その1『完璧なる従者』
七月に入ったばかりの頃、ミューティレイクには一つの吉報が届いていた。
「ティース、もう聞いた? パーシヴァルがデビルバスター試験に合格したそうよ」
「ああ、それなら昨日聞いたよ」
シーラの言葉にティースはそう言って頷いた。
昨年のデビルバスター試験、ティースとの最後の勝負に敗れたパーシヴァル=ラッセルはその後もディバーナ・ナイトに所属して腕を磨き続け、再受験のために帝都ヴォルテストへ旅立ったのがちょうど一ヶ月ほど前のことだった。ティースはメイナードとの戦いの後、すでにミューティレイクへ戻ってはいたが、まだ怪我が治りきっておらず療養中の頃である。
また、今回はディバーナ・カノンに所属するデビルバスター候補生クリシュナ=ガブリエルが初の受験だったが、第三試験サバイバルで不合格になったという情報が一足先に届いていた。
「ま、俺もそうだけどみんな今年は受かるんじゃないかって言ってたしね」
パーシヴァルはそもそも昨年の時点ですでに合格レベルにあったとティースは考えていた。今もそれほど大きな差がついているとは思っていない。
なお、これでディバーナ・ロウ所属のデビルバスターは、アクア、レイ、レアス、アルファ、ティースに続いての六人目となる。これは各地の領主が抱える公的なデビルバスター部隊を除けばかなり多いほうだった。
「フィリスがものすごく喜んでたわ。あの二人ってここに来た時期も近いんですって。なんだか見ていて微笑ましいわね」
シーラの手によって窓が開け放たれ、青草の匂いを乗せた夏風が部屋の中に流れ込んでくる。
大陸全体から見れば短いネービスの夏。それでも日に日に気温は増し、青空に浮かぶ太陽はここが見せ場とばかりに精一杯輝いて自己主張をしていた。
清々しい朝である。
「ところでさ、シーラ」
しかしながら、ベッドの上で上半身を起こしたティースの声は少々曇っていた。機嫌が悪いというわけではない。ただ、ひたすらに怪訝そうだった。
「お前、その格好はどうしたんだ? っていうか、なにをしてるんだ?」
「なにって? 見てのとおりよ」
窓を開け放った後、太陽の光を浴びながら肩越しに振り返ったシーラの格好は明らかにいつもと違っていた。
紺色のワンピースに白のエプロンを組み合わせたエプロンドレス。それはこのミューティレイク家において一番多く見かける服装――つまりシーラは使用人たちと同じメイド服姿だったのである。
「見てのとおりといわれても……」
この部屋においてその衣装を見かけることは別に珍しいことではない。いつもは担当ハウス・メイドのパメラ=レーヴィットが同じ格好で朝と夕にこの部屋の掃除にやってくるからだ。
しかしもちろん、ティースが問題にしているのはそんなことではない。
「もしかしてまだ起きるつもりなかった? ……無理に起こしちゃったのならごめんなさい。一応目を覚ましているのを確認してノックしたつもりだったんだけど」
「い、いや、そうじゃないよ。起きてたことは起きてたんだ」
申し訳なさそうに眉を曇らせたシーラに、ティースは逆に恐縮しながら慌てて弁解する。
「俺が聞きたかったのはさ。なんでお前がそんな使用人の真似事みたいなことをしてるのかなって……」
「真似事じゃなくて本職よ。今日からね」
「え?」
シーラはそんなティースの戸惑いの表情を微笑みながら見つめた。彼の反応をちょっと楽しんでいるようにも見える。
「兼業だから本職とは違うかしら。エルやリィナと同じよ。あの二人も任務がないときは屋敷の中で働いてるじゃない」
「ああ、そういう……」
ディバーナ・ロウのメンバーは任務がないときは屋敷の中で他の仕事に就いている者が結構多い。もちろん本職の使用人たちのサポート的な扱いではあるが、エルレーンは厨房の仕事を手伝っているし、リィナは主に掃除や洗濯などを担当していた。
一瞬納得しかけたティースだったが、すぐに次の疑問を口にする。
「でも、なんで俺の部屋に? パメラはどうしたんだ?」
