その2『苦悩の日々』
ティースがネスティアスの候補生と他流試合をおこなった翌日の朝。
朝日が射し込み始めたばかりの屋敷の廊下には、ほんの少し甲高いソプラノの鼻歌が響き渡っていた。
「~」
屋敷の執事リディアの1日は、朝イチで書庫に向かうことから始まる。どこへ行くにしても本を持っていなければ落ち着かないという彼女にとって、朝一番に本を探しに行くことは、朝食を摂ることよりもよほど重要なことなのであった。
もちろんこんな早い時間から書庫を訪れる人間などそうそういるものではなく、リディアはいつも無人の書庫をブラブラしてゆっくりと本を探すのだが――
(ありゃ? あれは……)
この日は珍しいことに先客がいた。
入口付近に設けられた読書用のテーブル。
そこに座る後ろ姿を目に留めたリディアは目をまん丸に見開いて、それからゆっくりと近付いていくと、
「今日も寝不足なの?」
「……」
振り返ったポニーテールの人物については、もはや説明はいらないだろう。確かにリディア以外でこんな早くにここを訪れる人間は、彼女ぐらいしか思い当たらなかった。
「なんてことはないわ。ただ、いつもより早く目が覚めただけよ」
そう答えるシーラの顔を見て、リディアは即座に違和感を覚えていた。
「ふぅん」
リディアはあいまいな言葉を返しながら、その向かいの席に腰を下ろして、
「目元の辺りとか、化粧濃すぎるんじゃない? お化粧なんてしなくても、シーラさんより綺麗な人なんてそうそういないと思うけどなあ」
シーラはハッと目元に手をやると、ため息を吐きながら視線を手元に本に落とした。
「ホント、嫌な子ね」
「あはは、誉められちゃった」
頭の後ろに両手を回して、リディアは無邪気に笑う。
そんな仕草だけは年相応だった。
「そっか。ティースさん、昨日もうなされてたんだ?」
「そうね。そのようね。迷惑な話だわ」
「またまた。そんなこと言っちゃって」
「なに?」
シーラが視線だけ上げたのを見て、リディアは続けた。
「あたし、少し考えてわかったよ。シーラさんはやっぱり、ティースさんのことが心配なんだよね。心配してて、なのになにもしてあげられないからイライラしてるんだ」
シーラは怪訝そうに、
「なぜ、そう思ったの?」
「だってイライラしてる割に、最近はちっともティースさんにキツく当たろうとしないじゃない。それって、やっぱり心配してるからなんでしょ?」
「それはちょっと違うわね」
その言葉にシーラは苦笑して答える。
「単に死者に鞭打つことをためらっているだけよ。私だって地獄の鬼婆じゃないんだから」
「あはは、死者はひどいや」
そう答えながらも、リディアは心の中で首をひねっていた。
(……微妙な反応だなぁ)
もちろんリディアとて他人の心が読めるわけではない。
そして、この目の前の冷たく美しい年上の少女は、ときおり本心のようなものをのぞかせたりはするものの、基本的には内面を隠すのが上手だった。
だからリディアはいまだに、彼女の真意がどこにあるのかを完全には読めずにいる。
結局その真偽を探るのは諦めて、リディアは話題を変えることにした。
「そういやシーラさんって、ティースさんとは結構長い付き合いなんだよね? どれぐらい長いんだっけ?」
それに対しては、シーラは素直に答えた。
「そうね。常識的に考え得る、ほぼ最大限の長さかしら」
「あ、そうなんだ。じゃあもしかしてオムツを替えてもらってたとか?」
「……それはないわ」
「うわ、冗談だってば。怒らないでよ」
「怒ってないわ」
そう言いつつ、シーラの表情は寝不足であることとは別に、少し不愉快そうだ。幼いころの話は、あまり触れられたくない話題なのかもしれない。
「でも、そんな古い付き合いなら、最近まで一緒にお風呂に入ってたりとかは――うわわ、だから冗談だってば!」
