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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第4話『慟哭・縁・訣別』
28/132

その4『縁の暴君』


 街の警邏隊も、たまたま街に逗留していた腕に覚えのある若者たちも、もはや誰もその人魔の進行を妨げようとしなかった。

 いや、できなかった。

 遠くから射た矢も、不意打ちで背後から放った一撃も。

 そのすべてが、その人魔の体には届かなかった。

 見えない壁――『魔力の壁』。

 もちろん、彼らの攻撃は破魔具によるものだったが、そのことごとくが、その者には通じない。

 ――まさか。

 腕に覚えのあるひとりは、そう思った。

 彼は自分の聖力に自信を持っていた。事実、彼はデビルバスターの称号こそ持ってなかったが、ちょっとした依頼で低級の魔を退治したことはあったし、聖力は常人の軽く倍以上はあると言われていた。ある程度の『集中』も身に付けている。

 その彼に破れなかった、魔力の壁。

 下位族ではあり得ない。上位族だとしても、少々考えにくい。

 魔は彼を一瞥しただけで、まるでそれが路傍に転がる石であったかのように無視して立ち去った。

 圧倒的。

 まさに圧倒的な力。

 決して小心ではないはずのその男は、それを感じて思わず地面にへたり込んだのだった。

 誰も阻めない。

 誰にも止められない。


 そのはず――、だった。


「……どこへ向かうつもりだ?」

 だが、それを阻む者が、その街にいた。

「この先は通行止めだ。特にお前のような無粋な男はな」

 黄土色に近い金髪が風に揺れる。

 口元には笑み。だが、その視線は目の前の魔を油断なく見据えていた。

 左手に持った半楕円形の剣を無造作に下ろし、右手に持った同じ形の剣は肩に乗せて。

「……」

 魔は無言のまま。フードに包まれた視線が動いて、その場にいたもうひとりへと向けられる。

「覚悟することですね。ここに姿を現したのが、あなたの運の尽きです」

 そこにいたのは長い髪の女性。右手にはレイピアのように細長い剣。半身に構え、斜め下に下ろした剣先はかすかに円を描いていた。

 レインハルト=シュナイダーとルネッタ=フィッシャー。

 前者はディバーナ・ロウの誇る最強チーム、ディバーナ・ナイトの隊長。

 後者はこの地方に名を馳せた有能な女性デビルバスター。

 この2人を前にしては、どんな魔であろうと先に進むことをためらうしかなかっただろう。

「……」

 事実、それまでほとんど歩みを止めなかった人魔は、初めて足を止め、警戒するような視線をフードの奥から2人に向けている。

 もちろん、彼らの実力を察したからだろう。

 今までとは違う。彼らはあるいは自分の魔力の壁を破るかもしれない、と、そう感じたのだ。

 だから動かない。

 ただ、それはレイとルネッタの方もまた同様だった。

「どう、思う?」

「……」

 問いかけに、ルネッタはチラッと彼を見て、そしてすぐに視線を正面に戻した。

「上位族では……ありませんね」

 レイは満足そうにうなずいて、

「同意見だ。君と俺はどうやら相性がいい。価値観の一致ってのは、男と女が仲良くなる上じゃかなり重要なことだからな」

「……」

 ルネッタは答えず、ただ黙って魔を見据えている。

 動く気配はない。

「他の連中を救護に回して正解だ。こりゃ、俺と君以外は立派な足手まとい――」

 言いかけて、ふとレイは怪訝な顔をした。

(……なんだ?)

 ルネッタの表情。

 そこに『なにかを待っている』ような気配を感じたのだ。

 そして一瞬の思考の後、少しだけ表情を険しくしてルネッタに問いかける。

「そういや……ティースの奴がいないな。君と一緒じゃなかったのか?」

「ええ」

 視線を動かさずに、ルネッタは答える。

「彼ならいます。すぐ、近くに」

「近く?」

 レイの顔が厳しさを増す。

「まさか――」

 再び魔へと向けた視線の、その先。

 ――そこにティースの姿があった。

 路地の陰から、今まさに、魔の無防備な背中に飛びかろうとしていたのだ。

(……この女――)

 隣の涼しげな顔に、レイは思わず眉間にしわを寄せた。

(あいつを囮に使うつもりか……!)

