その15『魔印とビスケット』
「まずは認めてもらわねばな。そなたが<人魔>に協力し、彼らの逃亡の手助けをしたことを」
ルーベンから魔印章を受け取ったサイアはそれをすぐに持ち出そうとはせず、ティースから見える形で手に握ったまま、まずは彼に自供を促した。
しかしティースはそれを認めず、
「そんな事実はありません」
と、否定する。
魔印章がある限りどのような言い訳も無意味に思えるが、何かの拍子で突破口が見つからないとも限らない。
ティースはとにかく最後の最後まで粘るつもりだった。
しかしサイアは、そんなティースの思惑を見透かしたかのように、
「では、少し話を整理するとしようか。そなたがすべてを認めるまでな」
そう言って手にした魔印章を見せびらかすように揺らした。
「……!」
思わず動きを追ってしまい、ハッとして目をそらす。
サイアはそんなティースの反応を余裕の表情で見ながら、
「まず最初に言っておこうか。そなたが行動をともにしていたカフィー隊にはルーベンの部下を監視につけてあった。だからそなたらの行動を我々はおおよそ把握している」
「……監視、ですか」
もちろんティースは気づいていなかった。
当時はそんな状況を予測していなかったというのもあるし、そもそも外部の人間であるティースにはカフィー隊とルーベン隊の隊員を見分けることも難しい。明らかに不審な動きでもしていない限り、ルーベン隊の隊員が近くにいてもそれが監視の目だとは気づけなかっただろう。
とはいえ、それはカフィー隊の中にいる間に限った話である。
「であれば、私が不審者を追ってラグレオ山に入ったこともわかるはずです。サイア様」
ティースはきっぱりとそう答えた。
監視があったというのはおそらく本当だと思ったが、ティースはカフィー隊を離れてからもその気配を一切感じていない。つまり監視があったのは別行動を開始する前までだ、と、ティースはそう判断したのである。
するとサイアは小さく含み笑いをして、
「この程度では尻尾を出さぬか。……実を言うとそなたとリィナの二人については、カフィー隊を離れた時点で見失ってしまった。嵐の夜のことでな。まあ仕方あるまい」
しかしこれはほんの小手調べ、とでも言いたげな顔でサイアはさらに続けた。
「私はその夜に、そなたが今回の敵がヴァンスの隠れ家ではないという情報を仕入れたと考えている。不審者を追うと言って隊を離れたそなたの行動はいくらなんでも唐突すぎたからな。推測するに、現れた不審者はおそらく<人魔>の集落の関係者だ。そこで事実を知ったそなたは不測の事態に備えてエルレーンだけをカフィー隊に残し、混乱に乗じる形でリィナとともにカフィー隊を離れた。向かった先はもちろんラグレオ山ではなく、標的となった<人魔>の集落だ」
流暢なサイアの言葉は自信に満ち溢れており、寸分違わずにティースの行動を言い当てていた。
「ラグレオ山に入ったという証言が本当なら不自然な点もある。不審者を見失い、一日余り遅れてカフィー隊を追ったのなら、そなたらはその時点で我々とかなり近い位置にあったはずだ。合流しなかったのがおかしいとは言わんが、我々と共に行動していたシーラになんの連絡もなかったのはおかしい。そなたらディバーナ・ロウはほとんどの街に連絡用の情報部隊を置いているはずだ。その程度の余裕がなかったはずもあるまい」
「それは……その時点では連絡が必要ないという判断でした」
ティースがそう答えると、それまでサイアの隣で黙っていたルーベンが小さく笑って言った。
「チームが予定外の行動を取っていたのに、ですか? それが本心ならあなたの隊長としての資質を疑います」
「……!」
ティースは言葉に詰まった。視線を動かしてルーベンを見ると、ルーベンはなんともとらえどころのない飄々とした表情でティースを見ている。
ティースは無言のまま視線を戻した。
サイアが詰問を続ける。
「ではティーサイト。カフィー隊が<人魔>の奇襲を受けた夜、一緒にいたはずのエルレーンが一時的に隊内から姿を消していたらしいと聞いたが、それについてはどうだ?」
