その1『デビルバスターたち』
「本当に残念だわ、ティースくん。キミとこうして本気で戦わなきゃならない日が来るなんて」
そう言って、アクア=ルビナートは両手に填めた白銀色の手甲――神具<氷雨>を高らかに打ち鳴らした。
氷の粒が宙を舞い、周囲の温度が急激に下がっていったのがわかる。
ブルッと、ティースの体は震えていた。
寒さのせいではない。
武者震いだ。
「遠慮はいりませんよ、アクアさん。俺も本気でやらせてもらいますから」
そう応じて、ティースもまた愛剣“細波”を正眼に構えた。
太陽は天空のど真ん中に鎮座している。少しだけ色づいた葉が、風に乗って2人の間を流れていった。
「……」
アクアの目が鋭さを増し、ゆっくりと半身の体勢になる。その表情にいつも朗らかな彼女の面影はまったくなく、これから始まる死闘に全神経を注いでいる様が見て取れた。
互いに一瞬の油断が命取りになる。
ティースは<細波>をぐっと握りなおし、彼女の一挙手一投足に集中した。
先に動いたのはアクアのほう。
それは予想通りだった。もともと彼女は細かい駆け引きを得意とするタイプではない。
彼女の最大の武器は“神速”。持続力のある高速の連撃でたたみ掛け、相手にペースを握らせないままに完封してしまうのが彼女のスタイルだ。
超至近距離での攻撃力と制圧力はディバーナ・ロウ随一といってもいいだろう。
そしてアクアの神速は防御面にも当然のように活かされる。彼女の両腕を覆う<氷雨>は堅固な双子の盾でもあり、生半可な攻撃などたやすく弾いてしまう。
とはいえ、もちろんそんな彼女にも弱点がないわけではない。
まず手甲という武具の特性上、相手の強い攻撃を止めるためには脇を締めて体に近いポイントで受ける必要があるということだ。伸ばした拳で攻撃と防御を同時に行えるわけではない。
そしてもうひとつ、もっともわかりやすい弱点がリーチの短さだ。
つまりティースにとって最大のチャンスは彼女の防御力が下がる攻撃時、なおかつ本格的な猛攻が始まる前。
初撃、そこに対するリーチを活かしたカウンターだ。
(集中しろ――!)
軽やかなフットワークで距離を詰めようとするアクアに対し、ティース自身もある程度足を使いながら絶妙に間合いを保ちつつ、
(ここだっ!)
焦れた彼女が少し大きく踏み込んできたところにあわせ、牽制の一撃を振るう。
「……!」
絶妙なタイミングだったのだろう。踏み込もうとしたアクアは驚いて足を止め、左腕を縦に構えてティースの横薙ぎの一撃を受け止めた。
はじけた氷の粒が宙を舞う。
アクアの右足がピクリと動いたのを見て、ティースは立て続けに攻撃した。
これもまだ牽制だ。
「くっ……」
強引に攻めて出ようとしたアクアは再び出足を止められたことで、いったん攻撃を諦めて再び間合いを広げた。
いや。
広げたつもりだったのだろう。
しかし、ティースとアクアの距離は変わっていなかった。
アクアが飛びのくと同時に、ティースがほぼ同じタイミングで彼女を追っていたのだ。
「!」
アクアが一瞬だけ驚いた表情を見せる。ティースは勢いのままに<細波>を振るった。今度は牽制ではない。相手にダメージを与えるための一撃だ。
ガツン! という手ごたえ。
「くぅ……ッ!」
攻撃をどうにか受け止めたアクアだったが、不完全な体勢ではティースの剣圧を受け止めきることができず、体が横に傾いて両足がわずかに地面を離れた。
(ここだッ!)
意気込んで追い討ちをかけるティース。
しかしその瞬間、
「ッ……!」
右肩に走る激痛。
(なにっ……!?)
