その3『遺書』
それはティースがディバーナ・カノンに配属されてから半月ほどが経った日の夜のことだった。
使用人達はその半数以上が本日の仕事を終え、自宅あるいはこの敷地内にある使用人寮へと戻っていたが、この時間、別館に住む幾人かは決まって玄関ホールへと出てくる。
ある者は誰かと酒を飲み語り合うために。
ある者は自室の孤独な空気を嫌って。
そしてその中のひとり、シーラ=スノーフォールはこの日、初めて自らの意志でこの玄関ホールの丸テーブルに着いていた。
彼女が今までここに来なかった理由は簡単だ。偶然にティースとはち合わせることが嫌だったからである。
ではそんな彼女が、どうして今日に限ってやってきたのかというと――
「こうしてシーラさんとゆっくりお話するのはいつ以来でしょう?」
シーラの目の前には、紺色の落ち着いた上質な衣服に身を包み、手にした白い陶磁器のティーポットから紅茶を注ぐファナがいた。
相変わらずの和やかな笑顔と育ちの良さを感じさせる雰囲気は、この質素な丸テーブルにあってもまるで損なわれていない。
「ここに来てからは初めてじゃないかしら? ありがと。いただくわ」
受け取ったティーカップにミルクを少量注ぎ、スプーンで軽くかき混ぜる。紅茶の香ばしい薫りが周囲に漂った。
笑顔のまま、ファナも自らのカップに紅茶を注ぎ始める。
ファナ自身はもちろんのこと、シーラもまたその容姿ゆえにどこか貴族然とした雰囲気があるため、そのテーブルだけが周囲とまるで違う世界にあるかのようだった。
……いや。というより、本来ならば彼女たちの作り出す世界こそが、本来のこの屋敷にふさわしいものなのだが――まあ、それはともかく。
「ここでの生活はいかがです?」
「文句ないわ」
ファナの問いかけに、シーラはすぐにそう答えた。
普通の人間なら萎縮してしまいそうな屋敷の生活も、彼女にとっては別段どうということもないようだ。
「サンタニアに通うにも近いし、食事の準備も洗濯の心配もいらないもの」
「そうですか。慣れたようでしたら、たまに部屋ではなく食堂の方で食事を摂ってみてはいかがですか?」
「食堂?」
「ええ。給仕の方にあらかじめ言っていただければ、食堂のテーブルに席を用意させていただきますわ」
「そうなの。あなたもいつもそこで?」
シーラの問いかけに、ファナは少し考えて、
「いつもではありませんけれど、時間が合ったときにはよくそちらで」
「なるほどね。……それも楽しそうだけど、でもとりあえず遠慮しておくわ」
「どうしてですの?」
不思議そうなファナに、シーラはそっと口に運んだティーカップを下ろす。
「もちろん、この屋敷の人がたくさん来るでしょう?」
「ええ。毎日食堂でお召し上がりになる方も、時々気が向いたときにいらっしゃる方も……様々ですけれど」
シーラは苦笑して、
「この屋敷の人って、どうも人を質問責めにするのが好きみたいなのよ」
「あ」
納得したようにファナはニッコリと微笑んだ。
「いかがでしたか? みなさん、おもしろい方ばかりでしたでしょう?」
「私が挨拶とか用事以外で話したのは、レイさんとリディアって子だけよ」
「レイさんとリディアさんだけ、ですの?」
「ええ。だって私、この屋敷にいるときは部屋にいるか書庫にいるかのどちらかだもの。そんなに話す機会なんてないわ」
「それはもったいないですわ。シーラさんでしたら、必ず仲良くなれますのに」
「そうかしら。まあ、あのリディアって子は確かになかなかおもしろい子だったけれど」
「リディアさんはとても頭の良い方ですのよ」
「ええ、それはわかるわ」
シーラの頭に書庫でリディアと話したときの記憶が蘇る。
年相応の好奇心と悪戯心を剥き出しにしながらも、言葉の端々には子供離れしたしたたかさがある――というのが、彼女の正直な感想だった。
「それと、レイさんは第二隊の隊長を務めていただいている方ですの」
