その1『慟哭の夜』
小鳥のさえずりが軽快に弾んでいた。
上空は見渡す限り一面の、青、青、青。
果てのない、青。
肌に感じる風はネービスの街に比べて優しく、そして穏やかだった。
「ティー……ス……」
「そう! そうだ!」
そこには2つの人影がある。
ひとりは長身、痩せ形で、見るからに人の良さそうな容姿の青年、ティーサイト=アマルナだ。
通称ティースと呼ばれるこの人物は、人に仇なす魔の者を退治するデビルバスター――を目指して修行中の18歳の男性である。
彼は約1ヶ月前、大貴族ミューティレイク家が支援を行うデビルバスター部隊『ディバーナ・ロウ』の第二隊『ディバーナ・ナイト』に配属されることになった。
そして今は、彼らのホームである『学園都市ネービス』から少し南に下った場所にある、ネービス領ブラダマンテという、やや規模の大きな村にやってきていた。
「ティー……ス」
そしてもう片方。どことなくたどたどしい言葉で彼の名を呼ぶのは、ひとりの少女だった。
長身のティースと並ぶと40センチは小さいだろうか。かがみ込んでようやく目線が合うぐらいで、おかっぱのような髪型に花柄の白いカチューシャ。
14歳という年齢にしては顔立ちが幼く、ほっぺたが少し赤く見えるのは元来のものらしい。
ナナン=トリストラムというのが彼女のフルネームだった。
「ティース……ティース……?」
「合ってる合ってる!」
ティースが嬉々として何度もうなずくと、ナナンはニッコリと微笑みを浮かべた。
一見しただけでは、どうして彼がこんなに喜んでいるかわからないかもしれない。しかし、このナナンという少女がひどい難聴――ほぼ聴力を失っている少女だとわかれば、すぐに事情は察してもらえるだろう。
ようやく言葉を覚えたぐらいのころに音を失ってしまった彼女は、同時にほんの一部を除いて言葉すらも失ってしまった。だから、新しい言葉を綺麗に発音することは、彼女にとって非常に困難なことだ。
だからティースにしてみれば、彼女が自分の名前を覚え発音してくれたことは、それだけで大きなプレゼントをもらったようなものだったのである。
「ありがとう、ナナン」
「?」
「あ・り・が・と・う」
一言一言キレイに区切り、ティースは丁寧にナナンの手を取って感謝の意を伝えた。
紙に書いて伝えることは簡単だったが、今の彼はそういう気持ちではなかった。彼女が苦労して言葉にしてくれたように、彼もやはり言葉で伝えたかったのだ。
「あり、が、とう?」
ナナンは首をかたむけ、そしてティースがうなずいたのを見ると嬉しそうに微笑んだ。
「ティース。……わたし、も、あり、がとう」
「ナナン……」
それだけでティースの胸は暖かくなった。今までの辛かったことを、すべて忘れてしまえるほどに。
……ティースが彼女と知り合ったのは、ほんの5日ほど前のことだ。今回は彼がディバーナ・ナイトに配属されて3度目の任務。そしてナナンは、彼らが宿を借りた家の隣に住む娘だった。
出会いは、ナナンが淋しそうに外を眺めているのをティースが目撃したことから始まる。どこか影と憂いを帯びた少女の姿は、彼がお人好しの虫を騒がせるには充分過ぎる光景だった。
その後、借宿の主人から、彼女の耳が不自由であること、それゆえに同世代の友達もできないという事情を聞いたティースは、すぐに任務の合間をぬって彼女に会ってみることにしたのである。
……実は彼がそこまで積極的だったのは、彼がただお人好しだったから、というだけではない。
彼にも彼なりの事情――ナイトにおける過去2回の任務で、自分の無力さを痛感していたという事情があった。それゆえに、他人の役に立ちたいという願望が、彼の中で限界にまで膨れ上がっていたのである。
とにもかくにも、そうして2人は出会うことになった。
打ち解けるまでに要した日数は5日間。短いようであっても、そこにあった2人のやり取りは決して薄いものではなかった。
ナナンはあまりに不自由な言葉と、人と接触することに対して嫌気を差していたし、ティースも決して他人の心をつかむ術に長けているわけではなかったから。
それでも彼らが打ち解けたのは、なによりも、彼女の役に立ちたいというティースの真摯な願いがあったからこそだろう。
そしてナナンもまた、彼の強い思いを感じ取れるほどに根は素直で、そしてその態度とは裏腹に、他人からの言葉に飢えていたのだ。
「ティース……わ、た、し……」
11月にも関わらず、辺りには真っ白な花が咲き乱れていた。
見渡す限り一面の、白、白、白。
ナナンは歩き出し、そして後ろで手を結んでティースを振り返った。
そこにはもう、以前までの暗い影など微塵も残っていない。自分の巣から飛び出す方法をようやく見つけ、そして羽ばたこうとしている、他よりもほんの少し成長が遅れただけの小鳥。
「わ、た、し――」
と、その一瞬。
(……?)
