その3『悪虐の獣魔』
フォックスレアはネービス領の南端、南に接するグレシット領との境からいくらも行かない場所にあって、グレシット領からネービス領へ、あるいはその逆を目指す人々にとっては、宿場町として広く認識されている小さな街である。
今回の依頼主パトリシア=ラムステッドは、このフォックスレアに古くからある名家の若い女主人だった。
(ここがラムステッド邸か……)
ティースはミューティレイク邸とまったく違う雰囲気の屋敷内を思わずキョロキョロと見回していた。
建物そのものにかなり年季が入っており、おそらく何度も改修はされているのだろうが、それでも基本デザインや間取りなどに多少の古くささがある。そしてなにより、まだ日が高い時間だというのに、中が全体的に薄暗かった。
屋敷の規模そのものは小さめと言っていいだろう。使用人の数もおそらくは片手で数えられる。女主人パトリシアが自らディバーナ・ナイトの面々を案内していることからも、それは容易にわかることだった。
そんな屋敷の1階。
「あまり余計なところには触れないように。トラップが作動するかもしれないから」
淡々とそう言った女主人パトリシアの言葉は、屋敷の雰囲気を加味して考えると、到底笑えないものだった。
「トラップねえ」
そんなパトリシアのすぐ後をついていくのは、ディバーナ・ナイトの隊長レインハルト=シュナイダーである。
頭にはトレードマークともいえる灰色の布を巻き、背中には2本の半楕円型の剣『夜叉』。プライベート時とほとんど変わらぬ旅人風の服装だ。
「うまく作動させたら、地下のハーレムにご招待ってのはないもんかね」
パトリシアは冷たい視線を肩越しに向けて、
「この屋敷のことだから地下ぐらいはあるかもね。いるのは、あなたが望む美女などではなく、ネズミと白骨死体でしょうけど」
「……」
レイは肩をすくめ、それ以上はなにも言わずについていく。
その後に続く面々――マイルズ、ギレット、パーシヴァル、そしてティースもまた、この『幽霊屋敷』の雰囲気に当てられてか、あるいは女主人の愛想のなさのせいか、口数が少なかった。
(……怖そうな人だなぁ)
そのパトリシアについては、いかにもやり手っぽい、というのがティースの第一印象だった。
実際に頭は切れるのだろう。彼女が27歳で独身なのは、優秀な彼女を男が敬遠するのか、あるいは彼女自身がそれを必要としていないのか、そのどちらかだと思われた。
「さすがの隊長も、今回ばかりは食指が動かないみたいだねぇ」
苦笑しながら小声でそうつぶやいたマイルズに、レイはもう一度おどけたように肩をすくめてみせる。
幸いその会話は、一番前を歩くパトリシアには聞こえていなかったようだった。
そんな2人の直後を、相変わらずおもしろくもなさそうに無言で歩くのはギレット。
そして最後尾はパーシヴァルとティースである。
「ホント、なにか変なものが出てきてもおかしくない屋敷っすね、ティースさん」
「はは……それは確かにそうかも」
「?」
笑ったティースに、パーシヴァルは少し意外そうな顔をする。
「ティースさん。なにかいいことでもありました?」
「え?」
「いつもより調子良さそうなんで」
「……あ、いや、特になにもないよ」
ティースはそう答えたが、彼の体調が良かったのは事実である。
(やっぱ、ファナさんからもらった薬のおかげかな……)
ファナからもらった『安眠誘発剤』は思った以上の効果を発揮し、彼はあれ以降、充分な睡眠を取ることができるようになっていた。
もちろん、それは彼の不眠の原因そのものを解消するものではなかったが、無理やりにでも体を休めることができれば、気持ちもだいぶ変わってくるものだ。
(いつまでも悩んではいられないもんな……)
ここ数日のティースには、そんな前向きな考えも生まれつつあったのである。
「こっちへ」
パトリシアが応接室らしき扉を開ける。
招かれて、レイが最初に部屋に。マイルズ、ギレット、パーシヴァルと入って、ティースまで入ると、パトリシアが扉を閉じた。
入った途端、かすかなまぶしさを感じてティースは目を細める。
(……へぇ。応接室だけは雰囲気明るいなぁ)
思わず部屋を見回した。
広々としていて、10人ぐらいは容易に入って歓談できるぐらいのスペース。装飾もここだけは新しく、壁も綺麗だった。
南側を向いた大きな窓からは、太陽の光が射し込んでおり、廊下の薄暗い印象とは正反対。暖炉の上には男性の肖像画が飾ってあった。
そして部屋の中央。
そこには大きめのソファが2つ、ひとり掛けのソファがやはり2つ、長方形を作るように設置されており、そのひとり掛けソファの片側に、先客がいた。
(え……まさか、この人が――)
その姿を認識して、ティースは驚く。
そこにいるのが、おそらくは今回共闘するデビルバスターであろうことは想像にかたくなかった。ただ――ティースが想像していたイメージとは、少し、いや、かなり違っていたのである。
「……」
