にしちゃずいぶん大きいのを作ったんだな。俺、昔ってそんなにたくさん食べてたっけ?」

「……」

 肩越しに振り返るシーラ。その視線が自らの手の中――バスケットへと落ちる。

 確かに。それはリィナが持ってきたものと同じか、少し大きいぐらいだった。ひとり分にしては明らかに多い。

 シーラはもう一度視線を泳がせて、

「半分は私のよ」

「え?」

 きょとんとした顔のティースに、シーラは少し眉をひそめた。

「なに? 私がお昼を食べるとなにかおかしい?」

「い、いや、そんなことあるはずないだろ! ただ……いや、じゃあ一緒に食べるつもりで……?」

 シーラはため息をついて、

「エルがね。自分の分も別に作ってあって、私たちと、できればリィナも誘って外で食べたかったみたい」

「ああ、なるほど……」

 彼女なら考えそうなことだった。

 シーラはさらに続ける。

「せっかくあの子が作ってくれたのだし、こうして詰めてくれたものをわざわざ分ける必要もないでしょう? それに、朝だって夜だって同じ食堂で食べてるじゃない。お昼を外で一緒に食べることぐらい特別なことでもないでしょ」

「あ……いや。別にそのこと自体をどうこう言ってるわけじゃなくて」

 息もつかせぬ言葉の波にティースはたじろいだが、かろうじて言葉を返す。

「で、でも、俺はちょっと楽しいかも。ほら、天気もいいし、たまにはピクニック気分ってのもさ――」

「なにを言ってるの?」

 そう言って、シーラは怪訝そうな顔をする。

「お前はもう、リィナとお昼を食べたのでしょう?」

「……あ。そっか」

 言うまでもなく、ティースのお腹はすでにそこそこ膨れていたし、それ以上に胸がいっぱいだった。

 そんな彼を、シーラはあきれ返ったような視線で見つめる。

 そして、そのまま背を向けて――

「いやっ……あ、そ、そうだ!」

「?」

 ティースはピンと閃いた。

 そしてもう一度振り返った彼女に向かって提案する。

「ちょうど良かった。俺、リィナが持ってきた分じゃちょっと足りなかったんだよ!」

「え?」

 あきれ顔が、少しだけ驚きの表情に変わった。

 もちろんそれはとっさの思い付きで言ったことだったが、まるっきりの嘘というわけでもなく。彼の口は甘いもの以外の味を猛烈に求めていたのである。

 そしてティースは言った。

「だからさ。やっぱり一緒に食べないか? さっきも言ったけど天気もいいし、風も気持ちいいし、せっかくバスケットに詰めて持ってきたのに、屋敷に戻って食べるのはもったいないじゃないか」

「……」

 すぐには答えず、シーラは一度屋敷の方へ視線を流した。

 そのまま少し考えて、次に先ほどまでティースが腰を下ろしていた丘を見る。

 やや強い風が吹いて、水飴のようなブロンドのポニーテイルが少しだけ踊った。

(……ぁ)

 ティースの視線は思わずその様を追ってしまう。

 見慣れていても、ふとした瞬間にこうして視線を奪われることはあった。もちろん彼だって素直にそれを、彼女のことを、綺麗だとは思っているのだから。

 やがて、

「リィナとは、どんな話をしていたの?」

「え?」

 その言葉に我に返る。

 シーラがよそ見をしていたのは彼にとっておそらく幸いだろう。じっと見つめていたことに気付かれたら、また不審な視線が返ってきていたに違いない。

「あ、うーん。話っていう話はしてないけど、一応仕事の話とかしてたかな」

「そう」

 言って、シーラは丘の方へ歩みを進めていった。

「あ……シーラ?」

 明確な返事はなかったが、その行動からすると昼食の件は了解とみてよさそうだ。

 ホッとしながら、ティースはその後をついていく。

 会話は自然に続いた。

「2人とも意外に大丈夫そうね。エルは大丈夫だろうと思っていたけど、リィナのことは少し心配だったわ」

「俺もだよ。初日なんて、いつ変なこと言い出すかと思ってドキドキしながら見守ってたからさ」

 ティースがそう言うと、シーラの肩が小さく揺れた。背中を向けていたのでわからなかったが、どうやら笑ったようだった。

 そうして丘の上まで来ると、シーラはバスケットと一緒に持っていた小さめのシートを長方形にして横に敷き、その端のほうに腰を下ろす。

「……」

 少しためらったが、ティースは空いているスペースに同じように腰を下ろした。肩が触れそうな距離で、もしかしたらなにか言われるのではないかとハラハラしたが、彼女は特になにも言わず。

(……今日は機嫌いいのかな?)

