その1『四角い処刑台』
リガビュールの街は、ネービス領内で随一の歓楽街だ。
その中心部は他の街とまったくの逆に、昼の間は人もまばらでひっそりとしているが、夜になると煌々と明かりが灯り、いったいどこに隠れていたんだと言わんばかりの人々であふれ返る。
普通の街であれば夜は犯罪が増える時間帯であるが、この街に限ってはその常識は当てはまらず、そこを取り仕切る非合法組織たちによってほぼ完璧に近い警備が敷かれ、少なくともそこに遊びに来た客は安心して外を歩き回ることができる状況が作られていた。
そしてそんなにぎやかな中心部を取り囲んだ地域には、たくさんの宿が並んでいる。
中心に近いあたりは誰かを連れ込むことを前提とした宿ばかりだが、そこからもう少し離れるとようやく一般の人々が住む住宅地と、遊び以外の目的でこの街に滞在する人のための普通の宿があった。
リガビュールとはそういう街である。
さて。
そんなリガビュールの中心部からだいぶ離れた一般住宅地の、とある廃屋。
その地下に密かに作られた部屋は、一辺が10メートルにも満たない狭い空間で、真ん中に質素なテーブルが置かれてはいたものの、それ以外にはなにもなく閑散としていた。
壁には陽カビと呼ばれる、昼間だけ光を発する魔界の特殊なカビが張られていたが、今は夜中ということもあって用をなしてはいない。その代わり、壁には2組のたいまつが掲げられていた。
そこは、罪のない魔を救済する人魔たちの組織『キュンメル』が、この街の非合法組織『ゲノールト』対策のために作った秘密の隠れ家である。
そしてそこには、4人の人物がいた。
「なあ、エル。そろそろ具体的な話を聞かせてくれないか」
そう言ったのは、ひょろっとした体型の青年だ。
ティーサイト=アマルナ。通称ティース。18歳、男。
見ての通りの長身細身で、背の高さからくる威圧感よりも頼りなく優しそうな印象の方がはるかに強いという、見るからに人の良さそうな外見。それに加えて『女性アレルギー』という奇妙な業をも背負う男だったが、これでもデビルバスターを目指して鍛錬の日々を送るひとりの戦士である。
ただ――普通デビルバスターといえば、とにかく『魔を退治する者』という存在のはずだが、このティースという人物については、決してそれだけではない考えの持ち主だった。
……たとえ魔であろうと、悪意がなければ敵ではない。
それが、彼の信念である。
それはあるいは当たり前のことのように感じるかもしれないが、少なくともここでの一般常識ではなかった。
この大陸では毎日、数多くの人々が魔の手によって命を落とし続けている。魔の多くが人に害をなす存在であることは紛れもない事実であり、であれば、数少ない例外については存在しないものとして、そのすべてが人間の敵であるとする考え方も間違いだとは言い切れないだろう。
このティースとて、子供のころはそれと変わらぬ考え方をしていた。それがくつがえされたのは、かつてあった偶然の出会いによるものであり――それはともかく。
今の彼はそんな、大陸の常識からすれば少々変わった思想の持ち主であり、そんな彼であるからこそ、魔のために、魔を助けるために動くという、普通では決して考えられない行動を取ることもあるのだ。
それが今、彼がこの地下室にいる理由である。
さて、そんなティースの隣。
「わかってる。この4人ならなんとかできるはずだ。なあ、リューゼット」
13、14歳ぐらいと思われる背の低い少年がそこに座っていた。
エル――エルバート=ザザ=ロージーというのが、その少年のフルネームだ。
ミドルネームという概念が存在しないこの大陸において、名が3つに分かれているのは人間ではないことの証――すなわち、その尖った耳が示しているように、彼が『魔の者』であるということを示している。
名と姓の間に入るのは種族名であり、人間風に言うと、彼はザザ族のエルバート=ロージーという人物だ。
そして――そのエルバートの正面には一組の男女がいる。
「しかし、まさか人間が我々の手助けをしてくれるとは」
エルバートの言葉にそう返し、改めてティースを見つめたのは、精悍で真面目そうな顔つきの長身の男性だった。
背の高さはティースとほぼ同じぐらい、おそらく185センチぐらいはあるだろう。歳のころは20代前半。声もいかにも男らしい、それでいてよく通る声で、軽装の鎧を身につけている。
その耳はエルバートと同じように尖っていた。
そしてもうひとり。
「ホント、私もビックリ。ん~~~~、外れないなぁ」
少しのんびりとした口調でそうつぶやいたのは、少し小柄な女性だ。
身長はエルバートよりやや大きい程度、150センチなかばというところだろうか。なかなか可愛らしい顔立ちをしているが、年齢的には隣の男と同じ20代前半だろう。
こちらもやはり耳が尖っており、前髪はどうやって整えているのか、触覚が2本生えたような形をしている。
うつむいてテーブルの下でなにかカチャカチャやっているのは、どうやら知恵の輪のようなオモチャで遊んでいるらしかった。
「ねぇ、リューちゃん。ビックリだねぇ」
「ネイル。その呼び方はやめろと言っている」
その2人。
リューゼット=カサ=ドゥギラス。
ネイル=メドラ=クルティウス。
見た目からもわかるようにどちらも人魔である。本人たちによればリューゼットは光の下位魔。ネイルは炎のやはり下位魔だという。ともにキュンメルのメンバーのようだ。
