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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第5話『Boundary of Darkness』
39/132

その7『二ヶ月の代償』


 ゲノールトの事件から約1ヶ月後。


「うぅ……寒っ」

 年をまたぎ、寒さはさらに勢いを増していた。

 リガビュールの街には半月ほど前に雪が降り、それがそのままうっすらと積もったまま。さすがに夜の客引きたちも薄着の上に上着を着込んだり、寒さ対策するようになったようだ。

 とはいえ――今はまだ日が昇って間もない時刻である。リガビュール名物の歓楽通りも、あと数時間は静まり返っていることだろう。

 そんないたって健全な街の通りを、ティースは手に息を吐きかけながら歩いていた。

 すぐ近くの広場にはいくつか店も出ていたが、客足はいまいちのようである。

「気をつけないと、道もすべっ――おわっ!」

 言った途端、足を取られてコケる。

「……いたた」

 痛いやら情けないやらで、顔を歪めながらティースはゆっくりと立ち上がった。そこからはさらに慎重に、まるでがに股のようになって歩き出す。

「つめた……まいったなぁ」

 ズボンにはいかにも『たった今コケました』と言わんばかりの濡れた跡が残り、どうにも情けない。だが、まさか着替えるためだけに宿に戻るわけにもいかないし、仕方なくそのまま向かうことにした。

 表向き、街はずっと平穏だった。半月前の事件はその性質ゆえに、一般にはほとんど公にされていない。

 エルバートを含むキュンメルのメンバーも、いまだ街に隠れているのか、あるいはすでに脱出したのか。あの隠れ家にはもう誰の姿もなく、音沙汰もなかった。

『申しわけなさそうにしてたよ、あの子』

 というのは、エルレーンが後に語った、エルバートの最後の表情である。

 結果的にティースは彼にだまされていたということになるが、それについての遺恨は別にない。結果的に彼の行動は、ティース自身の主義に沿ったものであったし、その必死な気持ちも充分に理解できていた。

 ちなみに彼がエルレーンに似ていたのは単なる他人の空似であり、彼が最初、目印の灰色のローブと赤いリボンを身につけていたのは、最初にゲノールトに侵入した際、エルレーンが彼にそれを貸したからである。

 確かにエルバートの言動を思い返してみれば、不自然な部分はいくらでもあったのだが――思い込みは恐ろしい、といういい教訓だろう。

 そしてティースが到着したのは街の小さな診療所だった。

 そこで必要な手続きと支払いを済ませる。金は――さすがに1ヶ月分の宿代と合わせると手持ちが乏しかったので、申しわけないと思いつつも、ミューティレイクの紋章を示し、そっちにツケてもらうことにした。

 もちろんネービスに戻ったあと、自分の貯蓄からその分を支払うつもりである。

 1ヶ月。

 それは、セルマの怪我が完治するまでにかかった日数だった。足の骨折と傷跡はまだ痛々しかったが、普通に歩く分には支障無いところまで回復したようである。

(さて、と……)

 これでもう、この街でやり残したことはない。

「ティース様」

「ん……?」

 宿の前まで戻ると、そこではリィナが小さく手を振っていた。淡い水色のセーターに白のロングスカート。つい最近、この街で買った服だ。

「リィナ」

 そんな彼女を見て、改めて胸が踊る。

 無骨な旅用のローブとは違い、普段着の彼女はますます魅力的だ。ずっとその格好でいて欲しいとさえ、ティースは思った。

「2人は?」

「中にいます。……すべて、片付きました?」

「ああ。終わったよ」

「じゃあ、いよいよ出発ですね」

 リィナはニッコリと微笑んだ。

 待ちわびた、という表情。ある程度落ち着いてからこの数日というもの、彼女はもうひとりの昔馴染み……シーラとの再会をずっと心待ちにしているようだ。

「ここからだとホルヴァートを経由して、ネービスまで1週間ってとこかな」

「楽しみです。……でも、ちょっとだけ不安もあるんです」

「ん?」

 2人で宿の入り口をくぐっていく。

「人の世界は確か、仕事をしてお金を稼がなければ生活できないんですよね? 私、この世界の常識には疎いですし、うまくできるかどうか……」

「ああ、なるほど……でも、心配ないよ。こっちの世界に慣れるまでは、俺がなんとかするからさ」

 自信ありげにそうは言ったものの、実はティースの心の中にも一抹の不安はあった。

 その不安の正体はもちろん、これから帰る先――果たしてそこに帰れるのか、ということである。

(やっぱクビかなぁ、俺……)

 彼がそう考えたのは当然だろう。

 事情はどうあれ任務中に勝手に隊を抜け、そしてすでに2ヶ月間も音沙汰なし。普通に考えればとっくに除隊されていて当たり前だった。

 だとすれば、戻ってこっちで使った医療費を返し、なおかつリィナとエルレーンをしばらく養う。また傭兵家業に戻ったとして――単純に考えても少々厳しい状況だ。

(……あ、それに)

 もうひとつの要素をすっかり失念していたことに気付く。

(セルマの養育費も必要だし……)

 セルマ=ゲノールト。結局、ティースは彼女をネービスに連れていくことに決めていた。それは彼女自身の意思とも相談した結果である。

 あるいはこの治療期間に、誰かが彼女を迎えに来るかもしれない、とも考えていた。だが、結果的には誰ひとりとして姿を見せることはなく――うわさによれば、ゲノールトは組織としてほぼ壊滅し、総帥は生死不明とも耳にする。

 それほど、ネイルとリューゼットは徹底的にゲノールトを叩き潰していったのだ。

(……でも、ま)

 ひとまず考えるのをやめ、そしてティースは肩の力を抜いて深呼吸した。

(生きてるんだ。どうにかなるさ)

「……ティース! おかえりぃっ!」

「うわっ! ……うぷっ!」

 扉を開けた途端、まるで待ち伏せしていたかのようなタイミングでセルマが飛びついてきた。

 ここに来てから金銭的な理由もあって間食を止めてはいたが、それでも急に痩せるなんてことはあるはずもなく、相変わらずその背丈の割には激しく密度の濃い衝撃である。

「セ、セルマ。急に飛びついてくるのは止めてくれないか? 心臓に悪いから」

「ええ、なんでー?」

「おかえり、ティース」

 部屋の奥では、エルレーンがおかしそうにクスクスと笑っていた。

 その頭には大仰な包帯。……と言っても、怪我をしたわけではない。魔の証である尖った耳を、主にセルマに対して隠すためのものだった。

 少し間をおいて、後ろからリィナが部屋に入ってくると、

「では、そろそろ準備をしましょうか。10時半には馬車が出るはずですから」

「ああ、そっか。馬車で移動するのも久々だなぁ」

 普通なら徒歩で行くところだが、今回はセルマも一緒のため、街道を走る馬車を利用することにしたのだった。もちろんそのための資金はあらかじめ別に取ってある。

「さ、行こうか」

「うん!」

 元気良く返事をし、真っ先に宿を飛び出したセルマ。

「あ、セルマ。ダメだよ、勝手に行っちゃ。ほら、ティースが淋しがるからさ」

 それをエルレーンが追いかけていく。

「えぇー。じゃあ、早く早く! エルも早く!」

 不思議とウマが合っているように見えるのは、エルレーンも幼いから……ではなく、その逆だ。彼女は見掛けとは裏腹に精神的には非常におとなびていて、セルマとの付き合い方もすぐに理解したようである。

