その5『サイアの思惑』
シーラを乗せた迎えの馬車が向かった先は彼女が想像していたネービス公邸ではなく、同じ敷地内の僅か西にある別の建物であった。二階建ての赤い屋根と白い壁の屋敷。その外観は一瞬だけ彼女に故郷の景色を連想させたが、近づくにつれてそのイメージはすぐに消え、代わりにその建物の造形に対するちょっとした驚きの感情が芽生えた。
一階と二階の面積が同じといういわゆる総二階の建物は、ネービスではあまり好まれていない。二階を限界まで広く作るのは貧乏くさいことであり、一階を広くすること、つまり土地をたくさん使うことが裕福であるという考えが一般的だからである。
もちろん実利を取ろうとする市井では総二階の建物も珍しくはないが、裕福な家庭、とりわけ体面を大事にしている貴族の間でその傾向は顕著である。ネービス公邸もミューティレイクの屋敷も二階の広さは一階の半分程度であり、過去の栄光に縋ろうとする貧乏貴族であっても、総二階の建物に住む人間はまずいない。
だからこそ、ネービス公家の敷地に建つその総二階の建物は異彩を放っていたのである。
さらに近づいて五十メートルほどの距離になると、どうやらそれが最近建てられた新しい建物であろうことがわかった。デザインも少々奇抜で屋根はまっ平ら。一階の床、二階の床、屋根という三枚の正方形の板を、四隅にある円形の太い柱が支えたような形をしており、壁のデザインはかなり緻密で手が込んでいる。ただし全体のサイズはそれほど大きくはなく、一般的な家庭を二周りほど大きくした程度だろうか。
おそらくはサイアの私邸なのだろうとシーラは思った。侍女や美男子を常に周囲に侍らせている、いかにも貴族的なサイアの性格と、それと相反する総二階の建物は単純に考えるとミスマッチのようにも思えるが、彼女はそこまでステロなタイプではないとシーラは考えている。貴族的な見栄を是としながらも、革新的な考え方も併せ持つ。
とすれば、総二階でありながら奇抜かつ豪華な装飾のこの建物は、むしろ公女の内面を正確に表現したものではないか――と、シーラはそんな感想を抱いていた。
止まった馬車を降りると、玄関前で見覚えのある顔の女性が深々とお辞儀をした。いつもサイアの後ろに控えている双子の侍女の片割れだ。シーラはまだこの二人を見分けることができない。
(ダリアとドロシーなんかは性格が違うからすぐわかるんだけどね……)
ミューティレイクにいる双子の姉妹と目の前の侍女とを比べつつ、案内されるまま建物の中へ。
玄関をくぐっていきなり目に飛び込んできたのは、だだっ広い空間と、そのど真ん中にある螺旋状の階段だった。外観の大きさからすると一階はこの広間だけなのかもしれない。階段は二つの螺旋が絡み合うような形となっていて、天井のど真ん中に空いた穴に吸い込まれるように伸びている。
足下は金糸の装飾が施された毛足の長い真紅の絨毯。天井には大きなシャンデリアが二つ。壁にも高価な調度品が並んでいる。
ただ、そんな豪華な内装とは裏腹に人の気配はほとんどしなかった。
「どうぞ、こちらへ」
と、侍女が歩き出す。階段を上るのかと思いきや、階段をスルーしてそのまま広間の奥へ。
ちょうど階段の裏側になっていてシーラは気づけなかったのだが、真正面に一つだけ扉があった。サイアはどうやらそこにいるらしい。
「……」
シーラは色々と思いをめぐらせながら侍女の後ろをついていく。
すると、そこへ、
「ああ、もう知らんッ! これ以上面倒を見切れるかッ!」
突如、この厳かな雰囲気に似合わない荒々しい怒声が聞こえてきた。と同時に、正面の扉が勢いよく開かれ、そこから一人の男が飛び出してくる。
リゼットと同じ黒い制服姿。おそらくはディグリーズの一人だろう。真っ黒な髪を無造作に後ろに流し、目つきは獣のように鋭い。そして腰には一振りの剣。
「……」
部屋を出てきた男は不機嫌を隠そうともせずに強い足取りでシーラに近づいてくると、彼女をちらっと一瞥しただけでそのまま建物を出て行ってしまった。
そんな男の背中を見送ったシーラに、侍女が告げる。
「シーラ様。どうぞお入りください」
