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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第13話『ティースの憂鬱な日々』
122/132

その8『見えない包囲網』

 ティースたちが山中で窮地に陥った夜から、時間は三日ほどさかのぼって。


「元気そうだな、シーラ」

「サイア様こそ、ご機嫌麗しゅうございます」

 嵐が明け、カフィー隊、ルーベン隊ともに進軍を再開した日の夕方のことである。一日遅れで行動しているルーベン隊は、予定どおり前日までカフィー隊が滞在していたジラートの町に到着していた。

 そしてルーベン隊と行動をともにしているシーラがサイアの部屋に呼ばれたのは、ジラートに到着して間もなく。西に傾きかけた太陽もまだいくらか高い位置にある頃であった。

「声に棘があるな、シーラよ。そなたのほうはあまり機嫌がよくなさそうだ」

 と、サイアはどこか挑発的な口調で言った。

 もちろんシーラの機嫌がいいはずもないとわかりきっているのだ。なにしろ前日の夜、シーラは宿の女中にスパイのようなことをさせたと疑われ、隊内で事実上の監視状態となっていたのだから。

「今の処遇に不満があるのか?」

「いいえ、サイア様」

 シーラはやや憮然としながらも冷静な言葉を返した。

「私がよからぬことを企んでいたというのは紛れもない誤りです。ただ、私が退屈に耐えかね、疑われるような行動をしてしまったのは事実。その反省から、この現状は素直に受け容れようと思っています」

「紛れもない誤り、か」

 ふふ、と、サイアは含み笑いをした。

「確かにあの女中の証言によれば、そなたが頼んだのは『宿の中で面白い話を聞いたらこっそり教えて欲しい』……だったらしいな。とはいえ、あの女中は主に私の部屋の給仕を担当していた。なにか聞けるとすれば私の周囲のことに限定されるだろう」

「ただの偶然です」

 表情を変えずそう答えたシーラに、サイアはふむ――と、椅子に深く腰掛け直し、そこでようやく入口に立ったままのシーラに正面の席を勧めた。

「ま、そなたが私を暗殺しようとしていたとは思わんがな。それに、どうやらその真偽を追及する必要はあまりなくなったようだ」

「……?」

 シーラが怪訝そうに眉をひそめながらも、勧められた椅子に腰を下ろす。それを待ってサイアは再び口を開いた。

「ちょうど今朝ルーベンから報告があってな。そなたの隊長は昨晩カフィー隊を離れ、密かに今回の標的である<人魔>の集落へと向かったらしい。……意味はわかるな?」

「……」

 シーラは顔を正面に向けたまま、視線だけを動かして部屋の中を見回した。

 昨晩まで滞在していたホルヴァートの宿ほどではないが、やはり特別な客を迎えるための部屋なのだろう。広さもそれなりだし、調度品もシーラが監視役の隊員と使っている二人部屋に比べて明らかにレベルが高い。

 ただ、その広い部屋の中にいるのは、サイアとシーラの他には、いつもサイアに付き従っている双子の侍女だけだった。まだそれほど遅い時間ではない。普段なら護衛兼話し相手として何人もの男たちが控えているはずである。

 つまり、シーラを呼びつけるにあたって特別に人払いをしたのだ。

 そこまで考えて、シーラは視線を正面に戻した。

「サイア様。……私は昨日からずっと、サイア様のご配慮によって何の仕事をすることもなく、ほとんどの時間を本を読んで過ごしておりました。そんな私が、遠く離れた地で起きたトラブルの内容を把握できるでしょうか。まして私は今の今まで、自分の仲間たちが想定外の事態に巻き込まれたらしいことも知らされていなかったのです」

 やや不満そうなシーラの言葉に、サイアは薄い笑みを浮かべて答えた。

「そうだな。昨晩このジラートで起きた出来事について伝えなかったのは私の判断だ。とはいえ、トラブルの内容をまったく把握できないというのは嘘であろう?」

「サイア様は私に千里眼の力があるとお考えですか?」

 ふん、と、サイアは馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻を鳴らす。

「そんな力は必要あるまい。私にはジラートとホルヴァートの間を数時間で往復できる部下がいるし、そなたにはそなたしか知らない身内の情報とその頭がある。そなたの隊長がなんのためにカフィー隊を離れ、先んじて<人魔>どもの集落に向かったのか、それを推測するのは簡単なはずだ」