「……」
すっと細めた目がリディアを射抜いている。これ以上言うと、本気で怒らせてしまいそうだった。
「そんなに過敏にならなくてもいいのに。あたしだって小さいころは兄さんにお風呂に入れてもらってたよ?」
「それとは話が違うでしょう」
するとリディアはわざとらしく納得できない顔をして、
「昨日は夜這いするとかしないとかの話をしてたくせに、今日はお風呂ぐらいで怒るの? わかんない人だなぁ」
「……」
シーラは気まずそうに黙ると、少し苦い顔をする。
どちらも口は達者な方だったが、どうやらこの場はリディアのほうに分があるようだった。
「でもさ。それはそれとして、なんとかしてあげられないのかなぁ、ティースさん。ねぇ、長い付き合いとかで、パッと立ち直らせる方法を思いついたりしないの?」
「あのね、リディア……」
シーラはこれ以上やりあっても仕方ないと思ったのか、諦めたように小さく首を振って、
「あるなら、とっくにやってるわよ。そうでしょ?」
「そっか。……そうだよね。寝不足はお肌の天敵だもんね」
リディアはようやく納得した様子で立ち上がった。
「ねえ、シーラさん。もし辛いんだったら、しばらく部屋を変えてもらったら? あたしからファナさんに言っておいてあげるよ」
「考えておくわ」
最後はやはり興味なさそうに答えて、シーラは再び手元の本に視線を落とした。
「ナイトはまた任務だよ。たぶん明日の朝には発つと思う」
「……」
本に集中して聞こえていないのか、あるいは特に言うこともなかったのか、シーラからの返事はなかった。
それを確認してリディアはその場を離れ、薄暗い書庫の奥へと歩いていく。
(……シーラさんでも無理ってことだと、ホント、出口が見えないなぁ)
そして首を横に振ると、深いため息をついたのだった。
「今日の授業は聖力と魔力について、少し掘り下げて説明することにします」
午前中、ティースはいつものように、屋敷のもうひとりの執事、イングヴェイ=イグレシウス――通称アオイから、デビルバスターに必要な知識の授業を受けていた。
「まず聖力についてですが――」
つい先日、22歳の誕生日を迎えたばかりのアオイは、線の細いお坊ちゃん風の外見で、縁なし眼鏡がよりいっそう穏やかなイメージを濃くしている優男である。
そして実際に彼は、少なくとも普段は穏やかで、そしてどこか微妙にネジの抜けているような、そんな人物だった。
ただ、その穏やかな表情が、少し心配そうな色に変わる。
「……ティースさん? 大丈夫ですか?」
「え……あ、ああ」
顔を上げたティースの目の下には、うっすらとクマのようなものができていた。
「……」
もちろんアオイもその理由を知っていたが、その場はひとまずなにも言わずに、
「では、説明を続けます。きちんと理解してくださいね」
そう言いながら、テーブルの上に用意したものを示す。
「……これは?」
そこにあったのは長さ1メートルほどの筒のようなものだった。真ん中の80センチほどは透明なガラスでできており、両端の10センチずつは金属のようなもので覆われている。
中にはわずかに黄色がかった液体が半分ぐらい入っていた。
「この中に入っている液体は、聖力に反応する特殊な液体です。見ててください」
その筒をテーブルに用意された台座の上に置くと、中の液体はしばらくユラユラ揺れて、やがて水平になる。
それを確認してから、アオイがその筒の片側――金属の部分を握ると、明らかな変化が起きた。
「あ……」
中の薄黄色の水面が、アオイが触れた方の端に引き寄せられるように傾いたのである。
アオイは言った。
「聖力というものは基本的に、人が生まれつき備えているものです。これは修行などで増やすことはできません。ではティースさん。リラックスしてそちらに触れてみてください」
