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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第13話『ティースの憂鬱な日々』
130/132

その16『結末』


「ティースさん、ちょっといいですか?」

「はい? なんですか、アオイさん?」

 件の依頼から半月ほどが経った晩夏のとある朝食後。

 食堂を出ようとしたティースは、ミューティレイク家執事兼ボディガードのアオイに呼び止められていた。

「ティースさん、アオイさん、行ってきまーす」

 そんな二人の横を、やはり食事を終えた一人の少女が小走りに駆け抜けていく。

「あぁ、行ってらっしゃい、セシル。あんまり走るとお腹痛くなるぞ」

 ティースがそう声をかけると、セシルは、気をつけまーす、と、元気よく返事して食堂を出て行った。

 後ろ姿を見送ってティースは再びアオイに視線を戻す。

「それで、どうしたんです? 仕事ですか?」

 するとアオイは眼鏡の奥の目を少し泳がせて、

「仕事といえば仕事なんですが、そうでないといえばそうかもしれません」

 非常に歯切れが悪かった。

「実はお使いをお願いしたくて。今日来る客人を先方まで馬車で出迎えて欲しいんです」

「?」

 確かにティースの本来の仕事ではないが、受けることをためらうほどのものでもなかった。

「別に構いませんよ、今日は特に用事もありませんし。人手が足りないんですか?」

 どうしてそんなに申し訳なさそうなのかと疑問に思いながらも快諾すると、アオイはやはりすまなそうな顔をする。

「すみません。実は先方からのご指名で」

「指名? ……俺を?」

 その言葉にティースは初めて嫌な予感を覚えた。

 そんなティースの表情の変化を読み取ったのか、

「たぶんご想像のとおりでしょう。客人というのはサイア様のことです」

「……なんでまた」

 思わずティースは顔をしかめてしまった。

 サイアがこのミューティレイク家を訪れるのは別に不思議なことではない。が、彼女がここに来るのに迎えの馬車が必要とは思えないし、普通であればミューティレイク家の使用人ではないティースを指名する理由もない。

 その意図が、先日の一件に絡んだものであることは明らかだった。

(あれからずっとなにもなかったし、もう終わったと思ってたのに……)

 と、ティースはがっくりと肩を落とす。

 あるいはなにか新しい証拠が出てきて、再び追及してくるつもりかもしれない。が、ここで迎えに行こうと行くまいと結果は同じになるだろう。むしろ向こうの機嫌を損ねないように、従うところは従ったほうがいいかもしれない。

 落胆するティースにアオイが苦笑しながら言った。

「馬車はこちらで用意します。向こうは四名で来るそうですが、たぶん女性ばかりだと思うので、不安であればクロスの誰かを連れていったほうがいいかもしれませんね」

 サイア以外の三名はおそらくいつも彼女のそばにいた双子の侍女と、あとは護衛だろう。

 もちろんティースも一人で行くつもりはなかった。


「……おーい、リィナー」

 ティースは二階の廊下でハウス・メイドの仕事を手伝っていたリィナを見つけ呼びかけた。

 どうやらリィナは踏み台を使って、他のメイドたちではとても手が届かない場所の掃除をしていたようだ。周りにはティースも見知った顔のメイドたちが何人かいて、リィナが高いところに手を伸ばすたび歓声をあげている。

