その6『意志を継ぐ者』
ミューティレイク邸はその日の朝、いつもと少しだけ違う雰囲気だった。
「なにかしら……?」
その日、いつものように自室で朝食を終えたシーラは、学園が休みだったこともあり、書庫へ向かおうと階段を下りていた。
かすかな違和感を覚えたのはそのときである。
そして彼女はその要因――見知った使用人の少女、フィリスが、玄関ホールでほんの少しだけ青ざめて、目の前にいるひとりの少女に何事か問いかけている光景を目にしたのだった。
「それは……間違いないんですか?」
「まだ情報が混乱してるからわかんないけど、ほぼ間違いないみたい」
そこにいたのもやはりシーラが知っている少女。いつものラフな格好ではなく、まるでアオイのような正装を身につけたリディアだった。
「……」
その近くを通るときに少しだけ耳を傾けたが、シーラはすぐに自分には関係のないことだと判断して通り過ぎる。
……と、そのとき。
「どうも、ティースさんの方もひどいみたいで――」
「……」
「――あ」
振り返ったシーラと、リディアの視線が交錯した。
「……シーラさん、いたんだ」
どうやら彼女はシーラの存在にまったく気付いていなかったらしい。
「なに? ティースがどうかしたの?」
「あ、えっと……待った、シーラさん。まだ確実な情報じゃないから――」
手を振ったリディアは慌てているというほどではなかったが、その態度は確かに不自然だった。
シーラは眉をひそめて視線を鋭くすると彼女に向き直り、有無を言わさぬ口調で言った。
「いいから答えなさい、リディア」
「あ、あの……」
その後ろでフィリスが遠慮がちに口を挟んでくる。
「シーラ様。それについては後で、正確な情報を――」
「黙りなさい。私はリディアに尋ねているのよ」
「は……はぃ……」
その剣幕にフィリスは怯えたように口をつぐんだ。
これでも彼女はシーラと同い年――産まれた日付で言えば若干年上なぐらいだったが、どうやら性格上、彼女に太刀打ちするのは不可能なようである。
「……うん」
やがて、リディアは観念したような表情をすると、
「わかったよ。あ、フィリスさんは仕事に戻ってて。あたしが説明するから」
「は、はい……」
フィリスが去って、リディアは改めてシーラに向き直る。
「まず先に言っておくけど、これはまだ正確な情報じゃないかんね」
「ええ、構わないわ」
うなずいて即答したシーラに、リディアは言葉を続けた。
ことさらに淡々と。
「少し聞こえたかもしれないけど、あたしが聞いた限りだと、どうもティースさんとサイラスさんが、魔と戦って大怪我をしたらしくて」
シーラの眉が少しだけ動く。
「大怪我というのは、どの程度?」
「詳しいことはわかんない。でも、大怪我ってことはヘタしたら生死をさまようぐらいだと思う」
「……」
そのときシーラの表情を過ぎったのは、紛れもない不安の色だ。それがティースの生死に関しての不安だったのか、それともまったく別のものだったのか、リディアには判断できなかった。
そしてすぐに付け加える。
「あくまで未確認情報だかんね。……あ、あたしが話したってことは内緒だよ。本当ならディバーナ・ロウに深く関わってる人しかまだ聞いちゃダメな話だか――……ちょっとシーラさん? 聞こえてる?」
「え……ああ」
床の一点を見つめて考え込むようにしていたシーラだったが、その呼びかけにすぐ我に返ると、
「ええ、わかったわ。悪かったわね、リディア。無理に聞いたりして」
「うん。ま、シーラさんは関係者みたいなものだしね。何度も言うけど未確認情報だかんね」
「気を遣わなくても大丈夫よ」
口調はいつものまま、シーラはその端正な顔をわずかに緩め、静かに微笑んだ。
「別にショックを受けているわけじゃないわ。こうなる可能性があるのは、最初からわかっていたことだもの」
「……」
無言のリディアに背を向けて、シーラは階段を上っていく。
背筋を伸ばして凛とした姿はまるでいつもと変わらないように見えたが、そんな後ろ姿にリディアはため息を吐くと、そっとつぶやいた。
「……笑い方、前と全然違うんじゃん」
そのまま彼女は執務室の方へと足を向けていく。
そして、
「ああ、フィリスさん。ちょうど良かった」
