その12『取引』
焦げた土の香りが充満していた。その周りの草木は急速にしなびて、枯れ木のようにボロボロと崩れ落ちていく。
そして辺りを覆う、熱、熱、熱――
(炎の力を取り込んだ、だって……?)
まがまがしいほどの業火をその身にまとい、まるで<魔>のような異形の姿となったカフィーに対し、ティースの本能はけたたましい警告音を発していた。
先ほどまでの相手とはまるで別だ――と。
しかし、ティースが対応策を考える暇もなくカフィーが動いた。
ゴォ――ッという熱風が同時に巻き起こる。
(! 消え……!?)
いや、最大級の警戒をしていたティースの両眼は、かろうじてカフィーが残した炎の切れ端を捉えていた。
それでもかろうじて、だ。先ほどまで打ち合っていた相手とはまったく別人の動きだった。
(右、か――ッ!)
側面から、爆風と間違うほどの熱波をともなった斬撃が襲い来る。
ティースはとっさに受け止めて――
「う、ぐ……ッ!!」
直後、まともに受けたことを後悔する。
予想以上の圧力だった。
踏ん張る間もなく両足が地面を離れ、体が宙に浮いて視界が大きく揺れる。
(まずい……ッ!)
とっさに空中でバランスを立て直し、どうにか両足で着地すると辺りの景色が変わっている。十メートル以上後方にあったはずの森の入り口がティースの背中のすぐ後ろにあった。
(なんてパワーだ……っ!?)
一呼吸おく間もなく、安定したティースの視界の目と鼻の先にカフィーの姿が迫っていた。
勝利を確信した笑みがティースの網膜に焼きつく。
烈火のごとき、横なぎ。
(今度受けたら死ぬ――)
根拠のない、しかしおそらくは事実であろう予感が胸を過ぎり、ティースは全身の神経を両眼に集中させた。
(よく、視ろ――ッ!)
頭の中がカッと熱くなり、一瞬だけ時間が停止したかのような錯覚に陥る。
そして数秒先のカフィーの動きの予測が脳裏に焼きついた。
(前しかない……イチか、バチかッ!)
唯一の回避ルートを前方に見出すと、ティースはありったけの力で全身を屈め、低い体勢で前に飛んだ。防御姿勢を取る余裕もない。攻撃の軌道を少しでも読み違えていれば、剣の軌道に自らの体を差し出すような愚行だった。
しかし、カフィーはティースのその動きをまったく予測していなかったようだ。
「ッ……!」
切っ先はティースの左肩口をかすめただけで空を切る。焼けたような痛みが走ったが、脳内にあふれ出す大量のアドレナリンがすぐに痛みを消し去った。
二回、三回と勢いよく地面を転がりながら距離を稼ぎ、素早く振り返って次の攻撃に備える。
しかし、カフィーの動きはいったん止まっていた。
どうやらティースの動きがあまりにも予想外で一瞬呆気に取られてしまったようだ。
ただ――
「っ……はぁっ……!」
ティースのほうも、してやったりと喜べるような状況ではなかった。
詰めていた息が肺からあふれ出すと、戦慄とともに冷や汗が噴き出す。
今の一連の駆け引きがギリギリのものであり、わずかな運の差が生死を分けたであろうことを理解していたからだ。
一方。
「貴様……本当に<魔>か?」
攻撃を避けられるとは思ってなかったらしいカフィーは、怪訝そうな顔で自らの手元を見つめていた。
「剣さばき、体の使い方、どれをとってもこれまでの<人魔>どもとはずいぶんと違う。それに今の動き……アレがとっさにできるのは、劣勢の戦い方に慣れてるやつだけだ」
ようやく、というべきか。カフィーはティースの正体を疑い始めたようだった。
しかし今のティースにはその対策を考える余裕すらもない。
(……甘かった。やっぱり俺がどうにかできる相手じゃない)
今のやり取りでティースはそのことを確信したのである。
カフィーの<炎龍胆>はパワーだけではなくスピード、つまり身体能力そのものを高める効果があるようだった。それによって先ほどまで拮抗していた実力は、二回りも三回りも差がついてしまっている。
これがカフィーのディグリーズとしての真の実力なのだ。
(……どうする? どうしたらいい?)
