その5『死を運ぶ者たち』
リガビュールの昼はこの日も静かだった。
街の中心部から少し離れた中央広場では、市場らしきものも開かれており、商売に精を出す人の姿も見受けられる。だが、そのにぎわいはネービスやそれ以外の主要都市に比べればたかが知れていた。
街自体の規模を考えれば、昼間に外を歩く人々の数はあまりに寂しいと言わざるを得ないだろう。冷たい風とどんより曇った空が、その雰囲気をさらに増幅させていた。
そんな中。
(ティース様……)
リィナはネズミ色のフードとローブ姿で街を歩いていた。
正体をさらす危険をおかしてまで街を歩いている目的は、もちろんただひとつ。
(いったい、どこにいるのですか……?)
失踪したティースを捜すため、である。
まず彼女の向かった先はエルとの待ち合わせ場所でもある、初代ネービス王の石像前だった。
だが、この寒い日の朝、そこには人影ひとつなく。1時間ほどそこで待った後、夕方に再び戻ってくることを決めて、次は街の『事実上の中心部』へ向かうことにした。
まだ午前中、そこは当然のごとく閑散としていた。
それでもいくつか営業している店の前を歩くと、夜ほどではないにしろ客引きもいくらかいて、当初フードをかぶって大柄なリィナを男性と勘違いしたのか、声を掛けてくる者もチラホラと見受けられた。
もちろんその大半はフードの中から返った少女の声を聞いてすごすごと引き下がっていく。中にはフードの中をのぞき込もうとする者もいたが、それがなんの店か理解していないリィナにとってはひどく不思議な光景だった。
ただもちろん、そんな状況でティース本人を見つけるどころか、なにかの手がかりをつかめるわけでもなく。
そして正午を過ぎたこの時間、リィナは中心部を離れ、やや閑散とした郊外の方をアテもなくさまよっていたのである。
(ティース様……)
この寒風の中を何時間と歩いていれば、いくら王魔と呼ばれる彼女でも体が凍えてくる。魔力の壁で寒風をさえぎることは可能だったが、街の中で無闇に魔力をまとえば察知される危険もあるため、無闇に力を行使するわけにはいかなかった。
はぁっ……と、手のひらに息を吐きかけ、こすり合わせる。息は完全に白く、空を見上げれば今にも雪が降ってきそうだ。
(まさか、二度と会えないなんてこと、ないですよね……)
そんな自らの想像に、心までもが冷たくなる。
――まさか。
だが、彼の筆跡を持つあの怪しい手紙ですら、ここ2日間は彼女の元に届いていなかった。
それはもちろん、エルバートが彼女に見つかることを恐れたためで、彼女自身もその原因が自らの深追いにあるのだろうと理解してはいたが――
(こんなことなら、最初からついていけばよかった……)
後悔しても、遅い。
彼がなにかに巻き込まれたらしいのは、おそらく間違いないだろうと彼女も確信していた。
ギュッと、胸の前で赤くかじかんだ手を握りしめる。
(エルさん……どうか)
脳裏に浮かんだのは、一緒にこの世界にやってきた友人の姿。
(もし近くにいるのなら、どうかティース様を守ってください――)
空からは、チラチラと雪が舞い降り始めていた。
ガリッ!!!