 断定するようにサイアは言ったが、シーラはそれを肯定せず、

「どうでしょうか。ネスティアスの方々の手柄を横取りするような、そんな強欲な男ではないはずですけども」

「……」

 サイアはいったん口を閉じると、目を細めてシーラの顔をじっと見つめた。表情から内面を見透かそうとしたようだったが、やがて諦めたように小さく息を吐く。

「……そなたが慎重な人間なのはよくわかった。ただ、誤解のないように言っておく」

「誤解? なんでしょうか?」

「私はな。別にそなたらを罠にはめて糾弾しようと考えているわけではない。ファナやファナの父とは旧知の仲だし、ディバーナ・ロウができた当初の経緯も知っている。公にしていないそなたらのポリシーについては父上や兄上よりも正確に把握しているつもりだし、個人的にはその考えに賛同するところもある。そこだけは思い違いしないでくれ」

 シーラは疑問の目でサイアを見た。

「サイア様はディバーナ・ロウをどのようになさりたいのですか?」

「どうもしない。とりあえずはな」

「とりあえず?」

 聞き返したシーラに対し、サイアは挑戦的な笑みで応えた。

「そう、とりあえず、だ。私はただ、手元にジョーカーを置いておきたいだけでな」

「……」

 一瞬の沈黙の後、シーラは小さく息を吐く。

「やはり私には理解しがたい話のようです。……ただ、ひとまずサイア様が私たちディバーナ・ロウの理解者であることがわかって安心しました」

「嫌味のつもりか?」

 探るように問いかけたサイアに、まさか、と、シーラは微笑んでみせる。

「ネスティアスには私たちをよく思っていない方が大勢いると聞いていたものですから。サイア様がそうでないとわかって心から安堵したのです」

「……」

 サイアは不機嫌そうな顔になった。

 どうやらシーラの受け答えは、彼女が期待していたものとはかけ離れていたようである。


 そして、数分後。


「……ララ。シィ。そなたたちの目に、あの態度はどう映った?」

 シーラが退室した後のドアをじっと見据えたまま、サイアは後ろに控える双子の侍女に声をかけた。

 それに答えたのは向かって左側の侍女である。

「私たちにはサイア様のような教養も観察力もありませんので。ただ……」

 そこでためらうように言葉を切った。サイアはちらっと右後ろに視線を向けて、

「くだらぬことでも構わん。言ってみろ、ララ」

 ララと呼ばれた侍女は小さくうなずく。

「私には……あの方が嘘をついているようには見えませんでした」

「あれが素の反応だと? ならば、私が勝手に買いかぶっていたということか」

「いえ、そうではありません」

「? なんだ?」

 サイアが疑問の目を向けると、ララは真っ直ぐにそれを見つめ返して、

「もし自分を偽っているのだとしたら、そういったことにとても長けた方なのだろうな、と。そういう風に感じたのです」

「なるほど。……凡人か、あるいは名女優かといったところか」

 サイアは納得した様子でうなずくと、テーブルの上にあるティーカップの琥珀色の水面に視線を落とした。

 まあいい――と、心の中でつぶやき、カップに口を付ける。

 いずれにしろ、その結論を急ぐ必要はまったくないのだ。仮にシーラがすべての事情を察し、本心を知られまいとサイアの前で凡人を演じ、密かにその思惑を阻止しようとしたとしても、監視下にある彼女には遠く先を行くティースたちにそれを警告する手段がない。ディバーナ・ロウに“影裏”という情報部隊があって、一般人の振りをして各地に散らばっていることもサイアは知っているが、もちろん監視役の隊員には、彼らとシーラが接触することがないようにも命じていた。

 つまりシーラが凡人であるか頭脳明晰な名女優であるかという問題は、とりあえず今回のサイアの思惑には何の影響もないのである。

 カップから口を離して、ふぅ、と、一息つく。

「カフィーは予想通り進軍を速めたようだな。大方、手柄を横取りされるのを恐れたのだろうが……さて。先行させたルーベンがうまくやってくれればいいが」

 つぶやいたその表情は、いくつかの思惑が交錯しているこの現状を楽しんでいるかのようにも見えた。




 さて一方、退室したシーラを出迎えたのは、彼女の監視役を務めるナタリーという隊員だった。

「あ、シーラさん。サイア様のお話はもう終わったんですか?」

「ええ。部屋に戻りましょうか」

「了解っす。引き続きおともさせていただきます」

 と、ナタリーは歯を見せて笑いながら、ややおどけたように敬礼してみせる。

 百五十センチ弱という小柄な身長に加え短髪ということもあって十代前半の少年のようにも見えるが、名前からわかるように彼女はれっきとした女性隊員である。ただ、言葉遣いや仕草には見た目どおりの少年っぽいところがあって、シーラは最初会ったときについついパーシヴァルのことを思い出してしまった。年齢はシーラよりも一つ年下の十六歳。ネスティアスに入って数ヶ月の新米隊員らしい。

