その2『ごっこ』
「あー、お前の名前、なんつったっけ?」
「ティ……ティモセオス=アベールです」
ゲノールト地下1階の、とある部屋。
緑色の制服に身を包んだ、どうやら新入りらしい長身細身の男と、その指導を任された先輩らしき男が話している。
地下のために太陽の光は一切入ってこないが、照明で明るさは充分に保たれていた。
「ティモセオス? あー、覚えにくいな。……よし。面倒だから間をはぶいてティースだ。いいな」
「あ、はい」
微妙にドキッとしながらも、新入りらしい背の高い男――ティースはうなずいていた。
エルバートの口から潜入作戦が明かされて5日後。
キュンメルが事前に作ってあった『窓口』を通し、ティースはゲノールトの新人構成員としてこの地下に潜り込むことに成功していた。
彼が配属されたのはもっとも浅い地下1階の警備部門。そこで、とりあえずはこの先輩――ペドロとともに行動することになっていた。
(でも、偽名なんて必要だったのかなぁ……)
地下1階の各部の案内を受けながら、ティースは作戦を説明された5日前のことを思い出していた。
「……ティモセオス=アベール?」
「ああ。いや、ネイルがお前につけたあだ名を聞いていて、パッと思いついたんだけどな。そんなに悪くないだろ?」
まだ壁の陽カビは発光していたが、その光は徐々に弱まりつつあった。そろそろたいまつの明かりが必要になってくる時間だ。
「えー、ティモちゃんでいいんじゃないの?」
「どこもよくない」
口を挟んできたネイルに、エルバートは渋い顔でそう返した。
部屋の隅ではリューゼットが座り込み、まるで精神集中するかのように目を閉じている。
「ティモちゃん、お気に入りなんだけどなぁ」
そんなネイルのつぶやきはあっさりと無視されて、
「で、だ。ティース。ヤツらもこっちの動きを多少は警戒してるとは思うが、こっちに人間の協力者がいることは知らない。だから、お前が潜入すること自体はそう難しいことじゃないと思うんだ」
「ああ」
うなずいたティースに、エルバートは指を3本立てて、
「お前に探ってもらいたいことは3つある。ひとつめは仲間たちを含め、捕まっている魔の状況確認。獣魔までは手が回らないだろうから、今回は人魔だけでいい。ふたつめには牢の開け方。おそらく鍵が必要だろうから、鍵の在処の確認。そしてみっつめはバラード=グラスマンの動向。もし一時的にでもあの地下を離れるようなことがあるならすぐに知らせてもらいたい」
「……大変だな」
ティースは表情を引き締めた。
潜入ができたとしても、新入りの身分で動き回れる範囲はおそらくたかが知れているだろう。その状況でそれだけの情報を集めるのは、おそらく困難――いや、比較的冷静な見方をすれば、ほぼ不可能だ。
もちろんエルバートもそれは承知済みのようで、
「確実に全部やれって話じゃなくて、できる限りでいいんだ。お前が頑張ってくれたぶんだけ、後に控えた救出作戦の成功率が上がる。……最悪、仲間たちの居場所だけでもいい。ヤツらの魔力を封じる牢は内側にしか耐性がないから、鍵がなくとも力業でなんとかならないこともない」
そういったエルバートが指先をパチッと鳴らすと、そこでほんのわずかに風が渦を巻く。
「あとは、運悪くバラードの奴に出くわさないのを祈るのみだ。こっちは4人。バラードの奴さえいなければ、なんとかできる可能性はある」
「……」
バラード=グラスマンは腕利きのデビルバスターだという。
実際のところはどうかわからないが、あのフォックスレアで出会った女性デビルバスター、ルネッタ=フィッシャーと同等以上だと思っておいた方がいいだろう。
とすれば、ここにいる下位魔3人とティース程度では、どう逆立ちしても敵うはずがない。
確かに責任重大だった。
圧倒的に不利なこの状況を打破できるかどうかは、ティースの活躍にかかっていると過言ではないのだから――
「……おい、聞いてんのか、ティース」
「え」
