その4『救出作戦』
2日後の朝。
朝と言っても日の短いこの時期、まだ日の出は訪れておらず、地下を照らす『陽カビ』もまだほんのりとしか発光していない時間。
午前5時半。
「おい」
ゲノールトの地下は魔界由来の特殊な素材が大量に使用されており、たとえ冬でも内部の気温はそれほど下がらない。とはいえ、外が非常に冷え込んだこの日、地上に近い場所はさすがにそれなりの寒さだった。
「おーい」
娼牢。
牢の中には相変わらずひとりの少女がいる。ナチュラルにカールしたかすかに内巻きの髪。幼げなその瞳は相変わらず無言のまま床を見つめていた。
「おーい、エルちゃーん」
「なんだ、その『エルちゃん』ってのは?」
この日、交代で娼牢の見張りについたのは、片方はいつもと同じ顔。だがもう片方は初めての顔で、20代後半、年齢の割に頭髪は薄く、どこか薄気味の悪い笑みを浮かべた男だった。
「なんだぁ。ホントにしゃべらないんだなぁ」
「おいって!」
「……ん?」
語気を強めると、ようやく振り返る。
「なんなんだ、お前が呼んでるその名前」
「名前? ああ」
男は少しはげ上がった前頭部を撫でながら答えた。
「お前、ずっとここにいたくせに知らなかったのか。この子の名前さ。エルレーン、っていうらしいぞ」
「は? そうなのか? ひとこともしゃべらねぇって聞いてたから、わかんねぇもんだと思ってたけどな」
「捕まったときに自分の名前だけ答えたらしい。……おーい、エルちゃーん。こっち向いてー」
少女は動かない。
「おーい」
……かと、思いきや。
「ぉ」
少女は突然ゆっくりと、なにかを思い出したかのように顔を上げた。
「ようやくお兄さんとしゃべる気になったのかい?」
気味の悪い笑顔の男を、少女はじっと見つめた。嫌悪感を浮かべるでもなく、かといって笑顔でもなく、無表情というわけでもない。
ただ世間話をするかのように口を開いた。
「今日は……何日?」
それは彼女がこの牢に入ってから初めて発した言葉だった。外見と同じく幼さを残した声に、もうひとりの男が驚いた顔をする。
「お……おい! しゃべったぞ!!」
「うるさいなぁ、お前は。俺だからしゃべったんだっての。……で、今日の日付かい? 今日は24日だよ?」
「お、おい、余計なことは――」
「いいだろ、日付ぐらい。減るもんじゃなし」
「24日……もう、そんなに」
少女は視線を天井にさまよわせ、なにごとか思案していた。その表情は今までと違い、どこか困惑しているようにも見える。
そして再び、男たちへ視線を向けると、
「……いつになったら、ココを出してくれるの?」
「え? ……難しい質問だなぁ」
男がそう言って返答を思案しているうちに、もうひとりの男が答えた。
「んなもん俺らが知るかよ。買い手のメドがついたらに決まってんだろ」
「……」
その返答に、少女は明らかに落胆したような表情を見せ、再びなにごとか考え込むように視線を床に落とした。
「おい、そんな投げやりな言い方ないだろ。……なぁ、エルちゃん。がっかりしないでさ、もっとお兄さんとおしゃべりしようよー」
「……」
だが、少女――エルレーンが顔を上げることは二度となかった。
「え? ……セルマ様の体調が?」
「ああ。そうらしいぜ」
早めの朝食を終え、前日に引き続き1階の警備任務についていたティースは、先輩のペドロから、昨日姿を見せなかったセルマについての話を耳にしていた。
「なんかおとといの夜ぐらいから調子悪かったらしくてな。昨日は3階Aブロックのビップルームで休んでたらしい」
「そっか。それで昨日は来なかったのか……」
心配していたティースだったが、その事実を聞いてホッと胸をなで下ろしていた。
「ははは。たった1日でも解放されてラッキーだったなぁ」
安堵のため息を、ペドロはどうやら違う意味に取ったようだ。
「けど、もう完全に回復したらしいから今日は来るだろうな。ま、ガンバレよ」
意地の悪い笑みを浮かべて肩を叩くペドロ。
だが、ティースは今日も彼女が来ないことを知っていた。
(……あれだけ楽しみにしてたんだ。体調が戻ったなら間違いなくトーナメントを見に行くはず)
一時はどうなることかと思ったが、これなら予定通りに進みそうだった。
そして、ふと、
(でも、これでもう、あの子に会うことはないんだな……)
多少の名残惜しさがその胸を過ぎる。
……赤いドレス。まん丸にしたリンゴ色のほっぺ。いつも片手に携えていたお菓子袋と、無邪気になついてくる仕草。
あのセルマという少女は、少なくとも彼にとっては、自分を慕ってくれる可愛らしいただの子供だった。
(結局、なにもしてやれなかったけど……仕方ない、か)
それにかすかに抱いていた危惧――巻き添えにしてしまうという可能性がほとんどなくなって、安堵もしている。それだけは絶対に避けなければならないと思っていたのだ。
「おっす」
「?」
突然隣で聞こえた声にティースは顔をあげた。が、それはペドロが他の同僚に声を掛けたものだったようだ。
2人組の男がペドロに挨拶を返しながら、近くの階段――娼牢へと続く階段を下りていく。
