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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第4話『慟哭・縁・訣別』
31/132

その7『訣別の日』


 フォックスレアでの事件解決から3日後の夕方。


「……ティースさんが、いなくなった?」

 ディバーナ・ナイトの面々は街での後始末を終え、この日、ようやくミューティレイク邸へと帰還していた。

「ああ」

 そして別館の執務室。

 当主であるファナと執事のアオイを前に、経過と結果の報告をしているのは、そのディバーナ・ナイトの隊長、レインハルト=シュナイダーである。

 厳格な雰囲気のただよう部屋には似合わず、相変わらずのラフな服装。瞳に宿るひょうひょうとした雰囲気も相変わらず。

 そしてやはりいつも通りの口調で、レイはその『事実』を報告していた。

「事件がすべて解決した日――3日前の夜か。ティースのヤツが急に姿をくらました。理由は俺にはわからん」

 アオイは眉をひそめ、それから少し困ったようにファナに視線を送った。

「……」

 椅子に腰掛けたファナは、机の上で両手を重ねたまま少し思案していたが、やがてゆっくりと顔を上げてレイを見ると、

「心当たりはまったくございませんの?」

「心当たり、ねぇ」

 レイは少しだけ笑い、それからわざとらしく視線を泳がせて、

「最近ふさぎ込んでたからな。おおかた、任務をこなすのが嫌になったんじゃないのか?」

 アオイが納得できない顔をする。

「まさか。ティースさんが悩んでいたのは確かですが、いきなり前触れもなく姿をくらますような人ではないでしょう」

「知らんよ。特に変わったことはなかったさ。ただ報告した通り、いつもより事件の犠牲者は多かったがな」

「……」

 ファナはもう一度、レイから受け取った報告書に目を通した。

 犠牲者は確かに多い。だが、それは事件の規模と性質――街の中に数十匹の獣魔を操るデビルサイダーがいたということを考えれば、仕方ないともいえる結果だ。

 しかもその半数以上はナイトが到着する前の被害者で、派遣から事件解決までの日数、黒幕を突き止めたという結果もあわせて考えると、任務自体は失敗ではないだろう。

 ただ――そこにひとつ、気になる報告がある。

 事件と関係があったのか結局不明ながら、そこに存在していたというひとりの人魔――

「レイさん」

 そしてファナはもう一度質問した。

「ティースさんは、ご無事だと思いますか?」

「俺のことじゃないからな」

「レイさん個人の感想で構いません」

 少し考えて、レイは薄笑いで答えた。

「自殺はしてないと思うぜ」

「わかりました」

 まともな返事ではなかったが、それでもファナは納得した様子でうなずいた。そしてすぐ、隣に直立するアオイの方を見ると、

「アオイさん。ティースさんは見聞を広める旅に出られるそうですわ」

「……は?」

 怪訝そうな顔のアオイに、ファナは穏やかな微笑みを浮かべて、

「デビルバスター候補生として、それは必要な経験であると判断しました。そのように手配をお願いします」

「あ……はい。承知しました」

 アオイもようやく彼女の真意を悟ってうなずく。

 レイは苦笑して、

「甘すぎるんじゃないのか? 戻ってくるかどうかもわかりゃしないんだぜ?」

「大丈夫ですわ」

 ファナは確信を込めた言葉で答える。

「事情がどうであっても、ティースさんは必ず一度は戻ってこられます。ここにはシーラさんがおられますもの」

「ま、確かに……」

「2ヶ月、待つことにしますわ。それでよろしいですか?」

「俺に聞かれてもな」

 レイはそう言いながら2人に背を向けて、それでもふと、思いついたようにつぶやく。

「……ま、色々と解決するには充分な時間じゃないのか?」

「はい」

 ファナはもう一度微笑んで、満足そうにうなずいたのだった。




 ティースが戻ってこないことが問題となったのは、もちろん執務室の中だけではない。

 彼が過去に所属していた部隊――ファントムやカノンの面々、あるいは彼と関わりのあった数少ない人々にとっても、それなりに影響の大きい出来事だったようだ。

 ディバーナ・ファントムの隊長、アクア=ルビナートは執務室から出てきたレイを待ち伏せしてさっそく事情の説明を求めたし、その背後にはやや神妙な面持ちでそれを眺めるダリア=キャロルの姿もあった。

 そこを偶然通りかかったディバーナ・カノン隊長のレアス=ヴォルクスも、一見興味なさそうにしながらも、なんとなしに彼らの会話に耳を傾けていたようだ。


 そして当然それは、屋敷において彼ともっとも深い関係にあった少女にとっても、いつものように冷たく流せる出来事ではなく――。


「……リディア」

「そんな怖い顔で見ないでってば。あたしにもよくわかんないんだから」

「怖い顔なんてしてないわ」

「そうかなぁ? それならいいんだけどさ」

 さすがのリディアも少々困り果てていた。

 その目の前。

「……」

 そこに座っている少女――シーラ=スノーフォールは、一見いつもと変わらない態度のようにも見える。

 だが、その正面で言葉を向けられたリディアは、それがいつもと確実に違っていることを感じ取っていた。

 明らかな焦りと、いらだち。

「彼はあなたのお兄さんでしょう。もっと詳しい話を聞けないの?」

 リディアは首を横に振って、

「ダメだってば。あの人、相手が妹だろうと上司だろうと、言いたくないことは絶対に言わない人だから。ただ、あの人の言いようからして、ティースさんが生きてることだけは間違いないよ。それもおそらくたいしたケガもなく、ね」

 カチ、カチ、と。

 シーラの爪が冷めた紅茶のカップを鳴らしていた。

「だったら、どうして戻ってこないの」

「だから、わかんないってば」

 この問答もすでに3度目。

 いい加減、リディアもうんざりして、

「とにかく待つしかないよ。ファナさんも、2ヶ月はティースさんの居場所を空けて待ってるって言ってたしさ」

「……」

 シーラは目を細め、じっと紅茶のカップを見つめていた。

 その胸に去来していたのは、果たしてどのような想いだったのか。

 しばらく、動かない。

(……まいったなぁ)

 そしてリディアは、想像していたよりも激しい彼女の感情の動きに――それはあくまで何重ものオブラートに包まれたものであったが――少しだけ驚いていた。

(これでも平然としていたらどうしようかと思ったけど、さすがにそうはならなかったか……)