ゆっくりと立ち上がり、日の光を背中に浴びながらナイトの面々とパトリシアに一礼したのは、髪の長い美しい女性だった。
刺繍の入った白いブラウスに裾の長いスカート。ゆっくり頭を下げるその仕草は、どこか愛想のない主人のパトリシアよりもよほど貴婦人らしい。歳はおそらく20代前半からなかばぐらいだろう。
「ひゅぅ」
誰かが小さな口笛を吹いた。若干驚きの意が込められたそれは、おそらくレイの発したものだろう。
「……」
女性は少し眉をひそめたが、特にそれを咎めることはなく。
そのままパトリシアはもう片方のひとり掛けソファへ、そしてナイトの面々は、レイとマイルズが大きなソファの片側へ、残った3人がもう片方へと腰を下ろす。
最後に、立ち上がっていた女性デビルバスターがもう一度腰を下ろして、パトリシアがさっそく口を開いた。
「じゃあ、詳しい話に入る前に、それぞれ自己紹介をしてもらえる?」
「じゃ、こちらから」
レイがすぐに応えた。
「チームの隊長、レインハルト=シュナイダーだ。よろしく、お美しい貴婦人方」
軽く腰を上げてうやうやしく礼をする。仕草と口調は軟派そのものだが、視線はどこかひょうひょうとしたままだった。
他の面々がそれに続く。
「僕はマイルズ=カンバースです。よろしく頼みます」
「ギレット=フレイザー」
「パーシヴァル=ラッセルです」
「えっと、ティーサイト=アマルナです。よろしくお願いします」
それぞれに事務的な挨拶を終え、そして全員の視線が髪の長い女性デビルバスターへと向けられる。
彼女はうなずいて、
「私はルネッタ=フィッシャーです。よろしく、みなさん。さっそくだけど、質問させてもらってもいいかしら?」
「どうぞ」
「チームということだけれど、デビルバスターの称号をお持ちの方は?」
「俺だけだ」
「じゃあ、あなたたちがあの有名なディバーナ・ロウというのは本当かしら?」
「なんだ。知らなかったのか?」
ルネッタはうなずいて、
「パトリシアさんからは、デビルバスターの率いるチームがひとつ、としか聞いていなかったもので。ただ、ネービスからはるばるやってくると聞いて、もしかしたらとは思っていたの」
「なるほどな。……で、質問ってのはそれだけか?」
「ええ。あとは追々、自分の目で確認することにします。そちらから、なにかご質問は?」
「そうだな」
レイはうなずいて、ティースを含めたメンバーを見回す。
さっそくギレットが口を開いた。
「ルネッタと言ったな。おめぇさんは、どの辺までの魔を退治したことがあるんだ?」
初対面にしてはあまりにぶしつけな口調であったが、それは彼の性格だ。
ルネッタもさすがに色々な人間と接してきているのか、嫌な顔ひとつせずに答える。
「チームで闇の二十三族と戦ったことがあります。人型は、残念なことに上位族までしかまみえたことがありませんけれど」
「ほぅ」
ギレットが感心したようにつぶやいて片目を細めた。それ以降は口を閉ざす。
どうやら質問はそれで終わりのようだ。
「おっさんはそれだけか? 他は? ……いないか?」
誰も口を開こうとはしない。もちろんティースも、この場で質問しなければならないことは特に思いつかなかった。
レイはそれを確認すると、
「じゃあ俺がチームを代表して、ひとつ質問させてもらう」
「どうぞ」
「……」
「……」
快く答えたルネッタに、ナイトの面々はなぜか視線を逸らしていた。……それはおそらく、彼の質問の内容をだいたい予測していたからだろう。
「こっちの情報によると、あんたはデビルバスターになって8年、今年26歳だと聞いたが」
「ええ」
「それで。独身なのか?」
「……ええ。それがなにか?」
怪訝な顔のルネッタ。
ギレット以外のナイトの面々が非難する目でレイを見ていたが、彼はまったく意に介した様子もなく言った。
「ああ、いや。旦那がいるのといないのとじゃ、口説き方にも差が出てくるからさ。念のためってやつさ」
「……」
「……」
「……」
マイルズが『やっぱり』といった表情で無言のため息を吐く。ティースもパーシヴァルも似たような心境だったが、ただ、ギレットだけは我関せずといった様子で腕を組み、じっと中央のテーブルを見つめていた。
ルネッタはなんとも言えない顔でレイを見ていたが、ほんのわずかに不快そうな色を浮かべたのはティースにも認識できた。
(そりゃ、なぁ……)
彼女にしてみればレイは少し年下であり、デビルバスターとしても数年下の後輩である。そう考えてみれば、初対面としては――いや、初対面でないとしても失礼な言動を不快に感じたのは当然だろう。
そしてルネッタは言った。
「そんな心配は必要ないかと思います」
「ああ。独身ならなにも心配ないな」
「……」
呆れたようまため息を吐いたルネッタは、それ以上はなにも言わなかった。
「そろそろ、いい?」
つまらなさそうにそれを眺めていたパトリシアが口を挟む。
だが、彼女の冷たい視線にさらされても、レイは自らのペースを乱さなかった。
「ああ、構わない。聞きたいことはだいたい聞けたんでね」
