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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第4話『慟哭・縁・訣別』
29/132

その5『必死の嘘』


 ――6年前。

 それは冬も近付き始めた、とある日のこと。


『ティース!』

 誘われて、ティースは森の中へと足を踏み入れていた。

 そう深いところではないし、猛獣が出るようなところからは離れているから安全だろうと思っていた。

『ティース! さぁ、早く! 早く私を捕まえてごらんなさい!』

 笑いながら目の前を駆けるのは、彼よりも3つほど年下の少女だった。その様子に苦笑しながらも、少し手加減して追いかける。

 風は冷たい。夕日も沈み始めていて、こうして遊んでいられるのもそう長い時間ではないだろう。

 と、そんなときだった。

『ぁ……』

 少女が突然立ち止まる。

『?』

 ティースが不審に思って近付くと、少女は大きく目を見開き、すぐにきびすを返して彼の後ろに隠れた。

 そして、

『ティース、あれ……』

『え?』

 それを見た瞬間、警戒心が胸にあふれる。

『……あれは』

 そこにいたのは、一見警戒する必要などなさそうに見える2人の子供だった。

 ひとりは少女より少し小さいぐらいの、小柄な、おそらくは男の子。

 そしてもう片方は、ティースと同じぐらいの年齢の、おそらくは女の子。

 だが――

『……』

 無言で後ずさる。

 恐怖がティースの体を駆け抜けていた。

 ――魔。

 その2人の子供は、その特徴である大きく尖った耳をそこに備えていたのだ。

『……下がって』

 後ろの少女にそう言いながら、ティースは2人の魔を強い視線で見据えつつ、自らも少しずつ後退していった。

 ――魔は人に危害を加える存在。

 ――その生命を脅かす存在。

 彼は大人たちからそう聞いていた。

 だから。

 だけど――

『ぁ……』

 小柄な男の子は、そんな彼らの反応を悲しそうに見つめたあと。

『……違う』

 その瞳に涙を浮かべて言ったのだ。

『違うよ……ボクらは、敵なんかじゃない……!』




「ずいぶんと長い散歩でしたね、ティースさん」

「ん? あ、ああ、パースくんか」

 ラムステッド邸に戻ったティースが考え事をしながら歩いていると、廊下の向こうからパーシヴァルがやってきた。

 パンを右手に、左手には肉料理らしきものを鷲づかみにしていて、

「この屋敷の唯一いいところは、こうやって行儀の悪いことをしてても、誰にも咎められないってことっすね」

 笑いながらロールパンにかじり付く。

 確かに廊下を歩きながらモノを食べるなど、ミューティレイクではなかなかできないことだ。

 ティースは苦笑を返しながら、やがて思いついて問いかける。

「それ、もしかして夕食か?」

「ええ。例によって食堂に適当に用意してありますよ。女主人さん、どう見ても一同に介して食事ってタイプじゃないですもんね」

 その言葉にピンと閃いた。

「そうか。……じゃあ、俺も君を見習うとしようかな」

「? またどこか行くんですか?」

 すれ違いざま、ティースはうなずいて、

「外の空気が意外に気持ち良くてね。お腹が空いたもんだから戻ってきたけど、そうやってパンをかじりながら外を歩くのも悪くなさそうだなと思って」

「へぇ?」

 パーシヴァルは少し意外そうな顔をしたが、特に疑ったりそれ以上突っ込んだりすることはなく、

「でも、本当に暗くなる前に戻った方がいいっすよ。レイ隊長は大丈夫って言ってましたけど、ティースさんは例の魔に顔を知られてるから、狙われるかもしんないし」

「ああ、気をつけるよ」

 そうしてパーシヴァルと別れ、食堂に向かう。

(……なるほど。確かに適当だ)

 用意されていたのはバイキング形式の料理。パンやミルク、他にもいくつかの料理が並んでいたが、すでに冷めかけている。他の面々はすでに終えたのか、あるいはこれからか。今は2人の使用人がいるだけで、食事をしている者はいなかった。

 だが、それはティースにとって好都合だ。

「これ、外に持ってってもいいのかな?」

「え? あ、ええ。はい」

 彼の問いかけに、20歳過ぎぐらいの若い使用人女性がうなずいた。

 どことなく素人っぽい感じの反応で、主人のパトリシアは使用人の教育にもあまり興味を持っていないのかもしれない。

「ありがとう」

 他の料理には目もくれず、パンだけを3つ抱えて食堂を出た。その中のひとつを口に運びながら、廊下を抜けて屋敷を出ていく。

(もうしばらくしたら日も暮れるな……)

 夕日の中、相変わらず人気のない街の中をしばらくブラブラと歩き、かなり遠回りをしながらその足は外れの方へ。

(……たぶん、付けられてはいない)