ペドロの言葉に顔を上げるティース。
視線の先にあるペドロの少々ダルそうな顔は、もう一度説明するのはゴメンだと言わんばかりの表情をしていた。
「ええ、聞いてますよ」
もちろん地理の把握は重要なことだ。考え事をしてはいても、その説明はしっかりとティースの頭の中に入っていた。
「とにかく、非常事態には手近にあるその取っ手を引けばいいんですね」
その返答に、ペドロは満足そうにうなずいて、
「ああ、そういうこった。そうすりゃ、この地下の全域に異常が知らされる。なにもないのに間違って引いたりすんなよ。大変なことになっからな」
「……ええ」
10メートル強の間隔で配置された非常用の警報。仕組みはよくわからないが、それを全部黙らせることは難しそうだった。
さらに先へ進む。
「んで、ここが地下2階への階段だ。最初のうちは使うこともないと思うが、基本的にはここと、あと向こうにもうひとつある階段を使うことになる」
そう言って通路の向こう側を示すペドロ。
「わかりました。……ところで」
その位置をしっかり記憶し、ティースはさらに質問した。
「さっき途中にも2つほど、下に降りる階段みたいのがありましたよね。あれは?」
その2つは少々薄暗い印象の階段で、片方はなにやらうめき声のようなものが聞こえたし、もう片方は妙に静かだった。
ペドロは答える。
「ああ、あれは牢に続く階段だ。新しく捕らえてきた魔を処遇が決まるまで閉じこめておく臨時の牢でな。入り口に近いところにあったのが、デカくて汚ねぇ『ゴミ牢』。で、さっきそこにあったのが、小さくて綺麗な通称『娼牢』だ」
「……なんで2種類あるんですか?」
ティースの問いかけに、ペドロは鼻で笑って、
「デカい方はその名の通りゴミ箱さ。で、小さい方は使えそうな女を入れておくから『娼牢』って呼ばれてる。ほら。そっちはあんま汚くすると、商品価値が下がるだろ?」
「……」
その意味は理解できた。ティースの顔に一瞬だけ嫌悪の表情が浮かんだが、幸いペドロは気付かなかったようだ。
「ま、どっちだろうと今のところ俺らには関係のない話さ。そういや娼牢の方はいま、ガキが1匹入ってるって言ってたかな。あと1週間もすりゃ使い道が決まると思うけどな」
「……」
振り返って、ティースは先ほど見えた階段の方を見つめる。
(想像してはいたけど……ひどい場所だ)
エルバートの憤りがここに来て初めて実感できた。確かにこれなら、命を賭けてでもどうにかしたいと感じても不思議ではない。
そしてそれは、ティースにとっても同じだった。
「さて、1階はこんなもんだ。そろそろ戻るとすっか」
そんなティースの内心にはもちろん気付かず、ペドロはきびすを返した。
「ま、最近ちょっといざこざもあったが、それもほぼ終わったみたいだから、しばらくは面倒なことも起きそうにねぇよ。気楽にやっていこうぜ」
「……」
言葉を返す気にはなれず、ティースはただうなずいてペドロの後についていく。
と。
「――様ッ!! いったいどこへ!!」
「?」
背中の方から騒がしい声が聞こえてきた。
振り返ってみると、どうやら騒ぎは先ほどの階段――つまり、地下2階かららしい。
「……あちゃぁ。ついてねぇなぁ……」
同じく振り返ったペドロは、すぐに眉をひそめて片手で顔を覆った。
「ペドロさん?」
ティースが問いかける間にも、騒ぎは彼らのほうへ近付いてきている。
「……こっち来ねぇうちに行くぞ、ティース」
「え? どういう――」
「面倒な馬鹿ガキが来やがった」
ペドロがそう言った直後。
「……別にいいでしょぉっ!」
立ち去る間もなく、近付いていた騒ぎの原因はティースの視界にその姿を現した。
「ゲームも終わっちゃったし、今ものすっごく暇なの!」
「え――」
それを見て、ティースは唖然とする。
この場にふさわしくない、騒がしく甲高い声
この場にふさわしくない、真っ赤なドレス。
そして、この場にふさわしくない――
(こっ……子供?)
