その8『弾性空間(サイズマスター)』
――心が波立つ。
何故? どうして? と。
「“焦った”な? シュナーク=フォルリッチ」
見上げた視線の先、そこには“影神の右腕”の拘束から解放されたメイナードの姿があった。
……解放された?
いや、違う。解放してしまったのだ。
「この力、効力を保つためには使用者側にも条件があるらしい。これまでの態度を見る限り、使用者も心を乱してはいけないみたいだな」
「っ……」
シュナークは即座に心を平静に保とうとしたが、もう遅い。千載一遇のチャンスはすでにその手を離れた。メイナードの拘束は解かれてしまったのだ。
「一瞬ながら久しぶりに死を意識した。シュナーク。君の名前は間違いなく私の心に刻まれることだろう」
高揚の言葉とともに迫る凶刃。そこは必死の間合いだった。二人の間に確かに存在する実力差は、もはやシュナークに抵抗する余地すらも残していない。
……何故?
再び浮かび上がるその疑問。それこそがシュナークの心を揺らし、メイナードを捕らえていた拘束を解いてしまったのだ。
“影神の右腕”の力で動けないメイナードを切り裂いた一撃。切り裂いた“はず”の一撃。
その一撃が空を切ってしまった理由。
目に見えないほどの高速で避けたとかではない。シュナーク自身が幻覚に捕らわれていたということも考えられない。視覚だけではなくそれ以外の感覚のすべてが、メイナードの肉体が確かにそこに存在していたことを証明していたのだ。
なのに、何故。
考えられるとすれば――
刹那に思考が巡る。
……剣。
辿り着いた先は左手にある彼の武器だった。……とてつもなく馬鹿馬鹿しい話ではあったが、メイナードを斬ろうとしたその瞬間だけ、剣身がどこかに消失してしまったのだ。その現象を説明するには、そうとしか考えられない。
いや、あるいは――
視線を上げる。
迫る凶刃。必死の間合い。
まさか――と。
直後、シュナークは目の前の敵が持つ力の特性を思い出し、そして真相に至った。
「“弾性空間”」
メイナードもまた、シュナークがその力の正体に達したことを悟り、満足そうな笑みを浮かべる。
シュナークは観念して剣を手放し、目を閉じた。
「この能力のことを知って生きているのは一人だけだ。そして今、すぐにゼロになる」
振り下ろされる刃。避ける術はなく。
高原の空を旋回する怪鳥の鳴き声に誘われるように、血しぶきが空に舞った。
――怒りとやりきれなさがティースの胸を交互に行き交っている。
「レナとグラハムはあれでなかなかに優秀な部下だったんだけどね。どちらも思った以上にちゃんとしたデビルバスターだったようだ」
そう言ったメイナードの右手の剣には赤いもの――生命の証がこびりついていた。その足もとにはシュナークが倒れている。
「……先生」
ポツリ、と、カルヴィナがそう呟いた。必死に抑えている。ここで激情に駆られてはいけないことを理解しているのだ。
ティースもそんな彼女の視線を追うように、地面に伏したシュナークに視線を向けた。うつぶせに倒れた体の下には赤い血が広がっている。距離があって生死までは確認できないが、流れたであろう血の量や、メイナードが勝負を終えた体勢であることなどから、すでに事切れているのだろうと予測できた。
メイナードが足もとに目を向ける。
「何年ぶりだったかな。俺に挑むに足る実力者だった」
そう言いながら剣に付いた血を拭った。
「ただ、それでもまだだいぶ足りなかったか。結局、俺の体には一太刀も届くことはなかったね」
無傷。
その言葉が、ティースたちの間に絶望の空気が生む。
シュナークが優秀なデビルバスターであることは、弟子であるカルヴィナはもちろんのこと、ティースも話に聞いて、また実際に接することで充分に理解していた。
そんな彼でさえも、無傷で退けるほどの敵。
勝てるのか。可能性として、ほんの僅かでも勝ち目はあるのか、と。
「……ティースさん」
おそらくはカルヴィナも同じことを考えていたのだろう。そうして考えた末に小さな声で呟くように言った。
「今からでも引き返してください。先生が一太刀も浴びせられなかった相手では、いくら二人がかりでも勝ち目はありません」
だが、ティースは即座に返す。
「いや、ダメだ。勝ち目はゼロじゃない。でも君一人だときっとゼロになる」
そう言いながらも、本当にゼロじゃないのだろうか、と、再び自問する。簡単に答えは出ない。複数の敵を相手にしたときにメイナードがどういう対応をするのか予測できないからだ。対複数の戦いに慣れていないという可能性も否定はできない。
ただ、どちらにしても薄い確率だろう。
そんなことを考えていたティースに、カルヴィナが続けて言った。
