幕間『眠れない夜の夢』
ティースとシーラの2人がこのミューティレイク邸に来て、すでに2ヶ月余りが経過している。
屋敷そのものの規模も、働いている人数も、かなり大きなこのミューティレイクであるが、このころになると彼らもこの場所になじみはじめていた。
つまり屋敷の大半の人間が、ようやく彼らの存在を認知するにいたっていたのである。
しかし、だ。そうはいっても、彼らと直接触れ合う人間というのはごくごく一部に限られている。
彼らの行動範囲は別館の自室から玄関ホールまでの間、食堂、別館を出て正門までの道。あとはそれぞれディバーナ・ロウの詰め所だったり、本館の書庫に顔を出す程度。
だから、ほぼ接する機会のない人々にしてみると、彼らの存在というのは、ほとんど気にも留めない程度のものか、あるいは無責任なうわさ話の対象でしかないのである。
そして、屋敷の大半の人々にとって、ティースは主に前者であり、シーラは後者だった。
シーラ=スノーフォールは、その保護者であるティーサイト=アマルナよりも、よほど屋敷の人々の話題にのぼることが多い。ティースのことはほとんど知らずとも、彼女のことは知っているという者も多かった。
だがしかし、それも考えてみればいたしかたない。
ティースという男は、あれだけの長身にも関わらずどこか影の薄いところがあったし、見た目もそれほどのインパクトはなく、平々凡々とした容姿。とにかく背が高いという以外に特徴らしい特徴のない男だ。
それとは逆に、このシーラという少女は、遠目からでもわかるほどに輝く美しい髪を持っていたし、すれ違う者が例外なく視線を奪われてしまうほどに浮世離れした美貌も持っている。
だから男女を問わず、彼女は屋敷の使用人たちの注目の的だった。ある年輩の女性は感心し、ある若い男は胸を走らせ、少女たちは憧憬と羨望のまなざしを向けるのである。
だが、しかし。そんな使用人たちの間で否応なしに流れる彼女に対するうわさや評判は、意外に安定していなかった。
ある者は、わがままで高慢ちきで、すねかじりのくせに偉そうだと酷評する。
ある者は、そんなことはない、見た目以上に親しみやすく細かい心遣いのできる人物だと反論する。
その真っ二つに分かれた主張がまた、男女年齢問わずにバラバラだという辺りも、彼女の本質をつかみにくい要因となっていた。
そんな使用人たちの中に、マグナス=ラングリッジという少年がいる。
彼は後者の意見、つまり彼女に対して好意的な意見を持つうちのひとりだった。
15歳、くしくもシーラと同年代であるこの少年は当初、どちらかといえば前者の意見にかたむいていた。
実際に言葉を交わすことなどもちろんなく、人伝いに話を聞けば、耳に入ってくるのは傍若無人とまでは言わないまでも、自分勝手な発言や振る舞いばかり。
特に彼女の、彼女の保護者である男性――ティースに対する態度が尾ひれをつけて広がったばかりに、少年の中での彼女に対する悪評価は、ほぼ確定的といえるところまで来ていた。
だが、その評価はある日、とあることから彼女と言葉を交わす機会を得たことで、徐々に変化していったのである。
「ご苦労様、マグナス」
「あ、シーラ様。おはようございます」
まだ太陽が昇って間もないというのに、その部屋は薄暗くジメジメとしていた。ぼんやりとした石造りの空間に、かすかに流れる水の音。薄明かりの中、壁際にはなにやら不気味な外観の植物がびっしりと並んでいた。
このミューティレイクでは実に多くの植物が栽培されている。外観を飾る木々や花畑もそうだったし、こうして人目に触れることはなくとも、有用な薬の元となる様々な薬草類もかなりの種類が育てられていた。
マグナスはそういったもの――特にこの地下室にある、稀少な植物たちの世話係だ。
そしてシーラはここの存在を知ってから、よくこの場所に顔を出すようになった。それは彼女が薬草学を学んでいることから考えてもごく自然なことであったが、マグナスにとっては、最初この場所への案内を頼まれたときは、まさか、という気持ちだった。
なぜなら、ここにある植物はいずれも一般的とは言いがたいものばかりで、もちろん使用頻度も低い。
彼が耳にしていた悪評では、彼女がこれらの植物を必要とするほどに勉強熱心な人物だとは到底思えなかったからである。
「今日も少しもらっていくわ。構わないかしら?」
「はい、それはもう」
反射的にそう答えてから、マグナスは思い出した顔で、
「あ、ただ、グレゴスの葉は少し生育が悪くて、その、できれば――」
シーラの足が止まる。
「そう。……残念ね」
どうやら、それがちょうど彼女の欲しがっていたものだったらしい。
それを察したマグナスは少しどもりながら、
「あ、そ、その、シーラ様。どうしてもというのであれば、少しぐらいは……」
「いえ。実験用に欲しかっただけだから。どうしてもというほどではないわ。ごめんなさいね、仕事の邪魔をして」
