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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第13話『ティースの憂鬱な日々』
120/132

その6『ヴァンスの隠れ家』

 今から三百二十年ほど前、国家間での戦争を禁じるヴォルテスト条約に大陸の八割ほどの領地が加入し、大陸のほぼ全土において人間同士での大きな争いに対する懸念が小さくなると、各国はそれまで他国との戦争に費やしていた資金や人材の大半を新たな敵へ向けるようになった。

 新たな敵――すなわち<魔>である。

 ヴォルテスト条約の発効前、つまりは大陸暦が始まる以前においては、<魔>による被害は半ば天災のようなものとして扱われてきた。大陸に存在する<魔>の総数が現在の十分の一以下であったこと、今ほど頻繁に人間を襲ったりしなかったことなどから、各国は隣国に対する兵力を削ってまで彼らを退治しようとはしてこなかったのだ。

 だから当時の人々にとって<魔>はどうしようもないもの――被害にあっても運が悪かったと考えるしかない、天災のような存在だったのである。

 一方の<魔>のほうも過去のいくつかの歴史から、自分たちが必要以上に攻撃することで人間たちが一致団結してしまうことをおそれていた。個々がいくら人間を上回る力を持っていても、人間対<魔>という構図になれば、数の違いで勝ち目がないことを悟っていたのだ。

 そうして当時の大陸には奇妙なバランスの共存状態が保たれていたのである。

 当時大陸にいた<魔>の大半が、自らの意思によらずに人間界に流され、帰ることもできない低級の<魔>ばかりだったこともバランスが成立していた一因であろう。不確定とされる一部の歴史資料においては、これらの<魔>をおおっぴらに受けいれて正真正銘の共存生活を実現させていた集落もあったとされるほどである。

 しかし、大陸暦以前に成立していたこの共存状態はヴォルテスト条約を境に一変した。

 各国はそれまで他国に向けていた戦力を領地内の<魔>へと向けるようになり、<魔>の退治を専門とする公的部隊が作られ、その流れはやがて民間にも広がった。デビルバスターという<魔>を退治できる人間の称号が作られるのはもう少し後のことだが、大陸暦が始まって十年も経たないうちに、すでに個人で<魔>を退治することを生業とする人間は何人もいたとされている。


 そして――ヴァンスと呼ばれる人物が歴史上に姿を現すのは大陸暦二十年台の半ば頃のことだ。


「人間だったって説もあるみたいだよ」

 あれからちょうど一週間。

 ヴァンスの隠れ家殲滅作戦のため、カフィー隊とともにネービスを出立したティースたちディバーナ・クロスは、三日目の昼すぎにネービス領西方にあるジラートという小さな街に到着した後、二日間に渡って嵐による足止めを食らっていた。

「人間? そのヴァンスって人が?」

 外から戻ってきたティースは汗と雨が混じった額の液体を袖で拭いながら、エルレーンにそう聞き返した。そんなティースの行動を見ていたリィナが、すぐに荷物の中からタオルを取り出して彼に差し出す。

「あ、悪い。サンキュ、リィナ」

「いえ。お疲れ様です。今日の稽古はどうでしたか?」

 ティースはリィナの指に触れないように注意しながらタオルを受け取ると、大きな息を吐きながらベッドに腰を下ろした。

「いや、思った以上にすごいよ、ここの生徒たちは。デビルバスターを何人も送り出しているだけのことはある」

 と、感心しながら答える。

 嵐による足止めを受けたティースたちが滞在していたのは、ジラートで一番大きいとされる剣術道場の離れ家であった。質素なベッドが四つ設置された比較的新しめの小屋で、普段は道場の門下生が泊り込みの際に利用している場所らしい。