ティースの視界が乱れた。
……ちょうど浮かんだうれし涙のせい?
いや、違う。
(あれ、なんだろ……?)
微笑むナナンの背後に、なにかが重なって見えた。
「ティース?」
ナナンが不思議そうな顔をする。
「……あ、ゴメン。なんでもないんだ」
「?」
「あ、そっか。な・に・も・な・い」
「……なにも、ない?」
「そうそう」
うなずくと、ナナンは首をかしげながらもひとまず納得したようだ。
……ただ、視界の乱れ自体はその後も断続的にティースを襲った。
(なんだろ、これ……)
目をこすっても、まるでノイズのように。不思議な映像は何度も何度もティースの視界を奪おうとした。
青しか存在しない上空にときおり夜空のような黒が混じり、一面の白い花畑は深く赤い茂みの情景に。
――白昼夢?
いや、違う。
「ティース……?」
ナナンが心配そうに近付いてきた。
「どう、し、た、の……?」
「い、いや」
なんでもないと答えながら、ティースは何度も首を振った。
(なんだ……でも、どこかで見た気が……)
夜空。深い森の奥。
頭がフラつく。
「か、ぜ? きぶん、わるい?」
ナナンの問いに、ティースは首を振って否定する。
気分は悪くなかった。
ただ、視界にノイズが混じるだけ。
夜空と深い森。
黒い――
赤い――
「っ!」
黒と赤。赤と黒。
「ティース……?」
「っ……ナナン……」
点滅する。
生ぬるい風。
目の前にいる、優しい少女。
空と、森と、黒と、赤と、赤と、黒と、森の中の――黒い空と、赤い月――
「っ――!!」
「ティース……」
心配そうに伸ばされたナナンの手が、そっとティースに触れた。
「ごっ……ごめん。俺、なんか変――」
「へん、じゃない……」
「……えっ」
「へん、じゃない……ティース……」
「ナ……ナナン……キミ、俺の言葉が聞こえて――」
ナナンの手がティースの頬に触れていた。
それは、彼が知らないはずの温もり。
彼が知るはずのない、彼女の体温。
なぜなら――
(……!)
彼は『女性アレルギー』だ。一定以上の年齢の女性に触れたら失神してしまう特異体質だった。
にもかかわらず、ティースは彼女の手を取り、彼女はティースの頬に触れることができた。
それは――
(……あ……あああ……)
触れられるはずが、ないのだ。
触れられるはずが、ない。
――これが、現実であるならば――
(ああ、あああ……!!)
赤と黒。
彼の視界にあったのは、ただそれだけ。
心臓の鼓動は不気味なほどにゆっくりで、胸を突き破りそうなほどに強い。
吐き気。
頭痛。
横隔膜の蠕動が、止まらない。
「ナナン……ナナン……っ!!」
青と白は消え失せて、彼に残されたのは、赤と、黒と、触れられるはずのない生々しい温もり。
「ああ、ああ、あああああ……っ!!」
暗い。暗い。暗い。
目の前にはもう誰もいない。
いたけど、もう、いない。
ただ、ただ、生きて、生きて、生きて。
そして、ようやく生きた証を刻もうとしていた。これから、すべてが始まろうとしていた。
たった一度の。ただ一度の。
彼女の世界が消えた、その瞬間。
――彼に残されたのは、赤と、黒と、触れられるはずのなかった、温もり。
そして――
「ああ、あああ……ぁぁぁぁぁぁぁ――――ッ!!!」
――慟哭。
早朝。
「シーラさん、寝不足はお肌に悪いよ」
11月もなかばになって、ネービスの街は本格的な冬支度の季節に入っていた。今日も空には薄い雲がかかり、太陽はここしばらくその姿を見せていない。
ミューティレイクの屋敷もまた、庭、使用人たちの服装など――そのあらゆるところに冬の訪れを予感させる風景があった。
さて。
そんなミューティレイク邸別館の2階。
「……リディア?」
ティーサイト=アマルナの被保護者という扱いで屋敷に住んでいる客人、シーラ=スノーフォールは、学園都市と呼ばれるこのネービスの街において古く伝統のあるサンタニア学園、薬草学科に通う15歳だ。
透き通るような美しいブロンドのポニーテールと、それすらもかすむほどに完璧な容姿を持つ美少女である。
そしてそんなシーラが自室を出てきたところに声をかけたのは、このミューティレイク家の執事、リディア=シュナイダーだ。
年相応の容姿、見ようによっては可愛らしい少年に見えなくもない、そんな彼女はまだ12歳である。手には彼女のトレードマークと言っても良いであろう、分厚い難解そうな本が握られていた。
「誰が寝不足だと言ったの?」
振り返ったシーラは、比較的よく言葉を交わす目の前の少女に向かってそう問いかけた。
確かに。振り返った彼女の顔には別にクマが出来ているということもなかったし、多少の疲れが見えるとはいえ、その原因が寝不足であると断定できるほどのものではない。
