その8『繰り返す“ラブ・ストーリー”』
10月に入るとネービスの街は早々に冬支度を始める。
大陸でも比較的北に位置するこの都市は紅葉の訪れも早く、それが過ぎればすぐに冬。2ヶ月前には薄着であふれていた大通りも、そろそろ厚手の服が目立ち始めていた。
そんな秋の、とある日のこと。
ミューティレイクの敷地を、その中心にある本館から少し西側へ移動した場所。
ディバーナ・ファントムの詰め所に、ひとつの別れが訪れていた。
「じゃあ、あの、色々お世話になりました」
「ええ……ティースくんも元気でね」
「はい」
見送られているのはもちろんティースである。
そしてそれを名残惜しそうに見送るのが、2つのお団子を頭に結った女性、ディバーナ・ファントムの隊長、アクア=ルビナートだ。
「ティースくんがいなくなると、おねーさんホントに淋しいわぁ」
「大げさだっつーの。屋敷でほぼ毎日会ってんだろうが」
そのアクアの後ろでは、ダリアが呆れ顔で腰に手を当てていた。夏の間はずっと露出の高い格好だった彼女も、今はラフではあるが、比較的落ち着いた服装になっている。
ティースは苦笑して、
「でも、毎日同じ場所で一緒に特訓したりするのはたぶん最後だろうからさ」
「ま、そりゃそうだけどよ」
なんだかんだで彼女は結局、ティースにとって一番話しやすい相手だった。
他の2人、ドロシーとフィリスの姿はそこにはない。ドロシーはもともとこういう場に顔を出す性格ではないし、フィリスはファナの侍女という副業(?)のため、時期によってはなかなか忙しかったりもするのだ。
「でもま、お前の成長ぶりにはあたしも驚かされたよ。さすが、アオイのヤツに見込まれただけのことはあるよな」
ダリアの言葉に、ティースは照れながら、
「でも、結局ダリアには負け越したままだったじゃないか」
「なに言ってんだよ。それは最初のころのアドバンテージのせいだろ。あたしにしてみりゃ、お前みたいな頼りなさそうなヤツにたった2ヶ月で追いつかれて、かなりショック受けてるんだぜ?」
アクアがうんうん、とうなずいて、
「そうねぇ。この前の任務のときなんて、ひとりで氷の五十六族をやっつけちゃったもの。おねーさんを追い抜く日もそう遠くないかな?」
「無茶言わないでくださいよ……」
苦笑したティースに、アクアは妖艶に微笑みながら、
「もしあたしに勝てるようになったら……そのときはティースくんのお嫁さんになってあ・げ・る・わっ」
パチッとウインクする。
「……はあ」
すかさずダリアの突っ込みが入った。
「そりゃないぜ、アクア姉。それってどっちかっつーと罰ゲームじゃんか」
「なんでよ!」
アクアは思いっきり口を尖らせて、少し焦ったような表情でティースを見る。
「ね、ねぇ、ティースくん! そんなことないわよね!? あたしって、そこまで魅力のない女じゃないわよね!?」
「あ……その、えっと……」
肯定しても否定しても、彼に待っているのはおそらくよからぬ出来事であろう。
「ど、どっちにしろ、それはたぶん、かなり遠い先の話ですので……」
結局、あいまいに濁して答えたティースだったが、それは偽らざる言葉でもある。いくら成長したとはいえ、アクアはまだ彼にとって雲の上の存在だった。
「な、なんか適当に濁されたわぁ……」
ガックリ肩を落としたアクアに、ダリアは勝ち誇ったように笑いながら、
「ま、それはいいとしてさ。さっきの話だけどよ」
話題を元に戻した。
「お前ってなんか、筋がいいっつーより、基礎がしっかりしてるって感じだよな? 上達の妨げにならないように基礎を覚えてるっていうか」
「そ、そうかな?」
「聞いたことなかったけど、誰に剣を習ったんだ? もしかして有名なヤツじゃないのか?」
「まさか」
ティースは笑って、そして答えた。
「俺の故郷の神父さんだよ」
「神父ぅ?」
ダリアがうさん臭い、と言わんばかりの表情をする。