 確信ではなかったが、少なくとも彼自身はそういった気配を感じなかった。

 現状で彼を尾行する者がいるとは思えなかったが、これからの向かう先を考えると、念入りに警戒せざるを得ない状況だったのだ。

 たどり着いた先はもちろん、街の外れにある廃屋。その隣に建つ蔵だった。

 入りぎわに再び周囲を警戒し、素早く中に入ると、隠し部屋の入り口を開いて階段を上っていく。

「……リィナ」

 屋根裏では、リィナが出ていったときと変わらぬ体勢で彼を出迎えてくれた。

「ティース様。外は大丈夫でしたか?」

 ティースはひとつうなずいて、天井の低い部屋の中、腰をかがめて入っていく。

「パンを持ってきたよ。お腹空いてるだろ?」

「あ、はい。すみません。……ティース様は?」

「俺は来る途中で食べてきたよ」

 パンを2つリィナに手渡し、その場に腰を下ろす。

「それより――」

 そしてすぐ、問いかけることにした。

 彼がここで気絶して目覚めた後、彼女から聞かされた事件の『真相』について。

「あれは本当なのか? 獣魔を操っているのが――」

「はい。……ティース様。彼らはなにも、すべてがすべて好んで人を襲うわけではないんです。もちろん好戦的な獣魔がたくさんいるのは否定しません。私も昨日、襲われる女の子を助けるために、獣魔を殺すことになってしまいました。でも『水の七十五族』と呼ばれるその獣魔は、普通の状態では決して人を襲ったりはしない種類なんです」

「……それは初めて聞く話だなぁ」

 水の七十五族。ナメクジのような体躯。粘着質の体は酸をまとっているが、動きは遅く、獣魔の中でもおそらくもっとも底辺に近い場所にいるタイプ――それが、ティースの、というよりも、それについて学習した者すべてに共通する認識だった。

 そこにはもちろん、リィナが言ったような内容は含まれていない。ティースを含め、この世界の人々がそれを学習するときは、そのすべてが人に害を為すものだ、という前提で考えるからだ。

 だが、ふと思い出す。

(でもそっか。水の七十五族って確か、人前に姿を現すことはめったにないとも書いてたな……)

 あるいはそれが、彼女の言葉の正しさを裏付けているのだろうか。

 ティースは納得するとともにうなずいて、

「じゃあ、それが人を襲ったというのは……」

 少しだけ、リィナの視線が落ちる。

「人魔の支配によって強制的に動かされているのか、あるいは――」

 表情が険しさをまとった。

 普段は穏やかだが、露わにする感情は意外なほどに強い。それは、ティースが知っている昔の彼女となんら変わりのないものだった。

「人が、なんらかの方法を用いて『調教』した場合です」

「……それはつまり」

 目を見開いて言葉を切る。

 そういう方法を使って魔を使役する人間のことをどう呼ぶか、ティースは知っていた。

「デビルサイダー……?」

「……」

 無言でリィナがうなずく。

 にわかには信じられないことだった。だが、リィナを信じるという前提であれば、当然、獣魔を操っていたのも彼女ではないことになる。

 そして、昨日のように種族も強さもバラバラの獣魔たちが、自らの意志でいきなり結束して人を襲うことなどまず考えられない。

 やはり他に統率する者の存在が不可欠――とすると、確かにその可能性も充分に考えられることだった。

 ……ただ、もちろんそれはすべて、リィナを信じるのならば、という条件付き。

「……」

 ティースの視線の先で、リィナはひとつめのパンを食べ終えるところだった。

 まだ、結論は出ていない。

(……信じる?)

 自問する。

 魔を信じようとする彼の心は、とうの昔にひび割れていた。

 何人もの人が死んでいった。

 中には親しい人も混じっていた。

 彼らを殺したのは。

 彼らの未来を奪っていったのは、すべて――

(すべて、魔だった――)

 ゆっくりと、顔を上げる。

「……リィナ」

「はい?」

 彼女はちょうど、ふたつめのパンを口に運ぼうとしているところだった。

 長身の割に愛らしいその仕草。

 そこに重なる、なつかしい記憶。

 ――胸の奥でぶつかり合う、相反する2つの激しい感情。

 こじ開けるように、ティースの口は重々しく開いた。

「俺は……さ。この道を選んで、本当に色々なことを見てきたんだ」

「……はい」

 その表情から、彼女もまたなにかを察したのだろう。パンを口元に運ぼうとしていた手が止まり、それはゆっくりと膝の上へ。視線は真剣な色を帯びてまっすぐに向けられた。

 それは、そうだろう。

 彼女は一度、彼のむき出しの怒りをその身に浴びていた。彼がそれほどの怒りを発した理由……それを考えるならば、その先に続くであろう言葉の趣旨をおおよそ察したのは当然のこと。

 そのまま、重い口が開く。

「……心から尊敬できる人がいた。行く末を見守ってあげたい子がいた――」

 なにかをこらえるようにいったん言葉を切って、ひとつ息を呑み込み、続ける。

「夢や希望を抱いている人もいた。荷物を背負ってそれでも懸命に歩こうとする人もいた。……でも、みんな殺されていった。魔に、殺されたんだ。俺の見えるところで。俺の手の届く場所で」

 視線が少しだけリィナを離れ、ゆっくりと斜め下に落ちた。

「信じようと思った魔がいた。でも、そいつはとんでもないやつだった。人の命や想いや、色々な大事なものをもてあそぶ、とんでもない悪党だった。……俺は、だまされたんだ」