「メイナードは女性を殺せないらしいです。だから私だけ残れば、どちらも生き延びられる可能性があります」
「……そんな馬鹿な」
と、ティースは疑いの目をカルヴィナに向けた。
自分を逃がすためのとっさの嘘だと思ったのだが、ふと考え直し、本当かもしれない、と思った。
これまで深く考えなかったことではあったが、もしカルヴィナの言葉が本当だとすれば、一度メイナードと相対して兄弟子を失った彼女が、それほど大きな怪我もなくこうして健在であることに説明がつくのである。
ただ。
「……どっちにしてもダメだ。もともとあいつの標的は俺だし、女性を殺せないとしてその理由はわからないけど、それで標的を逃がしてしまうほど間抜けなやつとは思えない」
「それは……」
カルヴィナは言葉に詰まった。そう。彼女とてメイナードのことをそれほどよく知っているわけではない。女性を殺せないといって見逃されたのが、メイナードの気まぐれだったという可能性もあるのだ。
それはティースにもわかっていて。
「戦って、勝つしかないんだ」
今は逃げることを考える場面ではない。いや、逃げ出すのなら、そもそもここにやってくるべきではなかっただろう。
その意思を示すように、ティースは細波を握り締めて構えた。出し惜しみをする必要はない。する余裕などもちろんない。最初から持てる力のすべてをぶつけるのだ。そうでなければ勝つどころか、まともな戦いにすらならないだろう。
「……ごめんなさい。私も全力を尽くします」
そんなティースの態度を見て思い直したのか、カルヴィナもそう言って武器を構えた。
逆にメイナードが意外そうな顔をする。
「逃げないのか? どちらも一度は戦って俺の力を知ってるはずだけど」
感心したような声をあげ、それから少し思案するような仕草を見せた。
なんだ、と、ティースが疑問の言葉を発する間もなく。メイナードがゆっくりと後ろに下がっていく。
「逃げるつもりがないのなら五分ほど時間をあげよう。その男を弔ってやるといい」
「……貴様、ふざけた真似を」
そんなメイナードの言葉にカルヴィナが激昂寸前の声を出した。ずっと抑えてはいるようだったが、師と兄弟子を奪った相手に対する彼女の心情は察するに余りある。
だが、メイナードは笑いもせずに答えた。
「俺は信心深いのでね。無理にとは言わないが、魂が抜けてしまう前に別れの一言でもかけてやったらどうだ?」
そう言いながら、メイナードはそれが本気であることを示すようにさらにシュナークから離れていった。
(……本気か?)
ティースは何かの罠だろうかと考えたが、すぐにおそらく違うだろうと思い直した。そもそもメイナードは、ティースたちのことを小細工が必要な相手とは認識していないはずだ。
「……カルヴィナ」
だったら、と、ティースが促す。カルヴィナは少しびっくりした様子でティースを見たが、やがて悔しそうに下唇を噛みながらゆっくりとうなずいた。
時間を稼ぐ意味はほとんどない。ただ、同時に戦いを急ぐ必要もないのだ。シュナークを弔うことにデメリットはないはずだった。
二人はメイナードの動きに警戒しながらシュナークに歩み寄っていく。メイナードはじっとしているだけでまったく動く気配はなかった。
(……シュナークさん)
つま先が血だまりに触れて、ティースは視線を足もとに向けた。ゆっくりと屈みこんで首筋に手を当てる。その指先には一縷の望みを込めていたが、残念ながらシュナークは完全に息絶えていた。
「っ……!」
カルヴィナの息を呑む音が微かに聞こえたが、ティースはそれには反応せず、遺体の全身へと視線を伸ばしていく。
体にはメイナードとの戦いの証である複数の傷があったが、ほとんどはかすり傷だ。ただ一つ、左のわき腹から心臓にかけて内臓がむき出しになるほどの巨大な裂傷があり、それが死因だろうと思われた。ほぼ一撃で死に至ったのだろう。
(……でも、いい戦いはしていたはずなんだ)
その他に目立つ傷がないことがそれを証明している。細かい傷も、シュナークがある程度メイナードの攻撃を捌けていた証拠なのだ。
にもかかわらず。
少し不自然だな、と、ティースは思った。
致命傷となったわき腹から心臓にかけての傷は、その遺体に残されたほかの傷と比べて不自然なほどに深く、広すぎる。しかもその位置からの攻撃を防ごうとすれば自然と左手が出るはずなのに、その腕には傷らしい傷が見当たらなかった。防御しようとした跡がないのである。
それはまるで、まったく気付かないところから攻撃された――不意打ちを受けたかのような傷に見えた。油断していればありうることなのかもしれないが、シュナークほどの使い手が、メイナードほどの相手との戦いの最中に、そんな致命的な油断をするとも思えない。
じゃあ、何故?