ティースは焦っていた。
<炎龍胆>の燃料となって数が減ったとはいえ、残った一匹の炎龍は今もなお上空から森を見下ろしている。
次の攻撃までの猶予は数分か、あるいは数十秒か。
それを止めるにはカフィーを倒すしかないのだが、しかし。
「……くそっ」
ティースとてこれまで多くの修羅場を切り抜けてきた男だ。幸か不幸か、格上の相手と戦う経験においては右に出る者がいないといって過言ではないほどである。
だからこそわかるのだ。
今のカフィーは、まともにやってはどう足掻いても勝ち目のない相手だということが。
(せめて<炎龍胆>を封じる手があれば――)
規格外の力を付与する性質である以上、無制限というわけではないだろう。しかしその限界がいつ訪れるかはまったく予測できないし、カフィーの態度を見る限り、炎龍の次の攻撃よりも先に尽きるとは考えにくかった。
時間稼ぎは意味がない。倒すことも難しい。
この状況をひっくり返す秘策は、もうティースの手の中にはなかった。
……いや。
(こうなったら、あれを使うしかない……)
一つだけある。<風姫の鎧>だ。
エルレーンが操る<神気>と<細波>の力を借り、カフィーの<炎龍胆>と同じように身体能力を格段に上昇させる秘策中の秘策だった。かつて大陸の西域で最強を謳われた<人魔>メイナードを倒したその力なら、カフィーの<炎龍胆>にも充分に対抗できるだろう。
しかし、問題がないわけではない。
<風姫の鎧>の圧倒的な力はティースの体に大きな負担をかけるのだ。
一分間限定で使用したメイナード戦でも、その後まともに立って歩けるようになるまでにはかなりの時間を要した。ミューティレイク家の主治医であるマイルズいわく『家一軒を一分間持ち上げ続けたぐらい』の負荷が体中のあちこちにかかり、筋肉から骨までボロボロになっていたらしい。
マイルズの例えがどのぐらい正確なのかはわからないが、それが重い後遺症を残したり、あるいは死に繋がってもおかしくないものだったことは、そのときの口調から理解できた。
ただ、それでも。
ティースの覚悟はすでに決まっていた。
大きすぎるリスクは承知の上。
それでも百人近い人々の命と天秤にかければ、迷うことはない――
(……なんにしろ、まずはエルと合流しないと)
そうと決まればもたもたしている暇はなかった。こうしている間にも上空に残ったもう一匹の炎龍が次の攻撃の準備を着々と進めているのだ。
(<風の刃>で少しでもカフィーさんの足を止めて――)
……と。
ティースが行動を起こそうとした、そのとき――である。
「誰だ、貴様?」
急にそう言ったのはカフィーだった。
その怪訝そうな視線がティースの後方――森の中から現れた人影に向けられたものだと気づくのにそう時間はかからなかった。
リィナ、あるいはエルレーンだろうか、と。
後ろを振り返ったティースはすぐに困惑することになる。
(……誰、だ?)