 そんな2人を視線の先にとらえながら、ティースの隣でリィナがそっとつぶやいた。

「エルさん、まるで頭を大怪我をしたみたいですね」

「……まぁ」

 耳を隠すほどなので、かなり大げさに包帯を巻いている。今はその上から帽子をかぶっているのでそれほど目立たないが、頭の半分は包帯に隠れている状態だった。

「夏だったら汗かいて大変だったって、冗談交じりに愚痴ってたなぁ」

 笑いながらティースがそう言うと、リィナは苦笑しながらも少し申し訳なさそうにして、

「少しエルさんに悪い気がします。本当なら向こうが先のはずなのに……」

 答えた彼女の長い髪が、ふわっとかすかな風に踊った。

 ――そんな彼女は、エルレーンと違って頭に包帯も巻いていなければ帽子もかぶっていなかった。馬車で移動するため、服装もほぼ普段着のまま。

「そうかな。エルは別に気にしてないと思うけど」

 言いながら、ティースは自らの左手の甲を見つめる。

 なんの変哲もない左手。だがときおり、そこに自らの体温とは違う不思議な暖かさを感じる。

 そこに埋め込まれているのは、刻印型の破魔具『朧』だ。


 ――それは、あの事件が終わった翌日の早朝のこと。


「これが『朧』だよ」

 無事に再会を終えたティース、エルレーン、そしてリィナの3人は、新たにもうひとつ借りた宿の部屋に集まっていた。

 そして集まるなり、エルレーンが2人に向かって差し出したのは、古代文字のようなものが描かれた、手のひらサイズの透明なプレートである。

「これが……?」

「朧、ですか?」

 ティースもリィナも不思議そうな顔でそれを見つめる。

 確かにそれは、ただ透明なプレートに変な文字を書き記したものにしか見えない。

「うん。でも、朧本体はこの文字の方。プレートは朧をしまっておくための容器なんだ」

「ふぅん……」

 ティースは不思議そうに受け取り、裏返したり透かしたりしてそれを見ていた。

「……でも、エル。お前、これをどうやって手に入れたんだ? モンフィドレル領に行ってたって聞いたけど……」

「あ、うん。それはね」

 ティースが返したプレートを受け取って、エルレーンは答えた。

「モンフィドレル領に知り合いがいるの。ボクが子供のころ、こっちの世界のことを色々教えてくれた人で、ボクがこっちに興味を持つようになったキッカケなんだ」

「その人も、やっぱり魔なのか?」

「うん、もちろん。ただ今は人間と結婚して、そこで学者さんをやってる」

「……へぇ」

 彼女はなんでもないことのようにサラッと言ったが、それは一般の人が耳にすれば驚きに飛び上がってしまうほどの出来事である。

「効果は……2人とも、知ってたよね?」

 無言でうなずくティースとリィナ。

 『朧』――それは魔が人に姿を変えるための特殊なアイテムだ。人と魔の間に交わされた誓約によって効力を発揮し、その代償は約8割ほどの魔力。その代わり効力は半永久的であり、誓約を交わしたどちらかが命を落とすまで続く。

 言い換えれば、どちらかが死ななければ効力を取り消すことはできない、という代物だ。

 後戻りは出来ない。

 エルレーンはもう一度問いかけた。

「リィナ。これを使ったら、もう向こうには戻れないよ」

「ええ」

 だが、リィナは即答。

 次にエルレーンの視線はティースを見る。リィナに向けたものと比べると、そこにはほんのわずかな迷いがあった。

「……ティース。ボクは、キミがこんな仕事をして、あんな人たちと戦ってるなんて、思ってもいなかったんだ」

 前日の出来事を思い返すように、視線が泳ぐ。

「これを使っちゃったら、もし昨日みたいなことがあっても、ボクもリィナも、もうキミを助けてあげられない。実際使ってみないとわからないけど、とても昨日のあの2人に対抗できるような力は残らないと思う。それでも――」

「やめてくれよ、エル」

 だが、ティースは笑いながら即答した。

「それじゃあ俺があまりに情けなさすぎるじゃないか。そりゃ俺にはまだ力がない。今の2人には遠く及ばないし、そうなるまでに何年かかるかもわからないし、もしかしたらそこまでの才能はないのかもしれない。……でも、俺は2人の夢を叶えてあげたい。そのために努力することぐらいはできる。それに――」

 少しだけ表情を引き締める。そしてグッと拳を握りしめた。

「あいつらは、俺自身の力でどうにかしたいんだ」

「そっか……」

 エルレーンはその気持ちを理解したらしく、ゆっくりとうなずいて、

「わかった。ティースのそういう前向きなとこ、ボクは大好きだよ」

「……はは。サンキュ、エル」

 ティースは笑って答えたが、

(……前向き、か)

 それはやや思いがけない言葉でもあった。

 サイラスとナナンの死を目の当たりにして以来、彼はずっと後ろ向きだった。過去を引きずり、後悔することで強くなろうとしていた。

 ――だが。

(なんとなく。ギレットさんの言いたかったことがわかった気がする)

 後悔することでも人は強くなれる。

 だが、それは強い憎しみによってだ。

「大丈夫。……強くなるから」

 自らに言い聞かせるように、ティースはつそうぶやいた。

(ここにいる2人のために。それに俺自身のためにも――)

「じゃあ……リィナ。準備はいい?」

 だが、リィナはそこで少し心配そうな顔をして、

「いいんですか? 順番的には私よりもエルさんのほうがずっとこのときを――」

「ううん。ボクは小柄だし、リィナより目立たないから後でいいよ」

 理由になっているのかいないのかわからなかったが、とにかくエルレーンは準備を進めた。

「それにティースだって、男か女かわからないボクみたいなお子様より、大人っぽいリィナが相手の方がいいよね?」

 ティースは苦笑して、

「……もう許してくれよ」

「ふふ、冗談だよ」

 笑って、朧のプレートを2人の間に掲げる。

「じゃ、プレートを挟んで、お互いの左手と右手を合わせて。大丈夫だと思うけど、2人が心から朧の効果を願わないとうまくいかないからね?」

 ピタッと、ティースの左手とリィナの右手の間でプレートが挟まれる。

「……」

「……」

 2人の視線が一瞬だけ交わされた。

 ティースは不思議な気恥ずかしさを感じ、慌てて目を閉じる。

(な、なんか緊張するな……まるで結婚式みたいで――)