思わず視線を移すと、そこにはこぶし大の石ころがめり込んでいた。とっさに拾ったのか、あるいは最初から隠し持っていたのか、アクアが体勢を崩しながら放ったものだろう。
そしてティースが見せたそのわずかな隙をついて、死地にいた彼女はあっという間に間合いの外へと逃げ去ってしまっていた。
「……危なかったー」
ふぅ、と、アクアが大きく息を吐く。
ティースもいったん追うのを諦め、間を取ることにした。
「やるわねぇ、ティースくん。今のはおねーさんもさすがにヒヤッとしたわ」
「こっちも勝ったと思って油断しました。でも次は決めますよ」
ティースがそう返すと、アクアは笑いながらピョンとその場で軽く飛び跳ねた。
「そういう強気なティースくんもなかなか新鮮でいいわねえ。ねえ。せっかくだからこの勝負で賭けでもしましょうか?」
「賭け?」
「キミが負けたら、あたしの言うことをなんでもひとつだけ聞く、ってのはどう?」
挑発的なアクアの言葉にティースは一瞬回答を迷ったが、あえて強気に言い返した。
「別にかまいませんよ。じゃあ俺が勝ったらどうします?」
「あら、本当に勝てる気でいるんだ? そうねえ」
ふふ、と、アクアは楽しそうに視線を泳がせながら、
「じゃあこうしましょうか。もしもティースくんが勝ったら、一晩だけあたしを自由にしていいってことで」
「……え?」
その言葉の意味に気づいてティースが狼狽した、その一瞬。
「!」
我に返ると、ティースはすでにアクアの間合いの中にいた。
「……ず、ずるいですよ、アクアさんッ!」
慌てて“細波”を構えるティース。
「勝負中の油断は命取りよ、ティースくん!」
懐に潜り込んだアクアがニヤリとしながら渾身の一撃を繰り出す。
先手を取られたティースも必死に応戦して――
「……勝負あり!」
審判役を務めるレインハルト=シュナイダーの声が、青空の下に高らかに響き渡った。
どの時代、どの地域においても農業は依然として国家の根幹をなすものであり、それはここ学問の地ネービスとて例外ではない。
残暑ただよう初秋。ネービスの街では、ちょうど今年の収穫祭の準備が本格的に始まろうかというころ。
そんなどこか慌しい空気が大陸中を包む、ある日の正午過ぎ。ミューティレイク家の広大な敷地の隅っこには、ディバーナ・ロウのデビルバスターたち5人が集結していた。
第一隊ディバーナ・ファントム隊長。
アクア=ルビナート、26歳。
第二隊ディバーナ・ナイト隊長。
レインハルト=シュナイダー、23歳。
第三隊ディバーナ・カノン隊長。
レアス=ヴォルクス、14歳。
第四隊ディバーナ・ゼロ隊長
アルファ=クールラント、18歳。
そして、第五隊ディバーナ・クロス隊長。
ティーサイト=アマルナ、20歳。
実のところ、ディバーナ・ロウのデビルバスター全員がこうして一同に介する(厳密にいうと、今年新たにデビルバスターとなったパーシヴァル=ラッセルの姿だけここにはない)機会というのは意外と少なかった。
というのも、彼らが請け負う仕事はほとんどが個人からの小さな依頼で、ひとりのデビルバスターとそれをサポートする数名で片がつく。つまり複数のチームで協力して事にあたるというケースが少ないのである。
特に年少者であるアルファとレアスは晩酌の席をともにするという機会もないため、たまたま顔を合わせて言葉を交わすことこそあれ、長時間同じ場所に居合わせることはほとんどないというのが実情であった。
そんな彼らがこの日、ここに集結した理由は他でもない。
ただの偶然、である。
「あーーん! あそこまでやって負けるなんてーッ!!」
ティースとの手合わせの後、メンバー中最年長のアクアは地面にぺたりと腰を落としてダダッ子のように喚いていた。
先の勝負は結局、ティースの勝利で終わったのである。
「た、たまたまですよ。そこまで落ち込まなくても……」
ティースはそんな彼女のそばで大の字に寝転がって荒い息を吐いていた。それこそが、この勝負が紙一重であったことの証明である。
「だって絶対勝ったと思ったのにぃ~! ティースくんを一日奴隷にできると思ったのにぃぃ!」
「ちょっとアクアさん! 変なこと叫ばないでくださいってば! 使用人の子たちも近くにいるんですよ!」