「ああ、よくは知らないけど……彼がティースの隊長なのかしら?」
「いいえ。ティースさんは第三隊の方へ行っていただいております。そこの隊長はレアスさんとおっしゃる方ですわ」
「そうなの」
そっけなくうなずいたシーラに、ファナは少しだけ首を傾けて、
「気になります?」
「……すぐそういうことを言う」
シーラは嫌な顔をしたが、それは少し演技っぽいものだった。
どうにもこのファナという人物、まるで邪気のない口調のためか、なにを言われてもなかなか嫌な気持ちにはならないのである。それはシーラも例外ではなかったのだ。
「別にティースがどこにいようと、私にはたいして関係ないわよ」
「ですが、ティースさんは淋しそうにおっしゃってましたわ。ここに来てからシーラさんと一度も顔を合わせてないと」
「合わせる理由がないもの」
ファナが不思議そうな顔をする。
「理由がなければいけませんの?」
「少なくとも私の方には、ね」
「でしたら」
ファナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
それを見たシーラの胸に嫌な予感が走ったが、時すでに遅し。
「私が理由をお作りいたしますわ。――あ、ドロシーさん。申し訳ありませんが、ティースさんをここに呼んでいただけますか?」
近くを歩いていて呼び止められたのは、男の子のような短髪で使用人の服を着た女性だった。女性と言っても歳はシーラよりも少し上、おそらくはファナと同じ17、18歳ぐらいだろう。
「ティースというと、新入りの人ですね……」
「ええ、そうです。お願いしますね」
「了解……」
言葉遣いは丁寧ながら、どこか無愛想な女性は2階への階段を上っていった。
「ファナ。私は部屋に戻るわよ」
「いけません」
ファナは穏やかな微笑みできっぱりと言い切った。
「どうしても戻るおつもりでしたら、ティースさんを即刻解雇いたしますわ」
「……公私混同もいいところね」
立ち上がりかけたシーラはため息とともに腰を下ろした。ティースの解雇はすなわち彼女の居場所の消失、及び学園に通う資金の断絶を意味する。
「ふふ、冗談ですわ」
そんなファナにシーラは呆れ顔で、
「でも、私がここを離れるのは許さないんでしょ?」
「ええ。――それと、ティースさんが来るまでに少しお話ししておきますわ」
「……なに?」
和やかなままでありながら、そこに混ざった真剣な色に、シーラは怪訝そうに眉をひそめた。
ファナはうなずいて封筒のようなものを取りだす。
「これは……なに?」
「ティースさんの遺書ですわ」
その封筒の裏には確かに、ティーサイト=アマルナと署名されていた。
「……?」
シーラの眉間に皺が寄る。
彼女の疑問は当然だ。ティースはまだ死んでなど――いや、しばらく会っていないシーラには断言できなかったが、まさかファナが死人を呼びに行かせたはずはなかろう。
それを見て取ったファナが答えた。
「ディバーナ・ロウでは、任務が決定すると必ず全員に遺書を書いていただくことになってます。これは私自身が保管し、無事に戻られた場合にはこのまま焼却します。ですが、もし戻られなかった場合は――」
ファナはそれをテーブルに置いた。
表情が真剣になる。
「この封を切り、出来る限り、その方の最後の望みを叶えて差し上げようと思っております」
一瞬、視線を泳がせたシーラだったが、すぐに変わらぬ調子で答えた。
「つまり、ティースの初陣が決まったのね?」
「ええ。その通りですわ」
「そう。役に立てばいいんだけど」
視線を横に向けてたいして興味なさそうに言ったシーラを、ファナはまっすぐに見つめて続けた。
「2日後の朝、カノンはここを発ちます。移動も含めて戻られるのは早くても1週間後になるはずですわ」
「……」
シーラの視線がファナのものと重なる。
その口からため息がもれた。
「私、やっぱり部屋に戻るわ」
「シーラさん」
席を立ったシーラは首を振りながら背を向けて、