 そんなナタリーが監視役であったことは、シーラにとってありがたかった。四六時中の監視をつけられると聞いたときは相手が男性隊員であることも覚悟していたのだ。そこにやってきたのが年下の少女でありなおかつ人見知りしない性格のナタリーであったから、シーラは監視下にありながらもそれほど強いストレスを感じることなく過ごせていたのである。

 さらにシーラはそれほど大きく行動を制限されていなかった。ナタリーと一緒であれば外出は禁止されていなかったし、軟禁されているというわけではない。

 そういう細かい配慮からは、サイアのディバーナ・ロウに対するスタンスがわずかに垣間見える。敵対視しているわけでないというサイアの言葉はおおよそ本心であろうとシーラは判断していた。

 もちろん、だからといってサイアがディバーナ・ロウにとって無害であると考えているわけでもなかったが――

「ああ、そうだ。ナタリー。お願いがあるの」

 部屋に戻る途中の廊下でシーラはピタリと足を止めた。

「なんですか?」

 一歩遅れて足を止めたナタリーが振り返る。

 横から射してくる太陽の光はわずかにオレンジ色を帯びていたが、日没までにはまだ多少の時間がありそうだった。

「日が沈む前にちょっと行きたいところがあってね」

「え? あ、お手洗いですか? もちろんお付き合いします。夜になってからだと結構怖いですよね。私も小さい頃はよく夜中にちい姉に付き合ってもらって――」

 真顔で語り始めたナタリーに、シーラは慌ててそれを制止すると、

「ああ、うん。そうじゃなくてね。外に行きたいのよ」

「外? 今からですか?」

 ナタリーはちらっと視線を外に向け、明らかに困ったような顔をする。

「あの、シーラさん。外出自体は問題ないですけど、あまり疑われるような行動は……」

「わかってるわ。あなたの仕事を増やすような真似はしない。ただ、ちょっと挨拶にね」

「ジラートに知り合いがいるんですか?」

「知り合いではないんだけど、先日の嵐のときに私の仲間がお世話になったらしくて。三日もご厄介になったそうだから改めてお礼をね」

 そんなシーラの言葉に、ナタリーが顔色を変えた。

「あ! それってもしかしてリゼット様のご実家ですか!?」

「え? ああ、そうみたいね」

 急にトーンの上がったナタリーの反応に、シーラはやや戸惑いながら、

「聞いたところによると、名のある剣術道場だとか――」

「そりゃあそうですよ! リゼット様だけじゃなくて、ディグリーズにはそこの出身者が三人もいるんですから! ……ああ~、実は私も一度行ってみたかったんですよー。でもネスティアスの子たちはみんな同じこと考えてるし、次々に押しかけても迷惑になるだろうから遠慮しようって、暗黙の了解になってるみたいで。まさか先輩たちを差し置いてこっそり訪ねるわけにもいかないし……」

「あら。だったらちょうどよかったじゃない」

 興奮気味のナタリーに、シーラは軽い口調で言いながら微笑んでみせる。

「私はそこに挨拶に行きたいし、あなたは私を監視しなくちゃならない。任務で行くのなら遠慮する必要はないでしょう?」

「確かにそれなら――って……シーラさん。もしかして私を陥れようとしてませんか? 私がリゼット様の熱烈なファンなのを知ってて、とか……」

 疑いの目を向けるナタリーに、シーラは苦笑して、

「そんなことしないわよ。リゼットさんがネスティアスの女の子たちに人気なのは知ってるけど、昨日会ったばかりのあなたがファンかどうかなんてわかるわけないじゃない」

「それはそうですけど……私のは結構有名なんです。事あるごとにリゼット様の部隊への異動希望を出してますし、入隊のときなんか希望理由を原稿用紙五十枚にびっしり書いてきたぐらいで。残念ながら叶いませんでしたけど――」