「あ、ああ……」
ティースがアオイとは反対側の金属部分に触れると、やはり水面は動いた。水平――いや、明らかにティースの側へ大きく引き寄せられている。
アオイはうなずいて、
「これはつまり、生まれ持った聖力が、私よりティースさんの方が優れていることを示しています。しかもこの傾きを見る限り、ティースさんはなかなか類いまれな強い聖力の持ち主ですね」
「え。そうなのか?」
「ええ。レイさんやアクアさんでは、ここまで引っ張られることはありませんから。今、この屋敷でもっとも優れた聖力の持ち主は第四隊のアルファさんですが、ティースさんはそれに匹敵する聖力を持ってるようです」
「え? 俺の聖力が、レイさんやアクアさんより強いってこと?」
「ええ、そうですよ。……ただし」
アオイは小さく微笑んで、もう一度筒の中身を見るように促した。
「こういう方法が、あります」
そう口にした瞬間、中の液体がいきなりアオイの側へと勢い良く動いた。
「!」
そしてそのまま、1秒、2秒、3秒……5秒ほど経つと、再び元へ戻る。
ティースはアオイの顔を見て、
「今のは……?」
「これが、ティースさんがファントムで習ったであろう『集中』というものです」
「集中?」
確かに、ティースは以前所属していたディバーナ・ファントムで、その隊長のアクアからしつこく『集中』という言葉を聞かされていた。だが、それが具体的にどういうことなのかは、いまだにわからないままである。
アオイは言った。
「聖力というのは基本的に、全身と身につけているものをまんべんなく巡っています。武器を持てばもちろん武器にも巡ります。その全身に巡る聖力を、一時的に一部分に集中すること。この場合、私は手の平へと全身の聖力を集中させたのです」
「……あ、なるほど。それで、俺とアオイさんの聖力が逆転したのか」
「はい。もちろん、産まれ持った聖力の強さは大きな武器です。しかし、それだけでは強い魔力の壁を打ち破るのは至難の業。それはティースさんにも、覚えがあるでしょう?」
「……ああ」
ティースの頭によみがえる、ひとつの名前。
ザヴィア=フェレイラ=レスター。
ティースの中に決して忘れられない『しこり』を植え付けていった風の将魔の名だ。
「あなたほどの類まれな聖力を持ち、そしてあなたの持つ驚異的な能力の破魔具『細波』を持ってしても、集中なしには太刀打ちできない敵がいるのです」
集中。
あのとき――ザヴィアの壁を一度だけ破ったあのときは、まったくそんなことは意識していなかった。
だが、今になって思い返してみると、確かに全身の力が一点――刃先へと集中していたような、そんな感覚があったような気がする。
「集中は人によっては聖力の効果を数倍にも高めます。一般的には、最大で10倍程度までは可能だと言われていますね」
「10倍……?」
いまいち感覚はわからなかった。
「聖力の基準としては、ですね。……ごく標準的な人間が、ごく標準的な破魔具を手にした場合の力――聖力と破魔具の増幅値を掛け合わせた値を『破魔値』と言いますが、その破魔値は大体、人魔で言うとごく標準的な下位魔、獣魔で言うと五十族辺りの『魔力の壁』とほぼ同程度と思っていいでしょう。人魔はクラスがひとつ上がる事に2倍強、獣魔は2倍弱といったところです。……実際には聖力の属性や性別などによる相性もあって複雑なのですが、だいたいそんな感じです」
その言葉に、ティースは少し意外に思って、
「ってことは、まったく普通の人間でも、破魔具を持ってさえいれば下位魔ぐらいとは戦えるってことか?」
「そう、考えますか?」
アオイは苦笑して、
