その6『風の妖精』
パチパチ……。
パチパチ……。
かすかな残り火。崩れ落ちたガレキの山。
魔を見せ物、売り物とし、それによって利益を得ていた者たち――『デビルスレイバー』ゲノールト。非合法組織たちの聖地ともいうべきこのリガビュールの街でひとときの栄華を誇った巨大地下組織。
しかし今、それは無惨な姿をそこにさらしている。
ほんの数時間前まで、そこは確かに魔を虐げる者たちによって支配されていたはずだった。
だが今、そこを支配していたのは――
「ご苦労様、ルルー」
かすかな風が爆煙をゆっくりと押し流す。
そこに君臨していたまがまがしい炎の天使は、主人である女性の足もとにその姿を沈めていった。
ネイル=メドラ=クルティウス。
彼女は炎の将族であり、凶悪な魔の組織『タナトス』の幹部でもある女性だった。
「さて、とぉ」
彼女が作り出す炎天使の一撃の威力は、タナトスの中でも横に並ぶ者はなく、王魔にすら匹敵するといわれている。
トップクラスのデビルバスターでも、それをまともに受けて無事でいられる者は多くはないだろう。まして、その域にすら到達していない青年など、どれだけ優れた素養を持っていても生き延びていられるはずがなかった。
そしてネイルは鼻歌混じりに足を踏み出す。
「リューちゃんは、生っきってるっかなぁっ」
まるでそうではないことを望んでいるようにも聞こえる、弾んだ声。
かすかな風が、さらに爆煙を払っていく。
……風。
「?」
なんの跡形も残さない、強烈な一撃の痕跡を残しながら。
そこには風が吹いていた。
「……」
ネイルの足が止まる。その表情が少し怪訝そうになる。
風。
……不自然な風だった。それは一方向に吹いておらず、爆煙の中心で渦を巻いている。
そして、
「!」
今度こそ、ネイルの表情が驚きに変わった。
聞き覚えのない人物の声とともに。
「間一髪、だったね」
ゴッ!!
そこに渦巻いていた風が、アッという間に爆煙を払った。
「っ……」
ネイルは腕で顔を覆う。長い髪がなびき、服がパタパタと泳いだ。
腕の下から目をこらす。
「……!」
驚くべきことだった。
あらゆるものを焼き尽くす『神の業火』にさらされたはずのその場所に、人の形を留めているものが2つもあったのだ。
「――……?」
片方は、なにが起きたのかわからない表情で、細波を構えたまま呆然と立ち尽くすティース。
髪の毛や服の端々にかすかに焼け焦げた跡が残ってはいたものも、確かに生きている。それどころか、体そのものにダメージらしきダメージは見えなかった。
そして――そこにいたもうひとり。
『風』だった少女は、まるで無重力の中を舞うかのように、ふわりとつま先でティースの眼前に降り立った。
「間に合ってよかった」
ほんのわずかに内側にカールしたセミロングの髪が軽やかに踊り、身につけたヒラヒラの服が宙を泳ぐ。小柄で可憐なその様はとても人とは思えなかった。
まるで空を自由に舞う――妖精のようだ。
「キミ、は……?」
混乱と、驚愕。
ティースはいまだ呆然としていた。自分が助かったのはもちろんわかる。助けてくれたのが、目の前の少女だということもかろうじて理解できた。
が、それでも驚きに変わりはない。
……そこにいたのは、あの少女だった。娼牢に囚われ、エルバートに良く似ていた少女。彼の家族ではないかと、密かにそう疑っていた少女だった。
だが――
(あれだけの攻撃を、防ぐなんて……)
その少女の魔力は、あまりにも桁外れなネイルの一撃を完璧に打ち払っていたのだ。
それはもちろん、並みの人魔にできる芸当ではない。
(じゃあ、この子はいったい……?)