階段を駆け上がり、逃げるように走ってきたのはどう見ても10歳程度の小太りな女の子だ。リンゴのように赤いほっぺ、身にまとっているのは赤いドレス。左右で縛った長い髪が走るたびに揺れている。
(な、なんでこんなところに子供が――)
それはこの殺伐とした暗いイメージの場所に、あまりにも似つかわしくないものだった。
「セルマ様! 困ります!!」
その後を追いかけるのは20代半ばぐらいの男。180センチぐらいあるだろうか、長身で体格の良い男だ。
そんな男が、赤いドレスの女の子を必死に追いかける図は、ある意味シュールな光景だった。
「おい、ティース。知らんぷりしとけ」
「え……」
振り返ってみると、ペドロは壁の方を向いてなにやらメモを取るような素振りを見せている。……もちろん、その手にはペンも紙も握られてはいない。
「ほら、早くしろ。とにかく目を合わせんな」
「そ、そんなこと言っても……」
その言葉に従おうとしたが、手にはなにも持っていなかったし、とっさに芝居しようにもなにも思い浮かばず。
そうこうしているうちに、駆けてきた女の子がティースに気付き、視線がピッタリと重なってしまった。
(あ……)
「……?」
慌てて視線を逸らそうとしたが、女の子は不思議そうにティースを見つめると、その速度をゆっくりと緩めて――そして。
「……」
ピタリ。
ティースの目の前で立ち止まった。
「あ、えっと……」
女の子は首をかしげ、のぞき込むようにティースを見上げている。後ろでは、ペドロがコソコソと逃げていく気配があった。
「……」
そして女の子の表情が少しずつ変化する。
まるで、なにか大発見をしたかのような、そんな表情に。
「えっと……」
とにかくなにかしゃべらなければ――、と、ティースはそう思い、
「ど、どうしたんだい? なにか――」
言おうとした、その瞬間だった。
「……――パパぁッ!」
「えっ?」
一瞬、悪寒がティースの背筋を過ぎった。女の子が突然、ティースの胸に向かってダイブしてきたのである。
幸いなことに、彼女の年齢はまだ、彼の特異体質の対象にはなっていなかった。
ただ――
「うッ!!?」
胸に走った衝撃に息が詰まる。
10歳程度の女の子。身長はせいぜい130センチぐらいだろう。が、その横幅と重量はなかなかのものだった。
決して支えきれない体重ではなかったにしろ、不意打ちでとっさには対処できず。
「うわ……っと……っと――てッ!!」
見事に尻もちをついてしまい、尾てい骨に突き抜けるような痛みが走る。
が、その痛みを充分に味わう間もなく、事態はさらに不可解なほうへと流れて――
「おかえりなさい、パパ! いつ!? ねぇ、いつ戻ってきたの!?」
女の子は押し倒した彼の首筋に抱き付くと、いきなりそうまくし立てたのである。
当然、ティースは目を白黒させて、
「パ、パパぁ!? ちょっ、ちょっと、君――」
「パパ、パパぁっ……!」
「ちょ、ちょっと……」
まるで子犬のように頬をこすり付けてくる女の子。
追いかけてきた男。騒ぎに気付いた構成員たち。
それらが徐々に集まってくるのを見て、思わずティースの口から乾いた笑いがもれる。……笑うしかなかった。
潜入任務の基本、その1。
『なるべく目立たないように行動すべし』
(さ、最悪だ……)
そんなこんなで。
潜入初日から、ティースは有名人としてのデビューを果たすことになってしまったのだった。
陽カビはすでにその日の活動を終え、薄暗い地下室には2組のたいまつが灯っていた。
ぼんやりと浮かび上がる室内には3つの影。
部屋の隅で目を閉じる男と、テーブルに着いている少年。そして、地べたにペッタリと座り込み、折り紙のようなもので遊んでいる女性。
エルバート、リューゼット、ネイルの3人である。
「それで、ティースからの連絡はあったのか?」
壁際でリューゼットが目を開き、口を開いた。
言葉を向けられた先にいたのはエルバートだ。
「ああ」
テーブル上のその手には1枚の紙切れが握られている。
1日1回の連絡。住み込みに近い形でゲノールトに潜入ししているティースとの連絡手段は限られていた。
「指定通りの場所にきちんと置いてあった。とりあえずはこの方法でうまくいきそうだな」
ティースが短い休憩時間を利用して、外のあらかじめ指定しておいた場所に現在の状況を記した手紙を置く。それを互いにやり取りするというのが、彼らの考えた連絡手段だった。
それは割と危険な方法ではあったが、現状ではそれ以上にいい考えが思いつかなかったのと、作戦決行までの限られた期間であればどうにかなるだろうという判断である。
「ねぇねぇ、リューちゃぁん。折り紙で『やじろべえ』ってどーやって作んの?」
「それで、その内容は?」
「ああ。それが、さ。あいつ、いきなり有名人になっちまったみたいだ」
エルバートは少しだけ困った顔をする。
「ほぅ。なら、失敗か?」
「……ねぇ、リューちゃんってばぁ」
「そうとも言い切れないみたいだけどさ」
そう言ってエルバートは軽く畳んだ紙を差し出す。
リューゼットはすぐ受け取った紙に視線を滑らせて、
「セルマ=ゲノールト? ……ゲノールトということは」
エルバートはうなずいて、
「ああ。どうやらゲノールト総帥の孫娘らしい。そいつになつかれたってことみたいだ」
リューゼットは興味深そうに目を細めて、
「ほぅ。それで。どうするつもりだ?」
「ああ。本当なら目立たないようにやって欲しかったけど、逆に利用できる可能性もあると思う。だから、ティースにはそういう方向で――」
「……ねー、リューちゃぁん。やじろ――」
ゴン!