 拳が震える。

 それはいまだに消えていない、怒りの証。

 そして一瞬のためらい。

「……こんなこと言うと、いつまでもひとり立ちの出来ない子供みたいだけど……でも、リィナ」

 視線はもう一度、目の前の人物へと向けられる。

 その瞳は彼自身の言葉どおり、まるで頼りない子供のように揺らいでいた。

 それをまっすぐに見つめ返す少女は――おそらく彼の心にとっての、最後の砦。

「俺は、君以上に信じられる魔を他に知らない。君のことなら、今はまだ信じられると思う。今は、まだ――」

「……」

 ゆっくりと視線が落ちる。

 沈黙。

 そして、ポツリと、つぶやくように言った。

「それでも……リィナ。俺は……君を信じても、いいんだろうか……?」

「……」

 リィナの視線は、変わらずにまっすぐ。

 重苦しい沈黙。

 ……だが、一瞬の後。

「ティース様……」

 厳しさをまとっていた少女の視線が、ふっと緩んだ。

 そしてその右手が、ゆっくりと伸ばされる。

「リィナ……?」

 ティースは身じろぎした。彼女には先ほど気絶させられてしまったばかりだった。

 だが、その手は直前で止まって、

「あなたに触れられないことが……とても残念です」

 その口から紡ぎ出されたのは、まるで我が子を慈しむような、慈愛に満ちた声。

 白くて細い指が、きゅっと空気をつかむ。

「もし触れられたなら、そこから私の気持ちをすべて伝えられる気がするのに……ままならないものですね」

 そしてティースの顔のふちをなぞるように、リィナの指が降りていく。

「どうか、泣かないで……」

「え、泣いて――?」

 ティースは慌てたが、確認するまでもなく涙など流してはいなかった。

 それを見つめるリィナの目が優しげに微笑む。

「ティース様。私があなたの期待のすべてに応えられるかどうかはわかりません。でも、信じてください。心は。少なくとも私の心だけは、あなたを裏切ることは絶対にありません。たとえなにがあろうとも、決して」