疑問がティースの頭の中を渦巻く。重要なことではないのかもしれないが、妙に気になった。
そして、さらに。
「どうして……」
カルヴィナが、同じく疑問の呟きを発した。
「こんなこと、ありえないはずなのに……」
「カルヴィナ?」
傷を観察していたティースと違い、カルヴィナの視線はシュナークの右腕、包帯型の神具“影神の右腕”へと注がれていた。
ティースもその視線を追い、そして気付く。
(……包帯が黒ずんでる?)
土で汚れたのだろうかと思ったが、どうやら違う。土ではなく、黒い靄のようなものがまとわり付いていたのだ。
ティースの疑問にカルヴィナは答えた。
「……発動の痕跡です。この神具が発動して負けるなんて考えられません」
「どういうことだ?」
と、ティースは小声で尋ねる。
「詳しいことは私も聞かされていません。ただ、この神具の効果は“絶対的な拘束”だと聞いています。発動条件はそれなりに厳しいそうですが、でも、この神具にはこのとおり発動した跡が残っています。その時点で敵は完全に動けなくなっているはずなんです」
黒い靄は、その神具がまとっていた魔力の残り香らしかった。
「なのに、先生が負けただなんて……」
カルヴィナの言葉の語尾が震える。彼女の思考はシュナークが負けたという事実のほうに傾きすぎて、疑問を追及する方向にはあまり回っていないようだ。
だが、ティースは違った。
二つの違和感。それはもう、偶然ではないような気がして。
(少なくとも……)
ゆっくりと上げたティースの視線が、遠くで眺めているメイナードの姿を捉えた。
(あいつはなにか隠してる。戦いの結末を決定付けるほどの重大な何かを……)
それはなんなのか。せめてその答えに繋がるヒントだけでも見つけ出さなければ、万が一にも勝ち目はない、と、ティースは直感的にそう感じていた。
そんな彼らに向かってメイナードが言い放つ。
「あと一分。もちろん君たちが望むならもう再開しても構わないよ」
「く……」
そんなメイナードを睨みつけ、ティースは再びシュナークの遺体に視線を落とした。焦燥感が芽生える。なにかないのか、と、視線をさまよわせた。
そして、ふと。
「……カルヴィナ。これは?」
「え?」
うつむいていたカルヴィナが顔を上げ、すぐにティースの目線を追う。
ティースが見ていたのは力なく地面に横たわっていたシュナークの左手だった。そこに握られていたはずの剣は地面に落ちている。
「これは……」
カルヴィナが目を見開く。
奇妙なのは、シュナークの左手の形だった。中指と薬指の二本が内側に折れ、人差し指と小指だけがピンと立っている。直前まで剣を握っていた手が自然にこんな形になるなんてことは考えにくい。
とすると、なにか意味があるんじゃないのか、と、そう考えたティースに、カルヴィナがポツリと呟いた。
「“間合いを計れ”」
「え?」
聞き返したティースに、カルヴィナもやはり腑に落ちない表情で続けた。
「稽古の指示を出すとき、先生はよく独自のハンドシグナルを使っていました。これは相手との間合いを大事にしろという指示です。でも、なんでこんな……」
「間合い?」
呟きながらティースは再びシュナークの左手に視線を落とした。
ハンドシグナル。もしそれが、シュナークが敗北を確信した瞬間、一か八かの防御にも優先してカルヴィナに残したメッセージなのだとしたら。
いや、状況からしてそうであると考えるべきだろう。
間合いを計ること。それは剣を用いて戦うティースたちにしてみれば基本中の基本。敢えて言われるまでもないほど当たり前のことだ。が、しかし。シュナークがこの場面でわざわざメッセージとしてそれを遺したとすると、そこには単なる心構え以上の意味があるはずである。
おそらくは、先の二つの違和感の解答に繋がる何か。
状況とシュナークが残したメッセージ。
それが導き出す答えは――
「そろそろだ」
メイナードが時間切れを宣告した。
