その10『人と魔の狭間で』
カフィーの率いる部隊が移動を始めて間もなく。
「うまく引っかかってくれたよ。距離があるから全員が移動したかどうかはわからないけど、大半はいなくなってくれたみたい」
「よし。ここまではクリアだな」
カフィー隊の動きをずっと監視していたエルレーンからの情報に、ティースはひとまず安堵に胸を撫で下ろしていた。そして月明かりだけの薄暗い森を振り返ると、そこには五人、顔に包帯を巻いた異様な出で立ちの人物が控えていて、その中の一人が口を開く。
「ティース様。すぐにイライザさんたちと合流しましょう」
包帯のせいでくぐもっていたが、その声は明らかにリィナのものだ。
「そうだな。……みなさん、疲れているでしょうけど、これからすぐに移動します。もうひと頑張りお願いします」
そう答えたティースの顔もやはり包帯で隠されており、そして彼が声をかけた他の四人は、<人魔>の集落にいた数少ない男手たちであった。
エルマーが率いるネスティアスの部隊を襲撃したのは、言うまでもなく彼らである。
こちらの戦力を見せ付けることで二手に分かれていたカフィー隊を集結させ、包囲が解かれた、あるいは薄くなったほうのルートから脱出する――。
それが、集落の人々全員を脱出させるためにティースが案じた苦肉の策だった。
もちろん成功する保証のないイチかバチかの賭けではあったが、最後にリィナの力を借りて発動させた<聖女の結界>の威力に脅威を感じたのか、カフィーたちは今のところ期待どおりの動きを見せてくれているようだ。
ティースは一呼吸おいてエルレーンに視線を戻す。
「エル。疲れてるところ悪いんだが、もうしばらくカフィーさんたちの動きを監視しててもらえないか? もしかするとこっちの思惑に気づいてて俺たちをおびき出そうとしてる可能性もある。……できそうか?」
「任せて。この程度の森、ボク一人ならいくらでもショートカットできちゃうしね」
その場でただ一人素顔のままのエルレーンは、そこに彼女らしい無邪気な微笑みを浮かべて胸を張った。
「それは頼もしいけど、迷子にはならないでくれよ」
「大丈夫だよ。風の導きがあるから」
事も無げにそう言うと、じゃあさっそく――と、エルレーンは地面を蹴って身軽に頭上の木の枝に飛び乗った。スカートがひらひらと躍ったのでティースは慌てて目をそらしたが、もちろんこの暗闇では余計な心配である。
それでもティースは微妙に視線をそらしたまま、
「……ああ、エル。それと、この後は念のためお前も顔を隠して行動してくれ。万が一でも顔を見られたら大変なことになるからな」
「あ、うん。……でも、その――ううん、わかった」
ティースの顔を見ながら苦笑するエルレーン。
どうやら彼女は自分が“ミイラ女”になることに乗り気ではない様子だったが、もちろんそんなワガママを言える状況でないということもわかっている。
「移動中にやっておくね。じゃ、行ってくるよ」
ふわり、と、まるで重力の影響を受けていないかのような軽やかな動きで、エルレーンは暗闇の向こうへと消えていった。
それを見送って、ティースは再びリィナたちを振り返る。
「うまく……いきそうなんですか」
と、不安そうな言葉を口にしたのは、先ほどの陽動作戦でエルマーたちに向かって大いに啖呵を切ったリーダー格の男――を演じた、ランドルという三十代半ばの男性だった。
ティースは首を小さく横に振って、
「まだわかりません。でも希望は見えてきたと思います」
と、正直に答える。
「……そうですか。いえ、少しでも希望が見えたなら、慣れないことをした甲斐があったというものです」
と、ランドルは包帯の向こうでくぐもった笑い声をあげた。
彼は今回“役者”として選んだ<人魔>たちの中の最年長であり、ドスの利いたいい声をしているという理由で啖呵を切る役となったのだが、その素顔が争いごとを一度もしたことがないような温厚な人物であるということを、ティースは集落のリーダーであるイライザから聞いていた。
おそらく彼にとっては一世一代の演技だったのだろう。
ティースはそんな彼に少し笑い返して、
「みなさん、名演技だったと思いますよ」
そう言いながら、彼らを先導するように薄暗い獣道を歩き出す。
「今回の作戦は、とにかく手強い敵が複数いることを印象付ける必要がありましたから。そういう意味ではみなさんの演技が相手を動かしてくれたんだと――……っと」
言葉の途中、ティースは急にバランスを崩して地面に膝をついた。
土からわずかに顔を覗かせた木の根につま先を引っ掛けたのだ。
「ティース様。大丈夫ですか?」
後ろにいたリィナが駆け寄ってくる。反射的に手を伸ばしかけたが、すぐにティースのアレルギーのことを思い出したらしく、代わりに心配そうに顔を覗き込んだ。
