その1『ティーサイト=アマルナ』
ネービス領の首都『学園都市』ネービス。
そこは大陸の盟主であるヴォルテスト領の首都『帝都』ヴォルテストに次ぐ大陸第2の都市との呼び声高い、学問と交易の街だ。
この街の構成は非常にわかりやすく、簡単にいえば北高南低のような形になっている。
まず中央には1本の大きな通りがあって、その最北端に領主であるネービス公やごくごく限られた大貴族たちの屋敷がある。その少し南にはこのネービスの象徴ともいえる『学園群』と、貴族たちの多く住む『高級住宅地』が広がっており、そのさらに南が普通の市民が住む『一般住宅地』というシンプルな構成だ。
あとはその周囲、街はずれともいうべき場所に一種のスラム街のようなものもあるが、他の街に比べればずっと規模が小さい。それは、この街がそれだけ裕福であるということの証明でもあるが――さて。
春の麗らかな陽気。
たくさんの人が訪れ、たくさんの人が交流する、ここネービスの昼下がり。活気にあふれ、威勢の良いかけ声や元気な子供たちの声が響き渡る中央大通り。まるでお祭りのような賑わいのそこから、ほんのちょっとだけ、静かな路地裏の方に視線を移してみることにしよう。
あれだけ騒がしかった街の喧噪が遠くなり、同じだけ降り注ぐはずの太陽の光も心なしか遠慮しているかような、そんな薄暗い路地裏。
「フゥーーッ!!」
「おー、よしよし。いい子だからおとなしくしてくれよー」
そこにふたつの影があった。
正確に言うと、ひとりと1匹の影。
――もう少しじっくり観察してみることにしよう。
片方は白と黒のまだら模様の服……ではなく、毛皮に身を包んだ、まん丸の目とちょっと長い尻尾と鋭い牙を持つ小型の獣。
それは俗に『ネコ』と呼ばれる、愛玩動物として飼われることもある類の獣だった。
黙っていればなかなかに愛らしいのだが、残念なことに彼(彼女?)は現在ご機嫌斜めのようで、毛をいっぱいに逆立て、威嚇するようにツメとキバをむき出しにしている。
「そーっと、そーっと……」
そしてもう片方。完全に戦闘モードのネコに対して手を伸ばすという、無謀としか思えない行為に及ぼうとしている男。
いや、少年。
……いや、男か。
その人物はなんとも年齢のわかりにくい外見をしていた。
――さらに細かく見ていくことにしよう。
まずは特に描写する必要も感じない『ごく普通』で『ごく平凡』な服装。センスの善し悪しを5段階で評価するならギリギリ及第点の2といったところか。背はかなり高く、成人男性の平均を10センチ以上は上回っている……が、若干猫背で体型はひょろっとしており、上背の割に威圧感というものをまったく感じない。
髪は中途半端な長さでそこそこキレイに整えられてはいた。
と、まあ。
とりあえずここまでの説明だと、中身はどうあれ成人したひとりの男性を思い浮かべるかもしれない。
しかしながら、視点を彼の顔面に向けたとき、再び首を傾げざるを得なくなるだろう。
まず最初に断っておくと、そこに乗っかっている顔は特別ハンサムではない。優しそうな印象が相手に多少の好感を与えることはあるかもしれないが、それ以外はごくごく平凡。決してブサイクということではないものの、少なくとも女性がひとめで恋に落ちるような外見ではなかった。
そして……そう。そんな彼の顔の特徴を一言で表す言葉がある。
それは『童顔』だ。
つまり彼は成人男性を大きく上回る身長と、まるで10代前半かのようにも見える幼い容姿をもった、年齢不詳の男性というわけだ。
「そーっと、そーっと……」
と、そんな説明している間に、彼の手がネコの警戒領域までに迫っていた。
ひとまずはこの成り行きを見守ることにしよう。
とはいえ、結末はそれなりに想像がつくだろうが――
「ふにゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「……ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!!!!」
――合掌。
「はい、こちらがお探しの子猫です……」
数分後。
先ほどの彼の姿は、とある一軒家の玄関先にあった。
「あー! ベテルギウスっ!!」
「にゃぁぁぁ……」
とりあえずの休戦協定でも結んだのか、おとなしく彼の腕に抱かれていた先ほどのネコは、幼い少女の声とともにそこから飛び下り、家の中へと入っていった。
状況から察するに、ベテルギウスという奇妙な名前のネコは、この家の飼い猫であったらしい。
そして、
「あらあら、すいませんねぇ」
その場にはもうひとり、どうやら少女の母親らしき人物がいた。
「大変でしたでしょう? あの子、家族以外にはなかなか懐かないものだから」