 それほど広くはないが、三人が寝泊りするには充分な施設である。

 さて、この状況を見て、もしかすると、どうしてティースたちがカフィー隊と一緒に行動していないのかと疑問に思われる方もいるかもしれない。

 しかし、その理由は至極簡単である。嵐をしのぐため、街のほぼすべての宿を押さえて仮宿舎としたカフィー隊が、ティースたちを頭数にカウントしてくれなかった。つまり部屋がなかったのである。

 宿の手配を担当したという隊員は不手際だったことをティースたちに謝罪したが、それが本当にミスだったのかどうかは不明だ。ただ、意図的な嫌がらせかどうかまでは別としても、彼らがティースたちの存在をどのように見ているかは推して知るべし、であろう。

 なにはともあれ、そういう事情でティースたちは急遽自分たちで宿を探すことになったのだが、この街は観光地ではないし主要街道の中継地でもない。数少ない宿はカフィー隊がすべて借り切っていた。

 雨と風が激しさを増していく中、せめてエルレーンとリィナだけでも屋根と壁のある場所に――とティースが必死になって駆け回った結果、辿り着いたのがこの剣術道場だったというわけである。

 しかも運のいいことに、その道場はティースたちともちょっとした縁のある場所だった。

「でも、本当によかったですね。ここがリゼットさんの生家だったなんて」

 そんなリィナの言葉にティースは実感を込めてうなずく。

「本当だよ。おかげで話が早かったし、俺もなんだかんだでいい運動をさせてもらってるし。部屋がなくてかえってよかったかも」

 昨日今日と二日間に渡ってティースが門下生に稽古をつけてきたのも、一宿三飯のせめてもの恩返しである。

 そこへエルレーンが思い出したように小さく笑って、

「でもボク、昨日のお母さんにはちょっとだけ笑っちゃった。……リゼットはまだ結婚しないんですか、いい人はいないんですか――って。ティース、三回ぐらい聞かれてたよね?」

「ああ……」

 ティースも思い出して苦笑する。

「俺も困ったよ。そこまではリゼットさんのこと知らないしさ。……あれだけ活躍しててもやっぱ一人娘だし心配なんだろうな」

「やはりこちらの親子というのは、本当に特別な存在なんですね」

 と、リィナが妙に感心したような顔をした。親子という関係の特別性については、まだ実感を得るところまでいってないようだが、そういうものだということで理解はしているようだ。

 ただ、かくいうティースも肉親に対する想いという意味での実感はほとんどない。シーラの実家であるレビナス家に仕えていたという両親の記憶はほとんどなかったし、最初は幼い頃に死んだと聞かされていたものの、後にレビナス家の貴金属を盗み自分を捨てて逃げたのだということを知らされ、なんとも複雑な思いを抱かされたものである。

 それを踏まえてティースは言った。

「ま、親子にも色々あるんだけど。本当の親じゃないのにそれ以上に想ってくれる人もいるしさ」

 本当の両親はもしかするとまだどこかで生きているかもしれないが、ティースは会いたいと思ったことは一度もなかった。悪事を働いて自分を捨てたことへの軽蔑もあるし、親代わりになってくれた人物への想いが強いからという理由もある。

(……だからシーラと上手くいかないんじゃないかって、アクアさんに言われたんだっけ)

 そんなことを思い出しながら、ティースはベッドの後方に両手をついて体をそらすように天井を見上げた。

 小屋から十メートルほど離れている稽古場からはまだ掛け声が聞こえている。

 外壁に当たる雨は少し弱くなってきているようだ。

 そしてふとティースは視線を下ろし、再びエルレーンを見た。

「それで、ヴァンスの隠れ家の話だったよな?」

「あ、うん。今回の作戦とはあまり関係のない話なんだけどね」

 と、エルレーンは最初の話を続けた。

「ヴァンスの隠れ家っていうのは、名前のとおりそのヴァンスって人が作った組織なんだけどね。ヴォルテスト条約後の流れを見ると、人間の襲い方みたいな悪知恵をつけようとかじゃなくて、急に排斥されるようになった<人魔>たちを支援するために作ったっていうのが本来だったんじゃないかな、と思って。ボクの勝手な推測だけどね」