だが、さらに彼女に近付いてリディアは断言した。
「でも実際に寝不足でしょ? いまティースさんの隣の部屋に入った人は、誰でも寝不足になると思う」
そんなリディアの言葉に、シーラは嫌な顔をして、
「わかってるなら、最初から簡潔に言いなさい。そりゃ、あの叫び声に毎晩何度も起こされたんじゃ、寝不足にもなるわよ」
寝不足のせいか明らかに不機嫌で、突き放すような言い方だった。
だが、このリディアという少女は、そんな彼女に対して臆することもなく、
「それだけ?」
「どういう意味?」
「心配で、気になって眠れない、とか?」
「心配?」
その言葉にシーラは眉根を上げた。
そしてきっぱりと、ためらいもなく答える。
「私が気にしてどうするの? あの男がうなされている理由も知らないのに」
「あたしは知ってるよ。理由」
「そう。でも話さなくていいわ」
言葉の端々に見えるいらだちは、その強さを増していた。
「……」
リディアは少しだけ視線を泳がせて、そしてそれをティースの部屋の扉に止める。
朝の早い時間にも関わらず、その部屋はすでに無人だ。
早起きなのではなく、寝たくない、寝ようとしても寝られない、そのために諦めて日の出より早く起き出してくるという日がずっと続いている。
そんな彼の状況を充分に理解し心配もしているリディアだったが、それでも彼女らしく、それほど深刻ではない口調で言葉を続けた。
「ティースさん、もう、かなりキてるよ。ナイトの任務は特に激しいのが多いもん。たぶん、現実はあの人が思うほどに甘くない。助けたくても助けられない人だって、たくさん出てくるからね」
「そうね。あいつのことだから、落ち込んでいる理由を想像することぐらいはできるわ」
そっけない言葉に、リディアは探るような目をした。
「支えてあげようとか、思わないんだ?」
「私が? 支える? あいつを?」
シーラは口元を歪めて首を横に振った。
馬鹿にしたような、あざけるよう笑みだった。
「それを私に期待してるなら、見当違いもいいところよ、リディア」
「ティースさん、潰れちゃうかもよ?」
「だったら、聞かせてちょうだい」
逆にシーラは問いかけた。
「いったい私がなにをすればいいというの? 励ます? あなたが台本を用意してくれるのなら、やってみても構わないけど」
「……」
無言のリディアに、シーラは口元をますます意地悪そうに歪めると、
「それともなに? 部屋に忍び込んで夜這いでもかけてやったらいいの? もっとも、あいつが相手じゃただ添い寝するだけになりそうだけど」
「……シーラさん」
リディアは再び視線を泳がせて、少しの思考を挟む。
そして――苦笑した。
「あたしもそう思うな。ティースさんって、いざとなるとおじけづきそうだもんね」
「――」
あくまで冷静なその返答に、シーラはハッとした後、なんともいえない表情をして目元を押さえた。
数秒の思考。
後悔したような表情に変わると、静かに深く息を吐いた。
「……ごめんなさい。変なこと言ったわね、私。あなたみたいな子供に――」
だが、リディアは平然とした顔で、
「そう? あたしって耳年増だし、フィリスさんとかセシルさんに言うよりは適当だと思うけどね。それに、シーラさんだってあたしと3つしか違わないじゃん」
「でも、どうかしてたわ。ごめんなさい。本当に疲れてるのね、きっと」
髪飾りが寂しげに揺れ、そのままシーラは背を向ける。
失言を気にしているせいか、去っていくその背中はいつもより凛々しさに欠けているようにリディアの目には映った。
「……」
それを無言で見送ったリディアは小さくため息を吐いて、再び『ティーサイト=アマルナ』と書かれた部屋のプレートを見上げる。
ひと呼吸。
そしてもう一度ため息を吐くと、
「あたしがストリップして踊ってあげてもダメなんだろうなぁ、きっと」
つぶやいた冗談にも、いまいちキレがなかった。
ディバーナ・ロウの第二隊『ディバーナ・ナイト』の詰め所。
「くはぁ……くっ……! ぐぐぐ……っ!!」
午後の筋力トレーニングはディバーナ・ナイトの日課だ。
基礎体力の向上、戦闘技術の強化。それを延々と繰り返す日々。魔を退治し、人々を救う。そのための力を養う、あるいは維持し続けるために。
それは一歩間違えれば体を壊しかねない、過酷な訓練だった。
「そこまでだ、ティース」
「っ……ぐぐぐっ……!!」
「ティース。やめろと言ってるだろ」
冷たく響いた声の主はディバーナ・ナイトの隊長、レインハルト=シュナイダー――通称、レイだった。
先ほど登場したリディアの実兄でもある彼は、ティースより3つ年上の21歳だ。
額に厚めに巻いた灰色の布、そこからのぞく無造作に伸びた濃い金髪、ティースほどではないが長身。