「つまづいただけだよ」
ティースはなんでもないという風に彼女に手を振ったが、包帯の奥から覗くリィナの目は心配そうなままだった。
大丈夫、と、もう一度言ってティースは膝に手をついてゆっくり立ち上がる。
「ティース様。本当に……?」
「ちょっとつまづいただけだって」
笑いながらそう返したが、リィナが何を心配しているのかはわかっていた。
ティースはカフィー隊を離れてからの三日間をほとんど不眠で過ごしていることに加え、先ほど発動した<聖女の結界>は、<風姫の鎧>のように自らの肉体を破壊するほどではないが、万全の状態であっても力を使い果たしてしばらく動けなくなることがあるほどの大技だ。
そんなティースが今どういう状態にあるのか。リィナがそれを心配してしまうのも無理はない。本来ならもっときつく問いただしたいところだろうが、それを口にしないのは後ろをついてくる集落の人々に配慮しているからだろう。
ふぅ、と、深く息を吐き、ティースは蒸し暑さで首筋を流れ落ちる汗を拭って頭上を見上げた。
視界に映ったのは、濃密な枝葉のバリケードから微かに差し込んでくる月明かり。それはまるで、今の自分たちに差し伸べられた一筋の希望の光のようだ――と、ティースは思った。
か細い光。
少しでも目をそらせばすぐにでも消えてなくなってしまいそうな。
(……ここが頑張りどころだ、ティーサイト)
自分にそう言い聞かせ、肉体を奮い立たせる。
今は一刻を争うのだ。そしてティースの双肩には八十七名もの命がかかっている。眠いだの疲れただのと言っていられる状況ではない。
「大丈夫。行こう」
心配そうに見つめるリィナにもう一度そう言ってティースは歩き出した。
「……」
リィナはさらになにか言いたそうにしていたが、ティースの心情を汲んだためか結局口を開くことはなく、黙って一団の最後尾へと下がっていく。
「……ティースさん」
代わりに口を開いたのは、リィナと入れ替わるようにティースの横に並んだランドルだった。
「あなたは……本当に我々を助けようとしてくれているのですね」
「どうしたんです、急に?」
歩きながらティースが隣を見ると、ランドルは神妙な様子で言った。
「最初にイライザから話を聞いたとき、デビルバスターが我々を助けてくれるなんてなにかの間違いじゃないかと思っていました。……いや、最初というか、ついさっきまで、ですね。この作戦についてもイライザの判断に従っただけというか……すみません。私は、私たちのために必死になってくれているあなたを、今の今までまったく信用できていませんでした」
「……」
急な告白にティースは戸惑ったが、どうやらランドルも先ほどのリィナとのやり取りを見て何か感じるものがあったようだ。年の功とでも言おうか。おそらくはティースの状態を察するに至ったのだろう。
だが、ティースは事も無げに笑ってみせて、
「仕方ないですよ。俺たち人間だって、相手が<人魔>ってだけで悪党だと決め付ける人も多いですし。お互い様です」
「……そうかもしれませんが」
それでも申し訳なさそうなランドルに、ティースは続けて言った。
「でも……そうですね。いつかはそういう――人間だからとか<人魔>だからとかじゃなく、結局は個人個人の問題なんだって。そう考えてくれる人が増えればいいなと思います。たとえばランドルさんが今回のことで俺を信用してくれて、デビルバスターの中にもそういう考えの人間がいるんだって思ってくれたなら」
ランドルは少し怪訝そうに、
「あなたは、そんなことのためにこんな危険なことを?」
「……あ、いや。それはついでにというか。一番はもちろん、みなさんの命を救いたいということですけど」
「<人魔>だからとかじゃなく……ですか」
ランドルのつぶやきに、ティースは小さくうなずいて正面を向いた。
「俺はデビルバスターだから、確かに<魔>を殺す人間です。仲間を<魔>に殺されたこともありますし、憎んだことだってあります。でも俺には、<魔>が悪そのものじゃないって教えてくれる出会いがあって――」
ちらっと後方のリィナを見て、さらに続ける。
「彼らがこの先もずっと誤解されたままになっちゃうのは嫌なんです。それは俺が生きているうちにどうにかなることじゃないのかもしれないですけど、できる限りのことはしたいと思ってて。だからでしょうか」
「……」
ランドルは何も言わなかったがどうやら納得したらしく、小さくうなずいて少し後ろに下がっていった。
その後は各々の疲労による無言の行軍がしばらく続いて――
森の中で息をひそめるイライザたちのもとへティースが戻ったのは、それから約一時間後のこと。
さらに一時間もしないうちにエルレーンが戻ってきて、カフィー隊が思惑どおり夜営地点から充分に遠ざかっていったことをティースに報告した。