「なんなら、あいつを解雇してくれても構わないわよ」
「いいえ。ティースさんはディバーナ・ロウに必要な方ですもの」
「だったら、私が部屋に戻っても問題はないわね?」
「ええ。そういうことになりますわ」
「……」
シーラは無言でファナを振り返り、呆れた表情を浮かべて、もう一度首を横に振った。
「この屋敷に詮索好きが揃ってるのは、もしかしてあなたの影響かしらね?」
「?」
「……そのティースの遺書は、必要のないものよ」
「なぜですの?」
当然のように疑問の声を向けるファナに、シーラは薄い笑みを浮かべて答えた。
「なにが書いてあるかわかるもの。それが『遺書』である以上、あいつの願いはきっと、あなたにも決して叶えられないものだわ」
「はあ」
一見、わかったようなわからないような微妙な返事だったが、ファナはすぐに続けた。
「シーラさんに関することですのね?」
なにも答えず、シーラはテーブルから離れて階段に向かっていく。
「……」
しばしの沈黙がテーブルの周囲を支配した。先ほどまで彼女の座っていた場所では、わずかに残った紅茶がシャンデリアの明かりを反射している。
「もし……とすると」
それをじっと眺めていたファナはそっとひとり言をつぶやき、ゆっくり目を閉じて、
「責任重大ですわ、ティースさん――」
「――え?」
突然呼びかけられたティースは、怪訝な顔をファナに向けたままで固まっていた。
彼が驚いたのも当然。ファナは目を閉じていたし、つい先ほどまではティースがやってきたことに気付いていなかったようなのだ。
(も、もしかしてこの人も達人なのかなぁ……)
などと、ティースは現実味のないことを考えながら、
「な、なんのこと、ファナさん?」
「あら。ようこそ、ティースさん」
顔を上げたファナは、ちょっと夢見がちな男なら勘違いしてしまいそうな好意的な微笑みでティースを迎えた。
幸いなことにティースは、それとはまったく逆の性質――たとえ実際にそうだとしても、それに気付かないぐらいの性格であったが。
「どうぞ。今、紅茶をご用意しますわ」
ティースに席を勧め、茶葉を新しくしてポットにお湯を注ぐファナ。テーブルにはもう1組のティーセットがあり、誰かがそこにいたらしいことはティースにもすぐわかった。
ティースは椅子に手をかけながら、
「もしかして、シーラかい?」
「ええ。その通りですわ」
「そっか」
ここに来る途中、ティースは階段でシーラとすれ違っていたのである。
実を言うと顔を見るのも約半月ぶりのことで、ティースは喜びの色を隠すこともできずに声をかけてしまったのだが、彼女はチラリとも視線を向けることはなく、あっさりと無視されてしまったのだ。
彼が少々――いや、かなりヘコんだのは言うまでもない。
(やっぱ避けられてるんだよなぁ……)
ここに来てからのすれ違いを、ティース自身は忙しさのためなんて言葉で処理してきたのだが、ここに来て決定的な一撃を喰らわされてしまったわけである。
と、そんな回想をしながら再び落胆していたティースを見て、ファナが言った。
「ティースさん、なんだか淋しそうですわ」
「え? あ……」
考えがまともに顔に出ていたと気付いて、ティースはすぐさま取りつくろう。
「い、いや、シーラにああいう風に扱われるのはもう慣れっこだから。別に淋しいとかそういうことは一切――」
「では、やはりシーラさんのことですのね?」
「あ……」
クスクスとおかしそうに笑うファナに、ティースの顔は真っ赤になる。
「……いや、うん。淋しいよ、実際」
仕方なく顔を赤くしたまま席に腰を下ろし、ティースは正直に告白した。
「やっぱりさ。どう扱われてもあいつは……ほら、俺にとって家族みたいなものだって、俺は勝手にそう思ってるから」
差し出された紅茶を受け取り、それに砂糖を2杯入れてかき混ぜる。
「質問してもよろしいですか?」
「え?」
スプーンを動かす手を止めファナを見ると、
