その1『サン・サラス』
比較的陽気な2月下旬のある日。
学園都市ネービスの一角にあるミューティレイク家。広大な土地と数多くの建物を所有するこの大貴族の家は、当然ながらそれを維持するために大勢の使用人を雇っている。
男性使用人たちの頂点にいるのは30代なかばの若きバトラー、パブロ=シンプソンだ。
その下では、主に屋敷外や力仕事などの雑用を担当するフットマン、馬車や馬の管理、世話をするグルーム。広大な庭の管理をするガードナー、料理を作るコックや給仕担当のボーイなどが働いている。
一方、女性使用人たちの頂点にいるのが20代なかばのやはり若きハウス・キーパー、アマベル=ウィンスターである。
その下には屋敷内の掃除や洗濯、各部屋のベッドメイクやその他雑用を担当する数多くのハウス・メイド、厨房や台所周りの手伝いをするキッチン・メイド、給仕を担当するウェイトレスのようなパーラー・メイドたちがいる。
その他、この屋敷ではバトラーやハウス・キーパーとは別に、他の使用人たちから完全に独立した当主の補佐役として2人の執事、その下に侍女長と2人の侍女がおり、その他、屋敷の敷地外での仕事を与えられている者も含めれば、使用人の総数は軽く3桁にも及ぶだろう。
さて、そんな数多く存在する使用人たちの中。
そこに、やや異彩を放つ2人がいた。
昼どきの少し前。
「おぅ、エル! 忙しいとこ悪ぃんだが、こいつの味を見てくんねぇか?」
「あ、うん」
ヒゲを生やした40歳過ぎのコック長、プレスリー=ウッズワースに呼ばれたのは、質素で清潔な屋敷の使用人服に身を包んだ、身長140センチ余りの小柄な少女だった。
その口調には幼い響きが混じっており、その外見もあいまって、10歳を少し過ぎたぐらいの年齢に見える。
そんな彼女の名はエルレーン=ファビアス。つい最近、このミューティレイク邸の使用人として籍を置くようになった少女である。
こう見えてすでに15歳であり、2ヶ月後には16歳の誕生日も控えていた。
「どう思う?」
「うーん……」
プレスリーの言葉に、エルレーンは少し首をかしげて、
「もうちょっと酸味があった方がいいと思う。柑橘系の果汁を少し絞ってみたらどうかな?」
すると、プレスリーは自分でも再び味を見て、
「なるほど。それもひとつの手かもしれんな」
「あ、でも、自信はないから。変な味になっても怒らないでよね」
彼女が謙虚な言葉を口にすると、プレスリーは男くさい顔にニッと笑みを浮かべて、
「いやいや、お前の舌に間違いはねえ。毎度毎度悪いな」
「ううん。またボクで役に立てることがあったら、いつでもどうぞ」
満面の笑みを浮かべたエルレーンは、まるで舞うようにしてクルリと小柄な身をひるがえした。
そんな彼女に、再び声がかかる。
「おっ、なんだ。もう行っちまうのか?」
名残惜しそうにそう言ったのは、近くで作業をしていた若いコックだ。
「エルちゃんがずっと居てくれると、この戦場みたいな厨房も少しは潤うんだけどなあ」
確かに、今日はミューティレイク本館に客が訪れていたため、そのランチの準備で厨房はまるで戦場のような大騒ぎだった。
「ふふ、ありがと。そうしたいけど、ボクも仕事があるからね」
エルレーンは彼に微笑みを向けながら厨房の出口まで歩いていくと、もう一度クルッと身をひるがえして、厨房の全員に頭を軽く下げる。
「それじゃ、お邪魔しました。みんな頑張ってね」
「おぅ! 忙しいとこ悪かったな!」
そんなプレスリーの声に続いて、そこにいた10人近い料理人たちから次々に言葉が返ってくる。
「エルちゃんも頑張れよー!」
「体こわさない程度にな!」
「仕事で背が届かなかったりしたらすぐに呼ぶんだぞっ!」
「ちゃんと毎朝牛乳呑めよー!」
「イジメに遭ったりしたらお兄さんが相談に乗ってやるからな!」
「ふっ、確かに可憐だが、しかしまだまだ私の美しさには遠く及ばな――」
「俺と結婚してくれーっ!」
「……アホか、お前らはっ!!」
最後にプレスリーの突っ込みが入って、厨房は爆笑に包まれる。
「あはは、考えておくね」
最近では割とよくある光景に、エルレーンもおかしそうに笑って、
「それじゃ、お邪魔しました」
もう一度頭を下げ、いまだ笑い声に包まれる厨房を後にしたのだった。
そしてそのころ、屋敷内のまた別の場所。
もうひとりは、陽光の射し込む大きな部屋の中にいた。
「助かったわ。ありがとね」
「ええ。このぐらいはお安い御用です」
本館1階の奥にある客間。そこにはやはり、使用人服に身を包んだ2人の人物の姿がある。
片方は30歳過ぎぐらいの、少し小太りの女性。
そしてもうひとりは――
「いやあ、あたしたちじゃどうしても手の届かないところがたくさんあってねえ。わざわざ男どもに頼むのも面倒だし、リィナちゃんがいてくれて、ホント助かるよ」
「お役に立てたなら嬉しいです」
はにかんだ笑顔を見せる女性。
腰まで届きそうなぐらいの、まったくクセのない艶のあるロングヘア。優しげな雰囲気をたたえる大きな瞳と、やはり穏やかな印象を与えるわずかに下がり気味の目尻。
だが、その女性にはそれよりもっと目立つ特徴があった。
「リィナちゃんなら、普通の男どもが届かないようなところまで届くもんねえ」
もう片方の女性がそう言ったように、彼女は一般的に言って、非常に高い身長を持っていた。
身長181センチ。一般女性の平均を20センチ以上。そして、一般男性の平均も10センチ以上は上回っているだろう。
この屋敷にいる女性たちの中ではダントツでトップだし、男性を合わせたところで、彼女より背の高い人物はそう多くなかった。しかもそれは現段階での話であり、年齢を考えればまだ成長する可能性もあるだろうか。
なにしろ、彼女はまだ16歳。
リィナ=クライスト。彼女もまた、エルレーンと同じタイミングでこの屋敷にやってきた新顔だった。
「ホントあんがと、リィナちゃん。また――」
女性がそう言いかけたところへ、また別のところから声がかかる。
