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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第1話『デビルバスターへの道』
4/132

その3『支配者の帰宅』

『女性アレルギー』


 その呼称は彼自身と周りが勝手に命名したもので、それが実際にアレルギーと呼ぶべき症状かどうかははなはだ疑問ではあるが、とにかくティースは、女性、特に歳の近い女性に触れられると、途端に全身の血が頭に上って前後不覚、ひどいときには気絶してしまうという特殊体質(?)をもっていた。

 発症……というより、その事実に彼が気付いたのはほんの数年前のこと。原因は不明でありもちろん治療法もわからない、ひどく厄介なものである。


「アレルギー、ですか?」

 幸いなことに、ティースが気を失っていたのはほんの5分ほどだったようだ。

 気が付くと彼はベッドの上に寝かされ、額に濡れタオルまで乗せられていた。

「あはは……恥ずかしいところを見せちゃったな」

 そしてティースは苦笑いしつつ、自らの『病気』について、こうしてファナに説明するハメになっていたのだ。

 もちろん彼としては無闇に明かしたくないことだった。

 だって情けないにもほどがある。一体どこの世界に、女性に触れられただけで気絶してしまう男がいるというのだ。

「気を張っていれば大丈夫だったりもするんだけどね。突然触れられたりすると、さっきみたいになるんだ」

「そうでしたの」

 笑われることも覚悟していたティースだったが、ファナは笑わなかった。

 それどころか、律儀に頭を下げて、

「そうとは知らず、申し訳ありませんでした」

「いや!」

 ティースは逆に慌てて、手を振った。

「そんなのわかるわけないし! 言わなかった俺が悪いんだから!」

「ですけど……」

 ファナは少し心配そうな顔になって、

「それですと、妹様と生活なさるのも大変ではありませんか?」

「あ、いや。あいつは大丈夫なんだ」

「?」

「例外ってこと」

 ティースはそう答えてゆっくりと体を起こした。

「もう起き上がっても平気なのですか?」

「ああ。別に気分が悪くなったりするわけじゃないから」

 特に強がったわけでもなく、彼はそう答える。

 それにまあ、いくら彼女がこういう性格だからといって、かのミューティレイク公に看病してもらうというのは、考えてみればなかなか心臓によろしくない状況であった。

「無理なさらないでくださいね」

 ファナは素直に引き下がると、その視線はゆっくりと動いて部屋の隅にあった時計の上で止まる。

「ところで、妹様は何時ごろお戻りになられるご予定ですか?」

「ああ……どうかな。遅くなるって言ってたから」

 額に乗っていた濡れタオルを手にとって、同じように時計を見た。

 時刻はすでに午後5時を回ろうとしている。

 いつもならすでに帰ってきてそろそろ晩御飯、という時間であったが――

「もう少しかかるんじゃないかなぁ。日が完全に隠れるまでには帰ってくると思うけど」

 と、ティースがそう口にした時である。

 玄関からドアの開く音がした。

「あ。アオイさんが戻ってきたかな?」

 そんなティースの反応に対し、ファナが少し首をかしげる。

「アオイさんではありません」

 物音か気配で察したのだろうか。彼女は自信ありげにそう断言した。

(アオイさんじゃない……?)

 それを理解した瞬間、ティースは反射的に笛を手にし、もう片方の手を愛剣に向かって伸ばしかける。

 脳裏を過ぎったのはもちろん、先ほど彼女らを襲撃した連中のことだった。

(まさかこんなに早く……?)

 確かにあの戦いの場所からそれほど大きく離れているわけではない。だが、その距離で描く円の中には当然他にも無数の家屋が建ち並んでいるわけで、ここに入ることを見られでもしない限りそう簡単に突き止められるはずもないと、ティースは高をくくっていたのだが――。

 それがもう突き止められたのだとすれば、見通しが甘かったのだろうか。

 緊張に手の平が汗を掻く。

 だが、その緊張は次に続いたファナの声で消えた。

「女の方ですわ」

 ティースとは対照的に緊張感のない声。おそらく彼女はそれが敵ではないとわかっていたのだろう。

「妹様ではありませんの?」

「え?」

 ファナがそう言った直後、

「ただいま」

 聞こえてきたのは彼女が言うとおりの女性の声……しかも、その透き通るような凛とした声には嫌というほどに聞き覚えがあった。

「シーラか?」

 間違えるはずはなかったが、ティースはもう一度時計の時刻を見て、

「おかえり。ずいぶん早かったな」

「ええ。思ってたよりも早く終わってくれて――」

 返ってきた声は途中で途切れた。

 そして、

「……だれ?」

 玄関から姿を現したシーラはそこで足を止めていた。視線もまた、怪訝そうな色で止まっている。

 見つめていた先にいたのは、もちろんファナだ。

「ティース?」

 問いかける言葉だけがようやく彼に向けられた。

「ああ……」

 彼女が怪訝に思うのも当たり前のことだった。ただでさえこの家は客人が来ることなど滅多にない。ティースとシーラ以外でこの場所に立ち入った者は、ここ1年では大家ぐらいのものである。