「……ええ」
少し意外な態度だった。公女に対してあれほどの捨て台詞、普通なら不遜であると騒いでもおかしくない。表情にもそれほどの変化はなく、侍女の性格によるものなのかもしれないが、あるいはあまり珍しい光景ではないのかもしれない、と、シーラは思った。
促されるまま部屋に入ると、そこは小さな食堂だった。横に長い部屋で、中央には白いテーブルクロスの食卓。それほど大きいものではなく、同時に座れるのはせいぜい八人ぐらいだろうか。
その上座に、いつもの白いドレスを身にまとったサイアが座っていた。背後にはもう一人の侍女がいつものように控えている。
シーラは静かに一礼した。
「本日はお招きいただきありがとうございます。サイア様」
「来たか、シーラ。さあ掛けてくれ」
部屋を飛び出した男の剣幕から、あるいはサイアのほうも不機嫌なのではないかとシーラは想像していたのだが、いつもどおりの態度に少しだけ拍子抜けしてしまった。
サイアはそんなシーラの表情の変化を見逃さなかったようで、
「あやつとすれ違ったか。どうせ会釈もせずに出て行ったのだろう? まったく、いつまでたっても洗練されぬ男だ」
と、言った。
「さっきの方は……ディグリーズのカレル=ストレンジさんですね」
「ほう? 知っていたか。あやつはルーベンと違って、あまりミューティレイクの屋敷にも顔を出しておらぬと思ったが」
今度はサイアが少し意外そうな顔をする。
シーラはサイアの正面に用意された椅子にゆっくりと腰を下ろしながら、
「お会いしたことはありませんが、サイア様が特に信頼なさっている方と聞いていました」
「会ったことがないなら、なぜあやつがカレルだと?」
「帯剣したままでしたから」
「……ああ。なるほど」
サイアは納得顔をした。
部屋にはいつもの正装した男たちは一人もおらず、サイアとシーラのほかには双子の侍女だけである。しかも片方はシーラを案内してきたので、カレルと会っていたときは侍女一人しかいなかったことになる。
いくらディグリーズとはいえ、その状況で帯剣を許されるのは普通ではないだろう。
「ま、見ての通り無骨で無愛想な男でな。あれでもう少し色と欲があれば、私の婿に迎えてやってもいいぐらいなのだが」
「それがないからこそ……というようにも見えます」
シーラがそう指摘すると、サイアはふんと鼻を鳴らす。
「いい観察力をしているとは思うが、目上の人間に対して指摘しすぎるのはあまり賢くないな。図星を指されるのを好まぬ人間は多いものだ」
警告するようなサイアの言葉に、シーラはまるで怯まずに応えた。
「はい。ですからサイア様に対しては正直に申し上げました」
「……そう来たか。まあ悪い気はせぬ」
シーラの返答にサイアは非常に満足そうな顔をする。そしてすぐに、後ろに控えていた侍女に昼食の支度を命じた。
「そなたは優れた人間だとは思うが、上司を選ぶな。ある意味ではカレルと似ている」
そう言ったサイアの表情は少し嬉しそうに見えた。
いったん奥へと消えた侍女が、すぐに前菜を載せたワゴンとともに戻ってきて配膳を始める。
そして、おもむろにサイアは言った。
「そなたたちの次の任務だが、今度は別の隊についてもらうことになった。今ごろはそなたの隊長もリゼットから説明を受けている頃だろう」
「別の隊、ですか?」
前菜の小皿が目の前に置かれる。
「ああ。カフィーという男の部隊だ」
「カフィーさんというと……オリヴィオ派の方ですね」
シーラは視線を泳がせながらそう言った。
サイアは再び満足そうにうなずくと、
「さすがに勉強しているな。ならば改めて釘を刺す必要はないかもしれんが、カフィーはディバーナ・ロウのことをよく思っていない連中の一人だ」
と、答えた。
ネスティアスは現在、ディグリーズの首席であるオリヴィオ=タングラム派と、次席であるラドフォード=マティス派の二つの派閥に分かれている。十人のディグリーズたちは四名ずつがこれらの派閥に属していて(残る二人は中立あるいは無関心)、ことあるごとに対立してきた。
