その13『間隙』
「これで取引は成立しました」
十秒ほど左手の甲に魔印章を押し付けた後、男――いや、ルーベンは小さくうなずいてティースにそう言った。
確認してみると、魔印章を押し付けられた手の甲には淡い紫色の紋章が浮かんでいる。
(……魔印、か)
これによって、ティースが今日この場所にいたことは客観的に証明されることとなった。もう後戻りすることはできない。
「ではさっそく作戦を説明します」
ティースの複雑な心境をよそに、ルーベンは魔印章を無造作に懐にしまいこむと、
「いまさら言うまでもないとは思いますが、カフィーの<炎龍胆>は非常に強力です。真っ向からやりあっても勝算は薄い」
「……」
同じディグリーズでも――と、ティースは口にしかけてやめた。
互いの素性についてはどちらももう確信している状況ではあるが、ルーベンのほうは最後まで自ら正体を明かす気はないようだったからだ。
そしてティースは代わりの質問を口にする。
「じゃあどうすればいいんです? <炎龍胆>を封じる手があるんですか?」
ルーベンはうなずいて、
「ええ。鍵はあなたのその武器です」
そう言って<細波>を指し示すと、そのままティースを誘導するように顔を動かして正面のカフィーに視線を向けた。
「あいつの腰の辺りを見てください。短い筒のようなものが見えますか?」
「……」
ティースが懸命に目を凝らして見ると、確かに。カフィーの腰の後ろ側には短い筒のようなものが二つくくりつけられていた。
「あれは魔導器<双龍棍>の、いわば鞘です。そしてある意味本体でもあります。あの鞘はカフィーの力や意思を<双龍棍>に送る制御器のような役割をしていて、あれがなければ<双龍棍>は動力とコントロールを失い、炎龍も<炎龍胆>も効果を失う。そういうことです」
「……なるほど」
ティースは小さくうなずき、さらに目を凝らしてカフィーの“鞘”を観察した。大きさはちょうどこぶし大ぐらいだろうか。カフィーの腰の背中側、わずかに左よりのところにしっかりと固定されている。
ルーベンが続けた。
「ただ、あの鞘も強力な魔力を帯びた<魔導器>の一部なので、私の平凡な鋼の剣ではとても歯が立たない。でも、あなたのその<神具>なら可能でしょう。秘めた魔力の格はむしろ<双龍棍>を上回っているようだ」
なるほど――と、再び納得しつつも、ティースは思わず眉をひそめていた。
ルーベンが即座に反応して、
「自信がありませんか?」
「……簡単だとは思えません」
ティースは正直にそう答えた。
なにしろ<双龍棍>の鞘があるのは、カフィーの腰という体の急所にごく近い場所である。そこに渾身の一撃を叩き込むというのは、相手に普通に致命傷を与えるよりも難しいかもしれなかった。
しかしルーベンは事も無げに、
「まあ当然ですね。そういう相手ですし、それを殺さないように手加減して制圧しようとしているわけですから」
「……」
改めて言われてみればそのとおりだった。相手はネービスで十指に入る凄腕のデビルバスターなのである。ティースのやろうとしていたことは――それ以外の手段が思いつかなかったとはいえ――そもそもが無茶な試みだったのだ。
「でもその問題はすでに解消してますよ。そのための取引だったんですから」
ルーベンはそう言って一歩前に出た。
「私がカフィーの注意をひきつけます。あなたは適当に立ち回りながらカフィーの隙を窺ってください。いいですか?」
「隙……はい、わかりました」
今のカフィーの強さを身をもって体験しているだけに正直なところ自信はなかった。ただ、自分がやるしかないのはわかっていたし、そうである以上は余計なことをくよくよと考えていても仕方がない。
ティースは<細波>を握る手にグッと力を込めた。
「やります」
力強くもう一度そう言ったティースに、ルーベンは満足そうにうなずいた。
「じゃあ、いきますよ」
直後、上空で爆音が響く。
炎龍が三度目の炎を吐いたのだ。
ティースはそれに気を取られそうになったが、リィナやエルレーンが頑張って防いでいるというルーベンの言葉を信じることにして、目の前だけに意識を集中させる。
そして――まるでその攻撃が開戦の合図だったかのように、カフィーと男の戦いはすでに始まっていた。
十数メートルの距離は一息で零となり、激しい剣戟の音が波動となって空気を震わせる。
(……速い!)
