幕間『一撃の男』
カァァァァァァ……ン。
「なっ……!?」
甲高い音が鳴り響き、レアス=ヴォルクスの手から木刀が弾かれたとき、その場にいた誰もが目を疑った――
新年を祝う催しが終わり、普段通りの生活に戻って少しの日が過ぎ去ったころ。
新たにディバーナ・ロウに入隊したデビルバスター候補生の青年は、その初日から『能力』と『外見』という2つの意味で屋敷の人々の注目を浴びることになった。
彼の名はクリシュナ=ガブリエル。
自己申告と戸籍によれば、ネービス西にある『剣の街』ジラート出身の17歳、今月の誕生日を迎えて18歳になる男性だ。
身長は170センチを少し越えた程度で平均より少し高い程度、体型はスリムだが貧弱ではない、あまり無駄のない体付き。顔の作りも涼しげでかなりのハンサムだといえるだろう。
だが、しかし。
実を言うと、それらの要素自体は多少人の目を引きはするだろうが、極端に興味を集めるほどのものではない。
では、なぜ彼の外見が注目を集めたかというと――
ミューティレイク別館2階の一室。
「っしょっ……」
左右に結った短めのお下げ、そばかすの残る純朴そうな顔の少女が、その部屋の掃除をしていた。
パメラ=レーヴィットというのがその少女の名だ。年齢は15歳。このミューティレイクに住み込みで働きながらネービスに住む両親と2人の弟を養い続けて、今月で丸々3年になる。
見た目のおとなしいイメージよりはいくらか活発で気も強い、明るい性格の少女だった。
パンッ、と小気味良い音がして、皺ひとつない純白のベッドシーツが外から射し込む真昼の陽光に映える。
「これでよし、っと」
彼女に与えられていた仕事は、主に屋敷――特に別館の清掃や各部屋のベッドメイクなどである。屋敷の客人と接する機会も多く、屋敷に住まうデビルバスターたちやデビルバスター候補生、その関係者たちとも顔見知りだった。
そして、
「ふぅ……あれ?」
いつも通りの仕事をこなしていたこの少女が、あまりの驚きに立ち尽くすことになったのは……新たにやってくるというデビルバスター候補生の部屋を準備し終えた直後のことだった。
部屋を出た彼女の視界に映ったのは、ちょうど大階段を上ってくる2つの人影。
そのうちの片方――頭のてっぺん近くで左右に束ねた長い髪が印象的な少女は、パメラの良く見知っている人物だった。
(エレン?)
同い年で同僚かつルームメイト。
本人同士の認識はともかく、周りから言わせれば仲が良いと言える間柄の少女だった。
そして、もう片方。
(あれがクリシュナ様かな……?)
話し掛けるエレンの言葉に、テンポ良く言葉を返しながら近付いてくる青年。
その格好は『貴族風』とでもいえば一番わかりやすいだろうか。膝丈ぐらいの前が開いた装飾付きのコート、半ズボンにハイソックスという出で立ちはあまり一般人には見られないもので、額に備える古ぼけた薄黄色のゴーグルが妙にミスマッチだった。
(変わった格好……)
そう。
普通であれば、変わった人が来たな、ぐらいの感想で終わっていたことだろう。そして『変わった人』などという人種は、この屋敷ではさほど珍しいものではない。
だが、
「……!?」
その青年の顔をはっきり認識した瞬間、パメラはハッと息を呑んでいた。続けて口元に手を当てると目をいっぱいに見開き、まるで幽霊でも見たかのような驚愕の表情をそこに浮かべる。
幽霊?
――確かに。その表現は今の状況を表すに最適だったかもしれない。
「ん?」
青年がパメラの存在に気付いて視線を向ける。
と、同時にエレンも気付いた。
「あら、パメラ。部屋の掃除はきちんと済んだの? ……パメラ?」
エレンは彼女の返事がないことを訝しむと、その視線が隣の青年――クリシュナの顔に固定されているのを見て、
「ああ。この方が新たにいらしたデビルバスター候補生のクリシュナ様よ。ちゃんとご挨拶……って、ちょっと。あんた、なにボーっと突っ立ってんの?」
「え……あ」
パメラはハッと我に返り、慌てて廊下の脇に避けた。
だが、その視線は相変わらずクリシュナの顔をうかがったまま。
と、そんな彼女にエレンは意地の悪い笑みを浮かべて、
「なぁに? あなた、もしかしてクリシュナ様に見とれてんの?」
「……え――」
普段であれば、そんな軽口に反論するところだった。
このパメラとエレンは、本人たちこそ犬猿の仲を謳っているが、その実『ケンカするほど仲がよい』と周りに評される関係であり、こういったやり取りは決して珍しいことではない。
だが――
「……」
パメラはなにも答えられずに黙り込んで、うつむいた。
――それどころではなかった。
(そんなはず――)
彼女の心臓は予測外の事態に早鐘を鳴らし、その脳はあまりの出来事に混乱してうまく言葉を紡ぎ出せない状態だったのだ。
(そんなはず、ない……)
ただ、心の中で呪文のように繰り返しながら。
「パメラ、というのか?」
「っ!?」
青年の声に、弾かれたように顔を上げるパメラ。だが、目が合うと、またすぐに視線を泳がせてしまう。
それでもかろうじて、震える唇が言葉を紡いだ。
「は……はい」
「へぇ」
青年――クリシュナはマジマジと彼女を見つめ、それからその涼しげな顔に小さな笑みを浮かべて、言った。
「こんなデカい屋敷だから使用人も垢抜けたのばっかりかと思ってたけど、キミみたいに田舎っぽい子もいるんだな」
「……え?」
意表を突かれた様子で、パメラの表情が固まる。
だが、クリシュナはそれに気付かないのか、それとも気付いていて気にしていないだけなのか、そのまま続けた。