最終的にティースたちと八十七名の集落の人々が動き出したのは、夜明けまで二、三時間ほどに迫った丑三つ時である。
「じゃあ……いきましょうか、みなさん」
先頭をティースとエルレーンが歩き、最後尾にリィナ。集落のリーダーであるイライザと、動ける男性陣の中で最年長のランドルが、不安がる人々を見回りながら進むこととなった。
この危機的な状況にあっても幸いだったのは、集落の人々の間に大きな混乱がなかったことだ。
泣き出す子供もなければ、絶望して立ち止まってしまう者もいない。
これはおそらくリーダーであるイライザの人望の賜物なのだろう。ランドルの発言にも彼女への強い信頼を匂わせる言葉があった。
一行は順調に移動を続け、やがてカフィー隊が陣取っていた場所――山中の少し開けた辺りへと差し掛かってきたところで、ティースは最後尾のリィナと集団の中にいるイライザを呼んだ。
「イライザさん。ここからは俺とエルがもう少し離れて先行します。皆さんはゆっくり下りてきてください」
そう提案したのは、カフィーがこの付近に見張りを残している可能性があると考えたからだ。部隊の大半が移動したのはエルレーンが確認しているが、一人や二人であれば気づかないことも充分に考えられる。
安全を確認し、見張りが残っていた場合は先に制圧する。
そのための先行だ。
「リィナ。俺たちが戻るまでみんなを頼むぞ」
「はい。ティース様。エルさん。二人とも気をつけてください」
集団をリィナとイライザに任せ、ティースはエルレーンを連れて数百メートルほど先行することになった。
風もなく、辺りは静かだ。
ときおり夜鳥の鳴き声が聞こえる程度である。
「エル。かなり暗いけど大丈夫か?」
すぐ隣を歩くエルレーンの頭はティースの肩よりも低い位置にある。ティースからは頭頂部しか見えなかったが、彼女は言いつけどおりに顔全体を包帯で隠していた。髪の一部と耳がその隙間から覗いている。
「うん。じっと隠れてたら気づかないかもしれないけど、近くで少しでも動けばわかると思うよ」
エルレーンは集中した様子でそう答えた。
彼女の感覚はこういう自然の中だと特に研ぎ澄まされ、近くなら茂みの擦れる音を聞いただけで、それが風によるものか人の動きによるものかも判別できるそうだ。
いわく『音ではなく風の質感でわかる』そうなのだが、もちろんティースにはさっぱり理解できなかった。
そして――
「……ん」
そんなエルレーンが急に足を止めたのは、ティースたちが先行し始めてから十分も経たないうちのことである。
「ティース。……この先、誰かいるよ」
「……人数は?」
同じく足を止めてティースは正面を見た。が、視界に映るのは鬱蒼と生い茂る木々とその奥に広がる夜闇だけで、気配はまだ感じ取れない。
逆にいえば、おそらく向こうもまだティースたちには気づいていないだろう。
「一人。この道の先でじっと立ってるみたい」
「一人? 道の先にいるのか?」
ティースは怪訝に思ってそう聞き返した。
すでにカフィー隊が夜営していた地点の百メートル以内に近づいている。この道の先ということは、その誰かがいるのはまさにその場所なのだろう。
カフィーが残した見張りだろうか。
もちろんティースは真っ先にそう考えたが、たった一人だけというのは不可解に思えた。発見した場合に本隊を呼び戻す連絡役が必要なことや、何か不測の事態が生じたときのことを考えれば、最低でも二人以上が普通だろう。カフィー隊の陣容を考えればそれができないほど人手不足だとも思えない。
カフィー隊以外――たとえば、こちらへ救援に向かっているはずのキュンメルから誰かが先行してやってきたという可能性もなくはなかった。が、そうだとすると、その場所でじっとしているというのはやはりおかしい。
しばし考えた末、ティースは言った。
「エル。いったん戻って後ろを止めてくれ」
いずれにしても集団で迂回できるような道はない。その人物がこの先で待っているというのなら見つからずにやりすごすことは不可能だし、ここで引き返せば脱出の希望はついえる。
相手が一人なら進むしか選択肢がなかった。
味方であれば問題ないし、敵であれば力ずくで拘束するしかない。
「わかった。……気をつけて、ティース」
エルレーンもすぐにティースの考えを悟ったらしく、すぐに来た道を引き返していった。
ティースはその後ろ姿を見送ると、包帯をぐるぐるに巻いたままの愛剣<細波>に軽く左手を添えて前へ進む。
静かに、静かに。
緩やかな下り道をなるべく音を立てないように。
ざざ……と、再び吹き始めた風が辺りの茂みを撫でていく。
緊張のせいか疲労のせいか、少し体が重かった。寝不足による頭痛と全身の張りを気力で吹き飛ばし、慎重に慎重に進んでいく。
そして――
(いた……!)