 そんな場所に、彼女にとっては見知らぬ女性、しかもどう見ても一般人とは思えない服装に身を包んだ人物がいて。しかも同居人はベッドの上、見知らぬ人物はそれを看病するかのように寄り添っている。

 ……いや、それについては、

「また例の病気が出たらしいのは見ればわかるけど」

 長い付き合いだけあって完璧に見抜かれていた。

「ま、まあ、その通りなんだけどさ……」

 情けない、と責め立てられているような気がして、ティースはほんの少しだけ落ち込みながら、

「えっと、だな。この人は――」

 さっそく事情を説明しようとしたところに、ファナが自ら口を開いた。

「お初にお目に掛かります」

 相変わらずのゆったりとした動作ながら、どこか気品のある所作でシーラのほうに向き直ると、

「ファナ=ミューティレイクと申します。先ほど、こちらのティースさんに危ないところを助けていただいた者ですわ」

「助けた? ……ミューティレイク?」

 シーラは事態を理解しようとするかのように、宝石のような輝きを放つ利発そうな瞳を少しだけ泳がせて、

「ミューティレイクって……もしかすると、あのミューティレイクかしら?」

 それに対し、不思議そうな顔をするファナ。

「どのミューティレイクかは存じませんが、この街にはおそらくひとつしかないミューティレイクの者ですわ」

「そう。なら、私が想像してるのと同じね」

 そう言って、シーラはようやく止まっていた歩みを再開した。

 隣の部屋――つまりは自分の部屋に向かって。

「わかった。とりあえず着替えるわ。話はその後で聞くから。……それと」

 その途中、彼女はベッド上のティースに少し苛立たしげな視線を送って、

「お前、いつまでそこに寝転がってるつもり? お客の前でみっともない」

 叱咤の声が飛ぶ。

「あ、ああ、すまん」

 ティースは慌てて布団をはね除け、ベッドから身を下ろしつつ、

(……相変わらず度胸がいいというか)

 と、そんなことを思った。

 ミューティレイクと聞いて物怖じした彼とは対照的に、彼女の態度はまったくいつも通りである。男であるティースとしては、その強心臓を自分のと交換してもらいたいぐらいだった。

 とはいえ、もしもそんなことを口にしようものなら、

『お前のノミの心臓なんていらないわよ』

 とか言われるのは目に見えているのだが。


 外には夜の帳が下り始めていた。

 カタカタという窓の震える音が、風が強まってきたことを伝えている。

「ふぅん、そういうことね」

 家の中では数分後に戻ってきたアオイも交え、たった今、シーラへの事情説明が終わったところだった。

 ベッドの上には元通りファナが腰かけており、シーラは自分の部屋から持ってきたクッションに座っている。ティースはさっきまでと同じように床の上、アオイは相変わらずファナの横で直立していた。

「そりゃあ、どうせお前が女の子を口説いて家に連れ込んだなんて考えもしなかったけど」

「そりゃまあ……って、どうせ、ってどういう意味――」

「そんな度胸もないでしょ? なにか間違ってる?」

 そう言って冷たい視線を向けてきたシーラに対し、

「いや、間違ってはないけどさ……」

 反論できないのはあまりに情けないが、実際にそうなのだから仕方なかった。

 ただ、彼にも言い分があるとすれば、生活が苦しくてそんなことをしている余裕などないのだとも言える。

(……その割に、向こうは彼氏を作ったりして遊んでるんだよなぁ)

 なんとなく理不尽な気がしなくもなかったが、とはいえ、それは彼自身が望んで選んだ道でもあった。それに彼の場合には、先ほどの『病気』という要因もある。

「で、どうだろ?」

 とりあえずいつものように反論はしないまま、ティースは彼女の意思を尋ねた。

「……」

「……」

 ファナとアオイの2人も彼女を見ている。

「そうね」

 シーラはアオイの顔を一瞥し、それからベッド上のファナへ。相変わらずの穏やかなファナの笑顔と、少し探るような色を込めたシーラの瞳が交錯した。

 そしてしばらく、なにも言わずに見つめあう。

(……なんか、こわいな)