ルーベンの戦闘スタイルはどうやらスピード型だ。間合いに入った後も決して同じ場所に立ち止まることなく、常に有利な間合い、有利な角度をキープしながら目にも止まらぬ連撃を放つ。
そのスタイルは武器こそまったく違うものの、ディバーナ・ロウでいえばアクアに近いものだろう。
一方、
「……ちっ」
最初こそ余裕しゃくしゃくでルーベンの攻撃を受け止めたカフィーだったが、すぐに相手がただ者ではないことを悟ったようだ。表情を引き締めると、合わせる剣に強い圧力をかけてルーベンの足を封じようとする。
スピードはルーベン、パワーはカフィーのほうに分があるようで、始まってすぐの打ち合いはまったく互角の様相を見せていた。
そして、
(……よし)
そんな二人の剣戟を目の当たりにして少々圧倒されながらも、ティースもまた自らの役目を果たすために静かに二人との距離を詰めていった。
戦いに割って入ることは難しいが、ティースの目をもってすれば動きそのものは追うことができる。実際、カフィーの意識がティースから離れ、ルーベンとの戦いのみに没頭していく様子も、その動きからはっきりと伝わってきていた。
ならば、近いうちに必ず出番は訪れる。
その一瞬を逃さないように――と、ティースは集中力を高めていった。
揺らめく炎。
舞い上がる土埃。
その中心で重なる二つの剣舞。
「おっかしい……どー考えたっておかしいぜ! てめえらッ!」
やがてカフィーが雄叫びのように声を張り上げた。
「こんな山奥にコソコソ隠れてるやつらの中に、てめえらみてーのがいるわけねぇッ! どーなってんだ、おぃ! てめえらいったい、どこのどいつだッ!?」
怒気が熱波となって辺りを覆いつくす。
どうやらカフィーは奥の手を解放してもなお、思い通りにいかない戦況にかなり鬱憤がたまっているようだ。その迫力は普段のティースであれば多少なりとも怯んでしまうほどのものだったが、今の彼が感じていたのはまったく別のことだった。
(……冷静さを失っている。これならきっと――)
ティースはさらに集中の深度を高めた。呼吸を整え、全神経を研ぎ澄ます。
小さな針の穴に糸を通すように細く、細く、鋭く、鋭く――
強大な敵に対する劣等感、失敗の恐怖、後背の憂い。心を乱すあらゆるノイズを消していくと、やがてうねっていた精神の水面に穏やかな凪が訪れる。
手の平の汗が引いて、<細波>からは熱のようなものが伝わってきた。
(……やれる。やれるはずだ)
熱が全身を巡り、自信が満ちた。
そしてティースは打ち合う二人との距離をさらに詰めていく。
(カフィーさんは完全にルーベンさんに圧倒されている。これなら……)
カフィーほどの実力者なら相手との間合いには常に敏感であるはずなのに、ティースの動きにまったく反応していない。つまりカフィーはルーベンとの打ち合いに手一杯で、今のティースは完全に意識の死角に入り込んでいるのだ。
距離はわずか数メートル。攻撃の間合いに踏み込んで、標的に<細波>を打ち込むまでの時間はおそらく一、二秒。
一、二秒の勝負だ。
もちろん実際に仕掛ければカフィーは間違いなく反応してくるだろう。だが、ティースの奇襲に気づくまでのコンマ数秒のタイムロスが、ティースとカフィーの間にある実力差を埋めてくれる。ルーベンの攻撃と呼吸を合わせることさえできれば、充分に勝算のある賭けだった。
「ふぅ――っ!」
ルーベンが短い呼吸音を発し、攻撃が激しさを増した。
その勢いに押されてカフィーが下がる。
ティースはそれがルーベンからの合図だと気づき、即座に動いた。
(この一回で決める……集中しろ、ティースッ!)