「いえ……私はずっと一緒に行動していたと聞いています。どなたの証言かわかりませんが、あのとおり小柄ですから、どこかの死角に入り込んでしまったのではないでしょうか」
「ふむ。では作戦地点の麓辺りまで主要路は一つしかないはずなのに、そなたらが退却するカフィー隊とすれ違ってしまったのは?」
「それは……急いで追いつこうと山脈沿いの悪路を近道として使用しました。あんなに早いタイミングで撤退する可能性を考えていませんでしたから」
かろうじて言い訳をこじつける。
が、ボロが出るのは時間の問題に思えた。
なにしろティース側には何の武器もないのだ。アリバイもなければ物証もない。あるのは即席で偽造した証言だけで、それに説得力を持たせるような手段もなかった。
やがてサイアはやや口調を和らげる。
「……ティーサイトよ。素直に認めるつもりはないか? そなたがここで認めなければ、あるいはカフィー隊に証言を求めることにもなりかねん。が、私はなるべくそうしたくない。理由はそなたにもわかるな?」
「……」
ティースは言葉に詰まった。
確かにカフィー隊の隊員に詳しく聞けば、おそらくあの夜にエルレーンが隊内にいなかったことはほぼ証明されてしまうだろう。いくら彼女が小柄で華奢とはいえ、誰一人として目撃していないのはいくらなんでも不自然だ。
さらにカフィー本人が証言すればもっと危険な事態にもなる。いくらティースのことが眼中にないとはいえ、水を向けられればあの夜の包帯男がティースと非常に近い体格をしていたことに気づいてしまうだろう。
それは一番あってはならないことだ。
(でも……待てよ)
心が揺らぎそうになって、ふと気づく。
(……いや、これもハッタリだ。サイア様がカフィー隊に証言を求めるはずはない)
カフィーが事実を知れば今回のティースの行動はおそらく公になってしまうだろう。明かしたくない事実による脅迫は秘密であるからこそ意味がある。それをやっては本末転倒だ。
もちろんサイアが最終的に自分の目的を果たせなくなった場合、思い通りにならない腹いせにその手段を取る可能性もなくはない。しかしこれまでの会話の内容を思い返しても、彼女がそこまで思慮の浅い行動を選択するとは思えなかった。
それに、そもそもそんなことをする必要がないのだ。
サイアは魔印章という絶対的な証拠をすでに持っているのだから。
(……でも、どうしてすぐに魔印章を持ち出さないんだ?)
ティースの胸に疑問が浮かぶ。
サイアの膝元に視線を向けると、彼女の手の中にはルーベンから渡された魔印章が握られたままだった。
腑に落ちない。
サイアはハッタリを多用してティースの自供を促そうとしているように思えるが、そんな回りくどいことはそもそも必要ないのだ。魔印章を示せばティースの証言が嘘であることはすぐに証明されるのだから。
(余裕を見せてるのか……それとも)
しかしそこで閃く。
(……いや、違う。なるべくなら向こうも出したくないんだ)
そう気づいた。
確かにその魔印章は絶対的な証拠であるが、よくよく考えてみればサイア側にとっても多少のリスクを含む代物である。
なぜなら、彼女はまず最初にそれをどのようにして手に入れたかを示さなければならないからだ。
ティースに魔印を押したあの男がルーベンだったにせよ他の誰かだったにせよ、サイアの意思を受けた何者かであったことは間違いないだろう。その男が契約の名の下にティースを手助けし、カフィーと剣を交えた以上、サイア側もその事実を軽々と口にするわけにはいかないのだ。
となると、おそらくは匿名の密告者などの曖昧な架空の人物を仕立て上げ、その人物が持ち込んだと言うしかないだろう。
ティース側にそれを否定できる材料はない。いや、否定できたとしても、それは魔印章の出所についてであって、証明そのものをひっくり返せるわけではないからほとんど意味がない。
ただ――
ティースはつい先ほどこの場所で見た光景を思い出す。
もしも魔印章の存在が彼――カフィーに知られたらどうなるか。
一度ルーベンを疑ったカフィーが疑惑を蘇らせ、魔印章の出所について問題視し、さらに厳しく追及しようとするのはおそらく間違いないだろう。あの男がサイアやルーベンの身内だと証明する手段はカフィーにもないはずだが、匿名の密告者が魔印章を持ち込んだなんてのはどう考えても不自然だ。