 なんとなくそんな気がした。

 こんな近い距離で話をすることなんてここ数ヶ月、へたすれば1年以上なかったかもしれない。

 大木の幹に背を預け、ゆっくりと息を吐き出す。

 そうしてふと、

(あ。背、伸びたかな……?)

 彼女が以前と少しだけ変わっていることに、ティースは初めて気付いた。この1年で5センチほどは背が伸びて、今はおそらく165センチぐらいだろうか。

 女性としては平均よりもそこそこ高い方である。

「……」

 そんな彼女の姿に、ティースの古い記憶が少しだけ呼び起こされる。

(そういや……あの人も周りよりちょっとだけ背が高かったっけ。顔も、やっぱりだんだんと似てきて――)

「でも、昔に比べると背も伸びて、すごく可愛くなったでしょう?」

「え?」

 突然の問いかけに、ティースは目を丸くしてシーラを見つめた。

 そして戸惑う。

(な、なんだ、突然……?)

 どう答えていいやら迷った。

 だが、迷った末に……正直に答えることにする。

「そ、そうだなぁ。でも、ほら。背とか関係なく、昔からすごくおとなびてたじゃないか。俺が言うとまたなにか言われるかもしんないけど、昔から可愛いっていうか、きっと美人になるんだろうなぁとは思ってたし……うん。実際そうだったなって、そう思うよ」

「そうね」

 どこかそっけなくうなずいて、シーラは少し考えるような顔をした。

 そして、しばらく沈黙。

(……なんだろう。急にそんなこと聞いてくるなんて)

 疑問に思いながらも、ティースは彼女が脇に置いていたバスケットを開き、昼食の準備をしていく。

 ……やがて。

「別に……いいと思うけど」

 つぶやくようにシーラの口が開いた。

「え? なにが?」

 わからない顔のティースに、シーラは小さく首を振って、

「とぼけなくてもいいわ。お前の態度を見ていればすぐにわかる。……好きなんでしょ? 隠す必要ないじゃない」

「……え?」

 あっけに取られるティース。

 シーラはさらに続けた。

「たとえば恋人として付き合うことになっても、きっとうまく行くと思うわ。問題は色々あるでしょうけど、そういうことなら私も積極的に協力するから。ほかならぬ――」

「え……えええぇッ!!?」

 突然のことに、ティースはおおいに慌ててしまった。

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! いきなりそんなこと言われても、突然すぎてなにがなんだかわかんないよ!」