「……」

 ドクン、と、ティースの胸が強い鼓動を打つ。

 奥が熱くなった。

 それは――どんな感情だったのだろうか。

 ただ呆然と、彼は目の前の少女を見つめていた。

 そして――

「話してもらえませんか? あなたが今までに感じたこと、苦しかったこと、哀しかったこと……私は、そのすべてが知りたい。すべてを知って、あなたのお役に立ちたい」

「っ……!」

 まるで染み出すように。

「リィナ……!」

 いつしか、ティースは彼女の言葉通りに涙を流していた。

 年下の少女の前で恥ずかしいとは思ったが、こらえきれなかった。

 久々に流す、哀しくない涙――

「リィナ、俺……俺は――ッ!」

「はい、ティース様」

 頭が熱くなってなにもわからなくなって、いつしか彼はすべてを打ち明けていた。

 サイラスのこと、ザヴィアのこと、ナナンのこと。助けた人、助けられなかった人、許せなかったこと――そのすべてを。

 そのたびに、胸に居座っていた黒い感情の塊が溶けていった。怒り、憎しみ、苦しみ、哀しみ、悩み――そのすべてが、すぅっと消えていく。不思議なほどに、あっさりと。

 そして彼は、その過程で初めて気付いた。

 ……支えてくれる者の存在。そのありがたさ。

 それは今の彼にとって、もっとも必要なものだった。ひとりですべてを抱えられるほど、ティーサイト=アマルナという人物は、まだそれほどに強くはなかったから。

 抱えてしまったものを、共に支えてくれる人間が、彼には必要だったのだ。

 そうして――どれだけの時間が経っただろうか。

「あ……はは」

 すべてを吐き出し、涙が乾いたころ、ティースはようやく落ち着きを取り戻していた。

 途端に恥ずかしくなって、ごまかすように笑いながら涙の跡を拭うと、

「ご、ごめんな、リィナ。久々に会ったっていうのに、愚痴ばっかりで……」

 リィナはクスッと笑って、

「いいえ。逆に安心しました」

「え?」

「ティース様が、昔とちっとも変わってないようで」

「……」

 ティースは赤く腫れたままの目を彼女に向け、それからようやく余裕ができたのか苦笑を浮かべて答える。

「はは……それ、成長してないって意味?」

「あ。い、いえ、そういうことではなくて」

 口を抑えて、リィナは少し慌てたような顔をする。

 その仕草もまたなつかしい。落ち着いているように見えて、その実、彼女は意外におっちょこちょいで、感情的で、そして頑固だった。

 暖かさが、さらに胸にあふれ出す。

 そして同時に生まれる、決意。

「もっといろいろと話したいこととか、聞きたいこととかあるんだけど――」

 ティースは腰を上げ、天井に頭をこすりそうになりながら階段へと向かった。

「それは、すべて解決した後にしよう。……リィナ。俺は屋敷へ戻るよ。戻ってすべてを暴く。君のぬれぎぬを晴らしてみせる」

「はい。ティース様」

 リィナは素直にうなずいた。

 その目は、再会したばかりだというのに、彼のことを完全に信じ切っていた。

 4年間のブランクなど、まるでなかったかのように。

「私が動けばまた騒ぎになるでしょうし、ここからはすべてティース様にお任せします。私は、ここであなたが戻ってくるのを待っています」

「はは。それってまるで、隠れて密かに逢引する恋人みたいだなぁ」

 笑いながらそう言って、直後、しまったと後悔する。

「ふふ、そうですね」

「あ……」

 彼女がためらいもせずにうなずいたのを見て、自分の口走ったセリフに気付きティースは真っ赤になる。

「ご、ごめん! いきなり変なこと言って!」

 だが、リィナは不思議な顔をして、

「ど、どうしたんですか、突然?」

「い、いや。だって俺、今、変なことを――!」

「?」

 リィナは怪訝そうに眉をひそめると、

「恋人というのは変な意味でしたか? 『大事な人』という意味じゃなかったですか?」

「……あ」

 その言葉に、思い出す。

 ――彼女たち王魔が、人間とは少々違った常識を持っているらしいということを。

「いや……うん。だいたいそれで合ってるんだけど」

「でしたら、ティース様は私の恋人です」

「ぅ……」

 ニッコリと微笑んだリィナに、彼女が少々勘違いしていることを理解しながらも、彼はますます顔を赤くして、

「……と、とりあえず行くよ。あ、食事時にはなるべく来るようにするから」

「はい」

「そ、それじゃ」

 ティースは慌ててその場を立ち去った。

(……ふぅ)

 外に出て感じたのは、ヒンヤリとした空気。なぜか実際の気温以上に風が頬に冷たく感じる。

 ひと息ついて、そして古ぼけた蔵を見上げた。

(リィナ……変わってなかったなぁ)

 それを実感するだけで、救われた気持ちだ。自分が今まで揺らぎながらも信じてきたことは、決して間違いではなかったのだと。

 そして、たった今別れたばかりの彼女のことを思い返すと、再び頬が熱を帯びた。

(で、でも、見た目は結構変わってたかな。ちょっと……じゃなくて、かなり綺麗になってたかも……)

 そんなことを考えていられたのも、彼の心に余裕ができていた証拠だろう。

(……よし)

 少し考えた後、彼の足は歩みを進めていく。

 太陽は、すでに西に落ちかけていて。

 迷いはもう、微塵もなかった――。




 日は落ち、厚い雲に覆われた夜空には月も見えない。

「……まったく。たいした女だ」

 ラムステッド邸にある客室のひとつ。

 ルネッタの部屋を訪れていたレイは、皮肉な笑みを浮かべ、部屋のドアに背を預けていた。

 腕を組み、かすかにあごを上げ、視線はまるで見下ろすようにルネッタを射抜いている。

「まさか、人の部下を勝手に囮に使っちまうとは、な」

「その文句を言いに、わざわざ訪ねてきたのですか?」

 答えるルネッタは涼しい顔のまま、鏡台に向かっていた。屋敷のバスルームを使った後で、長い髪を梳かしている。

 そして鏡に映るレイをチラッと見やって、

「私が強制したわけではないですよ。私が提案し、彼がそれに乗ったまでです。実際、私は彼に奇襲のチャンスをしっかり作ってあげました」

「いいや」

 だが、レイは答える。

「別に文句を言いに来たわけじゃない。ただ、見掛けによらないもんだ、ってだけさ」

「おとなしいお嬢さんとでも思いましたか?」

「本当にそうだとしたら、口説き方にも熱が入るってもんだがな」

 静かな廊下に、使用人らしきかすかな足音。

 窓から見える木の枝は、風で大きく揺れていた。

 ルネッタはしばらく無言の後、

「男には興味ありませんから」

「おやおや。それはもったいない」

 おどけてみせて、レイはゆっくりと壁から離れた。

「過去にひどい目にでも遭わされたのか?」

「いいえ、別に。ただ、好きではないだけです」

「やれやれ、神様もひどいことをするもんだ。君のような美人が、その花を咲かせることもなく枯れてしまう運命だなんて」

「……」

 ルネッタは眉をひそめた。

 レイの口調はどう考えても口説こうとする人間のものではなく、どちらかといえば挑発的だ。

 やがてルネッタは髪の手入れを終え、鏡台の前から立ち上がると、

「つまらない話をするだけなら、帰ってもらえませんか?」

 ゆっくりと歩いて、ベッドのそばに置いてあった剣を手に取る。

 レイの視線は黙ってその動きを追っていた。

(レイピアがもう1本……昨日使ってたものとは別、か)

「あの王魔は、私が必ず仕留めます」

「ほぅ……なにか対策があるってのか?」

「対策? 対策というほどのものではありません」

 ルネッタは手にしたレイピアを引き抜く。

 それは昨日のものとは違い、かすかに赤味を帯びていた。

(……なるほど。キャリアを持つだけのことはある。さすがに考えているな)

 相性がある。

 確かにその武器であれば、あるいは昨日の魔力の壁を破れるかもしれなかった。

 レイは薄い笑みで片手をヒラヒラと振りながら、

「だったら、そいつは君に任せるとするさ」

「……?」

 ルネッタの手がピタッと止まり、怪訝そうな視線が彼へと向けられる。

「あなたは挑むつもりはないのですか?」

 それは彼女にとっては当然の疑問だった。

 王魔を倒したとなれば、デビルバスターとしての格が跳ね上がる。もちろん相応の危険は伴うし、相応の実力も必要になるが、彼は昨日、実際に王魔の魔力の壁を破っており、それほどの実力を持つのなら、倒して名をあげようとするのがデビルバスターとしては当然の行動だからだ。