もちろんそんな事態はティースが自らの身を捨ててでもカフィーに協力しようとしない限り起こり得ないし、そんなことをするはずもないが、しかしティースの人間性すべてを把握しているわけではないサイアがそのリスクについて考慮している可能性は高いだろう。
そう考えると、つい先ほどの<魔>についての世間話と、自棄を起こすなというサイアの言葉の真意も見えてくる。カフィーよりもサイアたちに知られたほうがマシ――ティースにそう認識させるためのものではないだろうか、と。
しかし。
(……どちらにしてもダメ、か)
一瞬その推測がこの窮地を脱する蜘蛛の糸になるのではないかと考えたティースだったが、すぐに思いなおすことになった。
ティースが考えたようなリスクは当然サイアも最初から織り込み済みのはずだ。それでもこうして魔印章を証拠として取得した以上、ハッタリの材料にするだけとは考えにくい。なるべく出したくないと思ってはいても最後には使ってくるだろう。
(つまり、どっちにしても抜け道はないってことか……)
完全に追い詰められていた。
形勢は圧倒的に不利、というより丸腰同然のティースではそもそも戦いにすらなっていないのである。
「……ふむ。どうやら素直に認める気はない、か」
それでも突破口を探して黙り込むティースに、サイアがため息を漏らす。
「最後まで諦めない姿勢は嫌いではないが、それも状況による。どうあっても勝ち目のない戦いは素直に負けを認めることも必要だろう。……仕方あるまい」
そう言いながらゆっくりと右手の魔印章を持ち直した。
「!」
ハッとして顔を上げるティース。
だが、その直後。
「……なんだ?」
急にサイアが視線を上げたのはノックの音が聞こえたからだった。
「サイア様。お話の最中にすみません。お客様がいらしてます」
部屋の外から返ってきたのはナタリーの声。
サイアが不審そうな顔をして、
「客? 今日はもう誰とも約束はないはずだが……まあいい。通せ」
「はい。……では、どうぞ」
ゆっくりとドアが開く。
そして、
「……え?」
振り返ったティースの視界に入ってきたのは、なんとも意外な人物であった。
一方。
「そういうことがあったのね」
ティースとナタリーが部屋を出て行った後、監視の目がなくなったシーラはようやくリィナたちから今回の事件の経緯を聞かされていた。
「シーラはどう思う? 最初から最後まで全部ワナだったのかな?」
そう尋ねたのは部屋の入り口付近に立ったエルレーンである。
時折廊下を気にしているのはナタリーが戻ってきて会話を聞かれることを警戒したものだが、今のところその気配はなさそうだ。
部屋の中には、シーラが改めて入れた紅茶の香りが漂っている。
「それはどうかしら。そのエルバートって子と再会するところまで予想できないし、全部が全部計画どおりだったとは思えないけど。たぶんサイア様はティースが転びやすい舞台を用意しただけで、結果的に思惑どおりになってしまったというのが本当のところじゃないかしら」
シーラはわずかに眉間に皺を寄せていた。
結果的にとは言ったものの、ティースという人間をよく知る者からすれば、今回の件で彼の動きを誘導するのはおそらく非常に簡単である。
ただ一言、標的が罪のない善良な<人魔>たちであると伝えるだけでよかったのだから。
今回その役目を担ったのはエルバートというイレギュラーな存在だったが、たとえエルバートがいなくとも、別の誰かがどこかのタイミングで事実を伝えていれば、おそらくは似たような結果となっていただろう。
ティースの性格や今回の標的である集落の内情などについて、サイアが事前にどこまで把握し、そしてエルバートの存在がなかった場合に具体的にどうするつもりだったのかはわからない。あるいはいずれもあやふやで特に計画らしい計画はなく、なにも起きなければそれはそれで構わないという、サイアにしてみればクジを一回引いてみたという感覚だったのかもしれない。