 だが、そんなティースの態度にシーラは目を細めて、

「隠さなくてもいいと言っているでしょう?」

「か、隠してるっていうか!」

 ティースは顔を真っ赤にしながら声を大にし、意味不明の身振り手振りをしながら反論した。

「そ、そりゃ、俺はお前のことすごく大事だし、幸せになって欲しいとは思ってるけど、そ、そんな恋人だとか愛し合うとか、そんな大それたこと考えてなんか――!」

「え?」

 そこでようやく、シーラのほうは話の食い違いに気付いたようだった。

 だが、ティースは気付かないまま、

「そ、それに、その、もし俺とお前がそんなことになったら、色々と、も、も、申し訳が――」

「ちょっ、ちょっと待ちなさい、ティース」

 シーラは彼を制止すると、コホンと咳払いした。

「お前……なにか勘違いしていない? 私が言ってるのはリィナのことよ?」

「……へ?」

 顔を上げたティースが間抜けな声をあげる。

 ……考えてみれば当然のことだった。もともと彼らが口にしていたのはリィナの話題であり、途中で回想モードに入ったティースが勝手に脱線しただけなのである。

 しばしの思考。

 ティースもようやくそのことに気付いて、

「うわぁっ!」

 羞恥に顔を真っ赤にすると、その場に平身低頭した。

「すまん! お、俺、ちょうどお前のこと考えてたから、勝手にお前の話だと思っちゃって!」

「……」

 視線を泳がせるシーラ。

 どうやら頭の中で、先ほどまでの会話を追ったようだ。

 やがて目を細め、

「……つまり? 私がお前に愛の告白をしたとでも?」

「うわぁッ!!」

 その言葉に自分の愚かさを再認識してしまったらしい。ティースはさらに地面に頭をこすり付けて、

「すまん! すまんすまんすまんッ!!!」

「……」

 傍から見たら、そんな彼らのやり取りはいったいどんな風に見えただろうか。

 恋人に土下座して許しを請う情けない男か、あるいは女主人に慈悲を請う使用人か。どちらにしろ、上下がわかりやすい状況であったことは間違いない。

「……ふぅ」

 やがて、大きく深いため息がシーラの口をついた。

「みっともないからやめなさい。お前の大ボケはいつものことだし、いちいち気にしないわ。それに――」

 そう言って視線を横に流すと、いつものそっけない口調にほんのわずかな起伏が生まれる。

「背が伸びたとかの話も、私のことだと思って言ったのでしょう? ほめられて、別に悪い気はしないわ」

「え? ……あ」

 顔を上げたティース。先ほど自分が口にした言葉を思い出して、その意味に気付く。

 と同時に、数日前にリディアと話していた話題も脳裏を過ぎった。

(気味悪いって、言われなかったな……)

 そんなティースの表情に気付いたのだろう。

「なによ? 不思議そうな顔して」

「あ……いや。お前だったらたぶん、そういう言葉って聞き慣れてるんだろうなって思ってたから、ちょっと意外というか……」

 シーラはそれに対しては、平然と答えた。

「聞き慣れてるどころか、聞き飽きてるわね」

「そ、そっか」

 確かに異論を挟む余地はない。

 でも――、と、シーラは続けて言った。

「普段そういうこと言わない相手から言われれば、私だって少しは気にするわよ」

「……」

 そっぽを向いたままなのは、もしかすると照れ隠しなのかもしれない。そしてその一瞬だけ、いつもおとなびている彼女の横顔に、年ごろの少女の一面がのぞいた気がした。

(……なんだろう)

 そんなシーラの態度に、ティースはますますわけがわからなくなる。

 彼女のそういう反応は決して初めて見たものではない。昔の――このネービスに来る以前、そして来てしばらくの間には、何度も目にしてきたものだ。

 つまりは、それが本来の彼女の姿だったと言ってもいいだろう。

 環境が変わり、彼女も成長して変わってしまったのだろうと、ティースはそう思っていた。そうすることで、昔と今、自分と彼女の関係の食い違いを納得させてきたのだ。

 だが、リィナやエルレーンに対する昔と変わらない態度を見た。そして今、久々に彼女らしい仕草を見た。

 ……もしかすると、彼女自身はなにも変わっていないんじゃないか。

 そんな考えが頭をよぎってしまったのである。

(じゃあ……どうして?)

 そうして新たに生まれたのは当然の疑問だった。

 だが、そこに答えを見つけるには、今はあまりにも情報が不足している。

(俺、もっと知らなきゃ……知ろうとしなきゃ、ダメなのかもな……)

 本日2度目の昼食を口にしながら、ティースが真剣にそんなことを考えはじめた昼下がりの出来事だった。


 ――ちなみにこの日、彼は食べ過ぎでしっかりとお腹を壊したようである。






 ネービスの街から西に100キロほどの場所に『ラグレオ山』というネービス領唯一の火山がある。

 実際に噴火したのはもう100年以上も前のことで、そのふもとにあるロマニーという街は、ネービス領でたったひとつの温泉街として知られていた。

 貴族や金持ちの別荘、療養所、その他にも観光客用の温泉宿(すべて街が直接管理する公営宿だ)で栄えており、温泉を汲み上げる施設やそこにかかる人件費は温泉宿での収入のほか、そこに別荘を持つ大金持ちたちからの援助によってまかなわれている。

 温泉を汲み上げるための施設は街の外れにあり、魔の属性のひとつである『空』の魔力を利用した巨大な装置を、ラグレオ山のふもと――地下深い洞窟の中に設置し、そこから管を通して地上へと温泉が送られる仕組みだった。

 ネービス公はもちろんのこと、ミューティレイク家もまた、この施設に対する援助を行っている。

 そして……2月もなかばに差し掛かったころ。

 この温泉街ロマニーでは、少々困った問題が持ち上がっていた。

 温泉や温泉宿は、当然のことながら汲み上げ装置のある洞窟の近くに密集している。温泉を遠くまで運ぼうとすれば当然それだけ費用もかさむからであり、例外はネービス公や、その他有力者たちの別荘ぐらいのもの。一般客が利用する温泉施設は、ほぼすべてが洞窟付近に集まっているといってもいいだろう。

 さて、先ほども言ったように洞窟はラグレオ山のふもとにあり、ロマニーという街の全体からすれば外れの方だ。

 基本的に露天である温泉は、見上げればすぐさまラグレオ山の自然が見渡せる状態であり、施設の職員は野生動物たちを追い払うのに知恵を巡らせていて、ごく稀にだが、客が襲われて怪我をするという事故もあった。