「ああ、だからどうこうってのはないけどさ。だからキミもそんなに恐縮なんかせず、気軽に俺に話し掛けてくれればいいよ」
「……」
「ま、とにかく、これからよろしく頼――」
「――失礼します」
クリシュナが言い終わるより早く、パメラはその身をひるがえしていた。
「?」
「パメラ?」
驚いたようなクリシュナと、やはり拍子抜けしたようなエレンの言葉を背に、パメラは足早にその場所を離れた。
「……」
廊下を進み、まだ明るい日差しの射し込む大階段を1階へと下りていく。
周りで動く使用人たちの間を抜け、玄関ホールから屋敷の奥へ続く通路のひとつへ達すると、胸の早鐘はいつしか不快なものへと変わっていた。
(……違う。あんなの――)
冷静に考えれば簡単にわかったこと。
いくら顔が似ていても。
いくら声が似ていても。
(サイラス様じゃ、ない……)
当たり前のことだった。
彼女が慕っていたデビルバスター候補生、サイラス=レヴァインはすでにこの世の者ではない。
これが夢でも幻でもなく、現実である限り。どんな方法を使おうとも、どんな奇跡が起ころうとも、死人が生き返ることなど決してありえないのだ。
他人の空似。
そんなことは、学のない彼女にもよくわかっていたはずのことで。
「っ……!」
涙があふれてくる。
田舎者などと言われたことは、ちっとも悔しいと思わない。彼女は自分の容姿が垢抜けないことぐらい理解していたし、それを特別気にしているわけでもなかったから。
ただ、否応なしに記憶が呼び起こされた。そして、忘れかけていた悲しみがよみがえってしまった。
ただ、それだけのことだった。
(やっと、気持ちの整理ができたと思ったのに……)
涙の理由を誰かに詮索されるのが嫌で、パメラは顔を伏せながらそのまま屋敷の奥へ向かった。
書庫に通じる通路は比較的人の少ない場所だ。途中、怪訝そうに振り返る同僚の姿は目に入ったが、幸いにして彼女を問いただす声はひとつもなく――
「……ふぅ」
どうにか気持ちを落ち着かせながら壁にもたれると、ほんの少しだけ頭痛がした。
(……意地悪)
それは確かに、彼女にとっては残酷な偶然。
(神様の、意地悪……)
また涙があふれそうになって、パメラはゆっくりとその場に崩れ落ちた。
その日の夕刻。
別館の玄関ホールには、豪華なメンバーが珍しく一同に介していた。
その内訳は、青年がひとり、女性がひとり、そして少年がひとり、である。
「で、お前は呆気なくその新入りに負けちまったわけか」
「負けてねぇっ!」
「まぁまぁ。わかってるってば、レアスくん。でも、ま」
口論する2人をなだめるようにそう言ったのは、大人っぽい外見とはアンバランスに子供っぽい仕草でお団子頭を小さくかたむけた女性――ディバーナ・ロウの総隊長及び第一隊ディバーナ・ファントム隊長のアクア=ルビナートだ。
「いくら油断していたにしても、レアスくんがいきなり負けちゃうぐらいの子なんだから、相当なものなんじゃないの?」
「てめぇ、ちっともわかってねぇじゃんか! だから、負けてねぇってさっきから何度も言ってんだろうがッ!!」
そしてテーブルに身を乗り出して反論したのが、赤いツンツン頭が目立つ弱冠12歳の天才少年、第三隊ディバーナ・カノン隊長、レアス=ヴォルクスである。
さらに、
「ま、その真偽はともかく、だ」
そんなやり取りを適当に流しながら麦酒の入ったコップを傾けたのは、灰色の布を頭に巻き、一見ならず者のようにも見えるラフな出で立ちの青年、第二隊ディバーナ・ナイト隊長、レインハルト=シュナイダーだった。
「聞いた話で確認しちゃいないが、どうもその新入り、誰かさんにそっくりらしいじゃないか」
「え? 誰かさん?」
「……」
その言葉に、少しだけ勢いを失った赤髪の少年が眉間に皺を寄せた。
そのまま視線が横に流れる。
「なに? なんのこと?」
わからない顔のアクアに、視線をそむけたままのレアスがことさらにそっけなく答えた。
「サイラスの野郎にそっくりなんだよ」
「サイラスくん?」
きょとんとした顔のアクア。
もちろん彼女も、元レアスの部下であり、デビルバスター候補生でもあったそのサイラスという青年のことは良く知っている。
それから思い出したような顔で、ポンと手を叩くと、
「そういや昼間、使用人の子たちが何人もサイラスくんのこと話してたわねぇ。どうして急にそんな話を、と思ったんだけど、なるほど、そういうことか」
「別に、だからどうってわけでもねぇ」
そう言いながらもどこか不機嫌そうなレアス。
レイはうなずいて、
「ま、死人が生き返ったってわけでもないしな。で? そいつ、少しは使えそうなのか?」
アクアが口を挟む。
「決まってるじゃない。油断してたとはいえ、レアスくんが負け――」
「だから負けてねぇッ! 剣を弾かれただけだッ! それに!」
勢い良く反論した後、一瞬の空白。
「それに――」
レアスはひとつ息を吐くと、まるで懺悔するかのようにゆっくり目を閉じた。
「……油断は、してねぇ」
「え?」
「……」
驚きに目を見開いたアクア。その横でコップを傾ける手を止めたレイ。
動きを止めた2つの視線に、レアスは繰り返した。
「油断は、してねぇんだ。あの一撃は身をかわすのがやっとだった」
「……」
「……」
その告白に、アクアとレイは顔を見合わせる。
「本当にレベルの高い『瞬歩』だ。ヘタすりゃ俺以上かもしんねぇ……」
「……」
「……」
もう一度、アクアとレイの間で視線が行き交う。
驚きは消えないまま。
……そして10秒ほど。
ひとつの疑問を口にしたのはアクアだった。
「じゃあ……それほどの実力者を、なんだってイチから鍛えることになっているわけ?」