「魔力の壁を破れないということは、イコールほぼ絶対に勝てないということです。もちろん魔力の壁は体内のエネルギーを使って創り出すものですから、不意を突いたり、あるいは大勢で魔力をどんどん消耗させてしまう方法もなくはないですが、基本的に、相手の魔力の壁と同程度の破魔値しか出せないということは、たとえどんなに優れた技術を持っていたとしても、単純計算で最大5割の勝率しかないということになるのです」
「あ、そっか」
納得顔のティースに、アオイは続ける。
「魔との戦いにおける大前提は、まず『確実に』魔力の壁を破れるということです。ちなみにデビルバスターになるような人間は、大体普通の人間の2倍の聖力を持っていると言われています」
「2倍……」
つまり、最低でもそのぐらいの聖力を持っていなければ、デビルバスターになるのは難しいということだろう。
アオイは目を細め、そして少しためらった後に言った。
「……サイラスさんの聖力について、ティースさんは詳しくご存じでしたか?」
「サイラス? ……いいや」
アオイはうなずいて、神妙な顔で言葉を続ける。
「彼は技術的にはデビルバスターになっていてもおかしくない人物でした。それは、ティースさんもよくご存じのことかと思います」
「……ああ」
「ただ不幸なことに、彼の生まれ持った聖力というのは、常人並……いえ、常人のそれよりもさらに低い値でした。たゆまぬ努力によって集中を会得し、なんとか上位魔にも太刀打ちできるだけの破魔値を叩き出してはいましたが、彼が最後に戦った相手は、おそらく上位魔としても高めの魔力を持っていたのでしょう」
「……」
ティースの耳によみがえったのは――甲高い音。
サイラスの剣が無情にも砕け散ったときの、あの絶望的な音だった。
それは、技術でも気持ちでもどうにもできない、単純な力の壁。
「聖力とはそれほど重要なものです。その点では、ティースさん、あなたは恵まれすぎていると言ってもいい。あなたの聖力は、私やレイさんたちよりもさらに上で、常人との比較だと3倍近いはずです。『細波』を手にしたあなたの破魔値は、上位族の魔力の壁を、集中すら使わずに破ることも可能でしょう」
「……恵まれすぎている、か」
昨日のギレットの言葉がティースの頭を過ぎった。
(……お前みたいなヤツが、才能ないとか軽々しく言うもんじゃない、か)
聖力のことといい、細波のことといい、確かに彼は恵まれているのだ。
だが――
「ただ、もちろんそれはあくまで大前提に過ぎません。その上で、魔の動きをとらえ、うち倒すだけの戦闘技術も重要になってきます」
「……」
アオイの言葉が、ティースの胸に暗い影を落とす。
戦闘技術。それが、思うように伸びない。おそらく今のアオイの言葉も、それを踏まえてのものだったのだろう。
(中途半端、か……それが原因なのか)
ギレットに言われた言葉が再びよみがえる。
一晩考えて、彼の言うことは確かにその通りかもしれないとも思った。
(けど、それならどうすればいいんだ……)
思考の行き着いた先は結局そこだった。
サイラスのことも、ナナンのことも、ティースにとっては到底忘れられる出来事ではない。毎日の悪夢も、寝不足であることも、それは当然自分が背負うべきものだと思っていたし、何事もなかったように忘れて生きていくことは、少なくとも彼には不可能だった。
(なら……)
すべての魔を憎む。憎しみを糧とする。
それが一番の近道なのかもしれない。
サイラス、ザヴィア、ナナン――いくつもの出来事が重なった。それはひとつひとつが、魔の存在そのものを憎むのに充分過ぎるほどの出来事だった。
だが――ティースはそれでもまだ、ギレットの言うような境地に達することはできていない。
憎いのは確か。
なのにあと一歩、どうしても届かない。
(わからない……どうすればいいのか……)
そして、ティースの苦悩は続く――。
「目的地はネービス領の南方端にある小さな街、フォックスレアです。複数の獣魔と、おそらく高位と思われる人魔が一体、確認されている模様」