途中、どうやら遠巻きに様子をうかがっていたらしいフィリスとはち合わせたリディアは、彼女を呼び止めて、
「さっきの言葉撤回。悪いんだけど今日は仕事は適当でいいから、それとなくシーラさんの様子を見ててくれないかな?」
「え?」
きょとんとした顔のフィリスに、リディアは詳しい説明をすることはなく、
「あたしの思い過ごしだとは思うんだけどね。あの人、もしかしたらとんでもない『つむじ曲がり』かも」
「? あの……それはどういうことですか?」
「いいからいいから。今日はどうせあたしがファナさんにずっとついてるし、仕事ほっぽっといていいから、お願い」
「はあ……」
それでも文句を言うことなく、フィリスはうなずいた。
満足してリディアは再び歩みを再開する。
新しい情報が入っていないかを確認するために。
(2人とも無事なのが一番だけど……)
この、屋敷にただよう重苦しい雰囲気にだけは、さすがのリディアもいまだに慣れることができなかった。
ティースが目を覚ましたとき、最初にその視界に入ったのは薄明かりに照らされた天井だった。
「う……」
口から自然とうめき声がもれ、そばにいたフローラがそれに気付く。
「ティースくん? 大丈夫?」
「こ……こは……?」
ティースの頭の中はまだ混濁としており、状況を把握できていない。
「フローラさん……?」
ベッドの横にいたフローラに気付き、そしてティースはゆっくりと室内を見渡した。
そこは見覚えのある――彼がこの村にやってきて床を借りていた家である。外は雲に覆われて時間がわかりにくかったが、早朝というには遅く、昼というには少々早いぐらいの時間だろうか。
そしてティースは、自らの肩に巻かれた包帯、そしてそこを襲う断続的な痛みに自分の状況を思い出していた。
「つっ……フローラさん、あれから……いったいどうなったんですか……?」
「無茶なさらないでください」
体を起こそうとするティースを押しとどめ、フローラは静かに答えた。
「心配ないですわよ……例の魔は隊長が退治してくださいましたから」
「そう……ですか……」
その事実に安心し、ティースは再び体を布団に預ける。
(さすが……隊長だ)
サイラスですら太刀打ちできなかったあの魔を倒してしまったのだ。やはりデビルバスターの名は伊達ではないと、ティースは改めて感心していた。
(俺も、もっと強くならなきゃな……)
カタカタという音は、フローラが手元でなにかをかき混ぜている音だった。かすかに青臭い匂いがするところから、どうもティースのために薬を作っているらしい。
肩の痛みは決して軽くはなかったが、ひとまずすべてが落着したということにティースは安堵の息を吐いて、それから改めてフローラに質問する。
「そういやサイラスの奴は? もう目覚めてるんですか?」
「……」
フローラは無言のまま、ティースではなく後ろを振り返った。ちょうど玄関から聞こえた音は、どうやら誰かがこの家に入ってきた音らしい。
「フローラさん?」
「ええ……そうですわね」
フローラは改めてティースの方に向き直ると、膝の上に手を重ね、背筋を伸ばし、眼鏡の位置を軽く直して、そして言った。
あまりにも、あっさりとした口調で。
「サイラスくんは今朝方、亡くなられましたわ」
「……え?」
その一瞬、ティースの思考は停止した。
『亡くなった』。
その言葉が耳の奥で止まり、そこでずっと燻っているような感覚――
だが、それには構わずにフローラの言葉は続いた。
「手は尽くしましたが、胸に近い肩の傷も、太股の傷もあまりに深く、出血が多すぎてどうにもできない状態――」
「ちょっ……ちょっと待ってよ、フローラさん!」
淡々と続いたフローラの言葉は、まるで冗談のようにティースには聞こえていた。
「やめてくれよ、そんな縁起でもない冗談――」
「冗談? ……冗談ですって?」
空気が止まった。
そして一瞬の後、それが突然に弾ける。
「冗談で……冗談なんかで、こんなことが言えるわけないでしょうッ!」
「っ!?」
叫んだフローラの語尾が、かすかに歪んで乱れた。
そして、それまで淡々としていたのが錯覚ではないかと思うほどに、その目から涙があふれ始める。
「私にはどうにもできなかった! だって仕方ないでしょう!? どうにもできない状態だったの! ただ見ているしか……彼の命が手の平からこぼれていくのを、見ているだけしかできなかったんだからっ!!」