 ティースは思わずそんな風に感じてしまったが、とはいえ別に火花を散らしていたわけではない。

 ファナの方は単純のシーラの答えを待っているだけだろうし、逆にシーラの方はこのファナという人物のことを見抜こうとしているだけだろう。

 その証拠に数秒後、シーラの表情が緩んだ。

「……いいわ」

「え……い、いいのか!?」

 その彼女の言葉に真っ先に反応したのはファナでもアオイでもなく、驚きに目を見開いたティースである。

 逆にその反応に目を細めたシーラは、

「なによ、その意外そうな顔は。それにずいぶんと嬉しそうね」

「え、いや……」

 当然のように突っ込まれて、ティースはしどろもどろになりながら、

「なんというか、俺としてはできれば助けてあげたかったというか、困っているのを見過ごせないというか……」

「そう」

 シーラは鼻で笑って、

「素直に可愛い子だから助けて恩を着せたいんだって言えばいいのに」

「え……いや!」

 不思議そうなファナや、苦笑するアオイの視線を受けて、ティースの顔が赤くなった。

「それは誤解だ!」

 そのまま反論する。

「俺は別に、その、そういう基準で物事を判断したりしないぞ! いくら可愛くたって性格が悪けりゃどうしようも……いや、ファナさんは性格もいいんだけど――!」

 そこまで口にした途端、彼の背中を強烈な悪寒が走った。

「なによ。性格が悪いのは私の方だとでも言いたいの?」

「えっ!?」

 彼はどうやらムキになりすぎて自ら泥沼にハマってしまったようだ。

「そっ、そんなつもりはまったく……」

「ま、そんなことはどうでもいいわ」

 それを口にしたシーラの方は本気なのか冗談なのか区別のつかない顔だった。

 彼女はゆっくりとクッションから腰を上げると、

「とにかく、これからどうするにしても今日は遅すぎるわね。ティース。さっそくお前のベッドを私の部屋に運んでちょうだい」

「あ、ああ……え?」

「なにを意外そうな顔してるの? 彼女には私の部屋で寝てもらうわ。ベッドはふたつ。だったら、このベッドがここにあるとまずいでしょう?」

「そ、そりゃそうか……」

 ティースはそこまで考えてなかったが、彼女の言葉は至極まともであった。彼らが使用しているベッドは小さめで、2人並んで寝ようとすると寝返りを打つのもつらい。であれば、ここはやはり女性陣に譲るべきところだろうか。

 が、問題だったのは、

「あれ? 予備の布団ってあったっけ……?」

「毛布が1枚だけあるわね。でも」

 そんなティースにシーラは相変わらず淡々と答えた。

「それはもちろん、お客の彼に使ってもらうわ」

「え?」

 彼女がなにを言っているのかティースには理解できなかった。いや、理解はできていたし、おそらくそれが自然な成り行きなのだろうとも思ったが、彼の頭は容易にその現実を受け止められなかったのだ。

「じゃあ、俺は……?」

 恐る恐るそう尋ねたティース。

 平然と返ってきた答えは、まさに彼が恐れていた通りのものだった。

「平気よ、もう凍死する季節でもないし。場所は……そうね。台所にでも転がっててちょうだい」

「……」

 それは確かにその通りではあったが。

 4月初頭。ポカポカした陽気とはほど遠い、朝方には布団が恋しくなる季節。

 今はまだそんな季節なのである。

(お、鬼だ……)

 しかし、残念ながら彼に反論する術はなかった。




 そして、翌日の朝。

 ティースは――彼にとっては本当に意外なことに、この朝を、心地よい空気の中で迎えることができていた。

 遠くに聞こえるスズメの声。窓から射し込むあたたかい太陽の光。

 この日は晴天だった。

「ん……ん――っ」

 毛布の中で大きく伸びをするティース。

 堅い床の上でひと晩を過ごしたために体の節々には若干の痛みがあった。ただ、意外にも寝付いてからは一度も目が覚めることはなく、それがこの心地よい目覚めにも繋がったのだろう。

(思ったより寒くなかったし……って、あれ?)