森を焼く炎をバックに木陰から姿を現したのは、リィナでもエルレーンでもなかった。
顔中に包帯を巻いたスタイルはティースたちと同じだが、エルレーンほど小柄でなければ、リィナほど大柄でもない。いや、それ以前に体つきが明らかに女性とは違う。筋骨隆々というわけではないが、明らかに男性の骨格だった。
腰には一振りの剣をぶら下げているが、まだ鞘に収まったまま。エルマー隊への陽動作戦に同行した<人魔>の誰かかとも思ったが、その背格好の者はティースの記憶の中にはなかった。
「……」
その男は無言でカフィーを一瞥すると、そのままゆっくりとティースに歩み寄る。
「……」
カフィーも無言でその動きを追っていた。
やはり戦いに関しては慎重な性格なのだろう。多少なりとも新たな敵を警戒しているようだった。
そして、
「……あなたはティースさん、ですね」
「!」
歩み寄ってきた男は、開口一番、小声でそう言ったのである。
やはり集落の<人魔>ではない――ティースは確信すると同時に警戒した。
ただ、男はそれを見透したように続けて言った。
「私は敵じゃありません。まずはあちらに怪しまれないように。……心配なく。あのカフィーという男は小心者です。戦いではどれだけ有利であっても大きな不確定要素があるうちはそれなりに慎重であり続ける。あなたと違ってイチかバチかの冒険などしない」
包帯でくぐもっているせいか、あるいは声色自体を変えているのか。男の声は淡々としていて、どことなく作られたもののように感じられた。
ただ、少なくともカフィーの仲間ではないようだ。
とはいえ。
「……」
いくらティースでも、味方ですと言われて、ああそうですかと信じてしまうほど馬鹿ではない。むしろティースだけではなく、カフィーのことまで知っている男に対し、ティースはさらに警戒心を強めていた。
なにも答えずにいると、男は小さく笑ってさらに続ける。
「まあゆっくりお茶をするのは無理ですが。私とあなたが密かに取引をする程度の猶予はあるってことですよ」
「……取引?」
ティースは思わず声を発してしまった。
「そう。あなたが私の要求を一つ飲んでくれれば、私はあなたがやろうとしていることを手伝う。そういう取引です」
そう言いながら男がティースの体の陰に差し出したのは、小さな筒状の印鑑のようなものだった。ただ普通の印鑑と違い、その表面にはぼんやりと呪文のようなものが浮かんでいる。
ティースはその正体を知っていた。
(これは――“魔印章”か……?)
魔印章とは、この大陸でもっとも信頼される証明の一つである。
魔界由来の道具であるこの魔印章を人や物の一部に十秒ほど押し付けると、そこには魔印というしるしが残される。このしるしはすぐに消えて見えなくなるが、押した魔印章を近づけると反応してぼんやりと浮かび上がり、その色や濃さ、歪みなどによって、魔印が押された時間や場所まで大まかにわかるというものだ。
なお、人間の技術では複製や偽証が不可能であることから、特に重要な取引、重要な場所への出入りなど、絶対的な身分証明を必要とする場合に使われることが多い。魔印自体は一週間から一ヶ月程度で自然消滅するため使用のリスクなどはないが、魔印章そのものが希少かつ高価であることから一般には普及しておらず、ごくごく限られた場面で使用される。
ティースはかつて、デビルバスター試験のときに受験者であることを証明するためにこの魔印を押されたことがあった。
「私の要求は、あなたが今この場で“魔印章”のしるしを受け入れること。それだけです」
疑問の目を向けたティースに、男はそう答えた。
それを見せた以上は、当然そういうことなのだろう。
しかし、ティースの疑問は晴れない。
「なぜ……そんなことを?」
「質問にはいっさい答えられません。それが協力の条件です。……そうそう。参考までに、後ろの人たちは今のところ無事ですよ。先の攻撃は私の仲間があの女の子たちと頑張って防ぎましたから」
「……」
本当か嘘かはまだわからない。だが、その言葉にティースは思わず安堵してしまっていた。
そして考える。
男の申し出――その取引について。
魔印を受け入れるということは、ティースがこの時間この場所にいて、この男と会話したことを客観的に証明するということである。それは正体を隠して行動しているティースにとって、容易に承諾できることではない。
……いや、そもそも。
突然現れ、それを要求してくるこの男は何者なのか。
考えはすぐにそこに及んだ。
そして、
(……まさか)
ティースは少しの思考の後、一つの可能性に思い至る。