「あ、ティース様。おはようございます。なにか仕事ですか?」

「ああ、いや。そのままでいいよ」

 踏み台を降りて駆け寄ってこようとした彼女を止め、ティースは尋ねた。

「シーラがどこに行ったか知らないか? 部屋に行ったら誰もいなくてさ」

「シーラさんですか? いえ、今日は見てないです。朝食は一緒じゃなかったんですか?」

「ああ。今日はいつもより起きるのが遅かったから入れ違ったみたいで。でも、そっか、わかった。もうちょっと探してみるよ」

 そう言ってきびすを返すと、今度はちょうど階段を上がってくるエルレーンとはち合わせた。

「あれ、どうしたの、ティース? え? シーラ?」

 同じことを質問するとエルレーンは少し考えて、

「ボクも見てないけど、部屋にいなかったならたぶん書庫じゃないかな? なにかあったの?」

「ああ、いや、たいしたことじゃない……っていうか、たいしたことにはなって欲しくないっていうか」

「?」

 不思議そうなエルレーンにアオイからの依頼を説明すると、彼女は納得したようだった。

「なるほどね。確かに不気味だけど、何かやってくるにしては遅すぎる気もするなあ。……それでシーラを一緒に連れてくんだね? ふぅん」

 エルレーンは最後に意味ありげなつぶやきを発し、やがて満面の笑顔になると思いっきり背伸びをしてティースの頭のてっぺんに手を伸ばした。

「えらいえらい。シーラ、喜ぶと思うよ。表向きは『ちょうどヒマだったから』とか素っ気なく言うだろうけどね」

「お、おい……」

 ティースは反射的に身を引いたが、いずれにしてもエルレーンの手はティースの頭のてっぺんまでは届きそうになかった。……いや、届いて触れていたらティースは気絶してしまうのだから、最初から撫でるフリをしただけなのだろう。

 見た目も実際も年下の彼女に子ども扱いされるのが恥ずかしくて、ティースはさらに一歩身を引きながら、

「別にあいつが喜ぶからとかじゃないぞ。サイア様がなにを考えているにしても、あいつを連れて行くのが一番いいだろうと思っただけで」

「そうだね。ボクもそれが一番だと思う」

 それでもエルレーンはニコニコしたまま、行ってらっしゃい、と言った。

 最後まで子ども扱いされたような気がしてティースはなんとも釈然としなかったが、ここでムキになるのも大人げないだろうと思い、結局そのままその場を離れることにする。

(書庫か。そういやあいつ、あそこにいることが多いんだっけ)

 エルレーンの言葉に従って階段を降りると、客人を迎えるためかいつも以上に忙しそうなメイドたちを横目に書庫へ向かっていく。

「……あれ。こんなところに珍しいね、ティースさん」

 書庫の入り口にはもう一人の若き執事リディアがいた。右手には大陸の共用語以外の言葉で書かれた分厚い本を持っている。

 ティースは右手を軽くあげて、

「ああ、リディア。シーラ、ここに来てなかったか?」

「シーラさん? ま、そりゃあね」

 リディアは笑った。

「来てるっていうか、ずっといるよ。あたしとシーラさんはほとんどここの住人だから」

 そう言いながらリディアが書庫の中に声をかけると、ほどなくして書庫の中からシーラが顔を覗かせた。

「あら、珍しいわね。お前がこんなところに来るなんて」

 ティースを見るなり、シーラはリディアと同じことを言った。

 どうやらティースはよほどこの場所に縁がない人間だと思われているらしい。

「いや、実はお前に用があってさ……」

 その事実はそれなりに不本意であったものの反論できるほどの材料もなく、ティースはそのままシーラに用件を伝えることにした。

 すると、

「サイア様の出迎え? 私と?」

 一瞬だけシーラは意外そうな顔をしたが、すぐに、

「まあ……別にいいけど。ヒマだったし」

「……ぷっ」

 素っ気ないシーラの回答がエルレーンの予想通りすぎて、ティースはこらえきれずに吹き出してしまった。

「なに? どうしたの突然?」

 当然のようにシーラが不審そうな顔をする。

「いや、ゴメン。ぜんぜん関係ないこと思い出しただけなんだ」

 ティースは慌ててそう言って誤魔化したが、シーラはしばらく疑わしそうな目をしていた。

「……変な男ね。ま、なんでもいいけど。じゃあリディア。さっきの話の続きはまた今度」

 リディアは軽く手を振って、

「りょーかい。二人とも、デート楽しんで来てねー」

「デ、デートなんかじゃないって……」

 と、思わず真面目に反応してしまうティースの横で、シーラは涼しい顔をしながらリディアに言い返す。

「そうね。あんまり楽しくてあなたたちの用事を忘れちゃうかもしれないけど」

「え、いや、それマズいよ。アオイさんがまた叱られちゃうから勘弁してあげて」

 しれっと責任転嫁しようとするリディアにティースは苦笑した。基本的に生真面目なアオイがいつも貧乏くじを引かされてしまう様は、ティースにはとても他人事のように思えないのだ。