その2人にティースは答えて、
「そりゃ、俺もゲノールトとかいう連中のやっていることは許せないと思うから」
「そうか。助かる」
リューゼットは短くそう言ってうなずいた。
――リガビュールに存在する地下組織『ゲノールト』。それはこのリガビュールにいくつも存在する非合法組織の中でも特に異質な存在である。
俗に『デビルスレイバー』とも呼ばれる彼らは、魔を奴隷のように商品として扱い、ときにはお互いに戦わせるなどして見せ物とし、ときには若い女性の人魔に娼婦のような仕事をさせて、一部の特殊な趣味を持つ金持ちを相手に商売している裏の裏の組織だった。
そしてエルバートやリューゼットたち『キュンメル』は、そんな連中の元から罪のない魔を助け出すことを目的とし、主に下級の人魔たちによって結成された組織である。
本来はネービス領を中心として大陸の各地にも勢力を持つそれなりに大きな組織なのだが、このリガビュールに派遣されたエルバートの仲間たちは1週間ほど前にゲノールトによって一網打尽にされており、それ以降は街の警戒が厳重となったため本隊の救援すらあおげない状態におちいっていた。
そして現在残っているメンバーがこの3人。ティースを含めてもたったの4人。
この4人で、彼らはゲノールトに捕まった仲間たちと、もともと捕らわれている罪のない魔たちを救出しなければならないという状況だったのである。
「それで?」
リューゼットがエルバートに質問した。
「ゲノールトの中はどうだったんだ? 一応、内部にまでは潜入できたのだろう?」
ああ、と、エルバートはうなずいて、
「外の警備はそうでもなかったんだ。けど、中はさすがに厳しかったよ。一応、地下2階までは行けたけど」
「ん~~~~、外れないよぉ」
カチャカチャ。
「仲間たちは見つかったのか?」
「……いや」
リューゼットの問いかけに、エルバートは首を振った。
「それ以外の捕まっている魔は何人か見つけた。けど、みんなの姿までは。もっと深いところに捕らわれてるのか、あるいは……」
「そうか。せめて命は無事だといいが」
「んん~~~~」
ガチャガチャ。
「正直なんとも言えないな。人間どものやることだ、もしかしたら、もう……」
言ってから、エルバートはハッとした様子でティースを見る。
「いや、ごめんティース。別に人間全部が悪いって意味じゃなくて」
「わかってるよ、エル」
特に気分を害すこともなく、そう答えたティース。
エルはティースにとって、約4年ぶりに会った幼いころからの友人だ。
人間に対してかなり友好的だった当時に比べると、『人間ども』という表現にやや残念な思いを抱きもしたが、少なくともゲノールトという卑劣な集団に対してそういう言葉が出てしまうのは、また仕方のないことだとも思っていた。
リューゼットの問いかけは続く。
「仲間たち以外に、そこに捕らわれている魔がどのぐらいいるのかはわかるか?」
「俺が確認できたのは地下2階にいた3人だけだよ。たぶん、新しく連れてこられた連中だと思う。10代後半ぐらいの男が2人と、それとは離れた牢に10歳そこそこぐらいの女の子がひとりいた。獣魔に関してはわかんない」
エルバートの返答に、リューゼットは腕を組んでうなずいた。
「その3人が商品として扱われる予定の連中だとすると、仲間たちはまったく違うところに幽閉されているのかもしれんな」
「ああ。たぶん別々に扱われて――」
「……んっ!!」
バキッ。
「あ、外れたっ! 外れたよ、リューちゃん!」
話の流れをまったく無視し、嬉々としてリューゼットに知恵の輪を示すネイル。
「……」
全員の視線が彼女に向けられたが、その手の中にあった金属は、明らかに変な方向に歪んでいた。
ネイルは不思議そうな顔をして、
「でも変なの。さっきまで何回やっても外れなかったのに、ちょっと力を込めたら簡単に外れちゃったよ。変なオモチャだね」
「心配するな、変じゃない。変なのは貴様の頭の方だ」
「?」
リューゼットの突っ込みも、ネイルにはまったく理解できてないようだった。首をかしげながら、やがてネイルは知恵の輪だったものをポイッと投げ捨てると、
「ねぇ、キミ」
ニコニコしながらティースを見つめる。
触覚のような髪が小さく揺れて、
「キミは、もしかしてデビルバスター?」
「え?」
ティースが驚いた顔で見つめ返すと、その言葉に反応したエルバートとリューゼットも彼の方を見た。
ティースは少し慌てながら手を振って、
「い、いや違うよ。なんで急に?」
逆に質問するとネイルはうなずいて、
「そう」
チラッとティースが腰にぶら下げている剣を見やる。
「キミの持ってる剣、異様な力を放っているからそうなのかなーと思って」
「あ、いや、これはもらいものなんだ。……ああ」
その言葉でようやく思い出したティースは、剣を鞘ごと手にとってその柄を示し、そこにはまっていた宝石――『細波』をエルバートに見せた。
「エル、お前も覚えてるだろ? 別れぎわにお前とリィナにもらったこの宝石」
「え?」
エルバートはマジマジとその宝石を見つめて、
「……ああ。そういやそうだったっけな」
「へーぇ」
ネイルはその宝石とエルバートの顔を見比べて、
「そっか。じゃあ昔の友達だっていうのはホントなんだ」
「嘘を言っても仕方ないだろ。なあ、ティース」