「じゃ、邪魔だなんてこと! 決して!」
「そう? ありがとう、マグナス」
シーラの微笑みに、マグナスは首筋まで真っ赤になった。
薄暗いために気付かれることはなかっただろうが、それでも少し慌てて、
「シ、シーラ様は……その、勉強の方ははかどっておられますか?」
「ええ、そうね」
シーラは部屋に広がる植物の元へ足を運び、そのひとつひとつの様子を観察し始める。
「あなたのおかげで、それなりに、ね」
「あ、そ、そうですか」
さらりと言い切ったシーラの言葉にマグナスはさらに慌て、見るからに地に足がついていない様子で話題を変えた。
「で、でも、シーラ様はすごいですよね! なんと言っても、あのサンタニアで学んでおられるのですから!」
だが、
「別にすごくないわ」
「え?」
素っ気なく答えたシーラに、マグナスは少し怪訝な顔をして、
「で、でも、ものすごく頭が良くないと――」
「私がすごいというのなら、私と同い年で立派に働いているあなたもすごいじゃない」
「あ……そ、そんなことは全然――!」
慌てふためくマグナスに、そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、シーラは壁際の青紫色の葉を持つ植物から離れ、少しおかしそうに笑いながら振り返る。
「ここの植物たちがきちんと育っているのは、あなたが丁寧に世話をしているからよ。もっと自信を持ちなさい」
「シ、シーラ様……」
「それじゃあ今日は戻ろうかしら。これからもよろしくお願いね、マグナス」
「は、はい」
そしてシーラは部屋を出ていった。
「……」
感激のあまり、しばらくの間ぼーっと立ち尽くしてしまったマグナス。
そんな彼が数分後、様子を見にやってきた先輩にこっぴどく叱られるハメになったのは言うまでもなかった。
(グレゴスの葉がなくてはお手上げね……)
地下室から部屋に戻ったシーラは、早々に今日の計画の変更を決定していた。
学園が休みのこの日、彼女は以前から試そうと思っていた『とある薬』の実験を行うつもりで、そのためにグレゴスと呼ばれる、あまり一般的とは言いがたい植物の葉が必要だったのである。
(どうしたものかしら)
そんな彼女の部屋は、他の住人たちの部屋と比べると雑然としているように見える。色々なものが色々な場所に散らばっているせいだ。
ただ、それは決して彼女が無精だからではない。
彼女の部屋には、様々な薬の調合実験を行うにあたって必要な器具がたくさんあったり、あるいは生成中の薬――たとえば数時間の日の光を必要とするものが窓際に並べてあったり、あるいは自ら栽培している特殊な植物の鉢がいくつか置いてあったり。一見散らかっているように見えるのはそれらのせいなのである。
実際よく見てみれば、いくら物が多くとも、それらが決して邪魔にならない位置に考えて配置されているのがわかるだろう。
むしろ彼女の実際の性格はキレイ好きであり几帳面でもある。部屋の掃除に訪れるミューティレイクの使用人たちも、彼女の部屋に限ってはほとんど触れるべきところがないほどだった。
「ふぅ……」
各部屋備え付けの机に着いて、シーラは本日の予定について再考していた。
日は昇ったばかり。
休みだからといってゆっくりするという考えは、彼女の中には最初から存在していない。彼女にとってやりたいことはいくらでもあって、時間はどれだけあっても困ることはなかった。
その手が机の下に伸びる。
そこはこの部屋で唯一、本当に雑然としている場所。何冊もの本が積まれ、そのほとんどが表紙のついていないものだった。
それらは書庫から借りてきたものではなく、彼女の私物である。
伸びた手は雑然とした本の山の奥の奥から鍵付きの箱を取り出した。外観はなんの変哲もなかったが、かなり頑丈な作りのものだ。大きさは30センチ四方ぐらいだろうか。
シーラは指に填めていた指輪を外すと、慣れた手付きでそれを奇妙な形の鍵穴に填め込んだ。
カチリと音がして鍵が外れる。
中から出てきたのは1冊の本。表紙はないが、真っ黒で妙に質感のあるカバーに、縁には妙な文様が描かれており、大事に保管されているだけあってどことなく『重み』を感じさせる書物だった。古びている割に、日焼けしていなければ腐食してもいない。
「……」
視線を一度、部屋の入り口へと向けてから、シーラはおもむろにその本を開いた。
中は――いや、中もまた白紙だった。あるいは古い日記帳かなにかだろうか。
だが、彼女はそこになにを書き込むわけでもなく、ただじっと見つめるだけで。
「ビアリス……パッフル……グレゴス……アルセフィ……」
つぶやいたのは聞き慣れない単語ばかりだったが、どうやら植物の名前のようだった。
難しそうに目が細められ、美しいまつ毛が少し震える。
「眠りを妨げる……を避けるには……天空の……飛沫と……弐の神の恵みを――」