「それは私でも却下するわね、たぶん。……それで、どう?」

「……うーん、まあ。別に外に出るなと言われてるわけじゃありませんし、リゼット様のご実家なら相手の素性もはっきりしてるので……」

 ナタリーはしばらく葛藤するような様子をみせていたが、実際のところ結論は出ているようだった。

「……うん! 日が沈むまでには戻らなきゃですけど、お世話になった方にお礼をするのは当然のことですよね! じゃあ、さっそく行きましょう、シーラさん!」

 そうと決めると、ナタリーの行動は驚くほどに早かった。シーラの手を引き、早足で宿の出口へと歩き出す。

 なんともわかりやすい性格であった。




 町の外れにあるリゼットの実家の剣術道場に到着したシーラとナタリーは、そこで予想以上の歓迎を受けることとなった。

 ナタリーが口にした“暗黙の了解”というのは、どうやらリゼットに憧れる女性隊員たち限定のものらしく、そのほかの隊員たちはそこそこの頻度でこの場所を訪れていて、リゼットの両親もどうやらそれを喜んでいる様子だった。

 また、ティースたちが受けた厚意への礼を述べたシーラは、逆に門下生たちが貴重な指導を受けることができたと頭を下げられてしまった。こういった対応を見る限り、リゼットの温厚で社交的な性格はおそらく両親から受け継がれたものなのだろう。

 そして――

「それでは、この先のご任務もどうかお気をつけて」

 結局、シーラとナタリーの二人がそこを離れることになったのは、太陽が西の空に沈む直前。薄暗くなりつつある外の景色を見た家人が、せっかくなので泊まっていかれては、と、口にするほどの時間になってからだった。

 そこまで遅くなった理由はもちろん(?)、リゼットの両親に歓迎されてすっかり感激してしまったナタリーが、あれやこれやと今回の任務に関係のない世間話を繰り広げてしまったためである。

 ただ、その甲斐あってか、帰路についたナタリーの顔は充足感で満ち、シーラに語りかける口調もどこか浮かれていた。

「いやー、ちょっと意外でした。リゼット様は男前だからてっきりお父様似なのかと思ってましたけど、どっちかというとお母様似でしたよね。それで改めて考えてみると、リゼット様には女性っぽいところもあるんだなって、また新たな魅力に気づいてしまったかもしれません」

「意外? そうね。まあそうかも」

 シーラはそんなナタリーの言葉に苦笑する。

 個人的に、リゼットが中性的に見えるのは主にその言葉遣いや振る舞いによってであって、顔の作りなどは最初から女性そのものだとシーラは思っていたから、あまり共感はなかった。

 とはいえ、感動の余韻に浸っているナタリーの言葉を否定し、わざわざ水を差してしまうほど無粋ではない。

 シーラは残照の西空に視線を送って、

「それにしても町の中心部から結構遠かったわね。町の外れというより、山の裾野を切り開いた場所って感じかしら」

 正面は少し左にカーブしながら緩やかな下り坂がずっと続いていて、左右数メートル先は木深い森の入口だった。

「やっぱそういう環境のほうが修行に集中できるんじゃないですかね。それに聞きました? ここの門下生はよく山奥にこもって<獣魔>相手に命がけの稽古もするんだそうですよ。下級の<獣魔>とはいえ、とても一介の町道場のレベルじゃないですよねー。……そうそう。なんか今、将来有望なお弟子さんがいるそうで。まだ十歳なのに、もうトップクラスの門下生に混じって稽古積んでるらしいです。もちろん将来はぜひともネスティアスにってお願いしておきました」

「……ああ、そうだ。ナタリー」

 シーラは思い出したように立ち止まると、下り坂の途中で右に分岐している細い道を指差す。

「ちょっとだけ寄り道してってもいいかしら? こっちのほうにティースたちがお世話になった離れがあるらしいの。せっかくだから見ていこうと思って」

「え? あ、えっと……」

 ナタリーは少し言いよどんで西の空に視線を送った。太陽はもうその大半が山の陰に隠れようとしていて、日が沈むまでに戻ることを考えれば、むしろ早足で帰る必要があるぐらいだった。

 が、しかし。ナタリーとしても、滞在できる時間の大半を自分が使ってしまったという自覚があったのだろう。

 結局は二、三秒迷った後、

「そうですね。見ていくぐらいなら」

 と、すんなりシーラの申し出を許可した。

 日が沈んだ後に外を歩き回るのは避けたほうがいい、とはいえ、長時間ウロウロするというわけではないし、何よりネスティアスの制服に身を包んだ彼女たちに悪意をもって近づく者などそうそういるものではない。多少遅くなっても危険はないだろうというナタリーの判断だった。