 思わず想像した単語に、ますます頭に血がのぼった。

(な、なに考えてんだ、俺。相手はリィナだぞ。リィナ……リィナ――)

 気持ちを落ち着かせるべく、念じるように過去の映像を思い浮かべる。

(……そうそう。確か昔のリィナは無愛想で、ホントに非常識だったんだよなぁ)

 あの薄暗い屋根裏。あのころの彼女は『おはよう』とか『おやすみ』という挨拶すら知らなかった。笑うことだって、ほとんどなかったのだ。

(それが、今では――)

 昨日、ティースの無事を確認したリィナは、安堵した表情を見せた後、きちんと説明せずに姿を消したことに対して、かすかな怒りもぶつけてきた。

 彼としてはエル――だと思っていたエルバートに止められたこともあり、仕方ない部分もあったのだが、それでも素直に謝るしかなかった。

 それは彼女が、心から自分を心配していたからだと、そう感じることができたからだ。

 ようやく動悸が収まって、ゆっくりと目を開く。

 リィナはそんなティースを、不思議そうに見つめた後、

(っ……!?)

 小さく微笑んだ彼女に、心臓が再び跳ね上がった。

(……なにやってんだろ、俺……)

「2人とも、目を閉じて」

 プレートを中心に、光が2人を包んでいく。

 朧によって結ばれる新しい絆。それは今のティースにとって、とてつもなく喜ばしいものに思えた。

 錯覚であれ、それが彼女たちとのつながりを永遠にしてくれるような、そんな気さえしていたから――




「そういやずっと聞き忘れてたけど……エル」

 時間は再び現在へと戻って。

 ティースたち4人はすでに、2頭立て4人乗りの馬車に乗り込んでリガビュールの街を発っていた。

 盗賊対策のため同じ目的地の馬車がいくつも集った一団は、リガビュールから約180キロほど離れたホルヴァートという街まで4日、さらに120キロほど離れたネービスの街まで3日、合計1週間かけて到着する予定である。

「お前、どうしてゲノールトに捕まってたんだ?」

 馬車に揺られ始めるなりセルマはすぐ眠気を催したらしく、今はティースのひざの上に頭を乗せて眠っていた。

 そんな彼と向かい合う2人掛けの座席に、リィナとエルレーンが並んで座っている。

「うん」

 エルレーンは頭に巻いた包帯をほどいて、やや軽めに巻き直しながら、

「リガビュールには11月の頭ぐらいには到着してたんだよ。それで、あとはリィナを待つだけだったんだけど、そこにいるうちにゲノールトのうわさを少しだけ耳にしたの。そしたら、居ても立ってもいられなくなって――」

「わざと捕まったのか?」

「うん。もしかしたら偉い人に直接文句を言えるチャンスがあるかもって」

 ティースは呆れ顔をする。

「……それ、無謀すぎ」

 彼のことをよく知る人間が聞けば、お前が言うなというセリフであったが、エルレーンは素直にうなずいて、

「わかってたんだけど、他に方法が思いつかなくて。実力行使だと騒ぎが大きくなりすぎてリィナとの待ち合わせに支障が出ちゃうし……ボクら、こっちの世界に家があるわけじゃないから、待ち合わせに失敗したら二度と会えなくなる可能性もあるんだ。それだけは避けなきゃならなかった」

「まぁ……」

 それでも無謀なことに変わりはなく。

 ただ、彼女の名誉のために断っておくと、本来の彼女はそこまで無謀でもなく、考えが足りないわけでもない。今回の状況は彼女の信念にとって、どうしても動かざるを得ないものでもあったのだ。

 それを知っているティースには、一応彼女の心情は理解できた。

「あ、聞き忘れたといえば……ティース」

 ふと思い出したように、今度は逆にエルレーンが質問を口にする。

「キミ、シーラと結婚したってホント?」

「え? あ……ははは、お前までそんな話を聞かされてたのか」

 苦笑いのティース。

 もちろん彼女ら2人はティースの故郷であるカザロスまで行動をともにしていたのだから、同じうわさを耳にしていて当然だった。

「あ、エルさん。それはやっぱりデタラメだそうですよ」

 嬉しそうにニコニコしながらリィナが答える。

 相変わらず彼女の辞書では、結婚というイベントは悪い出来事に分類されているようだった。

「そっか」

 対するエルレーンの方は少し微妙な反応だ。

 彼女はリィナと違い、こちらの世界における結婚の意味をちゃんと知っていたらしい。

「じゃあ駆け落ちっていうのは、やっぱりシーラの勉強のためなんだね?」

「ああ。って、そもそも駆け落ちなんかじゃなくて、エルならわかると思うけど、あいつずっと嫌がってたのに――」

「うん、わかる。カザロスの人もそれらしい話をしてたから。だから駆け落ちだと思われたんだと思うし」

「?」

 リィナひとりだけが、その会話の流れを理解していないようだった。

「でもそれ、たぶんシーラの方から言い出したんだよね?」

「そりゃそうだ。……考えてもみろよ。俺が自分から無理やりあいつを連れ出せると思うか?」

 冗談交じりに笑ったティースに、エルレーンはちょっと考えて、

「女の子の立場としては、少しはそういう強引さがあってもいいんじゃないかと思うけどね」

「はは……あいつ相手にそんなことしたら、こっちが蹴っ飛ばされちゃうよ」

 彼は至極当然のようにそう言ったのだが、

「え?」

 エルレーンは理解できない顔で驚いたような声を出した。

「シーラが? ティースのこと蹴っ飛ばすの?」

「え?」

 逆に驚いたティース。だが、リィナもエルレーンと同じようにびっくりした顔で彼を見つめていた。

「……あ、そっか」

 少し考えて、その理由に気付く。

(あのころのシーラって、まだ今みたいな感じじゃなかったんだっけ……)

 口調などはさほど変わっていない。だが、ティースに対する態度は、確かに今とはまったく違っていた。

 ティースは苦笑して、

「今じゃ、顔を合わせるたびに俺のこと邪魔者扱いだよ。まあ、実際に蹴っ飛ばされるなんてことはほとんどないけどね」

 だが、2人の驚きの表情は変わらないまま、

「ティース様を邪魔者扱いだなんて……あのシーラさんが、そんな……」

「ティースにずっとベッタリだった、あのシーラが……?」

「ベッタリってほどだったかな……」

 実際はそうでもなかったのだが、そのころティースが彼女らを訪れるときはほぼシーラと一緒だった。だから2人の目にはそう映ってたのかもしれない。

(……まあ。今と比べたらずっとまともな関係だったのは確かだけど……)