「リィナー! ちょっと、こっちもお願いー!!」
「あ、はーい」
どうやらもうしばらく、彼女の活躍は続くようだ。
……さて。
(心配すること、なかったなぁ)
想像以上に早く屋敷に溶け込み、それどころか人気者にもなっているそんな2人の様子を見て、密かにホッと胸をなで下ろす人物がいた。
(リィナの方は不安だったけど、問題ないみたいだ……)
長身でやや猫背、優しげな作りの童顔に安堵の表情を浮かべ、屋敷の玄関へ向かって歩いていくその青年。
ティーサイト=アマルナ、通称ティースと呼ばれる彼は、誕生日を間近に控えた18歳で、このミューティレイクが抱えるデビルバスター部隊『ディバーナ・ロウ』の一員であり、いわずと知れたこの物語の主人公である。
先ほどの2人は彼の昔馴染みであり、もともとは魔――それも強大な力を持つ『王魔』と呼ばれる存在だった。だが、今は特殊なアイテムによって人と変わらぬ姿になり、こうしてミューティレイクで働いている。
そんな、人間とは少し違う常識を持つ彼女たちが屋敷にうまく溶け込めるのかどうか、ティースはしばらく気にして事あるごとに様子を見ていたのだが、どうやら今のところはなんの問題もなさそうだった。
(これで、心おきなく次の任務に就ける)
さて。
ホッと胸をなで下ろした彼がミューティレイク邸別館の玄関を出て向かった先は、敷地内でも外れの方に位置しているひとつの建物だった。
そこはディバーナ・ロウ第四隊の詰め所。
第一隊『ファントム』。第二隊『ナイト』。第三隊『カノン』。だが、この第四隊だけは決まった名称がなく、しかも、部隊と言いながら、そこに所属しているのは1名のみ。
便宜上『ゼロ』と呼ばれることもあるこの第四隊に、ティースは史上初めての隊員として、本日から配属されることが決まっていたのである。
(アルファさん、かぁ……)
アルファ=クールラント。それが第四隊隊長の名前だ。
聞いた話によればティースよりもひとつ年下の17歳。誕生日も考慮すれば2歳近く年下ということらしかった。
「ふぅ……」
ティースの口からため息がもれる。
(いつものこととはいえ、今回も不安だなぁ……)
そんな彼の不安の原因は、数時間前に交わしたとある会話の中にある――。
「第四隊?」
長い旅を終えてミューティレイクに帰還し、本日から任務復帰というこの日の朝。
さっそく別館の執務室に呼ばれたティースは、ミューティレイク家の当主であり、ディバーナ・ロウの総帥でもあるファナ=ミューティレイクから今後のことについて聞かされていた。
「第四隊っていうと、例の……?」
「はい」
ファナは静かにうなずいて、その穏やかな瞳と柔らかな微笑みを彼に向けた。
「ティースさんもすでにご存じの通り、第四隊はたったひとりのメンバーによって構成されています。その方の名はアルファさん――アルファ=クールラントとおっしゃいます」
貴族のお嬢様と言えば、お淑やかな深窓の令嬢、あるいはわがままで高慢ちき、という2つのステロタイプなイメージをティースは以前から持っていたのだが、このファナについては、少なくとも見た目はいかにも前者の典型だった。
ただ、17歳――つまりはティースよりひとつ年下という年齢で、当主かつ総帥という2つの職務を完璧にこなしているだけあって、ただのお淑やかで世間知らずという人物では決してない。
「これからティースさんは第四隊の一員となって、アルファさんと協力しながら任務に当たっていただきたいのです」
「そうそう」
そんなファナの言葉に続けたのは、彼女のそばで事務的なサポートをする、まるで少年のような出で立ちの少女。
弱冠12歳の執事、リディア=シュナイダーである。
彼女もまた、ファナと同じように年齢に似合わぬ頭脳としたたかさを併せ持つ人物だった。
「アルファさん以外の人が所属するのは、ティースさんが初めてだよ。心してかかってね」
「……なんでそんなところに俺を?」
脅すようなリディアの言葉に、ティースが少し不安になってファナに問いかける。
ただ、ファナは静かに微笑んで、
「大丈夫ですわ。アルファさんはとても綺麗な方ですのよ。おそらくシーラさんにもヒケを取りませんわ」
意図的か天然か、どうにも軸のズレた返答がいかにも彼女らしい。
さすがのティースもそんな彼女の態度には慣れっこになっていて、苦笑しながら、
「ファナさん。それ、なんのフォローにもなってない……っていうか」
そこで初めて気付いた。
「え? アルファさんって、もしかして女性?」
だが、ファナはクスクスと笑う。
「さぁ、どうでしょう?」
「へ?」
リディアに視線を向けると、彼女も悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「せっかくだから、ティースさん自分で確かめてみてよ。ただし、ちゃんと遺書は準備してね」
「……はい?」
――というわけなのである。
(ったく。冗談なのか本気なのかわからないけど……)
性別すら明かされないというのは初めてのことだ。
(そのぐらいのことは素直に教えておいてもらいたいよ、まったく)
と、まあ。
あんまりそういったことにこだわりすぎると、仕事仲間の性別なんてどちらでもいいじゃないか――と、ある種のフェミニストたちに突っ込まれるかもしれないが、実をいうと、このティースという人物にとっては、それこそが一番大切だといっても過言ではない。
というのも、このティースという人物、『妙齢の女性に触れられると気絶してしまう』という、非常に厄介で奇妙な特異体質――女性アレルギーの持ち主なのである。
ましてや、今後しばらく、たった2人で任務をこなすということであれば、少なくとも触れられるのか触れられないのかぐらいはっきりしておかなければ、いざというときに大事故につながる可能性がある、というわけだ。
(……でも、あのファナさんの言い方だと、見た目は女の人ってことだよな? それでああいう言い方をするんだから、女の人みたいに見える男の人ってことかな?)
