その7『戦いの結末』
剣を一合交わしただけでわかることがある。
メイナードはかつて、育ての親によって魔としての力を封じられ、人間に混じって剣を学んでいた時期がある。彼は決して純粋な剣士などではないし、魔としての力を戦いに使うことにためらいは微塵もなかったが、剣を振るうこと自体にはそれなりの愛着を持っていたし、戦いの始まりは必ず相手と剣を合わせることをポリシーとしていた。
そうして戦い抜くこと十数年間。
メイナードは最初に剣を合わせた段階で、相手の実力をある程度感じることができるようになっていた。最初に必ず剣を交えるという制限が、いつしか一種のアドバンテージへと変化していたのである。
そんなメイナードが新たな敵であるシュナークに抱いた感想は、
『明らかに別物』
だった。
ユアン、カルヴィナ、そしてティース。
ここ数日で立て続けに戦ったデビルバスターたちとは、明らかに違うステージに立っている。シュナークとはそういう相手だとメイナードは即座に感じたのである。
地を滑るように風が吹き抜けて、微かに残っていた煙を裾野へと運んでいく。
ティースたちが去った後、そこに残った二人の男はすでに十数合の剣撃を交え、今は互いに距離を置いて相手の出方を窺っている状況だった。距離は十メートルと少し。あと一歩近付けば、互いに一息で詰め寄れるほどの距離となる。
ここまでの攻防は一進一退。少なくとも傍からは優劣の付け難い戦いが続いている。
「悠長に休んでいていいんですか?」
起伏の少ない淡々とした穏やかな口調はシュナークだ。
「あなたの標的はティースくんでしょう? アグノエルに逃げ込んだらそう簡単には討ち取れなくなりますよ」
「……ああ、そうか。ずいぶんいいタイミングで助けに来たなと思ったらそういうことか。シアがヘマをしたんだな」
合点がいったという顔をするメイナード。
「ま、なんとなくそうなる気はしていたよ。アレは所詮、上に行ける器じゃないしね。彼、殺したのかい?」
言いながらメイナードの視線は、シュナークの力なくぶら下がった右腕へ注がれていた。全体を包帯に覆われた腕。ここまでシュナークがその右腕を動かす気配はなかったが、メイナードはそこに漂う異様な気配をすでに察知していたのだ。
その視線に気付きながらも、シュナークはまったく表情を動かすことなく答える。
「殺しはしません。構っているほどの時間もありませんでしたから」
「怖そうな見た目の割に、ずいぶんと甘い性格じゃないか」
ああ、そうだ、と呟きながら、メイナードは懐から厚手の布切れを取り出し、不自然なほどゆっくりとした動作で剣身を拭った。
「さっきの質問に答えようか。君の言うとおり俺の目的はティーサイト=アマルナの命だ。でも、まだ彼がここを立ち去ってから五分も経っていない。あっちで戦っている俺の部下たちも優秀だからね。そうだな……あと五分程度で君を片付ければ楽に追いつけるだろう」
「五分?」
シュナークは淡々と言った。
「五分も必要ないでしょう。あなたの弱味を引き出すにはあと二、三分で充分です」
「弱味? よくわからないな」
布切れを放り投げ、メイナードはようやく構えを取る。その視線はやはりシュナークの右腕に注がれていた。
「君のほうこそずいぶん消極的じゃないか。まさか命と引き換えに時間を稼ぎに来たわけじゃないんだろ?」
「そうではない、と、言った覚えはありませんね」
その言葉にメイナードはわずかに眉をひそめた。
……異様な気配を発する右腕と、思わせぶりな言葉の数々。状況の膠着について、この二つの要素は非常に大きな役割を果たしている。
これまで戦ってきたデビルバスターと明らかに別物とはいえ、それでも実際の力はメイナードがいくらか上だろう。少なくともメイナード自身はそう考えていたし、そもそもこのメイナードという魔にまともな一対一の勝負で勝てるデビルバスターがこの大陸に存在するのかどうか、それすらも検証を待たずに結論付けることは困難だ。