「じゃあ行きましょうか、ティース」

 そう言って先に歩き出したシーラの足取りは、エルレーンからあんなことを言われたせいかどことなく浮かれているようにも見えて。

 ティースはこれまで彼女を図らずも仲間はずれにしてしまっていたことを、心の中で少し反省したのであった。


 さて、そんなこんなでサイアの出迎えに向かったティースとシーラであったが――


「ご苦労だったな。本日をもってそなたたちへの依頼は終了だ」

 蓋を開けてみればなんのことはない。

 ティースたちは一ヶ月の依頼期間が終了したことをサイアから告げられただけだった。

(……そういや、まだ依頼期間中だったんだっけ)

 あの一件以来サイア側からの音沙汰がまったくなくなっていたこともあって、ティースはそのこと自体をすっかり失念していたのである。

 ただし、

「どうした? なにか都合の悪いことを掘り返されるとでも思ったか?」

 拍子抜けするティースの反応を見てサイアがにやりと笑ったところをみると、どうやらこの指名は彼女なりのささやかな仕返しという趣のものだったようだ。

 ただ、いずれにしても懸念していたような新しい追及などはまったくなく。

 ティースは帰り道でほっと胸を撫で下ろすことになったのである。




 そしてその日の夜。

「ふぅ……」

 たけなわとなった晩餐の席を中座し、外で虫の音を聞きながらワインの酔いをさましていたシーラのもとへ、サイアの護衛として同行してきたルーベンが姿を見せた。

「どうも。シーラさん」

「……あら。護衛なのにサイア様のそばにいなくていいの?」

 ちらっと一瞥してシーラがそう言うと、ルーベンは軽く両手を広げて、

「どうせこの屋敷で危険なことなど起きませんしね。私がここに付き合わされたのも罰ゲームみたいなもんです。あの件ではさんざん嫌味も言われましたし」

 と、答えた。

 右手にはグラスを持っていたが、液体の色を見ると中身はアルコール類ではなくミルクのようだ。

「大変ね、あなたも」

 やや大きめに開いたドレスの胸元を直しながら、シーラは素知らぬ顔で夜空を見上げた。

 ルーベンは少し離れたところで屋敷の壁に背を預ける。

 そして言った。

「あれ、どうやったんです?」

「なんのこと?」

「ディバーナ・クロスの隊章のことです」

「ああ……あれね」

 シーラが思い出したようにつぶやくと、ルーベンはそんな彼女を横目で見ながら、

「隊章を山に運ばせる方法はいくつか思いつくんです。あの山には光り物を集める<獣魔>がたくさん棲みついていて、偶然か必然か、あなたは期間中にその<獣魔>と遭遇している。その点についてはサイア様も感づいていたようですし」

 そう言って、ルーベンはまるでソムリエのようにグラスのミルクをくるくると回して遊んだ。

「ただ、その<獣魔>の習性を利用して隊章をラグレオ山中に運ばせたとしても、それが発見されたのはただの偶然にしか思えませんでした。ガントレットの門下生たちが修行を兼ねて<獣魔>退治をしていたことも知っていますが、いずれにしても発見される確率は低い。それをどうやって解決したのかなと思いまして」