その中でもディバーナ・ロウに関していえば、リゼットやルーベンが属するラドフォード派は好意的で、これまでも情報交換を含めた様々な交流を行っているが、オリヴィオ派はディバーナ・ロウの存在や活動内容そのものについてあまりよく思っていないとされている。
カフィーはこのオリヴィオ派の人間だった。
「なぜ、という顔だな?」
サイアがにやりと笑う。シーラは一瞬言葉に詰まって顔を上げた。
彼女の問いかけはその一つ一つがまるで何かの試験のようだった。いや、実際にサイアは会話によって相手の能力や内面を量ろうとするタイプの人間なのだろう。
シーラは正直に答えた。
「はい。最初に私たちに引き合わせたのがリゼットさんやルーベンさんだったのも、サイア様がそれを考慮されたものと思っていました」
「まあ間違いではない。今回の件は私にとっても予期せぬ事態だったのだ。……が、そなたらディバーナ・クロスはディバーナ・ロウでもっとも新しい部隊。互いの悪感情もそれほどにはなかろう」
シーラはうなずいて、
「私たちは特に何もありません。メンバーの中には互いの関係をよく知らない者もいるでしょう」
「隊長を含めて、か? デビルバスターとしてはなかなか優秀だと聞いているが、そういったことにはあまり気が回りそうではなかったな」
と、サイアはおかしそうに喉を鳴らして笑った。どうやら彼女のティースに対する評点はほぼ固まりつつあるようだ。
正直言えば、シーラもそれでほぼ間違いないだろうと思っている。そもそもティースは自分を偽ることが苦手な人間だ。口に出す言葉や態度がそのまま本質を表現してしまう。だからサイアのような人間にとってティースを評価するのは何の苦労もないことだっただろう。
ただ、シーラの口からは微妙に本心を偽った言葉が出てきた。
「どうでしょうか。確かに少し頼りなく見える部分もありますが、逆に他人が決して気づかないようなことに気づいたりもする人間です」
そんなシーラの言葉に、サイアは少し意外そうな顔をして、
「ほう。そなたはそなたなりに、あの男を評価しているということか」
「尊敬できない人間の下で働くのは難しいことです」
「それはそうだ。……が、まあ、それがすべて本心かどうかはまだ追及しないでおこう。そなたが隊長を低く評しているのであれば、本格的にこちらに引き抜こうかとも思っていたのだがな」
シーラはわざと数秒ほどの間を置いて、
「サイア様。逆にお伺いしてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「サイア様は、どうしてそんなにも外の人材をお求めになるのですか? 私程度の人間はネービス公家にも山ほどおられるでしょうに」
「……」
サイアが初めて言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「外の人材を求めている、か。……そう見えたか?」
「はい。私のことというより、今回の依頼自体が我々ディバーナ・ロウを試すのが目的だったのではありませんか?」
別に確信があったわけではなかった。ただ、それに対するサイアの反応を見ることで腹の内を探り出そうと試みたのである。
そして結果的にはそれが図星だったのか。
「……なるほど。そこまで気づかれているのであればそろそろ話してもいいな。ただ――」
サイアは小さくうなずいて視線をシーラの手元へ移動させると、
「まずは食事を済ませるとしようか。……あまり長々と喋っていると、気の短いコックがへそを曲げてしまうのでな」
と、少しだけ冗談っぽく言ったのだった。
その男の第一印象は、思っていたのと少し違っていた。
「ああ、あなたがディバーナ・ロウのデビルバスターですか」
リゼットから次の作戦についての説明を受けた後、挨拶のためにカフィーの部屋を訪れたティースは、リゼットやパーシヴァルから聞かされていた前情報から多少身構えて入室したのだが、そこで待っていたのは想像していたような強面の男ではなかった。
「僕がカフィー=マーシャルです。よろしく」