こういうときのアクアはまるで子どものようで、とてもティースより6つも年上とは思えない。
(やれやれ……)
上半身を起こして空を見上げると、火照った頬を秋風が撫でていった。
心地よい疲労感がティースの全身を包んでいる。
(アクアさんに勝った、か……)
こうしてアクアと手合わせする機会はそれほど多かったわけではないが、真剣勝負ではっきりとした勝利を収めたのはおそらくこれが初めてのことだった。
「なにが奴隷だ。ったく」
そんな2人のもとへ、審判役を務めていたレイが歩み寄ってくる。
「真剣勝負の最中にそんな余計なこと考えてるからだ。油断大敵はお前のほうだったな、アクア」
そう言いながら2人に向かってタオルを投げた。アクアは不満そうな顔でそれを受け取ると、
「うー、油断したつもりはなかったんだけどなあ。あの間合いで打ち負けるとは思わなかったし」
「それが油断だっつーんだよ」
「で、でもほら。俺もイチかバチかの反撃がラッキーに入っちゃったところもありますし」
ティースがそうフォローすると、レイはニヤリと笑い、
「お前もよくわかってるじゃねえか。だったらそろそろ、年増女の無茶な色仕掛けぐらい軽く流してキッチリ勝てるようにならなきゃな?」
「ちょっ、ちょっと、レイくん! 失礼じゃないの!」
息を切らせてぐったりしていたはずのアクアが、勢いよく立ち上がって抗議する。
「年増には年増のいいところだってあるのよ! 母性というか、包容力というか……」
「おっと、そろそろ年増自体は否定はできなくなってきたか。ま、四捨五入で30歳だからな、もう」
「やめてぇぇぇぇッ!」
耳をふさいでブンブンと首を振るアクア。レイはそんな彼女に苦笑しながら、
「ティース、お前はゆっくり休んでろよ。決勝戦に備えてな」
そう言ってくるっと背中を向ける。
「……」
振り返った先では、小柄な体に似合わぬ大剣を背負ったレアスが鋭い目付きで待ち構えていた。
レイが意地の悪い笑みを浮かべる。
「準備万端って感じだな? そんなに俺とやれるのが待ち遠しかったか?」
レアスはその言葉を鼻で笑った。
「ガキのころの戦績を持ち出していつまでもデカい顔してるヤツがいるからな。今の現実をわからせてやんねーとよ」
「ガキのころ、ねえ。今でも背伸びしただけのガキのくせして」
「ちっ……」
レアスが不機嫌そうに舌打ちをする。
一触即発の空気が漂った。
ただ、別に心配するような事態ではない。この2人はいつでもこんな感じなのだ。
(相変わらずだなあ)
そんなやり取りをティースが眺めていると、アクアがその隣に腰を下ろす。
「……ったく。レイくんってば、相変わらず意地が悪いんだから」
ティースはそんなアクアを横目で見ながら、
「レイさんとレアスって、俺が来る前からああなんですか?」
「んー? まあ、そうかな。あたしに言わせればじゃれてるだけなんだけどね、あんなの。……って、あれ? キミ、レアスくんのこと呼び捨てだっけ?」
「だいぶ前からそうですよ。いつまでもレアス隊長っていうのも変だし、レアスくんって呼ぶと子ども扱いするなって怒られるので」
そんな話をしながら、ティースとアクアは視線を同時に正面へと戻した。
レアスが背中にあった大剣<終炎>を両手に取って構える。それを見てレイも腰に下げた2本の曲剣<夜叉>を手に取り、いつでもかかって来いといわんばかりに両手を広げてみせた。
「あー……っと、あの2人の話よね?」
正面を見たままアクアが話を続ける。
「レイくんは、ほら。あのとおり人をからかうのが好きだから、どうしてもね。レアスくんはレアスくんで負けず嫌いだし、彼に自分を認めさせたいってずっと思ってるみたい」
「あぁ、なるほど。……あ、もしかして、今日こんなことしようって言い出したのはその機会を作るためですか?」
実は今日の正午前、偶然にも同じタイミングで一同に介したデビルバスター5人に対してこの手合わせトーナメントを提案したのはアクアだったのである。
ただ、ティースの思い付きはどうやら外れていたようで、「そこまでは考えてなかったかなあ。単にみんな集まるの珍しかったし、こういう機会って貴重かなと思っただけよ。だいたい、そんなことしなくたってレイくんは認めてると思うしね。レアスくんのことも、キミのことも」
「俺も、ですか?」