「まだ見習いだしちょっと不安だったから代わってもらったのよ。お前なら私が多少の粗相をしても笑って許してくれるでしょ?」
と、シーラは少し冗談混じりの言葉で悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そりゃ怒りはしないけどさ……」
怒らないというより怒れないというのが正解だろう。
ただ、見習いという割に、シーラはそうやって会話している間もてきぱきと掃除の準備を進めていた。少なくとも手際のよさはベテランのメイドと比べても遜色ない。
そのことに対する驚きはティースにはなかった。
ティースがデビルバスターになるよりも前、三ヶ月ほど無断でディバーナ・ロウを離れた際――エルレーンやリィナと再会したとき――も、シーラは休学してこの屋敷で使用人の仕事をしていたことがあったし、そもそも、この大陸の大半の地において貴族の娘というのはこういう家での仕事の作法を小さい頃から叩き込まれるのである。家の仕事をまったくしない、できない、いわゆる箱入りのお嬢様というのはほんの一握り、真の特権階級の家の娘だけなのだ。
それはシーラとて例外ではなく、彼女はいわば使用人としての英才教育を受けてきたにも等しい。粗相などあるはずもなかった。
「洗濯物はこれ? 全部持っていってもいいの?」
そうこうしているうちに部屋の隅にまとめてあった洗濯物に手を伸ばしたシーラを見て、ティースは大いに慌てる。
「え、あ、ちょ……そ、それはいいよ! 汚いし、俺が後で持っていくから!」
汚れたシャツを手に取ったシーラが不思議そうにティースを振り返る。
「なに言ってるのよ。洗濯物が汚いのは当たり前じゃない」
「いや、でもそんな……」
「……」
言葉が出てこないティースを黙って見つめたシーラは、やがて何事か納得した表情をすると手にしていたシャツを元通りカゴの中に戻した。
「じゃあ今日はこのままにしておくわね。でもあまり溜めたら怒られるわよ」
「……すまん。今日は心の準備ができてなかったというか」
「なにそれ」
大げさに謝るティースに、シーラはちょっと可笑しそうにくすっと笑う。
「謝ることないわ。私は仕事が減って楽ができるのだし。ただ……そうね。覚えておいて。私はお前が汚したものを嫌だなんて思わないわ」
そう言って背中を向け再び掃除の準備を始めたシーラを、ティースはなんともいえない表情で眺め続けるのであった。
「相変わらずねぇ、ティースくん」
そう言って明るく笑ったのはディバーナ・ロウに所属するデビルバスターの一人、アクア=ルビナートである。
ティースがデビルバスター候補生からデビルバスターとなって一年。責任ある立場となったのはもちろん大きな変化であるが、こと人間関係という点に限定して言えばその前後でそれほど大きな変わりはない。
近日中に二十六歳の誕生日を迎える六歳年上のアクアは、今も変わらずティースにとって気軽に悩みを相談できる数少ない相手の一人であった。
「やっぱ俺、変ですよね」
そんな二人がいるのはいつもの別館一階ホールではなく、アクアが隊長を務めるディバーナ・ファントムの詰め所である。まるで一軒家のリビングのようなその部屋にいるのはティースとアクアの二人だけで、ファントムの他のメンバーであるドロシー、ダリア、フィリスの三人は屋敷でそれぞれの仕事に従事していた。
まだ日は高く、テーブルの上にあるのは酒ではなく紅茶と茶菓子だ。
その焼き菓子を一つつまんでティースはため息をつく。
「あいつが俺の部隊に参加することには納得したつもりなんです。危険があっても俺がしっかりすればいいんだしと思って。ただあいつに何かやらせるとか、何かやってもらうとか、そういうのがどうしてもダメで」
やや俯いたティースの顔を覗き込むような上目遣いでアクアが尋ねる。
「遠慮しちゃうってこと?」
「遠慮するというか、やって大丈夫なのかなって。なんかこう、越えてはならない一線みたいのがあるような気がしちゃって」
ふぅん、と、アクアは右手を顎に当てた。