「ティースさんはなぜ、デビルバスターになってまでシーラさんを養育しようとなさるのです?」
「……」
ティースはいきなり言葉に詰まった。
だがその質問自体は、周りでティースたちを見ている者にとっては当たり前すぎる疑問だった。
親子でもない。夫婦でもない。恋人ですらない。だが、ティースがシーラに対してやっていることは、親が子に対してするそれとほぼ同等のものだ。それは決して、単なる友人や知人相手に軽々しく行えるものではない。
「それは――」
「もしおっしゃりたくないのであれば、無理にとは言いませんけれど」
言い訳を考えかけたティースに、ファナはすぐにそう付け加えた。
「ティースさんの決意は本物だと思います。それを疑うわけではありませんもの」
「じゃあ……どうして?」
ファナはニッコリと微笑んだ。
「単なる好奇心ですわ」
「……はは」
ティースの胸に渦巻いていた焦りが、徐々に暖かいものへと変わっていく。
そして、
「そうだな……ファナさんが知りたいのなら」
自然と、そんな言葉がティースの口をついていた。
……このネービスに来てから、ティースはそのことを誰にもしゃべったことはない。それは万が一起こりうる『弊害』を考えてのことだった。
だが、たいした理由もなく自分の人格、その決意を信じてくれたこの少女にならば、話しても問題ないだろう――、と、ティースはそう思ったのである。
「シーラはね……俺の大恩人の娘なんだ」
「恩人の娘さん、ですか?」
ファナは怪訝そうな顔をした。
ティースとシーラの年齢、そこから導き出される関係を想像したのだろう。
そして彼女が最初に想像したのは、先ほど『家族』と言った彼の発言から考えて、おそらくもっともわかりやすい関係だった。
「もしかしてティースさんは孤児だったのですか?」
「ああ、いや。養親とかそういうのとはちょっと違うんだ」
ティースはすぐにそれを否定したが、
「でも、それに近いものはあったかな。俺に色々なことを教えてくれた人でね。……あれ? どうしたの?」
「いいえ。ただ、意外だったものですから」
その言葉通り、確かにファナは少し意外そうな顔をしていた。
「私、ティースさんはてっきりシーラさんを愛してらっしゃるものだと思ってましたの」
「あ、もちろんシーラのことも好きだし大事だよ。……いや変な意味じゃなくてさ」
慌てて手を振ったティースだが、もちろん彼の言わんとしているところはファナにもわかっていた。
そしてティースの目が不意に遠くを見る。
「でもやっぱり、その人の存在が大きいかな。……小さいころ、その人に言われたんだ。シーラのこと助けてやってくれって。守ってやってくれって。その言葉が、ずっと耳から離れなくて――」
「……」
それを見つめるファナの瞳は、少しだけ思案するような色を秘めていた。
「シーラさんは、そのことをご存じなのですか?」
「え? ……いや、知らないんじゃないかなぁ」
ティースは笑って答えた。
「大昔の話だし、そういうこと言うのってなんだか恥ずかしいだろ?」
「……」
再びファナは沈黙した。
「どうしたの?」
「いいえ。ただ、シーラさんがティースさんを避けるのには、なにか理由があるのだろうと思いまして」
「?」
先ほどのシーラとファナのやり取りを知らないティースにとっては、少々不可解な会話の流れだった。
「それはただ、シーラが俺のことを嫌いだから――」
「いいえ、まさか」
ファナはおかしそうに笑ってその言葉を否定した。
「それはないと思いますわ」
「……?」
ファナは紅茶を口に運びながら一呼吸置く。
つられてカップに手を伸ばしたティースに、ファナは言葉を続けた。
「もしかするとシーラさん、負い目を感じてらっしゃるのではないですか?」
「負い目? なにに対して?」
怪訝そうに聞き返したティースに、ファナは一瞬呆気に取られたような顔をして、
「……本当におもしろい方ですわ、ティースさん」