ただ、ティースは別に嘘をついたわけではなかった。
「ああ。もうかなり高齢だったけど、昔は剣の道を目指したこともあったらしくてさ。物知りな人だったなぁ」
「ふーん。神父に剣、ねぇ。変な話だなぁ。……ま、いいか。そろそろ時間、だろ?」
「あ、ああ」
詰め所の中にある時計を見て、ティースはうなずいた。
時刻はちょうど正午の10分前。
「じゃあ、アクアさんに、ダリア。……えっと、いつでも会えるのに改めて言うのも変だけど、ひとまず、お世話になりました」
「ああ。向こうでも頑張れよ、ティース」
「プロポーズ代わりの果たし状、楽しみに待ってるからね。……ちゅっ」
「……はは」
アクアの投げキッスに見送られ、ティースはディバーナ・ファントムの詰め所を後にした。
向かう先はもちろん、次の配属先――ディバーナ・ナイト。
それはディバーナ・ロウの最強チームであり、『ディバーナ・ロウそのもの』と言っても決して過言ではない。
隊長はレインハルト=シュナイダー。ティースにとってはシーラの命を救ってくれた……そのために立ち上がってくれた大恩人である。
(厳しそうな人だけど――)
武者震いする体に気合を入れ直し、
(よし……気おくれしないように頑張らなきゃな!)
そしてティースはディバーナ・ナイトの詰め所へと向かったのだった。
――一方、そんなティースを見送った2人。
「……しかし今度はナイト、か。お嬢さんの考えることもいまいちわかんねぇよなぁ。英才教育なんだか落ちこぼれ教育なんだか」
頭の後ろで手を組んで詰め所の中に戻っていくダリアに、アクアもまた振り返ってその後をついていく。
「期待されてるわ。間違いなく、ね」
「アクア姉もやっぱ期待してんのか? ……そりゃそうか」
馬鹿らしいと言った様子で、すぐに自分の言葉を撤回するダリア。
アクアはうなずいて、
「なんだかんだ言いながら、彼はカノンの厳しい特訓に耐えたし、まだ未熟だけどここで『集中』も会得したわ。ディバーナ・ロウに来て4ヶ月、最初はヴィヴィアンくんに軽くあしらわれていた彼が、今じゃ五十族とも戦えるようになった。誰もはっきりとは口にしないけど、これは驚異的なことでしょ」
「本人に一番自覚がなさそうだけどな」
笑いながらダリアは居間を抜け、奥の鍛錬場へと向かっていく。そこにはティースの一輪車が残っていた。
「ま、結局こっちの才能はゼロだったわけだが」
アクアも苦笑しながら、
「そうね。でも、ここに来たデビルバスター候補生としては、もしかしたらルゥくん並の逸材かも」
「あぁ、ルーベン、か。……そういやここに来た時期もよく似てんな。性格はだいぶ違うけどよ」
「……そこね」
「? アクア姉、どういうことだ?」
「性格よ。……彼の才能を邪魔するものがあるとすれば、あの性格だと思うわ」
ダリアは納得できない顔をした。
「そうか? あたしは、あいつはあのままでいいと思うけどな」
アクアは少し意外そうに、
「あら? あなたいつも、女々しい男はみっともないって言うくせに。もしかして彼に惚れちゃった?」
「んなわきゃねーだろ。……そりゃ確かに女々しいとこもあるけど、やるときはやるんだからいいじゃねーか」
「あたしも彼の性格自体がダメだというつもりはないわ。可愛いし」
「あんたは結局それだもんな」
「なによぉ。可愛いに越したことないじゃない」
「どうだか」
特に相手が男の場合は――などとダリアは思うのだが、アクアに対しては馬の耳に念仏なのでそれ以上はなにも言わなかった。
そしてアクアは続ける。
「でもねえ……もう少し切り替えがうまければ、と思うのよ」
「切り替え? どういうことだ?」
「これはリディアちゃんも言っていたんだけど……ほら、彼ってなんでもかんでも背負っちゃいそうじゃない?」
「あぁ……」
それはダリアにもわかった。
「サイラスくんのこと。この前のザヴィアのこと。今はまだ、それを成長の原動力にしてるみたいだからいいけれど」