 だが、レイはあっさりと答える。

「俺は君と違って、命の方が大事なもんでな」

「あなたも、見掛けによりませんね」

 あざけるように返した言葉を、レイは涼やかに流して、

「ところで、ルネッタ。君は、昨日の魔の襲撃をどう考えている? 不自然だとは思わなかったか?」

「……」

 眉間に一瞬だけ皺が寄った。もちろん彼女もその点を不審には思っていたのだろう。

 だが、すぐに首を振って、

「私たちが来たことでああいう行動に出たのだとすれば、それは自分の力を誇示してみせたかったのでしょう。他になにか?」

「なるほど」

 レイは笑って背を向ける。

 それ以上、特に話すことはなく、ルネッタの方も呼び止めようとはしなかった。

 部屋を出て、その足は薄暗い廊下を音も立てずに渡っていく。

(……あれほどの力を持つ王魔が、まさかな)

「レイさん!」

「……ん?」

 振り返ると、その視線の先には長身の彼の部下がいた。

「ティースか」

 同時に違和感を覚える。

(……なんだ? こいつ、目の輝きが変わったな)

 とっさに目を細め、その表情を観察する。

 気分転換のためにと勧めた散歩。その効果があったのか。いや、それにしても、その変化はあまりにも急激すぎた。

 そのときの彼の表情は、まるで――レイが彼と初めて会ったあの日、シーラを助けに行ったときの、そのときの迷いのない姿を彷彿とさせるものだった。

「話があるんだ。……聞いてくれないかな?」

「……」

 その言葉に、レイは一瞬だけ視線を泳がせたあと、口元に笑みを浮かべてうなずいた。

「ああ。愛の告白以外だったら聞いてやってもいいぞ」




 ティースはレイを連れて自室まで戻ってくると、椅子を勧め、そして自らはベッドの上に腰を下ろした。

 彼をここまで連れてきたのは、もちろんリィナから明かされた『真実』を話すためだ。

 ……どう話すべきか、彼はギリギリまで迷っていた。

 唐突に言っても信じてはもらえそうにない内容だったし、もっともらしい根拠を示さなければ逆に突っ込まれることにもなるだろう。

 特に、昨日リィナと一戦交えた彼にそれを話したところで、素直に彼女の言葉を信じてもらえる可能性は低いと思った。

 だから、ティースは話をでっち上げることにしたのだ。

「ほぅ……」

 椅子に座ったレイは足を組み、ティースが用意した飲み物――さすがにアルコールではないが、それを飲みながらうなずいた。

「つまり? 昨日街を襲撃した獣魔どもは、あの人魔の使役するものじゃないと、お前はそう言いたいわけか?」

「ああ」

「その根拠は?」

 当然の質問。

「それは――」

 ティースはゴクリとのどを鳴らした。

 その挙動をすら、レイの視線は見逃していないように思える。

(この人を、ごまかさないといけないのか……)

 口の中がカラカラに乾いた。

 『明晰』。

 隊長であるレインハルト=シュナイダーについて、ティースが抱いている印象をひとつの言葉で表すとしたら、おそらくそれしかない。

 軟派者であるとか、皮肉屋であるとか、それはもちろん彼のことを語る上で不可欠な言葉だ。だが、ティースがナイトに来てから1ヶ月と少し。このレイがそれだけの薄っぺらい人間でないことはもちろんわかっていた。

 たとえ軟派な言葉を述べているときでも、皮肉な言葉を口走っているときでも、そこに必ず付いて回る『明晰』の2文字。

 ひょうひょうとしながらも鋭いその視線は、いつでも目の前にいる人物の真意を見抜いているかのようだった。それは過大評価の面もあるのだろうが、おそらくはある程度の事実も含んでいる。

(俺なんかがいくら考えたって……きっとこの人に及ぶはずはない。だったら――)

 気付かれない程度に気合を込め、決意を固める。

(とにかく、堂々と押し切るしかない!)