 だが、そんなことを思った矢先。

「……どうしたの? シーラさん?」

 シーラの口元がかすかに動いた。……笑った、というには、少々無理のある歪み方だった。

「そうね……」

 リディアの問いかけに、彼女はまるで体をほぐすように背筋を伸ばし、肩の力を抜いた。

 そして小さく息を吐くと、ひとりごとのように、

「いい加減、馬鹿らしくなったのかもしれないわね」

「なにが?」

「賢くなったということよ」

 その言葉の意味をリディアはすぐに悟って、

「それはないと思うなぁ。だってティースさんは馬鹿だからティースさんなんだし」

 真顔でそう言った。

 まるでけなしているような物言いでも、その口調は好意的だ。

「あの人から『馬鹿』と『正直』を取ったらなんも残んないよ。だからきっと、あの人なりに、どうしても譲れない事情があったんだと思う」

「……」

 シーラはその言葉をしばらく考えていたが、やがて何事か思い出したように、ポツリと言った。

「ま、いいわ」

「いい、って?」

 問いかけに、ゆっくりと顔を上げて、

「戻ってこないなら、戻ってこなくてもいいということよ。いえ。むしろ戻ってこない方がいいのかもしれない」

「あはは、またまたぁ。そんなこと言っ――」

 笑いかけて、リディアはハッと口をつぐんだ。

「……シーラさん?」

 まっすぐに彼女を見つめ返す、濁りのない瞳。

 そしてシーラはゆっくりと微笑んだ。

「嘘ではないわ、リディア。意地を張っているわけでもないのよ」

「あ……」

 そして、リディアは瞬時に悟った。

 ――彼女のその言葉は、決して偽りではない、と。

「なにもないのよ」

 その指は小さくテーブルの上をさまよい、そして冷めた紅茶のカップのふちを軽くつまんだ。

「少なくとも、私のために戻ってくる義務はあいつにはないわ。……そうでしょう? だって私はあいつのためになにもしていない。あいつが義理を果たす理由はなにもない」

「……」

「だから、戻ってこない方が自然だと、そう思うだけのことよ」

 淀みなく言い切ったその言葉に、リディアは素で驚きの表情を浮かべ、そしてすぐにごまかすように視線を泳がせた。

(……シーラさん)

 一瞬だけ過ぎった、その表情。

 その一瞬を、リディアは見逃さなかった。

 そして、少しだけ彼女の心情を理解した。

(でも、なんで……)

 意地を張っているとか、おそらくそんな単純なことだけではないのだ。

 この2人の間には――あるいは彼女の心の中だけなのか、それだけではないなにかがある。

(……シーラさんには似合わないよ。そんなの)

 黙ったままシーラが席を立つ。

「あ、シーラさん!」

 とっさの嘘が、反射的にリディアの口をついていた。

「言い忘れてたけど、今日からシーラさんに監視をつけることが決まったから!」

「……監視? どういうこと?」

 当然のように、納得できない顔で振り返るシーラ。

 リディアは答えた。

「シーラさんが家出したら困るからって。ファナさんが」

「……用意のいいことね」

 少し憮然とした顔。だが、それは図星をさされたゆえの表情だったようにリディアには思えた。

 先手を打てたことに少しだけホッとする。

「言ったじゃん。2ヶ月はティースさんの居場所を空けて待ってるって」

 シーラは眉をひそめて、

「それと私を引き留めることに、どういう関係があるの?」

「だってシーラさんのいる場所が、ティースさんの居場所だもん。そうでしょ?」

「それは、あなたの勝手な妄想よ」

「じゃあ、賭ける?」

 リディアは真顔でシーラを見つめた。

「ティースさんが2ヶ月以内に帰ってこなかったらシーラさんの勝ち。帰ってきたらあたしの勝ち。シーラさんが勝ったら、ひとつだけ、なんでも言うこと聞くよ」

「……」

 少し考えたシーラは、やがてそれほど興味なさそうにしながらも、

「あなたが勝ったら?」

「そうだなぁ。……あたしの質問に、ひとつだけ正直に答えてもらおっかな」

「……」

 真意を探るようにシーラはリディアの目を見つめた。

 だが、もちろん彼女はとぼけて考えを表情に出そうとはしない。

 無駄だと悟ったのか、やがてシーラはため息をついて、

「そうね、それなら――」






 丘の上で、ティースは沈みゆく太陽を見つめていた。

 その先、北側へと折れ曲がって続いていく街道。そのはるか遠くにネービスの街があるはずだった。

 強い風が、身にまとう灰色のローブをはためかせる。

「……」

 無言のまま、その街道に背を向けた。歩くたび、腰にぶら下げた愛剣、細波が小さな音を立てる。

 ――今は、戻ることはできない。ひとときの訣別。

 長い影を引きずり、ティースは緩やかな坂を下りていく。

(もうみんなネービスに戻ったころだろうな。シーラは――心配してくれてるかな……それとも怒ってるかな……)

 そのことを考えると罪悪感が胸を襲う。だが、彼は自らの行動を後悔してはいなかった。

(お前が俺の立場だったら……きっと、同じ気持ちになったよな……?)

 それは彼女とも共有する記憶だ。たとえ彼らの関係があのころとは違っているとしても、そのときに感じていた想いはきっと同じだったと、そう信じているから。

 少し、早足になる。

 歩む先はネービスの街とはまったく別の方向。

 ミューティレイク、そしてディバーナ・ロウ。

 たった半年とはいえ、確かに仲間だった人々に背を向けて――いや、再びその場所に戻ってくるために。

 顔を上げて、前を見た。

 その視線の先に、ひとりの女性が立っている。

「ティース様」

 彼と同じ灰色のローブとフードに身を包んだ、180センチはあろうかという長身の女性。フードの奥から向けられる瞳は、変わらずに穏やかで優しい。

「ああ。……リィナ。行こうか」

「ええ」

 うなずいて、リィナはフードの奥から微笑む。

 そこには少しの不安と、それ以上の信頼の眼差し。

 ティースはそれを見て、やはり自分の行動は間違っていなかったのだと再確認した。

 そして、2人は歩き出す。

「……レイさんという人は、最初から私を殺すつもりはなかったと思います」

 途中、ふとつぶやいたリィナの言葉にティースはうなずいて、

「ああ。俺もそう思う」

 思い返しても、それはおそらく間違いないだろう。

 あのとき――レイがさらに激しい一撃で土埃を巻き上げたおかげで、ティースとリィナはその混乱に乗じてその場を逃げ出すことができたのだ。

 彼の剣が実際にリィナの体をとらえていなかったことも事実であり、ルネッタがすぐに追いかけてこなかったのも、あるいは彼の仕業だったのかもしれない。

「最初の不意の一撃も、わざと狙いを外したようでした。私は直前まで、彼の気配に気付いていませんでしたから」

「……そうなんだ」

 つまり彼は、最初から2人を逃がすために芝居を打ったということになる。

 ――なんのために?