「でも、そのクジで大当たりが出ちゃったってことよね。相変わらず運の悪い男だわ」
と、シーラは悩ましげにつぶやいた。バナナの皮を踏んで尻餅をつくだけでは飽き足らず、そのまま後頭部を打って悶絶してしまうほどのサービス心旺盛な不幸っぷりである。
それはそれでティースらしいのだけど――と、彼にとっては少々酷な評価を下しつつ、シーラは窓の外に目をやった。
今日は夏らしい晴天の一日で、夕刻になっても外はまだ明るい。わずかに開いた窓からは生ぬるいそよ風が流れ込み、人々の喧噪と虫の鳴き声が絶妙な和音を響かせていた。
「シーラ様。向こうの目的はなんでしょうか?」
と、リィナが言った。ティーカップを両手で包み込むように抱えていて、中身はシーラが作った苦いお茶のまま。交換を勧めたものの、せっかく入れてくれたものだから最後まで飲むと言って頑固に譲らなかったのである。
ちなみに中身はとっくに冷めていて半分も減っていない。
「なにか要求してくるのは間違いないでしょうね。<魔>に協力したことを黙っておく代わりに言うことに従えとか、そういうことかしら」
そう答えながらシーラは過去のサイアとの会話を思い出す。
手元にジョーカーを置いておきたい、と、サイアはそう言っていた。そこから推測するに、おそらくは今すぐにどうしろとかではない。今日はとりあえずティースに事実を認めさせるところまでだろう。
「ティースが認めれば、今度はそれをネタにディバーナ・ロウに対しても何らかの要求をしてくると思うわ、きっと」
そんなシーラの言葉に、リィナは神妙な顔をした。
「……すみません。私、ずっとティース様と一緒だったのに、ぜんぜん気づきもしなくて……」
「あなたのせいじゃないわ、リィナ。あなたとティースは集落の人たちを救うので頭がいっぱいだったでしょうし。もちろんエルの責任でもない」
「どうにかできないかな?」
やはり神妙な顔のエルレーンがぽつりとそう呟いた。
しかしシーラは首を横に振ると、
「今からではとても……ね。だからこそ向こうも私たちの監視を外したんでしょうし」
「ティース様はどうするつもりでしょう?」
と、リィナ。
シーラは少し考えて、
「状況をひっくり返すような考えがあるとは思えないし、最終的には全部認めたうえでディバーナ・ロウは関係ないと言い張るつもりかもね。もしかしたらあなたたち二人も関係ないって言うかもしれない。魔印を押されたのはティースだけでしょ? ……向こうがその言い分を受け入れるかはわからないけど」
「つまりボクらは黙って成り行きを見守るしかない、ってことだよね……」
エルレーンはやりきれない表情でうつむく。
もちろんエルレーンも、ティースが呼び出されてしまったこの状況では完全に手遅れだとわかっていた。
しかし、ティースたちが苦労して達成した救出を第三者に利用され、この先もいいようにつけ込まれてしまうというのがあまりにも悔しかったのである。
その心境は、うつむいてテーブルに視線を落としたリィナも同じだった。いや、ジラートを出てからずっとティースと行動をともにしていた彼女はさらに自責の念も強かっただろう。
そんな二人の表情を交互に見つめたシーラは一度窓の外に視線を送る。
そして、
「……そうね。成り行きを見守るしかない……でも、やることがあるとすれば」
シーラは往来の向こうに見覚えのある道着姿の一団を見つけ、さらに続けた。
「向こうに対抗してこっちもクジを引き続けるぐらいかしら。……当たりが入ってるかどうかはわからないけど」
「え? ……クジ?」
「……どういうことですか?」
きょとんとするリィナとエルレーン。
そんな二人に対し、シーラはほんの少しだけ首を傾けてみせた。
「二人とも運の良さには自信ある? ……私は多少あるのよ、こう見えても」
そう言って微笑んだのである。
「……その道着。もしやガントレット道場のものか?」
サイアの部屋を訪れたのは、どうやらティースが世話になったガントレット道場の門下生のようだった。
年齢は二十歳前後だろうか。部屋に足を踏み入れたのは一人だったが、外にも数名、同じ道着姿の男たちが控えているのが見えた。
しかし、