カタン。
「?」
物音に気付いて、シーラは本を閉じる。
振り返ってみたが、誰もいない。物音は、どうやら隣の部屋のようだった。
隣の部屋の主は、今は任務でクレイドウルという街に行っており、屋敷にはいないはずだ――時計に視線を向けて、そして気付く。
(もう朝食の時間……じゃあ隣に来たのは掃除の子かしら)
本を元の位置に戻し、そしてシーラはゆっくり席を立ったのだった。
「なにかお悩みですの?」
「え?」
食堂では朝食も終わり、希望した者には紅茶が配られていた。
とはいえ、シーラの他にこの場にいるのは2人だけだ。
上座にはこの屋敷の主である弱冠17歳の少女、ファナ=ミューティレイク。そしてその隣の席には、彼女の執事兼ボディガードを務める縁なし眼鏡の男性イングヴェイ=イグレシウス――通称、アオイが座っていた。
「なにか難しいお顔をなさってましたわ?」
そして、丁寧な口調でシーラに対して鋭い観察力を示したのは、もちろんファナの方だった。
アオイの方はといえば、寝起きに弱いといううわさどおり、まだどこかはっきりしないボーっとした表情をしている。
(アオイさん、あいかわらずね……)
シーラなどは、これで本当に護衛が務めるのかと心配してしまうのだが、ファナは『大丈夫ですわ』の一点張りだったし、当の本人は『なにがあっても絶対に守り抜きますから』と根拠のない自信を示している。
もちろん、このアオイという人物についてそれほど詳しくないシーラとしては、それ以上口を挟む理由もなかった。
と、それはともかく。
「悩み事ってほどのものではないのだけれど」
ファナの問いに対して、シーラは紅茶を口に運びながら答えた。
「ティースの部屋の机の上に、明らかに女物のガラスの小ビンがあるの。たぶん香水を入れておくものだわ。中身は入ってないようだけど」
「ええ、私も存じております。それが気になるのですか?」
「気になるというほどではないわ。ただ、少なくとも、あいつが自分で持ってくるようなものじゃないし、なんの意味があるのかと思っただけ」
シーラの疑問に、ファナは納得顔で答える。
「ティースさんがカノンでの最後の任務の際、お礼にいただいた物だそうですわ。かの地方には、女性が自らの使用した香水のビンを感謝の印として男性にプレゼントする慣習があるのです」
「ああ。そういえば聞いたことがあるわ」
目を閉じ、カップを置いてシーラはうなずいた。
「今は主に、意中の男にプレゼントするようになっているそうね。ま、あいつのことだから、それはないにしろ」
「そうでしょうか?」
ファナは不思議そうに首をかしげて、それからそっと笑みを浮かべる。
「ティースさんはとても魅力的な男性だと思いますけども」
「その言葉をあいつが聞いたら、きっと真っ赤になって慌てふためくわね」
光景を思い浮かべたのか、シーラは少し口元を緩めた。
確かにそれは、古い付き合いの彼女でなくとも、想像することは容易だっただろう。
「それも、ティースさんの良いところです」
「そうかしら?」
少しだけ視線を流したシーラに、ファナはおかしそうにクスクスと笑って、
「では、女性にだらしのないティースさんの方が、魅力的だと思われます?」
「天地がひっくり返ってもあり得ないし、想像もできないわね」
ごまかすようにそう言って、シーラは再びティーカップを手にする。
「とにかく、あの小ビンはあいつが大事にしてるもの、ということね」
「ええ、そう思いますわ。……シーラさん?」
少しだけ不思議そうなファナに対し、シーラはしばらくテーブルクロスを見つめたあと、ゆっくりと顔を上げて、言った。
「なんでもないわ、ファナ。……あともうひとつ、確かめておきたいことがあるんだけど――」
その日の夕方、ティーサイト=アマルナの部屋。
今は主がいないだけあって散らかりようもなく、また、毎日朝と夕方に掃除が入るため、ほこりが溜まるようなこともない。
そのドアは鍵がかかっていることもなく、なんの抵抗もなく開いた。
住人によっては、自らが不在のときの部屋への進入を嫌う人間もいたが、ティースに関していえばまるでそんなことはなく、そういう点ではよく言えばおおらか、悪く言えば無警戒ということができるだろう。
先の朝食の席で話題に上った香水のビンは、机の上にあった。ハート型の小瓶で確かに中身はなくなっていたが、フタを開ければ香水の残り香が確認できることだろう。
――それは感謝、あるいは、好意の証。
これをティースに手渡した女性、あるいは少女がどんな人物なのかはわからない。だが、カノンの他の面々に渡していないところから見ても、単なる感謝以外の意図がわずかにでもあったのは確かだろう。
……その事実が、彼女をいらだたせる。
どす黒く胸に広がった感情の名は――嫉妬、だ。
その感情が、震える手を動かした。それは小ビンに伸びて、やがて触れる。