そんな感じで独自の推理を繰り広げながら、第四隊の詰め所に向かって歩いていくティース。
と、そこへ。
「あ、ティースさーん」
その視界の奥。
見覚えのある少女が進行方向からやってきた。
「あ……」
しかも、やってきたのは少女だけではない。
ゾロゾロ、ゾロゾロ、と。
「うわ」
何度見ても、それは異様な光景だった。
ティースに向かって手を振りながら先頭を歩くのは、10代前半と思われる少女。パッチリとした目に、冷たい風にかすかに揺れる栗色のセミロング。かなり見目麗しく、いかにも女の子女の子した可愛らしい少女だ。
そして、その後ろ。
「……」
「……」
「……」
真っ黒な皮膚に、まるで無表情にも見える無数の目。見慣れない人間であれば、威圧感どころか恐怖さえ覚えたかもしれない。
黒い体躯にしなやかな筋肉を持つ――それは犬だった。見るからに番犬といった犬種。それが10数匹、その可愛らしい少女におとなしく追従していたのである。
それはやはり、少し異様な光景に見えた。
「こんにちは、ティースさん」
そんな少女の名はセシリア=レイルーン。『屋敷のアイドル』――もとい、『屋敷の(番犬たちの)アイドル』と称される13歳の少女だ。
彼女が微笑むと、どんなに恐ろしい形相の番犬たちも一瞬で骨抜きになって愛玩動物へと変貌するという、不思議な魅力の持ち主である。
とはいえ、彼女のそれは一部の人間に対しても効果を発揮するようなので、単純に彼女のまとう優しく愛らしい雰囲気が、人間動物問わずに親しまれやすいというだけのことなのかもしれない。
「あれ、セシル。今日は学園休みだっけ?」
「はい。それで今日は、みんなと遊ぼうかなって」
ゾロゾロと番犬たちを引き連れて、セシルはティースの目の前で立ち止まった。
途端、その背後から放たれる無言のプレッシャーがティースに襲いかかる。
(……なんだかなぁ)
その様は、そのままアイドルの親衛隊である。
ただ――その番犬の群の中に、1匹だけ異質なもの、銀色の毛を持つ『狼』が混ざっている。
その『マルス』という名の狼だけは、他と違ってどことなくまともな視線をティースに向けていた。
言うなれば、常識をわきまえた親衛隊長、といったところか。
「そっか。にしても、相変わらずすごいなぁ。いつもそんなにたくさんのペットを引き連れて――」
「20点」
「へ?」
驚いた顔のティースに対し、セシルはちょっと真顔で人差し指を立てた。
「ペットだなんて言っちゃ、ダメなのです」
まるで教師が生徒に指導するかのような口調で続ける。
「動物たちをペットと呼んでいいのは、きちんと養って、きちんと世話をしてあげられる人だけです。私はただ遊んでもらっているだけなので、この子たちとは対等なのです」
「な、なるほど……それは一理あるか」
彼女らしい理論というべきか。ティースは妙に納得してしまった。
セシルはニコリと微笑んで、
「わかれば、よろしいのです」
「はは……気を付けるよ」
思わずホッとしてしまう笑顔。
体質抜きに女性を苦手とするティースにとって、いまだ女性とも言い切れない年齢の彼女は、肩肘張らず気楽に話のできる数少ない異性だった。
……考えようによっては、それも非常に情けない話なのであるが。
「ところでセシル? その、手にしている鉢は?」
「え? あ、これですか?」
彼女が手にしていたのは、直径10センチほどの小さな鉢植えだった。そこに複数枚の葉を持つ一輪の鮮やかな紫色の花のつぼみが植えてある。
「これはレツィアーレの花です。今日咲くみたいなので、あとで部屋に持っていこうかと思って」
「レツィアーレ? 今日咲くって、まだぜんぜんつぼみの状態だけど……?」
怪訝そうに問いかけたティースに、セシルはにこやかに微笑みながら、
「レツィアーレの花は、夕暮れが迫るころに咲き始めて、日が沈むと同時に花を閉じてしまいます。ですから、その花を見ていられるのはほんのわずかな時間だけなのです。ちなみに――」
セシルはもう一度人差し指を立て、得意げな顔で続ける。
「花を咲かせる当日は、この下についてるたくさんの葉っぱが緑から少し赤っぽい色に変色するのです。とても綺麗な花を咲かせるので、この花を見るためだけに戦争が中断した、なんて伝説が残っているぐらいなのですよ」
「へぇぇ……」
もちろんティースのような男がそんな気の利いた知識を備えているはずもなく。
確かに今、その葉はほんのわずかに赤味を帯びているようだった。
セシルは少し悪戯っぽい口調で言う。
「男の方でもこういう知識を少しぐらいは備えておくべきですよ? そうしないと、女の子にはモテないのです」
「はは、考えておくよ」
気のない返事でティースは苦笑して、
「じゃ、俺はこれから仕事だから、そろそろ行くよ。また」
「はぁい。頑張ってくださいね」
手を振るセシルと別れ、さらには無数の無表情な視線に見送られながら、ティースはさらに歩みを進めていった。
(……冬もそろそろ終わりかなぁ)
ところどころに残っていた雪もほとんどが溶け、残っているのは端に寄せられた雪山の一部のみ。ここ数日は陽気も続いていたし、気温的にもそろそろだろう。
広大な敷地内でほんのわずかに春の気配を感じながら。
第四隊――通称『ディバーナ・ゼロ』の詰め所へ到着する。
そして、そこに到着したティースの最初の言葉は、
「……なんだ、こりゃ」
だった。
彼がこのミューティレイクに来てからすでに8ヶ月ほどが経過している。とはいえ、仕事や訓練が忙しいこともあって、まだ敷地内のすべてを把握しているわけではなかった。もちろん敷地の隅っこにあるこのディバーナ・ゼロの詰め所を目にするのは初めてことだ。
……詰め所?