「ああ。……ネイルさん。もしかしたら俺のことを信用できないのかもしれないけど、俺は本当にゲノールトのやってることが許せないと思ってるんだ。それは、信じて欲しい」
ティースは真摯にそう言ったが、ネイルは別に気にした風もなく、
「ん、それは別に疑ってないよ? 疑う理由もないし。私はただ、キミがデビルバスターだったらいいなと思っただけ」
「え?」
それを補足するように答えたのはリューゼットだ。
「デビルバスターが味方だということになれば、色々と都合がいいだろう」
「……あ、なるほど」
確かに、デビルバスターであることは、その実力の証明でもある。彼らにしてみれば、心強い味方ということにもなるだろう。
(この感じだと、別に気にする必要はなさそうか……)
デビルバスターという言葉を出すと余計に警戒されるんじゃないかと考えていたティースだったが、それは無用な心配だったようだ。
ティースは少し申し訳なさそうにして、
「残念だけど、俺はホントにそんなんじゃないんだ。一応、将来的にそれを目指してはいるけどね」
「ほぅ。なら、腕にはかなりの自信があるのか?」
リューゼットの目が少しだけ興味の色、というか、少し異常とも思える輝きを帯びた。
「い、いや。まだそこまでは……」
ティースが自信なさげにいうと、エルバートが少しもどかしそうな顔をする。
「なんだよ。はっきりしないなぁ」
「アテにしない方がいいってことなんじゃない? 見た感じも頼りなさそうだしね」
相変わらずニコニコしながら、ネイルがストレートにそう言った。悪意はないのだろうと思うが、なかなかにきつい言葉だ。
「う……」
反論できずにいると、エルバートはそれをフォローするように、
「ま、そこまで大きな期待はしてないさ。いや、アテにしてないってことじゃなくて、無茶な高望みはしてないってこと」
それから少し目を細める。
「少なくとも、バラードのやつをなんとかしてもらおうなんて思ってるわけじゃない」
「バラード?」
もちろん聞き覚えのなかったティースに、エルバートは答えた。
「バラード=グラスマン。ゲノールトに雇われている腕利きのデビルバスターだよ。こないだ仲間が一網打尽にされたのも、あいつのせいなんだ」
「デビルバスターが、ヤツらに協力してるのか?」
思わず低くなったティースの声に、エルバートはため息を吐いて、
「バラードのやつは何年も前から、魔を生け捕りにして売り払うようなことをずっとやってきてたヤツなんだ。それが実力を見込まれて、最近ゲノールトの用心棒として加入したってわけさ」
「……そんなひどいやつが」
怒りがティースの中に生まれる。
それは魔を憎んで無差別に退治しようとする連中よりも、さらにタチが悪いように思えた。
「確かにひどいやつだけど、腕は確かだ」
エルバートもいまいましそうに唇を噛んで、
「俺たちのような下位魔の集団じゃ、たばになってかかったって歯が立たない。とにかく、いかにあいつに出会わないようにみんなを助けるか。今はそれを考えなきゃ」
「……」
確かに、それは事実だろう。
その言葉にうなずいて、そして4人はこれからの行動について具体的な話を始めたのだった。
オォォォ――ッ!
歓声。
決して数は多くない。だが、どことなく重々しく、そして黒い感情を呼び起こす歓声だった。
薄暗い中に浮かび上がっていたのは、いくつものたいまつが灯った中央の四角い空間。まるで檻のように高い金網に包まれたその空間にはひとつの人影があった。
「ぁ……はぁっ……!」
男だ。歳のころは20代前半だろうか。
服装は腰に白い布のようなものを巻いているだけでほぼ半裸。右の肩口はざっくりと裂け、そこからは今も血が流れ出ている。顔も太股も胴体も傷だらけで息は荒く、立っている姿もおぼつかなかった。
手にはひと振りの剣。両手首は手錠のようなものでつながれていた。
「……6匹目!」
どこからともなく、野太い男の声が響く。
ガシャン、と音がして、四角い檻の中に獣が放たれた。
歓声。
野太い男の声は続く。
「6匹目は氷の七十一族でございます! 見ての通り狼に似た姿をしたこの獣魔は、我々の世界にいるそれと姿形、特性こそ大きく変わりませんが、それをはるかに上回る身体能力を持っており、今の疲労したチャレンジャーにはかなりの難敵であることが予想されます!」
再び歓声が起こる。
「6匹目でのエンドにベットしていただいたお客様の配当は16倍となっております! どうぞご期待くださいっ!」
「……」
しかしその獣と向き合う男の耳には、野太いアナウンスも歓声もほとんど届いていなかった。
――氷の七十一族。最下級の獣魔であり、普段の状況であれば、たとえ手錠を掛けられていたにしても男の敵ではなかっただろう。
なにしろその男は、その尖った耳が示すように下位族とはいえれっきとした人魔であったから。
だが、ケガと疲労からすでに意識は朦朧としていた。手にした剣を振り上げるのもままならず、足はほとんど動かない。
男は決して不幸なだけの人物というわけではなかった。この世界にやってきてたくさんの悪さをしてきたし、それを楽しんでいたこともある。自由な身だったとすれば、そのうち幾人かの人間の命を奪う存在となっていただろう。
これは、そういう意味では天罰と呼べるものだったかもしれない。
……ただ。
ワァァァァ――ッ!!