剣とは思えないような鈍い交錯音を立て、2つの影が反発した。
ゲノールト地下3階Eブロック。そこに、なにもない広大な空間がある。
もともとはいくつかの催し物が行われていた場所だったが、いまは地下4階がメインとなっており、ほとんど使われなくなっていた。
その場所でリューゼットとバラードは、いまだ激闘を繰り広げていたのである。
「っ……」
間合いを取り、ほんのわずかに苦痛の声を漏らしたのはバラードだ。
百戦錬磨、冷徹で練達。
優秀なデビルバスターである彼が、リューゼットの一撃に、左腕から血を流していた。
「……信じられんな」
その視線の先。
バラードの持つ剣とまったく同じ形、まったく同じ長さの光る剣を手にしたリューゼットが正眼に構えていた。
だが、彼も決して五体満足ではない。ほんのわずかながら、ところどころに傷を負っているようだ。
ほぼ、互角。
いや、現時点ではややリューゼットが押しているか。
『信じられない』
ティースやエルバートがこの状況を見たとしたら、やはりバラードのつぶやきと同じ感想をもらしただろう。
「そろそろケリをつけよう、バラード=グラスマン」
カチリ、と、リューゼットの持つ剣が音を立てる。
「殺傷力の高い形状。貴様はもともと、持久戦を得意とするタイプでもなかろう」
「付け焼き刃の分際で、知った風なことを言う」
バラードは薄く笑った。が、それは事実でもあった。
「なかなかおもしろい力だ。それは相手の武器を写し取る力か? ……なら精一杯、魔力を込めることだ」
「……」
リューゼットの眉がかすかに動く。
……彼は感じていた。バラードの持つ剣からただよう、鋭い気配を。
「吠えよ……『鎌鼬』」
「!」
耳をつんざくような甲高い音が周囲を襲った。
目を細め、リューゼットはその音の発生源をとらえる。
「刃……か」
刃が細かく振動しているのだろう。バラードがゆっくり下段に構えると、触れてもいない石床が削れていく。
「魔力で創り出したその剣が、この一撃に耐えられるか?」
「……」
風の力を込められた神剣『鎌鼬』の一撃は、並の鉄や鋼はもちろん、魔力で象った物質すらも容易に切り裂く。
下位魔、上位魔、将魔ですら、並みの者ではその一撃に耐えるのは難しいだろう。
「やってみるがいい」
だが、リューゼットは怯むことなくそう言い切った。
「それだけの威力、放った方もただでは済むまい」
「……」
バラードがピクリと眉を動かした。
確かに、いくら優秀なデビルバスターだろうと、自らの持つ神具の能力を限界近くまで引き出せば、その直後はとてつもない脱力感に襲われる。
以前、レインハルト=シュナイダーがリィナに向けて放った一撃と同様、連続では撃てない。
まさに必殺――いや、必殺としなければならない一撃だった。
リューゼットはゆっくりと、やはり剣を下段に構える。
「私はその一撃を避けはしない。避ければ、おそらく貴様はすぐに体勢を立て直してしまうだろう。だから避けずに受け止め、貴様が作るその一瞬の隙を逃さず、勝負を決める」
バラードは目を細めた。
かすかに、笑みが浮かぶ。
「おもしろい。やってみようじゃないか」
怯むことはない。
鎌鼬がまとう一撃はおそらく、将魔どころか王魔の体ですらも切り裂く威力だ。たとえリューゼットが自らの武器を強化していようと、並大抵のことで防げるものではない。
「本当に受け止めることができたなら、おそらくお前の勝ちだ。リューゼット」
自負がある。自らの実力と、そして長年のパートナーである鎌鼬。その一撃にプライドがあった。もちろん、今まで阻まれたことはない。
「可能だ」
一方のリューゼットとて、負けるつもりはなかった。
強い者と戦って死ぬのは確かに本望だが、強い者に勝つことはさらなる至上の喜びだ。そしてこの目の前のバラードという人物は、そんな彼の望みを満たすに充分すぎるだけの実力を備えていた。