 右に曲がって細い道を進んでいくと、二分ほどで少し開けた場所に出た。中心には平屋の大きな建物があり、そこから少し離れた場所に小屋が二つ建っているのが見える。

「あ、こっちにも稽古場がありますね。もともとは母屋の近くにあるほうを使っていたらしいですけど、リゼット様たちが活躍してからはお弟子さんが急激に増えて、こっちに大きいのを建て直したんだそうです」

「だから母屋のほうよりだいぶ新しいのね」

 見たところ、稽古場もその近くにある小屋もここ数年のうちに建てられたもののようだ。

 今はもう全員引き上げたのか稽古場のほうに人の気配はない。

「ディバーナ・ロウの皆さんが泊まったのはおそらくあっちの小屋ですね。普段は門下生の方が泊まり込みの際に使っているそうです」

 と、ナタリーが指差しながら先導するように歩き出す。

 シーラもうなずいてその後をついていった。

 ――と。

「? ねえ、ナタリー」

 シーラは立ち止まってナタリーを呼び止めた。

「なんか妙な音が聞こえない? 音というか……うなり声みたいな?」

「はい?」

 ナタリーが振り返るとほぼ同時に、周囲を覆う木々の一角から黒い塊が飛び出してきた。

「あら? 野犬……ではなさそうね」

 大きさからパッと見では犬あるいはオオカミのように思えたが、よく見ると耳が丸い形をしている。体毛はこげ茶でどちらかといえばタヌキに近いだろうか。

 だが、それを見たナタリーは少しだけ表情を引き締めて言った。

「あ、シーラさん。ちょっと動かないでください。そいつ、一応<獣魔>です」

 と、獣とシーラの間に割って入り、腰につるした剣の柄に手を添える。

「<獣魔>? この子が?」

「ええ。<雷の七十八族>――ここの門下生が山ごもりで相手にするって言ってたやつです。こんなところまで下りてくることもあるんですね。……あ、安心してください。そこまで凶悪なやつじゃないですから」

 説明するナタリーの口調には充分な余裕があった。

「こいつは二、三匹で行動することが多いんで、近くにもう一匹ぐらい潜んでるかもしれませんけど……」

 そう言いながら左右に視線を振るナタリー。

 シーラは正面の茂みに人差し指を向けて、

「あっちの茂みにそれらしき影が見えるわ。……二、三匹どころか結構たくさんいるみたいだけど、大丈夫?」

「え? ……」

 がさがさ、がさがさ――と。その茂みから一匹、二匹、四匹……シーラの言葉どおり、何匹もの<獣魔>がぞろぞろと現れ始めた。

 ざっと数えて、十匹以上はいるだろう。

 ナタリーの顔がわずかに強張る。

「あー……ちょっとまずいかもです。そこまで積極的に人を襲う種類じゃないはずですけど――」

 バチッ、と音がして、先頭にいた<獣魔>がその身に電流のようなものを纏う。と同時に、こげ茶色の体毛が白色に変わった。

 攻撃の意思は明らかだった。

「……なんか知らないけどやる気マンマンみたいっす。さすがにこの数は……どうしましょう」

 さすがに取り乱しはしなかったものの、多勢に無勢の状況であることは間違いないようだ。

「シーラさん」

 やがて、ナタリーは静かに抜剣する。

「とりあえず私がけん制します。先に逃げてください」

 と、言った。

 ひとまず戦闘能力のないシーラを逃がして、後は自分でどうにかするつもりのようだ。この状況であれば当然の判断だろう。

 が、しかし。

「ねえ、ナタリー。確認したいのだけど」

 シーラが考えていたのはまったく別のことだった。

「私、実物を見るのは初めてなんだけど、彼らは<雷の七十八族>で間違いないのね?」

 と、視線で正面の<獣魔>たちを示す。その先で<獣魔>たちは先頭に習い次々に帯電を始めていた。

「ええ、それは間違いない――って、シーラさん? なにしてるんですか?」

 怪訝そうなナタリーの目の前でシーラは腰に下げたカバンを探り、そこから手の平サイズの小袋を二つ取り出すと、

「なにって、追い払うのよ。あの<獣魔>たちをね」

 その言葉の意味をナタリーが問いかける間もなく、シーラは片方の小袋を<獣魔>たちの中心あたりに向かって放り投げた。

「ちょっ……シーラさん、なにを――って、え?」

 ナタリーは驚いた。

 彼女はシーラのその行動が<獣魔>たちを刺激するのではないかと身構えたのだが、意外にも<獣魔>たちは投げ込んだ小袋のほうに興味を示し、ナタリーたちの存在を忘れたかのように落下点に集まりだしたのである。

