その10『風姫の鎧』
先頭を歩くのは、最後方の観光馬車に乗り合わせていた三十代の傭兵の男。リィナはそのすぐ後ろに続いていた。一行はすでに馬車の襲撃地点から遠く離れ、おそらくはもう大丈夫だろうという空気も漂っている。
そんな中。
(……シーラ様たち、大丈夫でしょうか)
リィナは一人、時折後方を振り返りながら浮かない顔をしていた。
いったん彼女たちと合流したシーラとエルレーンだったが、連れていた四人の女性を一行に預けると、その足ですぐに引き返していった。もちろんリィナも同行を申し出たのだが、これだけの人数を傭兵の男一人だけに任せるわけにはいかないからと、彼女だけがこの集団に残ることとなったのである。
リィナは今回の敵に関し、ほとんど情報を持っていなかった。最後方の馬車を襲撃したグラハムやエレオノーラとは一戦交えていたが、メイナードのことについては何も知らない。もし、その恐ろしい人魔のことを彼女が少しでも知っていたなら、おそらくはシーラたちの反対を押し切ってでも付いていっただろう。
それはともかく。
状況を単純に考えれば、ティースを含めたデビルバスターが三人。エルレーンにも充分に戦う力があるし、怪我をしてもシーラが手当できる。本来ならそこまで深刻に考えるべき状況ではないはずだった。
それでもリィナがどこか不安を拭い去れなかったのは、引き返すときの二人、特にシーラの表情に僅かににじみ出ていたものが心のどこかに引っかかっていたからである。
何かを決意したような、そんな表情。
やはり付いていくべきだったのでは、と、そのときの判断を後悔しながらリィナは視線を正面に戻した。その先、緩い下り坂の向こうにはアグノエルの町が微かに見えている。
と。
そんな彼女が異変に気付いたのはそのときである。
リィナは後ろを振り返り、一番後方を歩いていた集団――シーラたちと一緒に来て合流した女性たちに声をかけた。
「……もう一人の方は?」
リィナの問いかけに最後方でしんどそうな顔をしていた女性が顔を上げる。どうやら長距離を歩くことには慣れていない様子だった。
「え?」
そうして左右を見る。三人がお互いに視線を合わせた。
リィナは続けて問いかける。
「四人、いましたよね? もう一人の活発そうな女性の方はどこへ行ったんですか?」
「あれ?」
そう。シーラたちと一緒に歩いてきた女性たち。そのうちの一人、四人の中で唯一平常心を保っていた一番若そうな女性がいなくなっていたのである。
三人のうちの一人が呟くように言った。
「どうしたの、あの子。さっきまでそこにいたよね?」
「ごめん。私、歩くのに夢中で……あなたの友達の妹さんだったわよね。見てなかったの?」
返した言葉に、意外そうな声が上がる。
「え? 違うわよ。あんたが一緒に笛を習ってる子だからって連れてきたんじゃない」
「そんなこと言ってないわ。だいたい私、あの子と会うの初めてだったもの。あれ? じゃああなたの知り合いだったっけ?」
最後の一人も不思議そうに首をかしげた。
「え、知らないけど……私は二人が連れてきたから友達なんだろうと思って……」
「……どういうことですか?」
取り留めのない三人の会話に、リィナは眉をひそめた。
「じゃあ――」
三人の女性が口を揃える。
「あの子、いったい誰だったの?」
「……」
リィナの胸にくすぶっていた不安は急速に膨れ上がっていった。
どんなに長くても一分。それがエルレーンとの約束だった。
それ以上は体がもたないから――と。