 それは、分かり切ったことだった。

 ポケットに手を入れると、そこには金属の感触――以前、レイから預かったミューティレイクの紋章が刻まれたカードがある。

 それはこの先、ネービス領内を放浪する上で役に立つはずのものだった。

(ここまで読んでいたのだとしたら、あの人、やっぱりとんでもない人だ……)

 とにかく、今はただ感謝の気持ちでいっぱいだった。

 シーラのことといい、リィナのことといい。ティースは彼に大きな借りを2つも作ってしまったようだ。

 いつか、それを返せる日がくればいいと、そう思う。

 そう。そのためにも、今は――

「このペースなら、2週間もしないうちにリガビュールの街に着くよ。約束の日には、充分に間に合いそうだ」

 目指す先はネービス領西端の街、リガビュール。

 そこが今の彼らの目的地だった。

「でもなぁ。まさかエルのヤツまで一緒にこっちに来てたなんて、思わなかったよ」

 その途中、ティースはそうつぶやいた。

 エル。それはリィナと同じ時期、同じように彼の記憶の中に存在していた者の名だ。

 リィナは小さくうなずいて、

「エルさんは、もともと人の世界に強い興味を持っていましたから。覚えてますか? 私たちが初めて出会ったときのこと」

「ああ、もちろん」

 冬の日の森の奥。

 そのときの光景を思い浮かべながら、ティースはつぶやいた。

「敵じゃない、って、あいつが涙を流しながらそう言ったんだよ。それで俺は、君たちを信じようと思った」

 頭に浮かぶ可愛らしい少年の顔。

 リィナはうなずいて、

「私がこっちの世界に流されてしまったあのとき、偶然一緒に流されたエルさんと出会っていなければ、私たちが理解し合うことも、私がここにいることも、きっとなかったと思います」

 ティースは思い出したように、

「そういや、あいつって最初からものすごく人間っぽかったっけ。……リィナは最初ものすごく無愛想だったんだよな。ツンツンしてたというか、何事にも興味なさそうだったというか」

「わ、私の話はやめましょう」

 リィナは恥ずかしそうに抗議すると、

「エルさんは私とは違って、最初から『愛』とか『情』の意味を知っていましたから」

「言われてみれば、確かにそうだったかなぁ」

 そう考えると彼にも、リィナのような『王魔』と呼ばれる存在が、どれだけ自分たちと違っているかが実感できた。

(ってことは、エルは少なくとも王魔じゃないってことかな。昔はそんなこと気にもしてなかったけど……)

 子供のころの話だ。2人の種族になんて興味はなかったし、下位族だとか上位族だとかの知識もなかった。

 だが、リィナの言う王魔についての話が本当であれば、彼はおそらく将族以下の魔なのだろう。

「ところであいつ、少しは成長したのか?」

 そう問いかけながら、彼がどんな風に成長したのかと想像すると、ティースの頬は自然と緩んでいた。

 なにしろそのエルという少年、リィナよりひとつ下、シーラと同い年だというのに、当時の彼女たちより10センチ以上も背が低かったのである。

 当時はよくそのことを話題にして、将来どうなるかなんてことを話していた記憶があった。

 そしてリィナもそんなティースの考えを察したらしく、

「背、の話ですよね?」

「ああ。ほら、あいつって、俺の中じゃいつまでもあんな感じのイメージしかないからさ」

 リィナはクスクスと笑って、

「もちろん伸びましたよ。その、ほんのちょっぴり」

「ちょっぴりって……」

「これぐらい、です」

「……」

 ティースは言葉を失った。

 彼女の右手は、その胸よりも下で止まっている。彼女の身長が約180センチだから、そこから推測するに、それではおそらく140センチあるかないかだろう。

(レアスくんより小さいじゃないか……)

 当時の姿から考えて、それほど伸びてはいないかなと想像していた彼でさえ、その事実には唖然とした。

「それって……140センチぐらい伸びた、ってことじゃないよな、もちろん?」

 リィナは笑って、

「まさか。それだったら3メートル近くなっちゃいます」

「そりゃそうか……でも、うん。それってあまりにもあんまりだなぁ」

 女性としては背の高すぎるリィナ。

 男性としては背の低すぎるエル。

 2人の姿を並べて想像すると、笑うしかなかった。

「でも、小さい方が可愛らしくていいじゃないですか。私はエルさんがうらやましいです」

「そうかなぁ」

 確かに、彼女は女性としては少々背が高すぎる。ティースはそれよりも長身だから問題ないとしても、彼女より背の低い男にしてみたら、やはり可愛らしさよりも威圧感を先に覚えてしまうのかもしれない。

(逆ならいいのになぁ……)

 そんなことを考えながら、約2週間後に迫った旧友との再会に思いをはせ、ほんの一瞬だけ現状を忘れて心を弾ませたティース。

 と、そんな彼に、今度はリィナが質問する。

「ティース様。今度はシーラ様のこと、お聞きしてもいいですか?」

「え? あ……うん」

 うなずいたティースに、彼女が口にしたのはいきなりとんでもない質問だった。

「ティース様とシーラ様は、結婚したんですか?」

「え!? ……ま、まさか!」

 手を振りながら慌てて否定すると、リィナは少し首をかしげて、

「カザロスの人たちがそういう話をしていたので……」

「カ、カザロスの? ……そ、そっか。やっぱ向こうじゃそういう話になっているのか」

 故郷――カザロスのことを思い浮かべ、ティースは少し複雑な表情をした。

 確かに、彼らがネービスに出てきたときの経緯を考えれば、それは仕方のない話の流れだと思えた。

 そのときは『駆け落ち』だと思われて当然の状況だったのである。

「では、やはり違うのですね? ……ホッとしました」

「え?」

 その言葉に少しだけドキッとしたティース。ただ、彼女から返ってきた言葉は、もちろん彼が期待したようなものではなかった。

「ティース様とシーラ様が結婚だなんて。本当にそんなひどいことになってたら、どうしようかと思っていたんです」

(……あ)