「――」
「どうしようも……なかったんだから……!」
ティースは呆然とした。震えるフローラの手から木製のすりこぎが落ちて、床に乾いた音を立てる。
「っ……うっ……!」
口に手を当て、そして糸が切れるようにフローラは泣き崩れた。
「フローラ……さん」
「……」
その向こう。
部屋の入り口には、レアスの姿があった。
その表情はいつも通り――いや、いつにも増して厳しく、そしてフローラを見つめる目にはかすかな哀しみの感情が浮かんでいる。
それは――もはや疑う必要のないことではあったが、フローラの言葉が真実であることを嫌というほどティースに実感させていた。
「隊長……」
「今、サイラスの遺体を埋葬してきたところだ。てめえもあとで行ってやりゃいい。……フローラ。あんたはそろそろ体を休めた方がいいんじゃねえか?」
「……!」
フローラは泣き顔を伏せたまま、レアスに背中を叩かれ、足取りも頼りなく部屋を出ていく。
だがその泣き声は、いつまでもティースの耳の中に残ったままだった。
「サイラスが……死んだ……?」
それはティースには到底信じられないことだった。
だが、この重苦しい沈黙。そしてレアスの表情も、フローラの涙も、そのすべてが疑いようもない真実を告げていた。
そして歩み寄ったレアスが、トドメの一言を発する。
「冗談でも夢でもねえ。あいつが死んだのは紛れもない事実だ」
「そんな……だってあいつが死ぬはずが――」
自然と声が震え、肩を打ち振るわせ、そして直後、
「死ぬはず、ない……」
ティースの目にも熱いものがこみ上げて、頬を流れた。
同時に彼を襲ったのは、限りない後悔だ。
「……俺だ。俺があいつを助けられなかったから……俺が考えもなしに森になんて入り込んだから――!」
パァン!!!
「っ!」
直後、甲高い音が部屋に響いた。
ティースは自らの頬を襲う痛みを覚え、そしてようやく自分がレアスの平手打ちを喰らったのだと認識する。
「隊長……?」
彼はティースを思いっきりにらみ付けていた。
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ、ティース。てめえに責任なんかあるもんかよ」
「隊長……だって、俺――」
涙目のまま呆然とするティースに、レアスは吐き捨てるように言い放った。
「あぁ? だったらなにか? サイラスはてめえごときにそそのかされて、てめえの意志に流されて、それで命を落としたって言いてえのか? ……違うだろうがッ!!」
「!」
「あいつはそんな意志の弱ぇ奴じゃねえ! あいつはあいつの意志で助けに行った! あいつの信念で助けに行って命を落としたんだ! ……違うのかよ!!」
「……」
確かに事実はレアスの言うとおりだった。
だが――
「けど……俺はあいつなら大丈夫だって、止めることもしないで、それどころか喜んでついて行ったんだ……だから!」
「……はっ。てめえが止めたところで、あいつが立ち止まるかよ。あいつにはものすげえ信念があった。てめえごときに止められるもんかよ。……力ずくででもあいつを止められたのは、この俺だけだ」
「……」
一瞬、レアスの表情が歪んだようにティースには思えた。
だが、それはほんの一瞬の間。
レアスは唇を噛みしめ、そして続けた。
「……ティース。てめえが自分を責めるだけなら、んなもんはてめえの勝手だがな。それは同時にあいつの行動を、あいつの信念を、あいつの意志を侮辱する行為だ。それは絶対に許さねえ」
「あいつの……意志……」
「命令違反は命令違反だ。それはてめえに償ってもらう。けど、サイラスのことはあいつ自身と、そして隊長である俺だけの責任だ。……繰り返すぞ、ティース」
最後に、レアスの指先がティースの眼前に突きつけられた。
「以後、てめえがあいつのことで自分を責めるのは、あいつの意志を侮辱する行為だ」
「……」
(あいつの……意志――)
背中を見せ、遠ざかっていくレアスの姿を眺めながら、ティースはその言葉を頭の中で繰り返していた。
彼の持っていた意志。
魔に脅かされる人をひとりでも多く救いたい――
(……サイラス)
目の奥からは新しい涙があふれていたが、それは先ほどまでとは少しだけ意味が異なっていた。