「でもエルちゃんやリィナちゃんとは上手くやってたわけでしょ? あの二人ともまた違うんだ?」
「あの二人は最初から対等でしたから。シーラは、その……」
「なるほどね。ま、あたしはキミとシーラちゃんの素性をはっきりとは知らないけどさ。……あ、このお菓子おいしいわね。あとでたくさんもらってこようかしら」
「どうすればいいと思います?」
ティースが素直にそう尋ねると、アクアはそうねぇと呟きながら一口サイズの焼き菓子を二つに割って口の中に入れた。もごもごと咀嚼しながら若干不明瞭な発音で続ける。
「気にせずどんどん世話を焼いてもらえばいいんじゃない? あたしが男だったら何も考えずに甘えちゃうけどなぁ」
「それができれば悩んだりしません……」
「じゃあどうしてできないのか考えてみた?」
「それは……」
理由は簡単だ。ティースの中にまだ彼女――シーラを主君として見る気持ちが強く残っているためである。
だったら、その強い気持ちはいったいどこから来るのか。
そう考えてティースの思考が行き着くのは遠い昔の記憶だった。脳裏に浮かぶのはシーラによく似た一人の女性の顔。
メディーア=レビナス。シーラの母であるその女性は幼い頃のティースにとって命の恩人であり、両親のいない彼に母としての愛を注いでくれた絶対的な存在である。
ティースは五歳のとき、病死した彼女からシーラの将来を頼まれた。だからティースにとってシーラはいつまで経っても、何があっても特別な存在なのである。
「……ねえ、ティースくん」
詳細をぼかしておおよその理由を伝えると、アクアはちょっと真顔になった。
「キミらの関係って、あたしはずっとシーラちゃんのほうに問題があるんだと思ってたんだけど、今の話を聞くとどっちもどっちって感じがしてきちゃった。……ううん。シーラちゃん側の問題が解決した今となっては、あとはキミがどうするかだけの問題なんじゃない?」
「……でも、自分でもどうすれば気持ちをコントロールできるのかわからなくて」
ふむ、と呟いてアクアは少し考える。
「あたしもレイくんに聞いただけで細かいことはわかんないんだけど、シーラちゃんは自分とは別の人間を演じようとしてたんだって。……でもさ。もしかしてキミはキミで似たようなことしてるんじゃない?」
「え? どういう意味ですか?」
ティースがわからない顔をすると、アクアは手についた焼き菓子の屑を軽く払ってティーカップを手に取った。
「キミがシーラちゃんに対して恐れ多いと思うのは、その人に彼女のことを頼まれたからじゃないと思う。キミは彼女にその恩人を重ねちゃってるのよ。キミはキミで、シーラちゃんのことをきちんと見ていない。……っていうのが、あたしの想像」
「……」
「どう?」
「そんなことは……」
「ホントにない?」
「……」
問い詰められて自信がなくなる。
そんなことは今まで考えたこともなかったし、考えたとしてもさほど重要なことだとは思わなかっただろう。なぜならシーラが主君として振る舞い、ティースが従者としての立場を崩さない限り、たとえそれが事実だったとしてもなんの問題もなかったからだ。
ただ、今となってはそれが歪を生む。それが事実であれば、だが。
「ま、どちらにしても」
ティースの考えがまとまる前にアクアは続けた。
「一度色々なことをリセットして、頭を空っぽにして接してみたらどう? シーラちゃんがじゃなくて、目の前にいる子が何を考えて何を望んでいるのか一生懸命に考えるの。ゆっくりでいいわ。別に急ぐ必要はないと思うし、キミの話を聞く限りじゃ彼女もある程度わかってそうな感じするしね」
「頭を空っぽに……ですか」
難しい。
「先入観を捨てることよ。もしあたしの想像通りならキミはどこかで無理してる。それに気付ければ出口は近いんじゃないかしら」
「……わかりました。ありがとうございます、アクアさん」
納得できたわけではない。それでもティースはアクアの助言に感謝し、少しだけ気持ちが軽くなったような気になったのである。