ビンの感触はほんの少しだけヒンヤリとしていた。いや、鼓動が速まるにつれて、彼女の体の熱が少し上昇していたせいかもしれない。
(こんなもの……)
嫉妬が胸を焦がす。それをティースに渡した女性の顔、それを受け取ったときの彼の顔――それを想像するだけで、狂おしいまでの怒りが胸を支配した。
(こんなもの――)
グッと、それを握りしめる。
簡単だった。それをただ、床に叩きつければいい。
それだけでおそらく、小ビンは粉々に砕け散るだろう。割れた理由は、あとでいくらでもでっち上げることはできる。
迷うことは、もう必要なかった。
唇をかみしめてそれを持ち上げると、怒りにまかせて――
「こんなもの――ッ!」
「――そこまでよ」
「!?」
振り上げたところで、手が止まった。
その制止の声は、先ほどまで彼女以外に誰もいなかったはずの部屋の中。
その入口に、いつの間にかひとりの少女が立っていた。
彼女とほぼ同い年だろう。片手を腰に当て、細めた目で振り上げた小ビンを見つめている。
窓から射し込む夕日で、その綺麗なブロンドの髪が水飴のように輝いていた。
「それは、きっとあいつが大事にしているものだわ。元の場所に戻しなさい」
そう言ったところで、彼女はようやくその人物の正体を認識する。
「シーラ……様……」
「その小ビンを、元の場所に戻しなさい。パメラ」
うろたえた表情のパメラに、シーラは有無を言わせぬ冷たい口調でそう言い放った。
「っ……」
「パメラ!」
おそらく無意識の行動だろう。小ビンを手にしたまま後ずさろうとしたパメラに、叱咤の声が鋭く突き刺さった。
「それを元の場所に戻しなさい! さもなくば、あなたは職を失うわよ!」
「っ!?」
シーラの言葉は脅しでもなんでもなかった。使用人が客のものを意図的に破壊したとなれば、彼女の言葉が現実となる可能性は決して低くはない。
彼女――パメラは決して裕福な家の出ではなかった。父親も母親も健在だったが父親は定職に就けずにいたし、2人の弟を含めた家族の生活費の半分以上は、比較的恵まれた彼女の給料で賄われている。
解雇が即刻破滅につながるほどではないが、それでもここで職を失うことが、それほど学があるわけでもない彼女にとって、そして父親が定職に就けていない家族にとって、暗い未来を暗示することは間違いなかった。
だが、それを考慮にいれてもなお。
彼女はシーラの言葉に素直に従えなかった。
彼女には彼女なりに、それだけの理由があったからだ。
「わ、私は――」
「パメラ」
言いかけたパメラの言葉を、シーラはすぐにさえぎった。
「話はちゃんと聞くつもりよ。理由次第では、あなたの今の行動を黙っていてもあげる。……ただ、先にその小ビンを元の場所に戻しなさい」
「……」
視線を落としたパメラの体はかすかに震えていた。
表情に浮かんでいたのは、興奮と絶望。
おそらく彼女の中では、大変なことをしてしまったという気持ちと、それでもなお収まりがつかない『なんらかの理由』がせめぎ合っているのだろう。
「よく、考えることよ」
そんなパメラに、シーラは淡々と言葉を突きつけた。
「あなたがその小ビンを割ったところで、なにが解決するというの? あなたの気持ちは、収まるどころかさらにエスカレートして膨れ上がるだけだわ」
「っ……」
観念したようにうなだれて、そしてパメラはゆっくりと腕を下ろした。
コト、と軽い音がして、小ビンが元の場所に戻ってくる。窓から射し込む夕日の光を浴びて、透明な小瓶はどこか寂しげな色に染まっていた。
「いい子ね」
それを見てうなずくと、シーラは扉がしっかり閉まっていることを後ろ手に確認し、パメラの方に向かってゆっくりと歩き出した。
その表情は、まだ厳しい。
「でも、わかっているわね? あなたがしようとしたことは、本来だったら許されないことよ」
「っ……」
パメラの体が震え、2つ結った短いお下げが小さく揺れた。どこかあか抜けない、よく言えば純朴なそばかすの顔が、大きく歪んでそこに大粒の涙をたたえる。
そんな彼女に、シーラは短い言葉で言い放った。
「サイラス=レヴァイン」
「!?」
ハッとしてパメラが顔を上げる。
その表情だけで、シーラは自らの憶測が正しかったことを悟っていた。
「図星のようね。あなたが以前、そのサイラスって人の部屋を担当していたのは、ファナから聞いたわ」
「……」
「他の人からも色々と聞いた。彼が任務に出掛けるときには必ず見送って、彼が戻ったときには必ず最初に出迎えて、彼のためにお守りを作って、彼の功績を耳にするたびに、まるで自分のことのように喜んでいたって」
「っ……!」
パメラの目に浮かんでいた涙が、一気にあふれて流れ落ちた。両手で顔を覆っても、涙はその指の隙間からこぼれて夕日色に染まる。
「わ、私は――!」
そのまま、震える声でパメラは言った。
「あ、あの人が……サイラス様を殺したあの人が、当たり前のように幸せそうに生きているのが許せなくて……っ!!」