どことなくワイルドな風貌だが、それでいて野蛮さをそれほどに感じないのは、瞳に強い知性が灯って見えるからだろうか。
「くっ……はぁっ! はぁっ!!」
まるで潰れるように床に突っ伏し、背中に乗せていた重りを下ろして、ティースは荒い息を吐いていた。だが、その視線は息つく間もなく、怪訝そうにレイを見上げる。
「レイさん……はぁっ……でも、まだ物足りなくて――」
「お前の体調が以前と同じならな。けど、今日のお前ならそんなもんだ」
「はぁっ……はぁっ……」
肩で息をし、上半身をゆっくり起こしながら、去っていくレイを横目で見送るティース。
その表情には少しだけ、納得できてなさそうな色が浮かんでいる。
と、そこへ、
「医者としての視点で見ても、隊長の意見が正しいと思うよ、ティースくん」
「……マイルズさん」
やってきたのはマイルズ=カンバースだった。
ミューティレイク家の主治医であるこの男は、ディバーナ・ナイトの隊員というもうひとつの側面を持っている。もちろん担当は戦闘ではなく医事の方だ。
レイと同じぐらいの長身で、クセなのか、それほどズレていない黒縁眼鏡を中指で持ち上げながら、
「ま、気持ちによって肉体の限界をどこまで超えられるか、というのは、僕にとっても非常に興味深いテーマだ。研究者としてなら、むしろ死ぬまで続けて欲しいと思うけどね」
「……遠慮しておきます」
本気とも冗談ともつかないマイルズの言葉に、ティースはすぐに休憩を取ることにした。
そして、そんな2人のやり取りを、少し離れた場所から見つめる少年がいる。
「隊長。ティースさん、相当まいってるみたいっすね」
横を通り過ぎようとしていたレイは、そんな言葉に足を止めて少年を振り返った。
少し幼さを残したおとなしそうな美少年。だが、その目には明らかな強い意志の光をたたえていて、見た目通りの性格ではないことがすぐにわかる、そんな少年だった。
レイは意地悪そうに鼻で笑って、
「おっと、パース。お前には、まだ他人を気にする余裕があるらしいな?」
「え、あ……」
少年の顔がサァッと青くなる。
「よし。お前には今のメニューをもうワンセット追加してやろう」
「うわっ! 隊長、マジっすかっ!?」
「ああ、大マジだ。頑張れよ」
「ひぃぃ」
この『パース』の愛称で呼ばれる少年は、本名パーシヴァル=ラッセル。
ディバーナ・ナイトの戦闘メンバーである16歳の少年であり、そして現在のディバーナ・ロウにおいては、ティース以外で唯一デビルバスターを志望している人物だった。
そして、ナイトのメンバーはあとひとり。
「……」
他のメンバーのやり取りには目もくれず、左目だけを閉じ、ティースやパーシヴァルとは明らかに違ったメニューを黙々とこなす男。
短髪にヒゲを生やしたその人物は、見た目からして他の面々よりひと回り年上に見える。
その彼の名はギレット=フレイザー。ディバーナ・ロウでは最年長の33歳だ。
身長はレイやマイルズ、ティースと比べればひと回り小さく、パーシヴァルより少し大きいぐらいで男性としては平均程度だが、常に身にまとう戦士としての威圧感が、実際よりもその体を大きく見せている。
いかにも百戦錬磨と思える容貌。そして実際、彼はその外見に恥じないだけの実力の持ち主だった。常に左目が閉じているのは、そこにあるべきはずの眼球が存在していないからである。
「よーし。ひとまず全員終了だ」
レイの号令によって、ナイトの面々が中央に集まった。
隊長のレイ、その隣にはマイルズ、それと向かい合うようにギレット、パーシヴァル、そしてティース。
(いよいよ、今日の実戦稽古だ……)
ディバーナ・ナイトにおいて、筋トレが終わった後のメニューはその日によって大きく異なる。
大抵は実戦を想定した稽古だが、1対1だったり、対複数だったり。様々な特殊な状況も想定され、狭い場所、守るべき存在等々、とにかく1週間の間で同じメニューの日は一度たりともなかった。
もちろん勝ち負けは度外視されるが、基本的に過酷であることに変わりはない。
「今日のメニューは――」
「……」
ティースは軽く拳を握りしめて、レイの言葉を待った。
汗ばんだ体が徐々にヒンヤリとしていたが、体内の熱はまだ冷めていない。
たとえどんなメニューであろうとも、こなすつもりだった。いや、むしろ今の彼にとっては、それが過酷であればあるほどに喜ばしい。
それによって、自分が少しずつでも強くなっていると信じられるからだ。
(強くなるためなら、どんなメニューだって――)
「ギレット、パース」
レイの声は最初、他の2人に向けられた。
ティースは即座に想定する。
(今日は2対1……?)