「あたっ!」
木片が前頭部を直撃して、ネイルは思いっきりのけぞった。
「いったぁ……」
「少し黙れ」
ゆっくりと、リューゼットが腕を下ろす。
「それに、それは『やじろべえ』ではなく『やっこさん』の間違いだろう」
「あ! そーそー。その、やっこさん!」
頭をさすりながらそう言ったネイルに、リューゼットは興味なさそうに視線を外して、
「口は災いの門という言葉を知らんのか? 貴様はまぎれもない馬鹿なのだ。馬鹿は馬鹿なりにおとなしくしていた方がいい。……それで」
何事もなかったかのようにエルバートに視線を戻す。
「つまり、その娘から情報を聞き出すということか?」
「あ、ああ」
さすがにひどい言い様だなと思いつつも、いつものことなのでエルバートもすぐに気を取り直し、
「そんなのが近付いてきたってことは、少なくとも疑われてはいないってことだろうし、うまくいけば普通にやるよりも成果が――」
ゴァンッ!!
「うわッ!?」
ものすごい打撃音とともに、エルバートの目前でリューゼットの体が前方に90度折れ曲がった。
その光景はまさに『やじろべえ』を彷彿とさせるものだったが――いや、それはともかく。
そんなリューゼットの背後。
たいまつの明かりに浮かび上がっていたのは、椅子を振り下ろした……いや、振り抜いた体勢のネイルだった。
「リューちゃんこそ、知らないの? 馬鹿って言ったほうが本当は馬鹿なんだよ?」
リューゼットは動かない。……いや。
「……ネイル」
びよん、と、まるでバネ仕掛けのオモチャのようにリューゼットが身を起こした。
そして、まるで地獄の底から響いているような超低音の声を発する。
「貴様……な……」
「なぁに、リューちゃん?」
一瞬の――不気味な――沈黙。
そして、
「……今日こそ、貴様の息の根を止める」
どぉぉぉぉぉん!!
「うわぁっ。リューちゃん、今日もイライラ大爆発だねぇ」
「貴様が言うな」
ごん! どぉん! ごわっしゃぁぁぁぁん!!
「……また始まった」
エルバートはため息とともに顔を覆った。
決して珍しいことではないといえ――
「はぁ……」
諦めたように肩を落とすと、席を立つ。
そして乱闘を繰り広げる2人に向かい、言い放つ。
「俺はティースの残してった手紙、また宿に置いてくるからさ。戻ってくるまでには決着つけといてくれよ。あと、見つかんないようにな」
どがぁぁぁぁぁぁん!!
(……あの地下室、大丈夫かな)
去り際に聞こえたひときわ大きな破壊音にやや不安になりながらも、エルバートは地下室を出た。
「はぁ……」
吐く息が白い。外は日も沈み、冷たい風が辺りを支配していた。
この気温では客引きも大変だろうな――、などと、まったく関係のないことを心配しつつ、フードをかぶってブルッとひとつ身震いする。
それから手の中に視線を落とした。
「しかしマメなヤツだな、あいつ。そりゃ、毎日連絡した方が安心するだろうってのはわかるけどさ」
手紙――それはティースが残していった、リィナへの手紙である。
最初の1通だけで音信不通となればきっと不安になるだろうという配慮から、ティースがあらかじめ書いておいた複数の手紙を何日かおきにリィナのいる宿に届ける――、という仕事をエルバートは請け負っていたのである。
ほぅ……っ、と、もう一度白い息を吐いて、エルバートは夜空を見上げると、
「……ま、無理に協力してもらってんだ。このぐらいはやってやんなきゃ、な」
そうつぶやき、夜の空気が支配するリガビュールの街を東へと向かって歩いていったのだった。
それからさらに3日が過ぎた。
「えっと、ここをこう折って――」
「ああ、いえ、違います。こっちを……こう、こうしてから、そっちを――」
ゲノールトの地下2階。奥の階段を下り、ふたまたの通路を左に30メートルほど進んだ場所に、ちょっとした休憩所のようなところがある。
本来はゲノールトの構成員が仮眠を取ったり、ちょっとした博打を楽しんだりする場所だ。
しかしここ3日、その部屋に入る構成員たちの姿はめっきり見かけなくなり、代わりそこにあったのは――
「んー……!」
「ああ、ダメですよ、セルマ様。丁寧にやらないと、きちんと飛ばなくなってしまいますから」
どこか場違いな赤いドレス姿でそこに座り込み、どうやら折り紙らしきものを折っている少々太めの少女――セルマ=ゲノールト。
なかなかうまくできないのか、もともと丸々とした頬をさらにふくらませ、表情にはイライラした様子も見え隠れしている。
だが、普段の彼女から見れば、それでも根気よくやっているほうだった。彼女をよく知るゲノールトの構成員に言わせれば、その『我慢強さ』は奇跡にも近い光景である。
「……」