「……」
「ナイトは、あたしたちや出来立てのカノンと違うから。彼がここでの任務に耐えられなくなるとしたら、たぶん――」
思い直したように口をつぐんだアクアの瞳が、心配そうに揺れた。
そこに浮かんでいたのはかすかな期待と、それをはるかに上回る不安の色。
「誰か、彼を強力に支えてくれるような人が、近くにいればいいんだけど、ね……」
そしてアクアは目を閉じ、ゆっくり息を吐いたのだった。
さて、それから約1時間後のこと。ティースの姿は、なぜかネービス中心近くの広場にあった。
その視線は、とある人物の姿を探してさまよっている。
(ここにいるって、マイルズさんは言ってたけど……)
ディバーナ・ナイトの詰め所を訪れたティースを出迎えたのは、屋敷の主治医でもあるマイルズ=カンバースだった。
彼がナイトの一員であるということにまず驚いたティースだったが、医術に関していえば彼が屋敷で一番であることは間違いなく、考えてみれば特別に不思議なことでもない。
それはともかく。
そんなマイルズが中指で黒縁眼鏡を持ち上げながら(どうやら彼のクセらしい)口にした言葉によると、ナイトの隊長であるレインハルト=シュナイダーは、用事で街の方に出払っている、ということだったのである。
もちろん今日ティースがやってくることは承知済みだったはずであり、おそらくは緊急の用件だったのだろう。
好天の昼下がり。
辺りには人があふれており、露店もいくつか姿を見せている。その中から人ひとりを捜すのは骨が折れるが、レイという男はティースほどではないにしろ長身で目立つ格好だ。決して不可能ではないと思えた。
(えっと、背が高くて、確か旅人風の……)
旅人風の格好をした男というのはそれなりに数が多い。大陸の中心からやや離れた北方とはいえ、ネービスは大陸の有力都市のひとつである。仕事があればそこには自然と人も集まるものだ。
それこそつい最近彼が演じたような大道芸人や、仕事を求めてやってきたのであろう傭兵風の男、旅の食料を求めて露店に姿を見せる一団、中にはなにをしにやってきたのかわからない――その辺を歩く女性に手あたり次第、背筋が寒くなるような軟派な言葉をかけまくっている男もいる。
「見ろよ。君の瞳はまるで、あの夜空に輝く星のようじゃないか」
「……夜空なんてどこにもありませんけど」
「いいや、そんなことはないさ。よく見てみるといい」
「……」
つられて空を見上げたティース。
広がっているのはもちろん青空だ。輝く星はもちろん、月すらもまだその姿を現していない。
「俺にはちゃんと見えてる。……ほら、その瞳の中。君の心の美しさを映したように、キラキラ輝いてる」
「……」
女性は戸惑っている。が、言葉そのものというよりは、その雰囲気に呑まれてしまっているようで、男から逃げようとはしていない。
客観的に見れば、脈アリ、といったところだろうか。
そして男はここぞとばかりに続けた。
「見えないのなら、俺の目をのぞき込んでみるといい。その中に、きっと美しい夜空が見え――」
「って!」
そこまで来てティースはようやく気づいた。
「レイさん! いったいなにをやってるんですかッ!」
「ん?」
唇までわずか30センチほど。女性にとっては幸かあるいは不幸か。レイが動きを止めて振り返ると、女性はハッとした様子で慌ててその場から逃げていった。
「あ……あらら、逃げられちまった」
改めて声を掛ける間もなく女性の背中は遠ざかり、そしてレイは再びティースを振り返ると、
「おい、ティース。どうしてくれんだ。せっかくいいところだったのに」
「そ、それはすみま――じゃなくて!」
危うく反射的に謝ってしまうところだった。
「レイさん、任務でここに来ているんじゃなかったんですかっ!?」
「しっ」
だが、レイは少し眉をひそめ、口元に指を当てて答えた。
「大声出すんじゃない。標的が逃げちまうだろ」
「標的? ……あ」