 ティースは少し首をかしげて、

「俺もリゼットさんに聞いてからちょっとだけ調べてみたけど、そういう見解のものは見た記憶がないなあ」

「うん。もう三百年も前のことだし、本当のところはわからない。ただ、大陸暦以降に作られたこっちの資料は<魔>に対してとにかく否定的なものばかりだから……。ヴォルテスト条約は<魔>に対してどうこうってものじゃないんだけど、結果的には人間と<魔>の関係を悪化させちゃったんだよね」

 と、エルレーンが悲しそうな顔をする。

 ティースはそんな彼女へのフォローの意味もあってすぐに言った。

「まあ、でもお前の推測も正しいかもしれないよな。条約以前は共存してた地域もあったぐらいなんだろ? 急に行き場をなくした<人魔>はたくさんいたかもしれない」

 共存できなくなって、死ぬか人間を襲うかの選択肢しかなくなってしまったのだとしたら――と、ティースは本当にあったのかどうかもわからない<人魔>たちの葛藤を想像してしまい、少しだけ暗い気持ちになった。

「もしそうだとすると、ヴァンスの隠れ家というのは今でいうキュンメルのような存在だったのかもしれないですね」

 と、エルレーンの隣にいるリィナが言った。

 キュンメルもやはり大陸全土で活動する<人魔>の組織である。人間によって非人道的な扱いを受けている<人魔>の救済を目的としていて、極秘裏にではあるが、ディバーナ・ロウとも一部協力関係にあった。

 もしエルレーンの推測が正しいのであれば、確かに似たような理念を持つ組織だったのかもしれない。

 ちなみに、ティースはディバーナ・ロウの一員としてキュンメルに関わったことは一度もないが、かつてディバーナ・ロウを一時的に離れていた際に個人的に協力したことがあり、どういう組織なのかはよくわかっていた。

「けど、どっちにしても今はまったくの別物だ。作られた経緯がどうだったのかはわからないけど」

 ティースがそう結論付けたところで、そういえば――と、リィナが話題を変えた。

「シーラ様のほうは大丈夫でしょうか?」

 と、眉を曇らせる。

 シーラはただ一人別行動で、カフィー隊の後方支援という目的で動いているルーベン隊と、それに同行している公女サイアの元にいるはずだった。

 ティースは心配そうな顔のリィナを安心させるために軽い調子で答える。

「ルーベンさんの部隊と一緒だしぜんぜん心配ないよ。たぶんホルヴァートの街に滞在してるだろうしね」

 そのルーベン隊はカフィー隊から一日遅れでネービスの街を出発したと聞いていた。同じタイミングで足止めされたと考えると、おそらくはホルヴァートという街で嵐に遭遇している。ホルヴァートは街道の要所であり、かなり大きな街だ。今のティースたちよりは間違いなく快適に過ごせているはずである。