 元来、嘘をつくのが苦手なティースのことである。どう頑張ったところで、完璧な嘘などつけるはずはない。

 だったら逆になにも考えず、疑う余地もないほどに堂々と嘘をつき、多少強引にでも納得させるしかない。

 それが最終的に達した、最善と思える結論だった。

「実は俺、見ていたんだ。あの人魔が、1匹の獣魔から女の子を助けるところを」

「女の子? どういうことだ?」

「7、8歳ぐらいの女の子が、水の七十五族に追われていた。それを、あの人魔が助けたんだ」

 そのできごとそのものは、事実だった。

 レイの表情が、少し怪訝そうになる。

「お前自身が、それを目撃したのか?」

「ああ。それにその子も無事だったはずだから、探して聞けば詳しく証言してくれると思う。でもおかしいだろ? 自分の手下のはずの獣魔から女の子を助けるなんて」

 声が震えないよう腹に力を込めて、強くうなずくティース。

 だが、

「ほぅ、それは初耳だが」

 感心の息をもらしたレイは机に肘を乗せ、頬に拳をついて少し腑に落ちない顔をする。

「お前みたいな直情的な人間が、よくその場面を黙って見守っていられたな。少しは成長したのか?」

「え……?」

「いや、お前のことだ。そんな場面に出くわしたら、あとさき考えずに飛び出していくもんだと思っていたからさ」

「それは……だいぶ遠かったから、助けに行くヒマもなかったんだ」

「ルネッタもそれを見たのか?」

「え?」

「そのころは確か、お前と一緒にいたはずだろ」

「あ、いや……ルネッタさんは、よそ見をしていて――」

「よそ見? あの状況で、もっとも手ごわいはずの人魔からルネッタが目を離していたってのか?」

 ティースの胸の鼓動が速くなる。

「ち、ちが……ルネッタさんは人魔の存在自体にまだ気付いてなかったんだ。俺もかなり遠目だったし、そのときはそれが話に聞いていた人魔だとは思わなくて、てっきり街に滞在している旅の人が女の子を助けたものだと……でも、後で気付いたんだ。あのときのは間違いなく、昨日の人魔だったんだ」

「……まぁ、いい」

 冷や汗が背中を流れ落ちた。

(こんなことで……どうする……!)

 これからもっと不自然な嘘をつかなくてはならないのだ。この程度のことで怯んではいられなかった。

「で? たとえばその人魔が元凶でなかったとして、お前は他にどんな可能性を俺に提示してくれるんだ?」

「……」

 ここが一番重要なポイントだった。ここさえ乗り切れば、先ほどの小さなミスなど取るに足らない。

 まず、証拠はなにひとつない。事実、ティースが根拠としているものだって、リィナの証言のみだ。

 それを、なんとかして信じさせなければならない。リィナの存在を伏せ、もっともらしい嘘をつくことによって。

(小細工は、なしだ)

 のどの奥に力を入れ、声が震えないように意識し、視線はまっすぐに見つめ返す。

 そして、ティースは結論から答えた。

「パトリシアさんは、おそらくデビルサイダーだ」

「……ほぅ」

 レイの反応は意外にも冷静だった。だが、それはティースの言葉を信用したのとはおそらく違う。

「それは突拍子もない話だな。根拠はあるのか? なんといっても、彼女は今回の依頼主で、俺たちを呼び寄せた張本人だ。その辺りの矛盾の答えは、出ているんだろうな?」

「もちろん」

 その動機に関してはウソをつく必要はない。

 パトリシア=ラムステッド。今回の依頼主であり、このラムステッド邸の女主人。

 彼女がデビルサイダーであることは、リィナを信じる前提ならば動かしようのない事実だった。そうでなければリィナが嘘をついているか、あるいは勘違いということになってしまう。

 とすれば、当然にパトリシアの行動の動機を考えなければならなかった。

 ティースは頭の中で、リィナから聞いた話をもう一度整理する。

 まず、リィナは昨日より前に一度この街を訪れている。それはパトリシア自身の報告にもあったし、レイたちも当然に知っていることだろう。

 そのときの真相を、ティースはリィナの口から直接聞いていた。

 彼女は旅の途中、人気のない森でパトリシアを目撃し、彼女が立ち去った後に、明らかに自然ではない奇妙な死を遂げた獣魔の死体を発見したのだという。それを問い詰めに向かったのが、一度目の訪問だ。

 だが、そのときは逆に魔であることを暴かれ、街の人々に騒がれ、慌てて街の外まで逃げたのだという。

 それが10日前の夕方のこと。

 そしてその日の夜に、今度は獣魔が街を襲った。その後も、幾度か。ティースたちが駆けつけるまでに計7回。36人の命が失われた。

 その獣魔はパトリシアの差し金ということになる。

 だが、彼女はそれまでずっと、街の人々に危害を加えてはいなかった。いや、加えていたとしても、それは表に出るほどのものではなかった。

 とすれば、どうして突然?

 その理由を考えるのは、比較的簡単だ。

『……あなたたちのようなデビルバスターはあまりに数が少なく、招こうとしてすぐに、というわけにはいかないようだから――』

 ここに来た日のパトリシアの言葉が、ティースの脳裏によみがえる。

(おそらく自分の正体を知るリィナを殺すために、どうしてもデビルバスターを呼びたかった。そのために、事を大きくする必要があった……)

 拳に力が入る。

 もし、その想像が本当だとしたら、それはとんでもないことだ。あまりに自分勝手で、到底許せない行為だった。

 そしてそう考えてみると、昨日の大規模な襲撃についても説明がつく。

 つまり、レイやルネッタたちデビルバスターが見ている前で事の重大さを知らしめ、そしてなるべく早くリィナを退治するように仕向けたかった――そう、考えられるからだ。

 だが、しかし。

 その推理はすべて、ティースがリィナから話を聞き、そして彼女のことを信じているからこそ成立するものだ。それをそのままレイに伝えたとしても、単なる絵空事で片づけられてしまうだろう。