 制止する間もなく。

 ティースの体は、その路地から踊り出ていた――




 ティーサイト=アマルナの心臓は激しい鼓動を打っている。

 体が熱くなって、首筋にはべっとりとした汗。

 遠くからは人々の悲鳴、怒号。

 空には幾筋かの煙が立ち上っている。

 ……ごくり、と、のどが鳴った。それさえも、うるさくて仕方がない。

 狭い路地に無造作に置いてある荷物の陰。身を隠すには絶好の場所だった。

 たった今、路地の前を通り過ぎた魔は、彼に背を向けたままで立ち止まっている。その視線の先には、おそらくレイとルネッタがいるのだろう。そこに集中しているせいか、おそらくティースに存在には気付いていない。

 チャンスだった。

(こいつが――)

 荷物の陰からゆっくりと身を乗り出して、ティースの視界にもその魔の背中が映る。

 ネズミ色のローブに同じ色のフード。細身だが背は高く、ティース自身と似たような体型だろう。

 だが、その中にいるのは彼とは似ても似つかない。罪のない人々を大量に虐殺した、許し難い『悪』。

(許せない……)

 胸にあふれる怒りとともに、ティースの脳裏をよぎったのは、いつかの光景。

 サイラス=レヴァインを助けられなかった日のこと。

 ナナン=トリストラムが無惨な姿で見つかったときのこと。

(許せない――)

 そして今日。

 嫌というほどに見せられた、あまりにひどく、あまりに残虐な行為の数々。

(もう、迷いはない……!)

 汗ばむ両手に力を込める。

 愛剣『細波』がかすかに震える。

 迷う必要などひとつもないと思えた。

(サイラス……ナナン……俺は――)

 ピタリ、と、その震えが止まる。

(こいつらを倒して! 倒して、倒しまくって! そして君たちのことを吹っ切ってみせる――ッ!)

 集中力が研ぎ澄まされた。

 いつかと同じ――風の将、ザヴィア=レスターの魔力の壁を打ち破ったときとまったく同じ感覚。

 細波の剣身が艶やかさを増す。

 魔の意識はまだ、レイとルネッタのみに向けられている。ティースの存在には気付いていないだろう。

 おりしも吹いた、緩やかな風とともに。

 ティースの体は路地を飛び出していた。

「――」

 音もなく。

 魔との距離は、わずか数歩。

 周りの景色も。音も。

 なにも感じない。

 ただ1点。

 無防備な魔の背中に細波を突き立てるべく、ティースは飛ぶように駆けた。

「……!?」

 魔がようやく気づき、驚きの声を発して視線を動かす。

 だが、ティースは確信していた。

(もう、遅い!)

 たとえ相手がどのような瞬発力を発揮したとしても。あのザヴィアほどの動きを見せたとしても、もう避けることはできない。

 圧倒的な破壊力を秘めた細波の照準は、魔の体を確実にとらえていた。かろうじて急所は外されるかもしれない。だが、ティースの頭はそんな余計なことは考えていなかった。

 ただ無心に。

 細波を、突き立てる。

 極限の集中と、そして絶妙な奇襲によって、すべては彼の思惑通りだった。

「ぁぁぁぁぁ――っ!!」

「っ!!」

 ティースの叫びとともに、細波の切っ先が振り返った魔の背中――左脇腹の辺りに吸い込まれていく。

 熱くなる体。

 鈍い感触。


 そして――


「――な!?」

 驚愕。

「なんだって……っ!!」

 肩の関節と手首の骨がきしんだ。行き場のなくなったエネルギーが、ティースの両腕にまっすぐに跳ね返ってくる。

 ……そこにあったのは、覚えのある感触だった。

(魔力の、壁!?)

 細波は、止まっていた。

 振り返った魔の、体の直前で。

「馬鹿な……そんな馬鹿なッ!!」

 それは信じられない出来事だった。

 確かに、彼は『集中』していたはずだった。そして間違いなく、細波は彼の期待する破壊力をそこに秘めていたはずだった。

 あのザヴィアの壁を破ったときのように。

 じゃあ、どうして?

 ティースが思考していられたのはそこまで――わずか半瞬ほどの時間だった。

「!」

 魔の体から、魔力がほとばしる。

 左腕を薄い膜のようなものが包んだかと思うと、破裂して無数の水滴がティースに向けて飛んだ。

 もちろん、避ける余裕などなかった。

「くっ……!!」

 無数のつぶてを浴びながら、ティースの体は大きく後退する。

 幸いだったのは、それほど威力のある攻撃ではなかったことだろう。彼の体が離れたのも、吹き飛ばされたのではなく、危険を感じて自ら地面を蹴ったためだ。

 だが、その直後、

「っ……!?」

 2度目の驚きの声が、人魔の口から発せられていた。


 ――それはおそらく、彼女の計算通り。


 ルネッタ=フィッシャーは、魔の意識がティースに向けられるその一瞬を待っていた。

 もちろん彼が魔を倒せると思っていたわけではない。デビルバスターではない彼に、これほどの人魔の壁が破れるとは最初から思っていなかった。

 ただ、彼が少しでも魔の意識を引き寄せてくれれば。そうすれば、自分が一撃でカタをつけてみせる。

 そして、すべては彼女の思惑通りに進んでいた。

 予想外だったとすれば、魔がティースを仕留め損なったことぐらいだが、それは彼女にとって悪いことではない。囮に使ったとはいえ、彼女は別にティースに恨みがあったわけではなく、死んで欲しいと思っていたわけでもない。

 ただ、利用できそうだったから利用した。それだけのことだったから。

 ルネッタは女性だったが、男のデビルバスターと比べても実力的にヒケを取るところはなかった。確かに非力であることは否定しようもないが、聖力はデビルバスターとして恥じることのないレベルで備えていたし、『集中』もかなりの高いレベルで習得している。