(そういえば……)
ふと、ティースの脳裏に数日前の少女の姿がよみがえった。
「ペドロさん。そこの牢って、まだ人がいますよね?」
「ああ。……人、じゃねえけどな」
ペドロは笑いながら揚げ足を取ると、
「あと数日だって話さ。こないだ初めて目にする機会があったんだが、なかなかのもんだったぜ。10年後だったら、ぜひとも俺が引き取りたかったね」
無言を返したティースに、ペドロは笑いながら付け加える。
「ま、そんな金、どこにもないけどな」
「……」
それでもティースは無言だった。
(エルに似た子、か……たぶんなにか関係があると思うんだけど……)
結局、その少女についてエルバートに尋ねることはなかったが、日を増すごとにその疑問は膨れ上がってくる。
そして、
(あの子は忘れず助け出すようにしなきゃ、な……)
ティースはそんなことを自分の胸に誓ったのだった。
それとほぼ同時刻。
「ただいまぁ。ふぅ」
熱い息を吐きながら隠れ家へ戻ってきたネイルは、頬をかすかに赤く染めていた。
「……ネイル? お前、どこ行ってたんだ?」
硬い口調でそう問いかけたのは、部屋の隅で薄い布をかぶっているエルバートだ。
その吐く息はやや白い。今日はかなり気温が下がっているため、特殊な設備によってかすかな暖房が効いているこの地下室も、気温は確実に一桁だった。
はしごを下りてきたネイルは、濡れている髪をタオルで拭きながら答える。
「水浴びだよ」
「みっ……水浴びぃ!?」
素っ頓狂な声をあげるエルバート。
付近にこの時間から使える温水施設などない。とすると、文字通りどこかで水を浴びてきたということなのだろう。
「うん、さっぱりした。チビちゃんも行ってきたら?」
「よせよ……こんな日にそんなことしたら、確実に風邪ひいちまうぞ。大事な作戦当日だってのに」
ネイルはきょとんとした顔をして、
「風邪?」
「エルバート」
そこへ、エルバートと同じように布をかぶり目を閉じていたリューゼットが口を開く。
「馬鹿は風邪を引かない、という言葉が、人間の世界にはある」
「あ……ぁあ」
「?」
思わず同意してしまったエルバートだったが、幸いネイルには意味がわからなかったようだ。
そしてネイルはタオルを無造作に放ると、ブルブルと頭を振って、
「さて、と。そろそろ乾かそっと」
言った途端。
「うわっ」
魔力があふれる。全身に炎のようなものが揺らめくと、直後、熱風が室内を支配した。一瞬だけ息苦しくなったが、それはすぐにおさまって、
「完了~」
ネイルの長い髪はアッという間に乾ききり、なぜか特徴的な触覚型の前髪までもが再現されていた。
「便利……ってか、どうなってんだ、それ……」
「え? これ?」
ネイルが首をかしげると、ピコピコと触覚が動く。……実際は頭の動きに合わせて揺れているだけなのだろうが、自分の意志で動いているように思えて仕方なかった。
「瞬間乾燥。私の必殺技のひとつだよ」
「……」
便利は便利だが、戦いにはあまり役に立たない必殺技である。
「でもお前、そんな一瞬で乾燥させるだけの力があるんなら、もっとうまく使えば結構――」
「あ、ダメだよ」
ネイルは無邪気に笑い、頭を指さして答えた。
「私、自分の力で出来るのはこれだけだから」
「……」
脱力。
使えねぇ……と、エルバートが思ったのは間違いないだろう。
「それはともかく」
リューゼットがゆっくりと身を起こし片膝をつく。
相変わらず生真面目、ネイルとは対照的にほとんど動かない表情をエルバートに向けて、
「作戦は予定通りでいいのだな?」
「あ、ああ……少し気になることもあるけどな」
寒さに身を震わせながら、ふところから紙切れ――昨日のティースからの最終連絡を手に取る。
「昨日は例の娘が姿を見せなかったらしい。もしかしたら、なにかあったのかもしれないって、ティースのヤツも少し気にしてるみたいだ」
「例の娘? 総帥の孫娘とかいう者のことか?」
「ああ。だからなにか予定の変更が――」
「どうでもいいじゃん、そんなの」
そこへネイルが口を挟む。
いつの間にか手にしていたのは、一面が九つに分かれたカラフルな立方体。どうやら面を回転させて色を合わせていくおもちゃのようだ。
「どうせ時間ないし、いまさら中止にもできないんでしょ。考えても仕方ないし」
「……ま、それもそうだけどさ」
ネイル自身はいつものように適当に答えたのだろうが、それは確かにそのとおりだった。
もともとバラードの動向がつかめなくとも動くつもりだったのだ。ダメで元々。ゲノールトに捕らわれている仲間たちの安否を考えれば、これ以上の作戦延長は考えられない。
「じゃあ作戦は予定通りだ。……2人とも頼むぞ」
「ああ」
「うぅ~~~ん」
見た目に派手な炎の力を持つネイルと、大柄でいかにも目立つリューゼットが陽動。小柄ですばしっこいエルバートが侵入し、中で待つティースとともに混乱に乗じて可能な限りの仲間たちを解放する。
単純な作戦だ。
