その2『ミューティレイクとアレルギー』
件の戦いから約15分後。場面は再びティースの家へと戻っていた。
貧乏な一軒家といえ、家の中はそれなりに清潔だ。ティースはそれほどでもないのだが、同居人のシーラがキレイ好きなので頻繁に掃除をするためである
いや。
掃除を『やらせる』のである。
誰に――という問いはあまりに残酷なのでやめておこう。
とにかくそんなこんなで家の中は非常に清潔だ。もちろん脱ぎっぱなしの衣類――特に下着とかが散らばってるというようなこともない。そういうことをすると、ありとあらゆる罵詈雑言が飛んでくるのだ。
誰から誰に向けて、どんな類の、なんてこともいちいち説明する必要はないだろう。
だから家の中は清潔であり、かつ整然としているのだ。
そしてティースも、このときばかりはシーラのキレイ好きに心から感謝することとなっていた。
「先ほどは本当に助かりましたわ」
というのも。
「私はファナと申します」
感謝の言葉を述べた後に、あからさまに高貴な家の者とわかる少女はこう名乗ったのである。
「ファナ=ミューティレイクです」
「……ファナ?」
オウム返しのようにティースは繰り返した。
その状況を見れば、彼が少なからず驚いていることは想像できるだろうが、実をいうと彼が繰り返したかったのはそっちではない。
その後、つまりはファミリーネームのほうだ。
「ミューティレイク……ミューティレイクだってぇッ!?」
彼が驚きの叫びを発したのは、彼女が名乗ってから10秒ほど経過してからのことだった。
「はい」
にこやかにうなずく少女、ファナ=ミューティレイク。
ちなみに彼女は今、ティースがいつも寝起きしているベッドに腰掛けており(ソファなどという贅沢なものはない)、彼女に付き添っていた黒髪の男がそのすぐ横に立ち、ティース自身は床に直に座っている。
それはもちろん、相手がおそらく貴族の娘であることを気遣ったためであり、それが彼にできる最高のもてなしでもあったためだ。
が。
彼女の名を――正確にいうとファミリーネームを耳にした瞬間、彼は自らの浅はかさを呪っていた。
(あ……後で怒られてもいいから、シーラの部屋からまともなクッションのひとつでも持ってくるべきだったっ!!)
そう思ってみても後の祭り。
というか実際は、それを持ってきたところでおそらくたいして変わりはしないだろう。
『ミューティレイク』
ネービスにいる貴族の家名など、ティースはほとんど把握していない。もちろん領主であるネービス公は知っているが、いわゆる貴族の枠に入る家というのはそれなりの数があって、それもピンからキリまである。
そんなものの名前を必要もないのに覚えられるはずがないし、ついでに言うとこのネービスに住む一般市民のほとんどは彼と同じ感覚でいるだろう。
だが、そんな彼であっても……そして、彼と同類項でくくられる一般市民であっても、ミューティレイクの名はそのほとんどが知っているはずだった。
簡潔に言うと、かの家はこのネービスのナンバー2だ。
領主であるネービス公とも遠戚関係にあるミューティレイクの家は、政治的なことにこそほとんど関与しないものの、このネービスのシンボルともいえる学園群の総元締めともいうべき存在なのである。
「てことは、君――じゃなくて。あなたはミューティレイク公のご息女様ってわけですか!?」
ティースは完全に慌てていた。
貴族と話をすることは初めてではないし、むしろそこそこ慣れているほうではあったが、さすがにここまでの大物を相手にするのは経験がない。
「?」
対するファナは不思議そうな顔をしていた。
といっても、彼の言葉が理解できなかったわけではなさそうで、
「私、まだ独身ですけれど?」
「――は?」
その瞬間、微妙な空気が流れた。
(……どういう意味だ?)
その言葉の意味を、ティースの頭は理解できなかった。
いや、彼ならずとも理解するのは難しいだろう。会話が食い違っているらしいことは容易に想像がつく。
だが、そんな彼の心中にも気付かず、ファナは言葉を続けていった。
「私ぐらいの年齢でご結婚なさってる方もたくさんいらっしゃいますけど、私はまだ独身です。もちろんまだ娘もおりませんわ」
ニッコリと答えるファナ。
「……あの」
聞くのは失礼にあたるかもしれないとは思ったが、結局理解できなかったティースは尋ねることにした。
「私は、ですから、その。あなたがミューティレイク公のご息女様で――」
「ティースさん」
その言葉を遮って、ファナが少しだけ目を細める。
(……ヤバい!)