淡々と、事務的な口調がミューティレイク別館の執務室に流れていた。ただその声は、おとなびた口調とは裏腹に幼い少女のものである。
「犠牲者はすでに30名近くにも及び、ディバーナ・ロウとして、これを見過ごすわけには参りません」
屋敷の主人であり、ディバーナ・ロウの総帥でもあるファナ=ミューティレイクは、弱冠17歳にして、ミューティレイクと、そしてディバーナ・ロウのすべてを統率するネービスきってのスーパーお嬢様である。
「第二隊隊長、レインハルト=シュナイダー」
しかし、実はその声は彼女――ファナのものではない。
ファナの隣に直立し、指令書らしきものを読み上げているのは、どこかアンバランスな男物の正装に身を包んだ屋敷の執事、リディア=シュナイダーの方である。
そして、そんなリディアと、なにやら楽しそうに微笑むファナの視線の先に立っているのは、どこかひょうひょうとした雰囲気の男。
頭には灰色の布を巻き、そこから黄土色に近い金髪がのぞいている。
その口元には、どこか皮肉めいた苦笑。
「あなたに、彼ら獣魔と、彼らを統率する者の排除を命じます。よろしいですか?」
「はいはい。了解しました――と」
しかしまあ、彼がそんな笑みを浮かべていたのも当然のこと。
レイは両手を軽く広げて、
「んで? 我が愛しの妹君は、どうして俺のときに限ってそんな格式張った態度を取るのかな?」
「ん? そりゃ、公私混同しないために決まってんじゃん。妹君だってこれでも色々考えてるんだよ」
そう言って、指令書をポンと無造作に投げ渡すリディア。言ったそばから公私混同しまくりだった。
レイは笑みを浮かべたまま、
「いい心がけだ。けど、それなら仕事中に小遣いをせびりに来るのも、今後一切やめてもらえないもんかな」
だが、リディアはヒラヒラと手を振って、
「それとこれとは話が別だってば」
「どこがだよ。おい、ファナ。いいのか、こんなんで」
言葉を向けると、ファナはおかしそうにクスクスと笑って、
「ええ。私は構いませんわ」
「やれやれ、ディバーナ・ロウの将来が不安で仕方ないな。……で? そこの執事さんが話をかなり端折ったんで確認しておくが――」
レイは指令書に目を落として、
「高位の人魔。これは上位魔以上ってことか?」
その問いには、話を端折った執事自身が自分の席に腰を下ろして答えた。
「そ。上位魔以上はほぼ確実ってことみたいだね。もしかしたら将魔かもしんない」
「その情報の信憑性は?」
「実際、その魔を目撃した人の話から、『影裏』の人が推測したんじゃない?」
リディアの言った『影裏』とはディバーナ・ロウの誇る、ネービス全土にネットワークを持つ情報部隊のことである。
「その目撃者の目と記憶が信頼できるのか、ってことなんだがな」
「あ、そゆこと? 主な目撃者は依頼主みたいだよ」
「ほぅ……パトリシア=ラムステッド、27歳女か。良家の人間のようだが、この歳で独身とはな」
つぶやいたレイに、リディアがさっそく突っ込む。
「やめてよ、兄さん。依頼主だけはダメだよ。ディバーナ・ロウの看板が傷つくから」
「おい。なんの心配だ」
レイが苦笑しながら視線を上げると、リディアは真面目な顔のまま、
「27歳ぐらいならぜんぜん守備範囲でしょ? 兄さんは上も下も広いんだから」
「冗談だろ? アクアの奴と一緒にしないでくれよ」
「アクアさんは下は広いけど上は狭いじゃん」
「俺だって下は狭いさ」
「またまたぁ。だってあたしなんか、兄さんと一緒にいるときはいつだって貞操の危機を感じてるもん」
「そいつは年齢うんぬん以前の問題だろ」
軽口を交わしながらも、レイの視線は素早く指令書の内容を読み解いていく。
そして、次の疑問が口をついた。
「ん? フリーのデビルバスターとの共同任務か?」