ただ、中に侵入するエルバートはもちろんのこと、陽動するネイルやリューゼットにも相応の危険がともなう。なにしろ、仲間が救出されるまでの間、ゲノールトの構成員たちをたった2人で相手しなくてはならないのだ。いくら人魔とはいえ、下位魔であれば容易ならざる行為だろう。
――だが。
「ん~~~~~~難しいよぉ~~~~」
カチャカチャカチャカチャ。
「……」
2人はいつも以上に、いつも通りだった。へたをすれば命を落としかねない作戦だというのにも関わらず。
「……ホントうらやましいよ、まったく」
そんな2人の様子に思わず苦笑したエルバートは大きく息を吐き、それでもどこか頼もしそうに彼らを眺めていたのだった。
そして救出作戦が実行に移されたのは、正午を少し過ぎたころ。
正確に言えば12時32分だった。
ちょうど、リガビュール西の闘技場でトーナメント開催の花火が上がったころである。
その火蓋を落としたのは、派手な爆発音と、熱風。
そして――悲鳴。
ネイル=メドラ=クルティウスの放つ『炎の魔力』が、突破口を開いていた。
そして地下2階。
頭の上で轟音が鳴り響くたび、パラパラと粉のようなものが降ってくる。
「急げぇッ! これ以上の侵入を許すなっ!」
2階にいた構成員たちが武器を片手に、こぞって1階を目指し駆けあがっていく。
そんな中。
「……また、派手にやってるな」
とある一室。食料品の保管してある倉庫の扉をわずかに開き、そこから小柄な少年が顔をのぞかせていた。
「行ったか?」
その後ろにもうひとり。少年より30センチは背の高い青年が、上から同じように顔をのぞかせる。
ティースと、すでに潜入を果たしていたエルバートである。
「ああ、どうやら行ったらしい」
キィ……とドアをきしませ、2人の体がそこから出てくる。
ティースはもちろんのこと、エルバートも調達したばかりのゲノールトの制服に身を包んでいた。
そうしてエルバートはもう一度、周囲の状況を確認すると、
「よし。じゃあリューゼットとネイルが粘っているうちに、急ごう」
駆け出す。
作戦は今のところ順調に進んでいるようだ。
なにより、ネイルとリューゼットの奮闘は予想以上で、地下2階にいた構成員たちは大半がその姿を消した。
3階からもかなりの数が上に向かったようで、おそらく3階各ブロックの警備も相当薄くなっているはずである。
途中、ティースはエルバートに疑問を向けた。
「エル……1階に捕まってる子は、いいのか?」
すでに素通りしてきた地下1階の娼牢。ティースはもちろん、先にそこを解放してから地下3階だとばかり思っていた。
だが、
「1階? ……ああ」
エルバートは一瞬思案するように目を細めたものの、迷うことなく答えた。
「今、1階に捕らわれているのはひとりだけなんだろ? だったらそれよりも、3階に捕らわれている大量の仲間たちが優先だ」
「けど、あの1階に捕らわれてる子は――」
――お前の関係者じゃないのか、と、そう問いかけようとしたティースに、エルバートはきっぱりと答えた。
「もちろん、彼女も最後に必ず助けるさ」
「……そうだな」
それ以上は問いかけることなく、そのまま無人の通路を駆けていく。
目指すは地下3階Cブロックへの階段。
ここまでは、おそらく気付かれていない。途中、幾人かの構成員とすれ違って声をかけられたが、向こうも彼らに疑問を抱いて深く問い質すほどの余裕はなかったようで、ごまかすのは楽だった。
(問題は3階、だな)
6つのブロックに分かれた地下3階は、魔を捕らえておく大きな牢の他、要人たちのビップルームや金庫、大きな武器庫などもあり、地下2階までとは重要性が段違いだ。
この騒ぎでいくら手薄になっているとはいえ、ある程度の警備は残っているはずだし、そう簡単には通れないだろう。
とはいえ、
「けど、正直ここまでスムーズにいくとは思わなかった」
エルバートの表情は早くも達成感らしきものに満ちていた。確かに、ここまで順調に来れたことは信じられないほどの幸運だった。
「お前のおかげだよ、ティース。俺たちだけじゃ、この地下組織の構造を把握するのも難しかった」
「……感謝するのはまだ早いよ、エル」
それとは対照的に、ティースの表情は引き締まったままだった。
確かに、ここまでは怖くなるほど順調に来ている。だが、このまま全てがうまくいくとは到底思えない。まだ油断はできなかった。
それに――
(……なんだろう)
目指す3階への階段が近付くにつれ、不思議な感覚がティースの胸を襲っていたのだ。
(この、嫌な感覚――)
予感、とでもいえばいいのか。
なぜか、黒い不安が拭い去れない。
「……ティース、あれか?」
やや興奮気味のエルバートの声に、現実に引き戻される。
「あ、ああ」
見えてきた階段。それこそが、地下3階Cブロックへ続く唯一の階段だった。その先に、エルバートの仲間たちが捕らわれているはずである。
「……よぅし!」
小柄なエルバートの足が心なしか加速する。
だが――その瞬間。
(……っ!?)
ぞくっと。
得体の知れない不安が、明らかな悪寒となってティースの背筋を襲った。
背中を一筋の冷たい汗が流れる。
廊下の空気が妙にヒンヤリする。
(これは――っ!?)