どうやら気分を害してしまったらしい、とティースは一瞬恐れた。
が。
「ティースさんはおいくつですの?」
「……え?」
まったく理解できない展開を見せる会話に、彼の頭の中は完全に混乱モードである。
「御歳の話ですわ」
律儀に付け加えるファナ。
「いや、それはわかってる……ますが」
「おいくつですの?」
さらに追求してくる。
ティースは答えるしかないと、そう判断し、
「えっと、先月18歳になったばかりです」
「そうですか」
すると、彼女は再び先ほどまでの穏やかな微笑みを取り戻した。
「私は今年の1月で17歳になりました。ティースさんは私よりも年長ということですわ」
「……はあ」
やはりなにが言いたいのかわからなかったが、その先に続いた彼女の言葉で、ティースはようやく理解することができた。
「ティースさんは私を助けてくださいました。命の恩人です。それに私より年上でもありますのに、どうして私に敬語を使われるのですか?」
「……え」
それは彼にしてみれば意外過ぎる問いかけだった。
確かにこのネービスではかなり前に明確な身分制度というのはなくなっている。いわゆる貴族という言葉も、そのほとんどは古くから続いている金持ちという意味でしかなく、そういう意味で本当の特権階級というのは領主であるネービス公家のみなのだ。
だがそうはいっても、人々の心には古くからの身分格差みたいなものが染み付いているのも確かなことであり、特にミューティレイクのような『ほぼ特権階級』というのが暗黙の了解と化している大貴族には、ほとんどの人間が自然とこうべを垂れてかしこまるものなのである。
もちろんティースもご多分にもれずという感じだったのだが、こうして面と向かって質問されると返答に困るところではあった。
「そりゃまあ……あなたはミューティレイク公のご息女様ですし、私は一般市民なわけでして……」
少し考えた末、結局ティースは正直に答えることにした。
「?」
再び、ファナは不思議そうな顔をする。
「そのご息女様というのは、どなたのことですの?」
「え?」
また話が噛み合わなくなっているようだ。
と、そこへ見かねたのか、
「ティースさんは、どうも勘違いなさっているようですね」
それまで黙っていた黒髪の男が口を挟む。
「え?」
そちらに視線を向けると、男は穏やかに微笑んでいた。
戦いの最中はほとばしる殺気を放っていた男だったが、こうして改めて見てみると全体的に線が細い。黒い正装姿は戦いの痕跡を残して汚れていたが、それさえなければ完全に良家のご子息といった雰囲気だった。縁なしの眼鏡がなおさらそのイメージを増幅させている。
口調もまた、それに似合った優しげなもので、
「こちらの、姫――ファナ様はミューティレイク公のご息女様ではありません」
「え? でも、ミューティレイクって……」
ティースは当然のように戸惑った。
もちろんかの家は古くから存在しているから、枝分かれしていった分家がいくつも存在してはいる。が、ミューティレイク家は領主であるネービス公家と同じく、その姓を名乗るのは本家の人間だけ……というのは、ネービスに住む人間にとって周知の事実である。
ミューティレイクを名乗った以上、少なくとも彼女は本家の人間であるはずなのだ。
……と、そんなティースに向かって、黒髪の男は相変わらずの笑みを浮かべたままで付け加えたのである。
「なぜならファナ様はすでにミューティレイク家の御当主なのです。ティースさんはご存じなかったようですね」
「……え゛?」
男の言葉にティースの思考が一瞬停止する。
そして、
(……そういえば)
ティースはすぐに思い出した。
(俺たちがここに来る1年ぐらい前、ミューティレイク公が暗殺されたって大事件があったっけ……)
もちろん忘れていたわけではない。が、彼にはあまり関わりのない世界の話だったので、ついつい頭から抜け落ちていたのだ。
そしてもうひとつ彼が思い出したこと。
ミューティレイク公は子供に恵まれず、その後継ぎは歳の離れた娘ひとりしかいなかったという人伝いに聞いた話。
(ってことは、つまり……)
「?」
驚愕の視線で見つめたティースに、ファナは相変わらずの穏和な笑顔で応える。
(この子が……現在のミューティレイク公!?)