ティースが真顔で聞き返すと、アクアは苦笑して、
「そりゃそうよ。相変わらず自覚がないみたいだけど、キミはもうとっくにあたしたちと同じレベルに達してるんだから」
「……」
その言葉にティースは一瞬ぽかんとアクアを見つめた後、考え込むようにゆっくりと視線を足元の芝生に向けた。
(アクアさんたちと同じレベル……か)
普段なら、そんなことを言われても真に受けなかったかもしれない。しかし、たった今アクアと手合わせを行い、多少の運が絡んだとはいえ勝利したことで、ティースの胸にはその言葉が実感を伴って響いていた。
(……そうか。そこまで来たんだ)
改めて考えるとなんだか不思議な気分になる。
ディバーナ・ロウにやってきたころ、アクアたちのようなデビルバスターは雲の上の存在だった。そこから多くの訓練と実戦経験を積み上げていったが、彼らに追いついているという実感を得たことはこれまでに一度もない。デビルバスター試験に受かったときでさえ、キャリアが上の彼らはまだまだ遠い存在のように思えたものだ。
それから1年余り。
いつの間にここまで来たのだろうか――。
「思い出すわね。ティースくんが来たころのこと」
感慨にふけるティースの横で、アクアがぽつりとそうつぶやいた。
「まだ2年半しか経ってないんですよね」
数字にするとそれほどでもないのに、思い返すとものすごく遠い昔のことのように思える。
仲間の死、挫折と苦悩、幼馴染との再会、宿敵との戦いや、シーラとの関係――
「……でも、やっぱり俺はまだまだです」
と、ティースは膝を抱えた。
「どうして?」
アクアが聞いてくる。
視線の先ではレイとレアスの対峙が続いていた。居合いのような戦闘スタイルのレアスだけに、その戦いは短い時間で決することが予想される。
ティースは答えた。
「戦うことがうまくなっても隊長としてはぜんぜんですし。しっかりしようと思って逆に空回りしたり、チームのみんなにも迷惑かけてばっかりで」
アクアは笑って、
「いいじゃない、迷惑かけたって。あたしなんかいまだにドロシーとダリアに尻を蹴っ飛ばされながらやってるのよ?」
「まあ、そうですけど……」
「……否定はしなくていいけど、少しぐらいためらってよ」
不満そうに口を尖らせた後、自ら吹き出すように笑い出してしまうアクア。
ティースもつられて笑ってしまった。
「すみません、アクアさん。でも俺なんてもっとヒドいですから。最近は開き直ってシーラたちに頼りっぱなしです」
「いいのよ、それで。そのためのチームなんだから」
そう言いながら、アクアはふと思い出したように、
「そういえば前にシーラちゃんのことおそれ多いとか言ってたけど、それはなくなったの?」
「それは……」
ティースは少しだけ言葉に詰まる。
「大切に思う気持ちは同じですけど、でも……なんていうか、最近はあいつが俺のために色々やってくれるのがうれしいって気持ちも少しあるような気が……」
「あら。だったら進歩したんじゃない? その調子でひとつずつハードルを越えていけばいいと思うわ」
ふふ、と、アクアは悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあ次はそうね。シーラちゃんの女の子なところとかを意識してみたらどう?」
「え?」
きょとんとするティース。
「え、じゃないでしょ。キミってばあの子以外の女の子には触れることすらできない体質なんだから。もう彼女をお嫁さんにするしか選択肢がないわけじゃない? だったらここはもう押しの一手で――」
「お、お嫁さん!? シーラを、俺の!?」
まるで全身の血が逆流したようだった。ティースの顔がみるみるうちに真っ赤になる。
そして食って掛かるようにアクアに反論した。
「あ、ああ、ありえないですって! 俺みたいなナメクジがあいつのお嫁さんとかッ!」
「ナ、ナメクジぃ!? ちょっ、急にどうしたの、ティースくん! それにお嫁さんになるのはキミじゃなくてシーラちゃんのほうよ!」
アクアの突っ込みもどこかピントがずれている。
ティースは顔を真っ赤にしたまま首を振って、
「と、とにかく! 俺の妙な体質のためにあいつを犠牲にするとかありえませんから! 神様が許しても俺が許しませんから!」