 技術に関しては言わずもがな。その一撃の正確さは数多くのデビルバスターの中でも一目置かれていたし、実際、彼女を相手にして命の危険を感じずにいられる者は、大陸広しと言えどもほんのひと握りだろう。

 デビルバスターとしても、おそらく中堅以上。

 その細身の剣は、確実に魔をとらえていた。

 ティースよりも鋭く、正確な一撃が、魔の体に吸い込まれていく。


 ……だから、その結末を予想していたのは、おそらくその場にたったひとりだけだった。


「とんでもない」

 そうつぶやいたのはレインハルト=シュナイダーである。

 重なった2つの影――ルネッタと人魔の姿を、視界の中心にとらえながら。

 口元には笑みが張り付いていた。

「とんでも、ないな」

 その光景は、彼にとっては想像の範囲内だ。

 レイはティースの聖力の高さを知っていた。そして今、魔に飛びかかった彼の破魔値が『集中』によって高められていることも感じ取っていた。

 一瞬、彼がそのまま敵を倒してしまうのではないかと、そう考えたぐらいだ。

 その一撃にはここ最近で見られたような迷いもなかったし、魔は確かに避ける余裕はなかっただろうから。

 だから、彼の一撃が魔力の壁に阻まれたときに、レイは確信したのだ。

 おそらく、ルネッタの一撃もまた、同じものに阻まれるだろう――、と。

「……」

 レイは自分の体が熱くなるのを感じていた。

 らしくない。彼が自分でそう認めてしまうほど、心臓の鼓動が速くなっている。

 ……ルネッタは、おそらく信じられない表情でその結果を見つめているだろう。

 有能なデビルバスターである彼女にとって、自分の攻撃が魔力の壁に阻まれるということは、ひどく屈辱的なことであると同時に、もうひとつの異常な事実をも知らせている。

 それは――自分の力が通じないほどのその相手が、『いったい何者であるか』ということ。

 ルネッタが魔から離れ、過剰とも思えるほどに大きく距離を取った。ティースと同じように軽い攻撃を受けたのだろうか。ただ、大きなダメージを負った気配はない。

(こいつは……腹をくくる必要があるかも、な)

 レイの口にはやはり笑みが張り付いていた。

 別に楽しいわけではない。緊張していたのだ。

 彼の目の前にいる人魔。

 それはおそらく、将族でも常識外れなほど高い魔力の所有者か。あるいは――

(魔王降臨、ってとこか)

 『王族』。

 デビルバスターにとってさえ、常識的な範囲では戦うことが想定されていない、そういう存在。

 もちろんレイも、彼らの姿を目の当たりにするのは初めてのことだった。

 自分の力が通用するか、否か。

 ――自信はある。だが、確信はない。

(見たところ水族か……水族との相性はあまり良くないんだがな)