後悔ではなく、純粋な悲しみの涙。
……ほんの短い間。それでもティースにとっては憧れ、そして共に同じ道を目指したいと思った友人の死。それは彼にとって、涙を流さずにはいられない出来事だったから。
(サイラス、俺――)
痛む体を押して、フラつきそうになる足を壁に手を当てることで支え、初老夫妻の協力を丁重に断って、ティースは外へと出ていく。
今にも泣き出しそうな空の下、サイラスの墓は、彼が助けようとした少女のものと並ぶように作られていた。
「身寄りがない方とのことだったので、娘のものと一緒に、私たちが守っていこうと思うのです。……よろしかったでしょうか?」
そこにたたずんでいた村長夫妻も、同じように目を赤く腫らしている。
ティースは彼らを見て、そしてうなずいた。
「ええ……彼も喜ぶと思います」
墓を飾っていたのは、数本の硝子花。決して墓に添えるような種類の花ではなかったが、それでも、それを飾った村長たちの気持ちはティースにも理解できる。
目を閉じて、ティースは2つの墓の前に膝をついた。
まぶたの奥から、再び涙がこみ上げてくる。
ゆっくりとその口が開いた。
「サイラス、俺は――」
そして冷たく吹きすさぶ風が、彼の決意を乗せて運んでいく。
空の向こう側へと――
ディバーナ・カノンがミューティレイク邸へ戻ったのは、それから2日後のことだった。
サイラスの訃報はひと足先に屋敷に伝わっており、悲しむ者はすでに涙を流し終え、ひとまず――表面上は重苦しい空気が収まりかけている、そんなミューティレイク邸、別館の執務室。
そこには4つの人影がある。
「報告ご苦労様です、レアスくん。この後はゆっくり体を休めてください」
「ああ」
ディバーナ・カノンの隊長、レアス=ヴォルクスはたった今、その総帥であるファナ=ミューティレイクに報告を終えたところだ。アオイの承認の言葉を受けて、レアスは退室していく。
それでこの件に関してはすべて終わり……のはずだった。
だが、
「さて、ティースさん」
その部屋にはファナとアオイの他に、もうひとり残っていた。
「……」
少し強ばった表情で立っていたのは、いわずとしれたティースである。肩には包帯を巻いたまま、体中には治療の跡が残っているが、ひとまず歩くのに支障ない状態までは回復していた。
レアスとともにここに呼び出された理由を彼はまだ聞いていない。命令違反についての処分があるのかと思っていたのだが、どうもファナたちの態度はそんな雰囲気でもなかった。
「ティースさんを呼んだのは他でも――」
「アオイさん」
言いかけたアオイを、ファナの言葉がさえぎった。
「それについては私の方からお伝えしますわ。……ティースさん?」
「……」
直立のまま、ティースは机の向こうのファナを見た。
そんな態度に、ファナはそっと微笑んで、
「もっとリラックスなさってください。それではまるで、これから処罰を受ける方みたいですわ」
「?」
その言葉に、ティースは少しだけ驚きに目を開いて、
「……違うの?」
逆にファナが不思議そうな顔をする。
「どうして私が、ティースさんを処罰しなければならないのですか?」
「え……だって隊長がさっき言っていたように、俺は命令無視をして……その罰があるのかなって」
「それはレアスさんがお決めになることですわ」
微笑んだまま、ファナは机の上に乗っていた1枚の紙切れを手に取った。
「今回お呼びしたのは、ティースさんにお渡ししなくてはならないものがあるからです」
「?」
「その前に、お話しなくてはなりませんね。……ティースさんは、出発前に遺書を書かれたことを覚えておりますか?」
「あ、うん。そりゃ……」
ティースの答えにうなずいて、ファナは手にした紙切れに視線を落とした。
いつもの暖かな声色が、ほんのわずかに陰を帯びる。
「残念なことに、今回はサイラスさんが命を落とされてしまいました。ですから、私は彼の遺書を開きこうして手にしています」
「……あ」
サイラスの遺書。
それをティースは少し複雑な表情で見つめていた。
……遺書を残す相手がいない、と、そう口にしていた彼の姿が浮かぶ。
そして、ファナは言った。
