その3『境界線』
夕日がななめに射し込むやや広い部屋の中、リィナはベッドの上に腰を下ろし、じっとドアを見つめていた。
「……」
無言のまま視線をわずかに横にずらす。
壁のカレンダーに刻まれた日付は、ティースが戻ってこなくなって今日がちょうど10日目であることを示していた。
……さすがに、おかしい。
毎日のように届けられる手紙は、おそらく彼自身の筆跡だろう。長年離れていただけに確信ではないが、そこは疑いないとリィナは考えていた。
しかし……そうだとして、ならばなぜ、ティースは直接事情を説明しに来ないのだろうか。
それが疑問だった。
そもそも、手紙を届けているのは彼本人なのか。いや、直接姿を見せないことを考えれば、そうではない可能性の方が高いだろう。
考えられるパターンはいくつかある。
どこかに捕らわれて手紙だけを無理やり書かされているのか、あるいはなんらかの事情でその場から離れることができず、誰かに代わりに手紙を届けてもらっているのか。
前者であるならばすぐに探しに行くべきだろうし、後者であるなら、彼の言葉通り黙って待つべきなのかもしれない。
ただ、その前に。それを確かめる手段があった。
夕方。
手紙は大体いつも同じような時間に届けられる。
で、あれば――
(今日は逃がさない……)
届けにきた人物に、直接聞けば良いのだ。
実をいうと、この試みは3日前からすでに始めていた。だが、初日は手紙に気付いて廊下に飛び出したときはすでに遅く、神経を尖らせた2日目は手紙自体が届かなかった。
そして3日目……昨日は時間を大きくズラして届けられたために気付くことができなかったのである。
おそらく向こうもリィナの意図に気付いていて、そして姿を見られまいとしているのだろう。
だから、今日は昼前からもう5時間以上、ずっと神経を尖らせて待っていた。
「……」
窓から射し込むオレンジ色の光が、その強さを徐々に弱めていた。もう夜が近い。
……もしかしたら、今日は来ないのだろうか。
リィナがそう思い始めた、そのときだった。
「?」
一瞬。
「えっ……?」
窓から射し込んでいた夕陽をさえぎった、小さな影。
とっさに振り返ったが、誰もいない。
……いや。
「!」
いつの間にか窓の隙間に手紙が挟み込まれていた。
(でも……ここは2階――!)
慌てて窓に駆け寄って外を眺めた。が、宿の近くを歩く人間は見当たらない。
(どこに――)
ガタッ。
「!?」
音が聞こえたのは、屋根の上。
窓を開けて上を見ると、ほんの一瞬だけ何者かの影が見えたが、それはすぐに屋根の向こうに消えてしまう。
思わず、リィナは叫んだ。
「待って! あなたは……!?」
返事はなかった。
屋根にのぼって追いかけようかとも思ったが、それではさすがに目立ちすぎる。今の彼女の立場からすると、それを実行に移すことは難しかった。
追跡を断念し、窓の枠から手を離す。
(でも――)
視線を床に落とすと、そこには先ほど届けられたばかりの手紙。
(あの後ろ姿……やっぱりティース様じゃない)
それは確信だった。
「……」
無言のまま手紙を広い、そして視線を伸ばした先はカレンダーの日付。
(あと3日……)
示していた日付。
エルとの約束――『1年後』まであと3日だった。
「……」
手紙の封を切る。内容はいつもと大差ないもの。なにか暗号のようなものが隠されているかとも考えたがそれもなさそうで、筆跡にも動揺は見られなかった。おそらく誰かに無理やり書かされているという可能性は低いだろう。
(でも……あと3日で進展がなかったら、探しに行こう)
人魔である彼女にとって、昼間から街中を歩くことはとてつもないリスクだ。
しかし彼女は、この不可解な状況にそこまで耐えられるほどの日和見主義でもなく――。
決意を固め、そしてリィナは部屋にある街の地図に手を伸ばしたのだった。
「ふぅ、やれやれ……」
エルバートが隠れ家へと戻ったのは、すでに日も沈み、そしてリガビュールの中心街が活気づいてきた、そんな時間帯だった。
「……まいったなぁ」
地下へと続くはしごを下りていくと、たいまつが揺らめいて彼を出迎えた。
「あれ?」
そして気付く。
薄暗い地下室にいたのは、相変わらず壁際で瞑想するように目を閉じるリューゼットだけだった。
「ネイルはどこ行ったんだ?」
リューゼットは静かに目を開き、横目でエルバートを見ると、
「さぁな。だが、いない方が静かでいいだろう。そっちはなにかあったのか?」
「あ、ああ……それがさ。最近、向こうもこっちの正体をつかもうとしてるみたいで。手紙届けるだけで冷や汗もんだよ」
本当に疲れた様子で椅子に腰掛けたエルバートに対し、リューゼットは不可解そうな顔で、
「例のリィナとかいうティースの知り合いか? 見られてなにかマズいことがあるのか? お前にとっても知り合いなのだろう?」
「ま、ちょっと……な」
どこか歯切れ悪く答えたエルバート。だが、リューゼットはそれ以上追求せず、また目を閉じた。
空気穴から流れ込んだかすかな風が、カビの匂いを運んでくる。
そして、
「そろそろ、だな」
「……」
リューゼットのつぶやきに、エルバートは無言で視線を彼の方に向けた。
「地下3階のCブロック。おおよその場所がわかっただけでもティースを潜り込ませた甲斐はあっただろう。これ以上時間をかけると、正体がばれて計画がもれる可能性もある」
「……」
そんなリューゼットの言葉に、エルバートはほんの少しだけ視線をさまよわせながら、
「リューゼット。……お前は怖かったりしないのか?」
「なにがだ?」
「いやさ。仲間を助けるために命を投げ出してでもって、ずっとそう思ってはいるけどさ。……けど、いざとなるとやっぱすこし怖いよ」
その言葉通り、エルバートの表情には隠し切れない不安がにじみ出ていた。
「もし作戦中にバラードの奴に出くわしたら。ヤツらに捕まっちまったら、どうなるんだろうってさ」
キュンメル本隊と合流できないこの状況において、ゲノールトはあまりに強大すぎる相手だった。