メイナードの右腕と剣を吹き飛ばした時点で勝負は決したかに思えた。が、しかし。メイナードは茫然自失の状態をすぐに脱すると、ちょうど足もと付近に落ちていたカルヴィナの短剣を拾い上げ、戦う姿勢をとった。
その視線の先には、ティースがいる。
全身に纏うエメラルドグリーンの光粒。風の神気“風姫の鎧”。それは風の王魔族の中でも特に高貴とされるほんの一握りの一族が行使する、付与型の奥義だ。その力を与えられた風魔は肉体の限界を遥かに超えた身体能力を一時的に得ることができる。
もちろん風の人魔ではないティースには本来、その力を受ける資格はない。それを可能としたのは彼が手にしている神具、細波の存在である。
ただ――
メイナードを見据えながら、ティースは最初に踏み出した一歩で右足首の骨が砕けたことを自覚していた。
彼の全身を巡る風の神気、それによって増幅された細波の魔力は、とても人間の容量で飲み干せるようなものではない。
一秒ごと、すでに体の崩壊は始まっていた。
(右足は、もうダメだ……だけど)
それでも戦いに影響はない。今、ティースの体は全身を巡る超大な風の魔力によって動かされている。極端な話、命令を出す脳さえ生きていれば戦える状態なのだ。
ただ、それもいつまでもつかはわからなかった。
それでも。
一分あれば。
ティースは最初の一撃に確かな手ごたえを感じていた。油断していたとはいえ、メイナードはティースの動きにまったく対応できていなかったのだ。
今、この瞬間に限っては、ティースの力がメイナードを上回っていたのである。
そうとなれば、一秒も無駄にはできない。
ティースが地面を蹴る。一息の半分ほどの時間で十数メートルあった間合いが一気に詰まった。
その動きはまさに疾風。同じく風のごとき剣閃がティースの手から放たれた。
が、しかし。
「その、力……!」
今度はメイナードの体に刃が届くことはなかった。メイナードは片腕の短剣でティースの一撃を弾くと、油断なく反撃の体勢を整える。苦悶の表情を浮かべ、今、余裕の笑みはどこにもない。しかしそれでも、メイナードは戦いの姿勢を崩していなかった。
それだけではない。
「それは人間が御しきれるような力じゃない……その限られた時間で、この俺の命を奪えるか……」
「!?」
メイナードは風姫の鎧の特性をも即座に見抜いていたのだ。
ここに来てティースは目の前の敵への評価をさらに上方修正せざるを得なくなった。ただ見下し、圧倒するだけではない。劣勢にあってもその精神力には翳りがなかった。
メイナードが目を見開く。
その瞳が真紅の輝きを放った。
「試してみろ! ティーサイト=アマルナぁぁ――ッ!!」
「ッ……!」
迸る闘気を前面に押し出し、自ら踏み込んで攻勢に出たメイナードに、ティースも怯むことなく応える。
「望むところだ、メイナード――ッ!」
ティースが吼えた。
疾風のように、五月雨のように、風姫の鎧の力を借りたティースの腕から高速の斬撃が断続的に繰り出される。熱を帯びた全身は痛みを完全にシャットアウトし、ただ前へ、前へとその体を突き動かしていった。
全身全霊をもって、目の前の最悪の敵を倒せ、と――
「っ……ふふ……はははッ!」
メイナードがそれを耐える。無敵の男が今、瞬間的とはいえ自らを上回る敵を相手に、すべての能力を駆使して凌ぎきらんとする。初めて立つ、勝負の分岐点。それが冷静なメイナードをいつになく高揚させていた。
剣戟の音が共鳴し、怪鳥の鳴き声のように変化して青天に響き渡る。
そして――
無限に続くかと思われた数十秒に、終焉が訪れる。
(時間が……ない……ッ!)