 だから、それを成立させるために嘘をつく必要があった。

 それは、とんでもない嘘だ。もしもリィナが彼をだましていたならば、それはなんの罪もない女性にあらぬ疑いを向ける中傷であり、卑劣な策略の片棒を担ぐものだった。

 それを自らの判断と、そして個人的な信頼のために行う以上、その責任はとてつもなく重い。それが嘘だとわかっていて実行する以上、だまされていたとか、そんなことはなんの言い訳にもならないだろう。

 おそらくはディバーナ・ロウの仲間たちからも非難を浴び、彼はそこにいられなくなる。

 だが、

「さっき散歩したとき、街外れの森まで行ったんだ」

 ティースは口を開いた。

 まるで動じることのない、強い意志のこもった口調で。

「そこで見た。薄暗い森の中で、あの人が、獣魔の死体を埋めていたんだ」

「……」

 レイは透かし見るような目をしたが、ティースは動じることなく続けた。

「昨日の襲撃で倒した獣魔じゃない。だって、それは街の調査機関で処理されているはずだろ?」

「つまり、それはあのパトリシアが個人的に使った獣魔……だと、そう言いたいわけか?」

「そう、考えられないかな?」

 レイは少し考えて、

「……確かに、お前が散歩に出ている間、パトリシアもどこかに出掛けていたな」

「ああ」

 もちろん、その直前に彼女と廊下ではち合わせたティースはそのことを知っている。

 レイは目を閉じた。

 数秒。

 その間、ティースの鼓動は静かに高鳴っていた。

 ――もう、後戻りはできない。

「もし、そうだとしたら」

 やがて、レイは目を開いた。

「パトリシアが俺たちを呼んだのは、どういう理由だ?」

 即座に答える。

「おそらくは昨日の人魔を殺すため。あの人魔が言ってたじゃないか。俺たちは、獣魔の命をもてあそんでいるって」

「……なるほど。昨日の人魔の言葉を信じるとすれば、確かにお前の言っていることのつじつまは合うな」

 胸の鼓動がさらに速くなっていく。

 ――うまくいくかもしれない、と、そう感じて。

「だろ? あの人魔の目的は、獣魔の命をもてあそぶパトリシアさんを止めることだった。パトリシアさんは、その人魔をどうにかするために俺たちを呼んだ」

「そのために動かせる獣魔を使って、街を襲わせた、か?」

「……そう」

 ほんの一瞬のためらい。

 だが、それは致命的ではなかったようだ。

「お前の言いたいことはわかった」

 レイはゆっくりと椅子から立ち上がると、一瞬の空白を置いて、

「だったら、少し調べてみることにするか」

「……」

 ティースの胸に、安堵と達成感が生まれる。

(……やった)

 信じられないほどにうまくいった。

 彼自身、ここまで上手く行くとは考えていなかったのだ。

(これで、リィナの疑いは晴れ――)

 だが、その直後。

 まるで、彼の緊張の糸が緩む瞬間を狙ったかのように、レイはつぶやくように言った。

「ところでティース。不自然だとは思わないか?」

「え?」

 びっくりして目を見開いたティースに、レイは続けて、

「たとえば……パトリシアが、どうしてわざわざこんな大事なときに、死体を処理するために森に行ったのか、とか」

「え……?」

「どこかで長いこと獣魔を飼いならしているなら、その死体の一時的な隠し場所ぐらい用意してそうなもんだがな。そうじゃなくても、なにもわざわざ今日運ぶ必要はない。……そういや、妙だな」

 レイは腕を組んで、さらに続けた。

「お前は確か、散歩に行く前にこういう類の主張をしたな。『あの人魔を野放しにしていて大丈夫なのか』って。……いや、これは俺の勝手な推測だったが、あとの受け答えから考えると図星だったはずだ。お前はあの時点であいつのことを危険な存在としか認識してなかったように見えた」

「え……そ、それは――」

 畳みかけるような言葉に、頭は熱くなって混乱を始める。

「なら、水の七十五族から女の子を助けた人物があの人魔だと気付いたのは、今日の散歩中か? それまた、ずいぶんと鈍感だったな。なにかきっかけでもあったのか?」

「いや、その……」

 どう答えるべきか。

 ……いや。

 レイの目はまるで試すようにティースを見ていた。

 そして、

「そう、たとえば。散歩の途中、どこかで昨日の人魔に会った――とか?」

「――」

 ティースは絶句した。

(……気づいてる、俺の嘘に)

 暗い影が、胸に去来する。

 おそらくは、最初から見抜かれていたのだろう。度胸を決めてついたティースの渾身の嘘は、残念ながらレイの冷静な目をごまかすことはできなかったのだ。

 ティースは焦った。

 レイはこの後も次々に矛盾点を突いてくるだろう。そしてやがてはその嘘の理由を考え始める。次に、その理由を探るために、ティースの行動を調べるだろう。

 2度目の外出時は気を付けていたが、最初の外出――偶然、蔵にたどり着いたときは、なんのカムフラージュもしていない。そこからたどられたら、リィナの潜む蔵が見つかるのは時間の問題だった。

(こうなったら正直に全部言うべきか……いや、でもそれだとリィナが危険に――)