だが、現状をなんとか整理しようとあがくティースに、少女はさらに混乱に拍車をかけるひとことを口にした。
「ティース、体は平気?」
「……え?」
「大丈夫だった? 怪我はない?」
「ど、どうして……?」
聞き間違いではないだろう。少女は確かにティースの名を呼んだのだ。
もちろん名乗った記憶はなかった。
「なんで、俺の名前を――」
だが、最後まで問いかける前に少女は続けた。
「実は最初に見たときもアレ? とは思ったんだ。でも想像よりずっと大きくなってたし、まさかこんなところにいるなんて思わなかったから。……ティース。ボクだよ」
「え……?」
親しげな声と口調。
――脳裏が刺激される。
そのときになって、彼はようやく気付いた。
「な……なんでッ!?」
それがひどく聞き覚えのあるものだったということ。それが、彼の脳裏の奥に存在する記憶とまったく同じだったということに。
ただ同時にひとつ、大きな『違和感』もあった。
記憶とつじつまの合わないこと。
それは――目の前にいたのがまぎれもない『女の子』だったということだ。
(そ、それにあいつは、さっきまで……)
だが、少女はさらに言った。
「ティース。もしかしてボクのこと、忘れちゃったの?」
「え? い、いや……だって、エルはさっきまで俺と一緒にいたはずで――」
さらに困惑するティースに、ついに少女は眉をひそめた。
「もしかして、あのエルバートって子のこと?」
「エ、エルバートぉ?」
彼にとって、それはまったく知らない名前だった。
そしてその反応で、少女はすべてを察したらしい。
「……あの子から事情を聞いて、まさかとは思ったけど」
少女が右手を振るうと、再び一陣の風が吹いて残っていた炎をすべてかき消した。そして肩越しにティースに向けた可愛らしい瞳が、かすかな不満の色を浮かべる。
「キミ、2年も一緒にいて、ずっとボクのこと男の子だと勘違いしてたの? ……それ、いくらなんでもちょっとヒドくない?」
「……え゛?」
さらに混乱する。
エルレーン=ファビアス。それは昔リィナとともに出会い、そして2年間をともに過ごした人魔の少年――のはずだった。
だが今、記憶の中にあるエルレーンの姿と、目の前にいる少女の姿がティースの脳内で重なり合い、そして。
(あ、あれ……?)
不思議と違和感はなかった。
いや、当然と言うべきか。もともとティースも、彼女とエルバートは顔が似ていると感じていたし、そうだと言われて見てみれば、確かにエルバートよりも彼女の方が昔の面影がはるかに強い。
先にエルバートと出会ったことで、記憶におかしなフィルターがかかってしまっていたのだろう。
「じゃあ……本当に、君がエル……エルレーン?」
「……あきれた」
少女はため息をつくと、やはり憮然とした様子で、
「そりゃ、昔からボクとリィナで、態度がちょっと違うなぁとは思ってたけど。まさか男の子だと思われてるなんて、さすがに想像してなかったよ……もぉ」
「……」
驚きに口が塞がらない。
それはそうだ。ティースは本気でこの4年間――いや、一緒にいた2年も含めた6年もの間、ずっと彼女のことを男だと思っていたのだから。
だがしかし。
口調、声、態度……彼女が『少年』ではなく『少女』であったということを認めてしまえば、すべてがピタリと当てはまった。違和感などどこにもない。
そして数秒後、
「……す、すまん」
ようやく事実を受け入れて、ティースは反射的に謝った。
「俺、本気で勘違いしてたよ……」
別に彼女――エルレーンの外見が男っぽかったというわけではない。ただ単に昔は幼かったのと、彼女の一人称が『ボク』だったこと。それとちょっとした早とちり――先入観のせいである。
だが、今は勘違いしようもなかった。小柄で年齢よりも幼く見えるのは昔と変わらなかったが、今の彼女はどこからどう見ても女の子だ。
「……ま、いいけどね」
ティースの素直な謝罪に、エルレーンはそう言って表情を崩した。どうやら本気で気分を害したというわけではなさそうだ。