「あ、いえ。ははは、それほどでも……」
照れたように頭を掻く彼の顔は、誤魔化しようもないほどのひっかき傷でいっぱいだ。
母親の方もそれは承知しているようだったが、そこにはあえて突っ込むことはなく、
「それじゃあ、これがお約束の報酬です。たいした額ではないですけど」
「あ、いえ、そんなことは――あ、それと、またなにかございましたら……」
「ええ。そのときはまたあなたにお願いしますね」
母親はニッコリと微笑んでうなずいた。
「はい。よろしくお願いします」
嬉しそうにしながら勢いよく頭を下げて、そして彼は再び街の中へと戻っていくのだった。
――さて。
彼の仕事もどうやら一段落ついたようなので、ここいらで正式に彼――この話の主人公であるところのティースという人物について説明しておくとしよう。
『ティース』
たった今そう呼んだばかりだが、それは彼の本名ではない。いわゆる愛称だ。
彼の正式な名前はティーサイトという。ティーサイト=アマルナというのがフルネームであり、ティーサイトを略して『ティース』なのである。
年齢に関しては先ほど色々と説明したが、正確なところは1ヶ月ほど前に誕生日を迎えたばかりの18歳。この世界の常識に当てはめるなら充分に大人といっていいだろう。
つまり彼は、妙に背の高い少年などではなく、単に童顔な青年だというわけである。
「今月も不作だなぁ」
さて、先ほどの家を出たティースは、チクチクヒリヒリと痛む腕と顔面の傷を何度も撫でながら、昼下がりの中央通りを歩いていた。
手にしていたのは先ほどのお宅で入手した報酬。そこにあったのは小さな銀色の硬貨が3枚。
「生活、ヤバいかもなぁ……」
それがどのぐらいの価値かというと、10歳を越えた程度の子供が月にもらう小遣いと同じぐらい、といえば大体想像できるだろうか。
飼い主の家を飛び出した子猫を探して朝早くから街中を駆けずり回り、腕と顔にひっかき傷を作って――それに見合った報酬であるかどうかはまた微妙なところであった。
しかしまあ、彼がぼやいていたのは今回の報酬が少ないということに対してではない。『迷子の子猫探し』なんて仕事までこなさなくては生活していけないという、仕事そのものの不作を嘆いているのだ。
「傭兵っても、俺みたいに知名度が低いとこんなもんなんだよなぁ……」
傭兵。
それが彼の職業だ。
ここで頭にハテナマークが浮かんだなら、それはこの世界における知識が若干不足しているということなので、補足しておく必要があるだろう。
この世界でいうところの『傭兵』。それはわかりやすく言うと『なんでも屋』のことである。依頼主との間で取り交わした契約に基づき、報酬と引き換えに様々な仕事をこなしていく者。
それがこの大陸でいうところの傭兵。
子供の小遣い程度の報酬をもらって迷子の子猫探しをするような者でも、この大陸では傭兵と呼ばれるのである。
とはいっても。決してティースがそういう仕事しかできない人物だというわけではない。こう見えても彼は剣の腕にはそれなりに長けているし、警備とかそういう方面の仕事にだって適正があるのだ。
ただ――先ほど彼が自分でぼやいていたように、知名度の低い傭兵にはそれなりの小さな仕事しか入ってこないというだけの話。気楽そうに見えて、これでなかなかに競争の激しい業界なのだ。
「ふぅ……」
子猫の家を出てから何度目になるかわからないため息をついたティース。
とりあえず傭兵専門の仕事斡旋所に顔を出し、当然のように空振った彼は、太陽が空の中心から西の方角へ少し傾き始めたころ、自宅の前まで戻ってきていた。
ネービスの街の大半を占める一般住宅地。その中でも大通りから大きく離れ、比較的貧しい人々の住む閑散とした地域。そこにある若干みすぼらしい、古ぼけた平屋。
そこが彼の家だった。
見た目からして貧しそうに見えるが、実際に貧しいのだから是非もない。
そのドアに手を伸ばしかけて……ティースはふと思い出したようにつぶやいた。
「あぁ、あいつ今日は休みだっけ。家にいるかな……」
彼には親はなく、兄弟もない。もちろん結婚もしていないため、家族なんてものはひとりもいない。
ただ、このボロ家にひとり暮らしなのかといえば、そういうわけでもなかった。家族という言葉には決して当てはまらないが、一緒に暮らしている人物がいる。
「ただいま――」
そして彼がくたびれた様子でドアの取っ手に手をかけようとした、そのとき。
ガチャ。
「え……?」
いつも以上にボーっとしていたティース。
そして内側から勢いよく開かれた『外開きの』ドア。
――訪れた結末は、周囲の期待を寸分たりとも裏切らなかった。
ガンッ!!