その、感覚。
覚えがあった。
「……エルっ!!!」
とっさにティースは叫んだ。
進む先。
地下3階Cブロックへ続く階段。
その少し手前にある、路地のような曲がり角。
――そこから放たれていたのは、覚えのある圧迫感だった。
「エル! 止まれっ!!」
「え?」
ティースが床を蹴り、細波に手をかけたのと、ほぼ同時。
「!?」
エルバートもまた、それに気付いた。
強烈な殺意が、そこから飛び出してきたのだ。
「……エル――ッ!!!」
少し時間はさかのぼって、地下1階。
「ルルルル~、バルちゃん、バールちゃーん」
奇妙なリズムを口ずさみながら、ネイルの小さな体からいくつもの炎の固まりらしきものが放たれる。それは集まってきたゲノールト構成員たちを吹き飛ばし、怯ませ、混乱させるのに充分すぎるものだった。
「くっ……ひ、怯むなぁっ!!」
どうやら地下1階の警備責任者らしき男が必死に叫ぶ。
だが、もともとこの1階の警備をしている者たちは、魔を相手にすることなど想定していない。低級な獣魔ぐらいはどうにか退けられるにしろ、相手が人魔、しかも2人となれば完全に話は別だった。
轟音。
「思ったより楽だねぇ、リューちゃん」
その隣に立つのは彼女のパートナー、リューゼット=カサ=ドゥギラスだ。
「ネイル。もう少しセーブしておけ」
リューゼットはその場に腕を組んで仁王立ちしたまま、戦況を見つめていた。
彼はティースからの情報によって、ゲノールトに警報システムが完備されていることを知っていた。そのうち、もっと深いところから手練れの構成員たちが出てくるであろうことは想像にかたくない。
だが、
「でも、リューちゃんってさぁ」
話を聞いていないのか、聞こえないフリをしているのか。話をしながらも、ネイルの攻撃は少しも緩む気配を見せず、
「バ……バ……バなんとかってのと戦いたかったんじゃないの?」
「バラードだ」
「あ、そーそー。それ」
リューゼットはそれには答えず、やはり戦況を見つめていた。
ネイルの放つ攻撃は、陽動としては充分すぎるものである。いや、それどころか、少しずつ敵を押し込んでいた。
「……妙だな」
「え?」
「抵抗が弱すぎる」
「?」
ネイルはわからない顔だった。だが、確かにリューゼットの言うとおり。いつまで経っても敵の抵抗が強まる気配はなく、ゲノールトとしては、あまりにお粗末な守備と言わざるを得なかった。
「ずいぶんと諦めが早い。後ろになにか控えていると見るべきか……」
と、そのとき。
「ちぃぃっ!!!」
ひとりの構成員が、ネイルの放つ炎の弾幕をかいくぐってきた。どうやら手練れの者らしい。明らかに他とは違う練達した動きを見せ、どうやら破魔具らしき刀を携えて、まっすぐにネイルへと向かってくる。
「……あれ」
「くらえぇぇぇぇぇっ!!」
話と攻撃に夢中だったネイルは、その接近にまるで気付いていなかった。
まったくの、無防備。
だが、
「な――っ!?」
瞬きほどの一瞬。
その一瞬に、リューゼットの巨躯がネイルと男の間に割り込んでいた。
手にしていたのは、光の魔力で形作られた武器。
男の持つ武器と同じ長さ、同じ形の刀――
「去れ――刻苦足らぬ者よ」
「っ――!!」
リューゼットの刀が男の刀を一瞬で弾き飛ばし、目にも止まらぬ速さで袈裟懸けに切り伏せる。
「……かはっ」
一撃だった。
誰がどう見ても致命傷。
「ネイル」
男が倒れるとともに手の中の刀が姿を消し、リューゼットは言った。
「私は奥へ行く。もしかすると謀られた……いや、謀られたというほどでなくとも、こちらも不安が的中したのかもしれん」
「あ、そーなの。たばかったんだぁ」
噛み合ってるのか噛み合ってないのかよくわからないやり取り。ネイルはおそらく、いや間違いなく、理解していないだろう。
リューゼットは気にせずそのまま続けて、
「もし、私が死んだら――」
淡々とした口調でそう言った。
「あとはすべて、貴様の好きにするがいい」
「うん、わかった」
まるで重々しさのない、だが、それについては2人の間で暗黙の了解でもあるのか、ごくスムーズな会話だった。
「それと」
去りぎわ、リューゼットはネイルを振り返り、目を細めると、
「さっきも言ったが、必要以上にやりすぎるな。貴様も高等生物のはしくれなら、少しは加減とか配分というものを覚えろ」
「うん、わかった」
ドォォォォォン!
「……」
それ以上はなにも言わず、リューゼットは襲いかかる構成員たちを打ち払いながら地下2階への階段を目指したのだった。
どちらかの反応があとコンマ5秒遅れていたら、エルバートの命はなかっただろう。
「――ぁぁぁぁぁっ!!」
急ブレーキとともにバックステップを踏んだエルバートの身体と入れ替わりに、ティースの繰り出した剣閃が、曲がり角から飛び出してきた影の剣筋をさえぎる。
重なり合う、金属音。
「っ!!」
手を襲ったのは強烈な痺れだった。
押されて剣を弾かれたが、敵もおそらく不十分な体勢からの一撃だったのだろう。追撃はなく、なんとか距離を置いて体勢を立て直すことができた。
かかとを鳴らし、細波を正眼に構える。飛び出してきた影もまた、無形の構えで2人を見据えた。
「……な――!?」
背後でエルバートの驚愕の声が上がる。
「こいつは……っ!」
だが、ティースは確認するまでもなくすでにその正体を感じ取っていた。
それはどこか、予感していた通りのもの。
「バラード=グラスマン――」
「ほぅ、やはりお前だったか」
短く刈り揃えた髪、鋭い眼光、圧倒的な威圧感。
そこにいたのは紛れもなく、ゲノールト総帥の護衛であり、デビルバスターでもある長身の男、バラード=グラスマンだった。
ティースの首筋を、汗が流れる。
バラードはそんなティースを威圧しながら言った。
「少し疑問に感じた程度だったが、やはり予定を取りやめにして正解だったな。キュンメルに人間の協力者がいたということか」
「っ……」
どうして見破られたのか。……いや、まるで心当たりがないといえば嘘になるし、それは考えても意味のないことだった。
今はただ、どうやってこの場を切り抜けるか。それだけだ。
退くか、進むか。
「ティース! 退けっ! お前にどうにかできる相手じゃない!!」
我に返ったエルバートの叫びが通路に響き渡る。