ティースの体はもはや風姫の鎧がなければ直立を維持できないほどに壊れていた。足、腕、指、関節のもろい部分から骨が砕け、肉体の容量を超えた魔力が内側から皮膚を裂いていく。体中が血まみれになり、目は血走って、まるで地獄の鬼のような形相になりつつあった。
それでも。
「これで……!」
左手の短剣と“弾性空間”を駆使して耐え続けるメイナード。そのメイナードをさらに一歩上回るティースの剣が徐々にその体に届き始めていた。
右腕からの大量の出血に加え、緩むことのない攻撃にメイナードの体力も徐々に限界を迎え、その動きも鈍くなりつつある。
それでもまだ。
あと一歩。
あと数秒。
勝負の境界で天秤が揺れ続けていた。
「これで――ッ!」
そして、ついに崩れるメイナードの防壁。
ティースの剣がメイナードの短剣を絡めとり宙に弾き飛ばした。
ジャスト一分。
踏み込み、斬り下ろしたティースの剣に対し、メイナードが“弾性空間”を発動させる。
拡張か、それとも収縮か。
(よく、視ろ――ッ!)
ティースの瞳が時を刻む。
失敗は許されない。
刻まれた時の断面――時間の止まった世界が彼の手中に落ちた。
歪む空間。
――離れる間合い。
「うぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」
衝突の瞬間、ティースは右手を剣の柄から離し、左手を緩めて握りの位置を柄の先端へとずらした。後のことは考えずに最大限に体を伸ばしきり、体内に残ったすべての力を左手へと込め、細波を振り下ろす。
わずか十数センチの延長。……しかしそれで充分だった。
メイナードの苦悶の声と、僅かに遅れて飛び散った鮮血。左手に伝わったのは勝利の感触。
「ぉぉぉぉ――ッ!!」
そのまま、細波の切っ先がメイナードの肩口から腰にかけて深く斬り裂く。
「っ……ぐ……ぉ……ッ!」
「はぁっ……うく……っ……!」
メイナードの苦痛の声と、ティースの荒い呼吸が重なった。
その直後。
タイムリミットが訪れる。
「う……っ!」
ティースの体を覆っていたエメラルドグリーンの光粒が天に昇るように四散する。その体内を巡っていた魔力も同時に消え、ティースは自らの体を支えきれなくなって崩れるように前のめりに倒れた。
「その、目……!」
一方、先に地面に伏した勝者を見下ろしながら、メイナードが後ずさっていく。
一歩、二歩。ぼたぼたと赤い血の塊が地面に落ちる。肩から腰にかけての傷は内臓に達し、明らかに致命傷だった。
メイナードの赤い瞳が、その輝きを失っていく。
「良い才能、だ……いずれは、借り物でなくとも……!」
こぽっ、と、その喉から赤い血が溢れる。
「いずれにしても、見事だ……った……ティー……サイト……」
地面に伏したままどうにか顔をあげたティースの視線の先で、メイナードの体がゆっくりと仰向けに倒れていく。
「君の、勝ち、だ――」
天に向かって発せられたのは勝者を讃える声。
どこか安らかにさえ思える表情で、メイナードは地面に崩れ落ちたのだった。
――どの程度の時間が経っただろうか。
「……ス」
耳元をくすぐるような声。
冷たい土の感触がティースの頬に蘇った。
「……ティース」
自分の名を呼ぶ声。意識が覚醒する。
「う……」
全身を支配する鈍い痛み。冷たく乾いた空気。ティースはいつの間にか意識を失っていた。とはいえ、その時間はどうやら数分。空気に混じった血の匂いはまだ薄くなっておらず、戦いの熱の余韻が色濃く残されている。
うつぶせに倒れたティースの視界には、女性の足首が映っていた。
「……シーラ、か? ……よかった。無事だったか……げほげほっ!」
風が巻き上げた土埃が気管に入ってむせる。その振動で激痛が全身を駆け巡った。
「静かに。動かないで」