「……まぁ、いい」

「へ?」

 レイがつぶやいたその言葉に、ティースは間抜けな声で顔を上げた。

 意外そうなその視線の先で、レイは首筋をかきながら、

「お前は俺の部下で、俺はお前を部下にすることを承諾した。だったら、理由もなく信用してみるのもおもしろいかもしれんな」

「……」

 ティースは一瞬言葉を失って、

「……レイさん」

 あまりにも意外な反応に、戸惑うとともに、じわっと、胸にあふれるものがあった。

 ただ、それを味わう間もなく、

「その代わり、交換条件だ」

「?」

「そうだな……」

 レイは少しだけ考えた後に、ティースの目をのぞき込むように見つめながら、先ほどまでとは一転、軟派な笑みを浮かべた。

「帰ったら、あの王女様とデート1回、ってのはどうだ?」

「王女様……? って、まさかシーラと!?」

「ああ」

 事も無げに答えたレイに、ティースは狼狽して、

「そっ、それはちょっと……そ、それに、あいつにはちゃんと恋人が――」

「あれだけの美人が、どうでもいいような一般人と付き合ってるってのは、重大な損失だ。俺がこれからその補填をしてやるとしよう」

「そ、そんな!」

 この人なら本当にやりかねない、と、思った。それが彼女にとっていいことか悪いことかはともかく――

「う……うぅ……」

 悩むティースの顔を、レイはどこか楽しげに見つめていた。

「で、でも……たとえ俺が了解したところで……その、つまり、俺にはあいつに言うことを聞かせる権限なんてないわけで――」

「ほぅ」

 レイは彼らの関係を思い出したのか、苦笑して、

「ま、それもそうだな。なら、諦めるとするか」

「え?」

 ティースが顔を上げると、

「じゃ、代わりにこいつだ」

「?」

 ポンと投げ渡されたのは、金属製の、手のひらと同じぐらいのカード状のものだった。

「これは……?」

 その中心には、重なり合う6つの剣――ミューティレイク家の紋章が描かれている。

「便利なもんだが、ずっと持ち歩いているのはなかなかに苦痛でな。ネービスに戻るまで預かっといてくれ」

「……? あの――」

 だが、次にティースが質問しようとしたとき、レイはすでに立ち上がって背を向けていた。

「じゃあ頼む。大事なもんだ、なくさないでくれよ」

 バタン、と、ドアが閉まる。

「……レイ、さん?」

 結局ティースはカードを握りしめたまま、呆然とその後ろ姿を見送るだけしかできなかった。




「……人が悪いね、隊長も」

「盗み聞きしていたお前も相当、な」

 部屋の外では、白衣姿のマイルズが腕を組んでレイを待っていた。

「気付いてたのに咎めなかっただろ? 勝手に許可と受け取ったんだけど、悪かったかい?」

「いや、構わんさ」

「それは良かった」

 背を向けて歩き出したレイの後を、白衣のポケットに両手を入れたまま追いかけて、

「部下だから信じる、か。なかなか感動的なセリフだけど、隊長の口から出たとなると途端にうさん臭くなるね」

「そりゃひどいな」

「そんな性格してないだろ? 僕やギレットさんのことだって、いまだにぜんぜん信用してないくせに」

「いや、信用してるさ。アオイの時間感覚と同じぐらいにはな」

「あらら。想像以上に信用されてないねぇ」

 マイルズは苦笑しながら、

「でもま、これで隊長の根拠の薄い推測がだいぶ補強されたかな。……ま、どう考えても不自然だからねぇ。上位魔程度ならともかく、王魔が一度街の人に追い払われて外に逃げた、なんてさ。あっちが本気だったら今ごろこの街は壊滅して、ネスティアスが出向く大事件になってるはずだよ」

 それからチラッと、たった今レイが出てきた部屋の方向を見やって、

「ティースくんがどんな経緯でその考えにたどり着いたかはともかく――」

「経緯、か」

 レイは考えるまでもなく答えた。

「十中八九、あの王魔に接触してるな。でなきゃ、あいつが嘘をでっちあげてまでパトリシアを疑わせようとする理由がない」

「なるほど。……にしても、ティースくんもずいぶんあっさりと陥落したものだねぇ。最近の様子を見る限りじゃ、下手したらもう引き返せないかと思っていたんだけど」

「なにか劇的な変化があったんだろ」

「若い王魔の娘に誘惑された、とかかい?」

「だとしたら、うらやましい限りだ。王魔に誘惑された人間なんて、歴史を紐解いてもそうそういるもんじゃない。ま、あれだけの大女だ。中身はひょっとしたらゴリラみたいなやつかもしれんが」

「僕の先入観によると、神魔と王魔ってのは全員美男美女ばかりなんだけどねぇ」

「ホントにそうだとしたら、ティースのヤツにはもったいないな」

 レイは笑いながら自室のドアノブをひねった。

 マイルズはポケットに手を突っ込んだまま足を止め、部屋の中に入って振り返った彼と目線を合わせる。

 笑っていた表情が、少しだけ真剣になった。

「……隊長はどう思う? ティースくんとあの王魔のこと。事情はわからないけれど」

「それはパトリシアのこととはまた別問題だ」

 レイは小さく首を振りながら、言った。

「あいつがもしもあの王魔をかばおうとするなら厄介だな。……そのときは、俺が面倒くさい役を引き受けなきゃならなくなるかもしれん――」


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