 起き上がろうとして、彼はようやくその理由に気付く。

「……毛布?」

 横になったときはシーラに言われたとおりなにもかけていなかったので、おそらく寝付いたあとで誰かがかけてくれたのだろう。

 それはどうやら本来ティースのベッドで使用されている毛布のようで、となると、それをかけてくれたのはファナだろうか。

(ああ……やっぱ優しい人なんだなぁ、ファナさん)

 朝っぱらから妙な感動を覚えていると、まどんでいた視界が突然暗くなった。

 そして、

「おはようございます、ティースさん」

 同時に頭上から響く、柔らかな声。

「……え。あ、お、おはよう、ファナさん」

 暗くなったのは彼女の影が太陽の光をさえぎったためだった。そして、彼が返事をするのに一瞬戸惑った理由は、

「その服……シーラのかい?」

「はい。シーラさんが――」

「あの服じゃ目立つし動きにくいでしょ」

「――と、おっしゃいまして」

 視線をキッチンに移動させると、そこでは朝日を受けて輝くブロンドのポニーテールが揺れている。

「……」

 ひと晩明け、妙に息が合うようになっていたシーラとファナの2人に、ティースは少々呆気に取られていた。

「どうでもいいけど」

 とはいえ、シーラから彼に向けられた視線は相変わらず。

「お前、いつまでそこに転がってるつもり? 邪魔なんだけど」

「あ、そ、そうか」

 自分の寝ていた場所を思い出し、ノロノロと体を起こそうとする。

 幸い彼は就寝時にはそれなりの格好をして寝る人物なので、布団から起きたら下着だけとか素っ裸とかそういう心配はない。もちろん今日に限って言えば、寝た時点では毛布すらなかったのだから、当然といえば当然のことであるが。

「それと、ファナ?」

「はい?」

 驚いたことに、シーラはファナのことを呼び捨てた。

 先ほどの息の合った様子から考えても、どうやら昨晩のうちにだいぶ距離を縮めたようだ。

 そしてシーラは忠告するように言った。

「そんな近くに立ってたら危ないわよ。起き上がるふりをして、そいつにスカートの中を覗かれちゃうかもしれないわ」

「なっ……!」

 ティースは跳ね起きた。

 そして当然のごとく猛抗議する。

「ば、馬鹿言うな! 俺がそんなことするわけないだろ!」

「どうかしら」

 だがシーラの方は相変わらず、まるで気に入らないことでもあったかのように冷たい目で彼を見ている。

 いつものクセでティースは一瞬ひるんだが、もちろん彼とてそんな不名誉なえん罪を着せられたままにするわけにはいかない。

 無謀を承知の上で反論する。

「だっ、だいたい、俺は今までそんなこと一度たりともしたことないじゃないか!」

「それはそうよ。お前なんて、今まで女の子がそばにいたことすらないじゃない」

「……いや。まあ……そりゃそうだけど……」

 呆気なく折れたティース。

「ちなみに」

 そんな彼に対し、シーラはさらに言葉を強くして言った。

「こう見えて、私はその女の子なんだけどね。どうやらお前はそう思ってないみたいだけど」

「……あ」

 さぁっ……とティースの顔が青くなる。

 かと思ったら、すぐに赤みを帯びて、

「ま、待て! 今のは汚いぞ! 誘導尋問みたいなもんじゃないかっ!」

「別に悪いなんて言ってないじゃない」

 背を向けたシーラは、まるで犬を追い払うかのように手を振って、

「とにかく邪魔よ。さっさと退けなさい」

 そう言うと、その後は一瞥もせずにキッチンへと向かってしまう。

「……」

 一応反論を考えたティースだったが、結局なにも思い浮かぶことはなかった。いや、おそらくなにか思いついたところで、彼女を言い負かせるほどのものではないだろう。

(ちぇっ……)

 理不尽さに納得できないながらも、反論を諦めて毛布を手に立ち上がる。

 と、

「ふふっ……」

「ファナさん? なにかおかしかった?」

 ファナは微笑んでいた。彼の情けない様子を笑っているのかといえば、おそらくそうではない。彼女の笑みは圧倒的に好意的な響きを持っていて、それはティースにもすぐに理解できた。

 ファナは答える。

「うらやましいですわ」

「え。なにが?」

 きょとんとして尋ねると、

「なんとなく、です」

「はあ」

 彼女の言葉は相変わらず難解だった。

 ティースは首をひねりつつも、手にした毛布の感触を思い出して、

「あ、そうだ。毛布、どうもありがとう。おかげで凍えずに済んだよ」

「毛布、ですか?」

 だが、ファナは首をかしげた。

「私は存じませんわ?」

「あれ?」

 予想外の返答に、ティースはもう一度手にした毛布を見る。

 それは確かに昨日まで彼のベッドにあった毛布で、彼女が使っていたはずのものだ。まさか彼女が寝てるところを誰かがはぎ取ったわけでもないだろう。

(じゃあ、ファナさんが起きてから誰かが……?)