渾身の力を、自らが持つ光の剣に込める。
輪郭が厚みを増した。
もちろんその武器が破壊された経験などいまだかつてなく、やはりそこにはプライドがある。武器を魔力で具現化するタイプであり、それを主な戦闘手段とする彼にとって、その武器こそが彼のプライドだった。
確実にどちらかが崩される。そしてそれは、その者の敗北をも意味するだろう。
どちらも自信がある。だが、確信はない。
2人の戦いは予測を越え、それほどに拮抗していた。
――神経が研ぎ澄まされる。
あふれんばかりの闘気に、肌がビリビリと震えた。
轟音と喧噪の中。
合図は……階上で響いた、ひときわ大きな崩落音。
「……」
「……」
無言で、2人の足はほぼ同時に床を蹴った――
「おい……エル」
「……」
「いったい、なにがどーなってんだ?」
「俺にも、わかんないよ……」
困惑したエルバートの隣を走るのは、この地方に派遣されたキュンメルの部隊長、ボイスという男だ。
歳は30代半ばから後半ぐらい。長い牢生活のためか、あるいは元来のものか、口やあごには濃いヒゲがいっぱいに生えていた。
すでに出口は近い。そんな彼らを邪魔する者もない。
いや……それは当然だった。
「ゲノールトは、ほぼ壊滅に近い状態だ」
ボイスは信じられない表情でつぶやく。
「エル。お前はいったい、何者を連れてきたんだ……?」
「……」
エルバートは視線を床に落とした。
目的は達した。仲間たちは半分以上が無事だったし、他に囚われていた罪のない人魔たちを解放することもできた。
だが――
「俺にもわかんないよ、ボイス……」
事態はいつしか、完全にエルバートの手を離れていたのだ。
再び、地下全体が揺れる。通路の端々には焼け焦げた死体がいくつも転がっており、凄まじいまでの光景だ。
もちろん憎き相手のこと。それを見て悲しみにひたることなどないが、信じがたい思いはさらに膨れ上がった。
「……」
ボイスは神妙な顔だったが、やがて気を取り直したように、
「……とにかく、皆が脱出できたのはお前のおかげだ。事態を把握するのは、無事に脱出してからでもいいか」
出口が見えてくる。
エルバートは無言でその後をついていった。
(リューゼット、ネイル……)
そのとき、少年の脳裏に浮かんだのは、ともにこの作戦を戦った3人の姿。
(ティース……いったい、なにがどうなってんだよ……?)
なにが起きているのかもわからないまま。
崩落音。
それはおそらく1階の床――2階の天井が崩れ落ちる音だろう。
「エル! 急ぐぞ!!」
「あ、ああ……!」
エルバートはそうして仲間たちとともに、ひと足先にゲノールトを脱出したのだった。
鼓膜を揺るがした崩落音も、今は静まっていた。
燃えさかる通路。
崩れ落ち、ぽっかりと空いた天井。
積み重なるガレキ。
「――」
言葉が、出ない。
先ほどまでそこにあった赤いドレスは、完全にその姿を隠していた。
……いや、
「!」
ガレキの隙間からスカートの端がわずかにのぞいていて、そこからじわりと赤い液体が染み出しているのが見えた。
心臓の内側に強烈な痛みが走る。
それは彼女が、確実にそこにいたことの証だった。
「セ……ルマ……」
呆然としたままティースの口が紡いだのは、目の前であっけなくその人生を閉じてしまった少女の名。
足が震え、一瞬だけ思考が止まる。
そして――
「や、ティモちゃん。元気そうだね」
「……なんで」
片手を上げ相変わらず無邪気そうなネイルが、まるでなにもなかったかのようにガレキの脇を通り過ぎ、ゆっくりとティースの方へと近付いてくる。
「っ!」
その仕草に、カッと頭が熱くなった。
そのままティースはこらえきれない憤りを彼女へぶつける。
「なんでッ! どうして彼女を狙ったんだッ!!」
「え?」
ネイルは不思議そうな顔をして、それからゆっくりと首を傾けると、