 それがサルやキツネだというのなら害も少なく、まだ微笑ましい話で済む。クマなら少々笑えない話だが、そんな事例はあまり聞かないし、それで死者が出たという話も公式的にはひとつもない。


 だが最近、汲み上げ施設のある洞窟に棲み付き、この街の温泉客をときおり襲っていたのは、そんな生やさしいものではないようだった。


 ちょうどティースが食べすぎによる腹痛でベッドに転がっていたその日の夕方ごろ。

「え? アルファさんを? ロマニーに?」

 ミューティレイク別館の執務室。

 扉の真正面の机には夕日を背に、屋敷の主でありディバーナ・ロウの総帥でもあるファナ=ミューティレイクが座っている。

 そしてそれと直角に配された方の机には、彼女の補佐役であるリディアが座っており、疑問はその彼女の口から飛び出したものだった。

「あ、アルファさんっていうか、今は第四隊って言った方がいっか。一応ティースさんも、ってことだよね?」

「はい」

 ファナは手元の報告書らしきものを見つめながらうなずいた。

 温泉街ロマニーを襲った事件。それについて依頼主及び、ディバーナ・ロウの情報部隊『影裏』から伝えられた報告である。

「っていうか。あたし、そもそもこの件にディバーナ・ロウを出すの自体、賛成できないんだけどなぁ」

 首をかしげるリディアの手元にも同じものがあって、すでに中身に目を通した後らしい。

 チラッとその上に視線を落として、

「依頼主の情報と影裏からの情報に食い違いが多いんだよ。なんかすごく大袈裟に書いてる気がして信用できない」

 だが、ファナはそれに答えて、

「ですが、獣魔が街の方々を脅かしているのは、おそらく間違いのないことですわ」

「でも実際のところ、まだ被害なんてほとんどないんでしょ? あそこの街はお金あるんだし、その気になればフリーのデビルバスターだって雇えるじゃん。いざとなればネスティアスだって行くでしょ。ネービス公の別荘だってあるんだからさ」

 キィッ……と椅子をきしませて背もたれに寄りかかり、リディアは頭の後ろで手を組んだ。

「なのに、タダ同然でウチにやってもらおうなんてさぁ。なんか、足元見られてるみたいで気分良くない」

「……」

 そんな彼女に、ファナはやや肯定的な笑みをもらして、

「リディアさんのお気持ちは良く理解できますわ。ですが、あの街にはディバーナ・ロウに支援してくださる方々の別荘もたくさんございますから」

「あぁ、そういうのヤダヤダ。あたしの純真無垢な心が汚れちゃう」

 そう言いながらも、リディアの手元にはすでに制作完了した指令書があった。彼女もこの任務の必要性については承知済みで、ただ愚痴をこぼしていただけなのだ。

 やがて会話は脱線して、

「でも、あたしも行きたかったなぁ、温泉。入ったことないけど、肌が綺麗になるってホントなのかなぁ。……やっぱアレ? ファナさんの珠のようなお肌は、小さいころからロマニーの別荘で温泉に浸かってたおかげなの?」

「でしたら、リディアさんもご同行なさいますか? 向こうでディバーナ・ロウのために宿を用意してくださるそうですから」

「えっ、マジ!? 行ってもいいの!?」

 身を乗り出したリディアに、ファナはゆっくりうなずいて、

「はい。おそらく3人よりも4人の方が、にぎやかで楽しいと思いますわ」

「え、3人? アルファさんとティースさんと……あとは誰?」

 どうも計算が合わないような気がした。




 それから日も落ちて、屋敷の中が少し静かになったころ。

「ふぅ、ようやく落ち着いたぁ……」

 自室を出たティースは、まだどことなく違和感が残るお腹を撫でながら、玄関前の大階段を下りていた。

 夕食を抜いたためか今度は逆に空腹になり、なにか食べるものが残ってないかと思って様子を見に来たのである。

 そして階段を下りた先には――

「ん? やぁ、ティースくんか」

「よぅ、ティース」

「あ、マイルズさん。それに、レイさんも」

 玄関ホールに設置された質素な丸テーブル群。

 その一角では、屋敷の主治医であり第二隊『ディバーナ・ナイト』のメンバーでもあるマイルズ=カンバースと、そのナイトの隊長であるデビルバスター、レインハルト=シュナイダーがなにやら話に花を咲かせていた。