「キミらしいといえばらしいよ。変わりないみたいで、かえって安心したかな」
おかしそうにクスッと笑って、そしてすぐに視線を正面に戻した。
「詳しい事情はあとだね。今はそれよりも」
「……」
その視線の先のネイルは、目を見開いたままじいっとエルを見つめている。どこかほうけたようにも見えるが、戦意を失ったわけではないだろう。
いや、むしろ、
「……すごいなぁ。ルルーの攻撃を吹っ飛ばした人なんて、初めて見たよ」
口調は、どこか浮かれたものだった。
「ルルーはすごいんだよ。ヌーボーもねぇ、ルルーの攻撃を受けて立っていられる人なんて、この世界にはそういないだろう、って言ってたんだから」
「……エル。あいつは」
「大丈夫だよ、ティース」
エルレーンは怯むことなく、ネイルを見据えていた。
風がかすかにその髪を揺らす。
「あの人、確かに信じられないぐらい強い。でも」
きっぱりと、言い切った。
「ボクの方が、絶対に強いから」
「バルちゃん」
再び視界を埋め尽くす、炎の矢。
「エル!」
「下がって、ティース」
エルレーンは前に出ようとしたティースを制止すると、右手をゆっくり持ち上げた。
「!」
直後、ぼぅっ……と、エルレーンの全身がキラキラした淡い緑色の光に包まれる。その瞳もかすかな光をまとってまっすぐネイルに向けられた。
そして、口が呪文のような言葉を紡ぎ出す。
「風はいずこより来たりて、いずこへ行くかを知らず――」
口調も先ほどまでとは違う。まるでなにかが乗り移ったかのようだった。
それで彼女に起きた変化といえば、かすかにそよ風が吹いて、身にまとっていた緑色のキラキラが周囲に軽く振り撒かれた程度。
だが――
(……これは)
ティースは目の前で起きたことが信じられなかった。
ネイルの放った炎の矢はその頼りない緑の光に触れただけで、驚いたことに次々と勢いを失い勝手に消滅していったのである。
「フォルっち」
ただ、ネイルはそれを予測していたのか、炎の矢を弾幕にしてエルレーンに接近していた。その背後には髭の騎士が炎の槍を手に浮かび上がっている。
「エル!」
「大丈夫」
それでもエルレーンはまるで動じなかった。左手でティースの動きを制したまま、右手がゆっくりと空を切る。
再びそよ風が彼らの両脇を吹き抜けると、緑の光が宙を舞って、今度はネイルを包み込むように渦を作った。
「え……?」
ネイルの足が止まる。そして、なにが起きたかわからない顔で自分の背後を振り返った。
「フォルっち……?」
まるで憑いていた物が落ちたかのように、その背後にあった邪悪な炎の影はその姿を消していた。
「バルちゃん? ……カイくん?」
ネイルが続けて呼びかけたが、彼女の周囲にはなんの反応も起きない。
「――万の邪なる者は神霊の名の下、蠢き止まん」
さぁっ、と涼やかな風が流れた。業火に包まれていたはずの通路はいつしか彼女の緑光にすべて覆われ、清涼な静けさがそこを支配している。
「ルルー? ……ルルー!?」
超絶的な破壊の力を持っていた炎の天使ですら、そこに姿を現すことは許されなかった。
「……さぁ」
そしてエルレーンは緑色の光をまとったまま、ネイルを見据える。
「この場所はもうボクの力の支配下だ。二度とキミの力は発動できないよ」
「……」
ネイルは信じられないといった表情でエルレーンを見つめていた。
そしてそれは、後ろで見守っていたティースも同じで、
(すごい……まさか、あのネイルさんが手も足も出せないなんて……)
あれだけの力を持った将魔のネイル。その彼女の力を完璧に封じたエルレーン。見た目は小柄なネイルよりもさらに小さかったが、緑の光に包まれたその後ろ姿には、神々しさすらただよっていた。
「それじゃあ……ティース」
そしてエルレーンはゆっくりとティースに問いかける。
「ボクにはまだ事情がわからない。だから、この先――彼女をどうするかは、キミが判断して」