大歓声。
鋭い牙をのどに突き立てられ、男の意識は途絶えていた。噴水のようにあふれ出した血が、四角いリングを汚していく。
「おめでとうございますッ!!!」
リング上の獣魔は極限の飢餓状態にあった。
生々しい水音と肉を食いちぎる音が響く。
それは常人であれば目を背け、吐き気を覚える光景だったかもしれない。しかしその場にいる人間で、リング上からあえて目を背けようとするものはひとりもいなかった。
「みごと的中された皆様には、配当金がのちほど支払われます! どうぞ、次の試合にもご期待くださいませ!」
つまらなさそうに見つめる者。
逆にギラギラした目で凝視する者。
そこにいたのは、その2種類の人間のみだ。
いずれも、とてもまともとは思えない――いいや、そう言い切ってしまうのはナンセンスだろうか。
ここでは、これが『正常』なのだ。
「……つまんないの」
そんな中に、ひとりの少女がいた。
年齢は10歳ぐらいだろうか。長い髪を左右のてっぺんに近い場所でまとめ、赤いリボンで縛っている。
体型はやや……いや、かなり太め。両手にはリンゴを揚げたお菓子、あるいはドーナツのようなものが握られており、それをほぼ定期的に口に運んでいた。
その場には似つかわしくない赤いドレス――と言いたいところだが、この場にいる人々はほとんどが正装だったから、それは決して浮いていたわけではない。
そして少女はリング上の光景を見つめたまま口をとがらせ、やや太めの足をブラブラさせていた。
「セルマ」
そんな少女に声をかけたのは、すぐ隣に座っていた老人だ。老人といってもその体には精力がみなぎっており、見たところ少女の祖父、あるいは父――どちらかはわからないが、厳格そうな顔に似合わず、少女に向けた口調は優しかった。
「お前はどこに賭けたんだね?」
老人の言葉に、セルマという名の少女はますますふくれっ面になって、
「私、7匹目に賭けてたんだもん! あと1匹頑張ってくれれば当たりだったのにさー!」
お菓子を口にしながら抗議する。
「そうかそうか」
老人はセルマの頭を優しく撫でて、
「だったら次こそは当てなきゃならんな」
その言葉にセルマの顔がパッと輝く。
「次はどんなの? 強い? 弱い?」
「さぁ、それは言えんよ」
「ケチー」
再び口を尖らせたセルマに、老人は笑った。
端から見れば、単なる親子、あるいは祖父と孫の触れあい。
だが、それは確かに異常だった。
「……」
そんな老人のすぐ隣には、背の高い男が立っている。
短く切りそろえた髪、精悍な顔つきで眼光は鋭く、まるで獲物を狙う獣のような雰囲気を漂わせていた。
歳は30歳前後だろうか。やはり正装だが、腰にはひと振りの剣を携えている。
たとえ素人でも、ひと目見ただけで彼がただ者でないことは感じ取るだろう。
「さぁ、次の試合は――!!」
野太い男の声とともに、再び四角いリングにひとりの人魔が連れてこられる。
歓声。
そこは――たとえどれだけ勝ち残ろうとも、決して生きて出ることのできない、いわば処刑台だった。
リガビュールの中心から少し東に移動した場所。
そこにひとつの屋敷がある。建物自体はそれほど大きくはなく、ミューティレイク邸などに比べると少々貧相ともいえるかもしれない。だが、その屋敷――ゲノールトの本領は、外からは見えない部分、つまりは屋敷の下に存在する、広大な地下空間にあった。
その地下には4つの出入り口がある。
ひとつめは、ゲノールトの屋敷内部からつながる、来賓のための出入り口。
ふたつめは、屋敷の敷地外の目立たない場所にある、地下で働く者たち専用の出入り口。
みっつめは、屋敷の裏側、小さな林の中に隠された『商品』を乗せた馬車などが出入りできる大きめの出入り口。
そして最後は、普段はからくりによって堅く閉ざされた、屋敷から遠く離れた場所へと繋がる非常口――だ。
その中で、もっとも侵入しやすいと思われるのがふたつめ、つまりは地下で働く者たち用の出入り口である。
屋敷の中の入口はもちろん論外、みっつめの大きな入口も警備が厳重であり、最後の非常口はそもそも出入口がどこにあるのかつかめていない。
その点、ふたつめは普段から頻繁に関係者が出入りしていることもあって、ただ侵入するだけならそこまで難しいことではないだろう。
早朝。
その入り口から地下へと下りていった2人の男は、腰に剣をぶら下げている。片方は寝癖の残った頭をかき、もうひとりはあくびをしながら。
地下とは思えない広大な通路を迷うことなく進み、やがて通路の脇にあった階段を下りていく。
「おい、交代の時間だ」
そこで見張りをしていた男たちにそう告げ、2人は入れ替わりにそこの椅子に腰掛けると、すぐに彼らが見張るべき対象――牢の中へと視線を向けた。
小さな牢だ。
その中に捕らわれていたのは、たったのひとり。
「……」
牢の隅っこでじっと床を見つめていたのは、華奢で小柄なかわいらしい少女だった。