レアスは小さく首を振って答える。
「それが、ちょっとした『問題』のあるヤツでな……」
「――ぱんぱかぱーん。さぁ本日も新しい朝、希望の朝がやって参りました! 凍える空気、どんよりと曇った空、清々しい朝とは決して言いがたいですがしかしそんなことはぜーんぜん関係ナッシング! 我らがミューティレイクお掃除部隊はお嬢様のためお客様のため時にはいがみ合い時には助け合いながら今日も今日とて元気に屋敷中を駆け回るのであります!」
日が昇る前の薄暗く冷たい空気を引き裂くように、テンションの高いトークがその一室に響いていた。
「っとまあ、そんな前口上はこのくらいに、さぁ、それではさっそくゲストに歌っていただきましょう! 哀愁漂うカントリーソングを歌わせたら右に出る者なし、ちょっぴり残ったそばかすが愛らしい15歳、パメラ=レーヴィットさんです! わーわーどんどんひゅーひゅーぱふぱふー!」
「……」
「って、アレ? ちょっと? おーい、パメラー?」
「……」
「パメラー、パメちゃーん。おーい、起きろー。座ったまま寝たら死ぬぞー」
ヒラヒラ。
「……え?」
電源が入ったようにパメラは肩をビクッと震わせ、キョロキョロと辺りを見回した。
少し肌寒い空気。ミューティレイクの屋敷とは違う、やや質素な8畳ぐらい部屋にベッドが3つと小さな鏡台がひとつ。
「あれ……?」
ここはミューティレイクの敷地内にある建物のひとつ、女性使用人寮の一室である。
そしてパメラが座っているのは、自分に割り当てられたベッドの上。着ているのは寝巻ではなく、ミューティレイクの制服。
そう。彼女は先ほど起床し、準備を終えてこれから仕事に向かうところだったのだ。
「……あ、なに、ヴァレンシア?」
状況を把握し、パメラはそう言ってようやく目の前に立つ女性を見上げた。
「聞いてないとかマジか」
その反応に対し不満そうに口を尖らせたのは、パメラよりも2歳半ほど年上の同僚であり、基本的に3人1組で使われるこの寮部屋の室長でもあるヴァレンシア=キッチンだ。
ややクセのついたショートカットの髪、かなり大きめで強い光を宿す瞳、悪戯っぽさを浮かべる口元がどことなくネコを連想させる女性である。
パメラは小さく首を振って、
「あなたのことだから、どうせまた意味不明なことを言ってただけなんでしょ?」
「ひ、ひどいわ、パメラッ!」
ヴァレンシアは大袈裟に目を見開くと、
「この陰鬱で怠惰な重苦しい朝の空気を一掃するため苦悩に苦悩を重ねた末に乙女の羞恥心さえもかなぐり捨ててピエロに成り下がろうとしたあたしの血のにじむような努力を意味不明などというまるで存在自体を否定するかのような一言であっさりと片付けようとするなんて血も涙もない鬼や悪魔の所業としか思えないわ、パメラッ!」
「きょ、今日はまた絶好調ね、ヴァレンシア……しかもぜんぜん意味わかんない……」
たじろぐパメラに、ヴァレンシアはグッと胸を張って、
「今日は? いいえ、違うわ、パメラ。あたしはいつでも絶好調。なぜならこのあたしこそが、ミューティレイクの美しく優雅で知的な使用人の鑑、ヴァレンシア=キッチンだから!」
「やかましく幼稚で痴的、の間違いじゃないの?」
そこへ口を挟んだのは、洗面所から部屋へと戻ってきた別の少女だった。
「毎度毎度、朝から騒がしいこと」
どこか小馬鹿にしたような口調。その見下したような表情には自尊心の高さが見え隠れしている。
長めの髪を頭のてっぺん近くで左右に分けたその少女は、この3人部屋を使用しているもうひとりの同僚、エレン=ライブリだ。
年齢はパメラと同じ15歳だったが、背の低さもあってか見た目はそれよりも年下に見える。
エレンはため息を吐くと、腰に手を当てあきれ口調で、
「まったく。ふたりとも、少しは格式あるミューティレイク家使用人としての自覚を持って欲しいものね。あなたたちがそんなんだから、同部屋のこの私まで一緒くたにされ――いでっ! いだだだだだだッ!」
とても格式あるとは言い難い悲鳴だった。
「ちょ……いでっ! いででででッ! 痛いッ! はっ、離しなさい! ヴァ……ヴァレンシアァァぁぁぁッッ!!」
「あれ?」
「あれ、じゃないわよォッッ!」
エレンは2つに分けて縛ってある髪の根本を押さえながら、いつの間にか後ろに回り込んだヴァレンシアを涙目でにらみ付けると、
「あ、あああんた、いったい、どういうつもりでいきなり私の髪を引っ張ったりするわけッ!? 説明なさいよッ!」
ヴァレンシアはしれっとした顔で答える。
「いやほら。手綱みたいだから制御できるかなーって」
「ばっ……!」
エレンの顔がさらに真っ赤に染まって、
「できるわけないでしょぉっ! というか、私を馬なんかと一緒にしないでちょうだいよッ!!」
「高さもちょうどつかみやすい位置じゃない?」
「きぃぃッ! 私の背が低いとでも言いたいのぉ!?」
歯ぎしりしながら喰ってかかっていくエレン。
ちなみに彼女は140センチなかばと、かなりのちびっ子だ。対するヴァレンシアも高い方ではないが、それでも彼女に比べると15センチは長身である。
「まぁまぁ、落ち着きなさいってば」
ヴァレンシアは両手を前に出してそんな彼女を制止すると、
「モノは考えようでしょ。背が低いってのも悪いことばかりじゃなくてさ。世の中にはそういう子にしか情欲を呼び起こされない男も存在しているらしいしそういう点でいえばあなたのその背の低さとまるで幼児を連想させる態度は一種の武器であると考えることも不可能ではないわけで決して悲観する必要はないと思うのよね」
「??」