 そして思い出す。

(そっか……リィナの中じゃ、結婚ってどちらかといえば『悪いこと』なんだっけ)

 そう。彼女――というより、彼女らにとっての『結婚』とは、子孫を残すために課せられる『義務』であり、ティースたちが当然に考える結婚――愛し合って、結ばれて、というイメージとはまったくの別物なのである。

(うーん……)

「ティース様? どうかしましたか?」

「あ、いや……その、リィナ」

 理解できるかどうかは別にして、ティースはとりあえずこっちの常識を教えてみることにした。

「こっちの結婚っていうのは、例外もあるけど、基本的には愛し合う者同士がお互いに望んでするものなんだよ。だから、リィナが考えてるような悪いものじゃないんだ」

 だが、リィナは理解できない顔をする。

「愛しているというのは、大事だということですよね?」

「ああ、そりゃそうだよ」

「大事なのに結婚させるのですか?」

「え?」

 思わず聞き返したティースに、リィナは眉をひそめて、

「結婚すると子供を産まなくてはならないんですよ? 大事な人に、そんなひどいことをさせるのが人間の世界では普通なんですか?」

「ひ、ひどいって……いや、だってほら、子供っていうのは夫婦の愛の結晶というか……俺は男だからわかんないけど、女の人だって好きな男の人の子供を望んだりする場合が多いっていうし……」

「……わかりません」

 ティースは困り果てて、

「じゃ、じゃあさ。リィナは、小さい子供が可愛いとか思わない?」

「あ、はい。私、子供は好きだと思います」

 その答えに、ティースはパッと顔を輝かせて、

「そうだろ? じゃあさ、それが好きな人の子供だったり、自分の子供だったりしたら、なおさら可愛いと思わないか?」

「なぜですか? 誰の子供でも子供は子供ですよ?」

「うう……」

 お手上げだった。

 彼女らのような王魔には、自分の子供を自分で育てるという習慣がないらしく、親と子供はまったく関係のない別存在という考え方を持つ種族が多いらしい。

 人間世界でいう家族的な存在として唯一あるのが『双子の兄弟』のみで、そんな彼女がティースの言葉を理解できないのは当然のことだった。

「……難しいです」

 リィナも少し困った顔をしていたが、やがて思い直したように、

「でも、いつか教えてくださいね。ティース様は私に『愛』と『情』を教えてくれた人ですから。きっと、理解できる日が来ると思うんです。私も一生懸命努力します」

「お、教えるって言われても」

 その意味を少し深読みしてしまって、ティースはまたもやドキドキしてしまった。

 そして、慌てて話題を変える。

「にしても、ものすごい偶然だなぁ。だって、俺やシーラがネービス領に来てることも知らなかったんだろ?」

 そう問いかけてみた。

 ティースやシーラの故郷はこのネービス領から見て東の方角、間に2つほど別の領地を挟んだ場所にあるジェニス領のカザロスという街だ。

 大陸は広く、『ヴォルテスト条約』に署名した領地だけでも20近い。だから、彼女がこのネービス領にやってきていたというだけでも、驚くべき偶然なのである。

 だが、リィナはその言葉にクスッと笑って、

「偶然ではないですよ。ほら。昔、シーラ様が口ぐせのように言っていたでしょう? ネービスに行って薬師の勉強をしたいんだ、って」

「……あ。そっか」

 思い出して納得するティース。

「他に有力な情報もなかったですし、もしかしたらと思って。……カザロスにティース様たちの姿がなかったときは、途方に暮れて泣きそうでした。もう会えないのかと思って。だから、この偶然には本当に、心から感謝しているんです」

「はは……」

 照れて、頭をかくティース。

 彼女の屈託のない笑顔に、頬が再び熱を帯び始めた。

(……あぁ、もう。相手はリィナだってのになぁ)

 いくら言い聞かせても、胸の高鳴りは抑えることができず。

 ……当時とはさすがに違う。それを意識してしまうほどにはお互いに成長していたから。

「ティース様。あと少しですね」

「あ、ああ……」

 彼女の暖かい笑顔に、ティースの胸は充足感に満ちていく。

 最近ではあまり感じたことのない安堵感に身を委ねながら。


 ――どうやらこの年齢にしてようやく、彼の初恋らしきものが始まったのかもしれなかった。





 ガラガラガラガラ……


 太陽が昇り始めて間もない早朝、薄暗い中、少しだけ肌寒い空気を切り裂くように、街道とは別のルートを通ってリガビュールに向かう1台の馬車があった。

 大きく揺れながら進むその馬車は飾り気もなく、貴族が使うようなものではない。だが、その割に作りは頑丈で、馬車の周りには護衛らしき者たちが4、5名、馬に乗って周りを囲んでいる。

 よく見ると御者も腰に剣を携え、馬車には光を採る窓も見当たらなかった。外側からは頑丈な鍵らしきものがかけられており、どこからどう見ても異様な雰囲気の一団だ。

 そして、その馬車とリガビュールを結ぶ道の間。

 ――丘の上に、馬上からその馬車を見つめる複数の視線があった。

「来たぞ。……準備はいいか」

 徐々に近付いてくる馬車をその視界にとらえ、30代後半ぐらいの男が後ろを振り返る。

 顔を隠すように深くフードをかぶり、腰にはひと振りの剣を下げていた。

 盗賊風、と言っても差し支えはないだろう。

 その言葉に後ろでうなずいたのは5人。それぞれフードをかぶっており、出で立ちも全員が一緒だ。

 そしてその中にひとりだけ、目立って背の小さな人物がいる。

 先頭の男はその人物に視線を向けて、言った。

「エル。お前はまだ子供だ。無理はするなよ」

「わかってるよ、ボイス。無茶はしないって」

 フードの中から返ってきたのはやはり少年の声だった。まだ声変わりもしていない。年齢的にはおそらく10代前半というところだろう。

「では、行くぞ」

 全員がうなずいて、手綱を握る。

 目標はもちろん、リガビュールに向けて走る1台の馬車。

「……来たぞぉっ!!」

 馬車の一団が、急速に近付いてくる6騎の影に気付いた。

「キュンメルだ! キュンメルの奴らが来たぞぉっ!!」

 馬のいななき。

 重なる抜刀の音。

 怒号をあげて――そして、2つの集団は交戦状態に突入していた。






 ネービス領リガビュールは、西の国境近くに位置する中規模程度の街だ。

 古くから存在する街のひとつだが、大陸の主要都市を結ぶメイン街道からは大きく外れている……というより、意図的に『外されて』いる街だった。

(今日も来ない、か)