やはりおかしそうにクスクスと笑った。
「え?」
どうして笑われたのか理解できないティースに対し、ファナは答える。
「ティースさんのなさっていることは、大変なことですわ。たとえ親子であっても、それを放棄してしまう方がいくらでもいるのですから」
「あ……ああ、なるほど、そういうことか」
ようやくその意味に気づいて、
「でも急に負い目って言われてもなあ。俺は別に無理してるわけじゃないし、それだって元々あいつの方から言い出したことなんだ。それで負い目なんて感じられても……」
「私には詳しい事情はわかりませんけれど、なにか納得できないものがシーラさんの中にあるのではないですか?」
「うーん」
ファナの言葉には説得力がある。が、当事者であるティースとしても心当たりはなかった。
ネービスへ行きたい――と、そう言ったのはシーラの方だ。薬師になりたいという彼女の夢はティースも昔から知っていて、それを叶えるために請われて彼女をネービスへ連れてきた。
少し大事な部分をいくつかはぶいてしまったが、それが彼ら2人がこのネービスへやってきた大まかな事情である。
もしファナの言うように負い目を感じていたのだとしても、それは最初からわかっていたはずのことで、それで一方的に避けられ、まるで嫌うかのような素振りを見せられたのだとしたら、ティースが納得できないのも当然だろう。
それならまだ、一緒に暮らすようになって自分のだらしないところが嫌われたのだと考えた方がよほど納得できた。
と、そこへ、
「おぉーい、ティース!」
玄関の入り口辺りからティースを呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのはサイラス、ヴィヴィアン、フローラといった隊長のレアスを除くディバーナ・カノンの面々。
(……あ、そういや今日はみんなで街に繰り出すって言ってたんだっけ……)
忘れていたわけではなかったが、ファナとの話に夢中になっていて時間の感覚がなくなっていたようだ。
「ごめん。ファナさん、俺――」
「ええ、お気をつけて」
ファナはどうやら事前に知っていたらしく、事情も聞かずにうなずくと、変わらぬ笑顔で付け足した。
「それとサイラスさんに伝えておいていただけますか? 今回は遺書に冗談を書かないようになさってくださいね、と」
「? ……うん、わかったけど」
いまいち意味がわからないままにうなずいて、ティースはサイラスたちの後を追ったのだった。
「――ああ、そのことか」
ミューティレイク邸から若干南、一般住宅地でも中央大通りからほんの少し中に入った目立たない場所にある酒場『樫の木亭』。
煌々と明かりの灯った店内には合計10個ほどの4人掛け丸テーブルと、カウンターに数席。広さでいうなら中程度の酒場だった。
ただ、今はそのほとんどの座席が埋まっており、騒然とした空気が流れている。
そんな中、ティース、サイラス、ヴィヴィアン、フローラの4人はもっとも隅っこにある丸テーブルを囲んでいた。
「ファナさんへのラブレターさ」
サイラスは言った。
「ラブレター?」
「彼は遺書の封筒にいつでも彼女への愛の告白を書くのだよ」
ヴィヴィアンはこの酒場の雰囲気に似合わない、透明なグラスに注いだワインをくゆらせながら答えた。
ティースは驚いて、
「え。サイラスってもしかしてファナさんのことを――」
「まさか」
サイラスは笑って答えた。
「俺だってそこまで身のほど知らずじゃない。単なる冗談だよ」
「まったく。常識外れの不謹慎な男だよ」
「ははは……まさかお前に常識を説かれるとは思わなかったな」
そんな2人のやり取りに、ティースは少し眉をひそめて、
「でも。俺もヴィヴィアンの言うとおり、遺書にそういう冗談を書くのはどうかと思うぞ。ねえ、フローラさん?」
そう言って水を向けると、
「そうですわねぇ」
どこか浮ついた様子のフローラは、テーブルに並んだツマミのひとつを口に運びながら、