「どしたの? 私、まだキミが怒るようなことしてないでしょ? ……あ、今の子? でもセルマって、確かここの偉い人の子供じゃなかったっけ? じゃあ、敵でしょ? 違った?」
「――!」
相変わらずなにも考えてなさそうな彼女の言葉が、彼の怒りをさらにあおった。
……確かに。彼らにしてみればセルマは敵だったかもしれない。あるいは憎い相手だったのかもしれない。ネイル自身にはなんの悪気もなかったのかもしれない。
だが、それを理解していながらもなお、ティースは叫ばずにいられなかったのだ。
「なにも……なにも殺すことはなかったッ!!」
「え? なんで?」
「ッ……!」
ギリッと奥歯が音を立てた。
彼はセルマの保護者でもなければ、教育係でもない。彼は情報を得るために彼女を利用し、そして彼女はただ、退屈をまぎらわせるために彼と『父娘ごっこ』をしていただけだ。
彼女の考え、この先の人生、それを変える力が自分にあるなんて、ティースはそこまでうぬぼれていたわけじゃない。
だが、それでも。
それでも――
「あの子は……あの子はなにも知らなかっただけなんだ! こんな死に方をしなきゃならないような子じゃなかったのにッ!! なのに……なのに――ッ!!」
どうしようもない憤り。目の前の残酷な現実に、ティースは涙が浮かびそうになるのを懸命にこらえていた。
だが――
「あはははは、そういう意味かぁ」
ネイルはそんな彼の思いを気に留めた様子もなく、かすかに返り血を浴びた表情に相変わらずのニコニコした笑顔を浮かべる。
そして、あっさりと言い放った。
「でも、知らないよ、そんなの。どうでもいいじゃない」
「な!」
気色ばむ。
頭がさらに熱くなった。
「あんたは――!」
だが、その直後。
「私、ザッピーと違って、別に誰かの悶え苦しむ顔が見たいわけじゃないし。事情なんてめんどっちぃからいちいち気にしないの」
熱が、一気に冷め切った。
「……え?」
一瞬、ネイルがなにを言っているのか、ティースにはわからなかった。
(『悶え苦しむ顔』……?)
だが、そのセリフは彼の脳裏に強く残っていた言葉――強く残っていたイメージを刺激する。
そこに浮かんだのは、本来この場とはまったく関係ないはずの人物。
ターバンを頭に巻いた、許し難き男の顔――
「ザヴィア……レスター……」
「あれ?」
思わずつぶやいた彼の言葉に、ネイルが反応した。
そして、驚愕の事実を口にする。
「ザッピーのこと、知ってるの?」
「!?」
脳裏の奥がチカチカとフラッシュした。
「なん、だって……!?」
そして頭の一部がようやく冷静な思考を取り戻す。
――辺りを覆う強烈な炎。
もっと早くに気づくべきだった。それはどう考えても下位魔程度の能力ではない。
そして、彼女の口から紡ぎ出された『あの男』の名前。
屈託のない――いや、罪悪感のかけらもないネイルの微笑。
そこに、いつか見た『あの男』の慇懃な笑みが重なり合う。
「まさか――……」
つながった先は、一見なんの確証もない推測。
だが、なぜかそれは確信に近いものを彼に感じさせていた。
「まさか、お前は……タナ、トス……!」
「あれ」
そしてネイルもまた、あっさりと彼の推測を肯定したのである。
「バレちゃった? ……なんで?」
「!」
ティースの頭の中が、一瞬だけ真っ白に染まった。
あふれ出す熱。疑問、憤り。
それらが一斉に頭の中を駆けめぐる。
「でも、ま、いっか。もう遊びは終わりだってリューちゃんも言ってたし」
「……!」
リューゼット。
彼もまた、タナトスのメンバーだったというのだろうか。
「リューちゃんはキミに興味持ってたみたいだけど、なんでかなぁ。あまり強そうじゃないのにね」
ゆらっ、と、まるで陽炎のように、ネイルの全身に炎が浮かび上がる。
「くっ……」
襲いくる熱波に、ティースは顔を覆った。まともに目を開けていられない。辺りにあったゲノールト構成員たちの死体が勝手に燃え上がる。
(なんて……魔力――!)