「……」
それは思いがけぬ選択だった。
……迷いがなかったかといえばそれは嘘だろう。圧倒的な力を背景に相手に死を宣告することは、純粋な戦いの中で命を奪ってしまうこととは大きく違う。
ティースという男の性格を考えればなおのことだろう。彼は視界に入ったものであれば、アリを踏みつぶすことさえ必死に避けようとする男だった。
だが――
「そいつは……」
状況の不利をようやく悟ったのだろう。ネイルは間合いを取って、その場から逃げ出そうとした。
「そいつは、悪だ……ッ!」
唇をかみしめて、振り絞るようにティースは言った。
その声は少しだけかすれていて、
「そいつは――……ッ!!」
「ありがと、ティース。ゴメンね、嫌な役を押し付けて」
エルレーンはティースに最後まで言わせなかった。
再び風が渦を巻く。
「きっとボクもキミと同じ気持ち。でも」
なにかをこらえるように、その目が鋭く細められた。
「奪っておかなきゃならない命も、この世には確かにあるんだ。……ティース。ボクは、キミを信じてるから」
エルレーンの周囲に渦巻いていた風が鋭さを増し、やがて肌で感じ取れるほどに圧縮される。
「ボクはあの人の命を……ここで奪う!」
鋭い風切り音が聞こえた。
風の槍がネイルの背を追う。
目にも止まらぬ速さだった。逃げ出した彼女を貫くまでの猶予は、おそらく1秒もなかっただろう。狙いは正確。避ける余裕はない。防ぐ手だても、また。
それは確実に、致命的な一撃。
――の、はずだった。
だが。
「! あれは……ッ!?」
まるで最初から示し合わせていたかのように。ネイルが逃げた先。崩れた床。地下3階とつながったその場所から、黒い影が飛び出してきた。
「……」
長身、生真面目で無愛想な表情の男。手に携えたのは、刃がノコギリのようにギザギザになった長い剣だった。
「リューちゃん!」
「ふっ……!」
短い呼吸音とともに、リューゼットはその太刀を振るう。
「!」
衝突。
同時に、無音の衝撃が周囲に波及した。
「……ほぅ」
口からもれたつぶやきは、かすかに驚きをまとっていた。だが、その腕に少し力を込めただけで、風の槍はその目前で四散する。
「……!」
それを見たエルレーンの表情が、少しだけ険しくなった。
彼の力を、感じたのだろう。
「……リューちゃん! ねぇ、聞いて聞いて!!」
リューゼットが床に降り立つなり、ネイルはすぐさまきびすを返し、口を尖らせて彼に詰め寄った。
「あの子がなんかやった途端、ルルーもバルちゃんも出てきてくれなくなったんだよ! ねぇ、なんでなんでー!?」
「相性の悪い相手に当たったな、ネイル」
リューゼットはそんな彼女をチラッと見やって、
「あの者がまとっているのは神気だ。おそらくは王魔。力押ししか能のない貴様では100年かかっても勝てはせん」
「ええーっ! そんなの、つまんない!」
「つまるつまらぬの問題ではない。……さて」
リューゼットはすぐさまティースたちの方へと向き直る。
「ティース。それに王魔の少女よ」
「……エルレーンだよ」
エルレーンの口調にはピリピリしたものが混ざっていた。それだけ、新たに現れたこの男に対して脅威を感じていたのだろう。
「ほぅ。ならば、エルレーン」
リューゼットは手にしていた剣を手放した。途端、剣は四散する光となって消える。
「貴様は、どうしてもこの場での戦いを望むか?」
「……?」
不思議そうな顔をしたエルレーンを見て、リューゼットは視線を横に移動させる。
その先にいたのは、ティースだ。
「ティース。私は、この場におけるこれ以上の戦いを望んでいない。1対1は望めそうもないし、長く留まってあまり人の目につくのも好ましくはない」
「ど、どういうことだ……?」
「貴様たちが戦いを望まないのであれば、私とネイルはすぐさまこの場所を去る、ということだ」
「ええーっ!?」
その提案に真っ先に異議を唱えたのはネイルだった。
「そんなの、つまんな――!!」
ゴぃン!!!