椅子から軽く腰を浮かせてそう言ったのは、童顔でどこか愛嬌のある顔立ちに、成人男性の平均身長を下回るぐらいの小柄な男性だった。ティースより二つほど年上のはずだがとてもそうは見えず、パッと見性格もよさそうだ。
いつものティースならここで、なんだ、思ったよりいい人そうじゃないか――などと、気を緩めてしまうところなのだが、今回は幸いにもそうはならなかった。というのも、ティースはすでに一つ、カフィーの“イヤな行い”についてリゼットから聞かされたばかりだったからである。
後ろ手にドアを閉め、ティースは姿勢を正して言った。
「ディバーナ・ロウ第五隊ディバーナ・クロスの隊長、ティーサイト=アマルナです。今回の“ヴァンスの隠れ家”殲滅作戦は我々も微力を尽くしますのでよろしくお願いします」
あらかじめ用意してあった言葉をどうにか噛まずに言い切ると、そのまま向こうの言葉を待つ。
そんなティースに、カフィーは僅かに口元を緩めた。
「微力、ね。そちらも公女様のお遊びに付き合わされて大変そうだ。まあ好きにやってください。そのほうが互いに気が楽でしょう」
言葉遣いは丁寧だが少し棘があった。外面だけの敬語であることはティースにもすぐにわかったし、カフィーのほうもそれをあえて隠そうとはしていない。
ただ、それも当然だろう。
カフィーにしてみれば本来ティースの存在など邪魔なだけのはずなのだ。
そしてティースのほうも当然、この状況に至った経緯から彼にいい感情を抱いてはいない。
ティースは言った。
「カフィーさん。少し確認させてもらってもいいですか?」
「……確認?」
ティースがすぐにでも部屋を出て行くと思っていたのか、カフィーは明らかに面倒な顔をした。そしてギリギリ聞こえる程度のため息とともに、どうぞ、と、つぶやくように言う。どうやら早くも本心が態度に出てきてしまったようだ。
ティースとしてもすぐに退室してしまいたいのは山々だったのだが、ここで引き下がってしまっては仕事にならない。
ぐっとこらえてティースは口を開いた。
「今回の作戦、きっかけはリゼットさんが捕まえた<魔>の少年の証言だったと聞いています」
「ええ。それが?」
「カフィーさんの部下がリゼットさんのところから彼を連れ出し、ヴァンスの隠れ家についての証言を得たということですが――」
連れ出し、の辺りにティースなりに精一杯の嫌味を込めたつもりだったが、カフィーはまったく気にしていない様子だった。
(……リゼットさんやパーシヴァルの言ってたとおりの人みたいだな)
リゼットが<人魔>の少年の証言について曖昧な口調だったのは、そもそも取調べをしたのがリゼット隊ではなかったためである。いや、正確にいえばリゼット隊でも取調べをしたそうだが、リゼットが留守の間にカフィーが少年の身柄を半ば無理やりに引き取り、一日も経たないうちにヴァンスの隠れ家に関する証言を引き出したというのだ。
どうしてそんな強引なことを――と、ティースは思ったが、リゼットはそれについても、おそらくは――と前置きをして教えてくれた。
どうやらカフィー隊はもともとヴァンスの隠れ家の情報を追っていたらしく、賊行為を行う<人魔>を捕らえては尋問するということを繰り返していたものの、なかなか有力な情報を得られずにいた。そこへティースが捕まえた<人魔>の少年の存在を知り、子供なら口を割るかもしれないと強引に連れていったというのである。
結果カフィーは望んでいた証言を得て、ヴァンスの隠れ家殲滅作戦の担当も手にした。リゼット側からすれば手柄を横取りされた形だ。
もちろんそのやり方自体についても、ティースは大いに反感を覚えている。
ただ、今はそれよりも気になることがあった。
「カフィーさん。その子の証言というのは本当に信用できるんでしょうか? <魔>とはいってもまだ幼い少年です。もし過酷な取調べを行ったのだとすれば、苦し紛れの嘘をつく可能性は高いと思います」
「……」
カフィーは目を細めてティースを見たが、口を開くことはなかった。
ティースはさらに突っ込む。
「カフィーさん。あの<魔>の少年にどのような取調べを行い、どのような経緯で証言を得たのか教えてもらえませんか。こちらとしても不確かな情報を基に動くことはできれば避けたいです」