「……それじゃあ」
パトリシアは軽く咳払いのようにのどを鳴らして、膝の上に置いてあった紙の束を手にする。
「魔が最初に姿を見せたのは9日前の夕方のことよ。その夜、街で最初の犠牲者が出た」
「質問いいか?」
レイがさっそく手を挙げる。
「……どうぞ」
いきなり話を中断されて、パトリシアはあまりいい顔をしなかったが、それでも紙束から顔を上げて彼に言葉の先を促した。
「最初に現れた魔ってのは人魔か? それとも獣魔か?」
「人魔よ」
「そいつが現れたのが夕方。なのに、最初の犠牲者が出たのは夜。その時間差はなんだ? その人魔はしばらく散歩でも楽しんでたのか?」
(あ、そうだよな……)
それはティースも少し疑問に思ったことだった。ルネッタも興味深そうに聴き入っている。
パトリシアはうなずいて答えた。
「最初に現れた人魔は一度、街人の抵抗にあって退散した。その直後、手下の獣魔を使って街を襲わせたのよ」
「なるほど」
レイとマイルズが一瞬だけ目配せする。
どうやら少し疑問が残ったようだったが、その場では特になにも言わなかった。
続けてルネッタが口を開く。
「私も質問いいでしょうか、パトリシアさん?」
「どうぞ」
「その人魔は上位族らしいと聞いたのだけれど、姿形をしっかり記憶している人はいますか?」
「いいえ。その魔はフードをすっぽりと被っていたから、顔もわからなければ、年齢や性別も不明よ」
「じゃあ、その魔が上位族以上だと予測したのはどういう理由から?」
「その後に現れた手下の獣魔のランクから、私が勝手に推測したものよ」
勝手に、とは言ったが、パトリシアの返答は自信に満ちあふれたものだった。
それはルネッタも感じたのか、納得したようにうなずいて、
「あなたは確か、街の対魔調査機関で要職に就かれているのでしたか? 個人でも魔についての研究をなさっているそうですね?」
「ええ」
「それなら、その見解をある程度信用させてもらってもよさそうですね」
そのルネッタの言葉に、当然と言わんばかりの顔をしつつパトリシアは手元の紙を1枚めくって続けた。
「その夜の犠牲者は6人。その中の2名は街の警邏隊員。その深夜から街は厳戒態勢に入って、素性のはっきりしない者は街へ入れなくなり――あなた方も見たと思うけど、昼夜問わず、警邏隊が厳重な警戒網を敷くようになった」
その言葉にティースは疑問を覚え、尋ねる。
「どうして旅人まで完全拒絶する必要があったんですか? 魔かどうかだけを確認すればいいんじゃ……」
「……」
不審そうに顔を上げたパトリシアに、レイがすぐさま、
「ティース、それは俺が後で説明してやる。パトリシア、構わず先だ」
「……ええ」
パトリシアはもう一度眉をひそめたが、これはおそらく呼び捨てにされたことへの無言の抗議だろう。ただ、もちろんレイは気に留めた様子もない。
(……な、なんか初歩的な質問だったのかなぁ)
微妙に落ち込んだティースをよそに、話は続いた。
「それ以後も魔の襲撃は続き、これまでに計7回。述べ36名が死亡してる」
「36名……」
思わずつぶやいてティースが他の面々を見ると、パーシヴァルやマイルズはもちろん、レイもさすがに神妙な顔をしていた。
確かに過酷な任務の多いナイトではあったが、それでも小規模な魔の襲撃で、しかもこれだけ短期間のうちに36人もの人間が命を落としているという事件は、そうそうあることではない。
そんな彼らの反応に気付いたパトリシアが言った。
「これでもすぐ近くの街に応援を依頼して、被害を最小限に食い止めたつもり。あなたたちのようなデビルバスターはあまりに数が少なくて、招こうとしてすぐに、というわけにはいかないようだから」
少し非難するような口調だったが、それはもちろんレイやルネッタたちに罪があるわけではない。
「犠牲者の数はそれなりだと思うが、ネスティアスは動いてくれなかったのか?」
レイの問いかけにパトリシアは首を振って、
「3回目の襲撃のあとで使いは出してみたけど、いまのところなしのつぶてよ。こんな辺境の街はどうなっても構わないってことなんじゃない? 正直、彼らが動くのを待ってなんかいられない状況だった」
「……聞かせてもらうが」
ドスの効いた低い声が響き渡って、パトリシアがギレットの方へ視線を向ける。
「警邏隊の連中もボーっとしてたわけじゃねぇ。だったら、これまでに何匹か獣魔を葬ってるんじゃねぇのか?」
「魔はいくら傷ついても退散することはなかった。だから7度の襲撃で7匹、すべて退治しているわ」
レイは口笛を吹いて、
「獣ども、よほど死に急いでいたんだろうな」
そんな彼の反応に再び眉をひそめたパトリシアだったが、
「じゃあそいつらの正体はわかってんだな? 種族は?」
続いたギレットの言葉に、すぐ視線を戻す。
「姿形から推察するに、地が1匹、炎が2匹、水が2匹、風が2匹。その内訳は六十台に属する魔が3匹、七十台に属する魔が4匹よ」
「間違いねぇのか?」
「私がこの目で確認したから、間違いない」
「なるほどな」