「はい」
今度はファナが答えた。
「ネービス領と、南のグレシット領を中心に活躍なさっている方と聞いておりますわ」
「ルネッタ=フィッシャー、か。確かに、どっかで聞いたことのある名前だな」
レイが眉間に皺を寄せて考えていると、リディアが言った。
「書いてないけど、名前からすると女の人だよね。兄さん、手出すならそっちだよ」
「しつこいな」
ため息を吐いてレイは言った。
「相手なんて選ぶ気は毛頭ないさ。世俗の事情なんて、瞬時に燃え上がる恋の前ではまったくの無力だからな」
「うわ、危ない! さっそく正当化しようとしてる!」
「ああ、思い出した」
レイは指令書をヒラヒラさせながら、そんなリディアの抗議をさらりと流して、
「ルネッタ=フィッシャー。グレシット領のどこだかに闇の二十三族が現れたときに、そいつを葬ったチームのひとりだな」
ファナがうなずく。
「単独がメインのようですが、状況によっては色々な方とチームも組むそうです」
「もしかすると、ひとりじゃ手に負えない相手かもしれないってことか」
「あるいは、そうかもしれませんわ」
「やれやれ……。面倒な相手なのは間違いなさそうだな」
嫌気が差したようにレイはそうつぶやいたが、もともとナイトの任務というのは面倒でない相手の方が珍しい。日常茶飯事とは言わないまでも、これまでに何度かこなしてきたタイプの任務だった。
ただ――今のナイトには若干の不安材料がある。
「兄さん」
それについて、一番最初に口を開いたのはリディアだった。
「ティースさん、大丈夫?」
「さあな」
レイはそっけなくそう答え、その反応を不満そうにしているリディアに対して言葉を続けた。
「あいつの性格に難があるのはわかっていたことさ。割り切れないのなら最初から深く関わらなきゃいいものを、それもできない。厄介な性格だ」
「どうすればいいと思う?」
「死ななきゃ直らないんじゃないか?」
笑って答えたレイに、リディアはため息とともに首を振って、
「兄さんみたいのなら死んでも自業自得だけど、ティースさんの場合は可哀想だよ。なんかやり切れないもん」
「おいおい。それが実妹の言葉か?」
「言われたくなかったら真面目に答えてよ」
「……そうだな」
そこで初めてレイは考える素振りを見せた。ただでさえ鋭い視線をさらに細めて眉間にしわを寄せる。
「ああいう性格ってのはそう簡単に変わるもんじゃない。結局、落ち込んで、立ち直って、それを繰り返して徐々に慣れていくしかないんじゃないか?」
「そうなんだろうけどさ」
リディアは困ったように首をひねって、
「あの人の場合、その立ち直る過程で取り返しのつかないことになっちゃいそうで心配なんだよ」
「まぁな。けどそれこそ本人と、特に近しい奴らがどうにかすることだろ?」
「やっぱ、鍵はシーラさんかな?」
そんなリディアの問いかけに、レイは否定的な顔をして、
「あの鬱屈した王女様には無理かもしれんな」
「鬱屈?」
「あいつが今必要としているのは、もっとわかりやすい、目に見える形の支えさ。本心がどうであれ、今の王女様は、あいつに対してそういう態度を取ってやれそうにない」
リディアはため息を吐いて、
「その本心がなかなかわからないんだよねぇ、あの人」
「そうか?」
レイはおかしそうに口元を緩めた。
「歪んでる理由はともかく、本心はわかりやすいと思うがな。……ファナ」
「はい?」
「そういやティースの奴が感謝してたぞ。毎回毎回、役に立つ薬袋をどうも、ってな」
「はぁ」
ファナは不思議そうに首をかしげて、
「薬袋、ですか?」
「……と、いうことさ」
「?? ……わっかんないなぁ」
理解できない顔のリディアに、レイはもう一度笑っただけでそれ以上のことを答えようとはしなかった。