「さあ」
声色は別人のように変えていた。
だが、考えれば考えるほど、その可能性は色濃くなる。
ティースのことを知っていて、カフィーのことも知っている。このタイミングでここに現れたということは、今回の作戦そのものについてもおそらく知っているということ。
可能性があるとすれば、<人魔>の集落の関係者かキュンメルのメンバー、あるいは。
(ルーベンさん……? ってことは、これはもしかしてサイア様の――)
「どうしますか、ティースさん」
淡々とした口調で、男はティースに決断を迫ったのだった。
<人魔>たちの待機場所では、炎龍の第二撃による火勢も徐々に弱まりつつあった。
幼い子供たちの泣き声や、互いの無事を確認しあう声は絶え間なく聞こえていたが、二度目の攻撃を防いだことで混乱は少しずつ収まっているようでもある。
そんな中。
「ルーベン……だよね、キミ。ネスティアスの」
炎龍の攻撃にさらされようとしていたところへ突然協力を申し出、手にした一振りの剣だけで巨大な炎弾を四散させた謎の男に対し、エルレーンは確信の口調でそう言い放ったのだった。
「……」
包帯で顔を隠した男は抜き身の剣を地面に立て、ほとんど身じろぎもせずに集団のほうを見つめていた。その視線の先ではリィナやイライザたちが浮き足立つ人々のフォローに走り回っている。
一瞬の空白の後、
「どうしてそう思ったんです?」
男は小さく首を動かしてエルレーンを見た。
「この状況でネスティアスの人間があなたたちを助けるなんておかしいでしょう?」
エルレーンはうなずいて、
「そうだね。おかしいと思うから教えて欲しいの。今のままじゃ素直にありがとうって言っていいのかもわかんないから」
「なるほど、そういうことですか」
男は少し笑いながら視線を上空に向けた。
二匹いたはずの炎龍はいつの間にか数を減らし一匹になっている。その理由をエルレーンは知らなかったが、男はどうやらわかっているようだった。
「礼は言わないほうがいいでしょう。あなたたちのために協力してるわけでもないですし」
「……」
エルレーンは不信感を覚え、思わず目を細める。
炎龍による二回の攻撃は<将魔>クラスの魔力を秘めたものだった。彼女とリィナの力だけではそれを完全に防ぐことはおそらく難しかっただろうし、被害が出ていないのは男の協力のおかげであることは間違いない。
しかし、この男がネスティアスのルーベン=バンクロフトだとすると素直に喜べはしなかった。
サイア主催の晩餐会の夜に彼が発した、エルレーンたちの正体を知っているかのような発言、その理由と真意についてはまだ何もわかっていなかったからだ。
しかし、男はエルレーンの疑問に答える気は一切なさそうで、
「お互い見てのとおり顔を隠しているわけだし、これ以上の詮索はなしにしましょう。それに私がどう答えようと、今のあなたたちにはウソかホントかを見分ける手段もなければ、後でそのことを証明する手立てもないわけですし」
エルレーンは間髪いれずに返す。
「ボクらにはないけど、キミのほうにはあるってこと?」
「……」
男は一瞬驚いたように口をつぐんだ後、小さく笑った。
「どちらにしろ、私はあなたと取引する気はないです。結論はあなたの上司が出すでしょう」
「……」
エルレーンは躊躇した。
彼女は現在のティースの状況についても男から聞かされていた。その身が心配であるのはもちろんだが、男の仲間がティースに“取引”を持ちかけているという話も気になる。
駆けつけて注意を促すべきではないのか――と。
しかし、次の攻撃がいつ来るかわからない状況ではそれは難しかった。
「ところでティースさん――いや。あなたの上司のことですけど」
考え込むエルレーンに、男はわざとらしく言い直して、
「なにか奥の手でも残しているようですね。私の力を借りずにこの場を切り抜ける手段が。知ってます?」
「……教えない」
男が質問に答えない以上、エルレーンも彼に余計な情報を与えるつもりはなかった。
ただ、もちろん心当たりはある。
「どうやら協力を受けるか、それとも奥の手を使うかで悩んでいるようです。ま、警戒しつつも悩むってことはそれなりにリスクがある本当の奥の手なんでしょうけど。それこそ命に関わるような、ね」
「……」
その奥の手――<風姫の鎧>を使うことについては、正直なところエルレーンは賛同できなかった。当然だ。彼の命をあっさりと奪ってしまうかもしれない危険な力を使いたがるはずもない。
メイナード戦ではティース自身を含む何人もの命がかかっていて、かつそれ以外の方法がなかったからやむを得ず使用したに過ぎないのだ。