それは確かに、彼にとっては過酷すぎる条件だった。
なにしろギレットもパーシヴァルも、最強と言われるディバーナ・ナイトのメンバーだけあって、ティースが今まで所属したカノンやファントムのメンバーよりも明らかに上の実力者たちだった。
パーシヴァルはあのサイラスほどではないにしろ、デビルバスター候補生として充分な実力を持っていたし、強面でいかにも経験豊富なギレットなどは、その2人を確実に上回っている。
だが、臆する気持ちはなかった。
(……望むところだ)
たとえそれでボロボロに惨敗することがあっても、それが自分の糧になるのなら。それで強くなれるのなら本望だった。
(よし――)
だが、それに続いたレイの言葉は、ティースの想定とは違うものだった。
「今日はお前らで1対1だ」
「……えっ?」
ティースは目を丸くした。
どうやら早とちりだったようだ。
(ってことは、今日はレイさんと1対1?)
しかし、それもどうやら違うようで、
「マイルズ。お前はここで2人の面倒でも見といてくれ」
「ああ、いいよ。隊長はどうするんだい?」
「俺か? 俺は――」
レイの視線がティースを向くと、
「こいつと、ちょっと勉強会だ」
どこか楽しそうな笑みを浮かべた彼に、マイルズは納得顔でやはり笑い返す。
「……ああ、なるほど。それはおもしろそうですねぇ。結果報告、楽しみにしてますよ」
ティースはあっけにとられて、
「べ……勉強会?」
外では太陽が頂点から徐々に西に傾きかけていた。
その1時間後。
レイとティースの2人はミューティレイクの屋敷から北のほうへと向かっていた。
学園群を抜け、さらに北へ。辺りに立ち並ぶ、いわゆる高級住宅地には目もくれずにさらに北。
その先にあるもの。
それを知らない者はこのネービスにいない。
ネービスの街の最北端、そこにあるのはただひとつだ。
「はぁ」
思わずため息をついたティースの視線の先にそびえ立つのは、あのミューティレイク邸よりも大きな屋敷。
大きく、高く、頑丈な門、その奥に浮かぶあまりにも巨大なシルエットは、屋敷と呼ぶよりは城と表現した方が正しいかもしれない。
それこそがこの学園都市ネービスを含めたネービス領を統治する領主、ネービス公の屋敷である。
門の前には多くの門番が立ち、おそらくその内部も厳重な警備でいっぱいだろう。ティースのような一般人の枠からそれほど逸脱していない人間にとっては、一生縁がないはずの場所でもあった。
一瞬の放心状態から解放されて、そしてティースは疑問を隣のレイに向ける。
「レイさん。いったいここになんの――?」
「どこ見てる。こっちだ」
「え?」
レイが向かったのは、その屋敷のすぐ隣にある別の建物だった。
外観からすると三階建てぐらいだろうか。ネービス公の屋敷と並んでも違和感ないほどの大きさだが、その割に外観や内装はそれほど凝っておらず、どことなく無骨な雰囲気を漂わせている。
(こっちもかなり大きいけど、なんだ……?)