ましてエルバートはキュンメルに所属するようになってからの日も浅い。ほぼ新米のような彼に、不安になるなというのも無理な話であった。
だが、リューゼットはいつもの調子で答える。
「私は、もともと戦うことが嫌いではないからな。強い者と1対1で戦って死ねるなら、それはそれで本望だ」
「……うらやましい性格してるよ」
エルバートはどこか呆れたようにしながらも笑って、
「けど、かえって納得できる話か。俺もそうだけど、お前らみたいに入って日の浅い奴らは、みんな浮足立って街から逃げようとして……逆に一網打尽にされちまったのに、お前とネイルだけは落ち着いて――って、ネイルはなんでここに残ってんのかいまだに良くわかんないけどさ」
「あれは、ただの阿呆だ」
リューゼットはそう断じた。
仲がいいのか悪いのか、よくわからない2人だった。
「……」
だが、エルバートはなにも言わずにただうなずいて。
しばらくの沈黙。
そしてエルバートはゆっくりと宣言する。
「あと3日待とう。それまでに他の有力な情報がなければ、作戦決行だ」
リューゼットもまた、無言でうなずいたのだった。
それとほぼ同時刻。
(ふぅ……)
ティースはちょうど、1時間ほどの自由時間を利用して、手紙による定期連絡を終えたところだった。
(今日も有力な情報はなし、か……)
ゲノールト総帥の孫娘、セルマ=ゲノールトとの関係は相変わらず良好だ。
彼女も捕らわれている魔についての詳細までは知らないらしく、あれ以降そこまで重要な情報は得られていなかったが、ここ1ヶ月ぐらいに捕らわれた魔の中にはまだ生きている者がたくさんいるらしく、キュンメルのメンバーも無事な可能性がある、という程度のことまではわかっていた。
「今日もご苦労だな、ティース」
「え? ……あ、ペドロさん」
地下1階に戻ってきたティースに声をかけてきたのは、初日に彼を案内したペドロという男だった。どこか調子の軽いやや年上のこの男は、あれ以降もティースによく絡んできている。
そうして合流した2人が向かった先は、地下1階にある構成員たちの休憩所だった。そこは同時に食堂でもあり、今は多数の構成員たちが夕食をとっているところだ。
「お前、あのガキンチョに相当気に入られたみてーだな? ご愁傷さん」
テーブルに着いてペドロが話題にしたのは、もちろんセルマのことだった。
ティースが彼女の遊び相手を務めるようになってからすでに4日目。当初はすぐに飽きられるだろうと予想していたペドロも、4日続いたことにやや驚いているらしい。
「はは。でも、そんなに悪くないですよ」
流すようにそう答えたティースに、ペドロは夕食のスープを行儀悪く口にかき込みながら、
「悪くない、ねぇ。ま、将来を考えりゃ気に入られて悪いこたねぇわな」
器を置いて、それから意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「しっかし、ま。あれで少しぐらい可愛けりゃ役得もあるったって、あんなブタみたいなおデブちゃんじゃなぁ」
「……」
その言葉に少し気分を害し、ティースは密かに眉をひそめた。
セルマが肥満体型であることは彼にも否定できなかったが、そこまで言われるほどヒドいわけでもない。
ペドロの言葉はおそらく、彼女の厄介な性格も考慮した上での罵言なのだろう。
ただ、ここでイザコザを起こすつもりはもちろんなかったので、ティースは表情をごまかすように黙ってスプーンを口に運んだ。
それには気付かず、ペドロは続けた。
「ま、あの母親は相当美人だったらしいが、娘もそうだとは限らねぇってことだな」
「母親、ですか?」
思わぬ話題に、ティースは顔を上げてペドロを見る。
「そういや彼女、父親も母親もいないみたいですね」
「ああ、そっか。お前は知らないんだっけな。っても、俺だって人伝いに聞いた話だけどよ」
もともとうわさ好きなのだろう。ペドロはあっさりと話し始めた。
「あれの母親ってのはボスのひとり娘さ。で、父親ってのは元々よそ者だったんだが、これがどうやら、最初からここに留まるつもりはなかったらしくてな。ボスもその男を完全に信用してはいなかったんだが、あのガキが産まれてちょっと油断してる隙にドロンってことらしいぜ」
「母親も一緒に、ですか?」
「ああ、そりゃもちろん共謀さ。ボスはそのひとり娘をたいそう大事にしてたらしいが、娘の方はここの環境になじめてなかったらしい。……ま、こんな世界だ。嫌気が差したって不思議じゃねぇと思うしな」
それはつまり、セルマの両親は比較的まともな精神の持ち主だったということだろう。
「なぜ、あの子……いえ、セルマ様も連れていかなかったんでしょう」
ティースの問いにペドロは肩をすくめて、
「そりゃ、産まれたばかりのガキなんか連れて逃げ出せるわけないからな。要するにあのガキは、ボスを油断させるためのダシに使われたってことさ、おそらくな」
「……」
ティースは押し黙った。
理解は、できないこともない。あるいは女にとって、男は自らを解放してくれる白馬の騎士だったのかもしれない。
ただ――
(わかる気がする……あの子が、どうしてあんなに歪んで育てられたのか)
そして夕食が終わり、ティースはペドロとともに食堂を出た。
「ティース。お前、今日はあと待機だけか?」
「あ、はい。ペドロさんは?」
「俺はこれから1階の警備任務さ。今日はお偉いさん方がビップルームの方に来てるらしいから、いつもより人を増やしてるんだってよ」
ペドロはやれやれと言わんばかりに肩を落とす。
確かに。廊下がいつもよりも緊張感にあふれていたのはティースも気付いていた。
「ビップルームというと……地下4階ですよね?」
地下4階。そこは色々な催し物がなされる場であり、週に幾度か、こっち側の世界の有力者が訪れるらしかった。
セルマが良く口にする『ゲーム』が行われるのもその場所だ。
「ああ、だから今日は――」
言いかけたペドロの口が止まる。
「……ペドロさん?」
問いかけようとして、彼もまた、進行方向から近付いてくる一団に気付いた。
(なんだ……?)