 するとシーラはくすっと笑って、

「どうやってもなにも、そもそも解決なんてしてないわ。彼らがあれを見つけてくれたのはただの偶然だもの」

 ルーベンは信じていない様子で、

「ただの偶然ですか。だとしたらとんでもない強運ですね」

 シーラは澄まして答える。

「残念ながら逆ね。それについてはむしろ運が悪かったぐらい」

「……運が悪かった?」

「だって結局たった一つしか芽吹かなかったんだもの。せっかくあれだけ――」

 シーラが途中で言葉を止める。……うわぁぁぁッ、という、聞き覚えのある男の悲鳴が壁の向こうの晩餐会場から聞こえてきたのだ。

 会場に残っているティースの身になにかあったようである。

 ルーベンは悲鳴の聞こえた壁の向こうをちらっと一瞥しながら、

「なるほど。そういえば隊章を発見した門下生がティースさんらしき人影の目撃情報も口にしていましたね。曖昧な証言だったので気にはしませんでしたけど……」

 どうやら晩餐会場のほうは完全に無視する方針のようだ。

 もちろんシーラもそのつもりだった。……あの場でティースの身に起きそうな異変など、だいたい想像がつくのである。あえて駆けつけるほどのことでないのは明らかだったし、どうしようもなくなればリィナかエルレーンが呼びにくるだろう。

 シーラが視線を戻すと、ルーベンは続けた。

「つまりあなたは他にもたくさんのアリバイ工作をしていた。その中でたまたま当たったのがあの隊章だったということですね? ……でも、いつ、どうやってそんなことを? ディバーナ・ロウの情報部隊を使ったにしても、ナタリーにはあなたが外の人間と接触するのを監視させていたはずですが」

「もちろん彼女を寝かせた後よ。おかげでずっと寝不足だったわ」

「それはおかしいですね」

 ルーベンは疑問の目付きをする。

「確かにナタリーはサイア様の謁見中に独断で客を通してしまったり、リゼットさん絡みとなると分別がつかなくなってしまうダメな部下ですが、感覚の鋭さに関しては野生の獣なみです。というかそれしか取り得のないアホの子です」

「……言いすぎじゃない?」

「愛のムチですから」

 本気か冗談かわからない顔で即答し、ルーベンは続けた。

「部屋を出るのはもちろん、窓の外の人間とやり取りしようとしただけで、ナタリーなら寝ていても必ず気づいたはずですが」

 しかしシーラは事も無げに答える。

「寝ていたら、でしょう? 私は“寝かせた”後って言ったのよ」

「寝かせた? ……睡眠薬ですか、なるほど」

 それでルーベンは合点がいったようだった。納得した後、あの子はまったく、と、仕方なさそうにため息を吐く。

 シーラはナタリーのことを思い出して苦笑しつつ、

「あの子、私が出すものをなんでも不用意に口にするものだから。いい子だと思うけど、こういう任務には向いてないかもね。……なんて。どうせあなたはわかっててあの子を監視役に選んだんでしょうけど」

「どういう意味ですか?」

「白々しいわね、あなたも」

 と、シーラは少しだけ呆れたように息を漏らす。

「私がせっせとたくさん作ったクジが当たるかどうかなんて些細なことだったわ。一番の問題は、一回しか引けない大きなクジが当たるかどうかだったんだから」

「一回しか引けないクジ、ですか?」

 なおとぼけてみせるルーベンに、シーラは悪戯っぽく流し目を向けた。

「ええ、そうよ。あなたが私のお願いを聞いて協力してくれるかどうかの、ね」

「……」

 ルーベンはそんなシーラに無言を返した。

 ……そう。結局のところティースがあの絶体絶命の状況を切り抜けられたのは、魔印章が反応しなかったおかげである。

 そして魔印章がティースに反応しなかった理由は至極単純だ。

 ルーベンが事前にすり替えていたからである。

 シーラは魔印章の存在自体をリィナたちから聞くまで知ることができなかったし、対抗手段を講じる余地もなかった。

 つまり結局のところ、彼らの命運はルーベンの行動一つにかかっていたのである。

「あなたの態度がはっきりしなかったから最後まで心配してたけど、薬茶を飲んだティースの反応を見て安心したわ。私が預けたビスケット、ティースに渡してくれたんでしょう?」

「……白々しいのはあなたのほうですよ、シーラさん」

 やがてルーベンはため息を吐きながら口を開いた。

「ああいうのは“お願い”じゃなくて“脅迫”というんです。……ホントにびっくりしましたよ。女中に金を渡したところを咎めに行って、逆に言うことを聞けと脅されたわけですから。これだからディバーナ・ロウの人たちは油断できない」