 一瞬の沈黙に、馬車の音が大きくなる。

 ティースは続けて言った。

「だから、まあ。2人ならきっと大丈夫だと思うけど、もしかしたら昔とはちょっと勝手が違うかも。別に悪い意味ばかりじゃなくてさ」

「……」

「……信じられません」

 無言で思案顔をするエルレーンに、リィナの呆然としたつぶやきが重なった。

 そして再び、少しだけ重い沈黙。

 どうやらティースの語った事実は、この2人にとっては思った以上にショックなことだったらしい。

「でもほら。4年も経ってるし」

 そんな雰囲気を変えようと、ティースは明るい声を出した。

「結構、色々と変わっただろ? 俺のアレルギーとかさ」

「……それは変わったとかいうレベルの話じゃないよね」

 エルレーンがすぐさま話に乗ってくる。

「ホント不思議な話だけど、それってボクが触れてもダメなの? セルマが大丈夫なんだから、とりあえず子供には反応しないんだよね?」

「エルは……アウトかな。今までの経験からすると、子供っていってもせいぜい12歳ぐらいがギリギリで……エルは確か、えっと今年で13――」

「15歳だよっ! あと3ヶ月で16歳!」

「あ、そ、そっか」

 エルレーンは不満そうな顔をして、

「今の絶対ワザとでしょ。生まれたのシーラと1週間しか違わないって、覚えてないはずないもの」

 ティースは苦笑を返した。……それはもちろん意図的なもので、そんな冗談が飛ばせるほど心には余裕ができていた。

 ちなみに、1週間だけエルレーンが年上なのである。

「ま、なんにしろ、エルは確実にアウトだと思うよ」

「でも、シーラは大丈夫なんだよね?」

「ああ……それが不思議なんだよなぁ。あいつよりひとつ年下の子でもダメだったんだ。昔からの知り合いならいいのかと思ったんだけど、リィナはダメだったし……」

「でも、リィナはこの4年でだしぶ変わったでしょ? その点、ボクならそんなに変わってないから、大丈夫ってこともあるんじゃないかな?」

「……って、自分で言ってるじゃないか」

 エルレーンは明るく笑って、

「だって、見た目が子供っぽいのは本当のことだもん。ホントはぜんぜん気にしてないよ。それに、これはボクらの種族の特徴でもあるからね」

 『風』は魔の10属性の中でも、もっとも小柄――特に女性――な種族なのである。

「じゃあ……」

 ティースはひざのセルマを起こさないように苦心しながら、右手をエルレーンに向かって差し出す。

「一瞬だけ、触れてみてくれないか?」

「そんな一瞬で気絶しちゃうの?」

「ああ。こう……なんていうか、触れた瞬間に視界がフェードアウトしていく感じなんだ」

「じゃあ……」

 指先が、触れる。

 その瞬間。

「っ……!」

 案の定、頭のてっぺんから血が引いていくような感覚に襲われた。

 頭がフラつく。

「ティース! 大丈夫!?」

「あ、ああ……やっぱダメみたいだなぁ」

 触れたのが本当に一瞬だったため、気絶することは免れたようだ。だが、頭の奥に痺れたような感覚が残っており、意識をはっきりさせるため頭を振る必要があった。

「それに、ほら。俺から見ればエルだって結構変わったよ。今はどこからどう見ても男の子に間違えるのは難しいし」

「……うーん」

 エルレーンは少し考えて、

「たとえばの話だけど、同い年ぐらいの、男の人か女の人かわからない人に触れられた場合、どうなるのかな?」

「……それは試したことないなあ」

 そもそも原因がわからないのだ。

 だが、たとえばミューティレイク家主治医のマイルズが以前言ったように精神的な問題であれば、その判断はティースの認識に委ねられているということだろう。

 つまり、彼がその相手を女と認識しているか否か、ということになる。

(とすると、俺はシーラのことを女だと認識してないってことか? ……そんな馬鹿な)

 そんなはずはあるまい。もしそれが、恋愛対象として、ということであれば話は違ってくるが、

(……それならエルだって、なぁ)

 他にも除外されそうな人間はいくらでもいそうなものだ。

「でも、本当に困ったね。それじゃ恋人もできないんじゃない?」

「そりゃ、まあ……ね」

 そこへ、リィナが不思議そうな顔で、

「え? 恋人でしたら、たくさんいますよね? 私もエルさんも、きっとシーラ様もティース様の恋人です」

「ちょっ……リィナ」

 ティースは慌てた。別に誰が聞いているわけでもないが、事情を知らない人間が聞いたらひどい誤解をされそうなセリフだ。

(恋人ってのを、親友みたいなものと勘違いしているんだもんなぁ……)