そう表現するのが正しいのかどうか。
他の3部隊の詰め所はだいたい、普通の一軒家と鍛錬場が一緒になったような建物であり、大きさもそれなりだった。4、5人の隊員だけが利用するには大きすぎるかなと思うぐらいで、もちろんそこでずっと生活することも可能な設備が整ってもいた。
だが、しかし。
この第四隊ディバーナ・ゼロの詰め所は、それらとまったく違っている。
建物はまるで飾り気のない四角い箱のよう。面積は外観から想像するにせいぜい20畳弱といったところだろうか。
窓は南と東にひとつずつ。西側におそらく出入り口であろうドアがついており、北側はなにもない。
南に面した窓の外には洗濯物が干してあり、厚手のトレーナー、厚手のズボン、厚手の靴下に、厚手の手袋……それを身につけている人物はよほど寒がりなのだろうか。
「ミューティレイクの敷地に、こんな建物が……?」
そんなティースの疑問は当然だろう。まるでその建物だけ、どこか別の場所から持ってきたようだったのだ。
とはいえ、まさか異次元に迷い込んだわけでもあるまい。そこがゼロの詰め所なのは間違いないことだった。
「……」
不安に感じながらも、ティースは入り口に立ってノックしてみることにした。
1回、2回。
返事はない。
「あのー……アルファさん? 今日から配属されたティーサイトです」
3回目。
たったこれだけの広さだ。ノックが聞こえていないはずはない。とすると、不在か取り込み中か、あるいは聞こえていて無視しているか、のどれかだろう。
「入ってもいいですか?」
それでも返事はない。
仕方なくドアノブに手をかけると、それはあっさりと開いた。
――かすかに、花のような香り。
「え……?」
一瞬立ち止まったティース。
中の風景は、外観から想像できたとおりのものだった。
なんの飾りもないまっさらな壁。床も敷物はいっさいなく資材がむき出しのままだ。部屋の隅には少々場違いにも思える紫の花の鉢が置いてあり、一瞬だけ感じた香りはその花のものだろう。
ただ、ティースが見ていたのはそれらではない。
「アルファ、さん……?」
その鉢とは反対側の隅、そこには簡素なベッドがあり、ひとりの人物が腰掛けてその花を無表情に見つめていた。
と……その視線が、ゆっくりとティースに向けられる。
「――」
ティースは言葉を失った。
……なんと表現すべきだろうか?
腰まで届こうかという銀色の髪。肌は雪のように白く、やや切れ長の目とその奥の瞳は、無気力あるいは無感情。そこには深い陰のようなものを感じさせた。
ファナが言ったように、容姿の端麗さでは彼の良く知る少女、シーラ=スノーフォールにもヒケを取らないかもしれない。
だが……しかし。
『人形のような』とよく表現されるそのシーラですら、この目の前の人物に比べれば、圧倒的に『陽』の美しさだと言えるかもしれない。
アルファのそれは、それほどに憂いと影、脆さと儚さを同時に秘めた『陰』の美しさだった。
(――雪女)
それが、思わずティースの脳裏に浮かんだ言葉だ。確かにそう表現するのがもっとも適格かもしれない。
しかし。
実を言うと、彼が絶句した理由はそれだけでもなかった。
(けど、どうなってるんだ、このファッションセンス――)
そう。
このティースという男も、決して他人のセンスをどうこう言える人物ではないし、5段階評価をするならギリギリ2といった程度の劣等生だろう。
だが、そんな彼をしてもそう感じさせてしまうほど、アルファの服装は極めて特殊だった。
クリーム色のセーター、室内だというのに水色のマフラー、白い薄手の手袋もつけていて、かなりの厚着だ。
それだけならまだしも、セーターの下にはさらに色々着込んでいるようで体はアンバランスに膨れ上がっており、口元は幾重にも巻いたマフラーで隠れ、一見するとまるで我慢大会をやっているかのようだ。さらにセーターの胸の部分には大きなハートマークが刻まれている。
本人の儚げな容姿とあまりにイメージが食い違いすぎて、微妙に笑いすら誘う光景だった。
(ど、どういう人なんだ、いったい……)
それだけでは、とてもその内面を予測することはできなかったが、ティースを見つめる視線はやけに冷たく、そこだけは間違いなく雪女のそれである。
とはいえ――
(……女の人、だよな?)
いや、確認するまでもないだろう。そこにいたのはどこからどう見ても女性だ。
もちろん色々着込んでいるため体の線はまったくわからなくなっているが、男が天然でこの容姿だとは到底信じられなかった。
ただ、そうするとティースには、ますますわからなくなってしまうのだ。
(それじゃあ、ファナさんもリディアもなんであんな言い方を……?)
「ティーサイト、だったか」
「……え? あ、はいっ!?」
呼びかけに、慌てて反応する。
声は女性にしてはやや低めでハスキーだった。
呼びかけに返事がなかったことや、この異様な見た目から不安に感じていたが、まったくの無口な人物というわけではないらしい。
ただ、
「なにしに来たんだ?」
「へ?」
「まだ任務はない。ここに来る必要はない」
「え?」
ティースは驚いて、
「いや、でも、任務がなくても訓練とかあるでしょう?」
「訓練?」
視線が泳ぐ。そしてアルファはなにごとか考える素振りを見せた。
やがて、
「それは私が、君を鍛えるということか?」
「ええ。まぁ、たぶん……」
それ以外になにがあるというのか。まさかその逆でもあるまい。
だが、アルファは真顔のままで納得したようにうなずくと、
「そうか。それで、どうしたい?」
「へ? い、いや、俺に聞かれても……筋トレとか、稽古とか――」
「そうか。それなら、好きなようにやって構わない」
そのまま、視線を戻してしまった。
「え? あ、あの」
「……」
「アルファ……さん?」
「……」
「……」
どうやらこれ以上話してもラチが明かないようだ。
(……想像以上だな、こりゃ)
ティースは早々に会話を続けることを諦め、仕方なくナイトで繰り返してきた基礎トレーニングから始めることにした。
「……」
黙々とトレーニングをする傍らで、アルファは相も変わらず花の鉢を見つめている。アドバイスするでもなく、もちろん自らがトレーニングするわけでもない。
まるで、自分ひとりの世界をそこに作ってしまっているかのようだ。
(……やっぱり変な人だった)
と、ティースは密かにため息を吐く。
現在、このディバーナ・ロウに所属するデビルバスターは4人。アクア=レビナート、レインハルト=シュナイダー、レアス=ヴォルクス……そしてアルファ=クールラント。
それぞれにある程度の個性を持つ人々ではあったが、おそらくアルファの変人度は、その中でも群を抜いてトップだろう。
そうして無言の時間が過ぎ――約2時間後。
「はぁ、はぁっ……ッ!!」
したたり落ちたティースの汗が、床のところどころに小さな水たまりを作っていた。
(そ、想像以上にキツい……)