 一瞬だけシーラを見たものの、彼女の態度を見る限りは考えにくい。

「じゃあアオイさんかな? そういやアオイさんは――」

 ふと思いついて尋ねかけたティースに、ファナがニッコリと微笑んで答えた。

「アオイさんでしたら、まだお休み中です」

「……は?」

 振り返ったティースの視界。

 そこに映ったのは――部屋の壁に背中を預け、首をだらしなく曲げて眠りこけるミューティレイク家執事の姿。

「……」

 寝返りを打とうとして壁にこすったのか、髪はところどころが乱れて跳ね、かけたままの眼鏡はわずかにずり落ち、少し開いたままの口元にはヨダレの跡。

 服装こそ昨日から変わらぬままだったが、そこに昨日の戦いで見せた毅然とした雰囲気は微塵も残っていなかった。

 本当に同一人物なのかと疑うほどである。

「執事が主人より寝坊って……大丈夫なものなの?」

 ティースの質問に、ファナは少し意表を突かれたような顔をして口元に手を当てる。

「さあ。どうなのでしょう?」

「どうなのでしょう、って……」

「ですけど」

 ファナはすぐに柔らかな笑顔に戻って言った。

「昨日は負担をかけてしまいましたから。ゆっくり休んでいただきたいですわ」

「……」

 その言葉はまたもやティースの心の琴線に触れた。

(な、なんて優しいんだ……)

 まるで女神様のような笑顔(ティース視点)でそう言い切ったファナに、彼は再び感動を覚えるのだった。

「ちょっとティース! 起きたなら、ぼさっとしてないで早く手伝いなさい!」

「あ! わ、悪いっ!」

 人生、そういいことばかりではないようだ。


 さて、そんなこんなで30分後。


「わ、私としたことがまた寝坊をっ! もっ、申し訳ございませんでしたっ!!」

 アオイが跳ね起きて壁に後頭部を痛打し、我を取り戻した後で平身低頭してみせたころ、他の3人はすでに朝食を終えていた。

 その食事がファナの口に合うかどうかということを特に心配していたティースだったが、心中はどうであれ、ファナは特に文句を言うこともなく。

「気になさらないでください」

 よく聞くと彼女は使用人のアオイに対しても敬語だった。これは相手がどうこうというものではなく、もともとこういうしゃべり方なのだろう。

「昨日はあんなことがありましたし、アオイさんもお疲れだったでしょう? もっと休んでらしても構いませんでしたのに」

「きょっ、恐縮です……!」

 アオイはますますかしこまってしまった。

(彼女みたいな人の下で働けるのって、結構うらやましいかもなぁ)

 そんな光景をぼーっと眺めながらティースはそんなことを考えていた。

 もちろん、アオイがただのねぼすけでないことはティースにもわかっている。昨日、目にしたあの光景――超人的な男数人を相手に互角以上に渡り合っていた姿は、容易に網膜から離れるものではなかった。

 その実力ゆえにアオイはこうしてミューティレイク家当主のそばに仕え、実際にああやって彼女を危険から守っているのだ。実際、苦労も相当あるのだろう。

(俺の場合は望んでも到底無理だよなぁ……)

「?」

 ぼーっとしていると、不思議そうなファナと視線が合った。

「あ……」

 ティースは無意識のうちに彼女を見つめていたらしい。

「どうかなさいました?」

「あ、いや、なんでもないよ」

 ブンブンと手を振ってごまかすと、その横にいたシーラが、

「バカじゃないの。バレバレなんだから素直に見とれてたって言えばいいのに」

「う……」

 しっかりと見られていたらしい。

 シーラは食後の紅茶を口に運びながら、

「変なこと考えてる前に、お前にはやることがあるんじゃないの?」

「へ、変なことなんて考えて――」

「言いわけなんて、見苦しい」

「く……」

 反論を試みたいティースではあったが、ファナの態度に見とれていたことは確かであり、言い返したときの猛反撃を想像すると、やはりいつものように口を閉ざすしかなかった。

 そんな2人の様子を見て、ファナは相変わらずニコニコしている。

 端から見れば意地の悪いようにも思えるが、もちろん彼女にそんなつもりはないらしく、どうやらこのやり取りがじゃれ合いのように映っているらしい。

「あの……それではいただきます」

 一方のアオイはといえば、どうやらティースに対するシーラの態度には多少の萎縮を覚えているらしい。どうやら彼も、シーラのように気の強い女性はあまり得意ではなさそうだった。