アクアは満足そうに頷いた。
そして、
「話は変わるけど、ティースくん。聞いた?」
「え? あ、パースの合格のことですか?」
今朝のシーラとのやり取りを思い出しながら聞き返すと、アクアは首を横に振った。
「違う違う。ああ、でもまったく関係がないわけでもないかな。ネービスの公女様……あの、名前なんてったっけ?」
「公女様? サイア様ですか?」
「そうそう。そのサイア様の話」
アクアはポンと手を打つ。人の名前を覚えるのが苦手なのは相変わらずのようだ。
「サイア様がどうかしたんですか?」
と、ティースは怪訝に思って尋ねた。
サイア=ネービスはネービス公の一人娘である。ネービス公家に多い鮮やかな赤い髪を持つ少女で、ティースの記憶が正しければシーラの一つ年下、十五歳か十六歳になるはずだ。ティースは直接会話をしたことはなかったが、やや変わり者だという噂は耳にしている。
ただ、そのネービス公女とパーシヴァルの合格の話にどういう関係があるのだろう、と、ティースは不思議に思った。
それにアクアが答える。
「実はそのサイア様は<魔>についてそこそこ詳しいらしくてね。ネスティアスについても興味津々で結構絡んでいるみたいなの。どうやら今回のデビルバスター試験もお忍びで見に行ってたみたい」
「へぇ、ずいぶんと活発な人なんだな」
一年前のデビルバスター試験の記憶を呼び起こしながらティースは感心した。
ネービスから帝都ヴォルテストまではかなりの長旅である。もちろん最上級の待遇ではあるだろうが、それにしても好奇心だけで行くには遠い地だ。
アクアは頷いて、
「もちろん非公式ながらヴォルテスト領主には挨拶してきただろうし、半分は公務だったんだと思うけどね。で、どうやら試験でパースくんに興味を持ったみたいで、自らネスティアスに勧誘しようとしたらしいの」
「それはまた……」
「それはまあ去年試験官を務めたディグリーズの……ああ、まただ。なんていったかな、あの変な髪形の人」
「……クインシーさんですか」
変な髪形という表現に即答するのも気が引けたが、ティースの思いつく限り、条件に該当する人間はクインシー=フォーチュンしかいなかった。
「ああ、そうそう。そのクインシーが今回サイア様のお供をしてたみたいでね。パースくんがディバーナ・ロウの人間だってことも当然知ってたわけ。で、そこからディバーナ・ロウの話に繋がって、ものすごく興味を持ったそうなの」
「え? ディバーナ・ロウのことを知らなかったわけじゃないですよね?」
「もちろん知ってはいたんだけど、名前ぐらいしか知らなかったみたい。そこは色々複雑でね。ネービス公や兄のアシール様は彼女をあまりそういうことに積極的に関わらせたくないわけ。そんな事情で知っている情報は色々と偏ってるみたい。……ま、それをものともしないぐらい行動力のある子みたいなんだけど」
「興味を持って、どうなったんです?」
「近々お呼び出しがあるんじゃないかって」
「お呼び出し?」
ティースは眉をひそめた。
ディバーナ・ロウは実質ミューティレイク家に所属している部隊とはいえ、表向きはその支援を受けているだけの私的部隊である。基本的には相手がネービス公家といえども根拠なく呼び出される謂われはない。
もちろん後ろめたいことをやっているわけではないので実際に呼ばれれば素直に赴くことにはなるだろうが、向こうも興味があったから呼びました、はい、さようならというわけにはいかないだろう。
その疑問をぶつけると、アクアはわかっているとばかりに頷いた。
「当然、それには仕事の依頼もくっついてくることになるわね。まあ内容はどんなものかわからないけど」
「ネービス公家から仕事の依頼、ですか?」
そんなケースはもちろんこれまで一度もない。ネービス公家には大陸最強部隊の呼び声も高いネスティアス、そしてディグリーズがいるのだから当然だ。
「まだわかんないけどね。で、そうなった場合、ウチとしては断る理由もないし部隊を出さなきゃならないんだけど」
「それってまさか……」