いつも以上の早口は、エレンにはまるで聞き取れなかったらしい。
ただ、
「なんだかよくわかんないけど、ものすっごい悪口を言われたような気が――」
「エレン」
そこへパメラがすかさず口を挟んで、
「要約すると、小さい子は可愛いってことよ」
「そ、そう? ……それならいいんだけど」
それであっさり丸め込まれてしまうエレンは、やはり見た目通りの単純な性格だった。
空の端っこがほんの少しだけ明るくなり始めるころ、ミューティレイクの使用人たちはいくぶん早い朝食を終えて動き出す。
この時間、別館の食堂は男性使用人たち、玄関ホールは女性使用人たちの朝会の場となっており、その玄関ホールでは女性使用人たちを束ねるハウス・キーパー、アマベル=ウィンスターが、ズラリと並んだ使用人たちを前にして今日の来客予定、行事、心構え等々をしゃべっていた。
その特に代わり映えのしない『演説』に、聞く者の態度は様々だ。大半はきちんと耳を傾けているが、中にはあまりの退屈にまったく関係のないヒソヒソ話を始める者もいる。
そしてそんな中、
「ねえ、聞いた?」
列の最後方近くに位置していたパメラに、そのすぐ後ろにいるエレンがそう話し掛けた。
「なにが?」
確かにこの位置ならば、よほどのことがない限りずっと前方でしゃべっている上司に聞き咎められる心配はない。
「新しく来たクリシュナ様のこと」
「……なに?」
それはパメラにとってあまり触れて欲しくない話題だった。だが、逆に突っ込まれるのが嫌で平静を装う。
もちろんエレンはそんなパメラの心の動きには気付いた風もなく、
「すごいのよ。入隊試験、隊長との試合でいきなり一本取ったらしいんだから。しかもうわさによると、たったの一撃で」
「一撃? ……隊長って、ディバーナ・ロウの?」
パメラは驚きを隠さずに聞き返した。
それもそのはず。ディバーナ・ロウの隊長といえば全員がデビルバスターである。普通ならば一本を取るどころか、その体に触れることすら難しいはずだった。
と、そんなパメラの反応に、エレンはなぜか得意げな顔をして、
「もちろんよ。……すごいわねえ。ハンサムでスマートでお金持ち、実力も折り紙付きでしかも性格も良いなんて――」
「……そうかしら」
パメラは思わず仏頂面でそう答えていた。言ってからすぐに後悔したが、仕方なく言葉を続ける。
「私はあまり好きになれそうにない。……ほとんど話してないけど、そんなにいい人とは思えない」
案の定、エレンは怪訝な顔で、
「はぁ? ……あ、そっか。あなたってどっちかと言うと泥臭い人の方が好きそうだもんね。クリシュナ様みたいに優雅でスマートな方はタイプじゃないのか」
「……」
パメラは視線を斜めに落とし、憮然として黙り込んだ。
……もちろんそんなことはない。彼女がこれまでの人生でもっとも憧れた人物は、確かに優雅というイメージではなかったが、充分にスマートでカッコ良かったのだ。
モヤモヤしたものが胸に広がっていく。
さらにエレンは続けた。
「それに、ほら。クリシュナ様って、あの方にもすごく似てると思わない? 私はあまり接する機会がなかったんだけど、前にこの屋敷にいたサイラ――ぐえぇぇっッ!!?」
「え?」
突然響いたグキッという鈍い音に、びっくりして視線を上げるパメラ。
すると、
「エ、エレン?」
そこにあったはずのエレンの首が、後方に90度ほど傾いている。
その、さらに後ろ。
「……んにゃ?」
眠そうな顔のヴァレンシアが、エレンの後頭部から生えた髪の束を握って寝ぼけていた。
「……!! !!!」
「……あ」
顔を真っ赤にしながらジタバタするエレンに、ヴァレンシアはようやく我に返った様子で手を離すと、眠そうに目をこすりながら、
「あ、あー、ごめんごめん。あまりに眠くてつい手近なものを頼っちゃった」
「ヴァ……ヴァ……ヴァ……ヴァレンシアァァぁぁッ!」
さすがにこの怒りは正当だろう。
エレンは折れ曲がった首を元に戻すと、平然とするヴァレンシアを振り返って烈火のごとく抗議を始めた。
「あ、あんた、この私を殺すつもりィィィッッ!? わ、私の首はねぇ、あ、あんたの体重を支えるようには出来ていないのよぉッ!!」
本当に痛かったらしい。涙目だった。
だが、ヴァレンシアはあくまでマイペースなままで、
「ところがどっこい。人間って意外に丈夫なもんよ? あたしなんかほら、昔そこの大階段のてっぺんから派手に転げ落ちたことあるけど、こうしてピンピン――」
「一緒にすなぁぁァッ! あんたと違ってねぇっ! 私の体はものすごーくデリケートなのよぉッ!!」
「ふぅ……まったく。いつまで経っても子供ね、エレンは」
「……?」
突如、気だるそうなため息をついたヴァレンシアは、怪訝そうな顔のエレンに対し、小さく肩をすくめて言った。
「別にわざとじゃないんだから。いい加減許してあげたらいいのに」
「っ……き、きぃぃぃぃッ! げ、元凶が、なにいきなり他人顔してんのよッ!! ……だ、だいたいねぇ! あなたはいつもいつも――っ!」
「あ」
ふとヴァレンシアの視線が上を向く。
……それは明らかな異常を伝えるサインだったが、激昂した(しかも、もともと察しの悪い)エレンがそんな細かな動きに気付くはずもなく。
「――なんだから、いい加減に――……って、ちょっと! 聞いてんの、ヴァレンシアァァッ!!」
「……」
もちろんヴァレンシアは聞いていない。視線は相変わらずエレンの頭上を越え、その先を見つめたまま。
「? ……え?」
そしてエレンがようやく異常に気付いたときは、すでに遅かった。
「あ・な・た・た・ち?」
彼女の背後で聞こえたのはやや甲高い、凛とした女性の声。