「わ、わかったからちょっと落ち着いて! キミがシーラちゃんを大事にしたい気持ちはよーくわかってるから!」
アクアは少し頬を引きつらせながら、荒い息を吐くティースをどうにか制止した。
そして、こりゃまだまだだわ――と、小さく口の中でつぶやきながら、
「でもね、ティースくん。これだけは覚えておいて」
「な……なんですか?」
我に返ったティースは微妙に居たたまれない表情になっていた。先ほどの自分の態度が過剰だったと気づいたのである。
そんなティースに、アクアはまるで生徒に言い聞かせる教師のような口調で言った。
「男と女の気持ちってさ。時には立場とかしがらみとか、そういうものがまったく関係なくなっちゃうことってあるものよ。それはたとえば歳の差だったり、主従関係だったり、時には血縁だったりね。……そういう気持ちを、許されない、とか、禁断の、とか表現したりもするけど、でも想うこと自体は罪ではないと思うの。私はね」
「いえ、だから俺はそういう目であいつを見たことは……」
「ほらほら。そうやって皺を寄せない」
ぴっと人差し指を立て、アクアはティースの眉間を指差した。
「別にキミやシーラちゃんがどうだって話じゃないわ。ただ、仮にそういう気持ちが生まれたとしても悪いことじゃないって言いたいのよ。それが現実にどう結びつくかは別の話だけどね」
「……」
「まあ」
ますます難しい顔をしてしまったティースに、アクアは明るく笑いながら言った。
「別に難しく考えなくてもいいわ。それにキミの周りには他にも魅力的な子がたくさんいるものね。エルちゃんとかリィナちゃんとか。よりどりみどりじゃない」
「え、いえ……あの2人だって別にそういうんじゃないですし」
「あの2人も対象外なの?」
「ただの昔なじみっていうか、かけがえのない親友っていうか……」
「そういうのまで全部除外したら誰もいなくなっちゃわない? 人類滅亡しちゃわない?」
冗談めかしてそう言いながらも、おそらく今のティースはどんな相手でも似たような反応をするのだろう、と、アクアはなんとなく理解した。
シーラとの関係の特殊性は別にしても、要するにこのティースという男はそういう方面で圧倒的に未成熟なのだ。女性アレルギーという特異体質により、多感な時期にまったく女性に触れることができず、むしろ恐怖の対象と認識していたのだから無理もないことである。
「こりゃどっかで荒療治が必要かもねえ……」
「え?」
ぼそっとつぶやいたアクアに、ティースが不思議そうな顔をする。
アクアは笑いながらごまかして、
「なんでもないから気にしないで。……そうそうティースくん。話は変わるけど、さっきのことって今日でいいのかしら?」
「さっきのこと? なにかありましたっけ?」
ティースがわからない顔をすると、アクアは上半身をずいっと乗り出して、
「賭けの話。ひと晩あたしを好きにしていいって言ったじゃない」
「……えっ!?」
思わず逃げ腰になるティース。心臓があっという間に早鐘を鳴らし、脳内では警告音が鳴り響く。
無理もない。レイは色々と言っていたが、客観的に見てもアクアは充分に女性としての魅力にあふれた人物である。こんな風に迫られて平静でいられるはずはなかった。
「じょ、冗談はやめてください! っていうか、女性アレルギーの俺になにをどうしろっていうんですか!」
ブンブンと手を振りながら少しずつ後ろに下がるティース。
「大丈夫大丈夫」
しかし、アクアはあっけらかんとして答えた。
「気を失っても案外やってみたらやれるかもしれないじゃない? うまくいけばティースくんの今後の選択肢が広がる可能性もあるし、あたし的にも既成事実さえ作っちゃえばあとはどうとでも――」
「お断りします!」
「お断りしないで! あたしにはもう後がないのよ!」
「むちゃくちゃだぁッ!!」
さらに身を乗り出してきたアクアに、ティースの脳内はイエローからレッドゾーンへ。
しかし、
「おい」
ゴツン! と鈍い音がして、アクアの侵略はそこで止まった。
「……たぁぁぁぁぁぁい!!」
アクアが頭を抱えてうずくまる。
「人が真剣に戦ってる横でなにやってんだ、おまえら」
小さく笑みを浮かべたレイが手刀を振り下ろした体勢で立っていた。
アクアは恨めしそうな涙目で振り返ると、