「あ、も、申し訳ありません。まさか公女様のお部屋だったとは知らず……」
部屋に入った男はサイアの姿を見て、明らかに驚いたような反応を見せる。
サイアは不審な顔をして、
「私の部屋と知らなかったとはどういう意味だ? 私に用があったのではないのか?」
「……あ、違います、サイア様」
そこに口を挟んだのは、彼を部屋に招きいれたナタリーである。
「お客様というのはティースさんのです」
「……え? 俺の?」
その言葉に驚いたのは当のティースである。
心当たりがなかったというのもそうだが、自分の客でサイアとの面会を中断させてしまっても大丈夫なのかと思ったのだ。
しかしナタリーは悪びれた様子もなく、
「サイア様とお話し中だったのでどうしようかとは思ったんですけど、待っていただくには遅い時間ですし、すぐに済むというので。それになんといってもリゼット様のご実家の門下生の方々ですから」
「……」
サイアとルーベンはなんともいえない表情をしていたが、客が現役ディグリーズを三人も輩出した道場の人間だからか、あるいはナタリーがそういうキャラクタであると諦めていたのか。
結局は特に彼女を咎めるようなことはなく、
「それで? ティーサイトへの用というのはなんだ?」
「は、はい。あの……」
逆に、ここがサイアの部屋だと知らなかったらしい門下生の男は恐縮しきりだった。
「実はティースさんのものと思われる落し物を修行中に拾ったのでお届けに……ただ、それだけの用事だったのですが」
「落し物?」
サイアが再び不審そうな顔をする。
ティースにも覚えがなかった。
しかし門下生の男は右手をティースに向かって差し出すと、
「こちらのバッジ、おそらくティースさんの落し物ではないかと……」
「バッジ? ……あ」
そこにあったのは、手の平よりも一回り小さい金属製のバッジだった。泥のようなものでかなり汚れていたが、その下から覗く金属面は澄んだ銀色の輝きを放っている。
刻まれていたのは十字をあしらった紋章。
「ディバーナ・クロスの隊章……」
それはティースたちディバーナ・クロスのメンバー全員が身につけている隊章だった。
「あ、やはりそうでしたか。道場に滞在されている間に見たのと同じだったので」
「いや、でも……」
ティース自身の隊章は今もシャツの胸元についている。
……いや。
「あれ……あれ?」
指先に触れるはずの堅い金属の感触はなかった。
「はい。ですから、これ」
ニッコリと門下生の男が隊章を差し出してくる。
(……落とした? いつの間に?)
腑に落ちなかった。
ティースは毎朝服を着るときに必ず隊章の存在を確認している。義務としてやっているわけではないが、なくなっていれば違和感に気づくはずだった。
ガントレット道場に滞在していたのは十日近くも前のことである。いくら緊急事態にあったとはいえずっと気づかないことは考えられないし、そもそもティースの記憶によれば、今朝は間違いなくあったはずなのだ。
なんとも腑に落ちない……が、それでも差し出されたものがディバーナ・クロスの隊章であることには間違いがなく、ティースは首をかしげながらもそれを受け取る。
(……なんだこれ。ずいぶんベトベトしてる)
受け取った隊章の表面についた泥は少し粘着質で、軽く擦った程度では落ちなかった。どうやらきちんと水で洗う必要がありそうだ。
門下生の男は満足そうにうなずいて、
「よかったです。ちょうどこの街にいる間に渡すことができて。それでは、私はこれで――」
「……少し待て」
足早に退室しようとした男を呼び止めたのはサイアだった。
「その隊章……ずいぶんと汚れているように見えるが、どこで拾ったものだ?」
「え、はい。ええっと……」
こういう場には慣れていないのか、門下生の男は明らかに緊張した様子だったが、それほど間をおくことなく答えた。
「実は私ども、修行のため今日まで一週間ほどラグレオ山にこもっておりました。隊章はその山中でたまたま見つけたものです」
「……なんだと? ラグレオ山?」
サイアは明らかに動揺を見せた。
そんな彼女以上に驚いたのはティースだ。
(……ラグレオ山で拾っただって? そんな馬鹿な!)