感覚が極限に研ぎ澄まされる。
ティースの視界が、まるでコマ送りのようにスローな時間を刻み出した。
「ちっ……調子に乗りやがって――」
激しさを増したルーベンの攻撃に対抗すべく、カフィーが前のめりの姿勢になった。その瞬間、背後の警戒が完全にゼロになる。
勝機を悟り、ティースは駆けた。
「! っ……てめぇッ!?」
カフィーが左後方から近づくティースの動きに気づいたのは、ティース自身が予想していたよりも遥かに遅かった。
「ちぃ――ッ!」
回避行動に移ったのは、ティースが最後の一歩を踏み込んだ後。
もう到底間に合わないタイミングだ。
「うおォォ――ッ!!」
ティースは雄叫びのような声を上げ、<細波>を<双龍棍>の鞘に打ち込んでいく。
これ以上ない完璧なタイミング。
完璧な連携だ。
しかし――突然の異変がティースを襲ったのはそのときだった。
「……え……?」
チカ、チカ、と。
急に視界にノイズが走ったかと思うと、踏み込んだ右足がガクンと崩れたのだ。
研ぎ澄まされていたはずの全身の感覚が急速に薄れ、ティースはまるで操り人形の糸が切れてしまったかのように大きく体勢を崩した。
「く……ッ!」
突然の異変に戸惑いながらも、ティースはどうにか<細波>を振り下ろす。
が、そこから伝わってくるはずの感触はなく――
「なにをしてる! 避けて!」
直後に聞こえたルーベンの声はぼんやりとした頭の中で反響するだけで、ティースはその意味を瞬時に理解できなかった。
(避け……)
ああ、失敗したのか――と、そう気づいたティースの眼前に白刃が迫る。と同時に、重量のある黒い影がティースの腹にぶつかってきた。
「ぅ……ぐ……ッ!」
息が詰まる。
ティースはそのまま後方に吹っ飛んで地面を転がった。
体中に鈍い痛みが走り、景色がぐるぐると何度も回ってようやく停止する。
そして、
「……大丈夫ですか?」
耳元で聞こえたのはルーベンの声。
「え、あ……」
全身の痛みが頭の中にかかっていたモヤを晴らし、視界が色を取り戻してティースはようやく状況を把握した。
目の前にはルーベンがいて、立ち膝の体勢で右手の剣を正面に向けている。その十メートルほど先ではカフィーが剣を振り下ろした体勢で固まっていた。
どうやらルーベンは攻撃を失敗したティースがカフィーの反撃を避けられないと判断し、とっさに体当たりでかばってくれたようだ。
「す……すみません! 俺……ッ!?」
慌てて身を起こそうとしたティースだったが、途端に強烈なめまいに襲われる。膝がガクンと崩れ、前のめりに地面に手をついてしまった。
「あ……なんで――」
ルーベンはそんなティースの様子を肩越しに見ながら、
「……ここまで相当無茶をしたみたいですね。ま、あなたの性格を考えれば予想できましたけど」
「っ……」
そう言われてティースはようやく自分の体の状態を理解した。
ほぼ丸四日の強行軍と断眠に加え、健常時でも大きく消耗する<聖女の結界>の使用。そして極限の集中を必要としたカフィーとの戦い。ほぼ無休で動き続けたティースの体力はとっくに尽きていたのである。そして不幸なことに、集落の人々を助けるというティースの強い使命感が、彼にそれを自覚させることを妨げていたのだ。
(……こんなときに――)
あまりの不甲斐なさに奥歯を噛み締めながら、どうにか立ち上がろうとティースは膝に手をついて力を込めた。
が、膝は地面から数センチ浮いたところで力なく崩れてしまう。
「どうします? あなたの力がないとカフィーを止めるのは無理です。それに――」
ルーベンの声がわずかに険しくなった。
「カフィーももう後先を考えないようです。“アレ”はさすがに体の負担がデカいはずですが……」
「!」
上空で咆哮が轟いた。ティースが見上げると、残っていたもう一匹の炎龍がカフィーの頭上に降りていくのが目に映る。
「……まさか」
とうとうカフィーは二匹目の炎龍の力も、<炎龍胆>として自分の中に取り込んだのだ。
カフィーの纏う炎が一気に勢いを増すのがわかった。
さあ、どうします――? と、ルーベンはもう一度ティースに問いかける。
「逃げるのならお手伝いします。あなたとあなたの部下二人ぐらいは私の力で逃がしてあげられると思いますが」
しかし、そんなルーベンの申し出にティースは首を横に振った。
「それは……できません」
「ほぼ即答ですか。いくらあなたでも現状ぐらいは理解できていると思いますが」
と、ルーベンは呆れたように言った。
ティースはうなだれて、
「すみません。でも――」