離れた場所から無言でその様子を見つめているのは、彼女の護衛を務める男2人。
そして、
「よく見ててください。ここを、こうやって――」
彼女のそばで折り紙を教えていたのは、言わずとしれたティースである。
「こう……こうかな……」
「ええ、そうです」
「……できた。これでちゃんと飛ぶの?」
ようやく完成した紙飛行機を手に、無邪気な笑顔を見せるセルマ。
ティースは笑いながら小さく首をかしげてみせて、
「さぁ、それはやってみなければ」
「えー!」
不満そうな声を上げるセルマだったが、その表情には達成感のようなものが浮かんでおり、機嫌は良さそうだった。
少なくとも、暇つぶしという彼女の目的は充分に達せられていたといえる。
(ふぅ……っ)
思った以上に楽しそうなセルマの姿に、ティースも安堵の息をもらしていた。
(……でも、まさかこんなことになるとはなぁ)
あの日の出会い以来、ティースは彼女――ゲノールト総帥の孫娘、セルマ=ゲノールトにいたく気に入られてしまったらしく、その翌日にはいきなり本来の任務を免除され、代わりに彼女の遊び相手をするように命じられていた。
彼女のわがまま振りはゲノールト構成員の間ではどうやら有名だったらしく、ペドロが態度で示したようにやや手に余っている状態。
だからティースをあてがうことでおとなしくなるなら、彼らにとっても願ったり叶ったりだったのだろう。
「ティース、もっと食べる?」
ちなみに彼女もまた、ペドロの考え出したあだ名(?)で彼のことを呼んでいた。
「あ、いえ」
いつも持ち歩いている菓子の袋を差し出したセルマだったが、ティースは丁重に断って、
「もう残り少ないようですし、私は遠慮しておきます」
「いいよいいよ。なくなったらまたもらってくるからさー」
口の周りを粉砂糖でわずかに汚し、セルマはニコニコしながらそう言った。
「……」
そんな彼女にティースは笑顔を返し、やはり丁重に断りながら、
(普通の女の子、なんだよなあ……)
少し意外に思っていた。
やや食欲旺盛なところはあるものの、年相応の、ごく普通に愛らしい女の子。少なくともこの2日間、ティースの目から見たセルマはそのように映っていた。
ただ、周りはそうではないと言う。
わがままで飽きっぽく、気まぐれ。すぐに癇癪を起こす。祖父の言うこと以外は聞こうともしないし、気に入らないことがあると人にも物にも当たり散らす――、本来の彼女はそんな性格らしい。
ただ、今日までティースは彼女のそんな姿を一度も目にしていなかった。そしてそれはどうやら驚くべきことだったようだ。
菓子を片手に紙飛行機で遊ぶセルマを眺めながら、ティースはもうひとつ息を吐く。
(……そろそろ色々情報を聞き出さなきゃ、な)
もちろん当初の目的は忘れていない。
捕らわれているキュンメルメンバーの状況。
牢の鍵のありか。
そしてバラード=グラスマンの動向。
ふたつめとみっつめについては、彼女が知っている可能性はそう高くはないだろう。だが、あれだけ組織内を自由に動き回っている彼女のことだ。捕らわれている人魔の居場所ぐらいは知っていてもおかしくない。
ただ――
「……」
視線を背後に向けると、そこには壁に背を預け、こちらを見ているセルマの護衛役が2人。どこかやる気なさそうにも見えるのは、これまで彼女に散々困らされてきた結果だろうか。
ただ、そうはいっても、彼らがいる以上は2人きりになれるわけではない。セルマに言われてかなり離れた場所から遠巻きにしているとはいえ、普通の音量で会話すれば内容は聞こえてしまうだろうし、小声で話したとしてもセルマがそれに合わせてくれるとは限らない。
それにへたな探りを入れて、セルマがそれを誰かに話しでもすれば絶体絶命である。
(さて、どうしようか……)
考えるティースの目の前を、すいーっと赤い紙飛行機が飛んでいく。
(さりげなく、うまく会話を運べれば――)
と。
「ティース。あのねー」
「……はい?」
紙飛行機を追いかけて拾い上げたセルマが、唐突に話しかけてきた。
「パパも得意だったみたいなんだ、折り紙。ティースは見た目以外もパパそっくりなんだねー」
「そうなんですか?」
思わず苦笑するティース。
基本的な紙飛行機の作り方を教えただけだ。得意というほどのことではない。
(でも……得意だった『みたい』、か)
その言葉に、ティースはセルマの境遇へと思いを馳せていた。
……父親がここにいないことは確実だ。だが、母親という人物の存在も、その話もまだ耳にしたことがない。詳しい事情はもちろん新参者であるティースの知るところではなかったが、少し気になるところではあった。
「あ、そうだ!」
と。
飽きたのか、あるいは満足したのか。何度か紙飛行機を飛ばして遊んだ後、セルマは何事か思いついた様子でティースの元へ走り寄ってくる。