「脅迫だなんて人聞き悪いわね。私は取引のつもりだったのよ?」

 シーラがそう返すと、ルーベンは軽く肩をすくめて、

「応じるしかないじゃないですか。……私がかつて、あなたたちと同じ“朧”の使用者だったことをみんなにバラす、なんて言われたら」

「……」

 シーラは無言でグラスを口につけ、少し傾けた。

 夜空を映した暗褐色の液面に、うっすらと月の影が浮かぶ。

 ルーベンはゆっくりと壁から背を離し、真っ直ぐにシーラに向き直った。

「今日私が確かめたかったのは本当はそっちです。彼女のこと……フラニーのことを、いったい誰に聞いたんです?」

 シーラの回答を待たず、ルーベンはさらに続けた。

「彼女の存在自体は昔からいるミューティレイクの使用人なら知ってる。でも、彼女が元<人魔>だったことを知るのはファナさんやアオイさん、レイさんなんかを入れて五人ぐらいしかいません。でも、彼らがそれを口にするとは思えない」

 シーラはうなずいて、

「誰も教えてくれなかったわ。昔の事情はよく知らないけど、あなたに義理立てする必要があるんでしょうね、きっと」

「じゃあどうやって?」

「教えてくれたのは、あなた自身よ」

 と、シーラは答えた。

 ルーベンは怪訝そうだった。

「そのフラニーというメイドの女性のことは確かに色々な人から聞いてたの。その子は私の親友によく似ていたらしくてね。顔というより、背の高さが」

「……」

 無言のルーベンが神妙な顔になる。

 シーラは続けた。

「リィナの前にもそんなに背の高い女性がいたのね、って、そのときはただ珍しいと思っただけだったわ。……でもサイア様のところで催された晩餐の夜、あなたがエルやリィナに”朧”の話をしたと聞いて、もしかしたらと思って調べてみたの」

 一呼吸おく。

「女性であの長身は人間では確かに稀だけど、水魔だとそこまで珍しくはない。……で、調べてみたら、そのメイドはあなたがディバーナ・ロウを抜けるのと前後して屋敷から姿を消していたわ。あとはただの推測ね。確信はなかったけど、あなたが唐突に“朧”の話を持ち出した理由を考えれば、そこそこ分のある賭けだと思ったわ」

「……なるほど。つまり私は盛大に墓穴を掘ったわけですか」

 説明を聞いて、ルーベンは自らの天然の白髪をくしゃっと少しだけかき回した。

 シーラはそんな彼に逆に問いかける。

「どうしてリィナたちに“朧”のことを聞いたの? 最初は脅されているのかと思ったけど、あなたはそれ以上何もしてこなかったわ」

「わかりません。……いえ、本当に」

 ルーベンは深く長く息を吐いて、夜空に浮かぶ月を見上げた。

「リィナさんのことはここに来たときに何度か顔を合わせて知っていたんです。……すぐにピンときましたよ。私も同じ境遇だったことがありますからね」

「……“だった”、か」

 口の中でつぶやいたシーラの独り言は、どうやらルーベンには届かなかったようだ。

「それであの夜、彼女たちと一緒になったときについ口に出してしまったんです。本当に、ただ口が滑ったとしか言えません」

 ふふ、と、ルーベンは自嘲気味に笑った。

 少しだけ懐かしそうな顔で。

 しかしあくまで淡々と。

「……」

 そんなルーベンの態度を、シーラは少しだけ意外な思いで見つめていた。

 ……いつだっただろうか。ナタリーが隊長のルーベンのことを“なにを考えているかわからない人”と評して、シーラはその言葉に同意した記憶がある。

 確かに実際のルーベンも、決して無表情な人間というわけではないが、驚いていても感心していてもどこかに演技のような嘘くささを感じさせるタイプだった。どんな状況でも常に淡々としている語り口が、おそらくはそう思わせるのだろう。