 ティースたちがこの街に来てちょうど1週間。

 12月もなかばになって、風はさらに冷たさを増していた。

 ティースはこの日も太陽が沈むまで、リガビュールの『表向きの名所』である、初代ネービス王(都市国家時代のものだ)の石像前で人を待っていた。

 目印は『ネズミ色のフード』と、ローブの胸に『赤いリボン』だと聞いていたが、今のところ、そんなアンバランスな服装をした人物の姿は見掛けない。

(もう日も沈むし……また明日、だな)

 諦めて、彼は石像の前を離れた。

 ……リィナがエルと別れるときに交わした、この場所での待ち合わせの約束は『1年後の夕方』だという。

 正確な日付でいえば今から12日後のことらしかったが、ティースは念のため毎日ここへ様子を見に来ていた。

(に、しても……)

 そのまま彼の足は『表向きの名所』から『事実上の名所』の方へ進んでいく。

 宿へ戻るには、よほどの遠回りをしない限りそこを通らざるを得なかった。

 そしてため息をつく。

(よりにもよって、こんな街を待ち合わせ場所にしなくてもいいのになぁ……)

 活気のない街。最初にここを訪れた旅人の、約半数ほどがそう感じるという。

 なぜ『半数』なのかというと、それは簡単だ。

 このリガビュールの街は、昼と夜でまったく別の顔を持っているからである。


 つまり――


(うう……)

 嬌声。

 笑い声。

 日が沈んで風も冷たいというのに、街のメインストリートはやけに明るい。立ち並ぶ建物には煌々と明かりが灯り、辺りは異様な雰囲気に包まれていた。

 その中を、ティースは視線を下に落としながら歩いている。

 辺りにいるのは、どこからどう見ても健全とは言いがたい、風邪を引きそうな格好の女たちと、ペアになって客引きをする男や老婆たち。目が合えば、すぐに手招きされ話しかけられてしまう。

 だから彼は、極力視線を上げないように、縮こまって歩いていたのだ。

 ……ネービスといえば『学園都市』の名が示すとおり、どこか堅いイメージがあるが、それはあくまで首都ネービスだけの話である。

 このリガビュールの街は、犯罪組織に似たいくつかの集団が事実上取り仕切っている、ネービス領最大の『歓楽街』だった。

 ただ、犯罪組織が取り仕切っているとはいえ、そこにはそれなりのルールが存在し、多少の不穏な影がちらつく以外は、ある一定の治安を保っている。

 だからネービス公もこの街の状況を半分黙認しており、無責任なうわさ話によれば、その間には一種の利害関係のようなものが結ばれているとも言われていた。

 ……とはいえまあ、その真偽はティースにしてみればどうでもいいことではある。

 ただ、彼にとって大事だったのは、

(は、早く宿に帰らなきゃ……)

 その一点なのだ。

 油断すると、すぐにそでを引かれそうになる。彼がただ小心なだけの男ならそれほど問題ないのだが、彼の場合、不用意に触れられでもしたら大変なのだ。

 気絶したからといって即刻身ぐるみ剥がされるようなことは――よほど運が悪くない限りないはずだが、それでもこんな場所で意識を失うということは、とてつもなく危険なことであり。

 どんっ。

「わっ……す、すみません!」

 女たちの手ばかり警戒していて、通りを歩いていた男とぶつかってしまう。

 頭を下げてその場から離れると、今度は、

「お兄さん、ちょっと――」

「ご、ごめんっ! 俺、客じゃないからっ!!」

 顔を上げることもせずにそこから逃げ出し、まるで迷い子のようにオロオロしながら……そして、なんとかメインストリートを抜けていったのだった。

 にぎやかな通りを抜けると、辺りは急に静けさを増した。ギャップがあるだけに、静けさに異様な重みがある。

「ふぅ……」

 ひとまず安堵の息を吐いたティースは歩みを緩め、無数の星が浮かぶ夜空を見上げる。

 その脳裏には、明るく無邪気な背の低い少年の姿が浮かんでいた。

(エル――)

 リィナの話によれば、彼は彼らがこの世界で暮らしていくための『方法』を探しに、ネービスの南西に接するモルフィドレル領へ向かったらしかった。

 その『方法』とは――

(……朧、か)

 魔を人の姿に変える、刻印型の破魔具『朧』。

 ほぼ完璧な性能を持つ代わりに、一度使ってしまえばそう簡単には元の姿には戻れないという代物だ。

 彼はそれを求め、モルフィドレル領へ心当たりを訪ねていったのだという。

『ですから、ティース様とシーラ様には、どうか私たちの身請け人となって欲しいのです』

 その願いをリィナの口から聞いたとき、ティースはもちろんふたつ返事で承諾した。

(1年……だもんな)

 彼女たちがこの世界にやってきたのが1年前。

 それだけの月日を、2人はティースたちとの再会のためだけに費やしてきたのだ。

(俺も……その気持ちには応えなきゃ)

 そんなことを考えて――少しボーっとしすぎていたのかもしれない。

 彼は自らに近付いていた複数の人の気配に気付かなかった。

「え?」

 突然、その脇をひとつの影がすり抜けていく。

(……子供?)