そして得意げに満面の笑顔を浮かべると、
「ティースにおもしろいもの見せてあげるよ!」
「……おもしろいもの?」
「ついてきてー!」
そう言うと、セルマは忙しなく駆け出した。その丸々と太った体型に似合わず動きが素早いのは、やはり子供だからだろうか。
チラッと護衛の2人を見ると、こっちの動きに気付いたようだ。ため息を吐いて、寄りかかっていた壁を離れる。
(……おもしろいもの、か)
腰を上げ、ティースも彼女の後を追うことにした。
階段を上がり、いったん地下1階へ。
階段の上で待っていたセルマが、上がってきたティースの姿を見て再び走り出す。
「こっちだよ」
「……」
曲がり角ごとに立ち止まって手招きするセルマの向かった先は、ティースも知っている場所だった。
「……あ、セルマ様」
そこにあった階段を下りると、入り口付近にいた構成員が不審そうな顔をしつつも立ち上がって敬礼する。
だが、セルマはそれをまったく無視して、
「こっちこっちー!」
「……」
すれ違いざま、構成員の男が説明を求めるようにティースを見たが、もちろん説明するヒマがあるはずもなく、ティースはただ頭を下げてその横を通り過ぎた。
そして――
(……ここが)
そういうものがあると初日に聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだった。
そこはペドロが『ゴミ牢』と呼んでいた場所である。
どことなく他の通路より薄暗くジメジメした空気。階段を下りた時点で奥の方からうめき声やかすかな怒号のようなものも聞こえていた。
だが、セルマは気にした様子もなくどんどん先に進んでいく。
そこにあったのは、少し大きめの牢が2つ。
(これは……)
ひとつがだいたい10畳ぐらいだろうか。昼だというのに明かりらしい明かりは階段付近から照らされるかすかな照明のみでひどい悪臭がした。
牢の中には計4人の男たち。目の細かい格子をつかんで何事か叫んでいる男。その後ろで無気力にうずくまる男が2人。その奥、ボロボロになった薄い布の上に横たわり、うめき声を上げている男がひとり。
もちろん全員が人魔だった。
「見て、ティース」
セルマは牢の前に立って、ティースを振り返った。
格子をつかんでいた男が怒号を上げてセルマに手を伸ばそうとするが、格子の目は指が入るか入らないかの大きさしかなく、それは叶わなかった。
「セルマ様……これは?」
ティースはやや当惑しながらセルマにその意図を尋ねる。
彼女の無邪気な様子と、牢の中の悲惨な様子が、あまりにもアンバランスで、そしてあまりにも衝撃的な光景に見えたのだ。
セルマは言った。
「コレね、全部おじいさまが捕まえてきたんだよ。すごいでしょー?」
「……」
直後、牢の中で小さな爆発が起こった。
「ゴフッ!!?」
格子に捕まっていた男が転倒する。どうやら牢の中で魔力を行使しようとして、跳ね返されたらしい。
「くっ……き……さまらァァァァッ!!」
手首を押さえ、床にはいつくばったままにらみ上げる男の姿に、ティースの視線は釘付けになった。
その男は捕まって日が浅いのだろうか。うずくまる2人や後ろで横になったままの男に比べると、まだ元気が残っているようだった。
「ここを出たら、貴様らを真っ先に殺してやるッ! 爪を剥ぎ、手足を切り落として、内臓を引きずり出してやるからなァァァ――ッ!!」
「……」
わずかにかすれた声で呪詛の叫びを上げる人魔の男に、ティースは思わず顔をしかめた。だが、セルマはその言葉がまるで聞こえていないかのようにニコニコしながら牢の中を指さして、
「ティース、コレ、なにに使うか知ってる?」
「……」
言葉が出せず、ティースはただ首を横に振る。
……背中に冷や汗。そこには2人の護衛の視線が突き刺さっており、ティースは不審な動きをしないように努めるので精いっぱいだった。
「コレね、あとでゲームに使うんだよ。ティース、見たことないでしょ? 今度おじいさまにお願いして、ティースにも見せてあげるね」
「ゲーム……ですか?」
なんのことかティースにはわからない。だが、それがゲームなどと呼べるかわいらしいものでないことだけは容易に想像がついた。
「コレを動物と決闘させるの。それで何匹目まで勝ち抜けるか予想するんだよ。おもしろいんだからぁ」
「……」
「たまに強いのがいるんだけどね。そのときは手を縛ったり、腕をかたっぽだけもいだりしてハンデを付けるの。だいたい3匹か4匹ぐらいでダメになっちゃうんだけど、私はいつも6匹か7匹目に賭けるんだ。だって、その方がドキドキして楽しいの!」
「……」