先頭を歩く男の腰にはひと振りの剣。身なりは他の構成員と比べてやや立派で長身。後ろには2人の男を従えている。
(……この、人――)
ただならぬ気配。
ティースが感じたその印象を肯定するかのように、ペドロは急に顔をこわばらせ、無言のまま通路の端に寄って頭を下げた。
緊張感がみなぎる。
「……」
ティースもまたペドロにならって端に寄った。
……首筋に嫌な汗が浮かび、心臓の鼓動が速くなる。
まだ数メートルはあるというのに、まるで上から頭を押さえつけられているかのような圧迫感。
(まさか、この人……)
徐々に近付いてくる足音。
それが2人の前を通り過ぎていく。……いや。
「……新入りか? 顔を上げろ」
「!」
ドクン、と、心臓が踊った。
隣をうかがったが、ペドロは首筋に冷や汗を浮かべたまま、微動だにしない。
「……はい」
ティースはゆっくりと顔を上げた。
眼前で見ると、短く刈り揃えた髪で眼光の鋭い男だった。歳はティースより10歳以上は上だろうか。
目線の高さはほぼ同じだというのに、まるで見下ろされているように錯覚してしまう。身にまとった雰囲気は、どう控えめに表現してもタダ者とは言いがたい。
「……」
幸い、男はすぐティースに興味をなくしたようで、視線を戻し、歩みを再開した。
――いや。
「!?」
ホッとしたその瞬間、首筋に悪寒が走った。
……シュパァッ!
空気が裂け、とっさに身をかがめたティースの真上を、鋭い手刀が飛んでいく。
「っ……」
風圧が髪を揺らした。
「ほぅ。なかなかだな」
「……」
視線を上げたとき、男はすでに立ち去ろうとしていた。
少し遅れて、ぞわっと全身が震え、総毛立つ。
背中を冷たい汗が流れ、廊下の空気がヒンヤリと感じた。
(……あの、人)
無造作に放った手刀。おそらくかなり手加減はされていたのだろう。
だが、それでも――
「お、おい、ティース。よく避けたな、お前……」
男の姿が廊下の向こうに消えたのを確認してから、ペドロがようやく頭を上げる。いつもの軽い調子はそこにはなく、額に浮かんだ汗は彼が極度の緊張状態にあったことを如実に示していた。
「前、新入りがあの1発で再起不能になっちまったことがあるんだ……俺のすぐ目の前でよ……」
「……」
間違いない。そう確信する。
(あれが、バラード=グラスマン――)
ドク、ドク、と心臓は落ち着かないまま。
――デビルバスター。それは善であれ悪であれ、等しく強大な存在だった。今のティースでは決して歯が立たない、雲の上の存在だ。
(エルの言うとおりだ。あの人とは、絶対に戦っちゃいけない……)
身が引き締まる。
自らの任務の重大性。そして自分が立っているこの場所が、どれだけ危険な場所なのかということ。
そのことを、ティースは改めて認識させられたのだった。
――この世に生を受けて40年と少し。
男の人生はなかなか波乱に富んでいた。
幼いころ、彼は突如として現れた理不尽な波によって人間界へと流され、両親とは生き別れることとなった。だが、幸いにして男は幼いころから機転の利く頭脳を持っており、新天地でも賢く生き延びる術をすぐに身につける。
身を潜めながら、生きる生活。それは決して楽なものではなかったが、これまた幸いなことに、彼は他人から物を奪わずとも生きていける場所を見つけ、同じ境遇、同じように両親と生き別れ、幼いころから力を合わせて生きてきた少女を妻にもした。
2年後、2人の間には娘が産まれ、それからしばらくが長い幸せの絶頂期だった。
ォン……ォォン……
それは、なんの音だろうか。
地上からもれてくる風のうなりか。あるいは犬、狼の遠吠えか。あるいは……境遇を同じくする者たちのうめき声か。
ォン……オォォン……
個別にあてがわれた牢の環境は、以前いたゴミ溜めのような牢と大差ない。常に空腹だったし、常にどこかから悪臭が漂ってくる。鎖につながれた手首は何度ももがいたせいですり切れ、血がこびり付いた錆と入り交じり、膿が浮いている。顔も、妻が嫌っていた無精髭でいっぱいだった。
ォン……コツ……ォォ……コツ、コツ……
何者かの足音が混じる。おそらくは見回りだろう。
男は薄汚い石床に額をつけ、うずくまったまま動かなかった。
やがて、何者かが明かりを持って牢の前に現れる。
「……」
元気の残っている者は、いまだ遠くで怒号を発していた。
無駄なこと。
かつては自らも繰り返したその行為を、今は愚かなことだと理解している。
手を括る鎖。そして細かい網の目のような鉄格子。この2つによって、彼らの力はその大半が封じられている。それは、ここに捕らわれている者たちの中では珍しい上位魔である男にとっても同じことだった。
だが、その片方だけなら。片方だけならば、全力でどうにかできるかもしれない。
手を括る鎖だけなら。目の
前を閉ざす鉄格子だけならば――
見回りが牢の中を一瞥して去っていく。
――どうして、こんなことになったのだろう?
自問するたび、男の胸は締め付けられるような痛みに襲われる。
人間と争うつもりなど微塵もなかった。ただ男は、理不尽な偶然によってこの世界に流され、それでも懸命に道を見つけ、深い山奥で自給自足の生活をしながら、愛しい家族とともに生をまっとうしようとしていただけだったのだ。
それなのに――
「……――」
思わずつぶやいたのは、最愛の者の名。それは、すでにこの世のものではない。その者はその場で命を奪われてしまった。
――なぜ、自分は生き長らえたのだろう?