いくらティースでも、自分のやり方に不備があったのはもうわかっている。そのツケがこうして回ってきていることも充分に理解しているし、先ほどの絶好の機会をモノにできなかったのも、体調管理というもっとも初歩的な確認を怠った自分のミスが原因だった。
しかしそれでも。
「お願いします。もう一度、力を貸してください。……あの集落の人たちは俺を信じてここまでついてきてくれました。だから俺がここで諦めるわけにはいかないんです!」
やり方を改善する必要があるとしても、やろうとしていたこと自体まで曲げてしまうのは、ティースにはどうしても考えられなかったのである。
「……」
ルーベンが黙り込む。
断続的な熱波が空気を震わせていた。カフィーの力がさらに増したのは見た目にも明らかだ。たとえルーベンでも、今のカフィーに対抗できるのかどうかはわからない。
だからティースはただ頭を下げるだけだった。
「お願いします」
「……」
やがて、やれやれ――といった様子でルーベンが小さく首を振る。
「ま、やろうとしていることを手伝うという契約でしたしね。私は別に構いませんけど……大丈夫ですか? 今度はたぶん、あなたを助ける余裕はありませんよ」
「やります。今度こそ」
大丈夫です、とは言えなかった。ただ、できないとわかっていて挑むわけではない。
この数十秒の休息でティースの下半身には少しだけ力が戻っていた。体力の枯渇という根本的な問題を解決できたわけではないが、そういう状態であると認識できていればやりようがないわけではない。
ただの一太刀。今度は力を無駄遣いすることなく、その一瞬のみにすべてを注ぎ込むのだ。
一秒や二秒ではなく、コンマ一秒の世界に。
そんなティースの言葉を聞いて、ふぅっ……と、ルーベンは仕方なさそうにため息を吐いた。
「わかりました。その代わり再挑戦は一度だけですよ。というか、今のカフィー相手じゃ何度もチャンスを作るのは無理ですから」
ティースはうなずいた。おそらくは捨て身で挑むことになる。言われるまでもなくチャンスは一度きりだろう。
ルーベンは膝を上げ、剣先をカフィーに向けたままゆっくりと立ち上がった。
「基本的な作戦はさっきと同じです。ただ、今度は逆にしましょう。カフィーが隙を作るのを待つのではなく、あなたの仕掛けのタイミングに合わせて私が隙を作らせます」
「俺のタイミングで?」
「あなたの消耗を抑えるにはそれが一番でしょう。それと、まずは私が少し時間を稼ぎますから、あなたはその間に呼吸を整えて、動けるようになったら好きなときに仕掛けてください。……ただし、一度仕掛けると決めたら何があっても最後まで止めないこと。タイミングがずれてしまいますからね」
実力の拮抗した相手に好きなタイミングで隙を作らせることが可能なのか――ティースはそう思ったが、何か策があるのかルーベンの言葉はあくまでも淡々としていた。
もちろんそれが上手くいくのならティースとしては文句などあろうはずもないし、今の状況ではその言葉を信じるしかない。
ティースは黙ってうなずいた。
「ああ、それと――」
ルーベンは思い出したように空いている左手で自分の懐を探り、そこから手の平サイズの小袋を取り出すと、
「これを食べてください」
「?」
受け取った小袋の中からは一口サイズの焼き菓子が二枚でてきた。懐に入っていたためか一枚は真っ二つに割れていて、もう片方は割れてはいないものの歪な形をしている。
「気休めですけど、ま、たぶん糖分を補給できるんでしょうし」
「は……はい」
そんなルーベンの言葉を少々怪訝に思いながらも、ティースはその焼き菓子を口に運ぶ。
「……うっ。げほっ」
そして咳き込んだ。……食べたことのない味だった。その外観から甘いものだとばかり思っていたが、甘いというよりむしろ苦い。まるで内服薬のような味だ。
「やっぱりマズかったですか? なるほどね」
「あの、これは……」
「時間切れです」
ルーベンが途中でティースの言葉を遮った。
二匹目の炎龍を吸収し終えたカフィーが完全に戦闘態勢を整えたようだ。
そしてティースは思わず息を呑む。
(……なんて禍々しい姿――)
カフィーの姿は先ほどにも増して凶悪になっていた。炎を身にまとっているというよりは、炎が人の形を成していると表現したほうがおそらく正確だろう。さらには強大すぎる力が内面にも何らかの影響を及ぼしているのか、ある意味豊かだったはずのカフィーの表情は完全に消え、その目には殺意の塊だけが浮かんでいた。
(あんな状態で、体がもつのか……?)