「ひっ!」
怒りで真っ赤だったエレンの顔が、サァッと青ざめていく。
数秒の硬直の後、ゆっくり、ゆっくりと視線は後方へ。
いつしか、彼女たちの周りには注目が集まっていた。激昂したエレンの声はとっくに『許容範囲』を大幅に越えていたのだ。
「いい加減にするのは、エレン、あなたじゃないの?」
それは当然、最前列で演説していたはずの上司の耳にも届いていたのである。
「ア……アマベル様……ッ!」
腕を組み、眉間に皺を寄せて仁王立ちの上司――アマベルに、エレンはさらに青ざめ、慌てて言い訳を始めた。
「ちっ、違うんです、これは――そ、そう! ヴァ、ヴァレンシアが私の髪をッ!」
「……」
腕を組んだまま、アマベルがチラッとヴァレンシアを見る。
だが、ヴァレンシアは我関せずと言わんばかりの顔で両手を広げると、
「エレンさんがなにをおっしゃってるのかさっぱりですね。私はただ、おしゃべりしてた彼女を注意しただけなんで」
「なっ……! ヴァ、ヴァレンシアァァァッ!!」
青から赤へ。
「どうどう」
喰ってかかるエレンを適当にあしらうヴァレンシア。なにぶんリーチ差があるため、ヴァレンシアが手を伸ばせばそれだけでエレンの手は空を切ってしまうのだ。
と、
「……ふぅ」
それを見ていたアマベルは呆れた様子でひとつため息を吐くと、
「とにかく。朝会が終わったらすぐに私の部屋に来るように。……いいですね?」
「え、ええぇっ!?」
赤から青へ。……なかなかに忙しい。
「そ、そんなぁ……アマベル様ぁ……」
「まぁまぁ、エレン」
そんな彼女に、やはり他人事の顔でヴァレンシアが肩をポンと叩いた。
「せっかくの機会なんだから。ボスの愛情がこもったお説教を、ありがたくいただいてきなさいな」
だが。
「……なにを言ってるんです?」
その言葉に、きびすを返しかけていたアマベルは再び眉間に皺を寄せて言ったのである。
「ヴァレンシア。当然あなたもですよ」
「え」
きょとんとした顔で、
「……マジですかぃ?」
「私が冗談を言ってるように見えるとでも?」
「いえ、あなたの冗談自体、聞いたことがないっす」
「それなら、わざわざ確かめるまでもないでしょう」
冷たい言葉と仏頂面を残し、アマベルは身をひるがえして最前列の方へと戻っていった。
「……」
それを目で追ったヴァレンシアは頭をかきながら、
「……あちゃぁ」
「うぅぅ、ヴァレンシアぁぁ……あんたのせいよぉぉ……」
あまりこたえた様子のないヴァレンシアとは対照的に、エレンはガックリとうなだれた。
『格式あるミューティレイク家の使用人』を自称する彼女にとっては、上司に説教を喰らうということ自体、落ち込むに充分な出来事だったらしい。
「……」
そしてひとり、『天災』を回避したパメラはそんな2人に苦笑しつつ、とばっちりが来ないようにそそくさと正面に向き直ったのだった。
その日の午後。
「……はぁ」
窓の桟を拭いていたパメラの口からため息がもれる。
まだ動き出してからの時間は短い。もちろん疲れたというわけではなかった。
『ティーサイト=アマルナ』という名札の掲げられたその部屋は、パメラが担当する部屋のひとつである。事情あって部屋の主は現在長期不在中だが、パメラは毎日掃除のためここにやってくる。主がいないので散らかることはないが、黙っていてもホコリはたまっていくものなのだ。
「……」
無言のまま、彼女の視線は部屋に備え付けの机の上に向かった。そこに置いてある小さな小ビンが目に止まる。
(ティース様……)
この部屋の主は屋敷に来てからまだ1年と経たないが、ちょっとした出来事があって以来、彼女とは比較的多く言葉を交わす仲になっていた。
親しい、という表現は失礼かもしれないとパメラは思っていたが、あまり立場を気にせず言葉を交わせる相手でもある。
(ティース様なら、どう思うだろう)
そしてパメラはふとそう考えた。
サイラスという青年は優秀であり、そして人望があった。もちろん彼を慕っていた者も数多くいる。
だが、その中でも、パメラと同じかそれ以上に影響を受けていた人物といえば、おそらくこの部屋の主ぐらいのものだろう。
だから、パメラは想像してみたのだ。
この部屋の主が、あのクリシュナという青年を見たときに、いったいどういう反応を示すだろうか、と。
――しょせんは別人だと気にも留めないのか。
――あるいは彼女と同じように動揺するのか。
とはいえ、
「……はぁ」
やがて考えても無意味なことだと気付き、パメラは窓を離れた。入り口から全体を見回し、不備がないことを確認して部屋を出る。
と。
「パメラ」
「あ」
ちょうどそこを通りかかった少女がいた。
やはり比較的よく言葉をかわす相手だ。同い年だが、ただよわせる雰囲気はパメラよりもずっと年上を感じさせる客人の少女。
「シーラ様?」
だが、その相手を認識した直後、パメラはとてつもなく大きな違和感を覚えた。
そして彼女の視線は、その違和感の正体――少女の着ている衣服へと止まって、それから心配そうな表情になる。
「またそんな格好で……学園の方はどうなさったんですか」
少女が身につけている白と紺の衣服はミューティレイクの制服だった。パメラたちハウス・メイドのものとは少し違ってややお洒落なデザイン――主に接客や給仕を担当するパーラー・メイドのものである。
それは本来客人であり、このネービスでも伝統のあるサンタニア学園に通う少女が着るはずのものではなく。
だが、その少女――シーラはパメラの問いには答えず、両手に持った空のトレイを示して、