 ただ、どうやらリィナの心配は嵐のことではなかったようで、

「その……すみません。私、あのルーベンさんという人をまだ信用できなくて」

 そう言って申し訳なさそうな顔をする。

 なるほど、と、ティースは思った。確かにルーベンはティースたちにとって、いまだになにを考えているのかわからない存在である。

 しかし、そんなリィナの懸念に対してもティースは楽観的だった。

「大丈夫だって。そりゃ君やエルを置いてきたなら心配だけど、シーラには疑われて困るようなことは何もないんだしさ」

「だと、いいんですが……」

 それでもリィナの表情は冴えないままだった。

 と、そんなリィナを横目で見ながら、

「でもさ。ルーベンのこととは別なんだけど、ボクもちょっと気になってるんだ」

 今度はエルレーンがそう言った。

「連絡係……だったよね。シーラを向こうに置いてきた理由。……それって必要なのかな?」

 ティースは眉をひそめて、

「必要なのかって、そりゃなにもなければ必要ないだろうけど――」

「ゴメン。そうじゃなくて、なにかあったときに本当にシーラが連絡係をやるのかなって思って。あっちの部隊はこっちから結構離れて動いてるよね? 距離もあるし……」

「ああ、そういうことか。……あ、これ、シーラには一応内緒な」

 と、ティースは声を潜めた。もちろん数十キロも離れた場所にいるシーラに盗み聞きされる心配などないのだが、無意識の行動である。

「俺も気になって後でリゼットさんを通して確認してもらったんだけど、実際はやっぱりサイア様が話し相手としてそばに置きたいって話なんだってさ。実際に後方部隊から俺たちに連絡が必要なときはネスティアスの隊員が来るよ。……シーラも馬には乗れるけど、さすがにそんなに飛ばせるわけじゃないし、体力的にもまだ不安があるしな」

 その話にエルレーンは納得したようだった。

「あ、やっぱそうなんだ。なんか変だと思ってたんだ」

「俺も聞いた時点で変だなとは思ったよ。ただあいつは乗り気だったし、俺としても今回の作戦はまだ危険かなと思ってたから、その場ではなにも言わなかったけど」

「え? ……シーラ、乗り気だったの?」

 一転、エルレーンは大きな目をさらに見開いて意外そうな顔をする。

「……大丈夫かな。無茶なことしようとしてなきゃいいけど……」

「エル? どうした?」

「……あ、ううん、ゴメン。独り言」

 怪訝そうなティースに、エルレーンは手を振ってなんでもないとアピールすると、軽く体をそらせて先ほどのティースと同じように天井を見上げた。

「風、夜中には落ち着きそうだよ。明日は早起きしなきゃ。今度は置いていかれちゃうかもしれないしね」

 と、冗談っぽく言った。

「だな」

 冗談で済めばいいけど――と、ティースは思いながら、

「とりあえず明日は朝一番でカフィーさんのところに顔を出すよ。ご主人への挨拶は今晩中に済ませておこう」

 そう言うと二人はうなずいて、早々に明日の出立の準備に取り掛かったのだった。




 そんなティースたちが滞在していたジラートより、五十キロほど東にあるホルヴァートの街。

「……カフィーのやつめ。子供じみた嫌がらせをするものだ」

 そうつぶやいたサイアの言葉は、嫌悪感を隠そうともしていなかった。

 ティースが予想したとおり、カフィー隊から一日遅れてネービスの街を出発したルーベン隊は、この街で嵐を凌ぐこととなっていた。

 ホルヴァートは、ヴァルキュリス山脈沿いにネービスの街に向かおうとする者のほぼ十割が立ち寄るとされる大きな街である。もちろん重要な中継地であるだけに宿泊施設の量も豊富で、ルーベン隊はその中でもやや大きめの宿を丸ごと借りていた。

 サイアがいたのは、その一階奥にある賓客向けの特別室である。

「まったく。実力には関係なく、ああいう男にはディグリーズを名乗って欲しくないものだ。あまりに品位がなさすぎる」

「とはいえ、彼を任命したのはあなたのお父上ですよ」

 サイアはいつも通りの白いドレス姿で、後ろには双子の侍女が静かに控えている。その視線の先には黒い制服に身を包んだ部隊長のルーベンがいて、隣には一般隊員用の深緑色の制服を着た十代半ばの少年がかしこまっていた。

 ルーベンの言葉にサイアは小さく鼻を鳴らして、

「父上はあやつの人となりなど。ほとんど知らぬ。判断材料は書類上の実績とオリヴィオから聞かされる話ぐらいのものだからな」

「とはいえ、カフィーはあれで実績もちゃんと残してますからね」

 あまり興味なさそうに淡々と答えたルーベンに、サイアは不服そうな顔をしながら、

「もちろんあやつとてネービスにとっては貴重な戦力。そんなことは百も承知だ。が、公女とはいえたまには個人的な嗜好を口にしてもよかろう。……嵐の中ご苦労だったな。下がってよいぞ」