大きな木に背中を預け、腕を組んでたたずむ人影を発見したのは、カフィー隊の夜営地があったと思われる空間の入口辺りだった。ティースは先に素性を探ろうと木陰に足を止めたが、残念ながら同じタイミングで相手もティースの存在に気づいたようだ。
そして――
「来たか。やはりな。ヴァンスの隠れ家にしちゃ不可解な動きだと思ってたんだ」
「!?」
まさか、という思いと、しまった、という後悔が同時にティースを襲った。
人相そのものは暗闇に紛れていてまだ確認できない。しかし、その声には明らかに聞き覚えがあった。
それは今、おそらくもっとも遭遇してはいけない相手――
「報告にあったとおりの格好だな。六人と聞いてたが、一人か? ……いや、斥候か。本隊は後ろにいるな。どの辺だ? 百メートルか? 一キロか? まさかまだ集落で待機してるわけじゃないだろう? それじゃ夜明けには間に合わねぇ」
近づいてくる人影が立て続けにそう言った。
風が枝葉を揺らし、月明かりが暗闇の中に薄っすらとその人物の顔を浮かび上がらせる。
やや小柄で童顔、しかしそこに勝ち誇ったような嘲りの笑みを浮かべた男。
ティースたちの陽動に騙され、エルマーたちの救援に向かったはずのディグリーズの一人、カフィー=マーシャルがそこに立っていた。
「――」
口を開こうとして思いとどまる。
態度を見る限り、カフィーはまだ目の前にいるのがティースであることには気づいていないようだ。ただ、声を出せばばれる可能性があった。
(……どうして、カフィーさんが)
冷静になれ――と、思わず浮き足立ちそうな心に言い聞かせる。
カフィーが誰かをここに残す可能性はティースももちろん考えていた。しかしそれはカフィーにとっては保険であって、あくまで見張り、つまりここで戦うためのものではないはずだった。
別に希望的観測ではない。
ティースの後ろに続いているのは、戦い慣れていないとはいっても百人近い<人魔>たちだ。いくら優秀なネスティアスの隊員でも、さすがに二、三人でどうにかできる数ではない。相対したとすれば<人魔>たちにも犠牲は出るかもしれないが、戦って制圧されるか、あるいは大半が逃げ延びる結果となるだろう。
手柄を求めているカフィーがその結果をよしとするはずはない。
だからティースは、カフィー隊の大半が間違いなく離れていったというエルレーンの報告を聞いて、カフィーは少なくともこの場所で待ち伏せをするつもりはなく、ティースたちが行った陽動のほうに主眼を置いていると考えたのだ。
つまり、完全に裏を掻かれた。
ティースは口をつぐんだまま、手の平の汗を軽く拭った。
……しかし、それにしても。
「なんで一人で出てきた? って顔してんな。いや、顔は見えねーか」
カフィーは見透かしたようにそう言った。
図星だった。
いや、当然の疑問である。
カフィーの強さについてティースにはほとんど知識がないが、ディグリーズの一員であることから相当な実力者であることはもちろんわかっている。
が、しかし。
いくら強いといってもしょせんは一人の人間である。仮に、戦って負けることがないのだとしても、一斉に逃げる百人近い<人魔>たちを一人でどうにかできるものだろうか。
もちろん何割か出るであろう犠牲をよしとする考えはティースにはない。ただ、カフィーも大半の<人魔>たちに逃げられてもいいとは考えていないはずだ。
だからこその疑問だった。
ふん、と、カフィーは鼻を鳴らす。
「お前らは俺のこと知ってるか? ま、知ってても知らなくても別にいいんだがな。……報告によりゃ、長身のお前は結構戦えるらしいじゃねえか。だったら覚えとけ。俺はカフィー。ディグリーズのカフィー=マーシャルだ」
おそらくは自己顕示欲の強い性格なのだろう。カフィーは高らかに名乗りを上げ、腰に下げた中サイズの剣――ではなく、折り畳まれた一組の双節棍を手に取った。
(……なんだ、あれ。真っ赤な――)
この暗闇の中でもはっきりとわかる真紅色。
それを見た瞬間、ティースはディグリーズのメンバーがそれぞれ持つ“二つ名”のことを思い出していた。
カフィーに付けられた二つ名は確か。
“双頭の龍”――
「猛り立て――<双龍棍>」
カフィーのつぶやきが生ぬるい夜風に乗ったその瞬間。
「なっ……!?」
突如吹き荒れる熱風。
朱。
赤。
紅。
視界が一瞬のうちにその色で埋め尽くされていた。
(炎……の、龍……!?)