歳は10歳そこそこだろうか。肩口ぐらいまで伸ばした髪はクセっ毛なのか、自然に少し内側へカールしている。その耳はやはり尖っており、彼女もまたゲノールトに捕らわれた人魔のひとりのようだ。
見張りの男達が入れ替わっても、少女はピクリとも動こうとはせず、声も一言も発しなかった。あるいは自らの境遇と行く末に不安を感じているのだろうか。
そんな彼女を閉じこめているのは、ある程度の魔力を遮断する特殊な牢と、やはり魔力を封じるための特殊な拘束具である。この2つによって、反抗することも、そこを抜け出すこともできないようにされていたのだ。
「やれやれ。今日もガキのお守りとはなぁ」
牢の中に異常がないことを確認し、片方の男がそうつぶやくと、それにもう片方が笑って、
「いいじゃねえか。向こうの汚ねえ牢屋で汚ねえ男どもの監視をしてるよりは」
と、言った。
確かに、その少女の捕らわれている牢は他のものに比べるとかなり清潔で、彼女が着ている物を見ても、いくらか優遇されているらしいことがわかる。
「それにほら、よく見てみろよ。ガキっつっても見てくれは悪かねえだろ?」
「なんだよ、お前。もしかしてこんなガキが趣味なのか?」
「まさか。けどま、世の中にゃそういう趣味のヤツもたくさんいるだろうし、こいつは下のリング行きだけは免れるだろうよ」
その言葉に、もうひとりの男は頭の後ろで手を組んで、
「ま、こっちの牢に回されたぐらいだからそれは間違いないだろうけどさ。……俺だったら金をもらってもゴメンだね。こんなヤツらを相手にしてちゃ、いつ寝首をかかれるか怖くておちおち寝てもいられない」
「もっともな話だな」
笑って、男たちはもう一度牢の中に視線を向ける。
「……」
中の少女は少しだけ顔を上げて、2人の男を見つめていた。一言もしゃべらないが、少なくとも彼らの言葉は理解しているようだ。
「……しかし」
そんな少女の視線に、片方の男が少しだけ声をひそめた。
「妙なガキだよな。連れてきた連中の話によりゃ、街の外をひとりで、旅の格好でフラフラしてたらしいが」
「いや、別に珍しくはねえだろ? こいつら、迷子みたいにこっちの世界に出てきちまうこともあるらしいしさ」
男はそう言って笑い、おどけた様子で牢に向けて手を振ってみせたが、少女はすぐに視線をそらし、そっぽを向いてしまった。
「けどよ」
もうひとりの男は眉をひそめて、
「こんな歳の割に、捕まって暴れるでもなきゃ、泣きわめくわけでもない。たまにこんな風に妙な目で俺たちを見やがる。……どことなく、不気味な感じがしねえか?」
「はっ、今さらなに言ってやがんだ。こいつらなんて、全部が全部、不気味に決まってんだろ」
「……ま、そうかもしれんが」
男はそれでも、まるでお化けを見るかのような目で少女を見た。
「……」
聞こえているのかいないのか。
少女はじっとして、やはり黙ったままだった。
早朝の風景といえば、有名なのが学園都市ネービスにおける学園生たちのいわゆる『登校風景』であるが、このリガビュールの街ではそれよりもほんの少しだけ早い時間帯、仕事を終えた女たちが疲れた顔で自宅へと戻っていく姿をたくさん見ることができる。
これもある意味、この街の名物であると言ってもいいだろう。
そんな朝。
この日のリガビュールは晴天だった。
「ぅ……」
中心からは大きく離れた、街全体から見れば外れといってもいい場所に1件の宿がある。
中心から離れれば離れるほどもちろん利便性は低くなるが、遊び以外の目的でこの街に来る数少ない人々にとっては、料金が安い割に環境の整っている宿が多いこともあって、それなりに人気の地域でもあった。
その、少し古びた宿の2階。
4つある部屋の中のひと部屋。
「うぅん……」
そこには、椅子に腰掛け、ベッドに顔を乗せ、頭にフードをかぶったままの姿で寝ている人物がいた。
いや、寝ていた、と過去形にするのが正しいか。
「……ぁ」
たったいま目を覚まし、ゆっくりと顔を上げた人物は、おそらく180センチ以上はあろうかという長身だった。
その体格からはもちろん男性を想像するだろうが、体を起こすとともにフードの奥から現れたのは、艶のある美しい長髪に優しげな瞳を持つ女性の顔である。
リィナ=グレイグ=クライストというのが彼女のフルネームだった。その名が示すとおり、もちろん人間ではない。
「……えっと」
彼女はほんの一瞬だけ寝ぼけまなこだったが、すぐに周囲の状況を確認し、それから思い出した顔をする。
「あ、私、いつの間にか寝て……」
ハッとして、広い部屋の、中央が敷居でさえぎられた向こう側へとその視線を向ける。
そこにはもうひとつのベッドが置かれていたが、誰の姿もなかった。
「……ティース様」
状況を思い出したその穏やかな瞳に、心配の色がよぎる。
(息抜きに遊んでいる……ということであれば、いいんですけど……)
このリガビュールが遊ぶための街だということは、リィナもかろうじて知っていた。
ただし。
(宿の人は、朝まで帰ってこないのは珍しくないって言ってたし……ティース様もきっと遊びに夢中になっているだけなんですよね……?)