 そんな彼に、ティースは多少の共感を覚えていた。

「それで――」

(それにしても……)

 言葉を聞き流しながら、ティースはふと考える。

(シーラも……昔は確かこんなじゃなかったのにな)

 そして密かにため息を吐いた。

(いつからこんな風になったんだっけ……)

 彼女が彼に対して言葉を向けるとき、その整った眉はいつでもかすかに皺を寄せる。

 まるで会話すること自体が不快だと――いや、そこまでは言わないまでも、できれば会話せずに済ませたいという意思は明らかだった。

 ティースとて、別に冷たい言葉を向けられて喜ぶような特別な性癖の持ち主ではない。彼女の態度になにも感じていないわけではないし、もう少し心の通った会話がしたいとも思っている。

 ただ、今の彼が真っ先に感じていたのは、彼女の冷たく理不尽な態度に対する『怒り』よりも『困惑』の方だった。

(これでも、俺なりによかれと思って色々やってきたんだけどなぁ……)

 彼は自分が大して取り柄のない人間だということも、人から特別に慕われる人間じゃないということもよくわかっている。

 だが、彼女と付き合ってきた十数年間、少なくともそのうちの半分以上はうまくやってきていたはずだった。

 彼らの関係がおかしくなったのは、とある事情から2年ほど前にこのネービスで新生活を始め、それからしばらく経ったころだろうか。

 それまで家で本を読んだりすることの多かった彼女が、急に休日や放課後に外を遊び回るようになり、ティースに対する態度も露骨に冷たくなったのだ。

 ちょうどそのころにできたらしい彼氏が原因か、と考えたこともある。が、彼女の反応を想像すると、そんなことは怖くてとても口に出せなかった。

「――で、どうするつもり?」

「え……あ、なんだっけ?」

 そう聞き返したティースに、シーラはこめかみに指を当てた。そして大きく、まるで不機嫌さを隠さないため息を吐く。

「ただでさえ頼りなかったのが、色ボケしてますます役に立たなくなったってわけね」

「んなっ……そんなんじゃないぞ!」

 先ほどと同じように反論するティース。ただし今回は胸を張って、だ。

 なにしろ、今回は本当にファナのことを考えていたわけではない。

「なにがどう違うのよ」

「今のは……ちょっと思い出していただけだよ」

「なにをよ?」

 ますますシーラの表情が険しくなる。

「いや、だから……その」

 言いかけて、ティースは思わず口をつぐんだ。

 本当のこと――昔はこんなじゃなかった、なんて、そんなことを口にしようものなら、かえって彼女を怒らせてしまうのは明らかだった。

 一瞬の間にそう考えて、

「……ゴメン」

 結局、いつものようにただ謝ったティース。

 もちろんそれを見るシーラの表情はますます険しくなった。そして彼女の視線はすぐに、まるで興味を失ったかのように移動して、

「ま、どうでもいいわ。それより今後のことよ」

 そう言って正面のファナを見る。

「あなたたちをここに置くのは構わないんだけど、結局、迎えが来るまでじっとしてるつもりなの?」

 それに対してはアオイが答えた。

「へぇひへふぁ――」

「飲み込んでからでいいわよ」

 即座にシーラが突っ込む。

(アオイさん……)

 当初の彼に対するイメージが、見る見るうちに音を立てて崩れていくようだった。

「むぐっ……そ、その、できれば屋敷と連絡を取りたいところなのですが」

 胸を叩きながらようやくアオイが答える。

「屋敷の方でも姫――ファナ様がお帰りにならないことで騒ぎにはなっているはず。おそらく警邏隊とも協力して探してくれていることと思います。今日中か、おそらく明日にはこの辺りにも来てくれると思うのですが」

「こっちから連絡を取ることはできないのかしら」

「敵がこの周辺を監視している可能性があります。残念なことに、昨日のことは通報者がいなかったのか騒ぎになってないようですし、死体も敵が片づけてしまったようで」

「だったら、ティースを連絡係にすればいいんじゃない?」

「いえ、ティースさんも敵に顔を知られている可能性が高いです。危険です」

「そう。だったら私が行けばいいのね?」

「え? あ……」

「……」

 驚いた顔のアオイ。意表を突かれたという顔のティース。小首をかしげるファナ。

 そこに三者三様の表情が並ぶ。

 一瞬の沈黙の後、ようやくアオイが口を開いた。

「そ、それはそうですが、万が一あなたが狙われたら――」

「それは本当に『万が一』ね」

 そんな心配を、シーラは苦笑で返した。

「その敵とやらが私のことを知っているはずがないもの。大体、私は今日だって普通に学園に行く予定でいたわ。その途中で警邏隊の詰め所なり、ミューティレイクのお屋敷なりに寄っていけばいいだけでしょう? ……そうね。ファナの知り合いだってことを証明できるなにかを持っていけば」