「……いったぁ~~~~~~っ!!!」
肘打ちが額に決まって、ネイルはその場にうずくまった。
「阿呆はしばらく黙っていろ」
リューゼットの視線は相変わらず、ティースとエルレーンをその場に縫い止めるように射抜いたまま。
そして、言った。
「エルレーンとやら。貴様はその、隣にいる男の命を失いたくはないだろう?」
「……!」
エルレーンの表情が少しこわばった。
……コン。
リューゼットはさらに、ティースに向けて言い放つ。
「そしてティース。この中で、貴様だけが『低いところ』にいる」
「っ……!」
「このまま戦いになったら勝敗はわからないだろう。だが、私とネイルがその気になれば、おそらく貴様の命だけは確実に奪うことができる。たとえその後、我々が負けるとしてもだ」
「……」
言い返せない。悔しいことだが、それはおそらく事実だった。
コン。……コツン。
「さて、どうする?」
「……」
「……」
沈黙。
複雑な感情が、ティースの中で渦を巻いていた。
(ここで、こいつらを逃がせば――)
タナトス。
ザヴィアだけではない。ネイルもまた、許し難い悪だった。リューゼットも……いまだ信じられないことだが、その仲間だという。ここで彼らを逃すことは、新たな惨劇の種を世に放つことにもなるだろう。
だが――
「……エル」
「ボクは――」
エルレーンは言いかけて淀み、視線を泳がせた。そこに浮かんでいた色は、明らかに戦いに否定的だ。
その理由は考えるまでもない。ティースの身を案じてのことだろう。
(……情けない)
――コツン、コツン。
拳を握りしめた。
彼は、この場ではあまりに無力だった。少なくとも、戦局を左右するだけの力は持っていなかった。
ネイルたちに対する怒りは変わらない。つい先ほど、目の前で短い生涯を閉じてしまった少女のことももちろん忘れたわけじゃない。
もしもティースがそれにふさわしいだけの力を持っていて、自らの命が危険にさらされる程度のことならば、おそらく彼は戦いに身を投じていただろう。
だが、この戦いに賭けられていたのはそれだけではない。
コツン。……ゴン。
「……わかった」
そう答えることも、今のティースには屈辱的だった。
本来、彼には選択する資格すらないのだ。彼に選択権が与えられたのはすべて、隣にいるエルレーンのおかげである。
しかしそのエルレーンとて、ネイルとリューゼットの2人を相手にすればどうなるかはわからなかった。
事実、リューゼットは彼女の攻撃を造作もなく一刀両断していたし、自信ありげなその態度も決してハッタリだけとは思えない。
自らが手助けできない以上、それほどの危険を、この再会したばかりの昔馴染みに押しつけることはできなかった。
それが、決断の最大の理由だ。
そして、
「この場は――」
彼がそう言いかけた、そのときだった。
ゴン……ゴぃン!!!
「……っ!!」
リューゼットの後頭部を、ひときわ大きなガレキがクリーンヒットした。
ドスン……ゴロゴロゴロ。
大きな破片が転がっていく。
「……」
「……」
「……」
一瞬の沈黙がその場を支配した。
言いかけたまま、思考停止したティース。
びっくりした顔で目を見開いたエルレーン。
そして、頭を垂れた体勢で固まったリューゼット。
……奇妙な沈黙が流れた。
「ネ、イル……」
そしてその空気は一気に重く、異様な気配を帯び始める。
「貴様には、状況を理解することすらできんのか……」
ゆらりと。
明らかにいつもとは違う雰囲気のリューゼット。
だが、その後ろ。ネイルはまるで言葉が聞こえていないかのようにしゃがみ込み、転がっていた壁や天井の欠片を次々とリューゼットに向けて放っていた。
……ゴン。
またひとつ。
リューゼットは首を振って、少し赤くなった額を押さえながら、
「ネイル……答えろ」
だが、ネイルはそっぽを向いてなにも答えない。
「……」
「……」
「……だってぇ」
そしてようやく、ネイルは口を開いた。
「リューちゃん、しばらく黙ってろって言ったじゃない」
「……」
その瞬間、その場の緊張感を保っていたなにかがキレた。
ドォォォォォン!!!