ギレットとともにマイルズもうなずいて、
「確かに、元締めが下位魔だとすると使役する数が多すぎるね。とはいえ強くて六十台なら、常識的に考えるとせいぜい上位魔ってところかな、隊長?」
「ま、将族ならもっとマシな奴らを使ってそうなもんだからな」
レイもうなずいて、その後、パトリシアからそれぞれに配られた資料に目を通し始める。
それはもちろんティースの元へも配られた。
10枚近くにも及ぶそれは、ほとんどが被害の詳細な解説で占められている。
(1度目は9日前の21時ごろ……薄暗い路地から男の悲鳴。同時に奇妙な鳴き声。茶色の体毛、背骨の上のみに白い毛の生えた犬型の魔が周囲にいた人々を次々に襲い、約30分後、出動した対魔専門の警邏隊16名の手によって退治。犠牲者は市民4名と、警邏隊員2名……いずれも首を鋭い牙で咬み千切られてほぼ即死――)
背骨上に白い体毛が生えた犬型の魔。その特徴を持つものが『地の七十六族』と呼ばれる魔だということをティースは知っている。実物と戦ったこともあった。
だからこそ、この街を襲ったその惨状は、彼の頭の中で容易に再生される。
――鋭い爪と牙。
――逃げ惑う人々。
――運悪く捕まった男は、恐怖に怯え、自らを襲う獣の凶器に目を見開いて。
そして視界に迫りくる、獰猛な獣の牙――
「っ……!」
ティースは思わず目を閉じた。
首筋にはうっすらと嫌な汗をかいている。
意識しないままに、下唇を噛んでいた。
――その後は、あまり想像しないようにして読み流していく。
36人。
(どうして……)
それぞれに想いがあって、それぞれに夢や目標があったはずだった。それは数字で表す以上に重い。今のティースにはそれが嫌というほど実感できた。
そして、それを奪ったのは、やはり魔の者――
(どうして、こんなことが平気で……!)
そこに重なったイメージは、ひとりの人魔の姿。『タナトス』という魔の犯罪者集団に所属する、ザヴィア=レスターという名の、慇懃な快楽殺人者の姿だった。
「あー……っと。最後に確認しておきたいんだが」
ひと足先にすべて読み終わっていたのだろう。レイが資料の束を脇に放って、パトリシアへと質問する。
「最初に姿を見せた人魔は、今は街の外に逃げているんだな?」
パトリシアは少し考えるようにしながら、
「そのときは間違いなく街の外に逃げていったから、知らないうちに再侵入されていない限りは。さっきも言ったように、今は外部からの見知らぬ訪問者が市街に入ることも断っている状態だから」
「なるほど。……さて。それじゃあ」
レイの視線は次に、同じように資料を読み終えたルネッタの方へと向けられた。
「どうやる? 協力と言っても、そっちにはそっちのやり方があると思うが?」
その問いかけにうなずいて、ルネッタは逆に質問する。
「あなた方はどういう方法を取るつもりです?」
レイは即答した。
「敵さん、なかなか仕事熱心なようだし、そいつらを潰しつつ敵さんの出方を待つかな」
「それなら、行動を別にする必要はないでしょう」
どうやら彼女も同意見のようだ。
レイは笑みを浮かべて、
「それはありがたい。君と一緒に仕事ができるだけでも、ここに来た甲斐がある」
「本当、冗談が好きな人のようですね」
「冗談かどうか後で確かめてみるか?」
「遠慮させてもらいます」
ルネッタはピシャリと突き放して、そばにあった剣を手に取る。
貴婦人然とした格好には似合わないと思ったが、不思議にそれを手にした瞬間、彼女の雰囲気が変わったようにティースは感じた。
それは静かな威圧感、とでも言おうか。やはり普通の人間とはどこか違っている。
「先に部屋に戻ります」
だが、凛とした口調でそう言ったルネッタに対し、レイはまったく態度を変えることなく、それを見送りながら言葉を付け加えた。
「ああ。あとで訪ねて行っても構わないかな?」
「……きちんとした用事がある場合、でしたら」
眉をぴくりと動かして、ルネッタは部屋を出ていった。
今度こそ機嫌を損ねたのは間違いなさそうだが、それでもレイは楽しそうな笑みを浮かべている。
続いて、パトリシアも席を立った。
「じゃあ、私も失礼するわ。あなた方の部屋は、さっき案内した通りよ」
まるで、ここにいることが時間の無駄とでも言わんばかりの態度でそう言うと、
「口が達者なのは構わないけれど、それなりの働きもして欲しいものね」
その嫌みも、レイはさらりと流して答えた。
「それは心配ない。美しい女性の望みを叶えることは、俺にとって最大の喜びだからな」
「……」
まるで興味のない視線を送り、そしてパトリシアも部屋を出ていった。
ナイトの面々に与えられた客室はそれなりの広さだったが、やはりミューティレイク邸の個室と比べると狭い。
妙に明るかった応接室と違い、綺麗にされてはいるものの、やはりどこか微妙に古くさい雰囲気だった。
昼食を終え、今はそこにナイトの面々が全員揃っている。
「今回はなかなか手ごわそうだねぇ」
「ああ。一筋縄じゃいかなそうだ」