「ぶっ!!!」
「……あら?」
同時に聞こえたのは怪訝そうな声。
透き通るような凛とした印象のその声は、顔を確認するまでもなく女性のもの。それも、おそらくは彼よりも年下であろう少女のものだった。
「ててて……」
尻もちをついて鼻面を押さえるティース。
ドアはゆっくりと開き、そして中から声の印象に違わぬひとりの少女が姿を現した。
「ティース?」
その少女は長い髪を後ろでまとめた、いわゆるポニーテールと呼ばれる髪型をしており、その髪はまるで水飴で出来ているかのように透き通った綺麗なブロンドだ。
身長は女性としてはだいたい平均ぐらいだが、この先も成長の余地を残しているのであれば、若干平均を超えることにはなるだろうか。
年齢は……どうだろう。
ポニーテールという少々子供っぽい髪型からは『少女』という表現の似合う――おそらくは13、14歳ぐらいであろうと推測できる。だが、ティースとは逆の意味で、彼女もまた、年齢を断言しにくい容姿をしていた。
それは――そう。
その、顔立ちだ。
それを一言で表現するなら、文句なしに『美少女』という言葉がピタリと当てはまるだろう。そしてさらに一言付け加えることが許されるなら、おそらくは『完璧な』としか表現のしようがない。
それはまるで凄腕の職人が持てる技術の粋を集めて作り上げた芸術品のような、冷たさすら感じさせるほどの美貌だった。
それが、おそらくは彼女を大人びて見せていて、実際の年齢をわかりづらくさせているのである。
「ティース。お前……一体なにをやってるの?」
凛とした少女の声。
口調も思った以上に大人びている……というより、かなり高圧的な色がある。その容姿の印象と合わせて、どうにも冷たい響きを感じてしまうのは仕方のないところか。
それに、彼女の言い様は客観的に見てもあんまりな物言いだった。
「な、なにをって――」
状況を見れば、なにがどうなってティースが地面に尻もちをついているのかなど、簡単に想像できそうなもので。
「いきなりドアを開けるから、顔をぶつけちまったんじゃないか……」
それを、身振り手振りを加えてわざわざ説明するティース。
だが、
「そんなことを聞いてるんじゃないわ」
少女は当然のようにそう言い放つと、あきれ顔で右手を腰に当てた。
「どうしてドアの前でぼーっと突っ立ってたのかを聞いてるのよ」
「いや、だからそれは、ぼーっとしてたんじゃなくてドアを開けようとして――」
しかしまあ、彼が考え事をしていて少々、いや、かなりぼーっとしていたこともまた事実だ。強く反論はできない。
「あら」
少女は特に興味もなさそうに言って、
「だったら普段からもう少し周囲に気を付けた方がいいわね。みんなお前みたいにのんびりしてるとは限らないんだし」
そのまま彼の横を素通りしていく。
「あ、あのなあ」
そんな彼女の態度に、当然のように彼は不満の声を上げた。
「そりゃ多少はぼーっとしてたかもしれないけど、ちょっとぐらい謝ってくれたって――」
「謝る?」
彼の主張は特に常識を逸したものではなかったはずだが、少女は振り返った途端に形の良い眉をひそめた。
「私が? お前に? なぜ?」
「……い、いや、いいよ」
そんな彼女の前では、ティースはあっさりと引き下がる以外のすべを持っていなかった。
……そういう関係だった。
「で、一体どこに行くんだ?」
気を取り直したようにそう尋ねるティース。
よく見ると、少女は外出用の服を着ているようだ。平々凡々なティースに比べ、彼女の服装はなかなかに洗練されており、完璧な容姿と相まってどこか高貴な――いやむしろ神秘的な印象さえ感じる。
「どこって」
少女はおもしろくもなさそうにティースを見ると、風で少々乱れた前髪を直しながら答えた。
「決まってるわ。デートよ」
「……デート?」