そんなティースの目の前で、ふわり、と、スカートが踊る。
シーラがそこに膝を付いたのだ。
「ひどい怪我よ。どこから手当すればいいのかわからないぐらい」
「お前だって……怪我、してるじゃないか」
ティースは一瞬目に入った彼女の太ももから視線をそらし、スカートについた乾ききっていない血の跡を見る。
「別に斬られたわけじゃないもの。かすり傷よ。とにかくじっとしてて」
「……悪い」
そっと呟く。返事はなかった。
もう一度。
「悪かった。シーラ。お前を戦いに巻き込んじまった」
「何も悪くないわ」
返ってきたのは、少し怒ったような声だった。
「私が自分で巻き込まれにきたのよ。……でもダメね。こういうの悪魔の誘惑っていうのかしら」
シーラの左手には黒い背表紙の本がある。
“光と闇の魔導書”。……そんな物騒なものがなぜ彼女の手に渡ったのか。本来ならすぐにでも追及すべきことだったのかもしれない。が、今のこの状況では後回しにせざるを得なかった。
シーラが独り言のように続ける。
「簡単に手に入る力なんてロクなものじゃない。……この本のことは帰ってからファナに相談したほうがよさそうね」
「帰ってから――」
ああ、そうだ、と。
その言葉を聞いてティースはようやく実感した。
自分は勝った。
帰れるのだ――と。
「シーラ。エルはどうしてる……?」
「気を失ってるわ。カルヴィナさんも同じ。意識があるのは私とお前だけよ。今できる限りの手当はしたけど、私だけじゃとても町まで連れて戻れないわ。リィナが助けを呼んでくるのを待つしかないわね」
会話しながらも、シーラの手はどうやらティースの怪我の状態を探っているようだ。顔を動かすこともできず、ティースは目の前でもぞもぞと動く彼女のスカートをぼーっと見つめていた。
沈黙が訪れる。
風。微かな衣擦れの音。体に優しく触れる指先の感触。
「……なぁ、シーラ」
ふと、ティースは口を開いた。
「なに?」
「お前、本当にカザロスに帰っちゃうのか?」
「……こんなときに、どうしたの?」
「いや……」
本当にどうしたのだろうか、と、ティースは自問する。そして自問しながら、答えが出ないままに言葉だけ繋いでいった。
「本当はさ。別にカザロスに帰らなくてもいいんじゃないかって思ってたんだ。でも俺、お前の邪魔だけはしたくないと思って。……ずっと言うの我慢してたんだよ」
「知ってた」
「え?」
「だから言ったでしょ。お前は本当に優しい男だって」
その台詞。
まるで舞台の上のようだった、雪の降る、あの夜。今までに見たこともない、黒水晶のように凍りついた目で。確かに彼女はそう言っていたのだ。
また沈黙。
やがて、優しいトーンの声が続いた。
「私も悪かったのよ。自分でもよくわからなくて。当然よね。私は自分が誰なのかもわからなくなっていたのだから」
「……?」
そんなシーラの言葉はティースにはまったく理解できないものだった。ただ、彼女のほうもそれは承知の上だったようだ。
さらに続ける。
「あのとき、お前のそういうところは嫌いじゃないって言ったけど、それは半分本当で、半分は嘘よ。お前が私のことを大事にしてくれてたのは知ってるし、感謝もしてる。でも……それは私の望みじゃなかった」
痛む体を懸命に動かして、ティースは視線を上に向ける。
視界の端。
シーラもまた、彼のことを見つめていた。
そこにあったのは、どこか懐かしい色の瞳。
かつては、毎日のように向けられていた親愛の情。
目を細めてシーラは言った。
「私はね、ティース。……本当は、お前に――」
――そんな彼女の言葉を遮るように、不吉な矢羽の音が空気を切り裂いた。
「!? シーラ! 伏せろッ!!」
「え?」
顔色を変えてそう叫んだティースの声に、シーラはまったく反応することができなかった。