レイやマイルズが話しているのは、一見今回の任務についてのようにも聞こえるが――
「ま、デビルバスターになるような女だ。一筋縄でいく方が珍しいさ」
そんな2人の会話を、ギレットはつまらなさそうな顔で、パーシヴァルはちょっと興味ありそうにしながらもとりあえず口を挟む様子はなく、広場の露店で買ったらしい干し肉をかじっている。
昼食を終えたばかりだったのだが、どうやら彼にとってそれはおやつらしい。
「ティースさんも食べます? おいしいっすよ」
「あ、いや、俺はいいよ」
差し出された干し肉を断りつつ、ティースは眉をひそめてレイに質問した。
「そんなことよりレイさん、さっき――」
だが、ティースが言い切る前に、
「魔ってのは、常に魔の姿をしてるわけじゃないんだ」
「――え?」
突然の言葉にティースがびっくりした顔をすると、レイは彼の方へ向き直って、
「なんだ? 街の厳戒体制の理由を知りたいんだろ?」
「……あ、そ、そうだけど」
「まだアオイから習ってないか? 魔ってのは、人間に姿を変えることができる。だから、その魔が人間に姿を変えて街に進入する可能性を恐れてるのさ」
「あ……そうか」
それは確かにアオイの授業ではまだ習っていないことだったが、経験上ティースはそれを知る機会があった。
ただ、それでも少し怪訝な顔をして、
「でも、いくら人間に姿を変えたって、顔を見られてればすぐばれるんじゃ――」
「パトリシアが言ってただろ? 魔はフードをかぶっていて、その姿形をしっかり記憶してる者はいない」
「あ、それもそうか……」
ティースは被害状況にばかり目が行っていて、細かいところまで把握しきれていないようだった。
レイは自らの耳を軽く指先で叩いてみせると、
「ついでだから教えておいてやる。魔が人に姿を変える方法は主に3つだ」
耳――そこは、人と魔を見分けるのにもっともわかりやすいとされる場所だ。逆に言えば、人と人魔の外見的な違いとは、ほぼその程度のものでしかない。
「ひとつめはローリスク、ローリターン。魔力を使っての、かなりシビアな時間制限付きの変身だ。得手不得手はあるだろうが、その技に優れた将族クラスでもせいぜい1時間が限度と言われてる。だが、それでも正体を隠して街に侵入するぐらいは可能だ」
マイルズが付け加える。
「実際、いつだったかファナさんを襲った――ティースくんに助けられたときのあの連中も、その方法といくつかの偽装を使ってネービスに入ったんだろうね」
ティースはうなずく。それは彼の知っている方法だった。
レイは続ける。
「ふたつめは、特殊なアイテムを使って姿を変える方法だ。モノによっては数日の効果をもたらすものもあるが、こいつの欠点は、人間の姿でいる間は魔力を行使できないことに加えて、効果が切れるまでは自分の意志で元の姿に戻れないことだ。さらに今は魔力探知の検査で偽装を見破ることができるようになったから、ここみたいな厳戒態勢下の検問を突破することはできない。使われるケースはごくごく限られるだろうな」
「……」
魔力が使えないというのは、魔にとってはもちろん致命的なことである。特に、なんらかの目的を持って姿を変えている魔の者であれば、なおさらだろう。
興味深そうに聴き入るティースに、レイは一度言葉を切ってから、
「ラスト……みっつめはハイリスク、ハイリターン。刻印型の破魔具、『朧』だ」
「朧?」
ティースにとっては初めて耳にする単語だった。
「ああ。条件は厳しいが、半永久的に人の姿でいることができる上、魔力も行使できる。見破る方法もほぼ皆無って代物さ」
「半永久的って……」
思わず驚きの声がもれる。
もしそれが本当ならとんでもない代物だった。魔が、普通に人の世界に溶け込んで、その上で、いつでも人をはるかに上回るその力を行使できるということなのだから。
だが、もちろんそんな便利なものが、そうそう存在するはずもなく。
「魔力は……そのままで?」
ティースの問いに、レイはうなずいて、
「それが厳しい条件のその1さ。魔力は行使できるが、かなり制限される。およそ5分の1ほど――目安としちゃ、上位族なら下位族を確実に下回る程度、将族でもやはり上位族と下位族の間ぐらいにまで制限されちまう」
「じゃあ5分の1って、かなりの……」
「ああ。下位魔が使おうもんなら、人間とほとんど大差なくなるだろうな」
「……」
そんなものを使う魔がいるのか――そう質問する前に、レイは表情からそれを読んだのか、
「実際に使用された例が意外とあってな。ま、それはあとの話だ」
薄い笑みをたたえたままそう答え、続けた。
「条件その2は、『身請け人』となる人間が必要ってことだ」
「身請け人?」
「『朧』は身請けをする人間と、その効果を望む魔の者の合意によって初めて効力を発揮する。それは基本的に、身請けした人間が死ぬまで続く……が、こいつは強制ではなく誓約によって効果を発揮するタイプでな。魔が自分の意志でそれを破り、元の姿に戻ることは可能だ。ただし、その場合は漏れなく『死の制裁』がついてくる」