そう思ったのも当然だろう。ティースには隊章を落とした記憶もなければ、ラグレオ山に入った覚えもないのだ。にもかかわらず、隊章はいつの間にか胸元から消え、それをラグレオ山に山ごもりしていたガントレット道場の門下生が拾ったというのである。
戸惑うなというほうが無理な話だった。
「もう少し詳しく聞かせてください」
と、驚きで固まっているサイアの代わりにルーベンが質問を続けた。
その言葉は淡々としてはいたが、表情を見る限りルーベンも少なからず驚いているようだ。
「ラグレオ山といっても広い。そんな小さな隊章をいつ、どのようにして見つけたんです?」
そんなルーベンの質問にも、門下生の男は戸惑うことなく答えた。
「見つけたのは三日前の昼間で、本当にたまたまでした。あの辺りには光り物を集める習性の獣がいるんですが、その巣の中に他のガラクタと一緒に混ざってまして」
「場所は?」
「いつも山ごもりに使う小屋の近くです。ここからだと徒歩で丸一日ぐらいのところでしょうか。ああ……そうだ。私ではないですが、山にこもってすぐの頃にティースさんらしき人影を見た者がいて、それで私もすぐにこれが落し物じゃないかと気づいたんです」
「……」
無言のサイアがますます険しい表情になった。
ティースたちがこのジラートから<人魔>の集落に向かったとすれば、その逆方向にあるラグレオ山中にわざと隊章を落としていくことは難しい。それも徒歩で一日かかる場所となると時間的に無理があるのだ。
門下生の男の証言は、取りも直さずティースのアリバイを証明することとなっていたのである。
「わかりました。……サイア様? もう帰ってもらっても?」
ルーベンがそう伺うと、サイアは少し迷った様子を見せた後で小さくうなずいた。
門下生の男が一礼して踵を返し、ドアが閉まる。
すぐにルーベンが言った。
「ナタリー。部屋に戻ってディバーナ・クロスの皆さんの隊章を確認してください。あの三人がそれと同じものを持っているかどうか」
「え? あ、はい、わかりました」
いまいち状況を理解していない様子のナタリーが言われるままに部屋を出て行く。
そして、しばし沈黙の幕が下りた。
(……どういうことだ)
ティースは必死に状況を理解しようとしていた。
今朝まで胸にあったはずの隊章がいつの間にか消え、数日間は経過したと思われる汚れとともにまったく行ったことのない場所から発見された。しかも未確認ではあるが、その近くでティースらしき人影を目撃した者もいるという。
まさに狐につままれたような出来事だった。
「少し……そなたを侮っていたかもしれんな」
沈黙の中、サイアがポツリとそう呟く。
ティースが顔を上げると、サイアは少し苦々しい表情をしていた。
「ネービスを出立してから今日まで、そなたらの中にラグレオ山の奥深くまで行けた者はいない。そなたとリィナは時間的に到底無理だし、エルレーンはカフィー隊と、シーラは我々と行動を共にしていた。つまりそのアリバイ工作をしたのは指示を受けた何者か、おそらくはディバーナ・ロウの情報部隊ということになるが……」
いったん言葉を止めて思案すると、
「シーラについてはずっと外部の者との接触を監視してきた。となると、そなたが事前にこっちの思惑を察し、このジラートを発つときにアリバイ工作するよう指示したとしか考えられない。……少々しゃくに触る話ではあるがな」
「……」
ティースは何も答えずに視線を下ろし、床の赤い絨毯をじっと見つめた。
サイアの推測は至極当然のものだったが事実ではなかった。
先ほどの門下生がラグレオ山で隊章を発見したのは今から三日前だという。それはカフィーとの戦いの翌日で、ティースはまだラグレオ山から遠く離れた場所にいた。そこから工作するなんてのはもちろん不可能だし、だからこそサイアは事前に対策していたと考えたのだろう。
しかし実際にティースがサイアの思惑に気づいたのはカフィーとの戦いの最中である。
ティースはもちろんのこと、リィナにもエルレーンにもアリバイ工作できるようなタイミングはなかったのだ。
とはいえ。
ディバーナ・クロスの隊章がまったく関係のない山中で発見されたことが偶然であろうはずもない。
(……じゃあ、まさか)
そしてティースは一つの可能性に思い当たる。
脳裏に蘇ったのは、つい先ほどの部屋の中での出来事。サイアへの謁見の準備と称し、ティースの上着を半ば強引に剥ぎ取って慌しく身なりを整えさせたシーラの行動だ。
あのときティースは彼女の急激な接近に動揺していて何も気づかなかったが、今朝まで胸にあったはずの隊章が消えたのはあのタイミングだったかもしれない、と。
ほどなく、
「ルーベン様。三人とも間違いなく同じものを持っていました」