「朝食よ。仕事自体は理解してるつもりだけど、いざやってみると覚えることがたくさんあって大変だわ」
「……」
パメラは困った顔で視線を泳がせたが、以前にも同じ問答をしたことがあったので、それ以上はなにも言わなかった。
すると、逆にシーラの方から、
「どうしたの、パメラ?」
「……え?」
「元気がないように見えるけれど」
突然の指摘。予想してなかっただけに、パメラは一瞬うろたえたが、
「え……あ、そんなことないですよ。元気、元気です」
とっさにそう答え、勢いで力こぶまで作って見せる。
「……ならいいのだけど」
言葉と裏腹に、シーラは納得した様子ではなかった。
見透かされてる気がして、パメラは慌てて話題を変える。
「その朝食、もしかしてレインハルト様ですか?」
「どうして?」
パメラは苦笑して、
「最近、シーラ様をご指名なさることが多いと、うわさで聞いたので」
「ああ……そういえば最近多いわね。なにか勘違いをしてるのではないかしら、あの男」
シーラは仕方なさそうにため息を吐いたが、すぐに、
「でも、今日は違うわ。今日初めて会ったのだけれど、変わった人が来たわね」
「え? あ……」
その言葉に、パメラの視線はもう一度シーラの手にある空のトレイに止まる。
「クリシュナ様、ですか?」
「ええ」
ためらいがちの問いに、シーラはうなずいて、
「みんながうわさ話をしてるから、どんな人かと思っていたのだけど」
「……」
パメラは再びためらった後、
「……どんな方、でした?」
思わずそう尋ねていた。
……できる限り触れたくないと思う反面、やはりどうしても気になってしまうのだ。
「そうね」
シーラは少し考えたが、それほど迷うことなくすぐに答える。
「ハンサムだし、物腰も丁寧で紳士的だし、第一印象では非の打ち所がないわね」
「丁寧で……紳士的?」
思わず、パメラは眉間に皺を寄せた。
……初対面の人間に『田舎者』などと口走る人間が丁寧で紳士的だなどと、彼女にはとても信じられなかったのである。
「なに?」
だが、逆にシーラは怪訝そうな顔で聞き返す。
「パメラ? なにかあったの?」
「あ……いえ、そういうわけじゃ。……そうですか」
そう言いながらも、パメラの表情は自然と険を帯びる。
――見下されたのだ、と思った。おそらくあのクリシュナという人物は、相手を見て態度を変える男なのだろう、と。
胸を再びモヤが覆う。
それが普通の相手であれば、これほどの嫌悪感は覚えなかっただろう。
だが、偶然とはいえ、彼はあまりにも似すぎていた。いくら関係ないのだと言い聞かせてみても、それはパメラにとって容易に割り切れるものではなかったのだ。
「……」
シーラはそんな彼女を黙って見つめる。
……誰が見ても異常だと気付いただろう。彼女はそれほどに思い詰めた表情をしていた。
ひとつ、ため息。
そしてシーラは言った。
「パメラ。今日、仕事が終わったら私の部屋へ来なさい」
「え?」
突然の申し出に驚くパメラ。
だが、そんな彼女には構わず、シーラは有無を言わさぬ口調でもう一度、
「話があるのよ。特別な用事がないのであれば、来なさい」
「……」
その言葉には妙な威圧感があって、パメラにそれを断る術はなかった。
夜のミューティレイク邸別館。
特別に仕事が遅くなったりしない限り、パメラがこの時間にここを訪れることは滅多にない。
まして――こうして客のように迎えられることなど、そうそうあるはずもなかった。
「ファナが気を利かせてくれたみたいね」
「きょ、恐縮です……」
部屋に備え付けのテーブルには紅茶のカップと、小さなシフォンケーキが2つずつ。テーブルについたパメラは言葉通りに恐縮しながら、紅茶を入れるシーラの手際を見つめている。
部屋を包むのは薄いオレンジ色の光。天井に備えられた魔界由来の照明器具は、日によって明るさや色合いにややバラつきがあり、今日はかなり赤味が強い。
「……はぁ」
「なに?」
「あ、いえ」
パメラがため息を吐くほどに見とれていたのは、オレンジ色の光に揺れるシーラの飴色の髪だった。
職業柄、高貴な身分の女性も数多く見てきたパメラだが、ここまで美しい髪を見るのは初めて――いや、髪だけではない。このシーラという少女は、そのすべてにおいて文句の付けようがないほどに美しかった。
もう一度、ため息。
そしてパメラは言った。
「私、ローズ様より美しい方はこの世にいないとずぅっと思ってましたけど、シーラ様はもしかするとそれ以上かもしれないです」
「そう? ありがとう」
素直に感謝の意を表情に出して、シーラは紅茶をパメラの目の前に差し出した。
「す、すみません」
再び恐縮しながら受け取って、少し口を付ける。
透き通った薄茶色の液体が、白い陶磁器の中でかすかに波立っており、のぞき込むとうっすら自分の顔が映った。
そうしながら、パメラはすぐに口を開く。
「ティース様は……いつごろお戻りになられるんですか?」
「知らないわ」
返ってきたのはそっけない言葉。先ほどまでより、少しだけ堅いように思えた。
パメラは少し怪訝そうな顔をして、
「特殊任務だって聞きましたけど、ずいぶん長いですよね。それに単独だなんて……あ、いえ、ティース様ならきっと大丈夫だと思――」
「そんなことより」
興味なさそうに話題を切って、シーラは自身のティーカップにも紅茶を注ぎながら、
「ちょっとだけ耳に挟んだわ。あのクリシュナって人のこと」
「……そうですか」
もちろんパメラも、それが本題であろうことは予測していた。
「私はほとんど会ったことなかったからわからないけど……そっくりなんですってね」
誰に、ということはもちろん言う必要がない。