決して大袈裟ではなく、それは大事件だった。
そりゃ彼とて、貴族という人種に接する機会がまったくなかったわけではない。過去にはその元で仕事したこともあるし、ごく普通の一般人に比べれば接する機会が多い方だったと言ってもいいだろう。
が、今回ばかりは少しレベルが違っていた。
大陸第2と言われるこのネービス領。その中でネービス公に次ぐ存在ということは、つまり大陸全土を合わせても簡単に指で数えられてしまうほどの実力者ということでもある。
ティースのごとき一般市民など、その存在ごと抹消してしまえる――なぜか思考がネガティブ方面に偏ってしまっていたが、それほどの力を持つ存在なのだ。
と、そんな彼の心情を知ってか知らずか。
「ところでティースさん?」
ファナはまるで旧知の友人であるかのように、ごく自然に話しかけてきた。
当然、この状況で彼がまともな反応などできようはずもなく、
「は……はい! なんでしょうッ!?」
敬礼でもしそうな勢いでかしこまってしまう。
「……」
その返答にファナは少しだけ首をかしげた。
そして、
「は……?」
少し思案げな顔をすると、怪訝そうなティースの眼前で、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
「あ、あの――」
ふわりと、かすかに花のような香りが鼻孔をくすぐる。
ティースはその行動を怪訝そうに見つめていたが、彼女が向かい合うように床に直接腰を下ろしたのを見て、大いに慌てた。
「あ……え、えっと、その! な、なにかお気に召さないことでもありましたか!?」
「はい」
ファナは即答した。
表情は柔和なままでそれほど怒っている感じはしないが、それがかえってティースにとっては恐ろしい。
(な……なんだ! なにが気に入らなかったんだ!?)
考えてみても、すぐに思い当たる要因はない。
ベッドはキレイだったはずだし――いや、そうは言っても彼が毎朝寝起きしているベッドである。あるいはそれが気に触ったのだろうか。
彼が混乱した頭でいくつかの可能性を探っていると、
「先ほども申しましたけれど」
正座で向かい合ったまま、それでもやはり上品さを崩さないたたずまいでファナは言った。
「ティースさんは私よりも年上です。私の侍従というわけでもありません。ですから、もっと自然に接していただきたいのです」
「……え?」
先ほどの言葉を思い出す。
(そういや……そんなようなこと言ってたけど……)
「……」
失礼だとは思いつつも、ティースは少々呆気に取られてマジマジと見つめてしまった。
「それとも」
ファナは少し不思議そうな顔をして、
「ティースさんはどなたに対してもそのような態度なのですか? もしそうであれば無理にとは言いませんけれど」
「あ……いや」
(……どうやら、この人……)
ティースもそこでようやく理解にいたった。
この、目の前にいる少女――ファナという名のミューティレイク家当主が、どうやら少々変わった性格の持ち主である、ということに。
そう認識して改めて彼女を見てみると、なるほどと思う。
ほんのわずかに垂れ目がちな穏やかな瞳。全体にまとうおっとりした雰囲気と、育ちの良さをのぞかせる仕草。
そしてよくよく聞いてみれば、非常にのんびりとした柔らかな口調。
高貴さを失わずにいながら、とても親しみやすい。
「じゃあ……」
さすがにその瞬間は緊張したが、ティースは決意して口に出した。
「……ファナさん、って呼んでもいいのかな?」
「はい。そうお呼び下さい」
ニッコリと。本当になんの裏もない、まばゆいばかりの笑顔でファナはうなずいた。
その様はまるで満開に咲いた可憐な花のようだ。
(……う)
それを見た彼の頭に、瞬間的に血が上る。
(ダ……ダメだダメだ! しっかりしろ!)
真っ白になりかけた自らを、ティースは心の中で思いっきり叱咤した。
――そうそう。
どうやら彼について、最も大事なことをまた説明していなかったようだ。
(こんなところで例のアレが出たら……目も当てられないぞ!!)