今回もしティースがその力を使うことを選択したら、エルレーンには素直に首を縦に振る自信はなかった。
しかし――
「……結論が出ましたよ」
エルレーンの考えがまとまらないうちに、男が残念そうに口を開く。
「どうやら彼は、自らの身を削ることを選択したようですね」
「!」
ハッとして確かめるように男を見る。
男はやや憮然とした様子で深いため息を吐いていた。
そしてわずかな逡巡。
「……前言撤回してもいいですか?」
エルレーンを真っ直ぐに見て、男はそう言った。
怪訝に思いながらも返す。
「どういうこと?」
「エルさん。あなたにも一つ、取引を持ち掛けたいと思います――」
事は自分たちだけの問題ではない。
ティースが男との取引を拒否したのは、それが一番の理由だった。
男がなにを目的として動いているのか、その全容を推測することはティースには難しかった。ただ、ティースがここで<人魔>たちを助け、あまつさえネスティアスと剣を交えていることは絶対に外に知られてはいけないことだ。
自分の立場が危うくなるということだけではない。ティースがディバーナ・クロスの隊長であり、今がその任務遂行中である以上、これはディバーナ・ロウ全体に及ぶ問題なのだ。いや、ディバーナ・ロウだけではない。バックにいるミューティレイク家そのものにも及ぶ可能性がある。
だから、
「魔印は受け入れられません。それが俺の答えです」
ティースはきっぱりとそう答えたのである。
もちろん協力を受け入れることは、後ろにいる<人魔>たちの安全に繋がるのかもしれない。しかし、それも保証があるわけではなかった。魔印を受け入れた後、男が約束を反故にする可能性だってあるだろう。
そしてティースには、その取引を拒否してもこの窮地を脱する最後の切り札があるのだ。
どちらも不確定なら、そっちのほうがリスクが少ない。
ティースはそう考えたのである。
「……」
そんなティースの回答に男は黙り込んだ。
その反応を待たず、ティースは男に多少の警戒心を残しつつも正面のカフィーに意識の大半を向ける。
(カフィーさんは警戒してる……なら、いっそこのまま)
いずれにしてもエルレーンと合流する必要があった。
ただ、今なら背を向けて引き返しても、カフィーはおそらく男の存在に気を取られるだろう。すぐにティースを追うことはできないはずだ。
男の次の動きが気にはなったが――今が最大のチャンス。
そう考えてティースが行動に移ろうとした、そのときだった。
「奥の手は使えませんよ」
「!」
思わず動きを止める。
なぜ――と、喉まで出そうになった問いかけをどうにか飲み込んだ。
(……ハッタリだ。<風姫の鎧>についてはまだ一部の人間しか知らないはず)
しかし、男は確信の口調で続けた。
「その奥の手には誰かの協力が必要でしょう? その誰かが、あなたの身が危険にさらされるような手段には協力できないと言っているんです」
「なにを言ってるんだ……どうしてそんなこと――」
ティースは混乱した。男の言葉はただのハッタリにしてはあまりにも具体的だったのだ。
そんなティースに対し、男はやや憮然とした様子で、
「聞いていたとおり――いや、どうやらそれ以上だったらしい」
ため息を交えながら言った。
「一度だけ言います。考え直してください」
「……」
その言葉にティースの意思はわずかに揺らいだ。
男の言っていることが本当であれば<風姫の鎧>は使えない。そうなると、この取引を拒否すれば窮地を切り抜ける手段はなくなってしまうのだ。
(……いや、鵜呑みにしてどうする。エルが協力してくれないなんてことあるはずがないんだ)
「あなたがどんな理由で私との取引を拒否したのかはわかっています。仲間への影響を憂い、自己犠牲をもいとわないその精神はとても立派だ。……けど」
困惑を深めるティースに対し、男は時折視線でカフィーの動きを牽制しながら続けた。
「いくらなんでも少し度が過ぎるでしょう。どんな立派な振る舞いも許容を超えればただの愚行です」
「そんなことを言われる筋合いは――」
「だいたい」
男はティースの反論を制した。
「あなたがこうして窮地に陥っているのもほとんどが自業自得ですよ。……あなたはなぜ仲間に助けを求めようとしないんです? ジラートでの出来事が不測だったとはいえ、わずか一日分後ろにいただけのあなたの仲間は、結局あなたがカフィー隊を離れたことすら知らされなかった。情報部隊に伝言を託すぐらいはやろうと思えばできたはずなのに」
「っ……」