 今度は意識的に苦笑して、そしてレイは二刀『夜叉』を構えた。

「……」

 ルネッタは距離を取ったその場から動けないでいる。ティースもまた、ルネッタの攻撃が届かなかったことに驚いているのだろう。動かないまま。

 もう、彼らには戦う資格すらなくなったのだ。

 その場に残された希望は、ただひとり。

 肝を据え、レイは一歩踏み出して魔に問いかけた。

「お前、王魔だな?」

「……」

 魔の視線が彼を見る。

 レイは緊張感を漂わせながらも、自分のペース――いつもの、どこかひょうひょうとした口調で続けた。

「なんの気まぐれでこっちの世界に現れた? 人間ごときを殺して楽しいのか? お前ら王魔は、そういうことにはあまり興味がないって聞いていたがな」

「……楽しい?」

「!」

 レイは驚く。

 ――返事があったこと自体も、それはそう。

 だが、それ以上に――

「それは、私が聞きたいことです」

「……女、か?」

 レイは目を細めた。

 おそらくは彼と同じかやや大きい、180センチ以上はあろうかという長身。その身長からはおそらく誰もが男であることを想像するだろう。

 だが、深いフードの奥から発せられた声は若干低く落ち着いた、それでも決して男性ではあり得ない若い女性の声だった。

 確かにフードで顔は見えない。ローブで体の線も見えない。女性であることを否定できる材料はなかった。

 ただ、それにしてもその事実は驚きだ。

「あなたたちは、こんなことが楽しいのですか?」

 魔は続けてそう言った。

 レイは驚きを隠すようにおどけて答える。

「少なくとも、あんたみたいな化け物と戦うのは好きじゃないな。それが若い女だってんなら、なおのことだ」

 魔は小さく息を吐き、首を横に振ると、

「今はそこを通してください。そうすれば、私はあなたたちを許します。これ以上、手荒な真似はしたくありません」

 レイが目を細める。

「ほぅ、おもしろいことを言うな。なにを許すってんだ?」

「あなたたちが忌み嫌い『魔』と呼ぶ存在。でも、彼らだって生きているのですよ」

 答えて一歩、レイの方へと足を踏み出した。

「彼らの命をもてあそび、踏みにじるあなたたちの所業は許しがたいことです。でも、今はそれどころでは――」

「ふっ……ふざけるなァァァッ!!!」

 その言葉に激昂する。

 ……いや、激昂したのはもちろんレイではない。

「貴様が……ッ! 貴様らが言えたことかッ!!」

 ティースだった。

 立ち上がり、一度は消えかけた戦意をそこにみなぎらせて。

「……?」

 怪訝そうに振り返った魔に、ティースは両手で握った細波を構えた。

 絶対に敵わないという冷静な判断を、怒りの感情が上回ったゆえの行動。

 彼はそういう人間だった。

 そして、叫ぶ。

「命をもてあそんでいるのは貴様の方じゃないかッ! この街で一体どれだけの人が死んだか! みんな、みんな、生きて、一生懸命に生きていたんだッ!! それなのに……それなのに……ッ!!」

 その目に、うっすらと涙が浮かぶ。

 剣を握る手が震えた。

 そのまま、涙に濡れた目に憎しみを込め、ぶつける。

「貴様はいともたやすく、その、すべてを奪った! その重みが! 痛みが! 貴様らにはどうして……どうして、わからないんだッ!!」

「えっ……?」

 ティースの怒りを正面から受けて、魔は意外にも動揺したような声を発した。

「……まさか、あなたたちは」

 それは、確かに奇妙なつぶやきだった。

 だが、その言葉は怒りに打ち震えるティースの耳には届いていない。

 手にした剣――細波が振動する。

 その口から、咆吼にも似た叫びが響き渡った。

「だから……貴様らはッ! 貴様のような奴は――ッ!!」

 地面を蹴ったティースに、魔は少し後ずさりながら両手を前に出して、やはり慌てたような声を出した。

「ま……待ってください! まさか、あなたたちはなにも知らな――!」

 だが、その瞬間。

「っ!?」

 魔は『それ』に気付き、振り返って地面を蹴った。

 直後――一閃。そして、もう一閃。

 とてつもない質量の攻撃が、彼女の立っていた地面を抉る。

 レイの一撃だった。

「っ……」

 飛び退いた魔のフードの奥から、かすかに痛みの声がもれる。切り裂いたローブから、右腕がのぞいていた。

 白い肌に血がにじみ、そして一筋、流れる。

「ちっ……」

 舌打ちして、レイは足を止めた。

 立て続けに攻撃しなかったのには、もちろん彼なりの理由があり――

「ぁぁぁぁ――っ!!!」

 代わりにティースの剣が、飛び退いた魔へと襲いかかっていく。

「……っ!」

 さすがに危険を感じたのか、魔の全身から魔力があふれた。

 ――あふれた?

 いや、その表現では生ぬるい。

「なっ……!?」

 強烈な圧迫感。

 それはまるで、噴火のようだった。

 信じられない質量の魔力が、その全身から噴出する。

「くっ……!!」

 攻撃ではない。ただ、体の周りを魔力が覆っただけだ。

 だが、ティースの足は止まった。

 止めざるを得なかった。

(こんな……っ!!)

 近付けないのだ。見えない圧力に押されて、足が前に進まない。

(信じられない……ッ! こんな――!)