「……殺した? ティースが?」
シーラは怪訝そうに声をひそめた。
「私は2人で命令違反して、それでサイラスって人が運悪く命を落としたのだと聞いたけど?」
パメラは顔から手を離し、涙に汚れた顔を隠そうともせずにシーラをにらんだ。
「わ、私、聞きました! あの人がサイラス様をそそのかして、それでサイラス様は命を落とされたのだと!」
「……」
シーラはなにも答えなかった。
……確かに死んだのはサイラスで、生き延びたのはティースだ。彼が嘘をつけば、事実を曲げることはいくらでも可能だろう。
そして真相がどうであれ、少なくともパメラは、ティースが事実をねじ曲げて伝えたのだと信じているようだった。
パメラはそのまま、いまいましそうに机の上の小ビンをにらむと、
「サイラス様はもう戻ってこられなくなったのに……それなのに……あの人はのうのうと、楽しそうに生きて――!」
「だから、なに?」
「っ――」
パメラの視線がシーラの元に戻ってくる。驚いたような視線がやがていらだちをまとい、そして唇をかんだ。
「サイラス様は……サイラス様は、あの人にそそのかされて、それで命を落とされたんですっ!」
だが、シーラは淡々としたまま、
「同じことを繰り返さなくても、あなたの言いたいことはよくわかってるわ」
そして冷たい視線を彼女に向ける。
「それが本当だとしても、だからなんだというの? そそのかされた? だったら聞くけど――」
そこで一度言葉を切って、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの口調で続けた。
「たとえばあなたは、人殺しをしようとそそのかされて手を貸した人間には罪がないと、そう言うつもり? 『そそのかす』というのは強制でも脅迫でもないわ。最後はあくまで当人の意志よ」
「な――」
シーラはさらに付け加える。
「それにあなたの言うことはあくまで妄想でしかない。あなたが耳にしたのは無責任なうわさ話で、正式には、ティースが彼をそそのかしたなんて証拠はひとつもないわ」
その冷たく鋭い指摘に、パメラは激しく首を振って、そしてさらに涙をあふれさせた。
「も、妄想なんかじゃありません! それに……それに私、今でも夢に見るんです! サイラス様が無事に戻られる夢を……目を覚ますたびに、何度も何度も泣いて――」
「……」
だが、その言葉にも、シーラはほんのわずかに眉を動かすだけだった。
「よかったわね。夢の中とはいえ、愛しい彼に何度も会えて」
パメラがシーラをにらみ付ける。
「……あなたはっ! あなたは遺された人の気持ちがぜんぜんわかってない! 私の気持ちなんてこれっぽっちもわかってないっ!」
「……」
シーラは無言だった。
ただ、視線が徐々にではあるが、険しさを増していく。
「もう二度と……二度とサイラス様は私に笑いかけてくれないんですっ! よくやった、って。ありがとう、って。もう二度と誉めてくださることもないんですっ!! 私がどれだけ苦しいかなんて、私の気持ちなんて、あなたにはこれっぽっちも――!!」
「気持ちがわかってない、ですって?」
シーラが押さえつけたような声色で、そうつぶやく。
いや、正確には違う。『ずっと押さえつけていた』のだ。それが『押さえきれなく』なった。
それが正しい。
そして――爆発。
「ふざけるのも、大概になさいっ!!」
「っ!?」
あまりに唐突で、そしてあまりに激しい感情のほとばしり。叫びは空気を振るわせ、決して演技ではない怒りが辺りに満ちる。
堰が切れた。
その表現ですら、どこか物足りなく感じるほどに。
怯んだパメラに、シーラはそのまま言葉を走らせた。
「気持ちがわかってないですって!? だったらあなたは、あいつの――ティースの気持ちを、いったいどれだけ理解しているというのッ!!」
「あの人の……気持ち……?」
パメラの意外そうなつぶやきに、シーラの言葉はさらに苛烈さを増した。
「あなたは、あいつがなにも感じていないとでも思ってるの!? あいつは今でも彼の名前を叫びながらうなされているわ! 夢のことなんて私には話そうとしないけれど、でも、それがどんな夢かなんて私にだってわかるッ!」
いつものクールな様子からは想像もできない激情をそこに浮かべ、そしてそのあまりに端正な顔が、どうしようもないいらだちで覆い尽くされる。
ギリッと、歯ぎしりの音が静かな部屋に響き渡った。
「それがどれほどのものか、あなたに想像できるの!? あいつは夢の中で、何度も何度も仲間を失ってるわ! そのたびに許しを求めて、そのたびに泣きながら自分の不甲斐なさを責めなきゃならないッ!!」
「そ、そんなの……」
その剣幕におののきながら、それでもパメラはかろうじて反論した。
「そんなの……だってそれはあの人の自業自得――」
パァンッ!