「ティースさん。……サイラスさんの遺書には、あなたとシーラさんに関することが書かれておりました。ですからこうしてお呼びしたのです」
「……え? 俺と……シーラ?」
まるで彼と接点のないシーラの名前が出てきて、ティースは困惑する。
「要点だけお伝えしますわ」
そう言ってファナは遺書を広げると、ゆっくりと続けた。
「願いは2つ。ひとつには、シーラ=スノーフォールが卒業するまでの学費の面倒を見て欲しいということ」
「……?」
一瞬覚えたティースの疑問は、続いたファナの言葉ですべて消え失せる。
「ふたつには、ティーサイト=アマルナを解雇し、別の仕事を世話して欲しい……ということです」
「あ……」
その言葉の意味は、ティースには容易に理解できた。
「……あいつ――」
それは本気の願いだったのか、あるいはいつものように冗談混じりに書いたことだったのか。
ただ、どちらにしても、彼がそれを書いて遺したことだけは紛れもない事実だった。
「私はこの願いを叶えて差し上げたいと思っています」
その言葉に、ティースは少し慌てて、
「ま、待ってくれ、ファナさ――」
「ですが」
すぐにファナは付け加えた。
真剣に、ティースの顔をまっすぐに見つめて、
「もちろん、こういうことに関しては本人の意思が一番大切です。ですから、あとはティースさんのお気持ち次第ですわ」
2組の視線がティースの返答を待っていた。
「……」
ティースは視線を落として考える。
確かにティースがここに来たのは、シーラの学費を稼ぐためだった。そしてサイラスがああいった遺言を残した以上、彼がここにいる理由はなくなったと言える。
今まで通り、細々とした傭兵の仕事をこなすだけでも、少なくともシーラを卒業させることはできるのだから。
だが、
「それは――」
それでも、ティースの答えはとっくに決まっていた。
「……ティース」
ティースが執務室を出ていくと、シーラがまるで彼が出てくるのを待ち伏せていたかのように――いや、実際に待ち伏せていたのだろう。扉の前に立っていた。
「シーラ?」
ティースは戸惑った。
なぜなら、ここに来てからというもの、彼女が自ら彼に会いに来たことなど、出発のあの日を除いて他になかったのだから。
「どうしたんだ、一体……」
そう尋ねたティースに、シーラは少しだけためらって視線を泳がせた。
だが、すぐに決心したように再び彼を見て、そして驚くべき言葉を口にする。
「ティース。私、サンタニアを辞めるわ」
「……え?」
あまりにも唐突、あまりにも予測外の言葉に、ティースは呆気に取られてまじまじとシーラを見つめてしまう。
その意味をようやく理解して、彼が口にしたのはもちろん疑問の声。
「学園を辞める? どうして急にそんな――」
「半年以上前から思っていたのよ。考えてみたら私は女だもの。必死になって勉強なんかしなくとも、どっかで金持ちの男を見つければそれで済むわけじゃない?」
シーラは事も無げにそう答えたが、ティースは首をかしげずにいられなかった。
彼女が薬師になるという夢に対してどれだけ真剣で、どれだけの情熱を注いでいたかティースは良く知っている。
――じゃあ、なぜ突然?
ティースの頭をそんな疑問が過ぎったのは当然のこと。
だが、それを考えるより先に口が反射的に開いていた。
「ダメだ」
「え?」
「急に辞めるなんてこと、俺は認めないぞ」
断言したティースの言葉がよほど意外だったのか、シーラは驚いたように目を丸くした。
彼が彼女にこうして反論すること自体が珍しい。その上、ここまで強硬な態度を取るのはさらに珍しいことなのだ。
シーラはすぐに我を取り戻し、目を細めた。
「お前はなにを言っているの? 私が辞めるって言っているのよ。お前なんかにそんなこと言われる筋合いなんて――」
「じゃあ言い直すよ」
ティースは少しだけ視線を落とした。彼女の剣幕に、いつものように屈したのかと思えばそうでもない。
「頼むから、辞めないでくれ」
「……」
頭を下げたティースに、シーラは困惑の表情を浮かべた。
ティースは続ける。
「気持ち悪いって言われるかもしんないけど……お前が自分の夢に向かって歩いてくれることが、今の俺にとっては唯一の励みなんだ。お前がそうしていてくれなきゃ、俺は自分の道を歩いていくのが辛くなっちまう」
「……なんなの、それは」