そう問いかけたとき、脳裏に浮かび上がるのはもうひとりの愛しい者の顔。
15歳になり、美しく成長した娘は、男とともに生きたままこの場所に連れてこられた。
生きているだろうか。……いや、必ず生きている。
それだけが、男の精神を支えていた。
「ナターシャ……」
たったひとつ。
自らに残された希望、そして使命。
手錠が赤銅色に染まっても、痛みが痺れ、感覚を失いかけても、なお。
自らの種族名すら覚えておらぬ上位魔、ニール=ソーントンは、ただそれだけのために力を養い、正気を保っていたのだ――。
翌日の昼過ぎ。
「ねぇ、ティース、聞いて聞いてー!」
「はい?」
地下2階。
いつもの場所で、いつものようにお菓子袋を抱えながら、セルマはいつも以上に上機嫌だった。
ぷっくりとした頬を嬉しそうに赤く染め、両手を広げ、怪訝そうな顔をしたティースに主張する。
「今夜、アレがあるのッ!」
「アレ……ですか?」
ティースは上の空だった。
本来ならばそのニュアンスで、『アレ』が指し示すものに気付くことはできただろう。
だが今、彼の頭はそれ以外のこと――バラードの動向をどう察知するか、その情報をどのようにして手に入れるかということでいっぱいだったのである。
(とにかく、どうにかしてあいつのいない隙を……)
昨日のエルバートからの連絡によって、作戦の決行日が近いことは知っていた。具体的な日付は今日の定期連絡によって知らされることになっていたが、その文面のニュアンスからして、おそらくは2、3日後だろう。
今まで集めた情報によると、バラード=グラスマンはこの地下組織の守護者ではなく、ゲノールト総帥のボディガードだ。だから、総帥がどこかに移動すればそこに付いていくし、ここにいないことも珍しくはない。隙はあるはずだった。
ただ、問題はそのゲノールト総帥の動向をどう察知するか、である。裏世界の大物だけあって、いち構成員であるティースに把握できるものではない。
この地下での催し物に出席するときは警備が厳重になるので察することもできるが、外出する場合、その場所、時間などを察知することは非常に困難だった。
どこかに出たことを確認してから連絡したのでは遅すぎる。事前にそれを知っておく必要があった。
(となると――)
ティースの目は自然とセルマのほうへ向く。
(この子にそれとなく聞くしかない……か)
だが、それには危険も伴う。少しでも不自然に思われ、それを周りの人間に話されたら終わりなのだ。
――と。
「だからー。ゲームだよ、ゲーム。前に話したでしょぉ?」
ハッとする。
いつまでも上の空のティースに、セルマは少々気分を害したようだった。
「あ……ゲームですね。そうですか、今夜――」
再び、胸に黒い影。
「……それは、楽しみですね」
そこに出てくるのはエルバートの仲間かもしれない。だが、現状ではそれを救うことは不可能に近く、それがどうしようもなくやり切れなかった。
それと……もうひとつ。
「おじいさまがね、ちょこっとだけ教えてくれたの。今日はとっても強いのが1匹出てくるんだって。『じょういま』って言ったかな? だから、とっても楽しみなのッ」
好奇心に目を輝かせる姿。
親のいない寂しさを、様々な遊びで必死に埋めようとしている――ペドロからあの話を聞いて以降、ティースにはそのようにしか見えなくなっていた。
「上位魔。そうですか……」
オウムのようにセルマの言葉を繰り返し、ティースは力無くうなずいた。
――彼女は決して、極悪非道の者ではない。おそらく本来はとても素直で、明るく、子供らしい少女なのだろうと感じる。
だから、やるせないし、許せない。
「それでねー」
「……」
それでも今、余計なことを考えて彼女の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
「そうですか……ええ、そうですね――」
複雑な心境のまま、弾んだセルマの言葉に相づちを打ち続けるティース。そしていつものように時間が過ぎ――それから1時間ほどが経ったころだろうか。
「……?」
カードゲームで遊んでいたティースは、ふと顔を上げた。
感じたのは、周囲に走ったさざなみのようなざわめき。同時に訪れた、緊張感。
「……ティース? どうしたの?」
セルマは気付いていないようだった。だが、振り返ったティースと一瞬だけ視線を合わせたセルマの護衛2人は、やがて廊下の奥に向かって頭を垂れる。
(この、圧迫感は……)
昨日感じたものと同じ。頭の上から押さえつけられるような圧迫感。
その視線の先にやがて現れた一行。
その中心付近にいたのは、予想通り――
(バラード=グラスマン……でも)
ただ、今日は少しだけ様子が違う。
(あれは――)
昨日はバラードが明らかに一行のリーダーだった。しかし、今日は彼も格上の人物に付き従う存在のようだ。
それは、彼の真後ろをゆっくりと歩いてくる、正装の男性。この世界においては老人と言ってもいいだろう、おそらくは50代半ば。白髪混じりながら厳格な顔付きは彼がまだまだ現役であることを物語っている。
(……ゲノールト総帥、か)
見たことはないものの、ひと目でわかった。
その眼光は鋭く、おそらく若いころは相当に血の気の多い人物であったろう。
だが、
「……おじいさまッ!」
ようやくその一行に気付いたセルマが、手にしていたカードを放り投げて駆けていく。
と、老人の厳格そうな顔は一瞬にしてほころんだ。
「おお、セルマ。元気にしていたか?」
「うん!」
胸に飛び込んだセルマを難なく受け止め、頬を緩ませてその頭を撫でる老人。
「……」
それはティースにとっては少し意外でもあり、そして納得でもあった。
(……だから、あの子はあんなに偏っているんだ)
ひとり娘に裏切られた老人が、残された孫娘を引き留めようとして歪んだ愛を注ぎ続けた――。非道の行いで財を為した老人にも、あるいはそんな人間らしい感情があったのだろうか。
(でも、そんなの愛じゃない。単なる自己満足だ……)
拳に力が入る。
先の短い老人はそれでもいいだろう。だが、歪められた少女にとってはそれで良いはずがなかった。
「さぁ、セルマ。そろそろ離してくれんか」
「えー!」
首に抱き付いたセルマを優しく離し、老人の視線が一瞬だけティースへと向けられた。
「……」
心にモヤモヤしたものを抱えたまま、無言でかしこまる。
……どうしようもなかった。少なくとも、今この場でどうにかできる問題ではない。
叫び出しそうになる衝動を、ティースは必死で耐えていた。
「おじいさま? 今日は何時ごろ迎えに来てくれるの?」
セルマの問いに、老人は再び笑顔で彼女へと向き直る。
「そうだな。少し遅くなるかもしれん……8時か、9時か。それまで待てんか?」
「ううん、平気。ティースと遊んでたらすぐだもん」
「おお、そうか。ホッとしたよ」
もう一度、老人の視線を感じた。が、特に声をかけてくるわけでもなく、
「なら、もうしばらくここにいてくれんか? ……行くぞ」
一団の気配が離れていく。
ゆっくり顔を上げると、ちょうどバラードが最後に背を向けるところだった。
「……ティース。じゃあ続きしよっ」
セルマが戻ってくる。近くにいた彼女の護衛2人も、ほんの少し緊張が緩んだようだった。
――と、そのときだ。
「とっ……止まれぇぇぇぇぇぇっ!!!」
怒声と――轟音。
「!?」
突然聞こえてきた叫び声に、その場にいたすべての者が一瞬だけ動きを止めた。
(……なんだ?)