「そ、それは確かに……」

 アオイは納得してうなずいた。

 いくらなんでも、敵がこの近隣の住人すべてを監視しているはずはないし、できるわけもない。もしそれほどのことができるのであれば、身を隠しているファナのことなど昨日のうちに見つけているはずだ。

 だからアオイが言うような『万が一』は、本当に万にひとつ程度の確率だった。それこそ、路上を歩いていて通り魔に出会うほどの確率だろう。

「ですが」

 しかし意外にも反論したのは、穏やかな様子でなにも考えてないような顔(と言っては失礼だが)をしていたファナだった。

「この近辺の住人に無差別に接触している可能性はありますわ。シーラさんにも接触して情報を引き出そうとするかもしれません」

「それは私が知らないフリをすれば問題ないことよ。そりゃ、無差別に刺されたりさらわれたりするのなら話は別だけど」

 そう言いながらシーラはアオイのほうを見る。

 アオイは答えた。

「それはないと思います。この状況で無用な騒ぎを起こすことは、敵にとっても本意ではないはずですから」

 彼はどうやらシーラの提案に傾きかけているようだった。

 ファナも納得したのか黙ってうなずく。

 もちろんティースにも反論らしい反論は思い浮かばなかった。

 ただ、

「シーラ……お前、大丈夫か?」

「なにがよ?」

 向けられた視線に、少しだけ遠慮がちにティースは答える。

「いや……なんとなくだけどさ」

 明確な理由のないことだったから、そうとしか答えようがなかった。もちろんそれは彼女の身を心配したために出てきた言葉だったのだが、

「だったら余計な口は挟まないで」

 彼女は迷惑だと言わんばかりに、いつものように不快そうな顔をするだけだった。

「……」

 そう言われてしまうと返す言葉はない。

「で、昨日は聞き忘れたんだけど」

 シーラは一呼吸と紅茶のカップを置いて、再びアオイたちに向き直った。

「その敵っていうのは、いったい何者なの? ファナを狙うぐらいだから、よほどなんでしょうけど。政敵みたいなもの?」

「あ、いえ、そういうものとは少し違うのですが……」

 アオイの返す言葉は昨日と同じように歯切れが悪く、それ以上は口を閉ざして隣のファナを窺った。それを受けたファナも少し考えるように首を傾けてみせる。

 それは昨日ティースに対して見せた反応と同じだった。彼らはやはりそのことをあまり話したくないようだ。

「どうしたの?」

 だが、シーラはすぐには引き下がろうとせず、アオイには期待できないと悟ったのか、ファナへと視線を移動させて、

「ファナ? なにか話せない理由でもあるの?」

「いいえ。ただ、おふたりにご迷惑がかかるかもしれませんわ」

 彼女の回答はティースが昨日聞いたものと同じだった。だからこそ彼は、それ以上の追求を避けたのである。

 しかし――ティースが驚いたのは、迷った様子もないシーラの返答だった。

「だったら構わないわ。話してちょうだい」

「まっ……待て待て! シーラ、ちょっと!」

 ビックリしたティースはその肩をつかみ、シーラを促して部屋の隅へと移動する。

「……なに? ちょっと、離して」

 シーラはうるさそうな顔で自分の肩をつかんだティースの手を払う。その表情にはためらいなど微塵も感じられない。

 だが、ティースは気にせず、ヒソヒソ声ながら強い調子で言った。

「なにを考えてるんだよ! そこまで首を突っ込んじゃ……ファナさんだって迷惑がかかるって言ってるじゃないか!」

「……お前こそなにを言っているの?」

 シーラは逆に眉をひそめると、相変わらずの強い調子で言い返した。

「ファナを助けると決めたのはお前の方じゃなかった?」

「そ、そりゃそうさ! でも、だからって敢えて危険に飛び込むようなこと――」

「バカね」

 反論を、シーラはその一言で一蹴した。

「敵のこともロクに知らずに手助けするつもりなの? お前は男でしょ。自分がやると決めたことなら、徹底的にやり遂げなさいな」

「け、けど――」

 シーラの言葉はもっともではある。そりゃティースだってできれば敵のことを知っておきたいし、多少なりとも首を突っ込んだ以上は、状況や事情を把握しておきたいとも思っている。