ティースはゆっくりと立ち上がり、着ていたコートを脱いでシュナークの上に被せる。先生……、と、カルヴィナは最後にポツリとそう呟いた。
別れの時間が終わり、二人はシュナークの遺体から離れてメイナードと再び相対する。
「カルヴィナ」
滑り止めグローブをきっちりとはめ直し、細波を改めて握り締めながらティースはカルヴィナに言った。
「最初に会ったとき言ってたね。メイナードには当たったと思った攻撃が当たらない、って。……シュナークさんが遺したメッセージはそれに関することだと思う。たぶんシュナークさんもそれで敗れたんだ」
「!」
カルヴィナが驚いた様子でティースを見る。
ティースは、余裕の表情で彼らを見つめるメイナードを横目で見据えながら続けた。
「攻撃が当たらない理由は間合いにある。だけどシュナークさんほどの人が単純に目測を誤ったとは思えない。だとすれば、メイナードは“普通じゃない方法”で間合いを見誤らせることができるってことになる」
「……能力で間合いをずらしている、ということですか?」
カルヴィナもハッとした表情でメイナードを見た。
メイナードたち空魔は空間そのものを歪めたり、その空間に特殊な効果を持たせたりする能力を持つ。普通の空魔はそれを利用した衝撃波を放つぐらいしか芸がないが、一部、その特性を利用したレアな能力を開花させている人魔たちがいることをティースたちは知っていた。
ただ、カルヴィナはすぐには納得できなかった様子だ。
「仮にそれができたとして、気付けないものでしょうか。……あのときは」
と、以前メイナードと相対したときの記憶を辿っているようだった。
「攻撃が当たらなかったこと以外に変な感じはしませんでした。もちろんそういう能力の存在を意識していたわけではありませんが……」
その意見ももっともではあったが、ティースは答えた。
「左右にずらせば見た目に違和感があるだろうけど、前後、それも剣が当たるその瞬間だけ動くとしたら意識していないと気付けないかもしれない。俺たちもずっと剣先ばかり見ているわけではないから。……それに、剣を振り下ろしたりなぎ払ったりするときに、根元の部分を当てようとする人はいないだろ? 当てようとするのはせいぜい剣先から数十センチ。当たる瞬間、その一瞬だけ剣身と体の間の空間を数十センチ広げることができるとすれば……どうかな」
「……」
カルヴィナが無言でシュナークの遺体に視線を落とす。……彼が死の間際に遺したメッセージ。その意味を考えているのだ。
もちろんティースの意見とて推測の域は出ていない。ただ、状況を考えると結論はそれしかないと、少なくともティースはそう考えていた。
やがてカルヴィナが小さく頷く。
「……ティースさんのおっしゃるとおりかもしれません。いえ、ここに至ってはその前提に立ったほうがいいですね。少なくともそう大きく外れていることはないと思います」
彼女も最終的には、そんなティースと同じ結論に至ったようだった。
「ですが対抗手段は考えられますか? 自由に間合いを動かされたら戦いようがありません」
「その手がかりもシュナークさんが遺してくれたよ。……メイナードの胸元を見て」
カルヴィナの視線が動く。そして、あ……、という呟きが漏れた。メイナードの胸元は服が薄っすらと裂けて、そこから微かに肌が覗いていたのである。
「あいつは一太刀も浴びなかったと言っていたけどそれは嘘だ。シュナークさんの最後の一撃はあいつに当たっていた。かすめていたんだ」
「避けきれなかった、ということですか?」
「だと思う。“影神の右腕”が発動した直後の一撃を、あいつは能力を使ってギリギリで避けた、いや、避けきれなかった。だとすれば動かせる距離にはきっと限界がある。シュナークさんの武器の形状を考えれば、せいぜい五十センチとか六十センチ、きっと一メートルには届かないはずだ」
「……だとしても厄介です」