 そこへ、エルレーンがフォローを入れる。

「リィナ、違うよ。恋人っていうのは、その人にとって特別なひとりのことなんだよ」

「え? ひとりだけなんですか?」

「うん。リィナの考え方だと――」

 エルレーンは少し考えて、

「リィナにとって、結婚して子供を産むことはものすごく嫌なことだよね?」

「それは、誰でも嫌です」

 真顔での返答に、エルレーンは慣れているのか、ただうなずいて、

「だったらこう考えて。その人の頼みなら結婚して子供を産んでもいいって、そういう風に思える人が恋人だって」

「子供を……?」

「たとえば、ティースがキミに自分の子供を産んでくれって頼んだとして――」

「お、おい!」

 突然のたとえ話に、ティースはびっくりして、

「そ、そういうたとえにいきなり俺を使わないでくれ!」

「え? ……あ、そ、そっか」

 顔を真っ赤にして抗議するティースに、エルレーン自身もその意味を深く読んでしまったのか、少しだけ頬を上気させる。

 リィナよりはこちらの世界に詳しいとはいえ、エルレーンもまた王魔であり、やはり多少は感覚のズレがあるようだった。

「?」

 リィナはひとりだけ不思議そうなまま、

「とにかく……それぐらいの相手、ということですね?」

「うん。そうかな」

 エルレーンはすぐに立ち直ったが、ティースはいまだ頭を熱くしたまま、リィナの顔を正視できない状態だった。

 そこへ見事な追い打ちが炸裂する。

「でもそれなら、きっとティース様は私の恋人です。ティース様がどうしてもというなら、私はティース様の子供を産んでも構わないですよ」

「!?」

 完璧にクリーンヒットした。

「リ、リィナ。なにを……」

「でも、ティース様が私にそんなひどいことを言うはずはないですけどね」

 あくまで真顔でリィナはそう付け加える。

 それに対し、ティースはなにを言っていいのかわからずに視線を泳がせてしまった。

「ティース?」

 そんな彼を不思議そうに見つめていたエルレーン。

 だが、やがてなにごとか思いついたらしく、

「ティース。キミ、もしかして――」

 途中でエルレーンが飲み込んだその言葉は、おそらくティース自身も自覚していない、この先どうなるかもわからない未成熟の感情だったのだろう。

「……そっか。でも」

 つぶやいて、エルレーンはその幼く見える顔に少々難しそうな色を浮かべた。

「あの……エルさん? 私、なにか悪いことを言いましたか?」

 困惑した様子のリィナ。

「ううん。そんなことないと思うよ」

 エルレーンはそう答えたが、やがて視線を馬車の外に移し、どこか感慨深げにそっとつぶやく。

「4年だもんね。シーラも、ティースも昔のまんまじゃないし、成長もしてるんだよね」

 再会の喜びをもう一度かみしめたかのようなひとりごと。

 ただ、そこにはほんの少しだけ、困ったような、そんな感情も込められていたようだった。






 2月に入り一時期の強い寒さはいくらかやわらいでいた。

 大陸の北に位置するだけあって、ネービスの冬は他に比べれば長く厳しいが、それでも馬車の通行が困難になるほどの雪が降ることは少なく、北の街クレイドウルなどと違って、交通網が麻痺することはほとんどない。

 そんなネービス晩冬の昼時間。

 朝から働き詰めだった者も、学園に通う学徒たちも、今はひとときの休息を取り、昼食で空腹を満たしているころだろう。

 街の中央通りを厚着した人々が行き交い、商売人たちも精を出している。

 そんな中。

 中央通りを北に進み、一般住宅地と高級住宅地の境目を西に向かってずっと進むと、そこには大きな屋敷がある。

 ネービスでも有数の大貴族であるミューティレイク邸だ。

 その、一辺がキロ単位であろうかという大きな敷地の正門……から、少し離れた場所。

「……いいかげん行かなきゃなぁ」

 白い息を吐きながらそこにたたずんでいたのは、言わずと知れた長身の青年、ティーサイト=アマルナだった。

 そこに到着したのは10分ほど前だったが、それからしばらくそこをうろうろしており、端から見ると少々不審な人物のようにも思われていたかもしれない。

「よし。……あと60数えたら行くぞ」

 そんな彼の腰が引けてる理由は、わざわざ説明する必要もないだろう。

 今回のことで迷惑をかけた人々を、どんな顔で訪ねればいいかわからなかったためである。

(20、21……)

 一応、ティースは自分の選択を正しかったと思っている。

 2人の昔馴染みと無事再会できたし、そのひとりは朧によってすでにその夢を叶えることができた。

 ただ、それはあくまで彼個人の問題である。周りに迷惑をかけてしまったことは間違いないし、やむを得なかったこととはいえ、ミューティレイクの名を色々なところで勝手に利用してしまった。それはへたをすれば罪に問われてもおかしくないことだろう。

(32……でも……33……最低でも自分の……34……荷物を引き払って……35……ツケちゃった分の……36……お金を返して……37……それから――)

 ため息が口をつく。

(それにクビになるなら……期待してくれたファナさんやアオイさんにはちゃんと謝らなきゃ……4――よし!)

 40を数えるまでに決意はできた。

 そしてティースの足は勇ましく正門へと向かっていく――かと思いきや、すぐに立ち止まって、

「で、でも、待てよ。せめてお詫びの品を買ってから――」

「なにやってんの、ティースさん」

「おわぁっ!!」

 文字通り飛び跳ねた。体も、心臓も。

「あ、こんなところでそんなに飛び上がったら――」

「うわっ……っと、っと……!」

 地上に下り立った瞬間、やや凍っていた地面に足を取られる。踏ん張ろうとしたのも無駄な努力。アッという間に体と地面が平行になり――

 ……ゴキッ!!

「ッ~~~~~~~!!」

「あれ。尾てい骨からいったみたいだね」

 声にならない痛みが腰から脳天へと突き抜けた。

 だが、その原因となった声の主は彼の痛みなど意に介した様子もなく、平然と会話を続ける。

「で。こんなとこでなにコソコソやってんの?」

 涙を浮かべたティースは腰をさすりながら顔を上げ、ようやく相手の正体を把握するにいたった。

「リ、リディアか、いたた……」

 厚着をし、三角の毛糸の帽子をかぶって立つ少女。歳の割にどこか冷めた印象の視線、その奥に潜む頭脳は大人顔負けという、ミューティレイク家の若き12歳の執事、リディア=シュナイダーである。

 そんな彼女に対し、ティースはようやく雪の上から手を上げて、

「や、やあ、久しぶり……」

「ホント久しぶりだね。2ヶ月と12日ぶり」

 リディアは驚いた様子でもなく、ごくごく普通に挨拶を返す。

「に、2ヶ月と12日……そ、そうか。そんなに――」

「ちなみにそれは、ティースさんがフォックスレアの街に向けてここを発ってからのこと。ナイトがここに戻ってきてからは2ヶ月と4日かな」

「あ、ああ……そうか」

 彼女らしく、意味があるのかないのかよくわからないデータまで披露する。

 ……いや、意味がないはずはなかったのだが、ティースはそのことには気づかず、以前と変わらないように見える彼女の様子に少しホッとしていた。

(……これなら、それほど問題になってないのかなぁ)

 そんな淡い期待を抱きながら、体を起こしつつ尋ねる。

「で、でもいいところで会ったよ。これから――」

「で」

 だが、次の一言に、雪を払おうとした体が凍り付いた。

「今さら、なにしに戻ってきたの?」

「――」

 淡々と。

 いつも通りに。

 ……ゆっくりと、視線を彼女の顔へ移す。

 そこには以前のように、秘めた親しみというのが微塵も感じられなかった。

 いや、それどころか――

「ぁ……」

 自らの考えの甘さに心の中で頭を殴りつけながら、ティースは頭を下げた。

「……すまない」

「なにが?」

 だが、リディアは表情を動かさない。そこに突っ立って、頭を下げる彼をただ見下ろしたまま。

 そこには、かすかな怒りが浮かんでいるようにも見えた。

「なにを謝ってるの? あたしに謝ってなにか解決するの?」

「あ、あぁ。そうだな……」

 ティースは頭を上げた。それからひどくゆっくりした動作で冷たく濡れたズボンの雪を払う。

 そうしながら考えをまとめ、ようやく口を開いた。

「みんなに迷惑かけたのはわかってる。でも俺、どうしてもやらなきゃならなかったんだ」

「……」

「それがこっちの勝手な事情だってのはわかってる。だから今日は自分の責任を果たすつもりで来たし、ファナさんにもちゃんと謝るつもりだ。償う必要があれば償う。それでダメならもう二度とここには来ないよ」