 最後に言葉を向けた先はルーベンではなく、隣にいた少年のほうだった。

「引き続きディバーナ・ロウの動きを伝えてくれ。くれぐれも気取られぬようにな」

「はい。お任せください、サイア様」

 と、改めてかしこまった少年は一度ルーベンのほうを窺い、ルーベンがうなずいたのを見てから静かに退室していった。

 その後姿を見送ったルーベンが、再びサイアのほうへ向き直りながら、

「相手はデビルバスターですから。気づかれないように張り付くのも結構大変なようで」

 ふむ、と、サイアはテーブル上の白いティーカップを手に取った。

「あの少年には監視の目的を伝えてあるのか?」

「いえ、単に実力を測るための試験だからと言ってあります。今回張り付かせている二人は私の下でかなり長いんで、ま、本当のことを言っても構わないんですが。片方が本番に弱いタイプでして。サイア様の悪巧みの片棒を担がされているなんて知ったら、恐れ多くて思わぬミスをしかねません」

 カップに口をつけたまま、サイアがちらっとルーベンの顔を見る。

「棘のある言い方だな。気にいらんか?」

「いいえ、私は好きですよ。悪戯というのはいくつになってもわくわくするものです。相手がカレルさんのような真面目人間だったりすると、なおさらいいですね」

 ふぅ、と、サイアは少しだけ呆れたような顔をして、

「相変わらずマイペースな男だ。そなたの性格は部下としては嫌いではないが、結婚相手には絶対に選びたくないタイプだな」

「残念です……と言ったほうがいいですか?」

「一般的にはともかくこの場では必要ない。……嵐の状況はどうだ?」

「明日には出発できそうですね。サイア様も準備をよろしくお願いします」

「心配ない。今すぐと言われても出立できるようにしてある。それとシーラはどうしている?」

 矢継ぎ早の質問にも、ルーベンは淡々と答えた。

「今朝サイア様と食事を摂られた後は、部屋でなにやら難しそうな本を読んでいたみたいですね。……といっても私には女性の部屋を覗く趣味はありませんので、部屋にランチを運んだ女中の証言ですが」

「そうか。時間を有効に使ってるようだな。結構なことだ」

 と、うなずくサイア。

 今度はルーベンが質問した。

「どうして彼女をこっちに同行させたんですか? まさか本当に話し相手として連れてきたわけではないですよね?」

「決まっている」

 その問いかけに、サイアは薄い笑みを浮かべた。

「そなたの言うところの悪巧みに対策されてしまわぬようにだ。少しでも頭の回る人間がいると、出てくるはずのボロが隠されてしまう恐れがあるからな」

「ずいぶんと買ってますね」

「買う価値もあるかもしれんな。今のところは」

 そこでサイアがいったん言葉を止めた。直後、ノックの音がして宿の女中が顔を覗かせる。

 ルーベンは女中が運んできたワゴンの上の焼き菓子をちらっと見て、入室を許可した。

「ルーベン。そなたも一緒にどうだ?」

 女中が焼き菓子を置いて部屋を出て行くと、サイアは突っ立ったままのルーベンに向かいの席を勧めた。

 だが、ルーベンは一歩身を引いて、

「いえ、紅茶はあまり好きじゃないもので。はちみつをたっぷり入れたミルクなら喜んでご一緒させていただくのですが」

「……子供か。そなたは」

「すいません。さて」

 呆れ顔のサイアに心のこもっていない謝罪をしつつ、ルーベンはちらっと後ろのドアを一瞥して、

「そろそろ私も失礼します。明日の準備もありますので」

「そうか。頼むぞ、ルーベン」

 ルーベンはサイアに軽く一礼して部屋を出た。




 その十分ほど後のことである。

「ありがとう。助かったわ」

 先ほどサイアの部屋を訪れた女中が別の一室から出てきて、それを見送るように一人の少女が顔を覗かせた。昨日今日とほぼすべての部屋は、ネスティアスの隊員が二人あるいはそれ以上の人数で使用していたが、そこは唯一の一人部屋である。