ティースは怪訝そうに返したものの、それは特に珍しいことではない。特にここ1年ほど、彼女は恋人との――ティースはまだ会ったことも見たこともないのだが――デートによく出掛けている。
ただ、
「それはいいんだけどさ。勉強の方は大丈夫なのか? 最近遊んでばかりでちっとも――」
「……なに?」
彼が心配して言いかけたところへ、少し不機嫌そうな声が重なった。
「落第だってしてないし、ちゃんと進級してるじゃないの」
「そ、そりゃそうだけどさ……成績のこともぜんぜん教えてくれないから俺だって気になって……」
ティースが言い淀むと、彼女はさらに不機嫌になった。
髪を押さえていた右手がそのまま、ポニーテールの根元についた質素な髪飾りへと移動する。
「お前に言われなくてもやることはきちんとやってるわ。余計な口出しはしないで」
「そ、そんな言い方しなくたっていいじゃないか」
その剣幕に少したじろぎながらも、やっとの思いで反論するティース。だが、少女は彼の言葉をまるで無視すると、不機嫌そうに鼻を鳴らして、
「とにかく留守番は任せたわよ。今日は少し遅くなるから」
「……。わかった」
情けないことに、彼はただ黙ってうなずくしかなかった。
口ゲンカになったとしても勝てる見込みはなかったし、確かに彼女は少なくとも落第はしていないようだ。最低限のことをこなしている以上、遊んでいるからといってケンカをしてまで彼女を止める理由にはならなかったのである。
「……」
そんなティースの態度に少女はもう一度、眉をひそめた。右手はまだ髪飾りに添えられたまま。それをイジるのは彼女の機嫌が悪いときのクセだった。
「他に言うことは?」
「ああ……行ってらっしゃい。気を付けて」
「ええ」
少女はひとつうなずくと、透き通るようなブロンドのポニーテールを揺らして、その後は一度も振り返ることなく街の中へと消えていったのだった。
「……やれやれ。シーラの奴、デートだなんてのんきなもんだよな」
先ほど手にしたいくばくかの硬貨を金庫――というより貯金箱にしまって、無人の部屋でゴロンと横になる。
そしてティースはひとり、愚痴の続きをもらしていた。
「そろそろ貯金も心もとなくなってきたなぁ……」
外観からも想像できる通り、この家の中はそれほど広くはない。リビングとキッチンが一緒になったこの部屋と、他には個室がひとつあるだけだ。
ここの住人はティースと先ほどの少女だけなので、決して手狭というわけではないが、夫婦ならざる彼らのこと、たったひとつの部屋は少女に完全占拠されており、当然のごとく進入不可のお達しがでている。
だから実質、彼にとっての生活空間はこのリビングだけであり、プライバシーなんてあって無きような生活を強いられているのだ。
……そうそう。
話を先に進めるにおいては、先ほどの少女のことをもう少し説明しておいた方がいいだろうか。
ティースが先ほどちょこっと口にしたように、彼女の名はシーラという。フルネームはシーラ=スノーフォール。
この学園都市でも古い歴史のある『サンタニア学園』の薬草学科に通う学徒で、年齢は14歳。1ヶ月後の誕生日を迎えて15歳になる。
つまり彼女は、ティースより3歳と2ヶ月ほど年下の、多少大人びた外見を持つ、こちらは大人というにはまだ若干早い気のする少女だった。
さて、そうなるともうひとつの疑問が出てくるかと思う。
つまり、ファミリーネームからも明らかなように、家族というわけでも夫婦というわけでもない彼らが、こうしてひとつ屋根の下で暮らしている理由である。
が、それはここではひとまず置いておこう。
もちろん本来ならばきちんと説明すべきことではあるが、今のところは『幼きころからの浅からぬ因縁ゆえ』という程度で記憶の片隅に片付けておいてもらいたい。
とにかくそんな因縁ゆえにティースは彼女と共に暮らしており、ついでに彼女の学費や生活費までそのすべてを稼ぎ出しているという、けなげな勤労青年なのである。