濁流が頭の中に流れ込んできたような錯覚があって、ティースはめまいを覚えた。
身振り手振りを加え、顔を赤くし、丸々としたほっぺを緩ませて楽しそうに話すセルマの姿に、ティースの冷や汗はまったく止まらなかった。
見てはいけないものを見てしまったような、そんな感覚。
「こないだは惜しかったんだよー! 7匹目に賭けてね、6匹目まで行ったの。当たってたらね、えっと、えっと……確か50倍ぐらいだって。すごいでしょー!?」
「あ……ああ」
震える唇を意識的に引き締める。
「でも7匹目ではぜんぜんダメでさー。なにもできないで頭ガブってされちゃった。おじいさまが言うにはね――」
どす黒いものが心臓に流れ込む。
吐き気をもよおす。
(……ダメだ。しっかりしろ)
言葉はいつもと変わらず無邪気なまま。なのにその内容は、普通の人間であれば気分が悪くなって当たり前の、あまりに残酷な内容だった。
それが普通のゲノールト構成員たちの口から出たのであれば、ティースもここまでショックを受けなかっただろう。
だが、たった2日とはいえ一緒に過ごした、一見普通の子供にも見える無邪気な彼女の口から出たものだったから、なおさら衝撃的だった。
(……異常だ)
わき上がった怒りは、目の前で残虐な描写を続けるセルマではなく、その背後に存在するものに向けられた。
(ゲノールト……)
この場所で産まれ、この場所で育ってきたセルマという少女。その彼女にとっての日常。彼女にとっての常識。
それこそが、このゲノールトが犯してきた罪の証明でもあった。
(許せない……!)
ティースの奥歯がギリッと音を立てる。
「でね! 近い内にまたゲームが――……ティース?」
「!」
歯ぎしりの音に気付いたのか、あるいは表情を悟られたのか。不思議そうなセルマの問いかけに、ティースはハッと我に返った。
「ねぇ、ティース。どうかしたの?」
「……いいえ。楽しそう、ですね」
それでも、心に爪を立てながらそう答えるのがやっと。
幸いセルマは疑問を持った様子もなく、すぐに表情を輝かせた。
「そうでしょ!?」
「……」
まるで父親に誉められた幼い娘のように。
複雑な思いがティースの胸に去来する。
(この子は――)
どうすればいいのだろうか。……いや、どうすることもできやしないだろう。
結論はわかりきっていた。
ティースの立場で彼女にしてやれることはなにもない。むしろ、この先もここで生きていく彼女にとっては、罪悪感を覚えず、純粋に楽しんでいられるこの状態こそがもっとも幸せだと言えるのかもしれない。
「セルマ様……」
ティースはギュッと唇を引き締め、出来る限り不自然にならないように問いかけた。
「他に……こういう人たちはいないのですか?」
「こういう人?」
一瞬セルマは理解できない、という顔をした。
が、すぐに、
「あ、ああ。コレのこと? ……変なの。コレは人じゃないよ?」
「コレ……は、他にいないのですか?」
再び催してくる吐き気を押さえながら、言い直す。
「うん。いるよ」
セルマは自慢げにあっさりと答えた。
「地下3階のCブロックにはもっとたくさんいてね。4階でゲームがあるの。次か、その次ぐらいには連れてったげるからね」
「そうですか……」
(3階のCブロック――)
おそらくそこが、大半の人魔たちを捕らえておく場所なのだろう。とすると、キュンメルのメンバーもそこに捕まっている可能性が高い。
このゲノールトの地下組織はどうやら3階がメインフロアとなっているらしく、一番複雑な作りになっているのもその3階らしかった。AブロックからFブロックまでに分かれていて、相互のブロックは普段開いていない非常通路からしか行き来できないと聞いている。
だから、その中で目的地がCブロックだと判明したことは、救出作戦を実行する上では非常に重要な情報だった。
……だが、しかし。
(この子は……このままでいいんだろうか)
ティースの気持ちはまったく晴れなかった。
それは自分の考えるべきことではないと、そうわかっていながらも。
「それじゃ、いこ。ティース」
満足したのか、セルマはその後も『ゲーム』の魅力について説明しながら、『ゴミ牢』を離れていく。
陰鬱な気分を必死に隠し、ティースもまたその後をついていくことにした。
階段を上がり、再び地下1階へ。
そのまま地下2階への階段へと戻る――その途中。
「あ。せっかくだから、こっちも見てみる?」
「え?」
セルマが立ち止まったのは、その途中にあった別の階段だった。先輩構成員のペドロから聞いた話によれば、通称『娼牢』と呼ばれる牢のある場所だ。
「こっちはよくわかんない」
セルマはティースの返事を待たずに階段を下りていく。
「なんかゲームには使わないみたいなの。それに、弱そうなのばっかなんだよ」