嫌な予感がしたティースに、アクアは正解とばかりにちょっと笑いながら人差し指を彼に向けた。
「そのまさか。内容次第で変わる可能性はあるけど、今のところファナちゃんはキミのクロスに行ってもらおうと考えてるみたい」
ティースは疑問に眉をひそめる。
「どうしてです? 実績のあるファントムやナイトのほうが……」
「ああ。それはサイア様の好みの問題なんだって」
「こ、好み?」
素っ頓狂な声をあげるティース。
アクアは続けた。
「そのサイア様、どうやら年上の男が大好きらしいのよ。わかってないわよねぇ。あの歳じゃしょうがないかもしれないけど、年下の男の子の良さを一晩中でも語ってあげたい――」
「……アクアさん。脱線しかかってます」
やや呆れ顔で突っ込んだティースに、アクアはハッとして我に返る。
「あ、ゴメンゴメン。……で、その時点であたしのファントムとレアスくんのカノンはアウトなわけ。まあクロスもキミ以外は女の子だからアレだけど、サイア様が興味を持っているのはデビルバスターだろうしね」
「ナイトとゼロは?」
ディバーナ・ナイトのレイは文句なしに年上の男だ。ディバーナ・ゼロのアルファは諸々の事情により微妙なところであるが、年齢的には一応年上である。
「ナイトはパースくんがデビルバスターになってこれからますますディバーナ・ロウの中心的存在になるからね。正直な話、公女様の好奇心に付き合わせてられないってことじゃない? ゼロは、ほら。アルファくんじゃ何かあるとマズイでしょ?」
「つまり消去法ですか」
ティースはいまいち納得できない顔をする。
「ま、あたしの勝手な予想もだいぶ入ってるけどね。そもそもサイア様はまだヴォルテストから戻ってきてないし。ただ、近々そんなことがあるかもしれないぐらいに思っていてくれればいいわ」
結局その話題はそこまでだった。
(……ネービス公女、サイア様か)
ティースは身分の高い人間と接することにはそこそこ慣れているが、相手が歳の近い女性となるとどうしても身構えてしまう。まして相手がネービス公女となれば、間違っても情けない姿を見せるわけにはいかないというプレッシャーもあった。
(できれば可能性のまま終わってほしいなぁ……)
しかしティースは同時に、おそらくそれが現実になるであろうことを予感している。
彼のこういった類の希望はこれまで一度たりとも叶った試しがないのだ。
「悩み事?」
「え?」
一階ホールで考え事をしていたティースは、すぐ後ろからかけられた声に驚いて振り返る。
「ああ……シーラか」
そこにはティーセットを載せたトレイを手にしたシーラが立っていた。今朝見たメイド服ではなく見慣れたいつもの服装である。
時間は夜の九時。使用人としての時間はすでに終わっているのだろう。
シーラはティーセットをテーブルに置いて彼の正面に腰を下ろした。
「紅茶を入れるのはお前のほうが上手だったわね」
そう言いながら白い陶器のティーカップに紅茶を注いでいく。
微かな湯気と香りが漂った。
(頭を空っぽに、か……)
昼間、アクアに言われたその言葉が頭を過ぎる。空っぽに空っぽにと念じながら、ティースは紅茶を注いでいくシーラの所作を見つめた。
高価なティーセットにも負けない陶器のような美しい肌。その指先。
紅茶の香ばしさに混じって微かに甘い香りがした。香水か、あるいは彼女が普段触れている薬草類の残り香か。
目を閉じる。
深く息を吸うと、少しだけ自分の体温が上がっていることに気付いた。
息を吐く。目を開ける。
視線がぶつかった。
「どうしたの?」
「……いや」
また体温が上がりそうになってティースは視線を斜め下にずらす。
胸の奥に湧き上がりかけた感情を打ち消したのは、正体不明の自己嫌悪。
間を置いてティースは答えた。
「ルナ姉さんのことを思い出してたんだ。紅茶といえばさ」
「あのレベルを期待されちゃ困るわ。それでも見よう見まねでね」