 それを確認したシーラはさらにもう一つの小袋を、今度は<獣魔>たちが密集した辺りの少し手前目掛けて放り投げた。

 そして、

「ナタリー。逃げましょう」

 シーラがそう言ったのと、二つ目の小袋が地面に落下したのはほぼ同時。

 直後――悲鳴のような叫び声が上がる。

 それは<獣魔>たちのヒステリックな鳴き声だった。地面に落ちた小袋はまるで風船のように小さな破裂音を立てて割れ、中に入っていた粉末が周囲数メートルに飛び散ると、<獣魔>たちは急に狂ったように鳴き始めたのである。

「さあ、ナタリー。早く」

「あ、は、はい」

 ナタリーはなにが起きたのかわからない様子だったが、逃げるように茂みに飛び込んだり後ずさりしたりしている<獣魔>たちを見て、それが撤退のチャンスであることはすぐに理解したようだ。

 そして二人は<獣魔>たちに背を向けて走り出す。

 百メートルほど走ったところで一度後ろを振り返ったが、どうやら追いかけてくる<獣魔>はいないようだった。互いに視線を交わして安全を確認すると、うなずき合ってわずかに速度を緩める。

 ナタリーが不思議そうに問いかけた。

「シーラさん。さっきのあれ、なにを投げたんですか?」

 シーラはすぐに答える。

「フリープスっていう花の根っこを乾燥させて粉末にしたものよ」

「フリープス? 聞いたことない名前ですね」

「あの<獣魔>がものすごく嫌う花なのよ。参考にした本の記述に間違いがなければ、しばらくあの辺りには寄り付かなくなると思うわ」

 ナタリーは首をかしげた。

「そんなのあるんですか? 私、聞いたことないですけど……」

「そうなの? フリープスは魔界の植物だし、あまり流通してないからそんなに知られていないのかもね」

「魔界の植物? それを、たまたま持っていたんですか?」

 ナタリーは驚いたようだった。

 不思議な特性を持つ魔界由来の植物については、照明や火起こし、病気の治療など、昔から様々な用途に使用されてきているが、普通人々の手に渡るのは日用品などとして加工された後のものである。それ以外の植物そのものは簡単に手に入るものではないし、ネスティアスの隊員であるナタリーが知らないようなマイナーなものであればなおのこと。常識的に考えて、たまたま持ち合わせているようなものではないのだ。

 ただ、シーラはそんなナタリーの疑問にも事も無げに答えた。

「たまたまというか、この辺りに<雷の七十八族>が多く棲み付いているのは知ってたのよ。だから念のため護身用に準備してただけ。……ただ、やっぱり経験不足ね。特徴は覚えたつもりでも、一目じゃ相手が<獣魔>かどうかすら判別できなかったわ」