で、そんな彼に対し、一方の彼女はといえば。
「昔は結構マジメに勉強してたはずなのになぁ……」
とまあ、そんなボヤキを聞けば大体想像はつくだろう。
彼女は現在、薬草学科の三回生になったばかり。ここまでは落第することもなく順調に来てはいるようだが、本人が成績のことに触れられたがないことから考えて、落第ギリギリなのではないかとティースは踏んでいる。
とはいえ、彼女の通うサンタニア学園は、本来なら帰宅してからも懸命に勉強するぐらいでなければ進級することもままならないハイレベルな学園である。今日みたいに遊び回っている彼女のことを考えれば、進級できているだけで奇跡ともいえるだろう。
それに彼女には薬師としての天性の才能でもあるのか、ときおり作ってみせる自作の風邪薬や強壮薬といったものが、そこらの市販の薬よりずっと優れていることをティースは身をもって知らされている。
そんな事情もあって、彼女の学業に対しては多くを口出しすることができずにいるのだ。
「……にしても、遅くなる、か」
ゴロンと寝返りを打ったティース。少しだけ心配そうな様子がその声色から見て取れる。
いくら遊び回っているとはいっても、彼女は夜遊びをまったくしないタイプだから、今日のように遅くなると断っていくことは珍しい、というかおそらくは初めてのことだった。
「どのぐらい遅くなるのかな……晩飯はどうすんだろ」
つぶやいたところで答えが返ってくるはずもない。
デートなんだから食べてくると考えるのが普通だが、そう思って用意しないでいると食べてこないで帰ってきたりして、結局は彼が怒られるのである。
聞かなかった彼を責めるべきか、あるいは断っていかない彼女を責めるべきか、難しいところだ。
ただ、万人の意見がどうであれ、現実は彼が責められると決まっている。
「ふぅ……」
そして、どことなく気だるい空気の中。意味もなく何度目かの寝返りを打つティース。
うつらうつらとしているうちに、外はいつの間にか赤く染まりはじめていた。
……と。
「ん……?」
突然顔を上げ、上半身を起こしたティース。
「なんの……音だ?」
そのつぶやきは、彼の耳がなんらかの異音を捕らえたことを示していた。
強めの風にガタガタ、ガタガタと揺れる窓。
夕暮れを告げるカラスの鳴き声。
はるか遠くに聞こえる中央大通りの喧噪。
――それとは違う、ごく近くで聞こえた異音。
「!」
それに気付いたティースはすぐに周囲を見渡した。
視線の止まった先は、毎日寝起きしているベッドの脇にあったひと振りの剣。
一応、護衛というような仕事も請け負うタイプの傭兵である彼は、外見に似合わず小さいころからその道をたしなんでおり、腕にもそれなりの覚えがあった。だからこそ、自らの耳に届いた異音がの正体もすぐに察したのだ。
(金属音……! 刃の擦り合う音だ……!)
剣を手に取り、留め具を外していつでも引き抜ける状態にすると、ティースはすぐさま家を飛び出して行った。
外に出た途端、冷たさを増した強めの風が彼の体に吹きつけてくる。
……異音の発生源はすぐ近く。閑散とした辺りはこの時間になると人通りも少なく、しんと静まり返っている。
ケンカか、あるいは事件か。
(どっちにしても……放っておくわけにはいかない!)
彼の思考が一瞬でその結論に達したのは、彼の人格に因るところが大きい。
一言で言うところの『お人好し』。
彼はそういう人物だ。
それに――それがすぐ近くで起こっている以上、彼の同居人である少女が巻き込まれていないとも言い切れない。
彼が家を飛び出したのは、いわば必然のことだった。
(近い……っ!!)
角を何度か曲がり、殺伐とした空気が近づいてくるのをティースは肌で感じていた。
左手を鞘に。右手を柄に添え、いつでも引き抜ける状態にした。
そして――。
(……!!)