 彼らの手には麦酒があり、どうやらちょうど飲み始めたところらしい。

「お腹の具合はよくなったかい?」

 医者らしく、マイルズがまずそう尋ねてきた。

「ええ、おかげさまで」

「お腹空いたんだろ? 君にあげた薬、消化を促進させる作用があるからね」

「そうです。それで、厨房の方になにか残ってないかなと思って……」

 そこへレイが口を挟んで、

「ああ。なら、ちょうどいいだろ。ここに座れよ」

「え?」

 ティースは少したじろいで、

「いや、空腹にアルコールはちょっと……」

「よく見ろよ」

 笑いながらそう言ってテーブルの上を示すレイ。

 酒の肴だろうか。そこには夕食の残りらしきものがたくさん並んでいた。

「厨房に行っても、もうロクなもんは残っちゃいないぞ?」

「もらってもいいんですか?」

「というより、余ってた大半が元々お前のもんだ」

「あ、そういうことですか。……じゃあ、一緒させてもらうことにします」

 もちろんティースには断る理由もなく、素直にそこに着席することにした。

 そして食事を始めるなり、レイが尋ねてくる。

「で、どうなんだ。アルファのヤツとは?」

「どうだ、って言われても……」

 料理はすでに冷めていたが、テーブル上で切り分けられたチキンはまだ食欲をそそるスパイスの香りを漂わせている。

 マイルズから借りたフォークを伸ばしながら、ティースは答えた。

「アドバイスされるでもないですし、剣を交えて稽古するわけでもないですし……あの人に関してはなにもわからないっていうのが正直なところです」

 その返答に笑ったのはマイルズだ。

「はは、それはよくわかるね。アルファくんに関しては、僕もまだよくわからないよ。2年半もいて性別もわからないなんて、屋敷の主治医として失格かねぇ、やっぱ」

「あそこまで徹底的にガード固められちゃ、逆に疑いたくなるのが人の心理ってもんだがな」

 そんなレイの言葉を聞いて、ティースは尋ねてみた。

「レイさんもやっぱ、疑ってるんですか?」

「まあな。真実はどうか知らんが、あいつを直接見てそれを疑問に思わないやつはいないだろうさ」

 どうやら本当に誰も真実を知らないらしい。

 ティースは戸惑いながら、

「でも、もし女性だとすれば、当たり前だけどセシルの本当のお兄さんではないってことですよね?」

「ああ」

 その問いに対しては、レイはきっぱりと言った。

「お前そんなこと信じてたのか? アレが本当の兄妹なはずないさ」

「え?」

 ティースはあっけに取られて、

「でも、戸籍上はそうだって言うし、セシルだって疑ってる様子はないみたいですけど……」

「セシルがどう思ってるかは知らんけどな。アルファが男だとか女だとかいうことは別にしても、あの2人に血のつながりはない。9割9分な」

「?」

 いまだ疑問顔のティースに、マイルズがフォローするように言った。

「ティースくん。君、アルファくんとは何度も顔を合わせているだろ? あの銀髪はもちろん目に入ったと思うけど、瞳の色を見たかい?」

 ティースは首を横に振って、

「いえ、そこまでは……」

「かなり青っぽい色をしているんだ。銀髪と青瞳の組み合わせは、大陸の北西――このネービスから見て西の方にあるブリュリーズ領の秘境に住むイスラフェルっていう少数民族特有のものでね。もちろん多少は血が混ざってそれ以外にもああいう外見を持つ人はいるし、遺伝の関係で兄妹が違う色になることは珍しくないけれど――」

 中指で黒縁眼鏡をくいっと持ち上げる。

「君が言った戸籍によると、アルファくんとセシルくんは大陸南東のラッテ領出身だ。セシルくんは嘘をついていないだろうから、彼女は本当にラッテ領の出身だろう。ただ、アルファくんはどうかな。ブリュリーズ領とラッテ領の位置関係と彼の外見的特徴を考えると、確率的には低いと言わざるを得ない。ま、絶対ではないけどね」

「で、でも――あ、俺、酒はいいです」

 レイに薦められた杯を断って、ティースは続けた。

「自分の兄が他人と入れ替わっていたら普通は気づかないですかね? 髪や目の色もおかしいっていうなら――」

 マイルズは首を横に振って、

「いや。僕の言った髪とか目の色っていうのは少し専門的な話だからね。セシルくんはもちろん、アルファくん本人も知らないかもしれない」

「いや、それもそうですけど……」

 ティースはフォークに刺したチキンを口に運びながら首をかしげて、

「見た目とか雰囲気で……むぐ……わかったりとか――」

「彼女が親戚に引き取られたのは2歳になる前だそうだ。はっきりと覚えてるはずはないよ」

「……うーん」

 まだ疑問顔のティースに、レイが言った。

「そう信じるに足るなんらかの証拠があったのかもな。ま、本当に信じているのか、信じてるフリをしているだけなのか知らんが」

 マイルズもうなずいて、

「一番考えられるのは、アルファくんが本物のアルファ=クールラントと知り合いだったって線かな。……あぁ、この話、セシルくんの前では絶対にしちゃいけないよ。もし本気で信じていた場合、ショックを受けるかもしれないからね」