戻ってきたナタリーがそう報告する。
それで確信した。
今ティースの手の中にある汚れた隊章はおそらくシーラのもので、そして本来ティースのものである隊章を彼女が持っているのだ、と。
(あいつ、なに食わぬ顔で……)
ティースたちの動きをほとんど知らされていなかった上に、サイアたちの監視の下にあったシーラがどうやって気づき、どうやってアリバイ工作を施したのかはわからない。
ただ、そんな彼女の工作は、丸腰状態のティースにとって大きな援護射撃となっていた。
それは報告を受けたサイアが動揺し、不遜な態度にわずかな綻びが出ていたことからも充分に感じ取れる。
そして、
「どうやら……自ら認めさせることは難しいようだな」
サイアはついに決意したようだった。
「ティーサイト。この魔印章に見覚えがあるな?」
ティースはハッとして顔を上げる。
魔印章。
その絶対的な証拠の前では、せっかくのシーラのアリバイ工作も太刀打ちはできない。
そしてサイアはその力を後ろ盾に、すぐに自信を取り戻したようだった。
「これはそなたが<人魔>の逃亡を助けたことを密告した者が証拠として持ち込んだものだ。その話が正しければ、そなたの左手にはこの魔印章によるしるしが刻まれているという」
「……」
ティースは無言でサイアの手の平の魔印章を見つめた。
もはやどうしようもない。
「この期に及んでは言質をとる必要もあるまい。……ルーベン」
「はい。……ティースさん。立ち上がって左手を見せてください」
サイアから魔印章を受け取ったルーベンがそう言って、ゆっくりとティースに歩み寄る。
どうにかならないものか――と、ティースは必死に思考をめぐらせたが、どう考えても逃れる手段などあるはずはなかった。
サイアが口元に笑みを浮かべる。
「こちらの思惑を事前に察知し、アリバイ工作をしたそなたの洞察は見事だった。……しかし残念ながらこちらが一枚上手だったな」
「……」
返す言葉もなく、ティースは観念して立ち上がった。
そんなティースの左手にルーベンが魔印章を近づける。
浮かび上がった魔印は、ティースがあの夜にカフィーとの戦いの場にいたことを証明することになるだろう。
ティースは目を閉じた。
そして、
「!」
息を呑む音が聞こえて、
「……ルーベン?」
聞こえたサイアの言葉は悦に入った勝利宣言ではなく――戸惑いの声だった。
「どうした? 早く魔印を見せないか」
「……サイア様。それが……」
答えたルーベンの言葉にも、やはり戸惑いらしきものがあった。
(……え?)
そんな彼らの反応に驚いて目を開く。
ルーベンの手にある魔印章は確かにティースの左手の甲に向けられていた。
が、しかし。
(魔印が浮かんでこない……?)
魔印章を向けられたティースの左手には何の変化も現れていなかったのである。
「……馬鹿な!」
ガタン、と、大きな音を立ててサイアが立ち上がった。
「魔印がたったの三日、四日で消えるはずがないではないか! ぎゃ、逆の手ではないのか!?」
「……」
ルーベンが無言でティースを見る。
ティースは戸惑いながらも、黙って右手を差し出した。
結果はもちろん同じだった。
「っ……そんな馬鹿なッ!」
慌てたサイアが赤い髪を振り乱しながら駆け寄ってくる。近くまで来てティースの手を穴が空くほどに見つめ、そこにやはり何のしるしも浮かんでいないことを確認すると、両拳を握り締めてわなわなと震えた。
「そんな馬鹿な……」
何が起きたのかわからないという顔をした後、サイアは睨むようにしてティースを見上げる。
「そなた……いったいどうやって魔印を……」
「いえ、俺はなにも……」
事実である。何が起きたのかわからないのはティースも一緒なのだ。
「っ……そんなはずが……」
ティースを睨みつけ、唇を震わせるサイアの顔は紅潮していた。世間擦れした不遜な態度は今や完全に消え、悔しそうな表情には大きな感情の揺らぎが見える。最初から最後まで自らの優位を確信し、それをまったく疑っていなかったからこそ、ひっくり返されたときの衝撃は相当に大きかったのだろう。
ティースはそこに初めて彼女の歳相応の幼さを見つけ、なぜか年下の少女をいじめているような見当違いな罪悪感を覚えてしまったのだが――いずれにせよ。
「……サイア様。信じがたいことですが、魔印がない以上は人違いだったとしか……」
残念そうなルーベンの指摘にサイアは返す言葉もなく。
絶体絶命の状況から一転。
ティースはわけもわからないままにアリバイを認められ、無罪放免となったのであった。
「……おかえりなさい。その様子だと報告は無事に済んだようね」
ティースが部屋に戻ると、シーラは窓際で本を読んでいた。
外はだいぶ日が沈んでいる。
「二人は?」