それは王魔であるリィナにも匹敵する力だった。最低でも将魔クラス。当然のことながら、エルバートに対しては素性を偽っていたのだろう。
「なんで……どうしてお前らが、エルに協力なんかしていたんだ!」
圧迫感に抵抗しながらぶつけたティースの問いに、ネイルはケロッとした顔で答えた。
「ヒマつぶしだよ」
「ヒマつぶしだと……!?」
「リューちゃんはいつもの病気でね。強い人と戦いたくなっちゃって。私もなんかむしょーにウズウズしてきたから、ヌーボーが、それならここがいいって教えてくれたの」
「……!」
無意識に噛んだ唇から、かすかに血が流れた。
(タナトス――)
圧倒的な魔力。
背筋を襲う本能的な『恐怖』。
脳裏を焼く抑えきれない『怒り』。
せめぎ合う。
……後を押したのは――この数日間の記憶だった。
ジリッと、かかとが音を立てる。
(リィナ、エル……)
手にした細波が震える。
(シーラ……俺、帰れないかもしれない……)
グッと柄を握る拳に力が入る。
(けど――)
ネイルはすでに戦闘態勢に入り、どうやら次の狙いを完全に彼に定めたようだ。
見逃してくれるとは思えない。ただ、それでも一目散に逃げた方がまだ生き残る可能性は高いだろう。
だが、バラードのときと同じように、足が動かない。
恐怖?
いや、今度は違う。
それとはまったく別の、まったく正反対の感情。
……愚かだということはわかっている。誰かがその行動を『くだらない』とか『犬死に』だとか評するかもしれない。
それでも――
(逃げたく……ない)
燃えさかる炎を瞳に映しながら、ティースはゆっくり細波を構えた。
「……あれ? 普通に立ってられる?」
ネイルは意外そうだったが、少し考えて、
「ははぁ、なるほど。リューちゃんが言ってたのはこういう意味か」
「……」
「強い力を、持ってるね」
ゆらゆらと、ネイルの瞳が揺れていた。自らの炎を映して真っ赤に。
笑顔のまま。微動だにしない。だが、その瞳の奥にあったのは、紛れもない愉悦。ザヴィア=レスターがあのときに見せた笑みと、まったく同種のもの。
同じ、人種。
胸の奥が、ミシリと音を立てた。
「キミはどんな音を立てて、壊れるのかな」
ネイルの足下にあった炎が形を成す。
「いくよ、バルちゃん」
陽炎のように、その背後に人の姿らしきものが浮かび上がった。
「!」
ゆらゆらしていてはっきりとはしないが、どうやら狩人のような格好、手とおぼしき部分には弓らしきものの影が見える。
そして炎の人影はほとんどモーションもなく矢をつがえると、2本の炎の矢……というより、炎の塊をティースに向けて放った。
「っ……!?」
(どうする……!?)
考えるより先に体が動く。床を蹴って1本を避けると、もう1本の矢に向かって細波を振るった。
手のひらに伝わったのは、滝に向かって剣を叩きつけたかのような、強烈な圧力。
「くっ……!」
押し戻されないように力を込めると、ようやく破壊された炎の塊が破裂して辺りに飛び散った。そのうちのいくつかはティースの体にも命中したが、強い聖力と細波の加護に守られた彼の体に大きな影響はない。
「ふぅん」
ネイルは感心したようにうなずいて、
「じゃ、これならどうかなぁ?」
まるで未知のものに遭遇した子供のように無邪気な口調。
そしてもう一度、炎の矢が放たれる。
ただし――
「!」
その数は10本を軽く越え――そしてどうやらそのひとつひとつが、致命傷となるに足る破壊力を秘めているようだった。
「っ――」
一瞬の思考停止。
直後、頭にカッと血が上る。
体が熱い――まるで自分の体ではないかのように。
怒り。
魔の命をもてあそんでいたゲノールト。
人の命をもてあそぶタナトス。
人であろうと――。
魔であろうと――。
――ドクン。
口が、無意識に叫びを刻んだ。
「どうして――!!」
直後――爆音。