今は倒すべき敵――であるにもかかわらず、そんな心配がティースの頭を過ぎってしまうほどのカフィーの変貌振りだった。
ルーベンが剣を構えなおす。
「では、いきますよ。準備はいいですか?」
「……気をつけてください」
ほぼ無意識に口をついたティースの言葉に、ルーベンは軽い笑みで答えると地面を蹴る。
同時にカフィーも動いた。
――交錯する。
「!」
ティースは目を見張った。ガキィン! という重たい金属音とともに、打ち合ったルーベンの体が軽々と吹っ飛ばされて宙を舞ったのだ。
異常なパワーだった。
カフィーが地面を蹴ってルーベンを追う。
しかしどうやらそれはルーベンの計算のうちだったらしい。空中でくるりと半回転し、吹き飛ばされた先の大木に両足をつけ、反動をつけて飛ぶ。メキメキ――と、大木の根元に亀裂が入った。
飛んだ先にはカフィーがいる。
空中で打ち合い、つばぜり合いをしながら着地して、さらに剣戟を交わす二人。
ルーベンの動きは先ほどよりもさらに速くなっていた。最初のカフィーとの打ち合いはあれでも手加減していて、これが彼の本気ということなのだろう。
しかし、カフィーは明らかにそれを上回るパワーアップをしていた。
ルーベンは警戒を強め、間合いを大きめに取ってリスクを減らそうとしている。もちろんティースの体力を回復させるための時間稼ぎという意味もあるのだろうが、それでも二人の間のパワーバランスは確実に変化していた。
そして――
(……よし)
戦いが再開してどのぐらい経っただろうか? 一分? 二分? いや、もしかするとほんの数秒だったのかもしれない。正確な時間の感覚はなかったが、ティースは自分の体が最低限動けるまでに回復したことを感じゆっくりと立ち上がった。
頭のモヤは消え、下半身にも不思議なほどに力が戻っている。……あるいは、ルーベンから渡された苦い焼き菓子は気付け薬のようなものだったのかもしれない。
なんにしろ準備は整ったのだ。
(いきます、ルーベンさん!)
心でそう呼びかけてティースは動き出した。
カフィーがそれに微かに反応したのがわかる。先ほど奇襲を受けたばかりでティースの動きにも注意を払っているのだ。今のカフィーがそう簡単に大きな隙を作るとは考えにくかったが、今はルーベンの言葉を信じるしかない。
と同時に、ルーベンも違う動きを見せた。カフィーとの間合いを極端に詰めてそこで足を止める。
足を使っての戦いが得意なはずのルーベンにとって、明らかに不利と思える近距離から打ち合いを挑んだのだ。
(どうしてわざわざ――)
不可解なルーベンの行動を疑問に思いながらもティースは動きを止めなかった。
おそらくルーベンが作り出そうとしているカフィーの隙はほんの一瞬だろう。わずかな躊躇が連携を乱すことになる。この綱渡りの作戦はルーベンを信じ切ることが大前提なのだ。
そして案の定、ルーベンの不可解な行動は戦況を大きく動かした。
最大の武器であるスピードを自ら封じたことにより、パワーに勝るカフィーがあっという間にルーベンを圧倒し始めたのである。
そして、
(……まさか、ルーベンさん)
その様を目の当たりにしたティースは、ようやくルーベンの策に気づいたのだった。
勝機を悟ったカフィーが一気に攻勢に出る。
それを真っ向から受け止めるルーベン。だが、相手の土俵では敵うはずもない。
攻撃を受け止めるたびに体勢が崩れ、剣筋が乱れていく。時折漏れる短い苦悶の声が、彼が窮地に陥りつつあることを知らせていた。
そしてついに――
「っ……!」
崩れた姿勢でカフィーの攻撃を受け止めたルーベンが大きく上体をそらす。
がら空きになった胴体へ、カフィーの剣が潜り込んだ。
血飛沫が舞う。
「くっ……!」
ルーベンはとっさに身をよじって急所への一撃を避けていたが、胴体を庇った右腕の肘から上腕部にかけてを大きく斬り裂かれていた。激痛から右手の剣を落とし、バランスを崩して地面に膝をついてしまう。
「手こずらせてくれたが、これでようやく終わりだ――」
冷酷な声でカフィーがそうつぶやいた。
――その、一瞬。
(これで終わりだ――ッ!)