もしもリィナが普通の人間であれば、その『遊び』の内容を即座に察し、おそらくティースがそういった遊びをしないことにも気づいたのだろうが、残念なことに彼女はそれをまったく理解できていなかった。
彼女は『王魔』と呼ばれる、人魔の中でも最上級に近い種族の者である。王魔にとっての男女の交わりとは、あくまで子孫を残すための義務であり、どちらかといえば面倒事。そんな彼らには『色遊び』という文化自体が存在しないし、簡単に理解できるものでもなかったのである。
ただもちろんそんな彼女も、ティースが連絡もなしにこんなにも長い時間戻ってこないことに関しては、さすがに疑問を抱いてもいる。
外へ探しに行こうかと思う気持ちも当然あったが、彼女の立場上、へたに外に出ることでかえってティースに迷惑をかけるおそれがあり、昨日彼が出かける際にも、絶対に外に出ないようにと釘を刺されていたという事情があった。
(……まずは朝食を食べて。それでも戻ってこなければ、ひとまずエルさんとの待ち合わせ場所までは行ってみよう)
考えた末、リィナはそう決心する。
時計を見ると、朝食の時間まではまだもう少しの余裕があるようだった。
「ふぅ……」
心配をため息に乗せて、リィナはベッドに腰掛ける。
自由に動けない自らの身が恨めしく思えた。もし自分が人間であったなら、昨日のうちに迷わず彼を探しに行ったものを――と。
(……でも、あと少しの辛抱)
すべてが順調に行ったなら、おそらくあと1ヵ月も経たないうちに、彼女は人間へ――それとほぼ区別のつかない存在へ変わることができるはずだった。
(待ち遠しい……でも)
目を閉じ、天井を見上げるようにして、リィナはその脳裏にひとりの人物の姿を思い浮かべる。
(私よりも、エルさんの方がもっと……)
そこに浮かんでいたのは、小柄で可愛らしい親友の姿。
リィナが人の世界で暮らしたいと考えるようになったのは、ティースたちとの出会いがきっかけである。
彼や彼と一緒にいたシーラという少女との出会いによって、リィナは他人と触れ合うことを知り、友情や愛情、それらをすべてひっくるめた『情』というものを知った。それを知ってしまったからこそ、それがほぼ存在しない故郷――なにもかもがモノクロのようなその場所に居られなくなってしまったのである。
だが、そんなリィナとは違い、エルはティースたちと出逢う以前から人間に対して強い興味を持っていたようだった。
小さいころから人間の世界のことを自ら学び、魔と人間が理由もなく争っていることに対して疑問を感じ、偶然にも事故によってこの世界に流されたときには、右も左もわからないリィナを連れ、そして人間――ティースたちと交流することに成功したのである。
だから、人間世界への憧憬ということであれば、リィナよりもエルの方がよほど長く、そして強いはずだった。
コン、コン。
「あ、はい」
ノックの音に我に返る。同時にかすかな魔力があふれて、リィナは人の姿へと変化した。
「失礼しますよ」
入ってきた中年の女性は宿の主人の妻だった。この宿は家族でやっているらしく、従業員も主人とその妻であるこの女性、それに娘らしき少女がいるだけである。
少し細身ながら、人の良さそうな笑顔にハキハキとした口調。遠慮なく『オバちゃん』とでも呼んでくれ――、と、明るく言ったこの女性には、リィナも初対面のときから好感を持っていた。
「少し早いかもしんないけど、ほら。朝ごはん持ってきたよ」
そう言いながら、オバちゃんは部屋を見回して、
「あら? お連れさんはまだ帰ってないのかい?」
「ええ」
テーブルに食事を置いて、オバちゃんはあきれ顔をした。
「なんだい。こんな美しいお嬢さんをほっぽっといて。どうしようもない男だねぇ」
「?」
その言葉の意味がリィナにはいまいち理解できなかったが、それでもティースが責められていることはわかったので、反射的にフォローする。
「でも、たまには息抜きも必要だと思いますから」
「……あんたねぇ」
だが、オバちゃんはますます渋い顔になった。
「そんな風に物わかりばかりよすぎると、都合のいい女で終わっちまうよ。たまにはガツンと言ってやんないと」
「ガツン、ですか?」
首をかしげたリィナに、
「そ。嘘でもいいのさ。こう、眉毛をピッとあげて、怖い顔でにらみ付けてさ」
オバちゃんは指で眉を無理やり吊り上げてみせる。
「あまりひどいようなら、もう口も利いてやんないよ、ってさ。たまにはきつーくお灸を据えてやるのも愛情ってもんだろ?」
リィナは驚いた顔をして、
「それが……愛情なんですか?」
「ああ、そうさ」
得意顔のオバちゃんに、リィナはしばし考えていたが、
「……わかりました。そうした方が、彼のためなんですね」
やがて真剣な顔でうなずく。
会話は明らかにかみ合ってないはずなのだが、なぜか通じ合ってしまったようだ。……多大な誤解を含んだままで。
そんなリィナを見て、オバちゃんは再びため息をつくと、
「はぁ、やれやれ。こんな子がいて、どーしてあんなところに遊びに行くかねぇ」
「?」
「いや、こっちの話さ。さて、それじゃあ私はそろそろ――あ、そうそう」
出て行きかけて、オバちゃんはふと思い出したように振り返る。そして今までの陽気な調子とは打って変わって、少しだけ怖い口調で言った。
「どうもね。最近、この街に魔が入り込んだらしくてさ」
「えっ?」
リィナはドキッとする。
(まさか……でも――)
この街に来たときは、ティースが持っていたミューティレイクの紋章のおかげで、なんの疑いを持たれることもなく入ることができていた。
それ以来、リィナは宿からほとんど出ていないし、宿の人間に正体がバレたということもないはずである。
(バレたなら、こうして話していられるはずがないし……)
そのリィナの考え通り、オバちゃんの口から出たのは彼女の心配を否定する言葉だった。
「先月の終わりあたりかな。どうも魔の仕業らしい事件が何度か起きててね。ここ1週間ぐらいは鳴りを潜めているからもう終わったのかもしんないけど、一応外出するときには気をつけな」
「……そうですか」
ホッとすると同時に、それは同じ魔である彼女にとって、非常に心苦しい事件だった。
「ま、安心しなよ!」
リィナの顔がくもったのを別の意味に取ったのか、オバちゃんはわざとらしいぐらいに大きく笑って、
「ここにいる限り、このあたしがお客には指1本触れさせないから! 大船に乗ったつもりでいてちょうだい!」
「……ありがとうございます」
リィナが顔を上げておかしそうに笑うと、オバちゃんは目を細めて、
「ホント可愛いねぇ、あんた。あたしの若いころにそっくりだよ。まあ背は、見ての通りずっと小さかったけどね」
「あ、いえ。でも、私はちょっと大きすぎちゃって……」
「いやいや。あんたぐらい可愛けりゃ、背の高さなんざ関係ないさ」
オバちゃんは座ったままのリィナと同じ高さの目線で、彼女の全身をもう一度見回すと、
「んじゃ、そういうことだから。さっきのあたしの言葉、忘れるんじゃないよ」
「はい。ありがとうございます」
バタン、とドアが閉まる。
さっきの言葉――それがティースのことなのか、魔の事件のことなのかはわからなかったが、リィナはひとまず彼女の心遣いに深く感謝した。
軽口、世間話、気遣いの言葉……それは、彼女が以前までいた故郷ではまず考えられなかったやり取りだ。
(……やっぱりこっちの世界に来て良かった)
胸の奥が暖かくなるのを感じながら、リィナはテーブルの上へと視線を向けた。そこにあった出来立ての朝食に食欲をそそられ、テーブルへと着く。
王魔とはいえ、彼女だってお腹は空くし、長身なだけあって食べる量は人よりも少し多い方だった。
――と。
「?」
カサッ、という音がどこかで聞こえて、彼女は朝食に伸ばしかけていた手を止める。
(なに……?)