本格的なトレーニングをするのはここに戻ってきてからは今日が初めてだ。今までも体を動かさなかったわけではないが、それでもあまり使っていなかった部分の筋肉が悲鳴をあげている。
「はぁっ、はぁっ……ふぅっ……」
少しずつ、ゆっくりと呼吸を戻していく。むき出しになった床のヒンヤリした感触が心地良かった。
「あ、アルファさん……ひとまず、終わりましたけど……」
「そうか」
「……」
「……」
「あの、ふぅっ……次はなにをすれば……」
そう問いかけると、アルファはやや不思議そうな顔をして、
「まだ、なにかしたいのか?」
「まだ、って――」
2時間前と似たような問答の繰り返しだった。
(ていうかこの人、2時間ずっと同じ体勢のまま……)
とりあえず自分の体と、床に落ちた汗を拭き取ることにする。
そうしている間にも、アルファはまったくティースのほうには興味を示さず。
「……あの、アルファさん」
そうしてさすがのティースもようやく気付いた。
どうやらここは、今まで所属してきたところとは根本的に違っていて、まずはこの隊長とコミュニケーションを取ることが最優先であろう、と。
「少し話をしてもいいですか?」
「話?」
切れ長の美しい目がようやくティースをとらえた。
「ええ」
そう言いながらティースはその場に腰を下ろす。
もちろん彼は女性と話すことが苦手である。だが、近付かれされしなければ普通に会話することは可能だし、このアルファという女性は美しいことは美しいが、いかにも女性らしい色香とは無縁のようで、そういう意味では比較的話しやすい相手のようにも思えた。
「しばらくチームを組むわけですから、お互いのことを色々知っておいた方がいいかなって」
だが、彼女はそっけなく答えた。
「私には別に必要ないが」
「そ、その、俺には必要なんです」
食い下がると、アルファは意外にも嫌な顔はせず、
「君がそう言うのなら、それでも構わない。私のことを話せばいいのか?」
「え? あ、ええ……」
ティースは少々拍子抜けしたが、そんな彼の心情を気にした様子もなく、そのままアルファはまず自己紹介を始めた。
「アルファ=クールラント。17歳。12月25日生まれ。身長175センチ。体重55キロ」
「あ、175センチもあるんですね」
少し意外だった。ずっと座っているのと、やや膨れた厚着せいで感覚が狂っていたようだ。
「でも、アルファさん。自己紹介といってもそんな細かいところまでは――」
「性別、男」
「って……ええッ!?」
「どうした?」
ティースの驚愕の声に、彼女――いや、彼? は不思議そうにそう尋ねてきた。
「い、いや、だって……え? 男?」
「私が男だと、そんなに不思議なのか?」
「不思議っていうか――」
そのときになって、ティースはようやくファナたちの言葉の意味を知ることになったのだった。
「だ、だって、どう見ても女の人にしか見えません……」
「……」
アルファはなにごとか考える仕草をする。
こうして見ると化粧もなにもしていないようで、肌の白さも長くてくっきりとしたまつ毛も、すべて天然のものらしかった。
……ますます信じがたい。
そして考えた末、アルファは思い出したように自分の長い銀髪を指先に挟んで言った。
「もしかして、髪の長い男が珍しいのか?」
「いやいや! 髪が長いとか短いとかの話じゃなくて!」
ティースは手を振って否定する。
「もし髪を全部剃っても同じですよ、たぶん!」
「……」
再び考え込むアルファ。
「身長が175センチもあるのは、女にしては珍しい部類だと思うが――」
「俺の知り合いは180センチ以上ありますけど、れっきとした女の子です……」
「……。普通の女はこういう乱暴なしゃべり方はしない」
「ダリアとかドロシーはもっと乱暴かなと……」
「私が女だとしたら、もっと――」
「……というか」
ティースは怪訝そうな顔のまま、突っ込んだ。
「本当に男なら、普通そういう弁解の仕方はしないと思いますけど……」
「……」
アルファは目を閉じて、困ってるような困ってないような微妙な表情をする。
「しかし私は男だよ。ファナに確認してみるといい」
「笑いながら、『どうでしょう?』……と言ってました」
「……」
黙り込む。
気分を害した様子ではなく、どう答えるか迷っていて、なおかつその言葉がなかなか浮かばないといった感じか。
そんな彼(彼女?)の姿を見て、ティースは確信する。
(どう考えたって女の人だよ……)
その後、アルファは結局なにも答えることなくそっぽを向いてしまい、ティースはひとまずそれ以上のコミュニケーションを諦めて退出することにしたのだった。
その日の夕食後、別館1階の玄関ホールにて。
「……ああ、やっぱりそう思った? でもね。ディバーナ・ロウ的にはそういうことになってるんだ」
アルファについての正直な感想を口にしたティースに、リディアはそう言った。
「そういうこと、って?」
リディアの手元にはいつものように分厚い本がある。
「アルファ=クールラントは男性だよ。あたしたちが調べた戸籍上は間違いなく、ね」
「……ホントにか?」
驚くティースに、リディアは小さく笑いながら、
「ま、戸籍なんてぜんぜんアテになんないけどね。特にどこかに定住していない人なら、いくらでも他人を名乗る方法はあるから。ただ、少なくともアルファ=クールラントという人は間違いなく男性」
「でも、あの人、デビルバスター試験を受けてるんだよな? そういうときにバレたりしないのか?」
リディアは首を横に振って、
「デビルバスター試験に性別検査はないからね。ウチだって入隊時にいちいち調べたりしないし。ティースさん、裸にされて調べられた?」
「そ、そりゃされてないけどさ……でも、ここで暮らしていれば偶然でも誰か確認する機会もあるんじゃないか? ほら、お風呂場とかで……」
と、ティースは食い下がった。
リディアはそれに答えて、
「それがねぇ。ティースさんも会ってわかると思うけど、あの人、人前に肌をさらすのを極端に嫌うんだ。だから、お風呂も自分の部屋で湯浴みをするか、共同浴場使うときでも必ず夜中にひとりで入るの。いつだったか、夜が明けて間もない時間に、アルファさんが入ってると気付かなかった使用人の男の子が脱衣所に入ったら、そこにいた何者かに気絶させられたらしいって話もあるんだから」
ティースは苦笑して、
「それって肌をさらすのを嫌うとか、そういうレベルじゃないなぁ」
「女だってことを隠してる、というのはもちろん考えられる理由なんだけどね。ただ――」
リディアは小さく首を振って、
「あの人が男だっていう、そこそこ信憑性の高い状況証拠もあるんだな、これが」
「証拠?」
「うん。実は――」
リディアがそう言いかけたところへ、
「あれれ。珍しい組み合わせですね?」
「ん?」
「あ。セシルさん」
振り返った2人の視線の先に、大きめのトレイを手にしたセシルの姿があった。トレイの上にはまだ手のついてない夕食が乗っている。
(……あれ? セシルはさっき、俺と一緒に晩ご飯食べてたはずだけど……夜食か?)