パメラは視線を泳がせて、
「……似てません」
「本当にそう思っているのなら、私が言うべき事はなにもないわ。でも、それは嘘ね」
「……」
まっすぐに見つめられて断言されると、パメラは反論できなかった。
カチャッ、と、ティーカップが少し音を立てる。
シーラは目を閉じて紅茶を口にすると、一度話題を逸らした。
「このケーキはフィリスが焼いたそうよ。あなた、フィリスとは親しいの?」
「あ……いえ、特別親しいわけじゃ。でも、話をすることはあります」
「そう」
シーラがフォークを手にしたのを見て、パメラもまたケーキに手を伸ばした。柔らかなスポンジを口にするとかすかな紅茶の香りが口の中に広がっていく。
「あなたがそんな顔をするぐらいだから、よほど似ているのね」
「……」
嘘をつく理由が見当たらず、今度は素直にうなずいた。
「そう。……思い出して悲しくなる気持ちは私にもわかるわ。でも、それは彼に非があるわけではないでしょう? まだ会ったのは一度だけれど、あなたがそうやって顔をしかめるほど悪い人には見えなかったわ」
「……それはきっと、シーラ様が美しくて気品のある方だからです」
「どういう意味?」
怪訝そうな顔のシーラ。
パメラはクリシュナに初めて会ったときの一部始終を彼女に話した。
「私はこういう外見ですから。だから、あの人はああいう言い方をしたんだと思います」
「なるほどね」
シーラはようやく納得したような顔をする。
「似てるからなおさら、そのギャップがあなたには許せない。だから、そんな苦虫をかみつぶしたような顔をしてるのね」
「……そんな顔してますか?」
「してるわ。せっかくの可愛い顔がだいなし」
「からかわないでください」
パメラは口を尖らせた。相手が相手だけに、そう言った類のお世辞は素直に受け入れられなかった。彼女にだって羨望の感情ぐらいはあるのだ。
だが、シーラは小さく笑みを浮かべただけで、
「もちろん、あのクリシュナがそういう人物である可能性を否定はしないわ。私だって今日会ったばかりだもの。……でも、あなたに言った言葉だって、決して悪意があったとは限らないのではないの?」
「……え?」
シーラの意外な言葉に、パメラは不思議そうな顔をする。
「田舎っぽいという言葉が悪口だって、どうしてそう思ったの? 私だって使う言葉は違ったにせよ、あなたに対する印象は似たようなものよ。でも、それは決して見下しているわけでも、さげすんでいるわけでもない。……ティースが前に言ってたわ。この広すぎる屋敷で、あなたに会うとホッとする、気持ちが落ち着く、ってね」
「え……でも、クリシュナ様の言い方は――」
「もちろん、それはあくまで可能性。別にあのクリシュナという人を弁護する気はないわ。……ただ私が言いたいのは」
シーラはまっすぐに彼女を見つめ、
「真実がどうであれ、あなたは最初から歪んだ眼鏡で彼を見てるのではないかしら? あなたが好きだったのは、サイラスという男の外見だけなの? 違うでしょう?」
答えるまでもなかった。そしてシーラもまた、パメラの返事を待つまでもなく肯定だと決めつけて言葉を続ける。
「外見なんて本当にささいなことよ」
そして再び目を閉じ、ゆっくりとティーカップに口を付けた。
「まして、ただ顔が似ているからという理由で内面まで見比べてしまうのは、本当に意味のないことだわ。私があなたの顔を持っていても、決してあなたにはなれない。あなたが私の顔をしていても、やっぱり私にはなれないのよ」
「……」
「勝手に比べて、そのことだけで嫌ってしまうのは、おかしいことだと思わない?」
パメラは視線をテーブルの上に落とす。
紅茶に映る、自分の顔。
脳裏によみがえる、憧れた人の顔。
……そうしてパメラは今、ようやく自分の胸に渦巻いていたものの正体に気付いていた。
(私……なにを期待していたんだろう……)
そう。
それは『期待』だった。
期待していたからこそ、裏切られたことに怒りを覚えた。
期待があったからこそ、興味を逸らすことができなかった。
彼女は心のどこかで、あのクリシュナという青年が、サイラスという人物を演じてくれることを期待していたのだ。
「……っ!」
ひざの上で結んだ拳に思わず力が入った。
――演じてくれれば、それで満足できたのだろうか。代わりを得ることで満足できていたのだろうか。
そう考えると、自分の浅ましさが悔しくて涙があふれてきた。そんなものじゃない、と、そう信じたかった。
と、
「落ち込むことはないわ」
まるでその思いを見透かしたかのように、シーラはそう言った。
「仮にあのクリシュナという人が中身まで似ていたのだとしても、あなたはきっとそれを認めようとはしなかったはずよ。そう思う」
パメラは顔を上げる。
「……シーラ様」
シーラは目を細めて微笑むと、
「私はあなたの想いを良く知ってる。心配などしなくても、私がそれを保証してあげるわ」
「……っ」
慌てて目をこする。
パメラが彼女に涙を見せるのは2度目だった。前回は状況も顧みずに号泣してしまったが、今回はそれをぐっとこらえ、
「……ごめんなさい、シーラ様」
目を赤くしたまま、少し無理して笑顔を浮かべた。
「ダメですね、私……同じことで2度も迷惑をかけてしまうなんて……」
「本当。……でもね、パメラ」
シーラは空になったティーカップを置いて、ゆっくりと手を組んだ。
いつもの凛とした口調に、ほんのわずかな揺らぎが混じる。
「私がこうやって偉そうに言えるのは、自分がそういう立場にないからよ。私があなたの立場だったら、きっとあなた以上に取り乱していると思うわ」
「……まさか」