視線を動かし、音のしたドアの方を見ると、下の隙間から白いものがはみ出しているのが見えた。
「……」
椅子を立って警戒しながらドアへ向かう。その向こうの人の気配はすでに消えていた。
「手紙……?」
拾い上げてみると、折り畳まれた白い紙切れだった。ドアを開けて外を見たが、やはり誰もいない。
鍵をかけてテーブルへと戻ったリィナは、首をかしげながらも椅子に腰を下ろす。
そしてゆっくりと、折り畳まれた紙を開いたのだった。
場所は変わって、キュンメルの地下隠れ家。
「おい、ティース。ちゃんとリィナに手紙を持っていってやった――」
そう言いながら地下へと戻ってきたエルバートは、そこにあった光景を見て言葉を止めた。
そして、怪訝そうに眉をひそめる。
「……なに、やってんだ?」
「なにって……」
振り返ったティース。
陽カビが光を発する時間になって、煌々とまではいかないまでも、地下室は普通に行動するのに支障ない程度の明かりに包まれていた。
そんな中、リューゼットは我関せずという表情で壁際に座り込んでおり、そして中央のテーブルには、ティースとネイルの2人がいる。
「ほらほら。次はそっちの番」
「は、はぁ……」
急かされて、ティースは視線を戻した。
その視線の先――テーブルの上にあったのは、木片で組まれた高さ10センチほどの塔である。ただバランス良く組まれただけのものなので、少しの衝撃で崩れ落ちてしまいそうだ。
そして2人の手元には、その塔から抜き出したものであろう木片がいくつか。
「じゃあ……」
ティースがおそるおそる塔に手を伸ばした。ゆっくりゆっくりと。塔を構成する木片のひと切れをつかみ、やはり、ゆっくりゆっくり引き抜いていく。
「うわっ……」
塔が揺れた。
グラ、グラ……ピタ。
「ほっ……」
「ふふ。じゃあ、次は私の番だね」
その様を楽しそうに見つめていたネイルは、ティースとはまるで正反対の手付きでほぼ無造作に木片を手に取る。
さすがに引き抜くときはゆっくりだったが、ティースとは違って淀みない抜き方だった。
だが。
「あっ……」
どちらにしても限界だったのだろう。平気かと思われた塔は、その欠片を失うことによって完全にバランスを失い、バラバラとテーブルの上に崩れ落ちてしまった。
一瞬の沈黙。
ティースの背後でエルバートのため息が聞こえた。
「この状況で、よくそんなことをしてられるもんだよ、まったく」
「い、いや……」
なんだかんだで思わず夢中になっていたティースは、慌てて弁解しようとしたが、
「ああ、わかってるって。ネイルが言い出したんだろ?」
エルバートは呆れたようにそう言った。
どうやら彼女のこういう行動は初めてでもないらしい。
「とにかくお前の手紙、言われたとおりリィナのところに置いてきたから。……宿と部屋、間違ってないだろうな? 部屋の中までは確認してないから、違ってても責任は持てないぞ」
「ああ、間違いないよ」
ホッと息を吐いてティースはそう答えた。
――リィナに宛てたその手紙とは、『しばらく戻れないが自分のこともエルのことも心配しないで宿で待っていてくれ』と、簡潔に言えばそういう内容のものである。
もちろん、彼女がティースを探しに街に出てしまうことを止めるために書いたものだ。
ただ、ティースは少し疑問の表情を浮かべて、
「けど、手紙をコソコソ置いてくる必要あったのか? ちゃんと説明すれば、リィナならきっと納得してくれたと思うんだけどなあ」
「……まあ、そうかもだけど」
エルバートはちょっとだけ考えてから、
「いいだろ。俺はこういうの慣れてるし、それに少し外に用もあったんだ」
「そっか」
もしかしたら、リィナを巻き込みたくなかったのかもしれないな――と、ティースは勝手に納得した。
ともかく、これで向こうの心配はいらないだろう。
ティースは安心するとともに、再びネイルの方へと視線を戻した。
「じゃあこのゲームは終わりってことで――って、ネイルさん。どうしたの?」
「……」
怪訝そうなティースの問いにも答えず、ネイルはテーブルの上をじっと見つめていた。
「ネイル、さん……?」
もしかして悔しかったのだろうか、と、ティースは少し遠慮がちに声をかけたが、
「……うん?」
我に返った様子で顔を上げたネイルは、特に怒った様子もすねた様子もなかった。それどころか、相変わらずの屈託のない笑みを浮かべ、触覚(?)をピコンと動かして、
「強いなぁ、ティッシィー」
「……は?」
誰? と、問いかけようとすると、
「んー、やっぱり呼びづらいし、あんましっくりこないなぁ。ティー、ティー……ティモちゃんがいいかな。ねぇ、なんか小動物みたいでかわいいと思わない、ティモちゃん? じゃあ決定。ティモちゃんにけってーい」
「……俺のこと?」
ただ呆然としていると、その肩をポンと叩いてエルバートが耳元でささやいた。