実を言うと、彼は『病気』なのだ。
いや、病気という表現が正しいのかはわからない。悪いクセとでもいったほうが近いのかもしれない。
こういう若い女性……ことに魅力的な女性を間近にすると、その病気が顔を出してしまうのである。
それは、まともな日常生活を送ろうとする上でかなり大きな障害だった。原因は不明で治し方も不明であり、彼もほとほと困っているところなのだ。
「……ところで」
満足したのか、ファナは会話を元に戻した。
「ティースさん? もしよろしかったら、その剣を見せていただけないでしょうか?」
「え? あ、剣?」
突然の申し出に、ティースは自分がまだ腰に剣を帯びたままだったことを思い出す。
「もちろんいいけど……」
刃物を握らせても大丈夫なものか、と思い、黒髪の男の顔をうかがうと、
「お願いします。私も少々興味がありますので」
「わかった」
男の答えにうなずいて、腰から鞘ごと外す。
「失礼します」
手を伸ばしたのはファナではなく黒髪の男の方だった。
両手で丁寧に受け取ると、縁なし眼鏡の奥からじっと鞘を見つめ――それからその視線は柄へ移動する。
「この宝石は?」
その動きが、柄の先にはめ込まれたエメラルドブルーにきらめく宝石のところで止まった。
「ああ、それは……昔、知り合いにもらったものだよ。身を守る道具につけるお守りだっていうから、そこに填め込んでもらったんだ」
「お守り、ですか」
納得したようにうなずいて、
「刀身を見てもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
かすかな摩擦音を立てて、剣が引き抜かれる。
「なるほど」
現れた刀身を眺めつつ、
「なかなかいいものですね」
男は特別な反応を示すことはなく、明らかにお世辞とわかる程度の言葉を添えてそれを再び鞘に納めた。
「ところで、ご職業は?」
それをティースに返して、男はさらに質問をしてくる。
「一応、傭兵ってのをやってる。仕事はあんまりないけどね」
自分で言っていて空しくなりつつ、特に隠すことでもないので正直に答えた。
ファナは不思議そうに首をかしげながら、
「ティースさんほどの腕前でしたら、仕事はたくさんありそうですわ」
「そ、そんなことないよ」
真顔で言われ、ティースは照れながら頭を掻く。
「実際には剣なんて小さいころに少し習ってたぐらいでさ。さっきのだって無我夢中で、自分でもよくわからないうちに……ほとんどまぐれだよ」
「まぐれ……ですか」
黒髪の男はそう言って、少し苦笑する。
「まぐれでどうにかなる相手ではなかったんですけどね」
「?」
そのつぶやきはティースの耳にまでは届かなかった。
会話が一瞬途切れる。
(……そういや)
そこでようやく、一番聞いておかなきゃならないことを確認してないことにティースは気付いた。
一瞬だけ迷ったが、結局それを口にする。
「ところで……あの。ファナさんを襲った連中って?」
「……」
「……」
その問いに、2人は一瞬だけ視線を合わせた。
話すべきか否か――それがそんな感じの仕草であったのは、いくらティースでもすぐに理解できた。
「あ、いや、俺なんかが聞いていい話じゃないなら、もちろん話さなくても――」
「いいえ」
ファナは首を横に振って、
「ただ、お話しすることでティースさんにご迷惑がかかるかもしれませんわ」
「迷惑……か」
言葉の意味は充分に理解できた。
ミューティレイク家の当主を狙うほどの相手。その情報を耳にするということは、もしかするとティースもそのイザコザに首を突っ込むことになるかもしれないのだ。
気軽に関わることでないのは明らかだった。
「アオイさん」
「はい」
ファナの呼びかけに、黒髪の男が答えた。
ここで初めて、彼がアオイという名の人物らしいことが判明する。
「すぐ屋敷に戻ることは叶いますでしょうか?」
その問いにアオイは難色を示した。
「今は危険かもしれません。敵の規模もわかりませんし、ひとまずは身を隠して機会を待つのが最善かと。明日になればレイさんとアクアさんが屋敷に戻る予定ですし、1日2日もあれば我々を発見してくれるでしょう」
「ですが、この辺りでは身を隠す場所の心当たりがありませんわ」
「とは言いましても、今の状況で屋敷に戻ろうとするのは危険があります。もちろん敵がこの失敗ですでに諦めた可能性も高いですが……」
「……あの」
「?」
「はい?」
口を挟んだティースに、2人の視線が一斉に彼を向く。
「いや、もしよかったら」
2人の会話の細かい部分まではティースには理解できなかった。が、どうやら彼らが身を隠す場所に困っているらしいことはわかる。
そう認識した瞬間、特に深く考えることもなく彼は口に出していた。
「ここでよければ、とりあえず使ってくれてもいいけど」
「……え?」
驚いたような顔をしたのはアオイだった。
「よろしいのですか?」
一方のファナの方は素直に感謝の色を表しながら、それほど意外な顔はしない。
あるいは彼女は、ティースという人間の性格をある程度見抜いていたのかもしれない。