 直後、レイが彼の横を走り抜けた。

「ティース! お前は下がってろ!!」

「……レイさん!」

「!」

 その一瞬だけ、魔力が弱まった。

「あ――」

「手こずらせないでくれよっ……!!」

 魔力の波に逆らい、手に持った二刀――夜叉で、魔力の渦を切り裂くようにして、レイの体は一直線に飛んでいく。

「待ってください……っ!!」

 もう一度、魔の口からその言葉がもれた。

「あなたは――っ!」

 だが、それをさえぎって、レイのつぶやきが風に乗る。

「二体の夜叉よ、暴悪の拳を振るえ――」

 夜叉は、唸り声を上げた。

 まるで地獄の獣が威嚇しているかのような咆哮。

 それが剣であるとはとても信じられないような、巨大な質量をその剣身にまとって。

 ――それはレイの渾身の一撃だった。極度の集中と、極度の体力を消費する、何度も放つことができない必殺の一撃。

 凝縮された聖力が、2つの刀身に集まって魔力の壁を打ち破る。

「っ――!!」

 もちろんそれを察したのだろう。魔も胸の前で両手を重ね合わせた。

 今まで形を成さなかった魔力が、身に迫る危険を前についに具現化する。

 ――水。

 その体を覆ったのは、大量の水だ。

 力と力。

 あとはどちらが強いか。ただそれだけの勝負。


 直後――まるで隕石が落下したかのような轟音と衝撃が、小さな街に響き渡った――。






 その翌日。

 空は厚い雲で覆われていて昼どきの割に薄暗く、この日のフォックスレアは異様な雰囲気にも包まれていた。

 焼け落ちた家。壊れた塀。乾いてこびりついた血の跡もまだ消えていない。

 だが、それ以上に異様だったのは人通りの少なさである。

 外を歩く人影はほとんど見当たらない。いたとしても、それは警邏隊のバッジを身につけた男たちが、何人か組になって歩いているだけだった。

 一般人の姿はほぼ皆無である。

「厄介なことになりましたね」

 そんな異様な雰囲気の中、響いたのはマイルズの声。

 ラムステッド邸の一室では、ディバーナ・ナイトの面々が、それぞれに難しい顔をして今後の作戦を練っている。

 レイ、マイルズ、ギレット、パーシヴァル。そして、ティース。

「でも、レイ隊長の本気の一撃から逃げおおせるなんて、その魔、とんでもない奴っすね」

「本当に『王魔』だったってぇのか?」

 ギレットの問いかけに、ベッドに寝転がったレイは頭の後ろで手を組んで、

「おそらく、な。魔力は将魔の平均をはるかに上回る。けど、どこか戦い慣れてない。典型的な王魔の特徴……って、俺は習ったけどな」

 最後にそう付け加えて苦笑する。

 彼とて本物の王魔とまみえたことはないのだから当然だ。

「……ふん。確かにな」

「しかし、まぁ。取り逃がしたのは相手が相手だけに仕方ないにせよ」

 マイルズが中指でくいっと黒縁眼鏡を上げる。口元には、やはり苦笑いだ。

「まだ街の中に潜んでいるらしいってのは、おそろしい話だね」

「3、4日もすりゃ、話を聞きつけた腕利きのデビルバスターたちがこぞって駆けつけてくる。王魔となりゃネスティアスだって動かざるを得ないし、それまでの辛抱さ。……おい、ティース。なにか言いたそうだな」

「え?」

 ティースが驚いた顔を上げると同時に、レイは言った。

「そんなのんきなことを言ってていいのか、ってとこか?」

「……」

 その言葉が、あまりに正確に彼の気持ちを言い当てていたため、ティースはなにも言えずに黙ってしまった。

 そんな彼に、レイは口元に笑みを浮かべたままうなずいて、

「気持ちはわからんでもないがな。……お前も見ただろ? やぶ蛇も、毒のないヤツならともかく、今回のはとびっきりの毒蛇だ。つつかないで済むなら、その方がいい」

 そう言った左肩には包帯が巻かれていた。

 大怪我ではないが、あの瞬間、もしもあの魔が逃げることを最優先せずに正面から向かってきていたなら、とてもじゃないがこの程度では済まなかっただろう。

「……」

 それを見て少しだけ考え、それからティースは控えめに反論する。

「でも、もし、また昨日みたいなことがあったら……」

「それを言うなら、つついても同じことさ。もし追いつめられた敵が、今も従えているかもしれない魔を街中に放ったらどうする? 正直、王魔ってヤツが本気になったら、今の戦力でどうにかできる保証はないぞ」

「……それは、そうかもしれないけど」

 それでもティースは釈然としなかった。

 彼が感じたあのときの怒りは、ひと晩経った今でもまだ消えていない。

(あんなヤツを、野放しにするなんて……!)

「……」

 拳を握りしめたティースに、レイはため息とともに言った。

「迷いは、消えたらしいな」

「……え?」

「昨日のお前の剣は、なかなか良かった」

「……」

 思い返して、確かにその通りだったかもしれない、とティースは思った。

 あのときの一撃は、結果的に敵の魔力に阻まれはしたが、それでも今までの不振からすれば充分すぎるほどのものだったろう。

(……迷いが、消えた?)

 その理由を考えて、ティースはすぐに思い当たる。

 あのとき感じていた――許し難い悪に対する、怒り、憎しみ。

 それが一瞬とはいえ、彼の『抱えていたもの』を忘れさせたのだ。

(……ああ、そうか)

 そしてティースは理解した。

 いつかギレットが口にした『憎しみを極めろ』という言葉。

 今までに積もり積もって、そして昨日、街の人々の哀しみを全身に受けて。

 そして彼は一瞬とはいえ、到達したのだ。

 その場所。

 憎しみを極めた、その境地に。

「……」

「ティース」

「……?」

 レイの言葉に顔を上げると、マイルズの、そしてギレットの視線が一様に注がれていた。

「少し、外を散歩してこい」

「え?」

「大丈夫だとは思うが、一応、気を付けて行けよ」

「散歩って……なんで、突然――」

「いいから、行け」

 レイは体を起こし、ベッドの上で片膝を立てていた。

 いつも通り、捕らえどころのない表情。それでも、その視線の強さは彼に反論を許さなかった。

「……わかった」

 わけがわからないまま、ティースは席を立つ。

 部屋を出る直前、視線を感じて振り返ると、ギレットが片目だけでティースを見つめていた。

 その向こうでは、マイルズが小さく首を振っている。

(……なんだろう)