「いいえ。それよりも……こんなに?」

 部屋を出た女中はびっくりした顔で、確認するように目の前の少女の顔と自分の手の平を見比べた。そこに握らされていたのは、彼女の一月分の給与にも相当する金貨である。

 ただ、少女は当然のように答えた。

「昨日から色々お願いを聞いてもらっていた分よ。今日はいい話も聞かせてもらえたしね」

「いえ、大したことでは。それでは遠慮なくいただきます」

 女中は金貨をポケットに入れると、軽くスカートの裾をつまんでお辞儀する。

「なにかありましたら、また私にお申し付けください」

「ええ、そうさせてもらうわ。ありがとう」

 女中が立ち去っていく。

 少女は満足そうにそれを見送ると、

「……さて、と。あとは万が一のときに、どうやってティースと連絡を取るか、ね――」

 ため息とともにつぶやきながら、部屋の中へと戻っていく。


 ……いや。

 戻ろうとしたのだが――


「シーラさん」

「!」

 突然の呼びかけに驚いて動きを止め、シーラは女中が去っていったのと逆側の廊下を振り返った。

「こんにちは。相変わらずひどい雨ですね」

 誰もいなかったはずの廊下にいつの間にか黒い制服に白髪の男が立っていて、窓の外を見つめていた。

「……ルーベンさん? 私になにか御用ですか?」

「おや。一瞬青ざめたように見えたんだけどなあ。もう戻ってる」

 ルーベンは意外そうに目を見開いて、ゆっくりとシーラに近づいていく。

 シーラは中途半端に開いていた部屋のドアを閉め、まっすぐルーベンに向き直った。

「青ざめた? 誰もいないと思っていたので少し驚きはしましたけど」

「驚かすつもりはなかったんですけどね。……まあいっか」

 三歩ほど距離をあけてルーベンが立ち止まる。シーラがルーベンにここまで近づいたのはおそらく初めてだった。思っていた以上に背が低く童顔である。ティースよりも一つ年上のはずだが、実年齢より三つか四つは若く見えた。先行しているカフィーもデビルバスターにしては小柄で童顔だったが、彼と違うのはまったく威圧感がないということだ。どこかとぼけたような表情をしていて、言葉も柔らかい。