 だが、それがさらなる危険を招く可能性があるというなら、話は別だった。

 それが自分ひとりのことならともかく――

「まさかとは思うけど、お前、私のことを気にしてるんじゃないでしょうね」

 まるで心を読んだかのように、シーラが絶妙のタイミングでそう言った。

 それはティースの正直な心を引き出すには充分すぎる、不意打ちのタイミングで。

「っ……いや……」

 とっさにそう答えたティースだったが、一瞬の空白が彼の心情を如実に物語っていた。

「……」

 シーラの表情が見る見るうちに不快そうにゆがんでいく。わずかに視線が斜め下に動くと、その右手が苛立たしそうに髪に触れ、無意識の動きで髪飾りへと移動した。

 そして、

「――ふざけないで」

 視線が再びティースに向けられたとき、その瞳には色が灯っていた。今までの興味のない冷たい瞳とは違う。明らかな『怒り』の色だった。

「今以上にお前の世話になるつもりなんてないわ。やりたいことがあるなら、私のことなんか気にせず好きにやればいいじゃない」

「好きなようにったって……」

 口ごもるティースに、彼女の口調はさらに苛烈さを増した。

 指先がその眼前に突きつけられる。

「お前、なにか勘違いをしてるんじゃないの? 私とお前はつがいでもなんでもないのよ。いざとなったら私はここを離れればいい。もうお前の助けがなくとも、ただ生きていくことぐらいならできるわ」

「……シーラ」

 その言葉に、ティースはそれ以上なにも返すことができなかった。彼女のその言葉はつまり、彼の心配など自分にとって不必要だと切り捨てる発言だったから。

(勘違い、か……)

 わずかにうなだれたティースをにらみ付けるようにして、シーラはそれ以上なにも言わず、不機嫌そうにテーブルへと戻っていった。

「お話は、まとまりましたか?」

 彼らの険悪な空気を読めなかったのか、あるいはそれさえも彼女の中ではじゃれ合いに変換されていたのか。

 ファナが変わらぬ微笑みでそう尋ねると、

「……あの一応、断っておきますと」

 アオイがやはり空気を察し、遠慮したような口調で付け加えた。

「聞いたから急にどうこうというものではありませんよ。ご迷惑というのは、念のための話をしているに過ぎませんから」

「ああ……」

 遅れてテーブルに戻ってきたティースは、彼の言葉にただうなずいた。

「……話してくれ」

 確かに本心では事情を知りたい。それをためらった理由の裏にシーラの存在があったのも事実だ。

 その彼女にあそこまで言われてしまったのでは、もう後に引く理由はなかった。

「では……」

 そんな彼にアオイはもう一度ファナを見て、彼女がうなずいたのを確認するなり口を開いた。

「彼らは――『魔』の者なのです」

「『魔』?」

 聞き返したティースに、シーラの怪訝そうな声が重なった。

「『魔』というと……つまり化け物のことかしら?」

「ええ、そうですわ」

 うなずくファナ。

「けど……ちょっと待って。俺が戦ったのは確かに人間だったぞ」

 ティースの疑問は当然だった。

 『魔』といえば通常、狼や牛の変化したようなモンスターや、人間に似ていても体長が4メートルあったりするようなものばかりを想像する。少なくとも、一般の人々が想像するのは大抵そんなものだ。

 だが、アオイは首を横に振って、

「『魔』の中にも、人型の者が数多く存在することはご存じでしょう?」

「そりゃ――」

 言いかけて途中で口をつぐんだティース。

 そう言われてみれば確かに思い当たるフシもあった。あの人間離れした動き、それが『魔』の者であったとするなら充分に納得がいく。

 だが、

(俺はそんなのを相手に戦っていたのか……?)

 知らなかったこととはいえ、それが事実だとするなら驚くべきことだった。それほど、一般的に『魔』の者と人間の力量差は大きいとされている。

「でも、どうしてそいつらにファナが狙われたの?」

 続いたシーラの疑問もまた至極当然のことだった。

 人間世界の政治や経済というものにそれほど興味を持ってないはずの『魔』が、わざわざ守りの堅いネービスの要人を狙う理由などなかなか考えにくい。

 たまに人間と結びついてそういうことを行う『魔』の者もいないではないが、それはごく少数である。

「それは――」

 アオイは少しだけ居住まいを正すような仕草を見せ、そして言ったのである。

「姫……ファナ様がミューティレイク家の御当主であると同時に、デビルバスター部隊『ディバーナ・ロウ』の総帥でもあるからです」

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