「……うわぁっ。リューちゃん、すごい、すごぉい」
「死ね。貴様は死ね。馬鹿は死ななければ直らん」
手に産まれた、とてつもなく巨大な光のハンマーを振り回すリューゼット。
「だ・か・ら、馬鹿は馬鹿って言った方が馬鹿なんだってば! ……あれぇ? でもそーすると、馬鹿に馬鹿って言った人も馬鹿になるんだから――」
リューゼットの攻撃を巧みに交わしながら、ネイルはうーんと考えて、
「あ、そっかぁ。結局、みんな馬鹿なんだぁ!」
「……」
ガスッ! ゴガンッ! ドォォォォォォォン!!!
爆音と土煙を上げながら、2人の姿は徐々にティースたちの視界から消えていった。
仇役にあるまじき、あまりにも緊張感のない立ち去り方。
だが、しかし――
「っ……」
グッ、と、握りしめたティースの拳に、悔しさが満ちあふれていた。
……ふざけているかのようにも見えた、2人の敵。
そんな彼らに対してすら、一切の隙を見出すことのできなかった自分のふがいなさが、情けなくて仕方なかったのだ。
(くそっ!)
戦いは終わった。
囚われた魔を助けるという目的は達していたし、本物のエルレーンともこうして再会することができた。
なのに、すがすがしい気持ちはどこにもない。
今の自分にはそれが精一杯だとわかっていても。悔しい気持ちが拭い去れるわけではなかった。
「……ティース。行こ」
その気持ちを少なからず察していたのか。エルレーンも再会の喜びは後回しに、今はこの場からの離脱を彼に促した。
「これだけ暴れたら、ココもいつ崩れるかわからないし」
「……ああ」
それは正しいし、理解もしていた。
だが、ティースにはひとつ、ここでやり残したことがある。
「……ティース?」
怪訝そうなエルレーンの声を背にゆっくりと歩く。
――崩れ落ちたガレキ。かすかな残り火。
あれだけの戦いの中にありながら『その場所』だけはそのままの状態で残っていた。
「俺は……また、守れなかったんだ」
かすかにのぞく赤いドレスの切れ端。
その目前に、ひざをついた。
「セルマ……ごめんな……」
「ティース?」
後ろからやってきたエルレーンも、そこに積み重なった大量のガレキと、その隙間からのぞく赤いドレス、流れ出す赤い血に、すぐ状況を察したのだろう。
「……そっか」
そしてかすかに視線を伏せる。
だが、直後、
「……ティース!?」
次の彼の行動を見て、エルレーンは血相を変えた。
「ちょっと待ってよ! なにをする気!?」
「……」
ゆっくりとガレキに手を伸ばしたティースは、そのまま振り返らずに答える。
「この中に女の子がいるんだ。まだ子供だった。せめて、きちんと埋葬してあげたい」
「だ、だって、このガレキの下なんでしょ? ティース……キミ――」
「心配するな。別に気が触れたわけじゃない」
ガレキが崩れないように、ゆっくり、ゆっくりと力を込めていく。声は哀しみに染まってはいたが、冷静だった。
「もう何度も経験した。俺はまだ力不足だから。仕方ないことなんだって……でも、割り切れないから、全部持っていくことにしてるんだ。初めてじゃない。前にも、似たようなことがあった。そのときはきつかったけど、リィナのおかげで今はもう大丈夫だ」
「リィナの……?」
エルレーンは再びガレキを見つめる。
その下にあるものが、どんな状態になっているかは明らかだ。埋葬するにしても、すべてを持っていくのはおそらく不可能な状態だろう。
「エル。……お前は見るの嫌だろ? 先に行っててくれ」
ズズズ、と、上に乗っていた大きなガレキが少しずつズレていく。