カフィーが勝利を確信し、ルーベンに止めを刺そうとしたその瞬間。
全身全霊の力を賭けて、ティースはその間隙に飛び込んでいた。
「!?」
カフィーのマークは完全に外れていた。目の前の最大の敵に止めを刺そうとするその一瞬、カフィーの意識は完全にティースの存在を忘れ去ってしまっていたのだ。
(間に、合え――ッ!)
ティースの極限の集中が世界の動きを止めた。
雑音が消え、五感のすべてがただ一点に向かって研ぎ澄まされる。
ただ一点――カフィーの腰にある“鞘”を目掛けて。
「うぉぉぉぉ――ッ!」
夢中で振り下ろした<細波>に、カリ――という小さな、しかし今度こそティースに勝利を告げる確かな手ごたえ。
艶やかな<細波>の剣身は<双龍棍>の鞘を真っ二つに断ち割っていた。
「な――!?」
カフィーが驚愕の声をあげる。
このときティースは防御をまったく考えずに飛び込んでおり、ここで即座に斬りかかられていたらそれを防ぐ手段はなかったが、カフィーのほうはどうやらそれどころではなかったようだ。
「貴様ら、なぜ鞘のことを……ッ!」
よろ、と、一歩、二歩と後ろによろめいた後、
「う、お、おおおオォォォ――……ッ!!」
「!」
まるで断末魔のような叫びがカフィーの喉奥から溢れ、全身を覆っていた炎が狂ったように燃え上がった。
ティースの視界全体が橙色で覆い尽くされる。
「……離れてください!」
ルーベンの声がどこかから聞こえ、ティースはすぐに我に返ってカフィーから離れた。
「オ、オ、オ、オオオォォォ……ッ!」
その間にもカフィーの声は小刻みな破裂音と交じり合い、この世のものではないような地獄のうめき声に変わっていく。
「……カフィーさん――」
そのあまりの禍々しさにティースは思わず心配になってしまったが、
「安心してください。<双龍棍>の力がコントロールを失って暴走しているだけです。そのうち力尽きるでしょう。カフィーにもダメージはあるでしょうけど、たぶん死にはしませんよ」
「ルー……」
思わず名前を言いそうになってティースは慌てて口を噤み、そして歩み寄ってきたルーベンの姿を見て絶句した。
「……その、怪我――」
だらりと力なく垂れ下がったルーベンの右腕。その袖は大量の血でどす黒く染まっていた。
パッと見ただけでかなりの出血量であることがわかる。
しかし、ルーベンはチラと自分の右腕を見やって、
「ん? ああ……まあ、大丈夫ですよ、たぶん」
「大丈夫って、その出血、大丈夫なわけ――」
「そんなことより」
ルーベンは強い口調でティースの言葉を遮った。
「まだ終わったわけじゃないですよ。これだけ派手にやればカフィーの部下も気づいてとっくに引き返してきてるはず。一刻も早く行動を開始してください」
「で、でも――」
「早く。大丈夫、私には仲間がいます。今のあなたが心配すべきなのは別のことだ」
ルーベンがそう言った直後。
「ティース様!」
「ティース! 無事なの!?」
森のほうからリィナとエルレーンの声が聞こえてきた。どうやら戦いが終わったのを察し、集落の<人魔>たちを連れて下りてきたらしい。
「……」
そのことでティースも今の自分がやるべきことを思い出し、ぐっと目をつむってルーベンに頭を下げた。
「……ありがとうございました、ルーベンさん。あなたのおかげで罪のないたくさんの命を救うことができそうです」
「ルーベン? 誰のことです? 私はそんな名前じゃありませんけど」
とぼけて、ルーベンは小さく笑った。
「それに礼を言うのは早すぎます。忘れないでください。これは契約。ギブアンドテイクの話だったんですからね」
「……」
そこに対する一抹の不安は確かに残ってはいたものの。
それでもティースはもう一度何も言わずルーベンに頭を下げ、森から姿を見せたリィナたちのもとへと駆けていった。
――その後、山を下りたティースたち一行は麓まで来ていたエルバートのキュンメル隊と無事合流することができ、集落の<人魔>たち八十七名は一人として欠けることなく、夜闇のヴァルキュリス山脈を脱出することに成功したのである。