そんなシーラの言葉に、彼女の一連の動きが、かつてティースとともにシーラの家に仕えたルナリアにそっくりだったことに気付く。ルナリアはティースにとって姉のような存在だが、シーラにとっても学ぶところの多い相手だったのだろう。
温かいティーカップを手に取り一口。そして先ほどの彼女の言葉が謙遜であったことを知る。
ホッと息を吐いてティースはようやく視線を正面に戻した。
「そういや昼間はどうしてたんだ? 屋敷でも姿を見なかったけど」
「アオイさんのところにいたわ」
「アオイさん? どうしてまた?」
ミューティレイク家当主の執事兼ボディガードであるアオイとシーラがすぐには結びつかず、ティースは怪訝な顔をした。
「いろいろ教えてもらってたのよ。まだ不慣れだから」
「ああ……仕事のことか」
この屋敷で暮らすようになってから丸二年が経つが、それでも立場が変わればさらに学ばなければならないこともあるのだろう、と、ティースはもう一度ティーカップに口をつけた。
「よかった」
「え?」
「美味しそうに飲んでるから」
と、シーラは嬉しそうに微笑む。どうやら紅茶を飲むティースの表情をずっと観察していたようだ。
少し恥ずかしくなってティースが咳払いすると、シーラはすぐに話題を変えた。
「お前のほうこそどうしてたの? エルもリィナも今日はずっと屋敷の仕事をしてたみたいだけど」
「ああ。今日はアクアさんやレアスと仕事の話をね。パースがデビルバスターになって、もしかしたら部隊の構成も変わるかもしれないし……といっても、カノンとナイトでメンバーのやりくりがあるかもしれないってだけで、ファントムやクロスには関係なさそうなんだけど」
「部隊が増えることはないの?」
「今のところはね。メンバーが足りないし」
「ふぅん。なるほどね」
そう言ったシーラが視線を横に動かす。
誰かがホールに入ってきた気配を感じてティースも振り返ると、厨房に続く通路から出てきたのは菓子作りを担当するシュー=タルトという使用人だった。
その使用人とはティースは直接仲が良いわけではないが、厨房で仕事をしているエルレーンを通してある程度の人となりは知っている。同い年ということもあってか、それほど話していないにも関わらず不思議な親近感を覚えている相手だった。
シューはティースたちの姿に気付くと、早足で歩み寄ってくる。
「ちょうど良かった。ティース様、シーラ様。もしよければこの菓子を試してみてもらえませんか? この夏の新作なんです」
見ると、シューは片手に皿を持っていた。
ティースはすぐに頷いて、
「ああ、構わないけど。というかありがたいよ」
「じゃあ、お願いします。あ、ここに置いていきますので感想は明日にでも聞かせてください。そろそろ片付けないとコック長に怒られちまうもんで」
そう言い残し、シューはまるで逃げるようにさっさと立ち去ってしまった。
「……なんだろ、あれ」
さすがに不自然に思い、ティースはそう呟く。
シューの消えた通路の奥からは何やら話し声のようなものが微かに聞こえてきた。シュー本人のものと少女のものらしき複数の声も聞こえる。
「さあ。なにかしらね」
シーラも少し不思議そうにしていたが、それほど気にはしていないようだ。シューが置いていった菓子にさっそく手を伸ばしたかと思うと、想像以上においしかったのかちょっとだけ目をぱちぱちさせている。
ティースも菓子を口に運び、そんな彼女と気持ちを共有しつつ。
再び頭を過ぎったのは昼間の言葉。
(……無理なんて、してないと思うんだけどなぁ)
その日は結局悩みに答えが出ないまま過ぎ去っていったのだった。
「カレル。カレル=ストレンジ」
大陸最強とも噂されるネービス公直属のデビルバスター部隊ネスティアス。その中でトップ十を占めるデビルバスターに与えられる称号ディグリーズ。一般隊員の深緑色の制服と違い、ディグリーズには漆黒の制服が与えられ、その肩にはディグリーズでの順位を示す文字が刻まれる。
「……」
肆、ディグリーズでは上から五番目という意味の文字を与えられた青年カレル=ストレンジは、不機嫌な表情を崩そうともせずに目の前の少女を見つめていた。