「……」
ティースは頭の中で整理することにした。
まず、『朧』というのは、魔を半永久的に人間の姿にとどめるアイテムだということ。
朧によって姿を変えた魔は、魔力を行使できるがその力は極端に制限されること。
朧の効果を得るには、『身請け』をする人間が必要で、その人間と魔の双方の合意が必要であるということ。
その効果は身請けした人間が死ぬまで続くこと。
そして『死の制裁』。
「じゃあ……一度姿を変えた魔が元の姿に戻るとしたら、死ぬしかないってことか」
「いいや、もっと簡単さ」
レイは笑って答えた。
「安全に元の姿に戻りたければ、身請けとなった人間を殺せばいい。だろ?」
「……」
それは確かにその通りだ。だが、身請けとなる人間側にもリスクがあるとすれば、ますます疑問だった。
「実際に使用された例があるって言ってたけど、本当に?」
「ああ。……魔と人間の間に子供ができるのは、お前も知ってるだろ?」
「え? あ、ああ」
突然話の趣旨が変わって困惑したが、ティースはうなずいて、
「実際、そういう子供がたまにいるらしいけど……」
「ああ。そのほとんどは、人魔の男と人間の女の間に産まれる子供だ。……つまり、産む方にしても望まない子供でな。あまり大きな声じゃ言われんが、ほとんどが産まれる前に殺されちまう」
「……ああ」
その理由は言われずともわかった。
「だから、この世界で生きている『魔と人間の雑種』ってのは、なんらかの手違いや勘違いで産まれ、そのまま育てられた者か、あるいは捨てられてそれでも運良く生き延びた子供。それともうひとつ。わかるか、ティース?」
「……」
ティースの脳裏にはひとつの可能性が浮かんだ。
それは彼としては決して否定できない可能性だったが、レイが言った『もうひとつ』が本当にそれであるかどうかは確信がなかった。
だが、レイはまるでその返事をすでに得たかのようにうなずいて、
「そういうことだな」
「え……?」
「つまり、基本的にさっき言った奴らとはまったく逆。『望まれた』子供のことだ」
その言葉の意味するところは、ティースにもよくわかる。
だから今度は、彼の方からそれを口に出した。
「それって、人と魔がお互いに――」
「ああ。そこで朧につながる。つまり朧ってのは基本的に、なんらかの理由で人間と生活を共にする決意をした魔と、その魔を受け入れようとする人間の間で交わされる誓約のアイテムなのさ」
ティースは信じられない思いで、
「……そんなことが、本当に」
「朧によって姿を変えた魔は人間と区別がつかなくなるし、見破る方法も今はまったくないとされている。魔力を行使したとしても――」
レイは脇に置いてあった自らの武器『夜叉』に触れて、
「こういった特殊な破魔具の効果だと言い張れば、それで済む。だから、たとえば俺が朧で姿を変えた魔でもおかしくはないし、それは誰についても同じことが言える。真実は本人と身請け人にしかわからないのさ」
「……」
思わずティースはレイを見つめ返した。
「言っとくが、俺は違うぜ」
レイは苦笑しながら、
「今回の件とは関係ない方向に話がズレちまったが、ま、そういうことだ。デビルバスターとしては、覚えておいて損のない知識だ。……中には、なにか企んで朧を悪用する奴らもいないわけじゃないからな」
「わかった。覚えておく」
……朧。
今日この場で耳にしたそのアイテムの様々な知識が、のちのち、あらゆる意味で自分に深く関わってくることになるなどと、このときのティースは予想もしていなかった。
そして、その日の夕方。
――フォックスレアの街には悲鳴と、怒号があふれていた。
「……!」
なんとも形容のしがたい鳴き声とともに、オレンジ色に染まる地面を蹴ったのは、まるで巨大な団子虫のような形の生き物だった。
体長は1メートル程度だろうか。表皮は油のようなものでテカっており、表面には無数の棘のようなものがついている。
地の七十二族。
彼らは体を丸め、回転しながらの体当たりで獲物を切り裂くのを得意としている獣魔だ。
それと向かい合うように立つのは、取っ手のついた棒を両手に携えた少年。
パーシヴァル=ラッセルだった。
「よっ……と」
まるで緊張感もなく、パーシヴァルは右手の棒――トンファーをクルリと回して、凶器の塊となった地の七十二族へ自ら突進していく。
――距離が狭まる。
瞬間、パーシヴァルの目が細くなった。
「はぁぁぁぁっ!!!」
右手のトンファーが唸りを上げて正面から地の七十二族に打ち付けられる。
ただその表皮は堅く、容易にはダメージを与えられない。
――そのはずだった。
だが、
「……」
地の七十二族はその動きを停止していた。
濁った血が、表皮の隙間から流れ出す。
パーシヴァルのトンファーは、回転する獣魔の表皮――その継ぎ目を正確に捉えていたのだ。
達成感を浮かべたその口から、つぶやきがもれた。
「……まず1匹」
そこから少し移動した場所。