カルヴィナが厳しい表情を見せる。彼女が手にしている二本の剣はいずれも通常より短めだ。もしティースの推測が正しいとすれば、彼女の剣では根元から当てようとしてもメイナードの体には届かないことになる。突きなら体勢次第で可能性はあるが、相性が悪いことに変わりはなかった。
それならティースの武器のほうがいくらか有利だろう。
「カルヴィナ、傷は?」
「平気です。痛みもありません」
カルヴィナは淡々とそう答えた。エレオノーラとの戦いで負った傷は必ずしも軽傷ばかりではないように見えたが、今は痛みを感じている暇もないのだろう。
ティースも今は彼女の怪我のことを忘れることにした。それを気にしていて勝てる相手ではなく、そこは彼女の気力に賭けるしかない、と、そう考えたのだ。
「じゃあ君はあいつの気を引くことに専念してくれ。俺はどうにかして隙を見つける」
ティースの意図を察し、カルヴィナは黙って頷いた。
先ほどのエレオノーラとの戦いを見る限り、至近距離における剣技はティースよりもカルヴィナのほうが優れている。カルヴィナ自身はメイナードにまるで歯が立たなかったという認識だったが、それでも能力を使わせたことを考えると、少なくともティースよりは相手に脅威を与えたと考えるべきだろう。ただ、残念ながらカルヴィナの短い武器はメイナードの能力との相性が悪い。
とすれば作戦は一つ。カルヴィナが牽制に徹し、作った隙をティースが突く。それしかない。
(チャンスはきっと多くない。一度あるかないか……)
細波の剣身を見つめ、心を落ち着ける。
(……活かせなければ、負ける!)
それは一種の暗示だ。逃げ場をなくし、集中力を高める。
幸いにしてティースは、一瞬の隙を突くのに最適な特性を持っているのだ。
僅かな隙さえも見逃さない、時を刻む瞳を。
そして、戦いの火蓋は落ちる。
「じゃあ……カルヴィナ」
「はい、ティースさん」
呼吸をピタリと合わせて。
そうして二人は無双の敵、メイナードとの再戦へと挑んでいったのだった。
延々と続く下り坂。ティースと別れた後、シーラとエルレーン、そしてティースと同じ馬車に乗っていた四人の女性たちは、途中で障害に遭遇するようなこともなく、先にアグノエルの町へと向かったリィナたち一行の後を順調に追っていた。
そんな中。
「……羨ましい」
エルレーンの隣にいるシーラがポツリとそう呟いたのは、ティースたちと別れてから十分ほど経った頃のことだった。
「どうしたの、シーラ?」
エルレーンがきょとんとして隣を見ると、
「……え?」
シーラは一瞬だけ不思議そうに、そしてすぐにばつが悪そうな顔をした。どうやらそれは彼女にとって無意識の呟きだったようだ。
しばし黙った後。シーラは仕方なさそうに口を開いた。
「羨ましかったのよ。あなたのことも。あのデビルバスターのことも」
「デビルバスターってカルヴィナのこと? ……シーラ、前にもそんなこと言ってたよね」
そう言いながらエルレーンは少し離れて付いてくる後ろの女性たちの様子を確認した。彼女たちの顔には色濃い疲労の色が浮かんでいたが、戦場を離れて時間が経ったおかげか、周囲には安堵感のようなものも微妙に漂い始めている。
エルレーンはすぐに隣のシーラへと視線を戻した。……対照的だ。正面、ただ一点を見つめるシーラの横顔には仮面のように硬い表情が張り付いていた。
無理もない、と、エルレーンは思う。シーラにもわかっているのだ。ティースの向かった先が、彼にとっての死地になり得る場所であるということを。
シーラが続けた。
「今まで生きてきて、戦う力が欲しいなんて思ったこと一度もないのに。可笑しいわね」
「力になれないからってこと?」
「足手まといにはなりたくなかったわ」
「足手まといになんてなってないじゃない」
エルレーンがそう言うと、シーラはほんの少しだけ口元を緩めた。
「嘘おっしゃい。私がいなければあなたはティースと一緒に行ってた。違う?」
一瞬だけ言葉に詰まるエルレーン。