 一瞬だけその視界に映ったのは、灰色のローブにフードという格好の、背丈の小さな人物だった。だが、その格好について疑問を抱く間もなく、さらに複数の気配が現れる。

「……あ」

 腰に剣を差した男が3人。特に声を上げるわけでもなく、無言のままで慌ただしく脇を走り抜けていく。

 薄暗い闇の中に消えていく合計4つの人影。

(えっと……)

 ティースは立ち止まってしばし思考を巡らせた。

 奇妙な格好の人物。

 追いかける複数の男たち。

 腰にぶら下げた剣。

「……」

 ある程度の治安が守られているといっても、やはり性質上トラブルの耐えない街だ。

 客と店の間での揉めごとはしょっちゅうで、店で働いている女性が逃げ出したりとか、客と駆け落ちしたりとかで、少々物騒な展開になることも珍しくはないらしい。

 そんな街での出来事だけに、ティースが今の4人に対して不穏な想像をしたのは、当然の結果だったろう。

 そして基本的に『お人好し』な彼の取った行動は――

(えっと、確かこっちに……)

 しばらく彼らのあとを追いかけたティースは、先ほどの男たちが立ち止まってひそひそ話しているのを見つけた。

 路地の裏や、少し先の分かれ道を指さしながら、小さく首を振ったりしている。

 どうも見失ったらしい。

(……なんだ)

 事情はわからないまでも、そのことにホッと胸をなで下ろしたティース。

 だが、その瞬間。

 ――カラッ。

「!?」

 ほんのかすかな物音。だが、すぐそばにいた彼の耳には確かに聞こえた。

 音のした方向を見ると、そこにあったのはどうやらとっくに枯れているらしい古井戸。暗くて一見わからないが、その縁のところには何者かの指先が見えていた。

 どうやらそこに手をかけて、井戸の中にぶら下がっているらしい。

(……な、なんて無茶な!)

 ティースは仰天した。

 水があるならまだしも、枯れた井戸の中に落ちたら軽いケガでは済まないし、無事だったとしても自力で這い上がるのは至難の業だ。

 その危なっかしさをとても見過ごせず、ティースは慌てて駆け寄って、井戸の中から生えていた腕をつかんだ。

「!!」

 見つかったと思ったのか、井戸の中の人物が震える。

「しっ」

「……?」

 薄暗い井戸の中から、不審そうな視線が彼を見上げていた。

 頭にかぶっていたフードは重力によってめくれており、顔を見る限りはどうやら子供だ。薄暗いせいもあって、男か女かははっきりわからなかった。

 ただ、

(……え?)

 その瞬間、それよりももっと重大なことに気付く。

「……っ!?」

 相手もそれに気付いたのだろう。とっさに隠そうと肩をすくめたが、もちろんその体勢で隠せるはずはない。

 その、尖った耳を。

(人魔……!?)

「おい、そこのお前。ちょっと聞きたいんだが」

「!」

 背後にいた3人組のひとりが、ティースの存在に気付いて近付いてきた。

(……どうする!?)

 背中に汗が浮く。

 助けようとした井戸の中の人物は『魔』だ。見つかったらもちろんただでは済まないだろう。

「……」

 一瞬のためらい。

「おい、聞こえないのか? そこの、おま――」

「っ……おぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」

「っ!」

 井戸の中の人物が顔を歪める。と同時に、ティースの背後に近付いていた男も顔をしかめた。

「うぐっ……おえっ……おえぇぇぇぇぇぇ……っ」

「……ちっ。酔っぱらいか」

 それは決して素晴らしい演技というわけでもなかっただろうが、この街では珍しい光景でなかったことが幸いだった。

 井戸の中はティースの背中で完全に隠れていたし、まさか追いかけている相手が枯れた井戸の中にぶら下がっているとは考えもしなかったのだろう。

 辺りを少し見回ったあと、男たちは違う方向へと去っていった。

「……」

 感覚を研ぎ澄まし、気配が完全に消えたことを確認する。

「ふぅ……まったく、無茶をするなぁ」

 ティースは大きく息を吐く。そしてぶら下がっていた人物を井戸から引き上げると、ようやく月明かりの下で顔がはっきりと見えた。

 少年だった。歳は10代前半からなかばぐらいだろうか。

 幼さを残している分、少し中性的な顔立ちに見えたが、抱き上げた感触は間違いなく男だ。というより、これでもし女性だったりしたら、2人そろって井戸の底に落ちる最悪の事態になっていたかもしれない。

「さて、と。それじゃ事情を――って! 待て! 逃げるんじゃない!!」

 逃げだそうとした少年のえり首をつかむ。

「っ……離せっ!!」

 ティースは暴れようとする少年を力ずくで押さえつけ、目立つといけないので路地の中へと引っ張り込んでいった。

「離せ! この! 変態! ……ホモ野郎っ!!」

「だっ、誰がっ!!」

 なんとも口の悪い少年である。……いや確かに。先ほども言ったように、少年は中性的な容姿だったし、まだ大人とは言いがたい年齢で肌も綺麗だ。

 あるいはその筋の人たちには人気が出るのかもしれないし、この光景だって、見ようによってはそういう風に見えるのかもしれなかった。

 ただ一応断っておくと、このティースという男にそういった趣味趣向は一切ない。

「と、とにかく! 追いかけられていた理由を話してもらおうか!」

 暴れる少年の両手を後ろ手に押さえつけて、路地の壁に軽く押しつける。

「っ……いたっ!」

「あ、わ、悪い!」

 びっくりしてとっさに力を緩めたが、もちろん離すようなヘマはしなかった。

 そんな彼を、少年は肩越しにキッとにらみ付けて、

「なんだよ! お前もあいつらの仲間かっ! それともなにか、商売女を相手にする金がないからって、代わりに俺を慰み物にしようってのかっ!?」

「だからそういうんじゃないって!」

(俺って、もしかしてそういう風に見えるのか……)