 ただ、そんな外面の緩い印象が彼の本質ではないことを、シーラはとっくに気づいていた。

 ルーベンが口を開く。

「それで? さっきの女中さんから何かいい話は聞けたんですか?」

「……」

 一瞬だけ言葉に詰まる。

「ルーベンさん。なにをおっしゃっているのかわかりません」

「とぼけるのはあまりうまくないですね。それなりに度胸はありそうですが」

 と、ルーベンはシーラの言葉にまともに取り合おうとはせずに、

「私とサイア様の会話の内容を聞いたんですよね? だからあんなにチップを奮発したんだろーし」

「どうして私がそんなこと――」

 反論しようとするシーラをルーベンは片手をあげて制止する。

「別に認めなくてもいいです。実を言うと、あの女中さんにはこっちからもチップを渡してあるんです。あなたよりも先にね。……意味、わかりますよね?」

「……」

 もちろんすぐに理解したシーラは眉をひそめ、口をつぐんで視線を泳がせた。その無言を図星と受け止めたルーベンがゆっくりと手を下ろす。

「すぐにでもあなたとの会話の内容を彼女に確認させてもらいます。それと、しばらくあなたには護衛の人間をつけますよ。目に見える形でね。まあ、早い話が監視です」

 のんびりとした口調で、しかし確実にシーラを追い詰めるようにルーベンは続けた。言葉の端々には確信がにじんでいて、口先で潔白を主張することはできそうにない。

「なにか言いたいことはありますか?」

 そんなシーラにルーベンが淡々と言葉を投げかける。

「……」

 シーラはルーベンから視線を外し、厳しい表情で考え込んだ。

 そしてしばらく。

 やがてシーラは目を閉じて観念したような顔をすると、ため息とともにゆっくりと口を開いた。

「……一つだけ聞いても?」

「なんです?」

 反論の意思がないことを悟ったのだろう。ルーベンは余裕のある口調で続きを促した。

 シーラはゆっくりと目を開き、顔色を窺うようにルーベンを見る。

 さらに一呼吸おいて、質問を口にした。

「ルーベンさん。あなたはどうして、ディバーナ・ロウを抜けてネスティアスへ入ったんです?」

「え?」

 完全に予想外の質問だったのだろう。ルーベンは一瞬ぽかんと口を開けた。

 数秒の空白。

 やがてルーベンは自分の真っ白な髪に右手を当て、戸惑ったように答えた。

「……まいったなあ。この場面、普通はなにを企んでるのかとか、そういう質問をするところじゃ? 正直、その質問の答えしか用意してませんでしたよ」

「そうですか。でしたら忘れてください」

「え」

 さらにルーベンが怪訝そうな顔をする。

「そんな簡単に?」

「個人の事情に踏み込みすぎるのは失礼ですもの」

 駆け引きをすることもなく――あるいはしても無駄だと思っているのか――シーラはそう言ってあっさりと引き下がった。

 ルーベンはますます怪訝な顔をする。

「よくわからない人ですね。……でも恨みっこはなしですよ。確かにファナさんには恩がありますけど、それとこれとは別の話なんで」

「……」

 シーラは何も言わなかった。

 ルーベンが続ける。

「ま、何も事件が起きなければどうということはないと思いますし、それを祈っててください。あなたに罰を与えるつもりなんかもないです。でも、あなたに余計なことをさせちゃうと私が怒られちゃうんで」

「なにもなければ――そうですね」

 そんなルーベンの言葉に、シーラは心配そうな表情を窓の外に目を向けた。

「なにもなければ、いいんですけど……」

 すでに収まる兆しを見せつつある外の嵐。

 だがシーラには、その先に平穏が待っているとはとても思えなかったのだった。




 そして、厚い雲の向こうからかろうじて届いていた薄い陽が翳りを見せ始めた頃。

「……待てッ!」

 まだ強い雨が残るジラートの街外れを、ティースはずぶ濡れになりながら走っていた。

 普通なら誰もが家の中に閉じこもって明日の夜明けを待つだけの天気と時間であったが、今は街のあちこちからたくさんの怒号が上がっている。そのどれもが、カフィー隊の宿泊する施設に侵入しようとした不審者を追う隊員のものだった。

 彼らの宿からかなり離れた剣術道場にいたティースたちがそれに気づいたのは、騒ぎが起こってから十分ほど後のこと。だが、不審者がちょうど道場のある方角へと逃走してきたため、ティースたちと鉢合わせるような形となったのだった。