ミューティレイクの敷地内では、観賞用から実用のものまで様々な植物が育てられている。それらを管理するのは、ミューティレイクに雇われた専門家と、彼らの手足となって働く幾人かの使用人たちだ。
そしてミューティレイク邸の地下には、日光を嫌う植物のために用意された部屋も存在する。
鑑賞されることのないそれらの植物は、もちろんすべてが実用のものだ。その大半が薬の調合に使われる植物で、中には貴重なものも数多く存在していた。
そして、その植物たちの世話を主に担当しているのが、マグナス=ラングリッジという名の、数日後に16歳の誕生日を控えた少年である。
「マグナス」
「あ、シ、シーラ様っ」
薄暗くジメジメした部屋の中に、びっくりしたようなマグナスの声が響き渡る。マグナスはそんな自分の声の大きさに驚いて思わず口を塞ぎ、手にしていたハサミを落としそうになってしまった。
「いつもご苦労様、マグナス」
「ど、どうも……」
階段を降りてきた人物、シーラ=スノーフォールは、マグナスにとって憧れの人物だった。
こうして会話を交わすようになったのは結構前のこと。だが、いまだに彼女の姿を見るだけで体はガチガチに緊張してしまう。
しかもこの日のマグナスは、実はいつもと少しだけ違った小さな決意を胸に秘めていて――
「あ、あのっ、シーラ様っ!」
決心したように口を開くマグナス。
「なに?」
シーラもそんな彼の様子に気付いたのだろう。植物に歩み寄る足を止めて、怪訝そうに振り返る。
マグナスは言った。
「そ、そのっ! きょ、今日は一段と、お……お美しいですねっ!」
「……」
一瞬、シーラはきょとんとした顔で彼を見つめたが、やがて吹き出すように笑った。
「誰に入れ知恵されたの?」
「は!?」
「そういう歯が浮くセリフは、あなたには似合わないわ」
「は、はぁ……」
そっけない返事に、マグナスはガックリと肩を落とした。
……実際に、それは彼の先輩からの入れ知恵だった。普段の彼であれば、そうそう思いつきもしない言葉だったし、思いついたとしても誰かの後押しがなければ口にしなかっただろう。
シーラはすぐに部屋の隅に並ぶ植物たちへ視線を戻した。その状態を確認するかのように軽く手で触れたり、土を調べたりする。
「……」
マグナスは少し浮ついた表情でそんな彼女の一挙一動を見つめていた。
薄暗い部屋に2人きりという事実も、彼の心臓の鼓動を少し速めていたが、とはいえ、彼はその状況を利用しようなどということはこれっぽっちも考えていない。
彼の先輩たちの中には、冗談混じりに彼をけしかけようとする者もいたが、彼はただ、こうして話をして、その姿を見つめて、そしてたまに植物についての会話をする。
それだけで満足していたのである。
「グレゴスの葉は以前よりだいぶ良くなっているみたいね。……マグナス?」
「あ……はいっ」
ボーっとしていて反応が遅れ、マグナスは慌てて、
「も、もう大丈夫です。その、お持ちになられても……」
「そう。助かるわ」
「い、いえ。育てるのが私の仕事ですから……」
微笑みにドキドキしながら、マグナスはそう答える。
いつものことながら、薄暗いことが彼にとっては幸いだった。もし太陽の下であれば、彼の顔面の血行が良くなりすぎているのが容易に悟られていただろうから。
「それじゃあグレゴスの葉を少しもらっていくわ。あと、いつものを、またいくつか」
「あ、はい。それはぜんぜん大丈夫です。……鎮静剤かなにかの実験ですか?」
マグナスはそう尋ねた。
グレゴスの葉には、若干ながら精神の安定を促す効果がある。他の薬草と調合することでその効果を高め、鎮静剤などに利用することも可能だ。
それはシーラも否定せず、
「ええ、そんなところよ」
切り取った葉や草をそれぞれ別の袋に入れ、そして満足そうにシーラはマグナスを振り返った。
(……あれ?)