だが、近くではない。遠く……声の発生源はどうやら少し離れた場所にある階段――地下3階の方だ。
疑問に思う間もなく、怒号は立て続けに2度、3度。視界の隅で、バラードがゲノールト総帥をかばうように立つ。
続けて、もう一度轟音。
「……え? なに? どしたの?」
セルマもなにが起きたのかわからないという表情で、キョロキョロと辺りを見回していた。
と、直後、
「どけっ!!」
「っ!?」
離れていた護衛2人が、ティースを弾き飛ばすようにしてセルマの周りを囲む。
「……」
突き飛ばされて打った腰を押さえながら、ティースもまた物音に集中した。
――なにかが、近付いてきている。
「セルマ。じっとしていなさい」
老人の声は、さっきまでとは打って変わり厳しいものだ。
「……」
バラードはその前に立ったまま、微動だにしない。
(なにかが……来る)
やがて――それは現れた。
(っ……あれは――)
地下3階に続く階段のうちのひとつ。ティースの記憶が正しければ、それは3階Cブロックへの階段。キュンメルのメンバーを含めた人魔が多数捕らわれているであろう区画だった。
そして、
(あれは……人魔!?)
まだ遠目ではっきりとは確認できない。だが、階段から飛び出してきた黒い影は、尖った耳を持ち、その身に魔力をまとっているように見えた。
手首には明らかに無理やり外したのであろう手錠の残骸が絡まっており、半裸。全身は自らのどす黒い血と埃で汚れ、ボサボサの髪と無精髭、その表情はまるで羅刹のように恐ろしい形相だった。
「っ……!」
その威圧感に、とっさに腰の剣に手を伸ばす――が。
(……しまった。剣は1階か!)
彼はセルマのそばでの帯剣を許されておらず、愛剣は1階の控え室に置いたままだ。
戦う術はない。行く末を見守るしかなさそうだった。
……ダンッ!
階段を上り終えた人魔は一瞬ためらった後、その視線をゲノールト総帥と、そのそばに立つバラードへ向けた。
怒りの声がその口をつく。
「貴様は……っ!!」
「バラード」
対照的に、老人の冷徹な声が響く。
「あれは、なんだ?」
それに対する返答の声もやはり冷静だった。
「おそらく、1ヶ月ほど前に捕らえた上位魔でしょう。強い力を持っているから充分に気を付けろと言ってあったのですが……」
「ふむ。上位魔というと、今夜の催しに使う予定だったヤツか?」
「どうなさいますか?」
「生け捕りにできるか?」
「不可能ではありませんが、手こずるかもしれませんな。もともとあの上位魔は、アレの娘をダシにどうにか連行してきたヤツですから」
「……ふむ」
老人の視線が一瞬だけセルマの方へと向けられる。
「?」
2人の護衛に囲まれた少女は、いまだきょとんとした顔で状況を把握していないようだった。
老人の視線が戻る。
「ならば構わん。……殺せ」
「はい」
鋭利な声。同時に、抜剣の音。
ジリジリと、人魔は接近してきた。後ろから追う者はいない。おそらくは、その大半を無力化してここまでやってきたのだろう。
上位魔。
並の人間の太刀打ちできる相手ではなかった。
まして、
「……娘は――」
その人魔は、背負っていたのだ。
憎しみ。
そして、守るべきもの。
人となんら変わることはない。そのために強くなる。そのために命を、自身のすべてを賭していた。
「ナターシャは、どこにいるッ!!」
床を蹴る。
「――」
ティースはその人魔――その男の事情を、詳しく理解していたわけではない。
だが、男の態度とほんのわずかなその言動から、彼が背負っている『なにか』が見えたような気がした。
だから。
だから――
「……かはっ……!」
男の動きが止まったとき。
まるでノコギリのようなバラードの剣が、造作もなく男の体を斜めに切り裂いたとき。
時が、止まったように感じた。
「ぁ――」
ゆっくりと。
ゆっくりと、崩れ落ちる。
伸ばされた手は、なにかを求めて。
――娘、と言った。
男が最後に求めたのは、おそらくそれだろう。
心臓が跳ねる。
内臓がせり上がってくるような感覚。
「っ……」
胸の奥に痛みが走った。
同時に吐き気を催す。
……男は、あるいは極悪人だったのかもしれない。人間を何人も殺めた悪い人魔だったのかもしれない。それすらもティースにはわからない。
だが、
「っ……っ……!」
吐き気は止まらなかった。
動きを止めた男の体が、冷たい床の上に崩れ落ちて。
……ただひとつだけ、はっきりしていたこと。
「見事だ、バラード」
「恐れ入ります。やはり上位魔の場合、連行する際の警戒をもっと強化すべきでしょうな。滅多に捕らえられるものではありませんが」
「ふむ。そう考えるともったいないことだが仕方あるまい。バラード。代わりを早急に用意するよう伝えてくれ」
「はい」
そのやり取りに、煮えくり返った。
強く噛みしめた奥歯がかすかに悲鳴をあげる。
そしてティースは確信した。
たとえあの男が善であろうと、悪であろうと――
(こいつらだけはッ……紛れもない、悪だ……ッ!!)
男の遺体を、騒ぎを聞きつけた構成員たちが手早く片付けようとしている。
拳が震えた。
誰かの視線が彼の表情を見つめているかもしれない。だが、そのリスクを理解してもなお、ティースは言い知れぬ怒りを隠しきることができないでいた。
……勘の鋭い人物ならば。あるいは彼のことをじっと観察する者がいたなら、今の彼の心の中を読みとるのは簡単だっただろう。そして、何人かはそんな彼の姿を視界の端にとらえていた。
ただ、彼の内心に気づいた者がいたかどうかは定かではなく――。
――じっと見つめていた者は、ただひとり。
「?」
少女は不思議そうに、彼の形相を見上げていた。
(ティース……?)