崩落した天井はそれほど細かくは割れずに、大きな破片のままだった。ひとりの力だけで持ち上げるのは不可能で、少しずつズラしていくしかない。
しかも、ガレキがさらに崩れないように注意しながらだと、遺体の一部が現れるまでと考えても、かなりの時間がかかる作業だろう。
「……」
しばらく、エルレーンは迷ったようにその作業を見つめていたが、やがて。
「……手伝うよ」
「エル……」
「とんだ再会になっちゃったね」
その足下で風が渦を巻く。
「……すまん」
「男の子と勘違いされてただけでも、充分にヒドい再会だったけど」
「う……それもすまん」
風が吹き上げると、ティースの腕に感じるガレキの重さは何分の1以下にもなった。
「っ!」
力を込めると、少しずつガレキが持ち上がっていく。
少しずつ、少しずつ。
赤いドレス。流れ出した赤い血。目を背けたくなったが、ティースはそれをグッとこらえた。
(セルマ――)
脳裏を襲う、この数日間の記憶。
常に潜入任務と隣り合わせで、純粋にそれを楽しむことはできなかった。だが、それは彼にとっても、決して苦痛ではなかった。
いや、もっと言うならば、確実に充実した日々だったともいえるだろう。
(俺は……君の寂しさを、ほんの少しでも癒してあげられたのかな……)
目の奥が熱くなる。いくらこらえようとしても、何度経験しようとも、それは決して耐え難いものだ。
(ごめん、ごめんな……)
そしてひとすじ、涙がこぼれ落ちる。
と、そのときだった。
「……え?」
エルレーンが突然、素っ頓狂な声を上げる。
「?」
怪訝な顔をしたティースの視線には構わず、彼女は続けて眉間に皺を寄せ――そして直後、急にハッとした顔をすると、
「……ちょっ、ちょっと待って、ティース!!」
「え?」
「あ、違うよ! 力は抜いちゃダメッ!!」
「え……っ!?」
慌てて力を込め直す。カラカラと細かいガレキが足もとに転がった。
「ど、どうしたんだ……?」
当然のように不満の声をもらしたティース。だが、エルレーンはそれに構わず、耳を澄ませるような仕草をした。
人魔特有の大きな耳が小さく動く。
「……?」
やがて、エルレーンは言った。
「ティース……この子、ガレキに巻き込まれたのはいつ?」
「え? そりゃ……たぶん10分ぐらい前――」
あの戦いで時間の感覚がおかしくなっていたが、実際のところは5分も経っていないだろう。
だがそれを聞いて、エルレーンは確信したようだ。
そして、言った。
「この子、生きてるよ……」
「……へ?」
「生きてるよ、この子!!」
理解していない顔のティースに、エルレーンは繰り返した。
「ガレキの下で生きてる! 潰されてないよッ!!」
「な――」
その意味が、彼の頭の中で形を為すのに、数秒。
「なんだってぇぇッ!?」
「あ! 待って! 動かしちゃダメッ!!」
「っ……ふぬっ……!」
かすかにガレキを持ち上げた体勢のまま、ピタリと制止するティース。だが、その体勢はかなりきつかったようで、足がガクガクと震える。
「エ、エル……ッ!!」
顔が真っ赤に染まり、こめかみの血管がピクピクと震えていた。
「慎重に、慎重にやってね」
吹き上げる風が少しずつその強さを増していく。それとともに、ティースの腕にかかる重さも少しずつ緩和されていった。
「呼吸が聞こえる。そんなに大きく乱れてないよ……大丈夫。普通に生きてるから」
大丈夫、とは言うものの。そんなエルレーンの言葉が、ティースに充分すぎるプレッシャーをかけていた。
ゆっくり、ゆっくりとガレキが持ち上がる。
……ミシッ!