それはもちろん理解できていた。
だが、
「……っ」
息苦しい。冷たい汗が次々に浮かび上がってきた。
この状況では、おそらく逃げることも不可能だろう。一瞬でも視線を外せば。少しでも足を動かせば。その瞬間に切り捨てられそうな、そんな強圧感がある。
動けない。
まるで殻をかぶり、じっと耐えるしかないかたつむりのように。
2人がかりなら……いや、それでもおそらく――
そして。
「エル……!」
お前だけでも逃げろ、と。
ティースがそう言おうとした瞬間だった。
「――行け」
「え?」
背後から、声がした。
「2人とも行け。この男は、私が相手をしよう」
「……リューゼット!?」
通路をゆっくりと歩いてきたのは、ひと振りの剣を携えたリューゼットだった。いつも通りの精悍な表情、だが全身からは今までにない闘気をほとばしらせ、視線はまっすぐにバラードを見据えている。
「……馬鹿なっ!!」
だが、エルバートは叫ぶ。
「お前ひとりでどうにかなるわけないだろ!? いや、俺たち3人で力を合わせれば、もしかしたら――」
だが、
「行け、と言っているのだ」
言うやいなや、リューゼットの足は地面を蹴った。
乱れのない動きは、実力という以上に、おそらく迷いのない心の表れ。
「……」
バラードの目が細められ、その一太刀は造作もなく受け止められた。だが、リューゼットはそれでも怯むことなく、まったく変わらぬ口調で言葉を続ける。
「前にも言った。私は強者と1対1で戦って死ねるのならば、悔いなどひとつもない。手助けは迷惑だ」
揺らぐことのない意志が、リューゼットの言葉の端々からあふれていた。強がりでも見栄でもない、それはまぎれもない本心なのだろう。
「っ……」
迷っているヒマはない。地下3階Cブロックへと続く階段は、彼らの目と鼻の先にあった。リューゼットが押さえている間なら、どうにか駆け抜けることもできるだろう。
「……ティース! 行くぞっ!」
「っ!」
決意したのはほぼ同時。ただ、行動したのは一瞬だけエルバートの方が早かった。
ティースもすぐ後に続く。
「……」
バラードの視線が2人の動きを追った。だが、意外にもそれを阻止しようとする動きは見せず、2人が通り抜けた後もリューゼットと剣を合わせたまま。
……やがて、階段を刻む足音が遠ざかっていくと、それを背中に聞きながら、バラードは落ち着いた口調で言った。
「お前、名前は?」
「リューゼット=カサ=ドゥギラス」
ガリッ!!
鈍い音がして、2人の間合いが広がった。
押し戻されたリューゼットはかかとを滑らせながらすぐに体勢を立て直す。構えた剣は彼が魔力で具現化したものだったが、通常より長めで、刃がノコギリのようにギザギザになった奇妙な形をしていた。
「なるほど。警備があまりに不甲斐ないと思っていたが……下位魔ばかりのキュンメルに、お前のようなヤツが潜んでいたのでは仕方ないか」
油断なく、バラードの視線はリューゼットを見つめた。だが、それは今までのように相手を見下したものではない。
「……おもしろい」
大抵の場合、バラードの前に立ちふさがる相手は、敵であって敵ではなかった。彼はデビルバスターとして、すでに普通の下位魔や上位魔程度では相手にならないほどの実力を身につけていたからである。
だがこのとき、彼は久々に『敵』を認識していた。
少なくとも、無造作の一太刀で片付けられる相手ではないと、そう感じていた。だからこそ、ティースとエルバートをそのまま見逃したのだ。
「凡庸な集団の中に、ひとりだけ逸材が埋もれているというのは稀にあることだ」
「全力で来るがいい、バラード=グラスマン」
剣を正眼に構え、リューゼットは宣告した。
「さもなくば、大きな後悔が貴様を襲うことだろう」
「馬鹿な」
バラードは薄笑いを浮かべて答える。
「手加減などという無意味な行為、試そうとしたこともない」
それは、余裕ではない。
何度も死線をくぐり抜けてきた。アリとライオンほどの圧倒的優位であろうとも、油断することなど決してない。そういう男だからこそ、バラードはこの世界でこれだけの地位を築くことができたのだ。
油断など、あり得ない。
「ここでは場所が悪い。少し移動することにしないか?」
言って、バラードは階段から離れていく。
……階段を駆け下りていった2人のことは、もうどうでもよかった。そもそも彼は、ただ条件が良かったから一時的にここに雇われていただけで、ゲノールトに対する忠誠心など最初からないに等しい。
今はその利益を守ることよりも、目の前の男を倒すことが優先だと感じたのだ。
もちろんリューゼットにもその申し出を断る理由などなく。
「よかろう」
移動することはエルバートやティースが脱出してくる場合にも好都合――いや、そんなことより、彼もまた、誰にも邪魔をされないところで戦いたいという望みを持っていたのである。
地下3階のAブロック。
他とは明らかに違う、豪華な装飾の施された部屋。
このAブロックは来賓などを泊めることができるビップルームのいくつかが並んでいた。
その中のひとつ。
「きゃぁぁぁぁぁっ!!」
何度目かの振動に、パラパラと、粉のようなものが天井から降ってくる。
「も……もうヤダぁっ!!」
「セルマ様! 落ち着いて下さい!」
昼ごろからこのゲノールトの地下を襲っていた異変は、ついにこの地下3階にまで波及し始めていた。
振動の発生源……襲撃者は、おそらく地下2階にまで達しているだろう。
その部屋にいたのは、ベッドの上で半泣きになって頭を抱える少女セルマと、その護衛が4人。
当初、少数の襲撃を知らせるレベル1の警報が鳴ってから約20分。3階以下に居た者たちの大半はすぐに鎮まるものと楽観していたが、今になって警報は大規模の襲撃――レベル4へと修正され、その余波はすでにこの地下3階の天井を揺るがすほどまでに接近している。
未確認情報だが、3階Cブロックに捕らえていた魔が侵入者によって解放されたという情報も入ってきていた。
もし事実であれば大事だ。怒り狂った人魔たちが殺到しようものなら、それを防ぐだけの戦力などここにはない。
「助けて! 誰か! 誰か助けてよぉ――ッ!!」
「セルマ様!」