「あ、ええ。それはもちろん……」

 当然のことだった。

 レイが言う。

「あいつら自身が納得してるなら、そんな事情なんて勘ぐるものじゃないしな。……ティース、お前だってそうだろ?」

「え?」

 突然矛先を向けられてティースがびっくりすると、レイは空になったコップを彼のほうへ向けながら、

「お前だって、偽物の戸籍を使ってる理由なんて、いちいち探られたくはないんじゃないか?」

「えっ? ……な、なんでわかったんですか!?」

 ティースは驚いた。

 確かに彼が普段使っている戸籍は偽物で、出身はネービスの田舎ということになっている。そういった適当な田舎の戸籍は簡単に手に入るし、よほど公の職に就くのでない限り細かく調べられることはないのだ。

 レイは笑って、

「正直だな。ま、お前とあの王女様の場合、誰がどう見たってワケ有りだとわかるさ」

 どうやら確証があったわけではなく、カマをかけただけだったようだ。

「そ、そんなもんですか……?」

 納得できるようなできないような、そんな表情のティースに、レイはさらに続けて、

「そりゃそうだ。だって、なんのワケもなくあんな美人と2年間も同棲してたなら、もうとっくの昔に手を出してるはずだろ?」

「……むぐっ!? ……ぐっ」

 のどを詰まらせ、胸をドンドンと叩く。

「はい、ティースくん」

「っ……んぐっ……んぐっ……ふぅ」

 マイルズが差し出した水を流し込んでどうにかひと息つくと、ティースは恨みがましい目でレイを見て、

「モ、モノに、って、あのですねぇ……」

 だが、レイは意に介した様子もなく、

「それも、なんでか知らんが、あの王女様にだけはお前の厄介なアレルギーとやらが反応しない。……俺がお前の状況なら、移り住んだその日から口説いてるね。なんせ、そいつを逃したら一生女に縁がない生活かもしれないんだ」

「く、比べないでくださいよっ! 俺はレイさんみたいに女好きでも軟派者でもないんだから!」

 その反論に、レイは苦笑しながら軽く両手を広げて、

「どう思う、マイルズ?」

 マイルズは腕を組んで小さく首をかしげた。

「うーん。悪いけど、僕も隊長と同意見ですかねぇ。というより男の立場としては、そういう状況になることを向こうが認めた時点で、脈ありと判断するものではないかなと」

「マ、マイルズさんまで……」

 裏切り者を見るような目のティースに、マイルズは再び中指で眼鏡を押し上げながら、

「あくまで一般的な意見だよ、ティースくん。ただ、だからこそ普通に考えて――ああ、シーラくんがごく一般的な常識を持っているという前提だけども、彼女は君とそうなっても構わない、あるいはそうなっても仕方ないという覚悟があったということになると思うけどね」

「な……な……!」

 ティースは顔を真っ赤に――するかと思いきや、逆に青ざめながら興奮した様子で反論した。

「そんなことは絶対にありません! あいつはそんな――」

「……どっかの誰かさんと同じ反応だな」

 ボソッとつぶやくレイ。

「まぁまぁ、ティースくん」

 マイルズは苦笑しながらそんなティースをなだめて、

「あるいは常識の範囲を超えて、彼女がそうならないことを確信していたって可能性ももちろんあるよ。君が言いたいのはそういうことだろう?」

「そ、そうですよ! それに、実際そうです!」

「はっ」

 レイは鼻で笑うと、使用人の女性が持ってきた麦酒のおかわりを空のコップと交換しながら、

「自慢していいもんかどうか微妙だぞ、そりゃ」

 マイルズも賛同して、

「生物学的に言うと、むしろ恥じるべきことかもしれませんねぇ。まぁ、いまだ人類繁栄に貢献していない僕が言うのもなんですが」

「それを言っちゃ俺も同じだがな」

「いえいえ。隊長の場合、知らないところですでに貢献してる可能性が高いですから。きっとそのうち赤ん坊を連れた女の人が押し掛けてきますよ。そのときは、僕が責任を持って、無条件で隊長の子供だと認定しますから」