 裏が見えない。なにを考えているかわからない。

 ナタリーがそう感じたのも当然だろう。

 しかし。

 今こうして過去に思いを馳せるルーベンの姿に、シーラはこれまでとまったく別の印象を受けていた。

「……誰だったかしら。前に言ってた人がいるの」

 そしてシーラはぽつりとつぶやく。

「ティースが、昔ここにいたルーベンという人によく似てるらしい……ってね」

 一瞬の間。

「どこがです? そうは思いませんけど」

 そんなルーベンの言葉にシーラはうなずいて、

「そうね。私も今の今までそう思ってた。……でも今は、少しだけそうかもしれないって思い始めてる」

 そう言って真っ直ぐにルーベンを見つめ、微笑む。

「ありがとう。あなたの過去を掘り起こしたこと、謝りはしないけど、感謝してるわ」

「……」

 ルーベンは何も答えず、ただ静かに肩をすくめてみせた。

 シーラもそれ以上のことは言わず、彼から視線を外して薄暗いミューティレイクの敷地内を見回す。

 そしてふと思い出して、

「ねえ、ルーベンさん。最後に一つ、聞いてもいいかしら?」

「なんですか?」

「あなた腕を怪我しているようだけど……どうして右腕じゃなくて左腕なの?」

「意味がわかりませんけど」

 予想していた質問だったのか、ルーベンは少しわざとらしくとぼけてみせた。

 シーラは目を細めて、

「これでも専門よ。袖をまくって見なくても、あなたが左腕をかばって行動していることぐらいわかる。でもティースに聞いた話じゃ、あなたが怪我をしたのは左じゃなくて右腕だったはず」

「……」

 ルーベンはだらりと下がった自分の左腕に目を向けたが、その問いかけに答えようとはしなかった。

 シーラもそれ以上の追及をすることはなく、

「答えられないならいいの。ただの好奇心だから。……そろそろ戻るわね」

 酔いはだいぶ醒めていた。先ほどのティースの悲鳴も少し気になる。

 再び壁にもたれかかって夜空を見上げるルーベンの前を通り過ぎ、シーラはそのまま屋敷へと戻っていった。

 すると玄関に入ったところで、

「よう、シーラ」

 ディバーナ・ロウのデビルバスターの一人、レインハルト=シュナイダーが薄い笑みを浮かべながら彼女に歩み寄ってくる。

「ルーベンとのつかの間のランデヴーは楽しかったかい?」

「残念だけど彼は私に興味がなさそうだったわ」

 シーラはそんなレイを一瞥して、即座にそう切り返す。

 だろうな、と、レイは笑って、

「ティースが向こうで大変なことになってるらしいぜ。行ってやったらどうだ?」

「そのつもり。あなたは?」

 レイは手にした麦酒のコップを軽く揺らしながら、

「ルーベンを慰めに行くところさ。タチの悪い女に騙されて傷心中だろうからな」

「それはご苦労様」

 やはり軽く流してシーラは食堂へ足を向けた。

 レイが外へ出て行く。

 途中、シーラはレイの背中を一度だけ振り返って思った。

(……みんなルーベンさんに好意的なのね、やっぱり)

 考えてみれば不思議な話ではある。

 ルーベンはもともとディバーナ・ロウのデビルバスター候補生で、デビルバスターになると同時にネスティアスに引き抜かれた。

 その事実だけを見れば、ディバーナ・ロウの面々が彼に好意的に接する理由はなさそうに思える。

 しかし実際は違っていた。

 レイやアクアはルーベンがここに来ることを歓迎しているようだし、あまり知られたくなさそうな彼の過去については一様に口を閉ざしていた。

 そしてルーベンもまた、おそらくは今もディバーナ・ロウに恩義を感じている。

(でなきゃ……あんないい加減な脅迫で言うことを聞いてくれるはずがないもの)

 “朧”の使用者であったことを公表するというシーラの脅迫材料は、そもそもが確たる証拠のない張りぼてのようなものだ。しかもルーベンが“朧”を使っていたのはまだディバーナ・ロウにいた頃である。そんな話を流布すれば、ディバーナ・ロウにとっても面倒なことになるのは目に見えていた。