幾筋もの軌跡を残し、すべての炎が轟音とともにティースの立っていた場所に突き刺さった。
立ち上る、爆煙。
クスッと笑い声がもれる。
「……バイバイ。ティモちゃん」
歪んだ口元は愉悦を刻み、瞳は真っ赤に燃え、大きく見開いていた。
――いや。
見開いていた目が、さらに大きく見開かれた。
「?」
愉悦ではなく――驚愕によって。
「……!」
ネイルが視線を斜め上に向ける。
そこに――爆煙の中から飛び出してきたひとつの影。
「どうして……お前たちは、どうしてッ!」
炎の燃えさかる通路の中。ティースの体は風を切って宙を飛んでいた。
細波が炎を映し、オレンジ色に輝く。
「どうしてそんなことが、平気でできるんだァァァッ!!」
「え――?」
ネイルの目は見開いたまま。
動かない――反応できない。
彼女が遅かったのではなく。彼女にとってはあまりにも予想外、予測の範囲外の速度で、ティースの体はその眼前に達していたのだ。
「……懺悔しろ……ッ!!」
振りかぶった細波が静かにうなりを上げる。水に濡れた剣身が、風のように鋭く、熱を帯びた空気を切り裂く。
「お前が苦しめた人たちに……償えぇぇェェェ――ッ!!」
「……」
驚きに目を見開いたまま、ネイルは固まっていた。
だが、
「……カイくん――ッ」
ハッとしたようにその口から叫びが漏れ、背中の炎が形を変える。
「!」
そこに浮かび上がったのは、羽根飾りをかぶり、サーベルを手にした炎人形だった。
「ッ――!!」
間一髪。やはり炎で象られたサーベルが、ティースの振るった細波と激突する。
衝撃。
「くぅっ……!!」
反動がティースの両腕を襲い、炎が辺りに飛び散る。
「……」
いまだ驚きに目を見開くネイルの眼前で、細波は炎のサーベルによって防がれていた。
ジリッ、と、かかとが床にこすれる。
一瞬だけ、すべての動きが止まる。
「……ティモちゃん」
剣を重ね合うティースと炎人形の狭間で、ネイルは見開いていた目をわずかに細め、つぶやいた。
「キミは、すごく、怖いね。ゼンゼン、見掛け通りじゃなかったね……」
「ッ!!」
衝撃とともに、細波が弾かれた。そのまま炎人形はさらにサーベルを振るう。
ティースもまた、負けじと細波を振るった。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
1撃、2撃、3撃――
そのたびに弾ける衝撃音。まるで、本物の剣豪とまみえたかのような手ごたえ。
「……」
打ち合うその間で、ネイルはじっとその状況を見つめているだけだった。
――彼女が炎人形を操っているようには見えない。おそらく自動。それが彼女の能力。
(強い……ッ、けど――!)
心臓がドクドクと早鐘を打ち、全身を熱い血が駆けめぐっていた。神経が研ぎ澄まされる。視界がクリアになる。熱に浮かされたように、まるで自分のものではないかのような体が、無意識に反応する。
(見える……見えるッ!!)
とてつもなく高速で繰り出されるサーベルの軌跡。普段ならまったく反応できるはずもない速度だというのに――
少しずつ、少しずつ。
彼の繰り出す細波の太刀筋が、炎人形の攻撃を上回り始めていた。
「……」
それに気付いたのだろう。ネイルは眉をひそめた。
「俺は――ッ!」
ひときわ大きな音を立てて、細波と炎のサーベルがぶつかり合う。両腕に渾身の力を込め、ティースは叫んだ。
「お前たちのようなヤツは、絶対に許さないッ! 人であろうと、魔であろうとッ!!」
「!」
サーベルが大きく弾かれ、そして炎人形の輪郭がまるでノイズのように大きく揺らめいた。
もうネイルを守るものはない。
迷いはなかった。
男であるか女であるかはもちろん、人であるか魔であるかすらも関係ない。
今の彼に見えていたのは、打ち倒すべきものであるか、そうでないか。
その2つを分ける、たったひとつの単純な境界線――
「……」
ネイルは一瞬、目を細めた。その足が、軽くバックステップを踏む。