おそらくこれだけの恐怖を感じたことはないのだろう。平常心を失って取り乱すセルマをなだめつつ、彼女の護衛長である男は行動を決めかねていた。
ここでじっとしているべきか。
あるいはここを出て、非常口からの脱出を計るべきか。
事態はすでに深刻なものとなっている。どれだけの数の襲撃なのか詳しいことはわからないが、ここまで鎮まらないところをみると相当数と見るべきだろう。
……いや、それは実のところ事実とは違っていたが、彼がそう考えたこと自体はおそらく正しい。
ならばもちろん、脱出を試みるのが最良だった。非常口のひとつは、このビップルームのすぐそばにある。脱出することは可能だろう。
だが、不安もある。
――大きな、振動。
「いやぁぁぁぁっ……ぁっ!!!」
セルマの絶叫が示すように、その振動はどんな火薬を使っているのかと思うほど桁外れに大きい。堅固に作られたこの地下を大きく揺るがすほどだ。
とすると、一本道である非常口をたどることには大きな危険が伴う。万が一道が崩れでもすれば、先へ進めないどころか生き埋めになってしまう危険もあるからだ。
「ティース! 誰か、ティースを呼んできてぇ――ッ!!」
「……ちっ」
思わず男は舌打ちを漏らした。
……男は護衛対象であるこの少女に、主人としての尊敬など少しも抱いていない。少女はあまりに自分勝手で、護衛する者たちにとってはあまりに厄介な存在だった。
ただ、自分が護衛をしている間に死なれては自分の首が飛ぶことにもなりかねないから、仕方なく真剣に護衛を続けているだけのことだ。
振動は収まらない。
「セルマ様、大丈夫です。今ごろはおそらくバラード様が敵を――」
パァン!!
なだめようと伸ばした手が、払われた。
「……あんたはいいからッ! 早くティースを呼んできなさいよッ!!!」
「……」
かすかに残っていた感情が、凍り付く。
その瞬間だった。
……ミシッ……ッ。
「え――?」
「……な――!」
その部屋にいた誰もが、天井を見上げ――そして、見た。
「ば……馬鹿なっ!!」
天井に大きく刻まれた、亀裂。
――この地下を構成するのは、人の持つ最新の技術と、魔界に由来する特殊な資材。たとえ上の階で数トン級の動物が暴れようとも耐えられるだけの造りになっている。
その、はずだった。
だが――
「天井が、崩れる――ッ!?」
絶叫が、部屋を支配した。混乱の中、それが誰のものかは知れない。ただ、そこには確実に、幼く甲高い声――セルマのものが混じっていた。
それだけは確かだった。
「……!?」
「どうした、ティース?」
絶え間なく襲う、轟音と振動。
まるで大軍勢が攻め寄せたかのような混乱の渦の中、3階Cブロックで解放された人魔たちによって、混乱は恐慌へとその質を変貌させていた。
一部の人魔たちは脱出よりもゲノールトへの復讐に燃え、何処かへと散っていった。ゲノールトの構成員たちは自らの命を守ることに精一杯で、地下内部はすでに組織としての形を保っていない。
「いや……」
そんな中、ティースとエルバートはかろうじて生き延びていたキュンメルのメンバー数人とともに、地下1階まで逃れてきていた。
「リューゼットさんとネイルさんのことが気になって――」
それは半分本当であり、半分は嘘だった。
バラードとともに姿を消したリューゼット。いまだ地下2階で陽動を続けているネイル。
すでに彼らの当初の目的は達していたはずだが、2人が退いてくる気配はない。
だが、それとともに、もうひとつ。
(バラードがいたってことは……もしかして――)
ティースの胸を過ぎった不安は、セルマのことだ。
本来ならトーナメント観戦に出掛けているはずの少女。だが、バラードは『予定を取りやめた』と言った。
それが彼とゲノールト総帥だけのものならば良いが、一緒に彼女も外出を控えていたという可能性は充分に有り得ることだった。
ならば、解放された人魔たちの怒りの矛先が彼女に向けられる可能性すら――いや、もしここに残っているのならば、その可能性は非常に高い。
「……」
ネイル、リューゼット、そしてセルマ。
気になり始めると、先へ進む足取りが重くなった。
そして――止まる。
「……エル。俺、いったん地下2階に戻るよ」
「はぁ!?」
急に立ち止まったティースを、エルバートは信じられないという顔で振り返った。
「なに言ってんだよ! ここまで来て!」
立ち止まった場所は、地下1階、娼牢に続く階段の入り口付近だった。再び大きな振動があり、下での戦いはまだまだ鎮まる気配がない。
振動が収まるのを待って、ティースは口を開いた。
「もしかしたらネイルさんは、俺たちがここまで来てることに気付かないで、それでまだ無茶してるのかもしれない。だろ?」
「……そりゃ」
確かに、彼らは逃げる途中でネイルと顔を合わせていない。意外にも彼女は地下2階まで敵を押し込んでいたらしく、地下2階は1階と違ってやや入り組んだ構造になっているため、行き違いになったようだ。
「けど、状況を見れば俺たちが成功したことぐらいわかるだろ? いくらネイルだって――」
言いかけて、エルバートの言葉がピタッと止まる。
「ああ、そうか。『あの』ネイルか……」
苦々しい表情になった。
「それにリューゼットさんだって、もしかしたらまだ頑張ってるかもしれない」
「……」
それに対しては、エルバートは視線を流すだけだった。
相手を考えれば、リューゼットの腕がいくら立つとしても、これだけの時間を耐えきっているとは考えにくい。もちろんそれはティースにもよくわかっていたが、まるで希望がないわけでもないだろう。
「とにかく」
それと、セルマのこと。
いったん引き返す理由としては、充分だった。
「敵の混乱も想像以上だし、今のうちなら戻ってもそれほど危険はないと思うんだ」
「……わかった」
エルバートはうなずく。
「けど、それなら俺も行く。そもそもこの作戦は俺のものだし、俺にはその責任が――」
「いや」
だが、ティースは首を横に振った。そしてすぐ近くにある娼牢へと続く階段を指すと、
「お前はあの子を助けて、早く脱出するんだ。ここを出ても、まだ安全ってわけじゃないだろ? お前はキュンメルのメンバーを安全な場所まで誘導してくれ」
「……ティース」
「すべて終わったら――」
心配そうな表情のエルバートに、ティースは微かに笑みを浮かべて言った。