「おい、ふざけんな。無責任の極みじゃねえか」

「……」

 2人の掛け合いは、残念ながらティースにとっては敷居が高すぎたようだ。

「……はぁ」

 我に返ると、先ほどまでの興奮も冷めてしまって、

「あの。じゃあ俺、腹も膨れたからそろそろ戻ります」

 ため息をつきながら、空になった皿に手をかける。

「あ、悪いね、ティースくん。酒の肴にしてしまって」

「はは……慣れてますから、そういうの」

「それもわびしいねぇ。……ああ、そうだ」

 なんともいえない苦笑を浮かべた後、マイルズは人差し指を立てて、

「おわびにひとつアドバイス。シーラくんのこと、しつこいようだけど」

「?」

 怪訝な顔で振り返ったティースに、マイルズは言った。

「彼女が実際になにを考えているのかは僕にもわからないけど、あの年ごろの女の子が男と2人きりでの生活をするのには、やっぱりそれなりの覚悟が必要だったと思うよ。……彼女、なぜかたまに遊び回ってる風を装うけど、きっと貞操観念はかなり強い方だ。これは、隊長のセクハラ発言に対する反応からも間違いない」

「……セクハラってひどい言い様だな。勝手に悪役にしやがって」

「だって隊長はいつだって悪役ですからね」

 レイの抗議を軽く流し、マイルズはティースに問いかけた。

「正直に答えなくてもいいけど、彼女って結構いいとこのお嬢さんなんじゃないのかい? 君がいない間ここで働いていたときの言葉遣い、仕草、礼儀、どれを取ってもそう。あれは一朝一夕で身に付くものじゃないよ」

「……」

 ティースは少し困ったような顔で押し黙った。

 気にせずマイルズは続ける。

「まあともかく。そんな彼女がそれでも君と一緒にいたのは、まぎれもない強い好意の証だ。信頼とかに置き換えてもいい。君は彼女に邪魔者扱いされていると言うけど、それはそう簡単に揺らいだり変わったりするものじゃないと思うよ。だから君が彼女との関係改善を望むのなら、いっそ自信を持ってもっと踏み込んでみるのもいいんじゃないかな?」

「……踏み込む、ったって」

 ティースが弱り顔をしたのは当然だった。

「あいつ、俺がちょっと突っ込んだことを聞こうとすると、すぐに機嫌悪くしちまうし、なんていうかそれ以前の問題ですよ」

「はは、そりゃきっと、お前のやり方がよっぽど悪いせいだな」

 レイは小馬鹿にしたように笑って、

「俺が今のお前の立ち位置にいたら、あのガードの堅い王女様を確実に落とす自信があるね。信じちゃいないが、神に誓ってもいい」

「だから隊長のそれは目的から違ってますって。ま、でも、一理ある。たとえば女性はムードを大事にすると言うし、まずは彼女の心をほぐす舞台作りが必要かもしれないよ」

「ムードって、別に愛の告白をするわけじゃないんですから……そもそも話をする機会すら、朝食と夕食のときぐらいしか――」

「ああ。だったら、ちょうどよかったじゃないか」

「ええ。ちょうどいいですねぇ」

 と、なにやら意味ありげにうなずき合う2人。

「……え?」

 ティースが彼らの言葉の理由を知るのは、その当日になってからのことであった。




「ラダコーン草?」

「はい。シーラさんならご存じではありませんか?」

「もちろん知ってるわ。心臓の病に効く貴重な薬草だもの」

 ミューティレイク別館にあるファナの私室は、本館のものと比べるとややこぢんまりとしている。というのも、もともと別館に当主用の私室はなく、普通の客室を彼女の私室として使用しているためだ。

 外はすでに暗く、部屋を照らしているのはランプの明かりのみ。ベッドに腰掛けるファナはすでにナイトドレス姿で、どうやら今日はこの別館で休むつもりのようだった。

 部屋には廊下への扉以外にもうひとつ、隣の部屋へ通じる扉があり、そこには護衛のアオイが控えている。……とはいえ、その彼は主人よりも先に寝息を立てており、本当に護衛として役に立つのかどうかは怪しいものであった。

(……まあ、屋敷の中でめったなことなんて起きないと思うけど)

 ファナの正面でソファに腰掛けてそんなことを思うシーラも、彼らの奇妙な主従関係にはすでに慣れてしまっていた。

 ファナが話を続ける。

「ラダコーン草はデリケートで、栽培するのが非常に難しい植物と聞いておりますわ」

「ええ、そうよ。もともとこっちの世界の植物じゃないって説も有力だけど、なぜか活火山の周辺でしか育たないのよ。人工栽培するのは不可能ではないけれど、根気とコツが必要だと聞くわね」