返す言葉に詰まった。そしてティースはルーベン隊と行動を共にしているはずのシーラのことを思い出す。
確かに彼女は今回の事件についてまだ知らないだろう。……いや、サイアやルーベンたちがある程度把握しているとすると何かしら聞かされている可能性もあるが、少なくともティースは彼女に何も連絡を取っていなかった。
口を噤むティースに、男は続ける。
「それはなにもあなたのチームに限ったことじゃない。……おそらくは迷惑がかかるからとあなたが考えた、もっと遠くにいる仲間はどうです? その人たちは不測の事態で窮地に陥った仲間に、迷惑をかけるぐらいなら死んでしまえと言ってしまう連中なわけですか?」
その言葉は淡々としていながらも決して口を挟めない勢いがあり、そしてなによりティースの胸に次々に突き刺さってきた。
実際に、おそらくその言葉は核心を突いていたのだろう。
ティースが迷惑をかけられないと考えたのは、相手の心情を慮った結果ではないのだから。
「あなたはとても謙虚だ。自分の力が足りないことも知っている。でも、補えない部分を他人に押し付けようとは決して考えないようです。立派ですね。……そうして自分だけを削り続け、いつか無惨な死体となったあなたを見て、あなたの仲間たちはなにを思うでしょうか」
「……」
男の言葉が止まっても、ティースは沈黙するしかなかった。
とっさに返す言葉がなかったのだ。
「……おい」
と、そこへ、どうやらティースたちの動きを不審に感じたらしいカフィーが低い声を発した。
「さっきからなにごちゃごちゃやってやがる。……言っとくが、こっちはのんびり相手してやっても構わないんだぜ。花火見学がしたいってんならな」
そう言って挑発的な笑みを浮かべる。
だが、男は視線だけでそんなカフィーをわずかに牽制して、
「……あなたはチームの隊長だ。窮地を脱するのにリスクを負うのも時には必要ですが、それはその前に使えるものをすべて使った上であるべきです。……さて」
そうして男は仕切り直す。
「取引です。魔印を受け入れれば私はあなたに協力します。拒否すれば今度こそここを去ります。……上司にはなにやってんだって怒られるでしょうが、あなたがそこまで頑ななのであれば仕方ない。さあ、どうします?」
再び沈黙の幕が下り、背後で聞こえるパチパチという音が鼓膜の奥でやけに大きく反響した。
(……なにが、正解なんだ……?)
自問する。
シーラの存在に言及したことで、男の正体がルーベンあるいはその周囲の人間であることは確定的となった。その背後にいるであろうサイアが、ディバーナ・ロウに対して何らかの思惑を抱いていることもおそらく間違いない。
つまり、この魔印の受け入れがディバーナ・ロウに不利益をもたらすのは確実だ。先の男の言葉もティースに魔印を受け入れさせるための方便かもしれない。……いや、普通に考えればそうだろう。
しかし。
その言葉がティースの心のデリケートな部分に触れ、一度決めた選択に自信が持てなくなっているのもまた確かだった。
それほどに、淡々としていたはずの男の言葉には真実味――“心”があったのだ。
(ルーベン……バンクロフト――)
目の前の男がルーベンであるという確証はまだないが、おそらくはもう間違いないだろう。
その人物についてティースが知っている情報は少ない。かつてディバーナ・ロウに所属していたことはファナに聞いたとおりだが、彼の人間性やディバーナ・ロウを出た詳しい経緯については誰も話そうとはしなかった。エルレーンやリィナの正体に言及しておきながら、その後はまったく追及してこないなど、意図の見えない行動の多くもその人物像をおぼろげにしていた。
しかし、だからこそ。
ティースは先の彼の言葉に、初めてその本質の一端を垣間見た気がしたのだ。
たとえ方便であったとしても、その言葉は“仲間”というものに対して特別な思いを抱いている人間にしか紡げないものなんじゃないか――と。
(……それに、本当にルーベンさんが協力してくれるのなら、こんなに心強いことはない)
<風姫の鎧>を使わずにカフィーを倒す可能性が生まれる上、彼の仲間がリィナたちとともに集落の人々を守っているのだから、そちらの安全もある程度は確保されることになるだろう。
魔印を受け入れなければならないというその一事にさえ目を瞑れば、目の前の窮地が一気にひっくり返るのだ。
そして悩みに悩んだ末――
(ファナさん。みんな。……ゴメン)
ティースは心の中でそっとそうつぶやくと、
「……わかりました。取引をしましょう……ルーベンさん」
そう応じたのである。