「リィナのいる宿で待ち合わせだ。今度こそ、3人で昔話でもしよう」
「……」
「それと」
それから少し冗談っぽい口調を交えて、横目で娼牢へと続く階段を見て、
「できれば、あの子の紹介もな」
「……紹介?」
エルバートは怪訝そうに、眉をひそめる。
「お前……――うわっ!!」
言いかけたその瞬間、ひときわ大きな振動が襲った。
どこかで、なにかの崩れる音が響く。
「っ……エル! とにかく頼んだぞ!!」
こうしてしゃべっているヒマはどうやらないらしい。
ティースは表情を引き締めてきびすを返す。
「あ……ああ!」
エルバートの言葉を背中に聞きながら、ティースは今来た道を引き返していった。
(……急がなきゃ――)
壁や床はところどころが黒っぽく焼け、どこかから焦げ臭い空気もただよってくる。
途中、地下全体を襲う振動に何度も足を取られそうになった。
そして――ふと、不審に思う。
(でも、ネイルさんにしては、派手すぎるな……)
また少し嫌な予感がした。
状況を考えれば、この振動の発生源はネイルのはずだ。だが、果たして下位魔でしかない彼女が、これだけの破壊力を持っているのだろうか。
振動は断続的、かつ強烈。しかも、その威力は時間を経る毎に増してきている。
「……」
不審に思いながら、ティースは速度を緩めずに階段を下りていった。
地下2階。
そのまま破壊の跡をたどり、おそらくネイルが進んだであろう方向へと向かう。
と。
「っ……」
おそらく攻撃をまともに浴びたのだろう。ゲノールトの構成員らしき男たちが通路の脇に倒れていた。生死は不明だが、少なくともすぐに起き上がってくる気配はない。
壁に走っている亀裂。
そして、
「これは――」
先へと進んだティースは、驚愕にその足を止めた。目を見開き、胸に冷たい空気が流れ込む。
「こんな……」
そこは一部、床が崩れていた。ここの床が崩れるということはつまり、地下3階の天井が崩れたということになる。
「どうなってるんだ……?」
ゲノールトの床はかなりの厚さの石床で、さらに間に挟まれた魔界由来の建材によって強化されている。並大抵のことで壊れるようなものではない。
「ネイルさんがこんな力を持ってるはずは――」
それは下位魔程度には絶対に不可能な芸当だった。
(……なにか。俺の知らないなにかが起きているのか?)
周囲に人の気配はない。破壊音はさらに奥へと続き、聞こえる喧噪はその先。
「……」
ティースは緊張に身を震わせながら、ゆっくりと『細波』を抜き放ち、そして1歩ずつ、慎重に奥の方へと歩みを進めていくのだった。
階段を下りたところで、エルバートの表情は苦々しさに歪んでいた。
「ティース……すまない」
そしてひとこと、そうつぶやく。
「俺はお前にウソを――」
娼牢。
そこに捕らわれている少女。
エルバートは一度だけ、その少女と会ったことがある。
名前は知らない。素性も知らない。ただ、前回ここに潜入した際に脱出の手助けをしてもらっていた。素性を隠すための赤いリボンがついたネズミ色のフードとコートを借り、構成員たちの気を引いて脱出の隙を作ってもらったのだ。
だから、その恩を返す必要があった。
それ以外の個人的な感情はひとつもない。もちろんティースが勘違いしたような関係も、彼と彼女の間にはなかった。
結局のところ彼らの顔立ちが似ていたのは、単なる偶然でしかなかったのだ。
そして――
「……え?」
その牢の前までやって来たエルバートは、そこで驚愕に目を見開くほどの光景に遭遇することになる。
「いな……い?」
牢はもぬけの殻だった。
いや、それだけじゃない。
「なんだ……これ……!?」
戦慄が、エルバートの身体を駆け抜ける。
――牢の扉はすでに何者かによって破壊されていた。
「そんな……」
背筋が冷える。
それは、まず有り得ないはずの光景だった。
牢は格子が吹き飛び、破片が壁際まで飛び散っている。まるで数トンもの巨大な物体が衝突したようなそんな惨状だ。
しかも、それだけではない。
「そんな、馬鹿な……」
格子は『外側』に散らばっていた。つまりその牢は『決して破られないはずの内側から』破られていたのである。
見張りはとっくの昔に逃げ出しているようだ。
……と。
「?」
突如風が吹き抜け、彼のすぐ背後で渦を巻いた。
「!」
ハッとする。
風が集まったところに、まるで空気が実体化したかのように突然人の気配が現れたのだ。
そして、
「キミは――」
「……」
とっさには振り返ることができず、ドクン、と、心臓が大きな脈動を打った。
――ゲノールトの牢。それはたとえ上位魔であろうと、おそらく将魔であっても、内側からは簡単には破ることのできない堅固な牢だ。
……その、はずだ。
だが、『それ』は今、疑いようもないひとつの事実を示して彼の背後に立っている。
「覚えてるよ。キミは確か、前にもここに来た子だね?」
動けない。冷たい汗が流れた。
声に聞き覚えがある。それは確かに、この牢に囚われていた少女のものだ。
だが……この状況を目の当たりにしては、認識を改めざるを得なかった。
「……あんたは、いったい――」
少女は、いつでも抜け出せたのだ。それだけの力の持ち主だった。囚われていたのではない。おそらくなんらかの理由があって、囚われたフリをしていたのだろう。
だが、少女はエルバートの緊張など知らない様子で、続けた。
「キミに聞きたいことが、あるんだ」
「……」
心臓の鼓動は収まらない。
冷や汗をかいたまま。
エルバートは抵抗することもできず、観念してゆっくりと振り返った。
地下2階の状況は凄まじいことになっていた。
あらゆる部分の壁が崩れ、ところどころでは火がパチパチと燃えている。ほとんどが石の造りなので急速に燃え広がる心配はないが、まるで戦乱に巻き込まれた街の様子を見ているかのようだ。
と、そんな中。
「どけよ……このガキがッ!!」
ようやく人の声を聞いたのは、2階の比較的深い場所。
「ヤだッ!! 置いてかないでぇッ!!」
場所は、ティースの認識が正しければ3階Aブロックに続く階段のすぐ近く。その方角から、逃げるようにひとりの男が走ってくるのが見えた。
見覚えがある。
それは確か、セルマの護衛の片割れだった。
(ってことは――あの声!)