 真摯な気持ちだった。少しでも自分の気持ちが伝わればと、そういう願いを込めて言葉を口にしていた。

 だが、

「ファナさんに謝る? 責任?」

 リディアの口調に変化はない。

「別にファナさんに謝る必要なんかないよ。ティースさんが突然いなくなったところで、ディバーナ・ロウは別にたいして困んないもの」

「……そうか」

 それは厳しい言葉だったが、少なくとも現段階では事実だろう。

「とにかく俺、まずはファナさんのところへ行くよ。それで荷物をまとめて、シーラを連れて出ていくから――」

「だから」

 リディアはあきれ顔で言った。

「ティースさんはなにしにここに戻ってきたの? ここから連れて出ていく? 誰を?」

「え?」

 ドクン、と。

 心臓が鼓動を打った。

「……そうか」

 その可能性は考えないでもなかった。ティースがいなくなったことで、シーラもまた、このミューティレイクの客人ではなくなったのだ。

 今もここに置いてもらえてると考えたのは、さすがに楽観的すぎたのかもしれない。

「ってことは、もしかしてもう俺の荷物もシーラが持ってったのか? じゃあ、いまどこにいるか――」

「荷物はそのままあるよ。ティースさんが残していった蓄えも全部そのまま。銅貨1枚たりとも動かしてない」

「え?」

 ドクン、と。

 心臓が再び嫌な鼓動を刻む。不安が全身を包み込んだ。

「だから言ってるでしょ。ファナさんに対して責任? もっと責任のある相手、他にいたんじゃないの?」

 そんな彼に、リディアは淡々と続けた。

「ファナさんは優しいから。ティースさん、きっとなにか事情があったんだろうって。だから『2ヶ月』待つって。そう言ったの」

「2ヶ月……?」

 呆然とつぶやいたティースに対し、リディアは寂しげに視線を伏せた。

 そしてポツリと言った。

「……4日遅かったよ、ティースさん」

「!」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

 リディアは続けた。

「今シーラさんはここにはいない。どこに行ったかも、あたしにはわからない。ちゃんと生きてるかどうかだって――」

 肩が震え、語尾が乱れる。

 ――涙声だった。

「リディア? それっていったいどういう――」

「なんで……!」

「!」

 顔を上げたリディアの目には涙が浮かんでいた。そのまま彼をにらみ付けると、叫ぶ。

「なんで……なんで、もっと早く戻ってきてくんなかったのッ! シーラさん、ものすごく不安そうだった! ティースさんがもう戻ってこないんじゃないかって……あの通りの性格だから、口には出さなかったけど……でも!」

 ティースは呆然と、その叫びを聞いていた。

「あいつが、いなくなった……?」

「どんな事情があったのか知らないけど! なんでもっとシーラさんの気持ちとか考えてあげられなかったの!? ああ見えてあの人、ものすごく繊細で、ものすごく寂しがり屋だって……長い間一緒にいたくせに、そんなことも知らなかったの!?」

「!」

 その言葉が、ティースの脳を焼く。

 ――繊細で寂しがり屋。

 知っていた。彼はそのことを知っていたのだ。

 なぜならそれは昔、まだ小さかったころ、今ほどには強くなかったときの彼女そのものだったから。

(ああ――)

 彼女の気持ち。

 最近の彼女は強くなった。だから大丈夫だと思った。もっとしたたかに生きてくれると思っていた。

 だが、現実は――どうやら彼が思いこんでいたものとは、大きく違っていたようだ。

「ッ!!」

 グッと拳を握りしめ、ティースは地面を蹴る。

「学園だ。サンタニアに行けば――!」

「無駄だよ」

 だが、落ち着きを取り戻したリディアの言葉が、無情にもそれを引き留めた。

「シーラさん、ティースさんがいなくなったすぐ後からサンタニアには行ってない。休学届けを出してあったみたい」

「きゅ、休学……?」

 唇を震わせて、ティースは振り返る。

「そ、それじゃあ、いまはどこに――」

「だから、あたしにもわかんないってば……」

「……」

 沈黙。

 心臓の鼓動が、やけにうるさかった。

(学園にも行ってない? じゃあ、いったい……?)

 そう考えて、一瞬の思考の後、

(そんな……俺――)

 愕然とした。

 ――知らない。ティースはそれ以外に、シーラの行きそうな場所をひとつも知らなかった。

 このネービスに来てからというもの、彼女とどこかに出掛けた記憶がほとんどない。それは最初のうちは仕事でいっぱいだったとか、途中からは彼女に恋人が出来たからとか、理由はいくつかある。

 だが、それにしても、ティースはこの街での彼女を知らなさすぎた。彼女の交友関係すらひとつも把握していなかったのだ。

 ……浮かれていた。

 リィナやエルレーンとの再会。久しぶりに会った昔馴染みの成長した姿に胸を躍らせた。その瞬間は、確かにここで待つ彼女の存在を忘れていたかもしれない。

「っ……!!」

 自分の愚かさに胸がムカムカする。

 たったの4日。

 その程度、どうにでもなるはずだった。もちろん彼は期限のことを知らなかったが、たとえそうだとしても、少しでも早く彼女の元に戻ることを考えて行動していれば、ここで待つ彼女の気持ちを考えていれば、間違いなく間に合っていたはずだろう。

「……探してくる!!」

「あ、ティースさん!」

 背後からリディアの呼び止める声がする。だが、足は止まらなかった。

(出ていったのが4日前なら、まだどうにかなるはずだ!)

 いまだ雪の残る地面を蹴りつける。

 まずは、ミューティレイク邸に移る前まで住んでいた、あの借家だ。そこがダメなら、たまに買い物に出掛けた店。そこがダメなら――

(絶対、見つけ出してやる……!)

 とにかく、少ないながらも彼女と一緒にいた記憶のある場所を回る。たとえ些細なものでも。そこがダメなら、何日でも街を歩き回って探し出す。探し出してみせる。

 その決意は楔のように胸に打ち込まれた。

 それは彼の中で、何事にも優先するものだった。

(絶対、絶対に――!!)