「……」
その牢の通称を知っているティースには、その理由がわかる。だが、セルマは理解していないようだった。
(これが……娼牢か)
先ほどの牢と違い、明らかに清潔感がある。陽カビが通路をしっかり照らしており、悪臭もまったくなかった。
「あっ……セルマ様!」
そこにも2人の見張りがいて、牢はひとつ。見張りのひとりは壁にだらしなく座り込んでうたた寝していたし、もう片方は大きなあくびの途中。
セルマの姿を見て2人とも姿勢を正したが、セルマはやはりまるで眼中に入っていない様子でまっすぐ牢の方へと進んでいく。
ティースもまた、2人の見張りに小さく頭を下げながら牢に近付いた。
「……」
牢の中にいたのはひとりの少女だった。
歳はセルマより少し上、12、13歳ぐらいだろうか。先ほど捕まっていた魔に比べると、きちっとした清潔な洋服を身につけ、ベッドもあり、おそらく定期的に風呂にも入っているのだろう。やや内側にカールしたクセのあるセミロングの髪は艶があったし、肌もキレイで健康的だ。
だが、その少女に待ち受ける運命を想像すると、ティースの心はやはり暗くなる。
(こんな子供が――)
チラッとセルマの様子をうかがってみた。
相手は歳が近い女の子同士、あるいは違った反応を見られるかとも思ったのだ。
だが、セルマは腰に手を当て、つまらなさそうに牢の中の少女を見下ろすと、
「コレならきっと1匹目でダメになっちゃうよねー。こんな弱っちいの、すぐ捨てちゃえばいいのに。ねえ?」
「……」
同意を求めてきたセルマに、ティースは無言で目を閉じ、眉間にしわを寄せた。
どうやら彼女の目には、すでに歪んだフィルターがかかってしまっているようだ。目の前の存在が自分と似たような姿をしていることにすら、おそらくは本気で気づけていないのだろう。
「やっぱつまんなかったね。行こ」
「はい……」
……と。
異変が起きたのは、セルマがきびすを返し、ティースもその後に続こうとして、最後に捕まっている魔の姿をもう一度確認しようと牢の中に目を向けた、そのときだった。
(……え?)
ずっとうつむいていた牢の中の少女が、いつの間にか顔を上げ、彼のほうを見つめていたのだ。
そして――
(――!)
視線がぶつかった瞬間、脳裏の奥の『なにか』が刺激された。
――どこかで、見たことがある。
とっさに、そう思った。
思考の時間は、ほんの2、3秒。
思い当たったのは――
(……エルに、似てる……?)
そう。
もちろん性別の違いはある。だが、その少女の顔は確かにエルとよく似ていた。
まるで、兄妹じゃないかと思ってしまうほどに――
(兄妹……?)
まさか、と、ティースは思った。
彼に妹がいるという話は聞いたことがないし、それがたまたまここにいるというのもおかしい気がする。
だが、それでもなお、思考はその可能性を否定しきれなかった。
(でも、それなら俺に言ってくれるはず……)
隠す理由が見当たらない。
とすれば、他人の空似だろうか。
いや、しかし――
(……あまりにも似てる)
少女はティースの記憶の中にあるエルの姿とあまりにもそっくりだった。彼が髪型を変えて多少の女装をすれば、まったく見分けがつかなくなるのではないかというほどに。
「……」
少女はティースを見つめたままじっと動かなかった。
よく見るとその表情にも違和感がある。そこにあったのは自分の未来に対する絶望などではなく、秘められたなんらかの強い意志。
そしてティースを見つめる目は、まるで問いかけているようにも見えた。
――なぜ、あなたはそこにいるの? と。
「ッ……!」
見透かされたような気がして、ティースは視線を逸らした。
そしてそのまま、いつの間にか遠くなっていたセルマの背中を追いかける。
(……なんだったんだ、あの子)
胸に残ったのは、やはり不思議な感覚。
結局その日、その少女の顔がティースの頭から離れることはなかった。
日が沈み、エルバートたちの隠れ家をたいまつの明かりが照らしている。
エルバートの手の中にある1枚の紙切れは、その日のティースからの定期連絡だった。
それに目を通した後、エルバートは安堵の息をもらして、
「そうか。あの子はまだ、娼牢から移されていないみたいだな……」
と、つぶやいた。
どこに行っているのか、そこにリューゼットとネイルの姿はない。
揺れるたいまつの炎。テーブルの上には彼が街へ出る際に使う灰色のローブと、そのそばにはほどかれた赤いリボンがあった。
「仲間たちの安否は依然不明、か」
手紙を置いて、エルバートの視線は天井を仰いだ。
そして、
「ティース。早めに頼むよ……」
祈るようなひとりごとがもれた。
「みんなが、無事なウチに――」