 だが、その場の妙な雰囲気にそれを問いかけることもできず。

 そしてティースは、そのまま部屋を出たのだった。




「……ふん。迷いが消えた、か」

「ああ、言わなくていいぞ、おっさん。言いたいことはよくわかってるからな」

 ティースに続いて、マイルズとパーシヴァルが退室した部屋の中。

 ソファがあるにも関わらず床にあぐらを掻いたギレットは、ベッド上のレイを厳しい視線で見つめていた。

 レイは小さく鼻で笑って、

「結局、ああいう奴にはムリなのさ。おっさんも見ただろ? さっきのあいつの表情」

 あお向けで天上を見上げたまま、片手をヒラヒラと振る。

「迷いが消えた理由を自覚した瞬間、また迷いが生まれた。結局、一時的なものさ。あいつは1匹の犬にかまれても、犬そのものを嫌いにはなれない。そういう奴だ」

「……向かねぇな」

「ああ、向かない。けど、ああいうタイプってのは、ちょっとしたきっかけで化ける可能性もある。あんたもそっちに期待してるんだろ? それに――」

 少しだけ言葉を切って、レイは続けた。

「ディバーナ・ロウって部隊には、むしろああいうタイプが合っているんじゃないか?」

 ギレットは鼻で笑う。

「おめぇさんが言うことじゃねぇな」

「おっさんもな」

 レイも笑い返して、そしてつぶやくように付け足した。

 今度は彼らしい、どこか皮肉めいた笑みを口元に浮かべて。

「さて。それじゃあ、こっちもそろそろ疑問解消作業に取りかかるとするか――」




(散歩と言っても、なぁ)

 今日のように太陽が出ていない日のラムステッド邸は、本当に幽霊屋敷のようだった。

 そんな屋敷の2階を、ティースはまるで亡霊のように目的もなくさまよい歩いている。

 彼自身の気分がすっきりしていないからというのもあるが、この建物の中ではとても気分転換できそうにはなかった。

 そして思考は、いつの間にか昨日の出来事をなぞり始める。

(……街のどこかに潜んでいる、か)

 ティースは足を止め、2階の窓から街並みを眺めた。

 まるで人気のない街。昨日の襲撃は人々にとてつもない恐怖を植え付けたのだろう。

(今までは1匹ずつだったのが、今回は20匹近く。無理もない――)

 犠牲者はトータルで50人を超えた。その約4割が昨晩のものである。

(……でも)

 ふと、不思議に思った。

(なんで、俺たちが来たあんな大規模な? 偶然か……?)

 それは当然の疑問だった。偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎる。

(それとも……俺たちが来るのを待っていた? だから昨日になって突然総攻撃を? なぜ?)

 だが、そんな彼の思考はすぐに中断された。

 廊下の向こうから歩いてきた女性の声によって。

「ティーサイトさん」

「え? あ、パトリシアさん」

 窓から廊下に目を戻すと、そこには屋敷の主人パトリシアが立っていた。

 女性としてはそれほど大柄でもない彼女は、立ち止まった後、長身のティースを見上げるようにしていたが、やがて、先ほどの彼のように窓の外に視線を移動させる。

 そして言った。

「街はひどい状態のようね。今度は逃がすことなく捕まえて欲しいものだわ。また、昨日のような被害が出ないうちに」

 その言葉には、明らかにティースたちに対する不満が込められていた。

 もちろん、ティースとしては反論する言葉もなく、

「……は、はい。すみま――」

「頼むわ」

 最後まで待つことなく、相変わらず無愛想にパトリシアは去っていってしまった。どうやらどこかへ出掛けるらしい。

(……はぁ)

 さらに憂鬱な気分になりつつ、ティースは自らも歩みを進めることにする。

 足は自然と玄関へ。

 やはりこの屋敷の中では、気分転換できそうにない。

(ひとまず今は……とにかく魔を倒すことだけ考えよう。他の色々なことは、レイさんやマイルズさんが考えてくれるんだから……)

 そう決心して、ティースの体は屋敷の外へ。

 外には緩やかな風が吹いていた。

 11月の風はヒンヤリとしている。ネービスの街に比べるとまだいくらか暖かいのだろうが、それでも太陽が出ていない分、思った以上に肌寒かった。

(外れの方に行ってみようかな……)

 閑散とした街は歩いていて気分が良くなるものではない。

 進路を変えて、街の外れへと。

 小さな宿場町だから、宿が建ち並ぶ中心部から離れるとすぐに風景が変わる。こちらも閑散としてはいたが、建物が密集していない分、その寂しさもどことなく紛れるような気がした。

 昨日の事件による傷跡も少ない。

「ふぅっ……」

 少し気分が落ち着いてくるのを感じながら、ブラブラと目的もなく歩く。

 そしてふと――足が止まった。

(……あれ)

 ティースの視線の先。

 そこにはポツンと2つの建物があった。古びた廃屋と、同じように古びた蔵。なんの変哲もない、おそらく使われなくなってから5年以上は経つであろう建物だ。

 だが、

(あの蔵――)