無造作にその入り口をくぐったレイのあとについていくと、受付らしきところにはひとりの女性が座っていた。
「……あら?」
「よっ、アレッタ。久々だな」
手を挙げて軽い挨拶をするレイ。
だが、呼びかけられたアレッタという女性――ティースよりは年上、おそらくはレイよりも少し上だろう――は、彼の姿を認識するなり、ショートボブの髪をかすかに揺らし、すぐに眼鏡の奥から不満げな視線をレイに向けた。
「よっ、久々……じゃないでしょ、レイ。覚えてないとは言わせないわよ、前回のこと」
「前回?」
とぼけた表情で近付いたレイに、アレッタは椅子から腰を浮かせ、カウンターに少しだけ身を乗り出し、まっすぐに人差し指を突きつけた。
「約束すっぽかしたじゃないの。なによ。あれだけ熱心に人のこと口説いたくせに」
「あ、あー……いや、待て待て。それには海より深い事情があってな」
「へぇ」
まるで信じてない顔で指を下ろすと、ふふんと鼻を鳴らして、
「どんな事情? 他の女との約束?」
レイは真顔で答える。
「いや。他の『男』との約束だ」
「はぁ?」
「体重が400キロぐらいあるナイスガイでな。人の命に関わるってんで、急な呼び出しをくっちまったのさ」
「……」
アレッタは両手を広げてため息を吐くと、
「まあ、いいわ。私も、あなたが本気だったなんてこれっぽっちも思っちゃいないから」
「ひどいな、そりゃ。まるで俺がろくでなしみたいじゃないか」
「そう言ったつもりだけど。……あら?」
そこで初めて、少し後ろに立つティースの存在に気付いたようだ。怪訝そうに彼の顔を見上げ、それから品定めするように頭のてっぺんからつま先まで移動する。
そして首をかしげ、視線は再びレイの元へ。
問いかけられる前に、レイが答えた。
「ティーサイト=アマルナ。ウチの新人さ――っても、もう5ヶ月ぐらい経つけどな」
「へぇ、新人さん?」
もう一度、アレッタの品定めの視線が向けられて、ティースは慌てて頭を下げた。
「あ、ティーサイト=アマルナです。よろしくお願いします」
状況を把握していない彼としては、なにをよろしくすればいいのかもわかっていなかったが、ひとまず型どおりの挨拶である。
「……へぇ」
アレッタはつぶやくと、もう一度ティースの全身を見回して、そして最後にその顔に視線を止めた。
「身長の割に可愛い顔してるわね。アクアが好きそうなタイプじゃない」
「ま、あいつは基本的に守備範囲広いからな」
「ティーサイトくん、だったわね?」
じっと見つめられたせいか、ティースは緊張気味に答える。
「あ、はい。でも、あの、ほとんどの人からはティースって呼ばれてます」
「ティースくん、ね」
そう言って、アレッタはすぐに意味深な笑みを浮かべると、
「それで、アクアのベッドの寝心地はどうだったの?」
「え?」
一瞬、ティースの周りの時間が止まった。その間、クレイドウルでの記憶が彼の頭を過ぎっていたが、もちろん彼女がそんなことを知っているはずはない。
――数秒の思考の後、
「な、な、なんですか、それはっ!」
ようやく意味を理解すると、ティースは顔を真っ赤にして叫んだ。
「そ、そんなこと……それに、アクアさんはそんな軽はずみな人じゃない!」
「……へぇ」
ムキになって反論したティースに、アレッタは感心したような顔でレイに向かって言った。
「アクアの真偽はともかく、この子、あなたよりはよっぽどいい男っぽいじゃない?」
レイは苦笑して、
「俺はそれになんて答えりゃいいんだ? ……ティース。そうムキになるな。こいつはこういう女なんだ」
「誤解を招く言い方をしないでよね。私はただ、自分の心に正直なだけよ」
眼鏡の奥の目をおかしそうに細め、悪戯っぽい笑みを残しながら、アレッタは唐突に口調を変えた。
「それで? 本日はどのようなご用件ですか? どなたかに御用でも?」
「いや。特定の誰かってわけじゃない」
レイはチラッとティースを振り返って、そして言った。
「今日は他流試合を申し込みたくてな。候補生の中で、受けてくれそうなヤツを探してくれないか?」
「後ろの子の相手? どんなのでもいいわけ?」
「できれば極端な落ちこぼれでもなく、かといってとんでもなく優秀でもないヤツがちょうどいい」
「微妙な注文ねえ。ま、いいわ。当たってあげる」
アレッタは仕方なさそうに立ち上がると、
「では、そちらの椅子にでもお掛けになってお待ち下さい」
そう言って、奥の方へと消えていった。
「……レイさん」
言われた通り入り口近くの椅子に腰を下ろし、ティースは疑問を投げかけた。
「ここって、もしかして――」
「ああ。見りゃわかるだろ?」
レイは答える。
「ネービス公直属のデビルバスター部隊、ネスティアスの本部さ」
「……」
ティースの心臓がドクンと高鳴った。
(ネスティアスの候補生と……他流試合)
それは彼にとって願ってもないことだった。
エリート集団、ネスティアス。候補生とはいえ、その実力はおそらくハイレベルだ。
自分の力がどこまで通用するか、自分が果たしてどれだけ成長しているのか、それを計るには申し分ない。
(よし……!)