「諦めろ、ティース。こいつはようわからん変なあだ名をつけるクセがあって、一度つけたら、新しいあだ名を思いつくまで呼び方を変えないんだ」
「……」
そういえば――と、壁際のリューゼットに目をやる。そして、いかにも精悍で男らしい彼でさえ、『リューちゃん』などという――比較的まともではあるが、決して似合わない呼び方をされていたことを思い出す。
……とはいえ。
(『ティモちゃん』がしっくり来るって、いったいどんな目で見られてるんだろう、俺……)
ガックリと肩を落としたティース。
ただ、もちろんその被害に遭っているのは彼とリューゼットだけではなく、
「お前なんかまだマシな方だよ。俺なんか――」
言いかけたエルバートの言葉に、ネイルが口を挟む。
「どしたの、チビちゃん? 2人でヒソヒソ話?」
「……」
ピキッとエルバートの表情が固まる。
明らかに機嫌を損ねた様子が伝わってくるが、その表情にはすでに諦めが漂っており、その口から抗議の言葉は出てこなかった。
(こっちはストレートというか、ほとんど悪口……)
ただ、どうやらネイルに悪意はないらしく、のほほんとした表情で大きく伸びをすると、
「う……っん、と。じゃあさ。ティモちゃんの問題も解決したみたいだし、そろそろ作戦はじめよっか。あんま時間をかけたら、お仲間さんが皆殺しにされちゃうんでしょ?」
「あ、ああ。そうだな……」
わずかに眉をヒクヒクさせながらも、エルバートはテーブルに着いた。
「……」
リューゼットもまた、ゆっくりとやってくる。どうやら彼はネイルとの付き合いが比較的長いらしく、彼女のペースにもまったく乱されていない。
――と、思いきや、
「あ、リューちゃん。その椅子、あぶ――」
「……っ!?」
ガターンッ!!
盛大な転倒音が地下に響き渡った。ティースにもなにが起こったのか一瞬わからなかったが、どうやら彼の腰掛けようとした椅子が突然にバランスを崩したらしい。
しかし、急にどうして――その理由はネイルが明かした。
「ほら。この遊びで脚を1本使っちゃったから。危ないよ」
「……」
先ほどの『遊びの残骸』を指さしたネイルに、床の上に転がったリューゼットはゆっくりと無表情に立ち上がる。
そして、ポンポンとズボンを払った。
「ネイル」
「なに?」
一瞬の沈黙。
その不気味な一瞬に嫌な気配を感じ取ったエルバートが、慌てて口を挟んだ。
「まっ、待て、リューゼッ――」
いや、挟もうとした。
だが、すでに遅い。
「決闘だ」
ドゴォォォンッ!!!
リューゼットの手からひと筋の光が走ったかと思うと、ネイルの座っていた椅子が砕け散ったのだ。
「なっ……うわっ! ちょっ、リューゼットさん! こんな狭いところで!」
慌ててテーブルから離れるティース。リューゼットの手には、どうやら魔力で作り出したらしい光の剣が握られていた。
「うわ、危ない」
ひと足早く回避したネイルは、くるっと宙で1回転して着地すると、
「リューちゃん、ときどき意味もなく暴走するんだもん。ホント、困ったちゃんだなぁ」
あくまでのんびりとした口調の彼女に、リューゼットは剣の先を向けながら、
「意味もなく? 冗談も休み休み言え」
「いや! 気持ちはわかるけど、リューゼットさんもさすがにちょっと短気すぎるような!」
だが、ティースの言葉はまったく無視された。
リューゼットは指を3本立てて、
「さあ、貴様に選ばせてやろう。1、私と決闘して半殺し。2、そこに座ったまま半殺し。3、とにかく半殺し。さあ、どれだ」
そこからあふれていたのは、まぎれもない殺気。
(っていうか、どれを選んでも半殺しじゃないか……)
あまりにも理不尽な選択肢だった。
「うーん。1もいいけど、3はどんな風になるのかちょっと興味あるなぁ。……うーん」
「って、真剣に考えてるし……」
「あ」
ネイルはなにやら思いついた顔でポンッと手を打つ。
それからニッコリと、本当に楽しそうな笑顔を浮かべて、
「じゃあ、その4。ここにいる全員皆殺し、っていうのはどう?」
「なんでッ!?」
「……」
なぜか無言を返すリューゼットが、ティースには不安で仕方なかった。
と、そこへ。
「……おい、2人とも」
ようやくエルバートが口をはさむ。
「今日はその辺にしとこう。今はそんなことしてる場合じゃないだろ」
ティースに比べればこういう状況に慣れていたのだろう。
エルバートが比較的冷静にそう言うと、
「……そうだな」
リューゼットは剣を収めて素直に従った。
「冗談なんかじゃないのになぁ」
ネイルの方は相変わらずニコニコしている。本当に本気だったようにも聞こえるから恐ろしい。
「……まず」
全員がテーブルに戻ってきたのを見るなり(椅子が壊れてしまったので2人ほど立ったままだった)エルバートは今回の作戦について話し始めるのだった。
「ティースには、ヤツらのアジトに潜入してもらおうと思うんだ――」