「……な……っ!」
頬を押さえたパメラを、シーラは平手を止めたまま、細めた目でにらみ付けた。
「……だったら、あなたの好きだったそのサイラスという男は、自分の行動にも責任を持てないほど、くだらない男だったということね? あなたはそんなしょうもない男を好きになったのね?」
「そ、そんな……そんなこと――」
手を下ろし、シーラはその拳をグッと握りしめる。
「あなたの言ってるのは『そういうこと』なのよッ!」
「――」
返す言葉を探しながら、パメラは頬を押さえたままで恨みがましくシーラを見つめた。そんな彼女に、シーラは自らの頬を差し出すように顔を近づけると、
「反論があるなら遠慮せずに言いなさい。そして私の頬を張り返してみるといいわ。私はそれを誰に訴えたりもしない。自分が正しいと思うなら、やりなさい」
「っ……!」
「さあッ! やってごらんなさい!!」
突きつけられた言葉に、パメラの目からは止めどなく涙があふれた。唇をかみしめ、肩は小刻みに震える。
反論はない。
その手がシーラの頬を張り飛ばすこともなかった。
「っ……うううっ……っ!!」
そしてパメラは床に膝を落とし、そのまま泣き崩れる。
「うっ……サイラスさま……サイラスさまぁぁ……っ!!」
あとは、二度と戻って来ないその男の名を呼び続けるだけだった。
「……」
シーラは黙ってそれを見つめていた。
その視線は、先ほどまでよりはだいぶ穏やかさを取り戻していて。そしていつもよりも、よほど感情を宿し――そこには、かすかな憐れみも浮かんでいた。
「ううっ……ぁぁぁぁ……!!」
綺麗に敷き詰められたじゅうたんの上に、いくつもの黒い染みが出来てはすぐに色あせていく。
「……」
やがてシーラは、聞こえない程度の小さな息を吐いて視線を横に逸らした。その表情には、なぜかほんの少しの後ろめたさが浮かんでいる。
「泣きたいだけ、泣けばいいわ」
パメラは間違いなく、屋敷の誰よりも彼を愛していたのだろう。だから、その死を悲しむことは、彼女に当然に与えられた権利だ。
言葉も温もりも伝えられなくなった今となっては、その悲しみこそが、彼女が彼を愛していたことを示す、唯一の手段だった。
シーラはそのまま、ゆっくりと窓際に歩み寄る。
……外は夕日が綺麗だった。空に浮かんだ薄雲がほんのりとオレンジ色に染まり、街の風景を綺麗に萌やしている。
そしてその景色を瞳に映したシーラの口から、ひとりごとがもれた。
「偉そうなこと言うわよね、ホント……」
自嘲の言葉だった。
窓に触れた手が、グッと握られる。
その後ろでは、いつまでも嗚咽が聞こえていた――。
「え?」
「すみませんでしたっ!」
「え。あ、ちょっ、ちょっと待ってよ」
ティースにはちんぷんかんぷんだった。
それはそうだろう。
クレイドウルの任務から戻って数日後の夕方。
今まで話しかけても素っ気なかったり無視してばかりだった使用人の少女――パメラが、いきなり自分から話しかけてきたかと思うと、唐突に謝り出したのだから。
ティースは自室に備え付けの椅子から少し腰を浮かせて、
「ま、まず顔を上げてよ。いきなりそんなこと言われても、なんのことだか、さっぱりわからないじゃないか」
「……」
夕日の支配する部屋の入口で、パメラは神妙な表情でゆっくりと頭を上げた。
そして、その視線が机の上――そこにあった、小ビンに向けられる。
「私……ティース様の、その小ビンを壊そうとしたんです」
「小ビン? え? これ?」
ティースが手元にある香水を入れるビンを示すと、パメラは無言でうなずいた。
その小ビンはカノンでの最後の任務の際、数日間護衛についた女性から感謝の印にと差し出されたものだった。彼自身は実際に一度も剣を抜いていなかったから気は引けたものの、ヴィヴィアンなどの助言もあって結局ありがたくもらったものである。
それは感謝の印――つまりは自分が役に立ったという証だったから、まだ未熟で不甲斐ないティースにとっては素直に嬉しいことだった。それを机の上という目立つ場所に置いてあるのが、彼がそれだけ喜んでいることの証明でもある。
ただ、
「……なんで?」
もちろん、パメラがそれを壊そうとする理由など、ティースにはまるで思いつかなかったのだ。
「……」
そんなティースをまっすぐに見て、そしてパメラはまるで懺悔するように答えた。
「私、以前はサイラス様のお世話を担当してました。……サイラス様のことをお慕いしてました」
ドクン――、と、ティースの胸の鼓動が跳ね上がった。
「サイラスの……?」
穏やかな表情がほんのわずかに、無意識のままに引き締まる。
「……そうか」
それだけで――彼にしては珍しいことに、すべての事情を察したようだった。
そして視線を泳がせ、目を閉じ、その後にゆっくりと、絞り出すように、
「君が俺にそっけなかったのは……俺のことを恨んでいたからなんだね?」
パメラは無言でうなずいた。
そして――重苦しい沈黙。
それはティースにとっても、パメラにとっても、悲しい記憶だった。決して消えることのない、この屋敷に存在していたひとりの男の記憶だ。
やがて、ティースはゆっくりと頭を下げた。
「ゴメン。俺は、君の愛する人を守ってあげられなかった」
偽らざる、心からの謝罪の言葉だった。
「……」
無言のまま、パメラの瞳が揺れる。
そのままティースは続けた。
「あのとき、あいつを助けられるのは俺だけだった。でも、俺は助けられなかった。……それは事実だ。だから、俺は君に責められても文句は言えない」