 それを見た瞬間、ティースの脳裏の奥が刺激され、そこにひとつの映像がフラッシュバックしていた。

(なんだか、アレに似てるなぁ……)

 一瞬のためらい。

(……行ってみるか)

 結局引き寄せられるようにして、彼の足はその蔵に向かっていた。

 建物の高さは7メートルほど。広さは15メートル四方あるかないかぐらいだろうか。壁にはつたが生え、ひび割れ、屋根もボロボロになっていた。

 隣の廃屋も無人になって相当日が経つようだが、こちらは使用されなくなってさらに久しいのだろう。

 どこかからかすかな悪臭も漂っていたが、それは気にせず扉の前に立った。

(鍵は……壊れてる。入れる……かな)

 キィ……と、扉がきしむ。意外なほどすんなりと開き、外の薄明かりがゆっくりと蔵の中を照らした。

 中に物はほとんど残っておらず、半分崩れかけた木箱が隅に何個か積まれている程度だ。

 カビの匂いが鼻を突く。

 だが、ティースの胸はさらに高鳴っていた。

(中の間取りも同じだ。同じ設計の建物か……?)

 それは――彼の子供時代の記憶だった。彼の故郷、彼の住んでいた家の近くにも、これと同じような蔵があったのだ。

 何度も訪れた場所。彼ら以外に誰も訪れなくなった場所。大事な思い出の詰まった場所。

 楽しい記憶がそれほど多くないその時代にあって、数少ない、決して捨てることのできない大事な思い出の場所――。

 それと見間違うばかりのものが、いま目の前にあったのだ。

 彼がほんのひとときだけ現状を忘れ、わずかばかり浮かれたからといって、誰も彼を責めることはできないだろう。

「……」

 胸を踊らせながら足を踏み入れると、ホコリがただよう。ガランとした内部。本当になにもない。

 だが――

(もし同じ設計なら、ここに……)

 ティースが足を運んだのは、蔵の奥。その左端。

(……あった)

 胸の鼓動が増す。

 もう疑う余地はなかった。

 その取っ手は、ちょっとした隠し部屋――この天井の上に隠された、小さな屋根裏部屋への入り口を開くスイッチだ。

(大丈夫かな。ちゃんと動けば……いいけど……)

 取っ手を引く。と、カコン、と小さな音がして、壁の一部がヘコんだ。

(……やった)

 その部分に手を掛けて軽く力を込めると、壁がまるで引き戸のように開いて、そこに小さな階段が現れる。

 ――昔、何度も何度もこの扉を開けたことがあった。

 人目を忍んで。

 3つ年下の少女を連れて。

 手にしていたのはパンやミルク、あるいはみやげ話。

 決して誰も来ない、人々の記憶からも忘れ去られた蔵は、ティースたちにとっては絶好の隠れ家だった。

 雨の日には雨漏りしてひどかった。冬、毛布があれば凍えるようなことはなかったが、それでも寒いことには変わりはなかった。

 それでも文句を言うこともなく。

 きしむ階段を上ると、そこには8畳ほどの部屋がある。部屋といっても明かりは小さな窓ひとつから射し込む自然の光のみ。床から天井までは150センチあるかないかで、もちろん今のティースは立って歩くこともできない高さだ。

 だが、そんな狭い部屋で『彼ら』はいつも待っていた。

 ティースと、そしてシーラが訪ねてくるのを、いつも待っていた。

 いつも――待っていたのだ。

「……え?」

 それは確かに『既視感』だった。

 その光景を、ティースは何度も何度も見てきたから。

 そこで待っている人物も。

 ハッとして振り返る、その後ろ姿も――

「な――」

 視線がぶつかった瞬間、ティースの体には電流のようなものが走っていた。

 ……そこにあった光景は、彼の記憶にあるものとまったく同一ではない。

 動きに合わせてたなびいたストレートロングの髪はこれほどに長くはなかったし、背だってこの天井の低い部屋の中をギリギリ立って歩けるほどだった。

 だが……それは、やはり既視感だったのだ。

「……」

 尖った耳は、魔であることの証。

 隅に置いてあるネズミ色のフードとローブは、昨日見たばかりのものだ。180センチほどもある、女性にしてはかなり大きな背丈も、ローブに隠されていたであろうわずかに細身の体も。