風を巻いた凶音は一直線に彼女の背中を目掛け、そして。
「ッ――!!」
目を見開く。
右胸から血を吹き出しながら、シーラの体がゆっくりと横に崩れ落ちていく。
「シーラッ!!」
ティースの絶叫に、彼女のうめき声が重なった。
右胸――いや右肩か。そこから生えていたのは矢じりだった。彼女の背後から飛んできた矢が右肩を貫いたのだ。
そして、声。
「こいつはまた、予想外の展開じゃないか」
足音。
一歩、一歩と近付いてくる男の気配。
「貴様、は……」
「よぅ、ティース。久しぶりだな。つってもちょっと前に追い回されたばかりだったか」
「シアボルド=マティーニ……!」
右手に弓。左手に三本の矢を携え、腰にはやや短めの剣。呑気そうな声はあのデビルバスター試験のときと同じだったが、その格好はかなり違っている。
「ひでぇ姿だろ?」
と、シアボルドは自嘲気味にそう言った。
顔にはいくつもの新しいアザが残って腫れ上がり、右目はほとんど閉じたような状態。表情は呑気なその口調とは裏腹に怒りの色に染まっている。
「お前のお仲間のデビルバスターにとっ捕まっちまってね。暴力で白状させようなんざ野蛮なやつらだよ、まったく。……ホントなら連中に仕返ししてやりたいところだったが」
そう言ってシアボルドは辺りを見回し、どうやら地面に倒れるシュナークとカルヴィナの姿を認めたようだ。
「どっちも殺されちまったみたいだな。お前さんがメイナードの野郎を返り討ちにするとは信じられん結果だが、まあいいさ」
シアボルドの足がティースの眼前まで近付き、その脇に落ちていた黒い背表紙の本を拾い上げる。
「こいつさえ手に入ればな。……さて」
にやり、と、シアボルドが笑う。手にしていた弓矢を放り投げ、右手で腰の短剣を抜いた。
「あの二人にやられた分はお前さんに払ってもらうとしようか。メイナードを倒したデビルバスターを仕留めたとなりゃ、俺の名前にも箔がつくってもんだ。そう考えりゃ、多少痛い思いをしたことも報われるってもんだ」
「く……!」
ティースは体を起こそうともがいたが、まるで力が入らない。体を支える構造が完全に壊れているのだ。いくら気力を振り絞っても物理的に起き上がれない状態だった。
そんなティースを見下ろしながら、シアボルドは嬉しそうに口を開く。
「まあ俺も鬼じゃない。痛めつけてから、なんてことはしないさ。なんたってお前とはデビルバスター試験を一緒に戦った仲だからな」
「この……卑怯者が……ッ!」
「奪えるものは奪う。利用できるものは利用する。これが賢い世の渡り方さ。お前みたいに馬鹿正直な男には一生理解できんだろうが――」
ピタリ、と、シアボルドの言葉が止まった。
そして視線がゆっくりと、怪訝そうに動く。
「……何の真似だ、お嬢ちゃん?」
「シーラ!?」
ティースの眼前に割り込んだ人影。
血に染まった右肩を荒い呼吸で大きく揺らしながら、シーラがティースを守るようにシアボルドの前に立っていた。その手には長さ十センチほどのナイフ。……彼女がよく身に着けている儀礼用の装飾品だ。刃すらついていない。
だが、シーラは血に染まった左手でそれを構え、シアボルドを睨み上げていた。
「よくは、わからないけど……」
右肩からは出血が続いている。急所は外れているようだがその付近だ。決して軽傷ではない。
「さしずめ、漁夫の利を求めてやってきたハイエナってところかしら……確かに、いかにも醜悪そうな顔をしているわね」
ピク、と、シアボルドの眉が動く。
「おい、ティース。こいつはなんだ? お前の女か?」
「……シーラ! 無茶はよせ!」
問いには答えず、ティースはシーラの背中にそう叫んだ。
シアボルドはこれでもデビルバスター試験に挑み、第三試験のサバイバルを生き残るほどの実力者だ。いや、そうでなくとも。非力で負傷もしているシーラがどうにかできるような相手ではなかった。