「……」
「俺は――」
ティースの言葉の語尾がかすかに震えて。
だが、先に涙を流したのは、パメラの方だった。
「いいえ、ティース様――」
「……え?」
「私は……きっと、誰かに責任をなすり付けたかっただけなんです……」
「パメラ……?」
ティースが顔を上げると、パメラは両手で顔を覆っていた。
「あの方が死んでしまったのが……あまりに理不尽なことに思えてしまって。でも私、ある人に言われて……それで何日も何日も考えてみて、わかったんです」
パメラはうつむいて涙を拭い、そしてうるんだ瞳を再びティースへと向ける。
そこから、また涙があふれた。
「あの方は……そういう場所で戦って、それを承知の上で戦って、強い意志の上で亡くなられたのだと。だからあの方の死は、きっと誰のせいでもないんだって……」
「……パメラ」
パメラの涙は止まらない。
拭っても、拭っても、止まることはなかった。
「誰かのせいにすることは、死んだあの方の尊厳を傷つけることなんだって。それは……それは、遺された人が絶対にしてはいけないことなんですよね」
泣いたまま、パメラは最後に笑おうとした。
だが、それは寸前で失敗する。
「だから私は……二度とこんなこと――」
それ以上の言葉が、彼女の口から出てくることはなかった。あとは顔を上げることもなく、ただ肩を震わせる。
静まり返った部屋に、嗚咽の声だけが響いた。
「……」
ティースには、返す言葉が思い浮かばなかった。
彼女がその結論に達するまでに通過したであろう葛藤と苦しみ。それを想像するほどに、今こうしてティースの前で笑顔を浮かべようとした彼女が、あまりにけなげで、そしてあまりに哀しく思えたから。
そしてティースは考える。
どうすれば、この少女の強い気持ちに応えてやれるだろうか。どんな言葉をかけてやれば、少しでも彼女の強い意思に報いてやれるだろうか、と。
……もしも今、自らの命を半分だけサイラスに分け与えられるとしたなら、ティースは迷わずそうしたに違いなかった。
だが、それは叶わぬ願いだ。
(……あ)
そしてティースが最後に思いついたのは、生前、最後の任務に向かう数日前の酒場で、サイラスがなにげなく口にした一言だった。
「あいつ……言ってたんだ」
「……?」
わずかに顔を上げたパメラに、ティースは少し目を細め、そして彼女の顔を見たところで自分の想像を確信に変えた。
そして続ける。
「ある使用人の子に、いつもすごく世話になってるんだって。自分がなにかを遺すとしたら、あるいはその子かもしれないって……」
「え……?」
パメラが目を見開く。
「名前とか、どんな子だとか、そんなことはぜんぜん聞かなかったけど……それって、もしかしたら」
だが、パメラは思いっきり首を横に振って、
「そ、そんなこと……だってサイラス様は人気もありましたし、私より親しかった子だって、きっとたくさん――」
「でも、それなら世話になってる子、なんて言い方はしないんじゃないかな。たぶんそれに当てはまるのは、あいつの部屋とか、身の回りのこととか、色々と世話をしていた君だけだと思う」
「で、でも私、最初はここに来たばかりで、色々といたらなくて、サイラス様にいつもかばっていただいて、なにより私みたいな地味な娘に、サイラス様がそんなことを――」
「パメラ」
確かに。そこにいる少女は自身で言うように特別目立つわけではない。女性としての魅力にあふれているわけでもなければ、使用人として完璧な技術を持っているわけでもないようだった。
だが、ティースは思うのだ。
小さなころに家族も友人も失ったサイラスはきっと、そんなものよりももっと自分にとって必要なものを、この少女の中に見出していたのではないか、と。
確かにあのときは酒の席で、冗談交じりに言ったことなのかもしれない。
だが、それでも彼は確かに言ったのだ。
『恋人も、家族もいない。だけどあえて言うなら、いつも色々と世話になっている使用人の女の子に言葉を遺すかもしれない』
と。
結局、彼はそれを遺さなかった。
しかし、もしも彼が、自分を待つ運命に最初から気付いていたのであれば――あるいは本当に彼女に言葉を遺していたのかもしれない、と、ティースはそう思うのである。
「……本当に強い想いっていうのは、通じるものだから。あいつは君が思うよりずっと、君に感謝していたんだと思う。そうでなきゃ酒の席の軽口でだって、君の話が出てくるはずはないよ」
「――」
まるで時が止まったように、パメラの目は大きく見開かれて。
そして彼女を再び動かしたのは、やはり涙だった。
あふれて、あふれて、止まらない。
「サイラス……様……!」
だけどそれはほんの少し。先ほどまで流していたものとは、少しだけ意味合いが異なっている。
悲しいだけではない。
ティースはゆっくりと天井を見上げた。
彼自身、目の奥に熱いものがこみ上げてくるのを自覚していたのだ。
(サイラス……お前はこんなにも、周りの人たちから好かれていたんだな……)
その死から2ヶ月が経った今でもなお、こうしてその死を悼んでくれる者がいる。その言葉に涙を流してくれる者がいる。
自分はどうだろうか――、と考えた。
それは読心術を心得ていない彼にはわかるはずもないことだったが、せめて、ひとりぐらいはこの少女のように想ってくれる人がいて欲しい。
そうであるように生きていきたい……そう思った。
(……あ)
そこへふと。
ティースの視界の隅に、夕日を浴びて輝くものが映った。
(シーラ……?)