「それは助かりますけど……本当にいいんですか?」
そう問いかけたのはアオイだ。
「確かにこうした一般家屋に隠れてしまえば、敵もそう易々とは見つけられないと思いますが……万が一、危険があるかもしれないんですよ?」
「……あ、いや、それは困るなぁ」
途端に弱気になるティース。
考えてみれば、ここに住んでいるのは彼ひとりではない。一緒に住んでいる彼女まで危険にさらされるとなれば、やはり簡単に決められることではなかった。
(でも、困ってるみたいだしなぁ……)
と、ここが根っからのお人好しであるティースという人物である。
厄介事が嫌いでありながら、困っている人間を放っておくことができない。だからこそトータル的にはいつも厄介事を引き寄せる。今回、この2人と関わることになったのも、元はといえばその性癖が原因であり。
それにここで2人と別れた場合、明日になって『ミューティレイク公、再び暗殺さる!!』なんてニュースが流れていたら、彼はおそらく本気で首を吊るほど落ち込むに違いなかった。
こうして少しでも顔を合わせ、言葉をかわしてしまった以上、単なる『赤の他人の不幸な事故』で処理することは、彼には到底不可能なことなのだ。
それに……彼はこの、ファナという大貴族の少女に、常人よりも若干上向きの好印象を抱いてしまっている。
「じゃあ、とりあえず」
そこで、ティースは妥協案を出すことにした。
「一緒に住んでる――えっと、妹――が帰ってきてから相談ということでどうかな?」
とっさに妹だということにしたのは、もちろんあらぬ誤解を避けるためだった。
もちろん向こうはそんなことに興味などないだろうし、誤解されたところでどうということもないのだろうが、そういう意味のないところに気を遣うのもこのティースという人物なのである。
「一緒に暮らしてる方、妹様だったのですね」
2人とも特に意外そうな顔はしなかった。
おそらくもうひとつの部屋の存在から、同居人がいることには気付いていたのだろう。
「奥様かと思ってましたわ」
「まだ独身だよ」
本気で意外そうなファナの言葉にティースは苦笑し、
「とにかくあいつが帰ってきたら話してみて……それから決めよう」
そう結論づけた。
(とは言ったものの……)
その『あいつ』――つまりシーラがどんな返事をするのか、ティースにはいまいち想像できない。
(最近のあいつはちょっと……わからないからなぁ)
以前のことならともかく、今の彼女の心を予測するのは彼にとって難しいことだった。
「では、それまで待たせていただいてもよろしいのですか?」
「うん。たいしたもてなしはできないけど。えっと、そっちの……」
ティースが少し困った様子で見ると、アオイはハッとした顔をして、
「あ、す、すみません! そういえば私、自己紹介がまだでしたね!」
初めて気付いた、と言わんばかりの顔をして慌てた。
どうも最初のイメージとだいぶ違って見える。ティースはそんな風に感じたが、アオイはそれには気付かない様子で自己紹介を始めた。
「私、姫の執事兼ボディガードで、イングヴェイ=イグレシウスと申します。以後、よろしくお願いします」
「執事兼ボディガード?」
思わず繰り返したが、それよりももっと疑問なところがあった。
「イングヴェイ……? でもさっき、ファナさんがアオイって……」
「あ、そ、それは」
アオイはやはり慌てた様子でファナを見る。
一方のファナは特に慌てた様子もなく、ずっと保ち続けているのんびりとした口調で答えた。
「愛称ですわ。ティースさんもどうかそうお呼びください」
ニッコリと。
「あ、愛称……?」
イングヴェイ=イグレシウスなんていかつい名前が、どうやったら『アオイ』になるのかティースにはまるで理解できなかったが、そこまで突っ込む気にはなれなかった。
「それと……『姫』ってのは?」
よく考えてみると、彼の自己紹介はツッコミどころ満載であった。
「あ、いえ、それは……私のクセで、ついつい主人のことを姫と呼んでしまうのです」
「はぁ」
これまた理解に苦しむクセであったが、これも突っ込まないことにした。
どうやらミューティレイク家の当主と執事は、相当に変わりもののコンビのようだ。
「……では」
そんなハテナマークが5個ぐらい付きそうな自己紹介を終え、気を取り直したアオイ――ここではこれで統一することにしよう――は軽く会釈して、
「私は一応この周辺を探ることにします。地形も把握しなければなりませんし……おそらく10分ほどで戻ると思います」
そう言うと、今度は懐から笛のようなものを取り出した。
「ティースさん。もしも私がいない間に何かありましたらこの笛を吹いてください。すぐに駆けつけますので」
「ああ、うん。わかった……」
「とは言っても」
ちょっと緊張した面持ちで受け取ったティースを安心させるように、
「なにかあれば吹く前に私の方が気付くはずです。あまり歩き回ると敵に見つかる可能性もありますし、近くをチェックして歩くだけですから」
「あ、なるほど」
ティースは安心した。
(けど……あれ? なんかおかしいような?)