「どうすればあの子みたいに自然で気品あふれる仕草ができるのか、それが問題ですわねぇ……」
どうやら早くも酔いが回っているらしく、話の流れをまったく理解していないようだった。
「気にするな、ティース。フローラさんはいつもこうなんだよ」
「こんな酒場でくだを巻いているようでは、ファナくんのようになるなど一生無理だろうがね」
ヴィヴィアンの言葉には、ティースも心の中でちょっとだけ同意してしまった。
「で、遺書の話だけど。お前は書いたのか、ティース?」
「え? あ、ああ」
「そうか、早いな。――あ、麦酒をひとつ……いや、ふたつ頼む!」
「はーい」
注文を終えたサイラスは飲み干したコップを端に寄せ、テーブルに肘を乗せると、
「遺書ったってな。死んだ後のことなんて俺にはあまり考えられないよ」
ふうっと息を吐いた。
「フローラさんと違って連れ合いがいるわけでもないし、ビビのように銅像を造ってくれなんて馬鹿な希望があるわけでもない」
「なにを言うか! 私のこの美しい姿を後生に残すことこそ、歴史の語り部たる全人類にとって当然の義務であろう!」
「はいはい」
ヴィヴィアンを適当にあしらうサイラス。
ティースも苦笑しながら、
「銅像って……あれ? っていうか、フローラさんって旦那さんがいるのか?」
「なんだ。知らなかったのか」
「知らなかったんですのぉ……?」
身を乗り出したフローラに据わった目で見つめられ、ティースは思わず怯んでしまった。
「うふふ……とても素敵な旦那様なんですのよぉ……」
そんなフローラにヴィヴィアンが一言、
「フローラくんは旦那フェチなのだよ」
「え、それはフェチっていうのか……?」
ティースの疑問にはサイラスが答えた。
「崇拝するほどに心酔しているという意味なら、まあそうかもしれないな」
「あれは私がサーカスの一員として、大陸中を旅しているころのことでしたわ――……」
フローラの昔話が始まったが、どこまでが本当なのか判断できないほど現実味のない内容だったのと、ろれつが上手く回っていないのとで、3分もするとティースを含めた誰もがすでに聞いていなかった。
「そういやティース。お前って連れがいるんだっけ?」
と、サイラスが話題を変える。
「連れって、まあ……」
「なんでも、とっくに尻に敷かれてるらしいって聞いたが」
「いや、そういう言い方は語弊が――」
「ほほう、ティースくん。君はいわゆるマゾヒストなのかね?」
「なっ、ごっ、誤解だ!!」
ヴィヴィアンのストレートな言葉をティースは思いっきり否定した。そんな風評は彼としても黙って見過ごすわけにいかない。
だが、ヴィヴィアンは人差し指を振って、
「いやいや、別に隠すことではないよ。人の性質というのは千差万別だ。たとえ痛めつけられることによって満足感を得るとしても、それは別に恥ずべきことでは――」
「だから違うって!」
顔を真っ赤にして懸命に否定するティースに、サイラスが笑いながらフォローを入れる。
「ま、つまりいじめられても離れられないほどイイ女だってことなんだろ?」
それもあまりフォローになっていなかった。
「それともなんだ? 2人きりになったら攻守が逆転するのか?」
「いや、だから違うんだって……」
反論しながらも、強く主張することはあきらめてティースはため息を吐いた。
そもそも根本から勘違いしている上に、アルコールが入っておもしろい方向へと話を動かそうとする2人には、ティースがなにを言ってもまったく無駄なのである。
(まったく。こんな話をシーラに聞かれたら、それこそどんな目に遭うかわかったもんじゃないよ……)
「でも、ま」
追加した麦酒を一気にあおって、サイラスがポツリとつぶやいた。
「なんにしろ、遺言を残せる相手がいるってのはいいことだな」
その発言をティースは怪訝に思って、
「お前は? 家族とか恋人とか……遺言を残す相手はいないのか?」
「ああ、いないな」