半開きの扉からかすかに見えた美しい金髪は、どうやら彼女のものだ。とはいえ、別に聞き耳を立てていたわけではなく、たまたま部屋の前を通り過ぎただけだろう。
視線を動かさずに、ティースはふと尋ねた。
「……パメラ。君、ある人に言われて気付いた、って言ってたよね」
「は、はい……」
涙を拭いながら、ようやく落ち着いた様子でパメラはゆっくりと顔を上げた。
ティースは問いかける。
「その、ある人って、誰のこと?」
「あ、それは……」
パメラは少しだけ口ごもって、そして視線を逸らして答えた。
「私の、先輩です」
「先輩……そっか」
もしかしたら嘘をついているかもしれない、と、ティースは直感的に思ったが、彼女が嘘をつく理由もわからなかったし、それを追求する理由も思い浮かばなかったので、結局それ以上はなにも言わなかった。
「……あらゆる……ヴェイダ……の妨害から……身を……沈む? いえ……落と……安らぐ……?」
その日も、シーラの部屋には夜遅くまで明かりが灯っていた。
「ヴェイダ……は、どういう意味かしら――」
ページをめくる乾いた音が静かな部屋に響く。周りからは物音ひとつ聞こえない。
――いや。
コン、コン。
遠慮がちなノック。
「……。つまり……ヴェイダの妨害は、不眠の――」
コン……コン……
二度目はさらに小さく。
「……」
シーラは不機嫌そうに眉をひそめ、2冊の本を閉じて扉を振り返ると、
「誰?」
「あ、起きてたか……?」
扉の外から遠慮がちに聞こえてきたのは男の声だった。もちろんそれは、シーラもよく知っている男のものである。
「ティース? なんの用?」
「あ、いや、特に用ってわけじゃないんだけど……もし時間があったら、ちょっとだけ話をしたいなと思って……」
さらに遠慮がちに聞こえたティースの言葉に、シーラはやはり不機嫌さを隠そうともせずにため息を吐いた。
「勝手になさい」
「あ、そ、そっか。じゃあ失礼――」
ガチャ。
「あ、あ、あれ?」
ガチャ。ガチャガチャ。
――沈黙。
その後、扉の向こうから少し情けない声が聞こえた。
「あ……あのさ、シーラ。なんか、鍵が開いてないみたいなんだけど……」
「そう、残念ね」
冷たく言い放って、シーラは再び机に向かった。
「……」
「……」
数十秒の沈黙。
シーラは何事もなかったかのように、再び本をめくっている。
そして1分ほどが経過しただろうか。
「……シーラ? あの――?」
どうやら、ティースはまだ扉の向こうに居座っているようだった。というより、彼女の言葉の意味を理解できなかったのかもしれない。
「……」
シーラはこめかみを押さえ、本を閉じてその片方を引き出しの中に入れると、ようやく椅子から立ち上がって扉へと向かった。
「……なに?」
扉の向こうに立っていたティースは、寝巻というわけではないが、その一歩手前ぐらいのラフな服装だった。普段着以上にどこか頼りないというか、情けないというか、そんな雰囲気が漂っている。
「あ、勉強中だったか? もしかしてお邪魔――」
「もう充分邪魔されたから。気にしなくていいわ」
「わ、悪い」
「で?」
謝ったティースの言葉を意に介した様子もなく、シーラは細めた視線を向ける。
「世間話をしたいのなら、酒でも呑みながら商売女を相手にしていたらいいでしょう? お前にとっても、私と話すよりよほど楽しいんじゃないの?」
ティースはわずかに不満を顔に浮かべた。
「そ、そんな言い方しなくてもいいじゃないか。ただ、最近は忙しくてゆっくり話をする機会もなかったし、任務もあったし、たまにちょっと話をしたいなと思って……」
「……」
シーラはあからさまに迷惑そうだった。
そんな彼女に、さすがに手応えの悪さを感じ取ったのか、
「……ごめん。なんか、俺のわがままだったみたいだな」
ガックリと肩を落として立ち去ろうとしたティース。
だが、
「待ちなさい、ティース」
「……?」
シーラは視線を少しだけ泳がせて、それから大きなため息を吐く。機嫌の悪そうな表情は相変わらずだったが、それでも彼女は言った。
「まさかそのまま帰るつもり? 結局、私の邪魔をしに来ただけなの?」
「え? い、いや、でも――」
シーラは片手を腰に当て、そしてもう一度、大げさなため息を吐いてみせる。
「邪魔されただけで終わるのも馬鹿らしいし、お前のつまらない世間話に付き合ってあげるわ。……ただし」
細めた視線が、冷たく、鋭くティースを射抜いた。
「本当につまらなかったら……『吊す』から」
「つ、吊す……?」
まるで本気のような調子の言葉に、ティースは少し冷や汗の浮かんだ首筋に手をやって、乾いた笑いを浮かべる。
「じょ、冗談だよな、もちろん――」
シーラはきっぱりと言い放った。
「死なないわ。今の季節なら」
「し、しかも外かっ!?」
確かに死にはしないかもしれないが、朝になったら虫にたかられてひどいことになっていることは間違いない。
うろたえるティースの鼻先を、美しい彼女の金髪がふわりと踊る。
「なにをボサっとしてるの。ホールに行くわよ」
「あ……ちょっ、ちょっと! 待ってくれよ、シーラ!」
シーラはとっとと歩いていってしまう。その後を追いかけながら、ティースは本気で情けない顔をして言った。
「い、いつも言うだろ? 俺にはたいした期待してないって。も、もちろん今回もそうなんだよな?」
「……」
「お、おーい……シーラぁ……」
ティースの呼びかけは、むなしく屋敷の廊下に響き渡るだけだった。
――翌日。
「ファナ」
「はい?」
朝食の席で、シーラはファナに向かって言った。
どこか呆れたような苦笑を浮かべて。
「あいつはあのままの方が、まだいくらかマシみたいね。変に虚勢を張られると、うすら寒くて仕方ないもの――」
その日、外に吊されている人間を目撃した者は、一応いなかったらしい。