ホッとしつつもなにか釈然としないものを感じながら、アオイの後ろ姿が玄関の方へと消えていくのを見送る。
「……あれ?」
パタン、とドアが閉まる音を聞いて、ティースはようやくその違和感に気付いた。
「いいのかな? ボディガードの人が離れちゃったりして」
「?」
不思議そうな顔のファナに、ティースは彼女の方に向き直って、
「だって……その、俺ってのは、ファナさんたちにとっちゃ、ほとんど初対面なわけだよね?」
「ええ、そうですわ」
「だからつまり……そんな俺と2人っきりにしちゃってもいいのかな、って」
それはティースでなくとも当然の疑問だろう。
確かに彼は先ほどこの2人を助けはしたが、それだけで信じるというのも少し浅はかすぎる。助けたことだって、邪推しようと思えばいくらでも理由付けができるはずで。
彼女のような身分の人間であればもっと慎重であってしかるべきだろう。
「それは大丈夫ですわ」
ただ、ファナは事も無げに答えた。
「ティースさんは信用できる方ですから」
「……なんで?」
意表を突かれた様子のティースに、ファナはちょっとだけ首をかしげ、
「と言われましても」
それでもあまり考えた様子もなしに、
「なんとなく、ですわ」
「……なんとなく?」
「はい」
ファナはニッコリと微笑んだ。
やはりなんの邪気もない、心が和むような笑顔だった。
「なんとなく、ティースさんは信用できる方だと思いました。ですからアオイさんは気兼ねなく出ていかれたのですわ」
「……」
言葉を失うティース。
(な、なんて純真な人なんだ……!)
とりあえず感動すると同時に、当初、色眼鏡で彼女を見ていた自分を深く恥じるのだった。
……普段、シーラに色々なひどい仕打ちを受けているためか、少々感動のラインが低くなっていたのかもしれない。
と、そんなわけで。
(よし! シーラの奴がなんと言おうと、俺は絶対にこの人たちをかくまってみせるぞ!)
それは、彼にとってはかなりの一大決心である。それほどまでにこのファナという少女の言葉は彼の心を動かしたわけなのだが。
ただ――だからこそ。
彼が普段、最も『気を付けて』いること。
そして今の『この状況』であれば尚更、気を付けていなければならないこと。
それが頭からスッポリと抜け落ちてしまったのだ。
「あ、ティースさん?」
予兆は、何事かに気付いたらしいファナの声。
「お怪我をなさってるみたいですわ。胸の――」
「……え?」
感動の世界に浸っていたティースが、ようやく気付いたとき。
『それ』は彼の第一次防衛ライン及び第二次防衛ラインをとうの昔に突破し、警戒領域をも越えて危険領域へと到達しつつあった。
すなわち。
「――!?」
ファナの手が、彼の胸に触れようとしていたのだ。
……ドクンッ!!
心臓がひときわ大きな鼓動を打つ。
避ける術はなかった。
「ちょっ……!」
制止も間に合わず。
まるで陶磁器のような可憐な指先が、そっとティースの胸に触れる。
その瞬間、脊髄を貫いていくような衝撃。
(ぅ……!)
全身の血が頭に集中した。
両手、両足の先の感覚がすぅ――っと薄くなる。
そして――
「ティース、さん?」
不思議そうなファナの声。
……彼が覚えているのはそこまでだった。
なぜなら――彼の意識はそのときすでに闇の淵へと落ちてしまっていたのである。