優しく、幼いころに別れたきりの父のようだった青年。
そのとき赤子だった少女は、父の顔などまったく覚えていなかったが、その雰囲気は覚えていた。その認識において、彼は父とそっくりだったのだ。
だから少女は彼になついて、彼と一緒にいることを望んだ。
だが、その一方で。
長く一緒にいるうちに、彼には父親とどこか違うところがあると、密かにそう感じていた。同一人物ではないのだからそれは当たり前だったが、それが最近、少女にとっては少しだけ物足りない気がしていたのだ。
しかし――
「ぁ……」
その、どこか違っていたひとかけらが今、欠けていた部分にピタリとハマったような気がした。
「……」
彼が浮かべていたのは、これまでに見たことのないあふれるような怒りの表情。なのに、どこかで見たことがあるような気がしている。
それは――遠い昔。
(パパ……?)
いつか、彼女の父親がこれと同じ表情で、彼女の祖父を見ていたことがあった。……あるような気がした。
なぜ?
少女には理解できない。
そして興味がわく。
それを知りたいと思った。近付きたいと思った。
幼いころ、自分の前から姿を消した父親と母親に。
「……ねぇ、ティース?」
騒動は1時間もすると完全に落ち着きを見せていた。
静まり返った地下2階の休憩所は、あんな騒ぎなどなかったかのようにいつも通り。騒動の後だというのに、セルマとティースは変わらずにその場所で折り紙をしていた。
「……はい」
ティースの気分は沈んだまま。
いけない。このままじゃいけないと思いながらも、いつものように笑顔を浮かべることができなかった。
先ほどの人魔の形相が脳裏をちらついて、どうしても顔が強張ってしまうのだ。
(ダメだ、このままじゃ……)
幸いだったのは、相変わらず遠くで見つめているセルマの護衛2人が、彼から見て背中側に居たことだろう。少なくとも表情を見られることはないし、声も少し小さくすれば聞かれることはない。
だが、しかし。
突然セルマから浴びせかけれた質問は、そんな彼をハッとさせるに充分なものだった。
「ティースは、どうして怒ってんの?」
「……え?」
ドキッとして顔を上げ、戸惑う。
……誰かに指摘される危険は感じていた。だが、それがまさかこの少女だとは想像していなかったのだ。
(まずい、笑わないと……)
ようやく浮かべたのは引きつった笑み。
「セルマ様――」
だが、さらなる戸惑いが、その言葉を途中でさえぎった。
(……え?)
驚きに目を見開いて少女を見つめる。
……そこにいる少女は、いつもと少しだけ違っていた。
常に手にしていたお菓子袋は遠くに置いたまま。彼の前では常に緩んでいたまん丸のほっぺも、今は引き締まっている。
その瞳は、ただひたすらまっすぐに――
「ティースが怒っているのは、おじいさまのせい?」
「!」
さらに核心へ。
心臓が跳ね上がり、背中に冷や汗が浮いた。とっさに背後の気配を探ったが、幸い動きは感じられない。
セルマの声はいつもと違って静かで、護衛たちにはその内容まで聞き取れていなかったのだろう。
今なら、まだごまかせる。
ティースはそう思い、口を開いた。
「怒ってなど――」
だが、それもまたすぐにさえぎられる。
「パパもね」
「?」
「パパも怒っていたことがあるの。今のティースとそっくりだった」
「……え?」
「でも、どうして怒ってんのか、そのときの私にはわかんなかった。だから教えて? ティースはどうして怒ってんの? 私、それがどうしても知りたいの」
無邪気な、しかし真剣な問いかけ。
「――」
自分を見つめる少女の瞳に、まるで心臓が鷲づかみにされたような、そんな錯覚を覚えた。
言葉に詰まる。
(あ……)
当然の『疑問』。
それはおそらく、はるか昔から少女の心に根付いていたものだろう。今まで芽吹くことすらなかった、ほんの小さな種。それは人として、当然に感じるはずのもの。
「パパはどうして怒ってたの? ティースは、どうして怒ったの?」
さらに問いかけてくる瞳。
「……」
すぐには答えられなかった。
今の彼はゲノールトの構成員だ。当然、その総帥である人物の行動に怒りを感じることなど、あってはならない。
「セルマ様。それは――」
ごまかさなくてはならない。
自分は怒ってなどいないと。それは勘違いだと。もしバレてしまえば、今までの努力がすべて水の泡となってしまう。いや、それどころか自身の命さえ危険にさらされかねない。
だが――。
答えかけて、再び、心臓が鷲づかみにされる。
――本当に、それでいいのか、と。
自分にはどうすることもできないと、そう思った。他人の歩む道。その進路を変えることは非常に難しいことだ。まして、少女はすでに両足をどっぷりと浸からせてしまっていたのだから。
だが……今、少女はまぎれもない疑問を抱いた。
否定することはおそらく簡単だろう。それがもっとも無難で、もっとも失敗の少ない道だ。
今の彼の失敗は、彼だけのものでは済まない。少女に道を指し示す行為が、この地下で助けを求める罪なき者たちの将来を奪ってしまうことにもつながりかねないのだ。
しかし。
その否定は、少女の中に芽生えたものを潰してしまうということでもある。年齢的にも、根本的な変化を受け入れるにはもうギリギリの境界線上だ。この異常な環境の中で、一度踏みつぶされた彼女の疑問が再び芽を吹くことは、おそらく二度とないだろう。
ほんの一瞬の、葛藤。
そして――
(っ……ダメ、だ……!)