男はティースの存在には見向きもせず、慌てたようにその横を駆け抜けていく。右腕と頭からは血が流れており、どうやら負傷している様子だった。
破壊音はその奥から、どうやらこちらに近付いている。
ティースもまた、一目散にその場所へ急いだ。
そして――
「……セルマッ!!」
「え……ッ!?」
通路のずっと奥。まだ顔も確認できないほどの距離だったが、彼はそこにセルマの赤いドレスを発見したのだった。
「ティースッ!? ティースなのッ!!?」
おそらくは護衛の男に見捨てられたのだろう。
絶望に打ちひしがれ、声がかすれるほどに泣きわめいていた少女は、そこに頼りとする青年の声を聞き、喜びと安堵に涙で濡れた顔を輝かせた。
「ティースッ! お願い助けてッ!」
立ち上がり、真っ黒に汚れた赤いドレス姿で、セルマがフラフラと駆け寄ってくる。どこか怪我をしているらしく、動きはひどくぎこちない。
「セルマ!」
ティースもまた、少女に向かって駆けた。
――やはりここに残っていた。戻ってきて良かった、と。
その心に、安堵を覚えながら。
だが――
「……え?」
その背後。
ゆらりと陽炎のようなものが浮かび上がるのを、ティースは見た。
そして、爆音。
「きゃぁぁぁっ!!?」
「セルマッ!?」
背後から襲った爆風に、少女の小さな体があおられ、うつ伏せに転がる。
破壊音は近付いていた。
――いや、すでに。
「ッ――!?」
ゆらりとそこに浮かんだのは……得も知れぬ邪気。
「セルマッ! 立て! 走れぇッ!!!」
自らも全力で疾走しながら、ティースは叫んだ。
浮かび上がった、人影。
背後に揺らめく炎で、顔は朧気だ。だが、なぜかそこに浮かぶ笑みだけは、確認できた。
……どこかで見たような、笑み。愉悦の、笑み。
胸に、無数の針が突き刺さったような、痛みが走る。
「セルマぁぁぁ――ッ!!」
「ティース! ……ティース……ッ!」
足をすりむいたのだろう。痛みに顔をしかめながら、セルマはなかば床をはうようにして彼の元へ向かってくる。
だが、邪気は、それより速い。
浮かび上がった、笑みは――
(……ネイル、さんッ!?)
炎が、飛ぶ。
ティースの存在に気付いていないのか。
いや、あるいは――
「……セルマッ! 走れぇ――ッ!!」
絶叫が、熱のこもった空気を裂く。
「ティ――ッ!!」
それに応えようとしたセルマの叫びは、最後まで続かなかった。
「っ――!!」
炎はセルマを避けた。
偶然だったのか、意図的だったのか。
「え――ッ!!?」
だが、彼女を避けた炎の塊は、壁と天井を打った。場所は奇しくも、いや、まるで狙ったかのように、少女が居たその場所。砕かれた壁そのものが少女に向かって崩れ落ちる。
「セルマァァァッ!!」
「きゃぁぁぁぁっ!!!」
少女の体の数倍はあろうかという石の塊は、しかし幸運にも彼女の体を避けた。小粒の石がその体をかすめていったが、大事に至るものはない。
「ぁ……ぁ……」
声も出せなくなって、大量のガレキの中に埋まるように、腰を抜かせたセルマがペタンと腰を抜かす。
だが――
「――ダメだ、セルマッ!!!」
ティースの絶叫は止まらない。
……彼は知っていた。その幸運が、決して彼女の命を保証するものではないことを。
「立て! 立って走れぇっ! 走るんだぁぁぁ――っ!!」
「……え?」
彼が自ら助けるには、まだ遠すぎる。
あと、15――いや、10メートル。
――遠すぎた。
「え――」
天井を見上げ。
ピタリと、セルマの動きが止まる。
「ぁ――」
崩れ落ちる、天井。
幅が4メートルはあろうかという、巨大な石の塊。
助けるには、遠すぎた――。
「セルマぁぁぁぁぁぁ――ッ!!!!」
絶叫が再び熱風を切り裂いて。
「――」
絶望的な無言の言葉を残し……そして、赤いドレスはガレキの中へと消えていった――