「! ……エル……」
「しっ」
持ち上げようとしたガレキの中心に、小さなヒビが走っていた。
――もし、これが崩れたなら。
そう考えると、ティースは気が気でなかった。
風が、さらに強さを増す。
ぼうっと、再びエルレーンの全身を緑色の光が覆うと、
「大丈夫。風は、命を産み出す力だから」
そう言った。
ティースにとっては初めて聞く格言だったが、今はそれにすがる気持ちでいっぱいだ。
(セルマ……)
少しずつ、少しずつ、赤いドレスの先――小さな指先が見えてくる。
(……これは――)
そこまできて、ティースはようやく理解した。
(奇跡だ……)
最初に崩れ、彼女を襲った壁の残骸。それが周りを囲むように積み重なり、その隙間にうずくまるようにしていた彼女を、天井の崩落から守っていたのだ。
もちろん、まだ安心はできない。いくらエルレーンの言葉を信じるとしても、かなりの血が流れているのは事実だ。どこか怪我をしていると見るのが妥当だし、破片で頭を打っていたりすれば命だって危ない。
だが、少なくとも、先ほどまでより希望のある状態であることは確かだった。
(見えてきた――)
指先、腕……ボロボロになった赤いドレス――
ピシ……
「!」
ティースの手を大きな振動が襲った。
ピシ……ミシミシミシ――ッ
「エル……ッ!!」
「ティース! ……吹き飛ばされないように両足を踏ん張ってッ!!」
それは、持ち上げようとしたガレキが崩れ落ちるのとほぼ同時だった。
ゴ……ッ……!!
エルレーンの体をまとうオーラが急速に輝き、床から吹き上げていた風が暴走したかのようにその威力を増す。
「うわっ……うわぁぁぁぁっ!!!」
踏ん張る以前の問題だった。ティースの体はアッという間に浮き上がると、まるで木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
「うっ!!」
なんとか受け身を取って急所をかばう。ガレキの破片が突き刺さったのか、手のひらに鋭利な痛みを感じたが、そんなことは無視してすぐ視線を戻した。
「セ、セルマは――ッ!?」
「ゴメン。大丈夫、ティース?」
振り返ったエルレーンは光に包まれたまま、ニッコリと笑みを浮かべていた。
「無事だよ。怪我はしてるけどね」
ガレキに埋まるセルマを中心に、風が強烈な渦を巻いていた。彼女の上を覆っていたガレキは完全に吹き飛ばされ、あちこちで粉々に砕け散っている。
「……無事……なのか?」
「うん。心臓は動いてるし、呼吸もしてる」
「……」
風が止んだ。と同時に、彼女を覆っていた光も消える。
ふらっ……と立ち上がり、ティースはゆっくりと近付いていった。
「……うわ……っと」
撒き散らされたガレキに足を取られ、転びそうになりながら。
――ガレキの中。
「ホントだ……」
初めて、自分の目でそれを確認した。
「生きてる……」
丸々としたほっぺは汚れ、赤いドレスはところどころが破け、外気にさらされた右足からは血が流れている。その傷は決して浅くはない。
が、しかし。
「生きてる――」
頬に触れるとあたたかい。……あの、命の灯火が消えた直後の、嫌な温かさではなく。
鼓動の感じられる温もり。
頭などの急所にも怪我は見当たらない。
「……よかったね」
「っ……!」
なにげないエルレーンのひとことに、ティースの涙腺はあっという間に決壊した。
「っ……っ……!!」
うつむき、言葉にならない嗚咽をもらす。
――助けることができた。そう言ってしまうには、あまりに都合が良すぎるかもしれない。それはあくまで偶然であり、彼の力に依るものではないだろう。
だが――
「……良かった」
どうでもよかった。自分の力が役に立ったかどうかなど、ささいなことだった。
「良かった……ッ!」
怪我に触れないように、セルマの体をゆっくりとかかえ、そっと抱きしめる。
「良かったぁぁぁぁっ……」
「……」
そんな彼を、エルレーンはしばらく、まるで自分のことのように見つめていた。かすかに目を細め、彼と同じように少しだけ瞳を潤ませていたようだ。
だが、やがて。
エルレーンは尖った耳をかすかに動かして、
「……そろそろ行かなきゃ、ティース。人が集まってくるみたいだし、その子も医者に見せないと」
「あ……ああ、そうだな」
その言葉にようやく我に返り、ティースは涙を拭うと、力強くうなずく。
この先、セルマをどうするか――、考えなくてはならないことはいくつかあった。
だが、今はとにかく、彼女が生きていたことの喜びで頭がいっぱいだ。後のことは意識が戻ってからでもいいだろう。
「じゃあ行こう、エル。きっとリィナも待ってる」
「うん」
こうして――リガビュールで起きたその事件は、最後にほんのひとすじの光を残し、その幕を下ろしたのであった。