 ルーベンがそのことに気づいていないとも思えず。

 ディバーナ・ロウへの義理か。

 あるいはリィナに昔の面影を見たからか。

 いずれにせよ、ルーベンは自らの立場を多少潰しながらも、おそらくはあえて協力してくれたと考えるのが正解だろう。

(……私も彼には義理立てする必要がありそうね)

 そんなことを考えながら、シーラは食堂へと続くドアを開けた。

 と、同時に、

「あっ、シーラ様! た、大変です、ティース様が!」

 彼女の視界に飛び込んできたのは、おろおろと狼狽するリィナの姿。

「どうしたの? って……」

 そこにあった光景を見て、シーラはだいたいの事情を察した。

「……おーい、ティーサイト。ちゃんと聞いてるかー?」

 ややおぼつかない声は、今宵の晩餐会の主役である客人の少女のものだ。

 いつもどおりの純白のワンピースドレスに真紅の髪、そして白い肌――が、今は紅色に染まっている。どうやらそれなりの酩酊状態にあるようだ。

 そんなサイアが座っていたのは、本来の上座ではなく下座のほう……もともとはティースに割り当てられた席の上だった。

 というか、ティースもまだそこに座っている。

「悪い話ではないと思うがなあー……」

 半開きの眼で完全に出来上がった表情のサイアは、ティースの膝の上に横向きに腰を下ろし、肩に右腕を回した体勢でティースの頭をポンポンと撫でていたのであった。

「今からでも私に協力して白状する気はないかー? いや、むしろネスティアスに来んか? そなたが望むなら私の婚約者候補に加えてやってもよいぞ? 私を射止めれば玉の輿だぞ、玉の輿ー」

「……」

 それに答えるティースの言葉はない。

 あえて言うまでもないだろう。

 ティースはとっくに気絶していたのである。

「……ファナ。これ、なにがあったの?」

 シーラはため息とともに食堂のドアを閉じ、ゆっくりと中に進み入る。

「ご覧のとおりですわ」

 そんなシーラに気づいたファナは事も無げに、にこやかに答えた。

 彼女もアルコールにほんのりと頬を染めていたが、態度は普段とまるで変わっていない。

「サイアさんは少々酒乱の気がありまして。今回は皆さんにやり込められたのが相当悔しかったのでしょう。いつもは辛いことがあると寝室で私に愚痴るのですが、今日は珍しく当事者のティースさんに矛先が向かったようですわ」

「……おいこら、ティーサイト。ちゃんと聞いておるのかー?」

 抱きつきながらティースの頭を撫でているサイアは、どうやら彼がすでに気を失っていることにも気づいていないようだ。

 ファナはそんな二人の様子を見守りながら、

「ティースさんが色仕掛けに耐性のある方で本当に良かったですわ。どうやら貴重な戦力の流出は避けられそうです」

「……耐性なさすぎて良かったの間違いでしょ」

 やれやれと首を振って、シーラはティースの向かいの自席に戻った。

 おそらくファナはこうなるのがわかっていて放置していたのだろう。あるいは愚痴を聞きたくなくてティースを生贄にしたのかもしれない。

「あ、あの、シーラ様。どうしたらいいでしょう……?」

 ティースたちの後ろでは、サイアを無理やり引き剥がしていいものかとリィナが右往左往している。

 シーラはそんな彼女に向かって軽く手をひらひらさせて、

「そのままでいいんじゃないの? どうせもう気絶してるんだし同じでしょ、きっと」

「で、でも……いいんでしょうか」

「いいのよ。その体勢になるまで逃げなかったその男にも問題があるんだから」

 冷たく言い放って、シーラはグラスのワインを一気に飲み干した。

 なにがおかしかったのか、隣でエルレーンが吹き出すように笑う。

「……」

 当のティースはもちろん無反応のまま。

 そしてサイアは、ますますきつくティースに抱きついて、

「私は諦めんぞ……いつかそなたらを私の下僕に……うぷっ」

 虫たちの合唱が鳴り響く晩夏の夜。

 宴の先は、まだまだ長そうだった――

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