「逃がさない――ッ!!」
すぐにその差を詰め、ティースは両手に力を込めた。
カチリ、と、細波が音を立てる。
叫びが通路を満たす。
両手で握った細波を、振るう。
詰めの、一撃。
――だが、
「フォルっち」
ネイルのつぶやきは、いまだわずかな余裕を保っていた。
右手の平をティースに向ける。
「この子を、突き放して」
「!」
直後、背後に浮かび上がったのは、長い髭の騎士。
手にしていたものは、炎の槍――
「くぅっ!!!」
高速の突きが繰り出され、ティースの足が止まった。受け損なった一撃が左肩をかすめ、そこから焼け付くような痛みが走る。
「……くそっ!」
「ティモちゃん」
足を止めたティースに対し、間合いを取ったネイルは顔を歪めた。
そこに浮かんだのは、やはり愉悦の笑み――
「私はリューちゃんみたいに危険な戦いが好きなわけじゃないの。だから、バイバイ」
「なにを――」
「バルちゃん」
「!」
再び視界を埋める、炎の矢。
だが、今のティースはその軌道を確実にとらえることができていた。
「こんなものッ!!」
細波がその能力を余すところなく発揮する。
ティース自身が自覚せぬままに、細波はその剣身からかすかな水しぶきをほとばしらせ、剣筋は渦巻く風をまとって炎矢の威力を削いでいた。
周囲に飛び散る、炎の残骸。
「今度こそ――!!」
すべての矢を凌ぎきり、かかとを鳴らして、彼の視線は強い意志を秘め、目の前の無邪気な邪悪へと向けられる。
――そのときだった。
「……!!」
耳鳴りがした。
地の底から響く振動。その震えが床から体と伝わる。
「な――」
その発生源は、ネイルの足元に急速に集まり始めた、巨大な質量の魔力だった。
「ルルー」
炎の狩人が姿を消し、足下に広がった炎の中から『なにか』が産まれる。
燃えさかる炎の中――孔雀の羽のように大きく広がった雪のような白。
それは――翼だった。
「なっ……」
1枚、2枚、3枚――
神々しいまでの輝きを放つ、12枚の翼。
そして産まれる、炎の天使。
「!」
再び耳鳴りが激しくなる。
ネイルの背後に浮かび上がった天使は、その両手に2つの球体を携えていた。
それは――すべてを燃やし尽くす『神の業火』。
あまりの魔力に、崩れかけた通路の壁が小刻みに震え、それは床を伝わってティースの体にも到達していた。
パラパラ、パラパラと細かなガレキが崩れ落ちていく。
「っ!」
危険を察知し、ティースの体はとっさに動いた。
後ろ。左右。
……逃げ場はどこにもない。
だから、向かった先は、
「っ……ぁぁぁ――ッ!!」
正面。
どれだけ冷静に考えようとも、この狭い通路、逃げ場はなかった。
だが――それはあまりにも無謀な賭けだ。それほどまでにネイルの魔力は圧倒的で、凶悪なまがまがしさに満ちていたのだ。
「じゃあね」
笑顔とともに、ネイルの手が小さく『バイバイ』のジェスチャーをする。
なんのためらいも容赦もなく、その一撃は放たれた。
「!!」
生ぬるい小さな風が渦を巻いて。
そして天使の手を離れた球体は、ゆっくりと宙に浮かぶと一瞬だけ収縮し――弾けるように圧倒的な質量の波動と化す。
「――」
そして轟音を残したまま、業火はティースの体をアッという間に呑み込んでしまったのだった。
「え――?」
その音だけは、近くにいる街の人々も耳にしただろう。
かすかに耳に届いていた破壊音。そして肌に伝わってきた紛れもない魔力の波動。それを感じたリィナが、その発生源へと足を進めていたそのとき。
空気を伝わったのは、禍々しいまでの力だった。
王魔であるリィナですら、驚きに足を止めてしまうほどの強大な魔力――
「……」
確信など、どこにもない。だが、なぜかその発生源のそばに『彼』がいるような気がしてならなかった。
(ティース様……ッ!)
その無事を必死に祈りながら。
リィナは寒風の中を駆けていった――。