賭けられない。
……それが、彼の出した結論。苦渋の選択だった。
かすかな、エゴにも近い小さな希望と、囚われた数多くの人魔の命。その2つはとても天秤に架けられるようなものではなかった。
たとえそれが、少女のわずかな可能性を奪ってしまう選択だったとしても――
「怒ってなど……いませんよ、セルマ様」
絞り出すように答えたティースに、セルマは不思議そうな顔をした。
「? そうなの?」
その表情は彼の言葉を疑っている風ではない。今の彼女は、おそらく彼の口にした言葉だったらすべて信用するだろう。
続けて、答える。
「ちょっと、気分が悪かっただけです……」
その言葉にやはり疑った様子もなく、セルマはパッと顔を輝かせた。
「なんだぁ。じゃあパパもあのとき、たまたま気分が悪かっただけなのかな?」
「……胸が」
問いには答えず、ティースはさらに続けた。
「胸が……苦しくなるのです」
その言葉に、セルマはきょとんとした顔をする。
「? なにかの病気なの?」
「いいえ」
まぶたが小刻みに痙攣する。
表情は苦しいまま。
「人の胸は……他人の痛みを感じられるように出来ているのです、セルマ様」
「他人の……痛み……?」
わからない顔だった。
「だから――だから、胸が苦しくなったのです……」
唇をギュッと噛む。
胸をグッとつかんだ。
――それが、精一杯の言葉だった。
それ以上は、踏み込めない。
だが、それが言葉足らずなのは、ティースにも充分にわかっていて――
「……よく、わかんないけど、でも、怒ってたんじゃないんなら、いいや」
案の定、セルマは理解できないままにそれを投げ出してしまった。興味をなくしたように視線がさまよい、近くにあったお菓子袋を手に取る。
それで、たった一度きりの機会は、完全に彼女の元を去ってしまったようだった。
「じゃあ、あそぼっ。折り紙の続きねー」
「……」
落胆がないといえば、嘘だろう。だが、もうそれ以上の言葉は思い浮かばなかった。
そしてすぐに気持ちを切り替えなければならない。
作戦の成功のために。
「折り紙、ですね……」
努めて冷静に、出来る限り明るく、ティースはそばにある折り紙を手に取った。
……仕方がない。それに――たとえ彼女の意識を変えることに成功したとしても、それが必ずしも彼女のためになるとは限らないのだ。
そう思いこませることで自分をなぐさめ、そしてティースは口を開いた。
「では、セルマ様。次はなにを――」
「あれっ?」
言いかけた彼をさえぎって、セルマが突然驚いたような声を上げる。
「ティース……手、怪我してるよ!?」
「……え? あ」
言われて初めて気付いた。
どうやら先ほどの騒動の際、拳を強く握りすぎて爪が皮膚を傷つけていたらしい。半分以上乾いた血の跡が手の平に残っていた。
セルマは眉をひそめて、
「痛い? 大丈夫?」
ティースは笑って答えた。
「大丈夫です。たいしたことはないですから」
「でも、痛そう……血が出るとね。すっごく痛いんだよっ」
顔をしかめるセルマは、まるで自分のことのようにそう言った。実際に、自分が怪我したときのことでも思い出しているのだろう。
「ええ。でも、ほら。もう血は止まっていますから」
「……」
ティースが示した手のひらを、セルマはおそるおそるという顔で見つめ、それを確認するとホッと息を吐く。
「ホントだ。じゃあ、もう遊んでも大丈夫……なの?」
そう尋ねてくる。
その遠慮がちな仕草が妙に可愛らしくて、ティースは思わず頬を緩めた。
「ええ。大丈夫ですよ」
「じゃあ……折り紙っ!」
「はい」
セルマはどうやら紙飛行機がお気に入りのようで、色々な種類の紙飛行機の作り方をせがんだ。とはいえ、ティースもそれほど多くを知っているわけではなく、最近では本を買ってきてそれを2人で見ながらの作業であった。
「えっと……こう、かなぁ……?」
「違いますよ、セルマ様。ここはきっと、こう……こう、です」
「……あ、そっか!」
ここに来てから1週間が経とうとしていて、彼女が他の場所で見せる傍若無人さも何度か目にすることはあったが、それでも相変わらず、彼の前では素直な少女だった。
だから……やはり残念なのである。
(……環境さえ。環境さえ変われば、きっと――)
そして、そんな中。
「……あ、そうだ! あのね、あのねー!」
突然、セルマが嬉々としてもらした一言。
「明後日ね。お出掛けなんだっ!」
「お出掛け?」
「うん! おじいさまと一緒にお出掛け!」
「……!」
ドクン、と、心臓が跳ね上がる。
……期せずして訪れた機会。彼の方から尋ねたのでなければ、ここで聞き返すことは、もちろんなんら不自然ではあるまい。
平常心を保つよう努力しつつ、ティースは口を開いた。
「どこに……ですか?」
「徒手のトーナメントがあるのっ!」
「トーナメント?」
一瞬、彼女がいつも語っていた地下での催しを想像してしまったが、わざわざ彼女が出掛けると言っている以上、それはおそらく『表の』ごくまともなトーナメントのことだろうと気付く。
この大陸で『トーナメント』と呼ばれるものは、一般市民から上流階級の人々までもがほぼ等しく楽しめる娯楽のひとつだった。
昔はそれぞれの国家に所属する騎士たちが名誉と賞金を争う場だったが、今は一種のショー的なイベントのことで、徒手、剣、馬上槍など、さまざまなスタイルが存在している。
ただ、もちろん参加する人々は真剣だ。昔と違って死人が出るようなことはほとんどないが、興行主が抱える強者に、街の腕自慢などが参加し、真剣勝負で賞金を争う。観客は入場料を払い、ひいきの選手に声援を送りながら試合を楽しむのだ。
「トーナメント、ですか……」
このゲノールトの地下で行われる催しは別にしても、彼女は元来そういったものを好む性格なのだろう。
(と、すると……うまくいけば――)
このリガビュールの街でトーナメントが行われる場所といえば、街の西にある闘技場しかなかった。
ここからの距離は結構ある。馬で移動したとしても街中のこと、スムーズでもおそらく1時間以上。セルマのような子供を乗せて馬車で移動すればもっとかかるだろう。
「では、お昼ごろからお出かけですか?」
「うん」
いくらこの街でも、一般的な催しである以上、そう遅くに試合が行われるはずはない。時間はおそらく正午から夕方にかけてだ。
「あさっては予選で、その次の日が決勝なんだけど、レオニード=アンサンクが出るから予選から見に行くの!」
「レオニード……?」
「ティース、知らないの? すっごく強いんだから!」
どうやら徒手の有名な選手のようだ。ティースは知らないが、それが彼女のひいきする選手らしい。
が、そんなことよりも。
(あさって……か)
ティースにとって重要だったのは、彼女とともにゲノールト総帥が出掛けるいうことだった。となれば、その護衛であるバラードももちろんついていく。
闘技場は多くの人が出入りする場所、それだけ危険も多くなるだけに、ついていかないはずがなかった。
……たとえばこっちで異常が発生し、知らせがバラードの元に届くまでに1時間。ただ、届いたとしてもすぐにゲノールト総帥のそばを離れるわけにはいかないだろう。移動時間も含め、3時間ほどは猶予があると見ていい。
3時間。脱出ルートの確保などの問題もあるし、決して楽観できる時間ではないが不可能ではない。
なにより、捕らわれているのは人魔なのだ。いったん牢から解放されてしまえば、いくらゲノールトとはいえそう簡単に鎮圧することはできないはずで、バラードが戻ってくる前に混乱に乗じて脱出することはおそらく可能だった。
(……これしかない)
幸運。偶然にも転がり込んできた情報。
(これしか――)
そうして、ティースは決意を固めたのだった。
オォォォ――ッ!