「思えない?」
「想像……できません」
「そうね。……私もそう思うわ」
そう言って苦笑するシーラ。
おそらくなぐさめの言葉なのだろうと考え、パメラは合わせて笑った。
「ありがとうございます、シーラ様。ホントに気持ちが軽くなりました」
「そう」
うなずいて、
「いつか、恩返しを期待してるわ」
冗談交じりにそう言ったシーラに、パメラもまた冗談で返す。
「大丈夫ですよ、シーラ様。ティース様はきっと、シーラ様のことを置いていったりはしませんから、私のなぐさめなんて必要ないと思います」
「……」
「シーラ様?」
本当ならばすぐにそっけのない否定の言葉が返ってくるところだ。
だが、
「……そうね。忘れてた」
一瞬だけ視線を流した、その端正な顔に横切ったのは、果たしてどのような想いだったのか。
「あと10日、か」
「え?」
そのつぶやきに秘められた意味が、パメラには理解できなかった。
ただ、なにかを迷っているような、そんな表情に見えた。
そう、思えた。
数日後の朝。
「――ぱんぱかぱーん。さぁ本日も新しい朝、希望の朝がやって参りました! 昨日までとは打って変わって晴れ渡った空、空気は相変わらず冷たいですが、しかしそんなことは関係ナッシング! 我々ミューティレイクお掃除部隊は今日も今日とて――」
「……う、うるさいうるさいっ! ヴァレンシア、ちょっと黙ってッ!!」
悲鳴のような声がその狭い一室に響いた。
声の主は、どうやらようやく着替えを終えたばかりのエレン。いつも結んでいるはずの髪はほどかれたままで、目の下にはかすかにクマが出来ている。
そんな彼女をあおるように、ヴァレンシアはさらに声を張り上げて、
「おおっと、エレン選手! どうしたことか、時間ギリギリだというのにまだ準備ができていないぞぉっ! これはまさか……ちっ、遅刻かぁっ!?」
「だっ……誰のせいだと思ってんのよッ! あんたが遅くまでわけのわからん寝言を言ってるから――」
「ほらほら、エレン。ホントに急がないと、またアマベル様にお説教されるわよ」
苦笑しながらそれを手伝うのはパメラだ。
「お、お説教……」
数日前の悪夢がよみがえったのだろう。エレンの顔がさぁっと青くなった。
「パ、パメラ! ほら、早く。早く髪を結んでよっ!」
その言葉にパメラは眉をひそめて、
「ちょっとエレン。それって人に物を頼む態度じゃないでしょ」
「じ、自分でやったら時間がかかるんだから、仕方ないじゃない!!」
「へぇー」
パメラはわざと意地の悪い笑みを浮かべると、
「じゃあなおさら、きちんとお願いしてもらわないとね」
「ぐ……ぐぐぐ……!」
エレンは悔しそうに顔を真っ赤にしていたが、背に腹は替えられなかったのだろう。
「お、お願いします……」
「素直でよろしい」
ニッコリと微笑んで、パメラは髪留めを手に取った。
いつもの朝だった。
「――パメラ」
「あ、シーラ様」
その日の昼を過ぎたころ、本館の掃除を終えて戻って来たパメラは、玄関ホールでちょうど厨房の方から戻ってくるシーラとはち合わせた。
「って、シーラ様、またそんな格好で――」
「顔色、だいぶ良くなったようね」
また質問に答えることはなく、シーラは腰に手を当ててパメラを見つめた。
あの日以来、2人が顔を合わせるのは初めてだ。そしてシーラの言葉通り、はたきを手にしたパメラは明るく弾んだ表情をしていた。
「ええ。シーラ様のおかげですっきりしました。もう大丈夫です」
「そう」
確かに、言葉で確認するまでもなかった。
「でも……シーラ様」
「うん?」
怪訝そうな顔のシーラに、パメラはわざとらしくちょっとだけ口を尖らせると、
「クリシュナ様は、やっぱり私の嫌いなタイプでした」
「……それはどうしようもないわね」
と、シーラは苦笑する。
「だってあの人……って、そうだ。シーラ様、聞きました? クリシュナ様が一撃でレアス様から一本取ったって話」
「ええ。うわさでは」
「でもそれ、本当は違うらしいですよ」
「? どういうこと?」
「一撃でレアス様の剣を弾いたのは本当らしいんです。ただし……」
パメラはそう言いかけて小さく周りを見回すと、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて声をひそめる。
「あまりに力んじゃったせいか、その一撃で足がつって試合を続行できなかったらしいんです」
「……それでも充分すごいことではないの?」
「それが、ですね」
パメラは笑ったまま、
「クリシュナ様って、『その一撃』を出すと必ず足をつってしまうそうなんです。想像すると、なんだかカッコ悪いですよねー……あ、このことは一部の人しか知らないんで、内緒ですよ?」
その言葉には不思議と嫌味はなく、どちらかというと以前よりも好意的なものにさえ感じられた。
シーラは苦笑して、
「うわさってそうやって広がっていくものよ、パメラ」
「私、あの人嫌いなんで。それでも構わないと思います」
しれっとした顔のパメラに、さらに苦笑。
「……そう」
その言い方からすると、言葉ほど嫌っているようにはとても思えなかった。
「それじゃあ私、仕事があるのでそろそろ行きますね。あ、私が言ったってことだけは絶対に内緒ですよ」
悪戯っぽい笑顔を残して去っていくパメラ。
もう、心配はなさそうだった。
「……」
シーラは安堵の表情でそれを見送った後、
「……さて、と」
なにごとか決心したような顔をすると、ゆっくりと屋敷の中――ファナやリディアのいる、執務室の方へ向かって歩いていったのだった。
とある人物と交わした、賭けの賞品を請求するために。