いや、睨んでいた。
そして、まるで獣のようなその鋭い眼光にさらされていたのは十代半ばの少女だ。
赤茶けたというよりは、もはや真紅に近い色の髪。前髪は眉とほぼ平行の角度でV字型に切り揃えられ、横と後ろはストレートに腰の辺りまで伸びている。
気の強そうな目。背丈は成人女性のほぼ平均あたり、百六十センチあるかないかといったところだろうか。明らかに良い素材の純白のドレスを纏い、カレルの視線を受けてもまるで怯むことなく上品に佇んでいる。
その左右には同じ顔をした侍女が立っていた。
「どうしたのだ、カレル。そなたではなくクインシーを連れて行ったのがそんなにも不満だったか?」
口元に薄っすらと浮かべた少女の笑みに、カレルは恭しく一礼して言った。
「いいえ、公女様。不満どころか用意してあった離隊届に手をかけずに済み安堵しておりました」
「面白いことを言うな、カレルよ。まるで野生の獣のようなそなたが、長旅ごときを苦にするとはにわかには信じられんぞ?」
頭を垂れたままでカレルは答える。
「野生の獣も気まぐれでワガママな夏の雨に手を焼くこともあるでしょう。それと同じことです」
「ふむ」
公女――サイアは体の前で腕を組み、畏まったカレルに見下ろすような尊大な視線を送った。
「つまりは私が気まぐれでワガママだから付いて行きたくなかったと、そう言いたいわけか」
「それが伝わらなかったら今度こそ離隊届を出すところでした」
感情のこもっていない棒読みのカレルに、サイアは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「変わらんな。そなたはいい加減、上の者に媚を売ることを覚えるべきだ」
「公女様もいい加減思いつきで行動するのをお止めになるべきです。……今度はディバーナ・ロウですか?」
「その話、リゼットに聞いたのか?」
「リゼットから話を聞いたルーベンがラドフォードに言いふらして騒いでいるのをちらっと小耳に挟みました」
回りくどい言い様に聞こえるがカレルにそんなつもりはなく、単に事実を順番に述べただけである。
そんなカレルに対し、サイアは口の端を軽く上げ、してやったりという表情を見せた。
「ディバーナ・ロウはそなたたちのグループが懇意にしていると聞いたのでな。リゼットに仲介役を命じたのだ。そなたに言えば嫌な顔をすると思った」
「……あのな」
カレルは重いため息を吐く。ついに我慢できなくなって敬語の皮が剥がれた。
「そんな単純なものじゃないんだ。あんたがディバーナ・ロウに肩入れしたとなれば後々面倒なことになる。ディグリーズのトップ……オリヴィオが黙ってないぞ。あんたの兄上だっていい加減目を瞑っていられなくなるかもしれない」
だが、サイアはまるで意に介さなかった。
「そうなったらその面倒とやらを片付ければ良いではないか。ディバーナ・ロウは今回の合格者も入れてデビルバスターが六人だ。その中には数年前のサン・サラスがいて、さらには西のほうで名のある<将魔>を倒した男がいるとも聞いた。これは我がネービスにとって無視できない巨大戦力だ。その内情を私が知らぬままにしておくわけにはいくまい」
「だったらどうして先に俺に言わない」
「ほう」
ニヤッとサイアは笑った。
「不機嫌の本当の理由はそれか。リゼットやラドフォードよりも後に知ったのが不満だったというわけだな?」
「……話にならん」
もはや敬語を取り繕うこともなく、カレルはそのまま立ち上がってサイアに背中を向けた。
サイアが眉をひそめる。
「帰って良いとは言ってないぞ、カレル」
「許可をもらう気もねぇよ。離隊届を用意すりゃいいのか?」
「預かるだけなら構わんぞ。多少は窯の火の足しにもなるだろう」
「……」
言葉を返す気力も失い、カレルは不機嫌そうに足を踏み鳴らしながら部屋の出口へ歩いていく。
「頼りにしているぞ、カレル」
最後にそう言ったサイアの言葉にも反応することなく、扉は勢いよく閉じられたのだった。