シーラは眉をひそめ、そして彼の発言を気味悪がる――かと思いきや、そうではなかった。
「お前の道? なんのこと?」
ティースはゆっくりと顔を上げる。
「俺は……デビルバスターになりたい」
シーラはさらに困惑の表情を浮かべた。
「どうして? だってお前は――」
「お金のこととか、お前のこととか、それとは別なんだ。罪のない人を苦しませる魔が、どうしても許せないと思うようになった。傷つけられる人の苦しみも、残された人の悲しみも、どっちも理解できるようになったから」
「……」
「いや……本当はお前が魔にさらわれたあのときから、そうだったのかもしれない」
シーラは視線を横に逸らした。
それがどんな心境だったのかティースにはわからない。イライラしているようにも見えたし、困っているようにも見えた。
そんな彼女に向かって、ティースはもう一度頭を下げる。
「悪い。俺、本当はお前のことを一番に考えてやるつもりだった。お前の望みを叶えてやるのが俺の使命だと思ってた。でも……今回だけは、俺のわがままを許してくれ。その代わりそれ以外だったら、俺に出来る限りお前の望みを叶えてやるから」
「……」
「頼む」
シーラはなにも答えなかった。視線もティースに向けようとはせず、眉を曇らせたまま。
……沈黙が下りた。
すぐそばの執務室からも物音ひとつ聞こえない。あるいはこの会話は、中のファナやアオイにも聞こえているのかもしれなかった。
「……ティース」
ようやくシーラが口を開いた。
頭を下げたままのティースに、その表情を見ることはできない。だが、その声色から大体想像はできた。
きっとここ最近、彼が見たこともないような表情だ。
「聞いたわ。仲間が……死んだのでしょう?」
「……ああ」
「辛くはないの? お前だって、そんな怪我をして……」
眉をひそめ、シーラはティースの右肩へと視線を止める。そこはまだがっちり固定されていて、まったく動かすことのできない状態だった。
「そりゃ辛いけど、でもそれ以上に、なんていうか……」
ティースはそう答えながら、ようやく顔を上げる。
目の当たりにしたシーラの表情は、やはり戸惑いの色に染まっていた。
「理由はきちんと言葉にできないけど、でも今回のことがあって、それでどうしてもやり遂げたいと感じたんだ」
「もし私が学園を辞めても、続けるということ?」
「それは……たぶん」
「たぶん?」
不審そうな顔のシーラに、ティースは慌てて付け加えた。
「そ、そんなの実際にそうなってみないとわかんないよ。お前が学園を辞めてどうするかにもよるしさぁ……」
「……ふぅ」
シーラは呆れ顔でため息を吐いた。
「つまりお前は私を学園に通わせたいとか、お前がデビルバスターになるとかだけじゃなく……どうしても私を学園に通わせて、その上でお前がデビルバスターを目指すって形にしたいわけね?」
「そ、そうなるかな……」
確かにその言葉が、ティースの気持ちを簡潔にそして正確に表していた。
ティース自身、自分の中に産まれた決意を大事にしたいという思いは強い。だが、それと同じぐらいシーラに対する情熱も今まで同様に強かったのだ。
そして、再び沈黙が訪れた。
シーラは考えるように再び視線を横に逸らし、ティースは黙って彼女の答えを待っている。
時間が止まったようにも思える、長い長い沈黙だった。
そして、ようやくシーラが口を開く。
「……そうね」
何事かを決心したような顔で、だけど口調だけはいつものように素っ気ないまま。
「そこまで言うのなら、好きにすればいいわ」
ティースの表情が輝いた。
「じゃ、じゃあ、学園を辞めないでくれる――」
「なにを言っているの?」
「……え?」
ドキッとして表情を硬くしたティースだったが、シーラの口から出た言葉は彼の不安とはまったく逆のものだった。
「当たり前でしょう。理由もないのに、どうして辞めなきゃならないのよ」
「えっ?」
ティースは当然のごとく戸惑う。
「い、いやだってお前さっき――」
「それと……さっき、お前に出来ることなら、なんでも私の願いを叶えてくれると言っていたわね、確か」
「……」
(な、なんなんだ……?)
ひどく理不尽な――彼女にとって都合のいい態度にティースは唖然とした。
(からかわれたのか? それとも仕組まれたのか……?)