しん、と、静寂が訪れた。嫌な沈黙だ。
おそらく答えたくない質問であろうことは最初からわかっていた。リゼット隊の取調べに何も答えなかった<人魔>の少年が突然に、しかもこれまで有力な情報を得ることができていなかったヴァンスの隠れ家についての情報を、どうしてあっさりと口にしたのか。
カフィー隊がリゼット隊とは違う、何か特別なことをしたのは間違いない。
その特別なことというのは――
「……あーぁ。せっかく……」
「!」
静かな部屋に響いた、けだるそうな声。それは紛れもなくカフィーが発したものだったが、先ほどまでとはまったくテンションが違っていた。
「あのさぁ……あんた、なんか勘違いしてんじゃねーのか?」
「……!」
ドスの利いた低い声にティースが反射的に怯むと、カフィーはフンと鼻を鳴らして椅子から少し身を乗り出し、凄むようにティースを睨め上げた。
「リゼットのやつが手柄の横取りだのなんだのうるせーし、一応公女様の希望でもあったから、こっちは譲歩してあんたらを同行させてやるって言ってんだ。それが、なんだ? こっちの中のことにまで口出しするってか? ディバーナ・ロウのデビルバスターごときが。身の程をわきまえろ」
「……」
微かに残っていた愛嬌のある表情も消え、カフィーの態度はまるでチンピラのようだった。いや、チンピラと表現するには実力が伴いすぎているだろうか。
事前にパーシヴァルやリゼットの話を聞いていてよかった――と、ティースは思った。もし情報がなかったら、おそらくティースはカフィーの変貌に驚くばかりで、冷静に対処することは難しかっただろう。
僅かに速度を増していた鼓動を落ち着かせるように、ティースは一つ深呼吸する。
ここで喧嘩をするつもりはなかった。
「……わかりました。ただ、こちらも命の危険を伴う任務です。そこまで細かくは聞きませんが、戦いに必要な最低限の情報については――」
「教えてやるよ。後は好きにうろちょろしてりゃいい。あんたらの戦力なんざアテにしてねーし、邪魔さえしなきゃなんだっていいよ。……ま、無駄な争いはしないよう、お互いに仲良くしましょう」
最後にカフィーが満面の作り笑顔を浮かべて、話は終わりだった。
「……失礼します」
一礼して部屋を出ると、ティースはドアを背中にふぅ、と小さく息を吐く。
(……あの威圧感はさすがディグリーズだなぁ)
態度そのものはスラム街にいるような小悪党とそう変わらなかったが、やはり実力者ゆえか、身構えていても気圧されてしまう雰囲気があった。あのように実力を隠さずに威圧してくるタイプは、もとが小心者のティースにとって非常にやりにくい相手ではある。
ただ、そんな状況でも収穫はあった。
(あの様子だとやっぱ取引かな……)
ティースは廊下を歩き出す。
カフィー隊が<人魔>の少年から証言を得るために使用したであろう手段。
ぱっと思いつくのは拷問だが、カフィーがそれを隠す理由はないはずだった。相手が人間の子供ならまだしも、<魔>でしかも賊の一味だったのだから、たとえ過酷な拷問を行ったとしても――少なくとも世間的には――非難されることはないだろう。それで重要な証言を得たのならむしろ堂々と主張するはずだ。
しかしカフィーは凄むことで答えをはぐらかした。つまり拷問の可能性は低い。
となると、次に考えられるのが取引である。
賊行為によって捕らえられた<人魔>の処分は、ほとんどが死かそれに近いものとなる。少年がヴァンスの隠れ家に関する情報を持っていたとして、カフィーたちが情報と引き換えに身の自由を約束したとすれば、口を開く可能性は高いだろう。
この場合は<人魔>に対して譲歩を行ったことになるし、本当に解放すればもちろん非難の的となる。カフィーとしてはあまり知られたくないことのはずだ。
カフィー隊の敷地を出て、リゼットの待つ部屋へ向かう。
(あとはその証言の信頼性だな……)
それについてもティースは懐疑的にならざるを得なかった。