 そんなはずもなかったが、この言葉にティースはいたく傷ついてしまった。

「別に君をどうこうしようってことは考えちゃいない! けど、もし君が悪いことをして追いかけられてたんなら、このまま逃がすわけにはいかない!」

「だったら、なんで助けたりしたんだよ!」

「そりゃそうだろ! あんな物騒な連中に追われていたんだからっ!」

「はんっ!」

 少年は信じてない顔で笑い飛ばすと、

「あんたの目はフシ穴かよ! 俺のこの耳が見えないってのか!?」

「見えてるから、心配してるんだっ!」

「……はぁ?」

 ようやく、少年の体から力が抜けた。

 目が怪訝そうな色を帯びる。

 ティースはそれに合わせ、少しだけ口調を落ち着かせて続けた。

「……君が魔だから、なおさら心配になったんだよ。悪いこともしてないのに追いかけられてたんじゃないかってさ」

「……」

 どうやら少年の中でようやく葛藤が始まったらしい。抵抗を続けるべきか、目の前の人物の言葉を信じるべきか。

 だが、結論は否応なしに出る。

 自分を押さえている人物の力量が、自分より格上であることを少年は悟っていたのだ。

「……離せよ。もう逃げたりしないからさ」

 そう言って少年はペタンと座り込んだ。見上げる視線はまだ不満そうだったが、それでも結果的に追っ手から自分を助けたティースを信じることにしたらしい。

「お前、俺が魔なのに、心配になったってのか? 何者なんだ? まさか、お前も魔なのか?」

 矢継ぎ早の質問に、ティースはホッと胸を撫で下ろしながら、自分も道の上に座って目線の高さを合わせた。

「俺は人間だよ。ただ、俺は魔が全部悪いヤツだなんて思っちゃいないから」

「……」

 再び少年の顔が疑念の色に染まったが、やがてそっぽを向くと、ぼそりと答えた。

「悪いことはしちゃいない。……少なくとも、俺は自分が正しいことをしてると思ってる」

「そうか」

 ティースはひとまずそれを信用することにした。

 もちろんこのまま解放する気はない。ただ、もう少し安全な場所に移動してから詳しい話を聞こうと思った。

「じゃあ、残りの話は後にして、まずはここを離れよう。自己紹介もしておこうか。俺は――」

 言いかけて、ふと気付く。

(……あれ?)

 改めて目に入ったのは、少年が身につけているローブだ。キレイなものではなく、長旅を物語る汚れがそこかしこについている。

 だが、ティースが注目したのはそこではなく、その、胸についている赤いもの。

(赤い……リボン?)

 あまりにもアンバランスだ。

 だが、ティースはそのアンバランスな組み合わせを知っている。というより、あえてそのアンバランスな服装を『してくるはず』の人物を知っていた。

(……え。じゃあ、まさか――)

 そうだと考えてみると、少年の尖った耳ともつじつまが合う。

「な……なんだよ」

 マジマジと見つめられて、少年はたじろいだ。

「お、お前、やっぱりそのケが――」

「お前……」

 だが、ティースはそれに構わずに言った。

 ……記憶にあるそれよりはかなり男っぽくなっている。だが、改めて見ると面影があるような気がしたし、成長という要素を加味するのであれば、それは充分想像しうる範囲の変化だった。

「……エル? お前、ひょっとしてエルなのか?」

「え?」

 少年はきょとんとした顔をする。

 そしてすぐさま、気味悪いものを見たような顔で、

「な、なんでお前が俺の名前を知って――」

「エル!」

 ティースは嬉々として声を張り上げた。すぐにその手を取って、

「俺だ! ティースだよ!」

「え……?」

 再び、少年――エルは呆気にとられたような顔をした。

 なにを言っているのかわからないという表情だったが……やがて、その言葉を理解したかのようにゆっくりと口を開きながら、

「ティース……? あ、えっと、お前――」

「ああ! 俺だよ! ひさしぶりじゃないか!」

「……」

 エルはまだ戸惑っているようだった。

 それはそうだろう。彼にしてみれば、ここにやってくるのはリィナのはずで、彼が直接やってくるなどとは考えていなかったのだろうから。

 それでも、数秒後にはようやく整理が出来たのか、ようやくエルも声を張り上げた。

「お前……あの、ティースか!」

「ああ!」

 再会の喜びを手のひらに込めて、少し浮かれながらティースは満面の笑顔を浮かべた。

「ははっ……お前、思ったより背伸びたなぁ」

 少し冗談交じりにそうつぶやく。

 確かに目の前にいる少年の身長は、リィナから聞いていたものと比べて10センチほど高く、150センチは確実に越えているだろう。

 だが、リィナと別々に行動していたこの1年という年月を考えれば、それは決して不思議なことではない。

 エルはそんなティースを見て、

「な、なに言ってんだよ。お前こそ……昔は、そんなに背ぇ高くなかったよ、な?」

「ま、そりゃそうだけどな。……けど、口調も男っぽくなったじゃないか。昔は自分のこと、ボク、ボク、って言ってたのに」

「む、昔の話だろっ」

 その抗議の声に笑って、ティースは立ち上がるとともに手を伸ばした。

「でもなんかトラブルに巻き込まれてるみたいだな。……よし。じゃあ詳しい話は宿に行って聞こう。リィナもそこで待ってる」

「リィナ……?」

 ティースの口から出たその名前に、エルは少し考えて、

「あ、ちょっと待ってくれないか、ティース」

「ん?」

 すでに路地から顔を出して辺りの様子をうかがい始めていたティースは、その言葉に振り返って、

「どうしたんだ?」

「……ちょっと今は都合が悪い。宿に戻るのは、少し待ってくれないか?」

「?」

 怪訝に思ったが、その理由を推測するのは簡単だった。

「さっきの連中か? ……なんなんだ、あいつらは」

「あいつらは――」

 言いかけて、急に止めた。

「?」

 再びためらって、考え、そしてゆっくりと顔を上げる。

 向けられたその視線は、ピタリとティースを見据えた。

「……ティース。さっきの言葉、信用してもいいんだろうな?」

「? なんだ?」

「敵は悪い奴だけだ、って言葉だよ」

 表情は真剣だ。

「……」

 その気持ちはティースにも理解できた。

 彼もまた、リィナと再会したとき、それを喜ぶと同時に、年月による変化を疑ってしまったから。

 だからエルもおそらく、彼が昔から変わっていないかどうかを確認したかったのだろう。

 だからティースはことさらに力強くうなずいて、

「ああ。当たり前だろ」

「じゃあ……俺を手伝ってくれるか?」

 ティースは眉をひそめる。

「なんなんだ? お前、一体なにに首を突っ込んでいるんだ?」

「……」

 エルの表情がほんのわずかに歪んだ。

 それは紛うことなき怒りの表情。

(こいつが……こんな表情をするってことは――)

 彼は本来、温厚だった。

 別におとなしいというわけではなく、どちらかといえばかなり明るい性格ながら、意外に感情的なリィナと比べると怒る回数は圧倒的に少なく、外見の幼さの割に精神的には大人だったともいえる。