シーラはそんな彼の心境を悟ったのか、小さく鼻を鳴らして、
「心配しなくても、お前に過度の期待はしていないわ。私の願いはたったの3つよ」
「3つ……」
それが多いか少ないかは微妙なところだったが、少なくともそれでティースの望みが叶うのであれば安いものだと、少なくとも彼はそう思った。
「わかったよ……じゃあ3つだ」
「ひとつめ」
ティースの返事に、シーラは即座に言った。
「お前のその怪我が治ってからでいいから、ここでの食事はなるべく食堂を利用するようにしなさい」
「食堂?」
ティースはさっそく首をかしげた。
もちろん彼も、ファナからここの食事のシステムについては聞いたことがある。だが、今までは特訓でヘロヘロだったこともあり、わざわざ食堂に行って食事をするようなことはなかったのだ。
とはいえ、意図はわからないまでも、その程度のことなら彼にとってなんの困難でもない。
「ああ、わかった。そうするよ」
シーラはうなずいて、
「じゃあふたつめ。私はよく知らないけど、ディバーナ・ロウには情報部隊のようなものが存在してるはずね?」
「え……ああ。『影裏』って部隊なんだけど……」
「じゃあそいつらに言っておくこと。情報はもっと迅速、かつ正確に伝えるようになさいと」
「はあ……」
またシーラには直接関係がなさそうな要求で、これにもティースは首をかしげざるを得なかった。
「伝わるかどうかはわからないけど、一応言っておくよ」
「みっつめ」
最後の願いのところで、シーラが初めて言葉を切った。
どうやらこれが本命らしいと気付き、ティースもゴクリとのどを鳴らす。
(無茶な要求じゃなきゃいいけど……)
内心は不安でいっぱいだったが、それを表に出さないように彼は尋ねた。
「最後に……なんだい?」
「1年以内――」
もう一度言葉を切って、それからシーラは続ける。
「1年以内に私がお前にある要求をするわ。お前は決して、それを断ってはいけない」
「……ま、待った!」
これにはさすがのティースも無条件にうなずけなかった。
シーラはあからさまに不満そうに眉をひそめて、
「なによ」
「それって、つまり願いを先延ばしにするってことか?」
「簡単に言えばそういうことになるわね。ただ、それは今すぐに実現できないことだからよ。内容はもう決まってる。変わることはないわ」
ティースは彼女の表情をうかがうようにして、
「それは、俺に実現可能な願い事なんだよな?」
「おそらく可能ね。だってお前はなにもしなくてもいいのだから。ただ、拒否することさえしなければ」
「……」
ティースにとって、その内容を予測することはあまりにも困難だった。
「な、なんかものすごく怖いんだけど……」
「心配しなくても、一生独身で過ごせとか呼吸をするなとか、そういう理不尽な願いじゃないわ」
「でもわざわざ約束させるってことは、俺が嫌がりそうな願いなんだろ?」
シーラははっきりと答える。
「ええ。嫌がるでしょうね」
「せめてヒントとか……」
さらにしり込みする素振りのティースに、シーラは目を細め、有無を言わせぬ口調で言い放った。
「約束なさい、ティース」
「う……」
一応ためらってはみたものの、どっちにしろ彼の希望を通すためには、結局うなずくしかないわけで――。
(いくらなんでも、そんなひどいことは言い出さない……よな?)
そんなひどくあいまいな希望的観測のもと、ティースは決心した。
「……わかった。約束する」
シーラは満足そうにうなずくと、
「ええ。間違いなく約束したわよ、ティース。……それと」
ゆっくりとティースに背を向けた。
「当たり前だけれど、約束を果たす前に死ぬのは絶対に許さないから」
「そ、そんなの許さないって言われても――」
その言葉をさえぎるように、彼女は肩越しに彼を振り返ると、
「地獄まで追いかけてでも、必ずひどい目に遭わせるわ。覚えておきなさい」
「……」
本気の目だ、とティースは思った。
思わず怯んでしまった彼はなにも言い返せず――いや。
「でも、もしかしたら天国だったりするかも……」
「……」
「……なんでもない」
そしてティースの引きつった笑みは、すぐさまため息へと変わるのだった。
(妙な約束させられちゃったなぁ……)
遠ざかっていくシーラの後ろ姿に心中でぼやきながら、それでもひとまずのところ、自らの希望が満たされたことに安堵して。
(さて、頑張らなきゃ、な――)
その誓いは、彼が本当の意味でデビルバスターへの道を踏み出した証でもあった。