ヴァンスの隠れ家については、カフィー隊がずっと追い続けてまったく成果を得られていなかったのだという。もちろん拷問にしろ取引にしろ、彼らは今回と似たような手段をこれまでにも使ってきているはずだ。
にもかかわらず、有力な情報が一つも得られなかったのはなぜか。
<人魔>たちの間で何らかの約束事があり、皆そろって口を堅く閉ざしているという可能性もないわけではないが、彼らも持っている感情は人間とそう変わらない。命は惜しいものだ。となれば、それが百パーセントに近い精度で徹底されているというのは考えにくい。
そうすると一番考えられるのは、そもそもヴァンスの隠れ家を出てくる<人魔>たちが拠点の場所についてまったく何も知らないというケースだろう。薬品で意識を一時的に失わせるなど、場所がわからないように出入りさせる仕組みが確立されているとすればあり得ることだ。
そして具体的な方法はどうであれ、拠点の場所が漏れないようにする仕組みがあるのであれば、今回の<人魔>の少年の証言は非常に疑わしい。
(あの少年がネスティアスを罠にかけようとしている……なんてことは考えにくいけど、なんか嫌な予感がするな……)
カフィーはその不自然さに気づいていないのだろうか――と、もし会話が続いていればティースは本人に尋ねてみる予定だったが、先ほどの態度を見る限り、そんな会話をする機会はおそらく今後も訪れることはないだろう。
あとはティースたちがなるべく慎重に行動するよう心がけるしかなさそうだった。
そうして考え事をしながら歩いていたティースは、その途中、ちょうど交差している廊下の右側から現れた人物に目を留め、驚いて声を上げる。
「あれ? おい、シーラ!」
「あら?」
シーラも気づいて交差点で立ち止まった。
ティースが早足で駆け寄ると、シーラは少し首をかしげながら、
「リゼットさんのところにいるかと思ったのだけれど……ああ、そっちは捌隊があるほうね。カフィーさんに会ってきたところ?」
ティースは驚いて、
「え? なんでそんなこと知ってるんだ?」
「サイア様から聞いたのよ。お前が喧嘩してないかと心配で様子を見に来たんだけど、その様子を見ると大丈夫だったみたいね」
「人聞き悪いなぁ。それじゃ俺がいつも喧嘩してるみたいじゃないか」
ティースが憮然としてそう返すと、シーラはごめんなさいと言いながら、おかしそうにクスクスと笑った。どうも最近の彼女はティースが憮然としたときの顔がツボらしく、わざとそういう反応をするように仕向けているようにも見える。
そして馬鹿正直なティースは、そんな彼女の思惑どおりに毎回同じ反応をしてしまうのだ。
「お前の場合、むしろもう少し喧嘩してもいいかもね。エルはどうしたの?」
「リゼットさんのところに置いてきたよ。挨拶だけだったし、リゼットさんがそのほうがいいって言ってたから」
「ふぅん。オモチャにされてなきゃいいけど」
「え? いや、大丈夫だろ。エルが子供じゃないことぐらいリゼットさんは知ってるよ」
シーラはちらっと横目でティースの顔を見て、
「ま、そうね。どっちにしても深刻なことではないでしょうし」
「?」
そのまま二人並んでリゼットの部屋へと向かう。
「そうそう。一応ね。サイア様が今回の依頼の真意らしきものを話してくれたわ」
「真意? 人手が足りなかったからとかじゃなかったのか?」
驚いてティースがそう聞くと、シーラは彼のほうを見もせずに短く言った。
「馬鹿。正直すぎ」
「うっ」
ティースの名誉のために一応断っておくと、サイアに何かしらの目的があるのは彼も一応感じてはいたのだ。ただ、答えがまだ見つかっていなかったために先ほどの反応になってしまったのである。
肩を落としたティースを横目で見ながら、シーラは言った。
「サイア様が言うにはね。いざというときに協力してくれる外の戦力を確保したいのだそうよ」
「外の戦力? どういうことだ?」
「ネスティアスが二つの派閥に分かれていることは知ってる?」
「ああ。そのぐらいは知ってる」
シーラはうなずいて、