「ところでシーラさん」

 ファナは急に話題を変えた。

「いつまでその服を着ておられるつもりですの?」

「え? ……そうね」

 自分の姿を見下ろすシーラ。昼間ティースの前でそうだったように、彼女は今もメイド服姿だった。

「特に決めてないわ。ただ、4月まではどうせ学園もないし、少しでも役に立てればと思ってね。逆に迷惑でなければいいのだけど」

「いいえ。そんなことはございません」

 ファナは即座にシーラの心配を否定した。

 本来、使用人としての教育を受けていない者がここでいきなり働くことはそう簡単ではない。先ごろここにやってきたリィナとエルレーンにしても、今はまだ他の者に付いて色々と学んでいる身だった。

 だが、彼女――シーラの場合は少々違っていて、

「ディトヴィードのおじさまがおっしゃっておられました。いったいどこの貴族の娘が花嫁修業に来てるんだと」

「ディトヴィードというと、おとといのあの方ね」

 シーラはその外見を活かすために接客の仕事を与えられており、その日に尋ねてきた初老紳士のことはもちろん覚えていた。

 ハドリアン=ディトヴィード。このネービスでもかなり名のある貴族の当主で、詳しいことはシーラにはわからないが、どうやらディバーナ・ロウの支援者でもあるようだった。

「シーラさんのお美しさはもちろんですが、なにより礼儀作法があまりに完璧でしたので、たいそうお気にいられたご様子でした。もし許嫁が決まっていないのなら、息子を紹介させてほしい、と」

「ありがたい話だけど、片田舎出身の一市民には荷の重すぎる話だからと、断っておいて」

 ファナはクスクスと笑う。

「ええ。おそらくそうおっしゃられると思い、すでにお断りしておきましたわ」

 シーラは小さく肩をすくめて、

「だいたいそういう話だったら、私よりもあなたの方がふさわしいのではないの?」

 至極もっともな意見だった。

 しかし、ファナは考える間もなく首を横に振って、

「私はどちらかと言うと、年上の男性が好みですの。おじさまもそのことは重々ご承知のようですわ」

「その子、いくつなの?」

「今年8つになったはずです」

「……」

 シーラはあきれ顔でため息を吐く。

「それで? ラダコーン草とその話、なにか関係があるのかしら?」

「ディトヴィードのおじさまは直接は関係ありませんわ。ただ」

 ファナはシーラの身につけた衣服をもう一度見て、

「もしシーラさんがまだお手伝いをなさってくださるのであれば、少々変わったお仕事をお願いしようかと思うのです」

「変わった仕事?」

「はい。ラグレオ山のふもとにラダコーン草の群生地があるのはご存じですね?」

 シーラはうなずいて、

「ええ。ラグレオ山はネービス領で唯一の活火山だもの」

「はい。それで、その群生地のそばのロマニーという街に、ラダコーン草の人工栽培に関する研究をなさっているニューマン=アーカーソンという方がいらっしゃるのです」

「……ああ」

 そこまで聞いて、シーラは即座に理解した。

「その人に、ラダコーン草の人工栽培についての話を聞いてこい、ということ?」

「はい。すでにこちらでも環境を整えて何度か栽培を試みたのですが、うまくいかなかったもので。彼に詳しいお話を聞くことができれば、あるいはと」

「それは別に構わないけど、私で大丈夫なの?」

「はい。その方、気難しいというほどではないのですが、知識のない者がお訪ねしてもなにも答えてくださらないそうです。その点、シーラさんでしたらお詳しいでしょうし、適任かと思いまして」

「私もまだ学生の身だけれど」

 そう言いながらも、シーラは明らかに乗り気の様子で、

「でも貴重な機会だわ。私でいいなら、こちらからお願いしたいぐらいよ」

 ファナは満足そうな笑みを浮かべた。

「そのニューマンさんのご子息夫妻が、ロマニーの公営宿の管理人をやっておられます。滞在中はそちらで宿を用意してくださるそうですわ」

「え?」

 シーラの表情に怪訝そうな色が走って、

「向こうでわざわざ宿を用意してくれるの?」

「はい。シーラさんのお仕事はそう長くかからないでしょうから、その後は他の皆さんの任務が終わるまで、ゆっくりと温泉でも楽しんできてください」

「え? ……他の皆さん?」

 彼女がその言葉の意味を知ったのは、やはり当日になってからのことだった。


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