「エル! そっちから回り込め! 山のほうには逃がすなよッ!」

 不審者はジラートのすぐ近くにあるラグレオ山のほうへ逃げようとしていた。この天気と時間である。いったん見失えば探し出すのは困難だろう。

 後ろからはカフィー隊の気配もたくさん迫っていたが、不審者は思った以上に素早く、この辺りの地理にも詳しいように思えた。あまりアテにはできない。

「ティース様!」

 と、そこへ、ティースから少し遅れて走っていたリィナが叫ぶ。

「雨を利用して“網”を作ります! 足を取られないように気をつけてください!」

「網? ……わかった! 頼む!」

 一瞬確認するようにリィナを振り返ったティースだったが、即座に意味を理解してわずかに速度を緩めた。

 同時にリィナの指輪が水色の光を放つ。

 直後はなにもなかったように見えたが、やがて変化が起きた。

「!」

 薄暗い視界の先を走っていた不審者が突然バランスを崩す。驚いたように足下を確認する姿がティースの位置から確認できた。

 ……注意深い人間なら雨の音が少し低くなったことに気づいただろう。

 不審者が辿っている道筋だけ、明らかに地面に貯まった水の質が変わっていた。粘着性が増し、泥と混ざって浅い泥沼のようになっている。

(これなら……!)

 ティースはその道筋を避けながら再び全力疾走に切り替えた。

 不審者はもはやまともに走ることができず、見る見るうちに距離が縮まっていく。

 ティースは腰から“細波”を引き抜いた。

「っ……!」

 迫り来るティースの気配に気づいた不審者が微かに声をあげる。

 と同時に、その周りで風が渦を巻いた。

(やはり<魔>か……!)

 一瞬ティースの脳裏に、先の作戦で捕まえた少年の姿が過ぎる。

 不審者が足を止めて振り返り、右手をティースに向けた。だが、ティースは速度を緩めない。魔力の強さから見ておそらく<下位魔>だった。正面からの攻撃であっても<細波>で充分に迎撃できる。

 ただ、結局はそれすらも心配の必要はなく。

「大人しくして!」

「!?」

 右手から回り込んでいたエルレーンが不審者の足下に向けて風の渦を放った。

 これが完全な不意打ちとなる。

「っ……しまった……ッ!」

 不審者が足を取られてうつ伏せに倒れこみ苦痛の声をあげた。駆けつけたティースが、あの少年のときと同様に背中から覆いかぶさるようにして体の自由を奪う。

「終わりだ! 大人しくしろ!」

「くそ……ッ!」

 少年のときと違ったのは、不審者が激しい抵抗をしたことだった。が、いくら細身とはいえ長身のティースに腕を取られて全体重をかけられては振り解けるはずもなく。

「離せ! ちくしょうッ!」

 泥水まみれになりながら、必死の抵抗をする不審者。

 もちろん離すはずもない。

「無駄だ! 大人しくついてきてもらうぞ! リィナ、縄を――」

 と、ティースが<人魔>拘束用の縄をリィナから受け取ろうとする。

 そのときだった。

「……あれ? ティース、その子って……」

 駆けつけたエルレーンが突然、びっくりした顔で不審者の顔を指差したのだ。

「え?」

 何事かとティースが顔を覗こうとした瞬間、不審者側も素っ頓狂な声をあげる。

「……ティース? ティースってお前――」

 無理な体勢になりながらティースを振り返って見上げる不審者。

 その顔を見てティースは唖然となった。

「お前――!」

 雨と泥でぐしゃぐしゃになった顔。……だが、一瞬女の子と見間違いそうなその顔立ちには、明らかに見覚えがあった。

 会ったのは一年半ほど前。エルレーンと再会した街でのことだった。

「エル……いや、エルバート……?」

「ティース、なんでお前ネスティアスなんかに――」

「……こっちだ!」

「!」

 近づいてくる複数の足音。ネスティアスの隊員たちのものだった。

 ティースがとっさに叫ぶ。

「リィナ! エル!」

 意図を瞬時に察した二人が動く。

 リィナの指輪が再び光を放ち、ティースの周囲だけ雨が濃度を増して視界が悪くなった。さらにエルレーンが声を張り上げながらまったく見当違いの方向へ走っていくと、近づいていた複数の気配は彼女を追いかけるように進路を変えていく。

 ティースはエルバートの拘束を解いて、

「起き上がれるか? ひとまず隠れるぞ!」

「あ……ああ……」

 そうして雨に煙る暗闇の中、ティースはエルバートを半ば引きずるようにしてその場を離れたのだった。

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