顕現したのは二匹の龍。
大量の炎を身にまとった巨大な龍だった。
(……馬鹿な! カフィーさんがどうしてこんな力を――!)
カフィーは人間のはずだから、もちろん本人のものではない。
とすると――
「!」
顔の前に腕をかざして熱風を遮りながらふと見ると、カフィーが持っていた双節棍が跡形もなく消えていた。
(あれか……!)
おそらく<神具>か<魔導器>であろう、あの双節棍の力なのだろう。
ただ、それにしても――
二匹の炎龍は頭と思われる部分だけでも人間より大きく、体の長さは数十メートルにも及ぶだろうか。かつて戦ったタナトスの幹部である女性も似たような力を使っていたが、いずれにしても<将魔>クラスの魔力である。
(けど――)
ティースは深呼吸して心を静めようと努めた。
作戦は完全に失敗した。もはや代償なしにこの場を切り抜けることは叶わないだろう。
……が、しかし。
希望が完全に消えたわけではなかった。
(……やるしかない)
見たところカフィーは一人である。本人の言葉にもあったように、陽動を完全に見抜いていたわけではないのだ。本隊が異常に気づいて今から引き返してきたとしても、ここに戻ってくるまで二時間以上はかかるだろう。
だとしたら、一つだけこの危機を切り抜ける方法がある。
カフィーと戦って勝つことだ。
(……それが叶わないとしても、せめてみんなが脱出できるぐらいの抵抗を……!)
愛剣<細波>に手をかける。
ネスティアスのディグリーズ。ネービスで最強と謳われる十人のデビルバスターの一人。容易く勝てる相手でないことはもちろんわかっていたが、それでもこの状況では戦うしか道がなかった。
そう心を決めると、ティースは<細波>を前にかざしてひとまず防御の姿勢を取る。
もちろんカフィーが生み出した炎龍の攻撃に備えたものだった。
……が、しかし。
そんなティースを見てカフィーがニヤリと笑い、右手で上空を指差す。
「……え?」
怪訝に思う間もなく、カフィーの周囲でとぐろを巻いていた炎龍がその首を上空へと向けた。
熱風を撒き散らし、そのまま上昇していく二匹の龍。
しばらく昇ったところで停止すると、地上を睨め回すように首を動かす。
「!」
そこで、ティースはカフィーの思惑に気づいた。
「まさか――ッ!」
「もともと、俺はこういう戦いが得意でな」
狼狽するティースを見て、カフィーは冷笑を張り付かせたまま言った。
「俺は一人で充分なんだ。雑魚なんざ百人いようが千人いようが関係ねえ。まとめて一網打尽さ」
「っ……やめろッ!」
ティースは叫び、カフィーに向かって地面を蹴った。相手がディグリーズであることや、正体がばれてしまうリスクなどは一瞬で忘れていた。
カフィーは楽しそうに左手で腰の剣を抜き、その切っ先をティースのほうに向けながら、
「……その辺りかな。ま、とりあえず適当にやってみよう」
と、右手を振り下ろす。
森を真っ赤に染め上げた二匹の炎龍が、ぐぐぐ、と、まるで獲物を見つけたかのように首を下げてその顎を開いた。
その喉奥には、巨大な炎の塊。
「やめろ、カフィー――ッ!!」
無我夢中で振り下ろしたティースの剣は、しかしあっさりとカフィーに受け止められた。
数百メートルの背後から、異常に気づいた人々の叫びが聞こえてくる。
不安、恐怖、怒り――そして。
それらのすべてを呑み込む轟音。
「ッ!?」
とっさに背後を振り返ったティースの目に映ったのは、天から落ちてくる、まるで隕石のように巨大な二つの炎。
思わず、叫んだ。
「……逃げろ、みんなぁぁぁ――ッ!!」
しかし、そんなティースの叫びも空しく。
阿鼻叫喚の悲鳴。
降り注ぐ業火。
静かな森は一瞬にして地獄の光景と化したのである――。