ふぅん、と、シアボルドが舐めるようにシーラの全身を眺める。
「よく見りゃいい女じゃないか。羨ましいこったな、ティース。こんな上玉と毎晩ベッドの中で語り合っていたのかい?」
そんなシアボルドの視線にも怯むことなく、吐き捨てるようにシーラは言い放った。
「……下衆が。お前の汚い物差しで私たちを計ろうとしないで。おぞましい」
「口が悪いな。こういう女のしつけはきっちりしとかねぇとな。ティースよぉ」
「く……」
ティースは唇を噛んだ。
絶望的な状況だった。エルレーンもカルヴィナも意識が回復しそうな気配はない。それに負傷している彼女たちが目を覚ましたところでシアボルドを止めることができるかどうか。リィナたちが戻ってくることも、あと数時間は期待できないだろう。それだけの時間稼ぎをする手段は思い当たらない。
それはおそらくシアボルドにもよくわかっていたのだろう。
「よぅし、いいことを思いついたぞ」
シアボルドは余裕のある表情で、シーラの喉元に短剣の切っ先を向けた。
「チャンスをやろう。俺の言うとおりにすれば、あるいは気が変わってお前らを見逃してやるかもしれない」
ゾ、という怖気がティースの全身に走った。醜悪で、邪心に満ちた意思。シアボルドの言葉にはそういった類のものが満ち溢れていたのだ。
そして、シアボルドは言った。
「女。そこで服を脱げ」
「……!」
シーラが息を呑んだ。
「……ふざけるな! シアボルドッ!」
「お前は黙ってなぁ、ティース! 俺はこいつみたいに澄ました顔をしている女が大好きでなぁ」
「……」
チラ、と、シーラがティースを振り返る。
絶え絶えの荒い呼吸。気丈に振る舞う彼女の体力も限界が近付いているようだった。
鼻を鳴らし、シアボルドが短剣の切っ先をシーラの喉元で揺らす。
「さあ、どうする? お前の態度次第じゃ二人とも生きて帰れるかもしれないぞ?」
「よせ、シーラ! こいつはそんな生易しい人間じゃ――ッ!」
「てめぇは黙ってろって言ってんだろうがッ!!」
怒声を発し、シアボルドがティースに向かって足を振り上げる。
「やめなさいッ!!」
シーラの叫びにその足が止まった。
シアボルドは口元をゆがめる。
「……ほぅ。いい顔だな」
決意の表情で、シーラはシアボルドを睨みつけていた。数秒の沈黙。やがてシーラは左手に持っていた儀礼用の装飾ナイフを地面に落とし、血に汚れた左手を上着の裾にかける。
「よせ! シーラ!」
「……ティース」
ティースの悲痛な叫びに、シーラの手がピタリと止まる。シアボルドは眉を動かしたが、急かそうとはしなかった。彼らが葛藤するその様をも楽しんでいたのだ。
「さっきの続き……聞いてくれる?」
「え……?」
もう一度、シーラがティースを振り返った。その額には脂汗が浮かび、顔は青ざめている。
それでも。
そこにあったのは先ほどと同じ、親愛の瞳。
その口元には微笑さえ浮かんでいて。
「私の望みは、お前に大切にしてもらうことなんかじゃなかった。お前になにかをして欲しかったわけじゃないの。私は、ただ」
そう言って、きゅっ、と、左手を軽く握り締める。
「……お前に必要とされたかった。お前の役に立ちたかった。お前に求められたかった。昔からずっと、ただ、それだけ――」
「!」
「お前に辛く当たってしまったのも、何もかもが思い通りにいかなくて拗ねていただけだったみたい。……難儀なことだわ。我ながら」
「シーラ、お前――」
ティースの脳裏に、いくつかの記憶が蘇る。
……いつもそうだった。シーラのことを思って行動しようとすると、彼女はよりいっそう不機嫌になった。大切に思い、大事にして、そのためにティースが身を削ろうとするたびに、彼女に理不尽に冷たくされた。