そこでふと、マグナスは違和感を覚える。
「助かったわ。またお願いするわね」
「あ、は、はい……」
立ち去っていくシーラの後ろ姿を見送りながら……マグナスは少しだけためらった後、決心したように口を開く。
「あ、あの、シーラ様!」
「? なに?」
足を止めて振り返ったシーラに、マグナスはしどろもどろになりながら、
「そ、その、さっきのことですけど……」
懸命に言葉を紡いでいった。
「シーラ様、今日は……本当にいつもと違う感じがします」
「……」
無言で、シーラがほんのわずかに目を細めた。だが、必死だったマグナスはそんな彼女の表情に気付かず、言葉を続ける。
「こ、こういうこと言ったら失礼なのかもしれませんが……どことなくおとなっぽいというか――」
「そうね」
シーラはそっけない口調で答えた。
「化粧してるのよ。これから男を引っかけに行くから」
「……は?」
「ごめんなさい。冗談よ」
相変わらず抑揚のない声で答え、シーラは地下を出ていく。
「……」
ポカンとしたまま、マグナスは立ち尽くしていた。
……彼女がほんの少しだけ機嫌を損ねたらしいことは、彼にも理解できていた。
そして理解した瞬間、
(で、出しゃばったことを言っちゃったのかなぁ……)
彼は大きく肩を落とし、そしてまるでこの世の終わりであるかのような重いため息を吐くのだった。
(もう来てくれなくなったら……どうしよう……)
それは結論から言うとまるで必要のない心配であったが、今の彼にとって、それはとてつもなく大きな不安であり――
結局、しばらく頭を抱えていた彼は、後から仕事の様子を見にやってきた先輩に、またもや叱られるハメになってしまったのだった。
音もなく、扉が閉まる。
月明かりだけの部屋の中、ティースは照明を点けることなく重い足取りでベッドに歩み寄ると、背中から倒れ込んだ。
疲労感。
それは今の彼にとって、少しも心地よいものではない。
……今日の午後、隊長のレイから新たな任務についての説明があった。
(任務……か)
憂鬱だった。
視線を動かすと、ベッド上の枕が視界の中に映る。それもまた、今の彼にとっては憂鬱の種だ。眠ることすら、彼に安息をもたらしてはくれない。
それでも、立ち止まることは許されていなかった。
彼が悩んで足踏みしていても、周りはどんどんと歩みを進めてしまうのだから。
「準備だけは……しておかなきゃ」
出発の朝は早い。
ティースは重たい体を押して、荷物の最終点検を始めた。とはいえ、荷物はいつの任務でもほとんど変わらない。慣れたもので、次々にチェックを終えていく。
そして、それらをすべて終えたところで、ふと思い出した。
「……これの中身も確認しておくかな」
つぶやいて、ベッドの上にあった巾着袋を手にする。
ここに戻ってくる途中、ファナの侍女であるフィリス=ディクターからいつものように受け取った薬袋――それは任務の際には毎回彼女を通してファナから贈られるものだったが、たまに用途不明の薬が入っていることがあるため、こうして直前に中身を確認しておく必要があったのだ。
「鎮痛、止血、解毒……」
その3つは必ず入っているものだ。その先が問題だった。
「今回は……えっと、精神安定剤に安眠誘発剤? なんだ、これ……?」
ティースは袋に入っていた説明書きに目を通す。
「気持ちが高ぶっているときにリラックスさせる効果と、不安や興奮などから来る不眠の悩みを解消する効果――」
そこまで読んで、ティースは苦笑した。
確かに、それらは今の彼に必要なものだったからだ。
「……ファナさんにまで気を遣われてちゃなぁ」
説明書きをよく読んで、もちろん体に害がないらしいことを確認し、ティースはありがたくそれを使わせてもらうことにした。
安眠誘発……たとえ気休めであったとしても、今の彼には完全な休息が必要だったのだ。
すべての支度を終え、寝巻に着替え、そしてもう一度薬の注意書きを読んでその通りに飲み下してからベッドに潜り込む。
……薬の効果か、あるいは偶然か、その日はいつもの夢を見なかった。
その代わりに見たものは――
内容の思い出せない、遠い遠い昔の夢――