「今、二つの勢力はかつてないほどに拮抗しているのだけれど、主導権を握っているのはオリヴィオ派のほうよ。メンバーの席次はオリヴィオ派が一、三、七、九で、対するラドフォード派が二、五、六、十。オリヴィオ派が全体的に上回っているし、上位三人についてはネスティアスの基本方針を定める軍事会議への参加権があるの。もともとのナンバー三は中立派の男だったんだけど、今年に入ってオリヴィオ派のクインシー=フォーチュンが席次を上げてナンバー三になった。つまり軍事会議内では二対一になってしまったの」
「クインシーさんが……そっか」
ティースはクインシーと何度か言葉を交わしたことがあり、デビルバスター試験で世話になったこともあって個人的に悪い感情はない。
ただ、組織の話となるとそう単純ではないようだった。
「ネービス公はどちらに組するということもないのだけれど、首席のオリヴィオ=タングラムを信頼してる。跡継ぎのアシール様も同じ。ただ、サイア様は父君や兄君と違ってはっきりとラドフォード派の考えに寄ってるの。もちろん立場が立場だから公言したりはしてないけどね」
「同じネスティアスなのに、派閥同士の考え方ってそんなに違うものなのか?」
「そうね。長くなるから具体的な説明はしないけど、サイア様はオリヴィオ派のやり方だと近い将来深刻な事態に陥る可能性があると危惧してるの。だからいざというときのための予備戦力として、個人的に多くのデビルバスターとコネクションを築いておきたい、ということらしいわ」
「へぇぇ、さすが色々考えてるんだなぁ」
ティースは自分より四つも年下である公女の考えにいたく感心してしまった。
「……あれ。でもさ。ラドフォード派はサイア様と同じ考えなんだろ? だったら俺たちよりそっちを頼ったほうが確実なんじゃないか? 劣勢といっても十人中四人はラドフォード派なんだし」
「それは無理よ。個々の考えはどうあれ、軍事会議で決まった方針には全員が従わなきゃならないのだから。サイア様だって今回程度のことならワガママで通せるでしょうけど、軍事会議で決まったことを覆すような真似はできないわ。仮にネービス領が大規模な<魔>の侵攻にさらされるような事態になれば、口を挟む隙なんてまったくない。そういうときにお金を使ってでもなんでもいいから役に立つ戦力が欲しいということ。ディバーナ・ロウはもともとラドフォード派と交流があったし、パーシヴァルが加わってデビルバスターが六人にもなった。サイア様にとっては打ってつけだったんでしょうね」
そういえば――と、ティースは、サイアが今年のデビルバスター試験を見に行っていたらしいという話を思い出した。パーシヴァルは最終試験のトーナメントで準優勝という優秀な成績で合格したし、それを見てディバーナ・ロウに興味を持ったのだとすれば、今回の依頼のタイミングともぴったり合う。
「じゃあ、今回の依頼についてはあまり深く考えなくてもいいのか? ルーベンさんの動きは気になるけど、少なくともサイア様は俺たちの力試しをしたいってことなんだよな?」
「……」
「シーラ?」
返事がないのを不審に思ってティースが隣を見ると、シーラは視線を少し下に向けて考え込むような表情をしていた。
「え? あ、そうね。深く考えなくていいと思うわ。まずは与えられた任務を確実にやり遂げることね」
「?」
態度が多少気にはなったが、ティースはそれ以上追及しなかった。
それよりも――と、意図的に少し間を空けて口を開く。
「なあ、シーラ。それで今回の作戦、お前の役割のことなんだが……」
自然と言葉尻が重たげな色を帯びた。
「……今回はこっちから敵の拠点に攻撃を仕掛ける形だし、情報が確かなら敵の数も多い。場所もヴァルキュリス山脈内であまり人が踏み込まないような難所らしいんだ。まあ、それでさ――」
「あ、そうそう、ティース。その前に一つ言い忘れてたわ」
と、歯切れの悪いティースの言葉を途中で遮ると、
「今回の作戦、サイア様は後方支援にあたるルーベンさんの部隊に同行するらしいの。それで、何かあったときのために連絡係を一人残してくれないかって」
「え、連絡係?」
シーラは小さくうなずいて、