理不尽? いや、そうではない。
彼女には彼女なりの理由があった。それが合理的だったかどうかは別にしても。役に立ちたい自分が負担になっているという現実に、彼女は無自覚ながらもずっと心を削っていたのだ。
「シーラ……」
ティースの目に涙が溢れた。
それは、この状況に対する絶望の涙か。
彼女の気持ちを察することができなかった自分への嘆きか。
あるいは。
ここにいたって、僅かばかり心が通ったことへの喜びだったのか。
ティース自身にもその答えはわからないまま。
そんなティースに、シーラはもう一度微笑んだ。
「……不本意な形だけど、最後に言えてよかったわ。本当はまだ謝らなければならないことがあったんだけど、それはどうも叶わないみたい。ごめんね、ティース。……今まで、ありがとう」
そう言って、シーラは正面に向き直った。
そしてティースは気付く。
シーラが左手で掴んでいたもの。それが上着の裾ではなく、腰にぶら下げた袋だったということに。
「……シアボルド、といったわね。せっかくの機会よ。その薄汚れて濁った目をよく開きなさい」
シーラの左手が動く。
シアボルドはその瞬間まで、それが服を脱ごうとする動作だと信じて疑っていなかった。……非力な少女。右肩を負傷し、唯一の武器だったナイフも手放した。そんな彼女に抵抗の意思、抵抗の手段が残っているとは想像できなかったのだ。
そして宙を舞う、紫色の粉末。
「な――」
異常に気付いたシアボルドが一歩後ずさる。が、それよりも早く、風に乗った粉末がシアボルドの顔面に降りかかった。
「ッ……なんだ、こいつぁ……ッ!」
目と鼻の粘膜を襲う激痛。
「く……この、女ッ!」
シアボルドは突進してくる気配に気付き、痛みに耐えながらも右手の剣を正面の気配に向かって振るった。
シーラがまずその武器を奪いに来るだろうと、そう考えたからだ。
が、しかし。
彼女の狙いはそちらではない。
「悪いけど――」
シアボルドの剣先がシーラの左頬をかすめ、そこから新たな鮮血が飛び散る。一瞬顔をしかめたが、それでもシーラは怯むことなく前に出てシアボルドの左手へと腕を伸ばした。
そこにあった、黒い背表紙の本へ。
「私もティースも、外道に命乞いするような生き方は知らない。助平根性が仇になったわね」
――瞬間。
“光と闇の魔導書”が、再びその力を解き放つ――
迸る、光と闇の魔力。
翻る、二枚の翼。
「うぉぉぉぉぉ――ッ!?」
その力の余波だけで、シアボルドの体は数メートル後方へと吹き飛んだ。
一気の形勢逆転。……そう見えた。
が、しかし。
「っ……」
シーラの右肩から勢いよく血が吹き出す。
「……シーラ、無茶だッ!」
もともと彼女の体は先のメイナードとの戦いで限界に達していた。これ以上、その膨大な魔力に耐えられるはずがない。
力を使った瞬間に、彼女の体は崩壊するだろう。
それでも――いや。
それは彼女自身にもわかりきっていたことで。
「シーラ……!?」
止めようとしたティースの鼻腔をくすぐる、微かな甘い香り。
「なん……だ……これ……?」
意識が急に遠くなっていく。不自然なほどの眠気。
体力が限界に達したのか、あるいはシーラが何らかの薬品を用いたのか。
その真偽を問い詰めることもできないまま。
ぼやっとした意識の中に、シーラの声が反響する。
「……あとは私に任せて、ティース。お前は少し休みなさい……」
「シー……」
そんな彼女の背中には、死に向かう者特有の悲哀が漂っていて。
それを察していながらも。
「……ラ……」
ティースにはもはや、抵抗の力は残されておらず。
意識は、そのまま闇の中へと落ちていく。
その、間際。
――――ちりん。
ティースは暗闇の中で、どこか懐かしさを覚える、澄んだ鈴の音を聞いていた――。