ティースは一瞬そう考えたが、まだ夕食から30分も経っていないし、そんなはずはないだろう。確かに彼女は華奢な割にはかなり健康的な食欲の持ち主だったが、さすがにそこまでの暴食家ではない。
そして、セシルもそんなティースの疑問の視線に気付いたようだ。
「ティースさん。もしかして私が食べると思ってます?」
「……あ、いや」
あいまいな返事をすると、セシルは不満げな顔をした。
「いくらなんでもそこまで食いしん坊じゃないです。あ、今、ものすごく疑わしいって顔しましたね?」
「い、いや、してないよ」
ティースはすぐに否定したが、どうやら信じてもらえなかったようだ。
セシルの不満顔はさらにエスカレートして、
「こう見えても私、今はシーラさんのように美しくなるべく日夜ダイエットに精を出しているのです。それなのにこんなの食べてたら、すぐブタさんになっちゃ――」
そこへリディアがポツリ。
「あ、セシルさん。そういやチーズケーキ」
「えっ、チーズケーキ!? どこどこ、どこにあるの、リディアちゃん!?」
「……みたいな雲がさっきあったなあ。見なかった?」
「え――?」
「……」
「……」
リディアとティースの無言の視線が、冷たくセシルに突き刺さる。
「……うぅ」
セシルは少しだけ言葉を探すように視線を泳がせたが、やがて観念した顔でガックリとうなだれて、
「リ、リディアちゃん。チーズケーキは反則だよぅ……」
そんな彼女に、リディアはニヤニヤしながら、
「でも、セシルさんが食べるケーキの量はハンパないからなあ。そのトレイに乗ってる夕食の軽く3倍はペロリと平らげちゃうよね?」
言葉だけで、ティースは胸焼けを覚えてしまった。
「3倍って……そんなに食べるのか」
セシルはブルブルと首を横に振って、
「たっ、食べませんよ、そんなにっ!」
「まあ、そうなる前に誰かに止められちゃうからね。じゃなかったらセシルさん、今ごろブタどころかウシになってるよ、きっと」
「うぅ」
かなり形勢不利なセシルは、たじろぎながら苦しい反論をする。
「で、ですが、そのー……私の故郷では、ケーキのカロリーは、お腹よりも先に胸のほうに行くという素晴らしき言い伝えが――」
「それは聞いたことがないけど」
リディアは平然とセシルの体を見つめて、
「少なくとも実践結果は、その言い伝えを真っ向から否定してるみたいだね」
「……くすん」
どうやらこの舌戦(?)は、最初から勝負にもなっていないようである。
「まぁまぁ」
そんな2人のやり取りに苦笑しながら、ティースは口をはさんだ。
普段なら絶対に手を出さないような話題だったが、相手が年端もいかない少女2人とあって、ティースも気が大きくなっていたのだろう。
「ほら、セシルはまだまだ若いんだし。そういうことは気にせずにとにかく食べて健康的になったほうがいいと思うよ。だいたい今どきの女の子はやせすぎの子も多くて――」
だが、彼のそんな不用意なフォローに、リディアがさっそく突っ込んだ。
「うわ、年寄りくさいなあ。とても10代の言葉とは思えないよ、それ」
「え、そうかな……」
少したじろいだところへ、セシルも言葉を挟んでくる。
「でも聞いてください、ティースさん。私、リディアちゃんにも負けてしまっているのです……その、ほんのちょびっとだけですけど」
そう言って、人差し指と親指で『ちょびっと』の隙間を作ってみせる。
「は、はぁ……」
やや具体的な話になりはじめて、ティースはさすがに危機感を覚えた。そしてここは会話を打ち切ったほうがいいだろうと判断して、
「ま、まぁ、そういうのは人それぞれに個性があって、いいんじゃないかなぁ。いいと思うよ、うん」
適当に濁し、会話を終わらせようとする。
だが、リディアがそれを見逃すはずはなく、
「ああ、そっか。ティースさんってそっちの人なんだあ。よかったね、セシルさん。ティースさんは小さくてもいいみたいだよ」
「え?」
リディアの悪戯っぽい笑みに、まずい、と、ティースは思ったが、どうやら遅かったようだ。
セシルが上目遣いにティースを見る。
「ほ、本当ですか? じゃ、じゃあティースさんは私みたいに貧相な感じでも――」
「い、いやいや!」
思うつぼだと心のどこかで理解しながらも、ティースは慌てて手を振って、
「違う違う! 違うって! 俺はただ、そんなのは個性だから気にするようなことじゃないって言ってるだけで……それにセシル! 君は充分可愛いんだから、そんな自分を卑下するようなことを言っちゃダメだって!」
すると案の定、リディアがケラケラと笑う。
「ムキになっちゃって。冗談、冗談だって」
「……あはは。ごめんなさい、ティースさん」
セシルも少しだけ申し訳なさそうに舌を出した。
どうやら共犯だったらしい。
「ぅ……」
そしてティースも、自分の声が必要以上に大きくなっていたことに気付き、言葉をのみ込む。
そして、
「……はぁ。まったく」
口をついたのはため息。
(こんな歳でも、女の子は女の子か……)
ティースはそんな自分の思考に、情けなさを感じるどころか、妙におかしくなってしまった。
確かに自分は少し年寄りくさいのかもしれない、と。
「でも、可愛いって言ってくれたのはすごく嬉しかったです。そんなティースさんには100点満点をあげちゃいます」
ちょっとだけ照れくさそうにセシルがそう言った。
どうやら今度は演技でもなさそうだ。
「……変だなぁ。あたし、ティースさんにそんなこと一度も言われたことないよ」
不満げな顔をしたリディアに、ティースは言った。
「だって、君はそんなこと言われても嬉しくもなんともないだろ?」
「わかってないなぁ。わかってないよ、ティースさん」
ため息とともに首を振って、
「女の子はいつでも可愛いって言って欲しいもんなの。そんなんだから、その歳で恋人のひとりもできないんだよ。どうせシーラさんにも言ってあげたことないんでしょ」
そんなリディアの言葉にティースは苦笑いする。