 ……と。


 そうして走り出してから、ほんの数秒後のことである。

「あら?」

 すれ違ったのは、ミューティレイクのメイド服に身を包んだ使用人。どうやら買い出し――というより、品物を注文に行っての帰りだろうか。

 紙のメモらしきものを手にしたまま、

「ティース?」

 どうやら顔見知りのようだ。使用人は足を止め、隣を駆け抜けようとした彼の名を呼んだ。

「……」

 だが答える余裕もなく、彼はその場を走り抜け――

「どうしたの、そんなに慌てて。というかお前、いつの間に戻ってきたの?」

「……――は?」

 ピタリ、と、足が止まった。……いや、やや凍った地面に足を取られ、再び体が宙に浮く。

「おわっ……てッ!!」

 再び痛打。だが、今度は痛みなど気にならなかった。地面に腰を落としたまま、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。

 その視線の先――冬の日差しに踊ったのは――透き通る水飴のような輝くブロンドのポニーテイル。

 腰に片手を当て、地面に尻もちをついたティースを呆れたように見下ろす視線。

 もちろん、見覚えがあった。

「え……」

 それはまさしく――

「なにやってるの。……お前、私になにか言うべきことがあるんじゃないの?」

 そう言って彼を見つめるのは、どこか冷たさすら感じるほどに容姿端麗な美少女。

「し……し……」

 ティースは、震える指を目の前の少女に向けた。

 そして、

「……シーラぁぁぁッ!?」

「?」

 指さして叫んだ彼に、シーラはその形の良い眉をわずかにひそめて、

「なに? なにかの嫌がらせ?」

「な……どどど……どこ行って……え……?」

「あ、シーラさん。おかえりなさーい」

 その背後から、トコトコとリディアがやってくる。

「どこ行ってたのー? あ、買い出しだったんだ? 屋敷の中にいなかったからどこに行ったのかと思ってたよー」

 シーラはそんな彼女を見て、手にしたメモをヒラヒラとさせながら、

「ええ。買い出しと言っても注文してきただけで、あとは勝手に届けてくれるみたいだけどね」

「そっか。今日は寒かったし、もしかしたら凍死してるんじゃないかと心配してたよ」

「凍死? そこまで寒いかしら?」

 シーラが怪訝そうな顔をすると、リディアは笑って、

「そうでもなかったか、あはは。……あ、そうそう。ティースさんがさっき戻ってきたみたいだよ」

「ええ、見ればわかるけど……」

「シーラさん、実は嬉しいのに我慢してるんでしょ? いいよ、ほら。今はあたししか見てないし。どうぞ、感動の抱擁を」

「……怒りの鉄拳の間違いではなくて?」

 だが、目の前で繰り広げられるその会話に、ティースはまるで参加できずにいた。

(な……なにが、どうなって――?)