そこに展開していた光景は予想に違わぬものだった。
夕日にきらめく刃の輝きが5つ。
状況は……どうやら4対1。
全身に黒いフードをかぶった、いかにもな風体の人物が4人と、それらと対峙する黒髪で細身の男。
「……やめろぉっ!!」
彼の頭は瞬時に判断した。
――数の多い方が悪! と。
いや、たとえそれが間違っていたにしても一向に構わなかった。彼の目的はとにかく争いを止めることであり、そのためには劣勢にある方を助ける必要があったのだから。
「!」
争っていた5人はいずれも突然の闖入者に驚いた。
確かにここは住宅街であり、誰かが目撃していてもおかしくはない。だが、ほとんどの住人は自分の身を守るために関与すまいとするはずだし、正義感の強い人間でもせいぜい警邏隊を呼びに行くぐらいのものだろう。そして大半の人間にとってはそれが完璧に正しい判断だ。
だからこそ、こんなにも早く横やりが入るなんて、どちらの勢力も想像していなかったのである。
「っ……危ない! 君! 逃げるんだっ!」
そう叫んだのは、4人を相手にしていた黒髪の男だった。
そして、それに反応したかのように、集団の方――4人のうちのひとりがティースの方へ刃の切っ先を向けてくる。
判断するまでもなく、ティースの戦うべき相手は定められてしまったようだった。
(くっ……!)
考える間もなくティースは抜刀した。
刃先が鞘をこする。
手入れ以外では数ヶ月ぶりに日の光を浴びた彼の剣は、まるで水に濡れたかのような瑞々しい刀身を煌めかせ、空気を切り裂くような小気味よい音を立ててその姿を現した。
それは彼に似合わない――というと可哀想だが、ひと目見ただけで名剣とわかる逸品だった。
「さぁ……来い!」
その場に足を止め、相手を迎え撃つ体勢を整える。
だが、
「……えっ!?」
その直後の展開に、ティースはいきなり度肝を抜かれた。
「はっ、はや……っ!?」
まだ10メートル近く先にいるはずの――常識から相手の速度を計算した上ではそのはずだった――敵が、早くも剣の届く範囲にまで迫っていたのだ。
「っ……!!」
ほとんど反射的に、両手で握った剣を相手の剣筋に合わせる。
キィィィィン…………
「くぅぅぅぅぅ……っ!!!」
予想外の剣圧がティースの両腕を襲った。
続けて、2撃、3撃。
「っ……! くそっ……!」
予測をはるかに超越した敵のパワーとスピードに、ティースはアッという間に追い込まれていた。
(なんだこいつ……ハンパじゃなく強い!!)
背筋を冷たいものが走り抜ける。
と同時に、早くも後悔した。
安っぽい正義感なんかで考えなしに飛び出して来るんじゃなかった――と。
それは紛れもなく、本物の殺し合いだった。
「くっ……!」
黒髪の男も3人を相手に見事に戦っていたが、ティースの方を気に掛けるほどの余裕はない。
チッ……キィンッ……!
刀身がこすれ合い、弾き合い。ティースの足は少しずつ後ろへ下がっていく。
嫌な汗が止まらなかった。
恐怖が全身を駆け抜ける。
(……殺されるっ!)
相手の技量……というより、ズバ抜けた身体能力は、彼がこれまで剣を合わせてきた数少ない相手の誰よりも圧倒的に優れていた。
ここまでの強さは未だかつて一度も感じたことがない。
――いや。
ただ、ひとりを除いて。
「!!」
剣が大きく弾かれる。
敵の視界の中、ティースの胴体がガラ空きとなった。
(っ!)
思考が停止する。
と同時に、彼の体中は燃えるように熱くなった。
スローモーションのように。
敵の切っ先が胴体に迫る。
(斬られる――っ!!?)
そして。
脳裏の奥がチカチカとフラッシュバックした――
――そいつは勝利を確信していた。
相手は多少剣の腕に覚えがあるようだったが、しょせんはただの人間。
敵うはずがない、と。
視界に大きく広がった、無防備な相手の胴体。そこに一撃を加え、自分は早く向こうに加勢しなければならなかった。
向こうは3人がかり。おそらくそれでも楽にはいかないはずだったから。
あいつを早く始末して。そしてその後ろで守られている『彼女』を殺さなければ、彼らの目的は達せられなかった。
鋭い一撃が目の前の胴体に吸い込まれる。
そして、手首に感じるわずかな手応え。
剣が相手の胴体を切り裂く感触。
……とらえた!