「そりゃそうだよ。俺がそんなこと言ったら、喜ぶどころか気味悪いって言われて終わりだよ」
「ああ……まあ、あの人ならそうかも」
リディアは納得顔をした後、ボソッとつぶやいた。
「……とりあえず口では、だけどね」
「なんだ?」
「なんでもなぁい」
そっぽを向いたリディアにティースは怪訝な顔をしたが、それ以上突っ込むことはなく話題を変えた。
「ところでセシル。結局そのトレイは?」
すると、セシルは小さくうなずいて、
「あ、はい。これはお兄ちゃんのところへ持っていくのです」
「え? 君、お兄さんなんていたのか?」
「あれ? 言ったことなかったですか?」
セシルは意外そうにした後、ニッコリと笑みを浮かべて、
「とても優しくて、とてもカッコいいお兄ちゃんなのです。今度ティースさんにも紹介しますから、私と同じように仲良くしてあげてくださいね」
相当仲がいいのか、セシルはまるで自分のことのように誇らしげだった。
「ああ」
確かにセシルの兄なら、きっと仲良くなれるだろう。
ティースは素直にそう考えて、
「そっか。じゃあ紹介してもらえるのを楽しみにしてるよ」
「はい。あ、いい加減持って行かないと。……じゃあティースさん、リディアちゃん、またね」
「うん。またね、セシルさん」
リディアがそう言って手を振ると、セシルは2人に小さく一礼して去っていった。
「……へぇ」
そんな彼女を見送りながら、ティースは意外そうに、
「あの子にお兄さんなんていたんだなぁ」
だが、リディアは当然のように肩をすくめて、
「そりゃそうでしょ。保護者でも働いてなきゃ、普通の学生のセシルさんがこの屋敷に住んでるはずないじゃん」
「あ、そりゃそうか」
もっともな話だった。
「でも、聞いたことなかったなぁ。ディバーナ・ロウじゃないのか?」
「ううん、ディバーナ・ロウだよ。裏方じゃなくて、ちゃんと隊に所属してる」
「え? でも……?」
ティースは怪訝そうに視線を流して考える。
ディバーナ・ロウの第一隊から第四隊まで、ティースはこれまでそのすべてに所属しており、全メンバーと顔見知りになっているはずだった。
だが、
「レイルーンなんて名字、聞いたことないぞ?」
「うん。セシルさん、小さいころ遠い親戚に引き取られてしばらくそっちで育ったらしいから。だから、今もそっちの名字を使ってるの」
「あ、そうなのか。ってことは、そのお兄さんは俺の知ってる人ってことか?」
リディアは楽しそうな笑みを浮かべて、
「だね。当ててみる? 考えればすぐわかると思うけど」
「え? ……それじゃあ」
今まで知り合ったディバーナ・ロウのメンバーを思い浮かべる。
(まず、レイさん……じゃないだろうなぁ)
当たり前だ。それだと、リディアとセシルが姉妹ということになってしまう。
(ファントムには女の子しかいないし、ナイトは……20歳以上も離れてるギレットさんはさすがにないだろうから、マイルズさんとパーシヴァルに……あとはヴィヴィアン?)
一瞬、ヴィヴィアンとセシルが並んでいる姿を想像して、吹き出しそうになった。
「ビビさんは違うよ。それじゃセシルさんがあまりに不憫すぎるし」
その反応だけでティースの思考を見抜いたらしい。……知らぬところでネタにされるヴィヴィアンも少々かわいそうではある。
「じゃあパーシヴァルかな? 年齢的にも3つ? ぐらいでピッタリだし」
「……ティースさん」
ティース自身は至極まっとうでしかも自信のある回答だと思っていたのだが、リディアはあきれたように大げさなため息をついた。
「さっきまでの話の流れを考えてよ。今の流れですぐわかるって言ったら、ひとりしかいないでしょ」
「え? 話の流れ?」
その言葉に従い、ティースの思考は会話の流れを逆に辿り始めた。
セシルとのやり取り、そしてその前の会話――
「……え?」
すぐ気付く。
そう考えてみれば確かに。その流れで行くと、回答はひとつしかなかった。
「ってことは――……で、でも待った。だって、アルファさんはどう見ても『兄』じゃ――」
「だから言ったでしょ。なかなか揺るがしがたい状況証拠があるんだ、って」
テーブルに肘をつき、リディアは視線を横に向けた。
「実の妹の――ううん。実の妹と思われるセシルさんが、あの人のことを兄だと認めてるの。……認めてるって言い方はおかしいかな? 最初から兄妹としてここに来たわけだし」
「……」
それは確かに、なかなかに揺るがしがたい状況だった。
「じゃあ、本当に……?」
「だから、それがわからないから確かめてみてって言ってんの。……あ、そうだ」
ポンと手を叩いて、リディアはまるで悪戯を思いついた子供のような表情をした。
「そういや、簡単に確認できる方法があるじゃん」
「……え?」
悪い予感。
こういう場合の彼の予感は外れた試しがなかった。
リディアはニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、
「喜んでいいよ、ティースさん。まるで役に立たないその厄介な特異体質が、遂にスポットライトを浴びる日がやってきたんだから」
「うわ、やっぱりか……冗談じゃないぞ。俺だって気絶すんのはゴメンなんだ」
もちろんティースは即座に拒否する。
「大丈夫だってば。さっきも言ったけど、アルファさんはデータ上は完璧に男だから」
「ったって、それ以外は完璧に女性じゃないか!」
「うーん、性格もって言いたいけど、ウチにはダリアさんとドロシーさんがいるから弱いなぁ。あの2人、アルファさんよりは確実に男らしいし」
「……言いたい放題だなぁ」
ティースはため息とともに、
「とにかく。そんなことするぐらいなら、男でも女でもどっちでもいいよ、もう。セシルが言ってるんだ。きっと男の人なんだろ」
「うっわぁ。つまんない結論ー」
「つまんなくていいんだよ。それに、そんなに調べたいなら、君のお兄さんとかに言えばいいんじゃないか? あの人なら、きっと興味があるんじゃないの?」