部屋の中にシーラしかいないことに気づいてティースがそう尋ねると、
「近くの公衆浴場に行ったわ。いつまでも砂埃まみれじゃリィナが可哀想だもの。お前はどうする? 部屋には一応洗面器を用意してもらったけど」
「あ、ええっと……」
思わず周囲を見回してしまったティースだったが、シーラの言う部屋がここではないことに気づき、照れ隠しに頭を掻きながら彼女に視線を戻す。
「今日のところはそれで済ますよ。あとで。それより、さ」
と、テーブルを挟んでシーラの向かいに腰を下ろした。
「なに?」
シーラは何事もなかったように本の続きを読んでいる。
そんな彼女の態度にティースは一瞬自信をなくしかけたが、すぐに思いなおして続けた。
「今回は……悪かったな」
「? 急にどうしたの?」
と、シーラが不思議そうに本から顔を上げる。
「いや……なんだ。ほら、色々とさ」
「色々って、それじゃなにもわからないわよ」
と、呆れ顔をするシーラ。
ティースはますますしどろもどろになって、
「いや、つまり……お前に何も連絡せずに色々と動き回ったこととか……リィナたちからもう聞いてるだろ? お前も……その、仲間なのにさ」
「ああ、そういうこと」
納得顔をして、シーラは本を閉じテーブルの上に置いた。
何気なくタイトルを見ると、どうやら最近ネービスの街で人気になっている、デビルバスターを題材にした架空の娯楽小説のようだった。
本から顔を上げたシーラは少しだけ悪戯っぽい微笑みをティースに向けると、
「誰かに何か言われたのね? その言葉、お前にしては気が利きすぎてるもの」
「……いや、まあ」
まったくの図星だった。
ティースはルーベン――いや、今となっては正体が定かではない謎の男から言われた“仲間”についての言葉が、あれからずっと頭に引っかかっていたのである。
同じチームの一員であるにもかかわらず、最後の最後まで何も知らされなかった彼女の心境――あれから何度もそれを想像し、謝らずにはいられなくなっていたのだ。
ティースは言葉を選びながら、
「だけど、その……勘違いしないで欲しいんだ。俺はさ、その、別にお前を仲間はずれにしてたわけじゃなくて。お前が頼りにならないと思ってたわけでもなくて。えっと、つまり……」
どう説明しようか迷って言葉を止めた。
これで察してくれないかと思い、期待を込めてシーラを見る。
だが、
「なぁに?」
シーラは組んだ手の甲に顎を乗せ、真っ直ぐにティースを見つめ返すだけだった。
微笑みは浮かんだまま。
明らかに察していながらも、ティースにそれを言わせようとしているようだ。
「……いや、だから」
ティースはますます困って視線を泳がせる。
「この仕事を認めておきながら、今さらなにを、って思うかもしれないけど、俺はやっぱりお前を、その、なるべく危険なことに関わらせたくないっていうか……」
「どうして?」
「ど、どうして? そ、そりゃあ……」
仕方なく、ティースはやや赤面しながら続ける。
「俺は……その、お前のことが大切だから……」
「……」
一瞬の沈黙。
シーラはくすっと吹き出すように笑って、一言。
「知ってた」
「……あ、あのなあ。じゃあ言わせなくても……ていうか、笑うことないだろ……」
「だってお前、真顔なんだもの」
ティースの抗議に、シーラはますますおかしそうに笑った。
「わからないはずないじゃない。だからお前が私を避けて仕事したがっても、ずっと文句の一つも言わなかったんだから」
「……そ、そうか」
からかうような言葉に、ティースはなんだか自分がピエロになったような気がしてさらに恥ずかしくなってしまった。
そんなティースを見てシーラは目元を緩める。
「だからお前の好きなようにしていいのよ、ティース。そりゃ私も役には立ちたいけど、押し付けるつもりはないわ。私は私で自分にできることを勝手に見つけるつもりだから」
「……シーラ。お前……」
言葉に詰まってティースが顔を上げると、シーラは優しく微笑みながら左手を伸ばした。
そしてテーブルの上にあったティースの手に、自分のそれをそっと重ねる。
「今は求められることよりもしてあげることのほうが大事なの。お前が十何年も私にしてくれたみたいにね」
「……」
手の甲から伝わる温もりに顔が火照り、少し遅れて胸の奥がジンと熱くなった。
恥ずかしいやら嬉しいやらでわけがわからなくなり、とりあえず表情を見られないようにと顔を横に向ける。
「食べる?」
そんなティースの鼻先にシーラの手が差し出された。
驚くほど細く可憐な指先には、一枚のビスケットが挟まれている。
「あ、ああ……」
何も考えずにそれを口に入れると、明らかに覚えのある苦味が口内に広がって――
そしてティースはおおよその事の真相を察したのだった。