グッと拳を握りしめ、そしてその表情は緊張に強ばっていく。
(やってやる……!)
「……」
そんなティースを、レイは横目で見つめていた。
――どこか、冷めた視線で。
「あ、戻ってきましたね」
上空の太陽がオレンジ色に染まり始めたころ、稽古を終えて汗を拭っていたパーシヴァルが、建物に戻ってくる2つの人影を見つけていた。
その隣で、少し意地の悪い笑みを浮かべたマイルズが口を開く。
「結果がどうだったか、賭けるかい、パース」
パーシヴァルは笑って、
「賭ける意味、あるんですかね?」
「オッズは10対1ぐらいでどうだい?」
「俺は1の方に賭けますけど、マイルズさんはそれでもいいっすか?」
「……残念。不成立だね」
マイルズはそう言って、もう一度、戻ってくる2人に視線を向ける。
答えを聞かずとも、ティースの表情を見れば結果は明らかだった。おそらく、彼自身が思っていた以上のひどい内容だったのだろう。
悔しさ。無力感。
戻ってくるティースの顔には、そういった類のものが隠しようもないほどに満ちあふれていたのだ。
「――くそっ!」
ダン! と、詰め所の壁が鈍い音を立てる。
誰もいなくなったはずの、夕日に染まるディバーナ・ナイトの訓練場。
そこで拳を壁に叩きつけた人物は、言うまでもなくティースだった。
そしてそこに浮かんでいたのは、彼としては非常に珍しい、とてつもなくいらついた表情。
……ネスティアスでの他流試合の結果は、マイルズやパーシヴァルが予想した通りのものだった。思い出すのもいまいましいほどの惨敗。
興味半分で見物していたネスティアス隊員の、冷笑にも似た表情が頭から離れなかった。
ただ、彼がいらだっているのは、そんな周りの目とは関係のないこと。
「ぜんぜん……成長してないじゃないか……っ!」
彼を責め立てていたのは焦燥感と、途方もない無力感だ。
強くなりたい気持ちは今までになくあふれているのに。強くなるための努力も、少しも惜しんでいないのに。
なのに――強くなれない。強くなっていない。少なくとも、彼自身が期待していたほどの成果は上がっていない。
ギリッと歯ぎしりの音が鳴る。頭を壁に押しつけ、そしてもう一度拳で壁を叩いた。
「なにが、悪いってんだよっ!」
厳しいトレーニングにも耐え、過酷な稽古も乗り越えた。だから、自分は着実に強くなっているものだと信じていた。パーシヴァルやギレットを相手にするときも、もちろん負けはするものの、少しずつでも彼らに近づいていると、そう信じていたのだ。
だが――それも今日までのこと。
ティースは今日の出来事で悟っていた。
自分が、このディバーナ・ナイトにやって来てから、ほぼまったくと言っていいほどに成長していないことを。
……今日の相手は、実力的にはパーシヴァルよりも少し劣る程度の相手だっただろう。来年のデビルバスター試験は元より受けるつもりはなく、再来年に照準を合わせているような、そんな相手だった。
それなのに、結果は――
「俺には……才能がないのか……っ!」
「おい」
「!?」
誰もいないはず――そう思っていたティースは驚いて振り返った。
「あ、ギレット……さん」
「冗談じゃねぇぞ。おめぇみてぇなヤツが才能がないとか軽々しく言うもんじゃねぇ」
そこにいたのはナイトの戦闘メンバーのひとり、ギレットだった。
――寡黙で、無骨。彼はそんな外見のイメージそのままの人物で、ティースがこのナイトに来てから1ヶ月と少し経つが、任務上の必要事項以外でまともに言葉を交わしたのは2、3度しかない。
そんな彼が自ら声をかけてくるのは、非常に稀なことであった。
「見て……いたんですか」
ギレットはそれには答えず、片目だけでティースを見上げた。身長差は15センチ以上ある。もちろんティースの背が高すぎるためだが、下から見上げるその視線に、ティースはまるで上から押さえつけられているような息苦しさを感じていた。
そしてギレットは言った。
「そういう言葉は、おめぇより強くなることに一途で、おめぇより強さを渇望していて、それでもどうにもならねぇような連中に失礼だってんだよ」
「ど、どういうことです、ギレットさん……」
その言葉に、ティースは反発せずにいられなかった。
「俺が真剣じゃないって言うんですか!? 俺は……俺は、強くなりたいって気持ちなら誰よりも大きい! 少なくとも今は――!」
「ふん」
気色ばんだティースに、ギレットは鼻だけで笑って答える。
「中途半端な野郎が、いっちょまえに吠えるんじゃねぇよ」