「……」

 そんなシーラの返答に、しばらくは狐につままれたような顔をしていたナタリーだったが、やがて納得した様子で、

「……いや、でも、とにかく助かりました。非戦闘員のはずなのにそんなこと知ってて、実際そういう風に準備しておけるなんて……シーラさん、マジすごいっす。尊敬っす」

 社交辞令かと思いきや、どうやら本当に感心しているようだった。

 シーラは苦笑しつつ、

「まあ、私はあなたたちみたいに戦えるわけじゃないし、その分せめて頭を使わないとね。それに」

 いったん言葉を切ると、少し声のトーンを落とす。

「すごいとかじゃないわ。見限られないように必死なだけだから」

「……え? どういうことです?」

 ナタリーは呆気に取られたような顔をしたが、シーラは小さく笑ってみせただけですぐに話題を変えた。

「そうだ、ナタリー。戻る前にリゼットさんのご両親に今の出来事を報告しておきましょう。念のために警戒してもらったほうがいいと思うわ」

「え、あ、はい、そうですね。ジラートの警邏隊にもあとで報告しておきます。町中まで下りてくることはまずないと思いますけど、一応」

 と、ナタリーはうなずいた。

 そうしてリゼットの実家に引き返し事情を伝えて再び帰路につこうとした頃、外はすでに真っ暗になっていたが、その後は特にトラブルに巻き込まれることはなかった。




「それで?」

 その夜、ナタリーから事の報告を受けたサイアはやや腑に落ちないという顔をしていた。

「シーラは昨晩の騒ぎのことを道場の者に聞いていったのか?」

 視線の先で畏まったナタリーが答える。

「はい。といっても、道場の人たちもそんなに詳しくは知らなかったので。ディバーナ・ロウが嵐の中で<人魔>らしき敵を追いかけていったらしいとか、そういう程度のことしか」

「なにか不審な動きは?」

「シーラさんにですか? ……特には。誰かと接触しようとしたとか、どこかにメッセージを残そうとしたとか、そういうこともありません。話をしたのは道場の人だけですし、私がずっとついてましたからそれは間違いないです」

 ふむ――と、サイアは少し考えてから再び問いかけた。

「<獣魔>どもに襲撃されたときはどうだ? 敵に気を取られている間に誰かと接触しようとしたとかは?」

 ナタリーは笑いながら大きく首を振って、

「それこそ無理です。シーラさんに怪我をさせたら大変だからって、私、ずっとピッタリ張り付いてましたから。……今にして思うと、シーラさんだけを先に逃がしていたらそういう可能性もあったと思いますが、たぶんそんなこと考えられる状況じゃなかったです。結局一時も離れませんでしたし」

「そうか。……わかった。ご苦労だったな。下がっていいぞ」

「はい。失礼します」

 ゆっくりと立ち上がったナタリーが、少し不思議そうに首をかしげながら退室していく。どうしてサイアがその出来事にこだわったのかわからないという様子だった。

「……特に不審な点はなし、か」

 ナタリーが退室した後、サイアはそうつぶやきながら腰を浮かせ、椅子に深く掛け直した。部屋には明かりが煌々と灯っていたが窓の外は真っ暗。サイア自身もすでに寝巻姿だった。

 一つ、息を吐く。

「なにかやってくる。……いや、やってくれるのではないかと期待していたのだがな」

「期待、ですか?」

 いつもどおり後ろに控えていた侍女の一人が怪訝そうに口を開く。

 サイアはちらっとその侍女を見やって、

「ああ。こちらの思惑を阻止しようと動くなら、それを押さえてやろうと思っていたのだ。こちらに有利な材料はたくさんあって困ることはないからな」

 まあいい――と、サイアはゆっくり椅子から立ち上がる。

「いずれにせよ、あとはルーベンからの報告を待つだけだ。……唯一心配があるとすれば、あのティースという男の行動だが」

 サイアにとって一番望ましくない展開は、彼女が握ろうとしているディバーナ・ロウの弱みをカフィー側にも握られてしまうことだ。シーラに対しても言ったとおり、サイアはディバーナ・ロウを潰したいわけではない。

 <人魔>の集落に向かったであろうディバーナ・ロウ。

 進軍を早めたカフィー隊。

 その両者が刃を交えるようなことがあったとしたら、それはサイアにとって非常に面倒な事態なのである。

 ただ、その点についてサイアは非常に楽観的で。

「ま、いくらなんでもそこまで無謀な男ではあるまい。<人魔>どものためにディグリーズを敵に回すなどという馬鹿な真似はしないだろう」

 そして――言うまでもなく。

 今回の一連の出来事に関し、おそらくは唯一ずさんだったその一点の予測について、サイアは的を大きく外してしまうことになるのであった。




 再び時間は戻って――


「ん?」

 二手に分かれて山の入口を封鎖しているカフィー隊のもとに奇妙な一団が現れたのは、その日も深夜に差し掛かろうとしていた時間帯。日が変わる一時間ほど前のことである。

「……なんだ?」

 見張り役をしていた隊員が、山から下りてきたその異様な集団に目を見張った。

「……」

 無言で姿を現したのは六人。お世辞にも綺麗とはいえない身なり。そして見張りの目を引いたのは、彼らが全員顔面に包帯のようなものを巻き、その人相を完全に隠していたということだった。

「止まれ! 何者だ!」

 そして警告の声を発した隊員に対し、その先頭に立っていた小柄な男はこう言い放ったのである。


「我々は“ヴァンスの隠れ家”だ。身の程知らずの人間どもよ、思い知れ――」

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