そいつは口元に笑みを浮かべ、そのまま肉を裂き、骨を砕き、確実に致命傷となる一撃を相手に与える。
いや。
そのはず――、だった。
「っ……?」
驚愕したのは一瞬。
剣は確実に相手を捉えたはずだ。
実際、切っ先には今も敵の姿が――なかった。
「!!?」
消えた。
その状況を、そいつの脳はそうとしか判断できなかった。
いや、たとえ第三者がその場面を見ていたとしても、おそらく同じ判定を下しただろう。
消えた――と。
一瞬の出来事。
そして、まるで止まったかのように思えたそいつの世界は。
――風を切り裂く音。
――続く金属音。
――剣を持つ腕を襲う振動。
そして、みぞおちを襲った鋭い衝撃を最後に途絶えた。
「はぁ……っ! はぁ……っ!!」
ガタガタ。
ガタガタと。
その体は両腕も両足も、言うことをきかないほどに震えていた。
嫌な汗で衣服がベッタリと背中に張り付いている。
耳の奥がキンキン鳴って痛む。
明らかに過剰な血液が頭の中に集まっているようだった。
「はぁっ……はぁっ……!」
そんな彼――ティースの視線の先にあるのは、地面に突っ伏す黒いフードの人物。
剣の柄でみぞおちに加えた一撃は、普通の人間なら血ヘドを吐くほどに強烈な一撃だった。手加減をする余裕など、彼にはなかったのだ。
とにかく夢中だった。
どうやって敵の攻撃をかわし。
どうやって敵の剣を弾き飛ばし。
そして、どうやって懐に入り込んだのかも記憶にない。
混乱の極み。これほどまでに死を意識した戦いはティースにとって初めての経験だったのだ。
「はぁっ……ふぅっ……」
少し息が落ち着いてから、胸のチクチクした痛みに気付いた彼は、衣服が少し切り裂かれ、軽く血が滲んでいるのにようやく気付いた。
(斬られた……のか)
だが、それはごく軽傷。衣服と薄皮を切り裂いたに過ぎないようだ。
「ふぅ……」
ようやくひと息ついて、
「そういえば……!」
色と音を取り戻し始めた五感が、現在の状況を再び彼に思い出させた。
ハッとして振り返ると、やはり戦いはまだ終わっていない。
(……どうする!?)
落ち着きを取り戻した頭に、再び血が上り始める。
状況の再確認。
向こうは3対1。
――いや。
今まで気付かなかったが、戦っている4人の他にもうひとりの人物がいた。
(あれは……女の子?)
黒髪の男の背後に、それに守られるようにたたずむひとりの少女。あまり目にする機会もないような上質な洋服に身を包み、手には豪華な装飾を施された80センチほどのステッキを手にしていた。
……それ以上の観察は後に回して、ティースはすぐに行動に移した。
あの少女はどうやら高貴な家の娘であり。
狙われているのは間違いなく彼女であり。
そしてそれを守るように戦う黒髪の男は、3人を相手にしながらその場からほとんど動くことなく、それでいて互角以上に戦っているということ。
(……ならっ!!)
ティースは駆けた。
向こうで剣を交えている4人は、こちらがすでに戦いを終えたことに気付いていない様子だった。
「君! こっちにっ!!」
「!」
「!?」
少女の視線がティースを見た。
同時に黒髪の男と、黒いフードの人物もそれに気付く。
「……」
どうやらティースの意図を察したらしく、少女は迷うことなく地面を蹴った。
黒髪の男の背後から抜け出し、ティースの方へ。
「!」
当然のように、敵のひとりがそれを狙う。
だが、少女に向かって伸びた剣は、直前で遮られることになった。
「こ……のぉっ!!!」
ティースが渾身の力を込めて、敵の剣を弾いたのだ。
慌てていたのか、敵の一撃にはそれほどの力はなく……そして続く攻撃。
――いや。それがティースを襲うことはなかった。
その前に、敵の背中から赤黒い血が吹き出したのだ。
「え……」
剣を構えたままのティースの視界に映ったのは、流れるようにその背後を通り過ぎた、黒髪の男の影。
その口元は、戦いの最中にありながら微かな笑みをティースに向けていた。
そして、驚いたのも束の間。
状況はさらにめまぐるしく展開して。
「あ……」
残った2人の敵は敗北を悟ったのか、すでに彼らに背を見せていたのであった――。