「任務ご苦労様でした、ティースさん」

 いたって平然と、まるでなんの違和感もなく、ティースはミューティレイク別館の執務室へと迎え入れられていた。

 正面の机には、2ヶ月前とまるで変わらぬ微笑みのミューティレイク家当主兼ディバーナ・ロウ総帥、ファナ=ミューティレイク。

 そしてその隣には、温厚な笑顔に縁なし眼鏡のイングヴェイ=イグレシウス――アオイ、がいる。

「期限の『3ヶ月』まではまだ時間がありましたのに。すでになにか収穫がおありでしたか?」

「え? あ、は、はい……」

 見聞を広げる旅。無断の失踪ではなく、許可を得た上での放浪。……どうやらそういう話になっているらしいことは、すでに耳にしていた。

 意味ありげに笑うアオイの視線にも助けられ、ティースは懸命に話を合わせている。

「では、お貸しした紋章を戻していただけます?」

「は、はい」

 ふところから、レイから預かっていたミューティレイク家の紋章を出し、それを歩み寄ってきたアオイへと手渡す。

 それを見て、ファナはニッコリと微笑むと、

「ご苦労様でした。しばらくはゆっくり体を休めていただいて結構ですわ」

「はぁ……」

「他に、なにか?」

「あ、いえ、じゃなくて、えっと、その――」

 あまりの展開になかなか頭がついていかない。だが、こうなった以上、言うべき事は言っておく必要があると、ティースはそう思って、

「その、実は旅の途中でお金が――」

「それについては、ご心配無用ですわ」

「で、でも、ちゃんと返すつもりで――」

 だが、ファナは本当に不思議そうな顔をして、

「なぜですの? ティースさんは任務で旅をなさったのです。その費用をこちらで持つのは当然ですわ」

「……」

 口答えはできない雰囲気だった。

 いや、もちろん口答えなどする必要はなかったのだが――

「……その、それと」

 この後、またいくつかのお願いごとをする立場の彼としては、非常に心苦しいことこの上なかった。

「実は、折り入ってご相談が――」

 とはいえ、それも結局は、あっさりと受け入れられることになるのであるが――。




「リディア。……いったい、どういうことなんだ?」

 ディバーナ・ロウ復帰の手続き、その他のお願い、すべてが済んだ後、執務室の前で待っていたリディアに、ティースは不満げな顔で詰め寄っていた。

「なにが?」

 トボける彼女に、ティースの眉間に皺が寄る。

「あのなぁ……冗談にしても、さっきの嘘はタチが悪いぞ。そりゃ俺も悪かったんだけど、それにしても……」

 だが、リディアはあっけらかんと答える。

「冗談? あたし、嘘なんてひとつも言ってないよ。全部、ホントのことだし」

「いや、だって、シーラが出て行ったなんて――」

「え? 出て行ったなんて言ったっけ?」

「言っ――」

 言いかけて、考える。

「――ってない……」

「今はここにいない、って言っただけだもんね」

 勝ち誇ったように、リディアは悪戯っぽく言った。

「シーラさんがどこに出掛けたかだってホントに知らなかったし」

「で、でも」

 会話を思い出し、どうにか反撃の糸口を探し出す。

「期限が2ヶ月とかって言っただろ? でも、ファナさんは3ヶ月だったって。それは、どう考えても嘘じゃないか」

「ああ、そのこと」

 なぜかリディアは不満そうに口を尖らせて、

「実際はそうだったんだもん。あーあ、嫌なこと思い出しちゃったなあ」

「え?」

「ティースさんが4日遅れたせいで、あたし、1ヶ月も書庫の整理しなきゃいけなくなったんだからね」

「へ?」

 いまいち意味がわからない。

「ホント、あたしには感謝して欲しいぐらいなんだけどなぁ」

 困惑するティースに、リディアは頭の後ろに手を回してそっぽを向きながら言った。いつもどおりの軽口の端に、ほんのわずかな真剣さを交えて。

「大事なこと、忘れかけていたこと、気付かなかったこと。色々と確認できたんじゃないの?」

「!」

 ドキッとする。

 それはその通りだった。すべてが丸く収まっていたのはあくまで結果論でしかない。彼がシーラのことを失念しかけていたのはまぎれもない事実なのだ。

「文句は、それだけ?」

「……」

 文句などあろうはずもなく。

 するとリディアは少し満足げな顔をして、

「わかってくれたなら、あたしも一応謝っておこうかな。これでもそこそこ心配してたからさあ。ちょっとは腹いせのつもりもあったよ。ごめんね」

「あ、ああ。そうか。……いや、こっちこそ心配かけて悪かったよ。シーラのことも気にかけてくれたみたいで、ありがとう」

「感謝の印におこづかいくれてもいいよ」

 リディアは明るく笑って、

「じゃ、あたしはファナさんに話があるから、そこどいてくれる?」

「あ、ああ……」

 扉の前から移動する――と、ティースは思い出して、

「あ、そういやリディア? シーラが休学して学園行ってないって話は……」

 ドアの前に立ったリディアは振り返って、

「ああ、それ――」

「それも、嘘ではないわ」

「え?」

 廊下の向こうからやってきたのは、話題の少女――シーラだった。先ほども不審には思ったのだが、やはりミューティレイクの使用人服に身を包んでいる。

 そして彼女はまず、リディアに視線を向けると、

「さっきのティースのおかしな反応、やっぱりあなたの悪戯だったのね」

「あはは」

 リディアはペロッと舌を出すと、ノックしながら執務室のドアを開いて、

「でも、嘘はついてないよ。ちょっとだけ小道具使って芝居入れちゃったけどね」

 ポケットから小さなビンを出して見せる。目薬だ。おそらく嘘泣き用に使ったのだろう。

「相変わらず手の込んだことね……」

 あきれるシーラに対し、手を振りながらリディアは執務室の中に消えていった。

 ……と。

「お、おい、シーラ」

 ティースは彼女らのそんな会話など聞こえていない様子で、

「どういうことなんだ? 休学って?」

「ええ。それは本当よ」

「な、なんで――」

「なんで、ですって?」

 シーラは目を細め、彼を見据えた。

「お前がいなくなって戻ってくるかどうかわからなかった以上、働かなくてはここにいるわけにいかないでしょう。いくらファナの好意であっても」

「……」

 もっともな話だった。返す言葉もない。

「試験も受けられなかったし、卒業は1年延びることになりそうよ。でも、もしお前が認めないのなら、このままやめてもいいわ」

「そ、それは困るよ!」

 ティースは即答した。……立場がどうも逆に思えて仕方ないが、彼女の夢は、彼にとっても夢だ。だから、彼らの間ではこれで普通なのである。

「そう。だったらあと1年、よろしく頼むわね」

 そっけなく言い放ったシーラ。

 その後、思い出したように付け加えて、

「それと。いつかの約束も、1年延長してもらうわ」

「え? 約束?」

「ええ。なんでもひとつ、言うことを聞くという約束よ」

「あ。ああ……」

 彼はすっかり失念しかけていたが、確かにいつだったか、そんな約束をしていた。

「どう?」

「……」

 ティースは無言で、シーラを見つめ返す。

 ……リディアの冗談は、確かに実際に起こりうることでもあった。もし彼がディバーナ・ロウを除名されていたなら、彼女はここにいられず――いや、たとえファナが認めたとしても、それを良しとせずに出ていった可能性はある。

 そしてもしかしたら、二度と会えなくなっていたかもしれない。

 ……二度と。

 そう考えると急に、胸の奥が熱くなってきた。

「……いや」

 そして答える。

 目の前の少女の顔をまっすぐに見つめて。

「そのぐらい、おやすい御用だよ。……2ヶ月もほったらかしにして、本当に悪かった」

「……え?」

 深く頭を下げたティースに、シーラは少しびっくりした顔をする。

 だが、その視線はすぐに横に流れた。

「や……やめなさい。気色悪いわ」

「あ、あのなぁ」

 その言葉に少なからずショックを受け、ティースは顔を上げて抗議する。

「気色悪いって言い方はないんじゃないか? せめて、らしくない、ぐらいで――」

 シーラは横目で彼をチラッと見て、

「虫酸が走る、とか、蹴り飛ばしたくなる、とかの方がいいの?」

「いや。気色悪いでいいよ、もう……」

 諦めた。

「……あ、でも、さ」

 だがその後、再びティースはその顔に明るい表情を浮かべることとなる。

 おそらくその先の言葉は、間違いなく彼女を喜ばせることができると思ったから。

「え?」

 そして、不思議そうな顔の彼女に言った。

「迷惑かけた代わりと言っちゃなんだけど、お前にとっても、きっと嬉しい知らせがあるんだ――」




「……にしても。ほんっとわかんない人だなぁ」

「ふふ、そうですか?」

 夕日の射し込む執務室の中。部屋にいるのは屋敷の主ファナと、彼女の補佐役である執事のリディアだけだった。

 2人の机の上には重要な書類が山積みになっていて、ほぼ毎日それを2人で処理している。話をしながらでも、その速度が緩むことはない。

 そして2人の話題に上っていたのは他でもない。シーラのことだった。

「あの人、2ヶ月前はホントに出ていきそうな雰囲気だったんだ。だからあたし、嘘をついてまで引き留めようとしたのに――」

 そうしてリディアは首をひねったまま、大きく息を吐いた。

「いざ期限になったら、今度は除名するのを1ヶ月でいいから延ばして欲しい、なんて。おかげで、あたしは1ヶ月も書庫の整理をするハメになっちゃってさ」

「それは、賭けなどなさったリディアさんの自業自得ですわ」

 リディアは口を尖らせて、

「なんでも言うこと聞くって約束しちゃったんだもん。ファナさんも鬼だよ。いくら交換条件だからって、こんないたいけな少女に1ヶ月も重労働を課すなんてさ」

「あら。でしたら書庫ではなく、庭の手入れになさいます? 外はまだ風も冷たく――」

「ううん。ファナさんは天使のように慈悲深い人だよ。ファナさんありがとう」

「……まぁ」

 クスクスと笑うファナ。

「ですが、リディアさんの苦労はきっと無駄にはなりませんわ」

「やっぱり? そう思う?」

「ええ」

 ファナは微笑んだままうなずいて、そしてゆっくりと目を閉じた。

「ティースさんは、色々学んで戻ってこられたようです。今年は無理かと思ってましたけど、もしかすると5月に間に合うかもしれませんわ」

 5月。それは帝都ヴォルテストでデビルバスター試験の行われる月だ。

 リディアは頭の後ろで手を組み、背もたれに体を預けて、

「うーん、あたしはさすがに無理だと思うけど……まぁ、行って自信を失うだけ、ってことはないかもね」

「次のことは、予定通りアルファさんにお願いしようと思ってますの」

「……え。ホントにやるの?」

 びっくりした顔をして体を起こすリディア。

「ていうか。アルファさん、引き受けるって?」

「いえ、まだなにもお知らせしておりません」

「じゃあ、まずそこからスタートじゃん。……大丈夫かなぁ。それに、アルファさんから学ぶことなんてある? そりゃ、実力は間違いないと思うけど、あれはちょっと……今のティースさんには吸収できないよ、きっと」

「ええ、私もそう思います」

「……ファナさん。なにを考えてるの?」

「そうですね……すぐにではなくとも、そうすることが最終的に良い結果を導くような、そんな気がしますの」

「根拠は?」

 まるで理解できない顔のリディアに、ファナは変わらぬ笑顔のままいつものように答えたのだった。

「なんとなく、ですわ――」


-了-

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