急に厳しさを増したレイの言葉に口をつぐみ、ティースはすぐさま自らの愚かさを恥じることになった。
(そ、そっか。今のはカムフラージュ……)
考えてみれば当然のことだ。ディバーナ・ロウを象徴するナイトの隊長が、本来の仕事をほっぽらかしてナンパに精を出しているはずもなく。冷静に考えればそのぐらい察してしかるべきだったと気付く。
(そんな簡単なことにも気付かないなんて……)
すかさず自己嫌悪におちいるティース。だが、幸い、と言おうか。周りを見てもティースの大声に注目している人間はそれほどいなかった。
レイもうなずいて、
「とりあえず大丈夫だ。が、軽率すぎるな。気をつけることだ」
「は……はい。すみません」
「わかればいいさ。……お前はしばらくその辺で時間を潰していろ。こっちはあと1時間もあれば終わる」
「は、はい」
そううなずきかけて、ティースはふと考え直す。
少し声を潜めて、
「あの、俺にもなにか手伝えることはないですか?」
「ん?」
レイは少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに思案して、
「……なるほど。使えるかもしれんな」
――そして1時間後。
「……」
「どうした、ティース」
人のあふれる大通りにはようやく任務を終え、ミューティレイクへと戻る2人の姿があった。
さすがに長身のこの2人が並べば目立つ。しかも片方はいかにも精悍な旅人風、もう片方は身長の割に頼りない童顔と、アンバランスな組み合わせでなおさら目立っていた。
だが、どうやらこの組み合わせは、結果的に言えば今回の任務には不向きだったようで。
「結局……任務ってのはなんだったんですか」
やや憮然とした表情のティース。
一応尋ねてはみたものの、その表情からすると、彼の中ではすでに答えが出ていたようだ。
そしてレイの返答もまた、その彼の推測と寸分違わぬもので。
「残念ながらことごとく失敗だったな。お前の人の良さそうな顔は、初期段階の警戒心を取り除くのに有効かと思ったのだが」
「……結局、単なるナンパじゃないですかっ!」
だが、ティースの抗議にもレイは涼しい顔を返して、
「任務だなんて一言も言ってないだろ? 俺はただ標的――イイ女がお前の大声で逃げ出しちまうことを懸念しただけだ」
「……」
黙り込んだティースに、レイは軽く頭を掻きながら、
「ま、そう膨れるな。初日から気張ってもいいことないぞ」
「……」
どうやら彼の性格に関しては、ティースが思い描いていたものとは少々違っていたようである。
(はぁ……こんなので、本当に大丈夫なのかなぁ……)
そしていつものように、彼の心は不安で一杯になるのであった。
ネービスからは少し離れた、とある森の中。
――チャプ、チャプ。
満月の下、森はまるで水を打ったように静まり返っていた。普段、森を支配している獰猛な動物たちも、この日ばかりは息を潜め、物音ひとつ立てることはない。
――チャプ、チャプ。
そこに唯一響いているのは、かすかな水音だった。
森の奥にポツンと湧き出る小さな湖。射し込む月光が、その周囲だけを薄明かりで照らしている。
――チャプン。
たったひとつだけ、動くもの。
浮かび上がったのは――肌の色だった。
「……ふぅ」
それは人の姿をしている。スラリと伸びた足は染みひとつないほどに美しく、全身にタオルを巻いて湖を出た姿を見ると、性別に関しては女性だと断言して間違いなさそうだ。
頭をもう一枚のタオルで覆い、それでは収まりきらない水に濡れた長い髪が、月に照らされてキラキラと輝いている。
「……」
無言の瞳がタオルの奥からのぞいた。深い色のそれは穏やかに夜空を見上げると、満月を映してかすかに憂いを帯びる。
風が吹いて、草木がざわめいた。
「……様――」
誰かの名をつぶやいたその言葉は、折しも吹いた風にかき消されて。
「どこに……どこに、おられるのですか――?」
-了-