サイラスはあっさりと答えると、少し冗談っぽく笑って、
「あえて言うなら、いつも色々と世話になってる使用人の女の子ぐらいか」
「じゃあ、そのロケットは?」
「あ。――ああ」
彼の胸元に光るロケットは、記念の品などを収めておくためのものだった。大抵は恋人から送られた品や小さな肖像画を収めておく場合が多い。
「こいつは友達さ」
ためらいいもなく開いたその中には、やはり小さな肖像画が収められていた。年の頃は10代半ばだろうか。それほど精巧な肖像ではないが、少し細身で人の良さそうな男性だ。
「……」
それについてさらに問いかけるべきかどうかティースは少し迷ったが、その前にサイラスの方から口を開いた。
「俺がデビルバスターを目指すことになったキッカケだ。イイ奴だったんだがな」
「……そうか」
事情を察するにはそれだけで充分だった。
サイラスはすぐにそのロケットを閉じて、
「ティース。お前はどうしてデビルバスターになろうと思ったんだ?」
「俺は……」
ティースは答えることをためらった。なにげなく語ったサイラスの言葉の中に潜む、強い決意と悲しみに気おくれしたためだ。
だが、嘘を言うわけにもいかず、ティースは結局正直に答える。
「シーラを……連れを学園に通わせる金が欲しかったんだ」
「そうか」
だが、サイラスはティースが予想していたような反応はしなかった。
それどころか、
「すごいな、お前は」
「え?」
「すごいよ」
もう一度、サイラスはそう言った。
「俺なんか大事な友達を殺されて、踏みにじられて……復讐なんかのためにデビルバスターを目指してるんだからさ」
「え……でも、俺は――」
「お前みたいに、自分以外の人間のためにデビルバスターになろうなんて、そんなことを考えるヤツは滅多にいるもんじゃない」
口調からして、どうやらそれは偽らざる言葉のようだった。
(……そういう考え方もあるのか)
いつだったか、ファナがティースに言った『立派』という言葉も、サイラスが言ったのと同じ意味だったのだろう。
だが、ふと気付いて、
「でもさ。お前だってその友達のためにデビルバスターを目指してるんだろ?」
サイラスは首を横に振った。
「違うな、ティース。復讐ってのは結局エゴの産物だよ。やり場のない自分の感情を収めるための行動だ。死んだヤツが復讐しろって遺言を残したのならともかくな」
「……」
それはそうなのかもしれない、と、ティースは正直にそう思った。
「でもま、今さらこんなことを言うのもアレだけど」
言いながら、サイラスは空になった5杯目のコップをテーブルの端に寄せた。
「そういう理由なら、デビルバスターになるのはちょっと考え直した方がいいかもしれないぞ」
「? どういうことだ?」
「お前みたいなヤツなら、デビルバスターなんかにならなくても、好きな女のひとりぐらい幸せにできるんじゃないかってことさ」
「……」
ティースは黙った。
(デビルバスターにならなくても、か……)
確かにデビルバスターになる以外の選択肢も彼にはあった。シーラが卒業するまでおそらくはあと1年。たとえば高利貸しに金を借りたとしたって、どうにかこうにか返していくことはできたはずだろう。
ただ、それでもティースがこの道を選んだのは――
(……なんでだろう)
わからなかった。
厳しい道なのはティースにもわかっていた。実際、厳しい。
「連れにもしょっちゅう心配かけることになるぞ?」
「あ、いやそれはどうかなぁ」
思考を中断してティースは苦笑いをした。
本当にそこまで心配してくれるなら、ティースとしても非常に嬉しいのだが。
「……」
テーブルに肘をついて、サイラスは人差し指で皿の上の串をもてあそび始めた。
かなり酔いが回って来ているようで、
「……ホント、お前みたいなヤツは普通にやった方がいいよ、絶対」
「サイラス?」
いつの間にか目元がおぼつかなくなっていた。
「ふむ。そろそろかな」