家の壁には血を流しながら倒れる女性がいる。その女性のそばですすり泣くのは、4、5歳ぐらいの男の子と、それより少し年上ぐらいの女の子。
おそらくは親子だろう。頬のコケた母親は目を開いたまま天を見上げている。
死んでいるのは誰の目にも明らかだった。
旦那は不在なのだろうか。あるいは、子供を置き去りにして逃げたのか。それはこの状況ではわからないことだ。
「……」
そんな親子に背を向け、立っている男がいる。
無愛想な表情。片目を閉じ、左手にはつるはしのような形の武器を携えている。
ギレット=フレイザーだ。
その彼が片目で見据えているモノ。
「ゲェェ……」
聞くだけで不快になるような粘着質の鳴き声を上げ、ヌメヌメした体の皮膚がよりいっそう悪寒を増幅させる。
水の六十一族。体の大きさは成人男性と同じぐらいだろうか。ギョロッと飛び出した目、ずんぐりとした体はまるでカエルのようだ。
その大きな口からは、3本の長い舌が見え隠れしている。それが、女性の命を奪った凶器だった。見た目以上の質量を持ったその舌は、大人の男性が繰り出す重たい棍棒の一撃以上の威力を秘めている。
しかもそれが3本、とてつもない速さで――
だが、右から飛んだ高速の舌を、ギレットの片目は造作もなくとらえていた。
「ゲェェェェェッ!!!」
左手のピックが、風とともに魔の舌を切り裂く。ピンク色の物体が宙を舞い、地面に落ちた。
立て続けに2つ、3つ。
「ゲ……ゲェェ……!!」
魔はあっという間に丸腰になっていた。
そのときになって、ようやく相手との実力差を悟ったのだろう。
――だが、すでに遅い。
「ガ……ゲゲゲゲゲェェェェッ……!!」
肉を絶つ感触。ずんぐりとした腹が裂け、そこから気味悪い色の臓物と、緑に近い色の体液が噴き出した。
「……」
ギレットの手はさらに容赦なく、色を失いつつあった獣魔の両目を貫く。
……無愛想なその瞳に、明らかな憎しみの色。
徹底的に、完璧に、獣魔が息の根を止めたのを確認するまで、彼の攻撃は容赦なく続いた。
街の中心部。いつもは露店でにぎわう大きな広場。
そこもまた、今は戦いの舞台となっていた。
崩れた店の残骸。
用を為さなくなった手押し車。
「あっ……ああっ……! 誰か……誰か、助けて……早く、早く……っ!!」
切羽詰まったような苦痛の声。
「ああ、大丈夫だ。もう大丈夫だから安心して、僕を信じて、少し我慢するんだ」
地面にうずくまる少年の元に、白衣をひるがえすマイルズがいた。少年は頭から血を流し、苦痛の声を上げ、その手はまるでなにかを探すように宙をさまよう。
「姉ちゃん……姉ちゃんは……っ!」
「心配しなくていい。君のお姉ちゃんも無事だ。僕たちが来たから、もう大丈夫だ」
白衣には彼のものと思われる血がベットリと大量に付着している。マイルズは懐から白い粉のようなものを取り出すと、それを少年の口に含ませた。
「さぁ、呑んで。少しは痛みが楽になる。舐めて、溶かして、流し込むんだ」
「あ……ああ……」
少年の顔がようやく和らいだ。
「ァァ……ァァァ……ッ……!!」
その背後で、獣の悲鳴が響き渡り、ボトリと、首のようなものが地面に落ちた。
「どうなってやがる」
自らが葬った獣魔の体を蹴り飛ばし、レイは誰に言うとでもなくつぶやくと、
「敵さん、いきなり総力戦のつもりか? マイルズ」
少年の苦痛のうめきはいつの間にか止んでいた。
「……」
レイの視線の先で、マイルズは血で真っ赤に染まった白衣を揺らして振り返ると、
「そうかもしれないね」
その手が少年の顔を撫でた。
「確認できただけで10匹。犠牲者は――この子と、そっちの女性を含めて21人」
右腕と右足の千切れ飛んだ少年は、無惨な姿をさらしながら、それでも今は安らかな寝顔を浮かべている。
それだけが、救いだった。
マイルズは少年の遺体を抱え、そばにあった女性の骸の脇へそっと横たえると、2人の手をしっかりとつないだ。
かすかに、まつ毛が震える。
「実際にはもっと犠牲者が出ているはず。でも、ようやく敵の数も減ってきたようだ」
「……」
そんな彼の行動を黙って見守っていたレイだったが、やがて視線を動かし、
「なら、全部潰して一気に黒幕を引きずり出すとするか」
「ああ……了解、隊長。これ以上、好き勝手させるわけにはいかないからね……」
マイルズは地面の2人に向けて軽く十字を切り、そして次の場所へ向かったのだった。
ティースはルネッタとともに行動している。
パチパチという音とともに、辺りは真っ赤に染まっていた。
「くぅっ……!!」
彼が相手にしていたのは、『炎の六十八族』と呼ばれる、体長1メートルにも満たないネコのような形の獣魔だ。
警戒すべきは素早く柔軟な動きと、ときおり口から放たれる熱の息。それほどの殺傷力を持たないが、顔などに浴びると視界が失われる危険がある。
とはいえ、しょせんは六十台に属する下級の獣魔。五十台の獣魔とも渡り合えるだけの実力を身につけているティースにとっては敵ではない。
その、はずだった。
だが、
(こ……こいつ、本当に六十台なのか……!?)