と、ティースは言った。
リディアの兄、レインハルト=シュナイダーはディバーナ・ロウの第二隊の隊長であるが、女性と見るとすぐ口説きにかかる――要するに女好きなのである。
もしもアルファが女性だとするなら、彼にとっても見過ごせない相手じゃないかと考えたのだ。
だが、リディアはパタパタと手を振って、
「あー、アレはダメダメ。たとえ女だとしても苦手なタイプだって。それに、いくら兄さんでも、さすがにちょっと相手が悪いしねぇ」
「相手が悪い? どういう意味だ?」
「ん? それはね」
リディアはテーブルに肘を立てて手を組み、そこにあごを乗せてティースを見つめた。
「ティースさんは『サン・サラス』って言葉を聞いたことある?」
「え? ああ……もちろん」
突然の話題転換に戸惑ったが、それはもちろん、デビルバスターを目指す彼には聞き覚えのある単語だった。
サン・サラス。
本来は神の使いとされる獣魔『光の一族』の種族名である。ただ、その単語にはもうひとつの意味があった。
ティースは答える。
「デビルバスター試験でもっとも重要な戦闘技術に関して、その年の試験をトップの成績で通過、なおかつ一定以上の基準を満たした者に贈られる称号、だろ?」
「ご名答」
リディアはパチパチと軽く手を叩く。
「まぁ、そんなの俺にとっては雲の上の話だけどなぁ」
「だろうね」
ティースの言葉に、リディアもまるでフォローすることなくうなずいた。
なにしろ現在、サン・サラスの称号を持ち、なおかつ現役で戦っている者は、大陸全土を合わせて20人にも満たず、それはこの大陸に存在する領地の数よりも少ないのだ。
もちろん、それはあくまでデビルバスター試験終了時の評価であり、サン・サラスが常にその世代最強というわけではないが、一定以上の実力の証明ではある。
「ちなみに現在、このネービス領にいるとされるサン・サラスはたったの3人だよ」
リディアはそう言って指を3本立てた。
それでも3人いるのは、大陸第2と言われるネービス領だからこそ、だろう。
「まずはネスティアスのディグリーズ――ティースさん、ディグリーズは知ってたよね?」
「ああ。ネスティアスのトップを占める10人のデビルバスターのことだよな?」
もちろん、ネービス公直属のデビルバスター部隊『ネスティアス』のことぐらいは、ティースも基礎知識として知っていた。
リディアはうなずいて、
「そのディグリーズのひとりで、13年前のサン・サラス、オリヴィオ=タングラム。そしてもうひとりもディグリーズで、7年前のサン・サラス、カレル=ストレンジ」
名前は初めて聞くものだった。だが、それを2人も抱えているネスティアスは、さすがというべきか。
「そしてもうひとりが、近10年で最高レベルとうわさされた3年前、大陸歴317年のサン・サラス。……誰のことかは、言わなくてもさすがに気付くでしょ?」
「え?」
言われて初めてティースは、彼女がこの話題を持ち出してきた意味を悟った。
「まさか……アルファさんか?」
話の流れを考えれば、答えはそれしか有り得なかった。
もちろんリディアもうなずいて、
「そう。一見、女性にも見える……ううん、女性にしか見えない、当時はまるで無名のあの人。だから、そのときの試験会場は異様な雰囲気に包まれていたみたい。女性のサン・サラスは――性別検査があるわけじゃないから確実じゃないけど、一応まだひとりも出てないはずだからね」
「あの人がサン・サラス……?」
ティースは驚きの表情のまま、そうつぶやいた。
とても信じられない話だった。
あのどこかおかしな格好、女性のように(おそらくは)華奢な体、どこかピントの合っていない性格。
そんな彼の姿から、『世代最強』を想像するのは確かに難しいだろう。
リディアは続けた。
「あの人たちぐらいのレベルになると、10回戦って10回とも勝つなんて、そんなことは滅多にない。体調、精神状態、環境、偶然……だからたとえば、アルファさんと兄さんが戦ったらどっちが強いかなんて、そんなことはわかんない。でもね」
そしてリディアは悪戯っぽく笑った。
「まったく同じオッズだったら、あたしはアルファさんの勝利に賭けちゃうな。もちろん相手がアクアさんでもレアスちゃんでも同じ」
「……レアスちゃん、って」
「あ。本人に言ったら怒るから言わない方がいいよ。あたしは別にいいんだけどね。あの子あしらうのは慣れてるから」
ティースは苦笑する。
いくら同い年とはいえ、ディバーナ・カノンの隊長である少年に対しても、彼女は言いたい放題だった。
「とにかく、アルファさんはそれほど強いってことか」
「ま、実際どっちが強いかなんてやってみなきゃわかんないし、兄さんとアルファさんが戦う理由も今のところないけどね。……あぁ、でも待てよ。あと5年もすれば――」
「?」
怪訝な顔のティースに、リディアは真顔で言った。
「最愛の妹が好色な同僚の毒牙に掛けられ、怒り狂う兄の復讐劇。……どうかな?」
「……」
ため息が落ちる。
「あ、でも両方妹いるし、これだとどっちにも取れちゃうか。あたしも5年後にはナイスバディになってる予定だから、アルファさんが男なら色香に迷ってもおかしくないなぁ。……それに兄さん、とびっきり可愛い娘でも洗濯板にはあまり興味なさそうだから、セシルさんじゃ5年経っても望み薄だし……でも待てよ。逆だとしても、アレがあたしのために怒り狂うとか、絶対にない話じゃん」
あいかわらず言いたい放題だった。
「……あれ? どしたの、ティースさん。まるで目の前に急にゲテモノ料理でも出されたみたいな顔しちゃって」
「……だいたいあってるよ、その表現で」
ついていけそうになかった。
なんにしても――
(……ひとまず、アルファさんには触れないようにしたほうが無難かな。それにもし隠してるんだとしたら、無理に暴くようなものでもなさそうだしなあ……)
彼は比較的、野次馬根性に乏しい男なのである。