ヴィヴィアンを見ると、テーブルに突っ伏したフローラに上着をかけているところだった。
「あ。フローラさん、いつの間に……」
「ウチのメンバーはそれほど酒に強くないのでね。飲みに来るといつもこうなるのだよ」
「すぅ……すぅ……」
直後、寝息が聞こえてくる。
ヴィヴィアンが言い終わるか終わらないかのうちに、サイラスもまた夢の世界に旅立ってしまったようだ。
「って、ヴィヴィアン、あんたは……」
よく見てみるとヴィヴィアンの前にはサイラス以上に酒を呑んだ形跡がある。ティースこそは結果的に1杯しか呑んでないからいいにしても、ヴィヴィアンが平気な顔をしてるのは明らかに不自然だった。
ヴィヴィアンはいつものように人差し指を振ると、
「ふ……美しい私には、酔っぱらうなどという下品な単語は似合わないのだよ」
「……」
(つまり、ザルなのか……)
顔色を見ると、呑んだのかどうかもわからないぐらいだからよほどである。
「しかし今日はティースくんがいてくれて助かった。サイラスくんが潰れると、いつもは私が2人を運ばねばならなかったのでね」
「あ、そっか。じゃあ俺がサイラスを運ぶから……」
素早くそう主張したティースに、ヴィヴィアンは怪訝そうな顔をして、
「ふむ? フローラくんの方が軽いし、君のような凡庸な男にとっては色々と役得があっていいのではないのか?」
「え、遠慮させてくれ!」
「? まあ、私はどっちでも構わないが?」
ティースの慌てぶりにヴィヴィアンは首をひねったが、それ以上追求してくることはなく、そのままウェイトレスを呼んで勘定を支払った。
「あ、俺も――」
「いや。今日は君の歓迎会も兼ねているからね」
ティースはその好意に甘え、突っ伏したサイラスを背負うことにした。
(うわっ……結構重いな……)
スリムな体から想像する以上に、サイラスの体は引き締まって重みがあった。
ヴィヴィアンも同じようにフローラを抱えて、
「では、行くとするか」
「ってか、ヴィヴィアン。それってお姫様抱っこ――」
「女性を運ぶときはこれが基本であろう」
「……腕、屋敷までもつのか?」
結局ヴィヴィアンはそのままフローラを屋敷まで運んだが、到着するころにはさすがに辛そうになっていた。
別館に戻り、サイラスを部屋まで送り届けた後、ティースは酔いを醒ます意味もあって屋敷の中を散歩していた。
ホールや各部屋にはまだ明かりが灯っていたが、屋敷の奥に通ずる辺りの廊下は薄暗く、窓から射し込む月が良く見える。
(ふぅ――さすがにちょっときつかったな)
肩を軽く回しながら歩いていて、ふと。
「あれ?」
庭の方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「……シーラじゃないか」
なにをしているのか――よく見るとひとりではない。その前をもうひとつの影が歩いていた。
「誰だ?」
遠目には男か女か分かりづらいが、スカートでないことと背の高さからいってどうやら男のようだ。
(こんな時間に……)
もちろんミューティレイクの敷地内だ。どれだけ夜が更けようと危険はまずないのだが、さすがに少し気になった。
シーラは屋敷の中からティースが見ていることに気づいた様子はなく、男の後をついていく。
(ここにいるんだから屋敷の人なんだろうけどなぁ)
心配することもないとは思ったのだが、ここ数ヶ月のシーラの様子が脳裏に浮かぶ。
(……いやいや! あいつはそんな男遊びをするようなヤツじゃないぞ!)
彼女の後ろ姿から目を離し、気にしないように再び歩き出す。そして廊下を抜け、明かりの灯る玄関ホール、そして外へと散歩コースを移していった。
「……いない、よな」
月明かりの下、まるで人影のなくなった庭は寂寥とした空気を残していた。
辺りを見回しても、動くものの気配は見当たらない。
「……」
ティースは数秒間そこで立ち尽くした後、結局すぐに諦め、背を向けて館へと戻っていったのだった。