「ちょっと、レイくん! あたしの真剣な求愛活動を邪魔しないでよ!」
「求愛活動? 捕食活動の間違いじゃないのか?」
アクアの抗議に皮肉を返すレイ。その後ろには憮然とした顔のレアスがいた。
どうやら2人の勝負はレイの勝利で終わったようだ。
「じゃ、じゃあ次にいきましょう」
ティースは慌てて立ち上がると、アクアから微妙に距離を取りつつ、
「いま準備します。あ、レイさんも休憩が必要ですよね。じゃあ……」
「ああ、それなんだが。俺の不戦敗ってことにしといてくれないか」
「え?」
ティースが怪訝な顔をすると、レイは親指で背後のレアスを指し示して、
「今の勝負にどうも納得できないらしくてな。仕方ないからあっちのほうでもう1戦付き合ってやることにした。ま、何度やっても結果は同じだろうが」
「……るせーよ。てめーが提案したんだろ」
レアスはむすっとしている。どうやら負けたのがよほど悔しかったようだ。
そんなレアスの態度にレイは苦笑して、
「ってことだ。また後でな。ティース、決勝戦頑張れよ」
そう言って、2人はなにやら言い合いながら離れていった。
こうして見ると、確かにアクアの言うとおりじゃれ合っているだけのようだ。
「……あー、ったく。叩くにしても手加減してくれたっていいでしょうに……これ以上馬鹿になっちゃったらどうすんのよ、まったく……」
後頭部を押さえながらアクアが立ち上がる。
「でも、レイくんはやっぱり1枚上手みたいね。キミやレアスくんにとってはいい目標だと思うけど」
ショートパンツについた土をパンパンと払った。
「じゃあやろうか、決勝戦。あたしが審判やるわね」
そう言って歩いていく。
その後ろ姿を追った、その先。
「……」
そこに最後のひとりが静かに立っていた。
大きなハートマークが刺繍された季節はずれのセーター。明らかにサイズの合っていないダボダボのズボン。後ろで無造作に束ねた長い銀色の髪。手にした槍の刃先は微かに光を放ちながら、夏虫を誘う灯火のようにゆらゆらと揺れていた。
「アルファさん、か」
ティースは無意識にその名を呼ぶ。
彼――アルファ=クールラントがティースたちのように“予選”に参加しなかった理由は至極単純である。
現在の実力を確かめ合うまでもなく、彼がこのディバーナ・ロウ最強のデビルバスターであることを全員が知っていたからだ。
「ティースくんさ。最近はディグリーズとも色々絡んでるでしょ? だったらちょうどいいタイミングだと思うわ」
ティースとアルファの中間地点あたりで足を止めたアクアが、肩越しに振り返って言った。
「今ならアルファくんの強さを鮮明に感じられると思う。多少ムラはあるけど、本当に“段違い”だから」
「ええ。……実は俺も楽しみにしてました」
視線を正面に釘付けにしたまま、ティースはゆっくりと踏み出す。
アルファは自然体のまま、どこか浮世離れした目でティースを見つめていた。
「君か。私の相手は」
「ああ。……よろしくな、アルファ」
デビルバスターになった後もアルファと会話をする機会はほとんどなく、ティースが彼をこうして呼び捨てにしたのは初めてのことだ。ただ、アルファは特に不満はないようだ。
アクアが言う。
「アルファくん。これ一応決勝戦ってことになってるけど、そんなの気にしないで今日はとことんティースくんに付き合ってあげてね。10戦でも20戦でも」
そんなアクアの申し出にアルファは小さくうなずいて、
「別に構わない。私とやった後でそんな元気があるのなら、だけど」
挑発的でもなんでもなく、ごくごく自然にそう答えた。
望むところだ――と、ティースは声には出さず、うなずくことで意思を示す。
もちろんティースも彼の実力はわかっていた。現時点で勝てる見込みがおそらくはないことも。その中でなにかをつかめればいいのだ。
おそらくはアクアの目的もそこだろう。
「じゃあ始めようか。アクア、合図して」
「おっけー。ティースくんも準備いい?」
「はい。大丈夫です」
対峙する。
ティースが構えてもアルファは棒立ちのまま。
余裕を見せているわけではない。
それが彼の構えだ。
「……はじめッ!」
アクアの宣言が高らかに響き渡って――
その日、太陽が沈むまでの間にティースが数えた黒星は実に18回に及んだのだった。