ティースはいまだ、その獣魔の動きをとらえきれずにいた。動きに翻弄され、ときおり襲いかかる爪や炎の息で、ところどころに軽傷を負っている。
狙いを定め、剣を振り下ろす。
だが、すんでのところで横に避けられ、無防備なところに獣魔が飛びかかった。
「ちっ……!」
反射的に剣を振るったが、間に合わない。
「つぅっ……!!」
右腕に焼け付くような痛み。とっさに体をひねったおかげで直撃はまぬがれていた。
そして、その一撃を避けたことでようやく勝負は決する。
振り向きざま振るった彼の剣が、地面に着地した瞬間の魔をとらえたのだ。
腕に伝わった感触は明らかな手ごたえ。
その一撃が敵の致命傷となった。
(ルネッタさんは――)
地面で動かなくなった獣魔を見下ろし、肩で大きく息をしながらティースが視線を移動させると、ルネッタは同じタイプの魔を3匹同時に相手しているところだった。
……いや、『相手している』という表現は正しくないかもしれない。
なぜなら戦っているとそう思った次の瞬間、すでに勝負は決していたからだ。
ルネッタはそこから1歩も動くことなく、細長い剣が無駄なく閃いて、一気に3匹の獣魔を葬り去っていた。
1匹に1撃ずつ。
あまりにも正確無比な、無駄のない攻撃。
「……」
無言のまま血を払って、ルネッタがゆっくりと身をひるがえす。
(この人……)
その瞬間、ティースの体は戦慄に震えた。
(……強い。もしかしたらレアスくんやアクアさんよりも)
「苦戦したようですね。大丈夫ですか?」
あまりにも強烈な今の芸当を見てしまったせいだろうか。ルネッタの言葉は、その気遣う内容とは裏腹に、どことなく冷徹に聞こえてしまった。
ティースはどうにかうなずいて、
「え、ええ。すみません、足手まといで……」
「いいえ。仕方のないことです。行きましょう。次の犠牲者が出ないうちに」
「……」
その言葉が、その場の陰惨な状況を彼に思い出させた。
「水だっ! 水を持ってこい! ……早くしろ!!」
「……誰かっ! 誰か来てぇぇぇっ!!!」
背後ではたくさんの家が燃えていた。
人々の悲鳴、怒号。
地面に倒れ、苦しむ男。
燃えさかる家の前で、狂ったように泣き叫ぶ母親。
絶望の表情で座り込む子供。
「……」
ギリッと奥歯を鳴らして、ティースはルネッタの後を追った。
そして――約30分後。
多大な犠牲を払いながら、街に現れた獣魔のほとんどがようやくその活動を止めた……まるでそのタイミングを狙っていたかのように。
何者かのひとつの叫びが、人から人へと伝わって、そして彼らの耳にも届いた。
やつが現れた――と。
フードとローブに身を包んだその魔の者は、自らの歩みを妨げようとする警邏隊員をその圧倒的な魔力で軽くあしらい、街の中へと足を踏み入れていた。
大柄。ティースと同じぐらいはあろうかという長身だ。その顔はフードで完全に隠れており、体もローブですっぽりと覆われている。
中の敵と、外からの侵入者。
街は今、混乱の極みに達しようとしていた。
「……」
魔は駆け足に近い速度で、街の中心へと向かっている。その先は、ディバーナ・ナイトの面々が駐留するラムステッド邸のある方角。
いや、その人魔は間違いなく、なんらかの意図を持ってそこへ移動していた。
――と。
その正面から、ひとりの少女が駆けてくる。
歳のころは7、8歳だろうか。
「た……たすけ――!」
その後ろには1匹の獣魔。比較的動きの遅い、だが少女の足よりは間違いなく速い、ずんぐりとした体型のナメクジのような形――『水の七十五族』と呼ばれる獣魔だった。
粘着質の体は酸をまとっている。一瞬で溶かすほど強い酸ではないが、彼らはそれで捕らえた獲物を捕食するのだ。
少女のような小さな存在は、彼らにとっては絶好の獲物だった。
「!」
そこで少女の瞳が、目の前からやってくるフードの人影に気付く。
「たっ……たすけてぇぇぇぇぇぇっ!!」
少女がもしも大人だったなら。
あるいはあらかじめ予備知識があったなら。
決してその人物に助けを求めはしなかっただろう。
――それは、化け物に囚われ生きながら溶かされるか、あるいは人魔の手によってひと思いに殺されるか――おそらくはその程度の選択。
そしてそれは少女にとって吉だったのか、あるいは凶だったのか。フードの魔の者は足を緩め、そしてその少女に視線を向けた。
「……!」
そしてようやく、おぼろげながらに少女は悟っていた。
自分が助けを求めた人物が、何者であるかを。
ローブがかすかに踊る。
その場に正常な判断能力を持った第三者がいたとして、その者がごく平凡でなんの取り柄のない人間だったとしても、その『変化』にはおそらく気付いただろう。
肌に触れる空気が、急にその密度――いや、湿度を増したことに。
あふれ出す、圧倒的な魔力。
「ぁ……ぁ……っ!」
少女は足を止めた。
涙をいっぱいに溜めた瞳を、これ以上ないほどに大きく、大きく見開いて。
ガクガクと膝が震える。
もう走れない。逃げることはできない。
――少女は知っていた。その力を行使する者が、人ではないことを。
そしてそれが、どれだけ残虐な存在であるかということを。
「ぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
少女の絶望の叫びは、大きく、大きく響き渡って。
同時に放たれた圧倒的な魔力は、そこにあった生命をいともたやすく葬りさっていた――