 そのすべてが、そこに隠れていた人物の正体を――それが彼にとって憎むべき相手であることを明確に示していたにも関わらず。

 ――既視感は消えなかった。

 目の前の2つの大きな瞳が、驚きに見開かれる。

「……ああ」

 そのつぶやきにも、ティースは反応できなかった。

 昨日からずっと携帯している剣――『細波』に手をかけることもなかった。

 ただ、呆然としていただけ。

 そして先に反応したのは、目の前にいた魔のほう。

「ここを知っている……もしかして、いえ……やはりあなたは――」

 振り返った彼女は、唇を震わせている。

 昨日までフードの中に隠れていたそれは、穏やかで優しそうな少女の顔だった。

 たくさんの人を殺し。

 たくさんの人を苦しめ。

 暴虐の限りを尽くす魔。

 圧倒的な力を持つ王魔。

 ……そんなことが信じられないほどに、その女性は暖かく、優しい目をしていた。懐かしい目をしていた。

 そこから一筋の涙がこぼれ落ちる。

 そしてその口からは、信じられない言葉がもれた。

「ティース様……私を、覚えていますか――?」

「!」

 名前を呼ばれて、ティースの心臓は大きく脈を打った。

 そこにあった――彼も薄々は感じていた――紛れもない『事実』に気付いて。

「……そんな、馬鹿な」

 否定の言葉がその口をついて出る。だがそれに反し、心は少しも否定してはいなかった。

 面影が、確かにあったのだ。

 その少女が成長して、そして少し信じられないほどに背が伸びたなら、おそらくこんな感じだろうと。そんな想像をするのは、彼にとってあまりに容易なことだったから。

「……」

 なにかを待ち望むかのように、少女は涙の浮かんだ瞳でティースをただ見つめている。

 ――なにを?

 ティースにはわかる。

 それは先ほど名前を呼ばれたときに、彼もまた感じたことだったから。

 ゆっくりと、その口がひとつの名を刻み出す。

「リィナ……リィナ=クライスト……」

「はい……っ!」

 感極まった声で少女――いや、リィナは答えた。

「リィナです。ティース様……!」

「な、なんで君がこんなところに……いや、そんな馬鹿なことが……」

 それでも信じられずに、ティースの頭は混乱していた。

 ……4年。最後に彼女と別れた日から、それだけの月日が経っていた。

 ともに成長している。そのころのティースは剣など携えていなかったし、身なりも髪型も今とは違う。背も伸びているし、童顔とはいえ成長期途中だった当時に比べれば顔立ちも少しは変わっているだろう。

 彼女が昨日の慌ただしい戦いの中で彼のことを気付けなかったのは、至極当然のことだ。

 ただ――

「昨日、あなたの名が聞こえて、まさかと思いました。でも、本当にこんなところで出会えるなんて……まるで夢のようです」

 魔――いや、リィナはまるで神に感謝するように手を組み、目を閉じた。

 あふれた雫が頬を伝う。

 彼女は再会の喜びを、少しも隠そうとはせずにいた。

「……」

 対照的に、ティースの胸に渦巻いていたのは複雑な感情だ。

 純粋に嬉しい気持ち。それはもちろんある。

 信じられない偶然に感謝する気持ち。

 なつかしい人の成長を驚く気持ち。

 ……だが、今はそれだけではなかった。

 苦悩と慟哭、痛みを伴う過去の映像、そこにあったいくつかの光景と、昨日の惨劇。

 そして生まれる、ほんのわずかな『疑心』。

「……」

 目の前の魔は、昨日までは憎むべき存在だった。とてつもない憎悪の対象だった。そして、これまでに街を襲った悲劇は否定しようのない事実だった。

(リィナが……そんなことするはず――)

 信じたい気持ちはとてつもなく強い。

 なによりこのリィナという少女は、ティースが人と魔の友好の可能性を強く信じるようになったきっかけであり、彼の魔に対する見方を決定付けた存在でもあったから。

 だが、4年という歳月がそこにかすかな揺らぎを起こす。

 ……あるいは、変わってしまったのだろうか、と。

 裏切り、殺し、奪い尽くす。それが、ここ最近のティースが見てきた魔のすべてだった。

 彼女も結局は『魔』だ。

 だから、そんな疑心に捕らわれてしまう。

 思わず、腰にぶら下げた『細波』の重さを意識してしまう。

(――まさか)

 ティースには考えられなかった。自分が彼女を斬るなどと。

 だが、もしもそれが事実だとしたら?

 彼女を斬ることが、人々を救うことになるとしたら?

 ……それが、あの悪夢を振り払う唯一の方法なのだとしたら――?

 思考が、グルグルと回る。

(……確かめなきゃ)

 最後にようやくたどり着いたのは、当然の結論だった。

(確かめなきゃ、ならない――)

 口の中がカラカラに乾く。

 その返事が、彼にとってはとてつもなく怖かった。

「リィナ……」

 そして、かすれ、震えた声でティースはようやく口を開く。

「まさか、君が――」

 だが、彼の問いかけはそこで強制的に途切れることになった。

 ――誰かが踏み込んできた?

 ――遠くで悲鳴が響き渡った?

 いや、違う。

 辺りは平穏そのもの。

 事実、この外れにある蔵にティースが入り込んだのを目撃した人物はいなかったし、どうやらこの蔵のカラクリを知っている者は、少なくとも街を見回っている警邏隊の中にはいないようだった。

 では、なぜ?

 答えは簡単だ。

 疑心に捕らわれていたティースの心情など知るよしもなく、リィナの方は普通に『感動の再会』を果たしていたということ。

「ティース様……っ!」

「え……あっ!」


 ――つまりは、彼の『特殊体質』の発動条件が満たされてしまったのである――。


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