重々しく、禍々しい歓声。
「あさってのトーナメント、すっごく楽しみっ!」
「そうかそうか」
ゲノールトの地下4階。そこで催されるイベントは本日も盛況だった。
今日起きた不測の事態も、それほどの悪影響を与えることはなく。
「あーあ、早くあさってにならないかなぁ」
セルマはいつものように祖父であるゲノールト総帥の隣で、お菓子の袋を片手にしていた。だが、今日はトーナメントの方に気が移っているのか、いつもほど試合に集中していない。
そして――四角いリングの上。たいまつに照らされたその場所には、やはり半裸の男が立っていた。
体はほぼ無傷で、足下には地の七十三族と呼ばれる犬型獣魔の死体が転がっている。
「……2匹目!」
野太い男の声が響いて、2匹目の獣が檻の中に放たれた。
もう一度、歓声。
「ところでセルマ。今回はどこに賭けたんだね?」
「え?」
祖父の声で、少女の意識がようやくリング上へと戻る。
「あ、えっとねぇ……8匹目だよ」
「……セルマ」
その返答に、祖父は苦笑して、
「せっかく今度のは弱いと教えてあげたのに、それでは意味がないじゃないか」
「だって、弱いの嫌いなんだもん」
口を尖らせて答えるセルマ。
そこへ、すぐそばのバラードが薄い笑みで口を挟んだ。
「ま、よいではないですか。賭事はなにが起こるかわからないから楽しい。それに1匹目はまぐれとはいえあのように無傷で退けたのですから、万が一がないとも言い切れませんよ」
「それはそうだがの」
だが、リング上で繰り広げられる戦いは、徐々に『万が一』を否定する方向へと進み始めた。
手錠を填められたまま消極的な戦いを見せていた人魔はやがて、地の六十六族――ワニのような体躯の獣魔が皮膚から突き出した1メートル近い針に、その身体をとらえられたのだ。
パッ、と。
人魔の脇腹から血が飛び散る。
……その、瞬間。
「ぁ」
セルマはなにかに魅入られたようにその光景を見つめた。
焼き付いた。
「ぁ――」
薄暗い、四角いリング上に飛び散った、赤い飛沫。
赤い――赤い、血。
「……いたっ」
ハッとして、セルマは自分の手を見つめる。
手のひらは、なんともない。
……胸がドキドキした。
興奮?
いや、違う。
(あれ……?)
妙な悪寒が少女の体を覆っていた。
(なんだろ、これ……)
リング上。
もともと戦いに適した者ではなく、長い牢での生活がその体力も奪っていたのだろう。一撃を受けたところで、人魔は完全に戦意を喪失しているようだった。
2匹目にベットした人々は熱狂的な歓声をあげ、四角いリング上を見つめている。
そして再び、リング上に飛び散る鮮血。
「っ……!」
もう一度、心臓が破れんばかりの鼓動を打ち、セルマは息を呑んで視線を落とした。
体がぶるっと震えた。
「? どうした、セルマ?」
祖父の心配そうな声。隣のバラードも、眉をひそめて突然の変化を怪訝そうに見つめていた。
だが、今の彼女には届かない。
(なんで……?)
なぜだろう。
今の今まで、気付かなかった。
『……血が出るとね。すっごく痛いんだよ』
昼間、自ら語ったその言葉が脳裏によみがえる。
同時に見えたのは――彼女の世話をする青年の手の平に残っていた血の跡。
赤い、血の色。
痛い。――痛い。とてつもなく。
(おかしいよ……なんで、なんで血が出てるのぉ……っ!)
気付かなかった。
今まで、そんな簡単なことにも気付かなかったのだ。
ゆっくりと、視線を上げる。
リング上。
脇腹、右肩、両太股を突かれ、血を流し、苦痛にリング上をのたうち回る人魔。
その苦悶の表情が、フラッシュのように網膜に焼き付いた。
「っ!!?」
ガタンッ!
「……セルマ?」
「ぁ……ぁ……ぁぁっ!!」
両肩を抱え、セルマは震えながらその場にうずくまった。
祖父の疑問の声をかき消すように、どす黒い大歓声が会場全体に響き渡る。
(なんで……なんで――ッ!?)
震えが止まらない。心臓は胸を突き破らんばかりだ。
吐き気がせり上がってくる。頭がガンガンする。
……オォォォォ――ッ!
「っ!」
耳を塞ぐ。
(気持ち……悪い……)
リング上から響いたのは、おそらく試合の終了を告げる、断末魔の叫び声。
そして、歓声。
「気持ち……悪いよぉ……」
「セルマっ!」
少女の体が椅子から崩れ落ちるのを見て、祖父は自らそれを抱き留めて叫んだ。
「おい、誰かっ!!」
そばにいた数人が慌ててセルマの体を支え、医務室へ運ばんと抱きかかえる。
「おめでとうございますッ!!!」
場違いな実況が会場に響き渡った。
熱狂は、止まらない。
(……助けて……)
薄暗い会場。
異常な熱に覆われた空間。
見慣れたはずの場所。なのに、まるで見覚えのない別世界のよう――
その天井を薄目で見上げ、朦朧としていく意識――。
(助けて……ティース、助けて――……)
「――4匹目!」
セルマが退出した後も催しは続いている。
「……調子の悪そうな素振りなど、なかったのだがな」
医務室からの異常なしという報告にひとまず胸をなで下ろし、老人は隣のバラードに疑問の声を向けていた。
「直前まで、あさってのことをあれだけ楽しそうに話していたというのに」
「……ですな」
バラードはただそう答え、リング上の戦いを見つめていた。
いつもと変わらない、彼にとっては退屈なことこの上ない未熟な殺し合い。
「まだ子供ですからな。体の調子が悪くとも、無理をしてしまうことがあるのでしょう」
「ふむ。ま、少々無鉄砲に育てすぎたところもあるか」
「……」
バラードは無言のまま、相変わらずの鋭利な目付きで無表情にリングを眺めている。
ほんのわずかな疑心が、その脳裏を過ぎっていた――