 だがその代わり、怒ったときは――

「リガビュールの地下組織、ゲノールト」

「ゲノールト?」

 エルの口から出た単語には聞き覚えがなかった。ただ、このリガビュールに多数存在する、非合法組織のひとつであろうことは想像できた。

「エル……お前、なんだってそんな連中と……」

「たぶん、ゲノールトはお前が想像しているような組織とは違う」

 そしてエルは言った。

「ゲノールトはこのリガビュールでも裏の裏に存在するサービスの提供者なんだ。……デビルスレイバーだ」

「なっ……!」

 ティースは驚愕に声を張り上げてしまった。

 慌てて口を抑え、そして潜めた声で続ける。

「デビルスレイバー……だって……!?」

 名は知っている。だが、それが実際に商売として行われている場面に出くわすのは始めてのことだった。

 デビルスレイバー――それは魔の奴隷という意味ではなく、その逆、魔を奴隷として売買する者たちのことである。

 デビルサイダーと違うところは、魔を使役してなにかをするのではなく、完全な商品として扱っていること。檻の中に捕らえた獣魔や人魔同士を戦わせて見せ物にしたり、人魔の少女に娼婦まがいのことをさせることもあるという。

 大きな危険の伴うビジネス、だがそれゆえに、少々歪んだ趣味の金持ちによる需要が絶えないと言われていた。

「このリガビュールに、デビルスレイバーの組織があるってのか……?」

 コクリと、エルはうなずいた。

 そしてグッと拳を握りしめる。

「俺はそれを救済する組織『キュンメル』に所属――協力していたんだ」

「……キュンメル?」

 どこかで聞いたことがあるような名前だった。

(確か、正体不明の魔の組織――)

 その目的も不明。

 だが、

「キュンメルは人間に不当に捕まった、罪のない魔を救済するための組織なんだ」

 エルはそう説明して、さらに続ける。

「けど、1週間ぐらい前、この街に来ていた仲間は俺を除いてほとんどがヤツらに捕まるか殺されるかしちまった。本隊と連絡を取ろうにも、警戒が厳重で街から出ることもできやしない」

 その言葉に、ティースは街に入るときのことを思い出して、

「そういや……俺たちが街にきた次の日あたりから、妙に街の中がピリピリしてたっけ」

 リィナを連れていた彼も一瞬ヒヤッとしたものだが、そこはレイから預かっていたミューティレイクの紋章のおかげで事なきを得た。

 ただ、そんな状況だから、リィナはなるべく宿から出さないようにして、待ち合わせ場所にはティースが行っていたのである。

「仲間たちの命が危ないんだ。それでひとりでなんとかしようとして組織の中に潜入したはいいけど、結局見つかってこのザマだ」

「ひ、ひとりでって、そんな無茶な……」

 ティースがたしなめようとすると、エルの表情が歪んだ。

「無茶でも……やるしかないだろっ!」

「――!」

「あ……悪い」

 驚いた顔のティースに、エルは少し慌てて口を塞いだ。

「お前には……関係のないことかもしれないな。なにより、危険だし……」

 そしてチラッと彼のぶら下げた剣に目をやって、

「悪い。聞かなかったことにしてくれ」

 背を向けた。

「……」

 ティースは無言でその背中を見つめる。

(エル……)

 明るく、見た目の幼い可愛らしい少年。自分のことを『ボク』と呼び、どこか女の子のようでもあった少年。

 だが、そんな昔の印象は、この再会によってあっさりと崩れ去っていた。

 いま彼の目の前にいたのは、外見は幼くとも、揺るぎない決意と勇気を秘めた、紛れもないひとりの男――

 胸の奥が熱を帯びる。

「エル。待ってくれ」

「……」

 ピタッとエルの足が止まった。そして、ゆっくりと振り返る。

 ティースは言った。

 拳に力を込めて。

 それよりも力強い意志を、言葉に乗せて。

「俺も手伝うよ。お前の言うことが本当なら、それは絶対に許せないことだ」

「……ティース」

 驚きに、エルの目がゆっくりと見開かれた。

 その目を見つめ返したままティースはうなずいて、

「でも、無茶はなしだ。ひとまず、宿に戻ってリィナに事情を話してから――」

「ま、待ってくれ、ティース」

 だが、エルはまたしてもそれを拒否した。

「……エル?」

「その……なんだ」

 エルは少し視線を泳がせて、

「リ、リィナ……は……その、なんていうか……危険な目に遭わせたくない、というか……」

「え?」

 不思議そうな顔のティースに、エルは少し焦ったような顔をする。

「お、お前も男ならわかるだろっ! 女を危険な目に遭わせるわけにはいかないじゃないかっ!!」

「……」

 ティースはしばし、きょとんとした後、

「……えっと……エル。聞いたことなかったけど……お前って、アレだよな? たぶん、下位魔……」

 思わずそう尋ねていた。

 先ほどの追われていた状況、そしてティースに抵抗しなかったこと……それらを考えると、力量的に彼が上位魔や将魔ということは考えにくい。

「なっ、なんだよ、突然」

 肯定はしなかったが、その反応はどうやら図星である。

「……」

 そんなエルをしばらく見て……そして、ティースの口には苦笑が浮かんだ。

(危険な目に遭わせたくない、か……)

 下位魔である彼が、王魔であるリィナに対し、女だから危険な目に遭わせられない、と言うのだ。どんな天変地異が起ころうとも、リィナの方が圧倒的に強いに違いないというのに。

「お、おい……俺、なにか変なこと言ったのか?」

 慌てた様子で少し不安げな顔のエルに、ティースは首を振って、

「いや、気持ちはわかるよ。……そっか。そうだよな」

 そう言った。

 危険――力という点では心配なくとも、そのために正体をさらすことになるならば、それはもちろん危険なことだ。

 ティースだって、彼女にそういう危険なことをさせるのは本意ではない。

「だ、だろ?」

 ホッと胸をなで下ろしたエル。

 ティースはそんな彼を見て、ふと思った。

(こいつ、もしかしてリィナに惚れてるのかな……)

 確かに彼らは昔から仲良しだった。こっちの世界にいたときは、子供だったとはいえ、あの蔵の隠し部屋で2年ほどを一緒に過ごしていたし、今回こっちの世界に一緒に来たことも考えると、向こうでも交流は続いていたのだと思われる。

 思わず、笑みが浮かんだ。

 だが、少しだけ、得体の知れないモヤモヤしたものが胸を過ぎる。

(……?)

 もちろん自覚のなかったティースは、それがほんのかすかな『嫉妬』の感情だったということには気付かずに。


 ――そうして再会したばかりの2人は、ゲノールトに囚われた者たちを解放すべく、共に行動することになったのだった。


-了-

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