「否定はしないけど。でもキミだけじゃない。後ろの子たちもいたからだよ」
そうかもね、と、シーラは素直に頷いた。
坂の上から少し強い風が吹く。乾燥した土が一斉に宙に舞い、全員が思い思いの方法で顔を覆った。
「……あの」
と、一人の女性――四人の中で唯一よく口を開いていた気丈そうな女性だ――が、前を歩くシーラたちを呼び止めた。
「少し早足すぎませんか? 私たち、長い距離を歩くのに慣れてないものですから」
そんな女性の言葉に、エルレーンが答える。
「ゴメンね。まだ安全になったわけじゃないからもうちょっと頑張って。前の集団に追いつければ、あっちには傭兵さんもいるし、ボクらの仲間もいるから、そこまでの辛抱だよ」
わかりました、と、女性が下がっていく。他の女性たちは何も言わなかったが、まだ安全になったわけじゃないというエルレーンの言葉が効いたのか、不満というよりは仕方ないという空気だった。
「……追いつけるかしら」
シーラがそう呟く。もちろん後ろの女性たちに聞こえないように小声だ。
エルレーンが同じく小声で返した。
「リィナ次第だけど、周囲の安全が確保できたらボクらを待っててくれるかもしれない。……リィナの力は集団を守るのに適しているから、できれば早めに合流したいけど」
「そうね。リィナと合流できれば」
シーラが少し神妙な顔になる。
「……ねえ、シーラ」
そんなシーラの横顔を見ながらエルレーンは言い聞かせるように言った。
「もしキミがティースと一緒に戦えないことを悩んでいるなら、それは無意味だよ。そんなことをティースは望んでない。キミは誰よりもティースに大事にされているんだから」
「いつ……だったかしら」
「え?」
シーラは微かに顎を上げ、遠くを見つめる表情をした。
「本当の自分のことがわからなくなっているんじゃないかって、確かあなたに言われたのよね」
「うん。……そうだけど?」
「少しわかったのよ。最近のいろいろでね」
一瞬の沈黙。
ややためらいながら。ゆっくりとシーラの小さな唇が開いた。
「本当の私はね、エル。……あいつに大事にされたいなんてこれっぽっちも思ってなかった」
エルレーンは眉をひそめて、
「……どうして?」
「あいつが待ち合わせに遅れたとき」
雪の降る夜。
そのときのことを思い出そうとするかのようにシーラは目を閉じた。
「待ってる間はちっとも腹が立たなかったのよ。不思議なことにね。でも、あいつが息を切らせながら走ってきたのを見て、必死に謝ろうとするのを見て、嫌な気持ちになった」
「……」
エルレーンが困惑した顔をする。その反応は想像の範疇だったらしく、シーラはそんなエルレーンを横目で見ながら続けた。
「思い出してみれば前からそうだったわ。あいつが私のことで申し訳なさそうな顔をすると腹が立つの。私のことを必要以上に気にかける様が腹立たしくて仕方なかった」
「でもそれは、ティースがキミのことを――」
「わかってる。それはあいつが私のことを大事にしてくれるから。……私の中の妹は、本物のシーラはきっとそれを望んでいたでしょうね。……わかっているのよ」
深く息を吐いて、視線を落とす。
「でも私は違った。本当の私は」
言葉を止め、シーラが顔を上げた。促されてエルレーンも視線を正面に向ける。手を振っている人影があった。
周りに集まっている複数の男たちよりもひときわ目立つ長身の女性。リィナだ。どうやら追いついたらしい。
後ろの女性たちから小さな歓声が上がる。
そんな中。
「本当の私はね、エル」
遠くにいるリィナに手を振り返しながら、シーラはエルレーンに向かってそっと微笑んだ。
安堵ではなく。
どこか吹っ切れたような、意志を秘めた微笑み。
「あいつに大事にされたくなんてなかった。本当はもっと粗雑に、乱暴に扱って欲しかったのよ。……あいつの戦いを見て、そう気付いたの」
そんな彼女の懐で。
黒い背表紙の本が、開放されるそのときを静かに待ち望んでいた――