「ちゅ、中途半端……?」
「おめぇが望むのはなんのための強さだ?」
下から向けられたのは、まるで見透かすような視線だった。
「サイラス=レヴァインを助けるための力か? それとも、ナナン=トリストラムを守るための力か?」
「――!?」
その2つの名前は、今のティースにとってはとてつもない『痛み』だ。
彼らの死に、成長を誓ったはずだった。だが、今の彼はその誓いとは裏腹に、思うように成長できていない。
だから、胸がきしんだ。
情けなさに涙があふれそうになった。
「その……両方だ」
視線を落とし、拳を握りしめ、唇をかんで、震える声でティースは答えた。
「どちらも助けたかった。2人とも生きていて欲しかった! それだけじゃない。俺が強ければ、俺に力があれば、もっともっと多くの人を助けられたはずなんだ……ッ!!」
「……ふん」
もう一度、ギレットは仏頂面のまま鼻で笑った。
「だから、おめぇは強くなれねぇんだ」
「……な!」
顔を上げたティースは猛烈に反論しようとしたが、それをのどの辺りで止めた。
いや、止めざるを得なかった。
「おめぇが求めているのは、誰かを助けたいとか、誰かに復讐したいとか、そんなもんじゃねぇ」
「っ……」
息が詰まる。
「おめぇはただ、自身の無力を否定してぇだけなんだ」
「!」
ギレットの片目から放たれる視線は、圧倒的だった。
――なにが?
そう問われても、おそらくティースには答えることができない。
ただ、圧倒的。
すべてにおいて自分を上回っている。ゆえに、口答えできない。
直感的――いや、本能的にようやく感じたのは、それだけだった。
ギロリと、視線がティースをにらみ付ける。
「おめぇはさっき言ったな。ナナンを守りた『かった』。サイラスを助けた『かった』。だが、それ以上のことは一言も言ってねぇ。いま近くに生きている誰かを守りてぇとも、そのために強くなりてぇとも」
ティースは狼狽した。
「そ、それは、ただの言葉の――」
「たまたまだってぇのか? 違うな。それこそがおめぇの本心だ。おめぇが口にしてる決意ってのはしょせん、小腹減ったからなにか食いてぇとか、イイ女がいたから仲良くなりてぇとか、その程度のクソみたいに薄っぺらいもんでしかねぇんだよ」
「そんな……そんなことは――!」
だが、そのティースの反論はあまりによわよわしかった。
もちろん、目の前に立つギレットの雰囲気に飲まれたこともある。だが、それだけでないのも確かだった。
ギレットは続ける。
「もし後悔を糧にして生きてぇんなら、そりゃそれで構わねぇ。だが、それならおめぇ自身を責める前に、その元凶である魔を根絶やしにするほどの決意を見せてみろ。すべての魔を、殺して、殺して、殺し尽くしても足りねぇぐらいに憎しみを極めてみせろ」
「すべての魔を……殺し尽くしても……足りない――?」
ギレットは背を向けた。そしてその手は、鍛錬上の隅に残されていた朱色のタオルを拾っていく。
どうやら彼は、忘れ物を取りに戻ってきただけらしかった。
「憎しみを、極める――」
その偶然は、彼の未来にとって幸運だったのか、あるいは不運だったのか。
ただ、停滞を抜け出すきっかけは与えられた。
それだけは、間違いのないことのようだった――。
「……ギレットさん」
「マイルズ……おめぇか。なんだ?」
詰め所の入り口に立っていたマイルズは、ズレてもいない黒縁眼鏡を中指で押し上げて、そして微笑を浮かべた。
「医者っぽい見解で言わせていただくと、ですね。ティースさんの成長を妨げていたのは、睡眠不足による体力の低下と、精神の不安定さからくる各機能の――」
「知らねぇよ、んなこと」
「……そりゃそうです。結局、治療法はただひとつ、克服すること、ですから」
マイルズは笑って、通り過ぎるギレットを見送りながら、
「隊長の仕事、取っちゃいましたね。ま、隊長が言うより、あなたの言葉の方が重みも真実味もありそうですしね」
「……」
無言のまま、無愛想な男の後ろ姿は小さくなっていった。
それを見送って、マイルズは再び詰め所の中へと視線を向ける。
その目には、少しの懸念がよぎっていた。
「……憎しみを極めて強くなる、か。体現してそうな人、多いからねぇ」
腕を組んで壁に背中を預けると、マイルズはそのまま夕暮れの空を見上げる。
少しだけ強い風が吹き抜けて、白衣のすそを揺らした。
「さて、ティースくんはどう転ぶかな。このまま終わるとは思いたくない。けど、転ぶにしても、果たしてどっちに転ぶことやら――」