「一応お前の許可を得てからと思って即答はしなかったんだけど、今回は私が適任じゃないかしら。どうする?」
「あ、ああ、そりゃ……」
ティースにとっては渡りに船だった。断る理由はない。
「うん。じゃあ今回はそれで頼む。お前ならサイア様にも気に入られてるし」
「わかったわ。お前も気をつけてね」
ティースはそのときのシーラがなんとも難しそうな表情をしていたことには気づかないまま、一つ心配事がなくなった安堵に胸を撫で下ろしていたのだった。
「来たか、ルーベン。ずいぶんと遅かったな」
ルーベンがサイアに呼び出されたのはその日の夕方、場所は彼女の私邸ではなくネスティアス本部内にある会議室だった。待っていたのはサイアと双子の侍女のみ。天窓からは夕日が差し込んでいる。
入室してドアを閉めると、ルーベンは少し眩しそうに天窓に向かって手をかざし、非常に珍しい生まれながらの白髪を軽く掻き上げながら言った。
「貴女様がカレルさんの機嫌を損ねてくれたおかげで、まー大変でした。からかうのもおちょくるのも結構ですけど、できれば最後まで面倒を見ていただきたいものです」
「そうか。そなたも大変だな」
「心のこもってない労いをありがとうございます。ま、ラドフォードさんに全部押し付けてきたんで私はどうでもいいんですが。でもカレルさんがへそを曲げるのも当然ですよ。貴女がディバーナ・ロウに近づくのさえ、無駄な火種になるからっていい顔していなかったのに、今度はよりにもよってカフィーさんと一緒にやらせようだなんて」
と、ルーベンはたくさんある椅子の一つに腰を下ろし、足を組んだ。
「ディバーナ・ロウの実力を試したいだけなら他にも方法はあったと思いますけどね。そう慌てることもないんじゃないですか?」
そんなルーベンの言葉に、サイアは小さく鼻を鳴らした。
「実力を試す? 誰がそんなことを言った?」
「……」
ピタ、と、ルーベンが動きを止め、視線だけをサイアのほうへ向ける。
「……いざというときに役に立つかどうか彼らの実力を測り、繫がりを作るのが今回の目的だったのでは?」
するとサイアの口から微かに笑い声が漏れて、真紅の髪がオレンジの夕日を浴びながら細かく揺れた。
「まさか。いくら仲良くしたところで、いざというときに動いてくれないのでは意味がなかろう。目的はコミュニケーションではない」
「と、いうと? ……ああ、もしかして――」
ルーベンは何事か思いついた顔をして、すぐに納得の表情を浮かべた。そんなルーベンに、サイアは軽く口の端を上げて笑みを浮かべる。
「有事の際に、たとえどんな状況にあってもこちらの命令を拒否させないことが大事だ。そのためにやつらの弱みを握る。それが今回の目的だ」
「……」
ルーベンは軽く咳払いをして組んでいた足を下ろすと、前かがみになって窺うような目をサイアに向けた。
「握れそうな弱みになにか心当たりでも?」
サイアが笑う。
「そなたが知らぬはずはあるまい。ディバーナ・ロウは<魔>と何らかの関わりを持っている。巷の噂にも上ることもあるほどの事実だろう。証拠はいっさい出てきたことがないし、相手が相手だけに表立って口にする者もほとんどいないがな」
「まあ、そういう噂は私も耳にしたことがありますね」
「噂だけか? まあいい」
あえて追及することなくサイアは言葉を続けた。
「勘違いするなよ、ルーベン。私は別に擾乱財や反逆罪でディバーナ・ロウを潰そうとしているわけではない。<魔>もうまく使えば国の役に立つと私は考えているのでな。ただ、世間は別だ。ディバーナ・ロウとしてもミューティレイクとしてもその関係は公にできるものではない。つまりそれは弱みだ」
「その証拠を掴み、ディバーナ・ロウを裏から操れるようにする、ということですか」
感嘆のようなため息がルーベンの口から漏れる。
「そういうことだな。……カフィーのことだ。今回の件、どうせ手柄を立てようとくだらないことでも企んでいるのだろうが」
そしてサイアは再び口元を緩め、薄い笑みを浮かべたのだった。
「私の予想が正しければ、それも含めてこちらに都合のいい展開になりそうだ――」