そのメイナードがここまで手こずっているのは、シュナークがまるで時間稼ぎのような守り主体の戦いを繰り広げているということに加え、前述した二つの要素が、単純な力押しで行くという選択肢を奪い続けていたからである。
実力差があるとはいえ、目を瞑ったまま勝てるほど容易い相手ではない。大きなミスがあれば敗北も考えられるからこそ、メイナードは疑心暗鬼になっているのだった。
一歩、距離が詰まる。動いたのはメイナードのほうで、守戦型のシュナークはその場から決して動こうとはしない。
さらに一歩。
「来ないのかい?」
挑発的なメイナードの言葉にもシュナークは何も答えなかった。もともとそういう戦闘スタイルなのか、あるいは本当に時間を稼ごうとしているだけなのか、メイナードには区別できない。
ただはっきりしているのは、シュナーク側に勝負を急ぐ理由は一つもなく、戦いが長引いて困るのはメイナードのほうだということである。
必然的に、再開の口火もメイナードが切ることとなった。
前に出るメイナード。
シュナークはその一撃を引き気味に受ける。
戦いながら、メイナードは挑発的な言葉を続けた。
「その右腕、使わないのかい?」
「なんのことです?」
「なにか隠しているんだろ? その腕が体と繋がっているうちに使っておいたほうがいいと思うけどね」
そんなメイナードの探りにも、シュナークは一瞬たりとも感情の揺らぎを見せることなく平坦に答えた。
「そんなことを気にしている余裕があるんですか? 殺し屋家業のあなたにとって、ターゲットを仕留め損ねるというのは許されないことなのでは?」
剣と剣が弾き合い、再び数メートルの距離が生まれる。
メイナードの顔からは余裕が消えていた。
「君の言うとおりだ、シュナーク。標的を取り逃がすなんてのはあってはならないこと。仕事上のことよりも、俺自身の矜持にかけて。無駄話はここまでだ」
「それは残念です。私は無駄話がそれほど嫌いではないのですが」
変わらずに淡々とそう言って、シュナークは攻撃に備えた。
次の一撃が、これまでと比べ物にならない苛烈なものになるのは誰の目にも明らかで。
「本当の勝負はこれからですよ、メイナード」
ピクリ、と、シュナークの右手の指が動く。
メイナードの足元の影が少しずつ大きくなっていた。
「あなたたち、大丈夫?」
先に行ったティースの後を追うように戦いの場を離れて、五分ほど経っただろうか。
シーラは後ろを歩く四人の女性たちを振り返ってそう声をかけていた。
「大丈夫……です」
答えたのは四人の中で唯一平常心を保っていた気丈そうな女性だった。他の三人も戦場を離れてから徐々に落ち着きを取り戻し始めていたが、それでも顔面は蒼白なまま唇は震え、視線を落としたまま黙々とシーラの後を付いてくるだけだ。もちろん彼女の問いかけに答えるほどの余裕もない。
シーラは頷いて再び正面に視線を戻した。
ティースたちが乗っていた二番目の馬車と、シーラたちが乗っていた最後方の馬車が襲われた地点の間は、距離にして一キロにも満たない。おそらくティースはもう向こうに到着して戦いに加わっている頃だろう。
「……あの」
初めて自ら口を開いたのはやはり気丈そうな女性だった。
「あなたたちはいったい? あの賊は……魔、ですよね。じゃあ……」
「あなたたちと一緒に乗ってた男はそうは見えないだろうけどデビルバスターよ。それと、あとから来た男はもっと強いデビルバスター。だから安心なさい」
と、シーラは答えた。もちろん彼女はシュナークのことはまったく知らないし、彼がデビルバスターであるというのもただの推測だったが、それが正しいかどうかは問題ではない。今は後ろの四人を安心させることがなにより重要だったのである。
そんなシーラの狙い通り、女性たちの間には僅かながら安堵の空気が広がっていた。
一般の人々にとってデビルバスターという単語はある種の魔法の言葉だ。遥か高みにあって自分たちを守ってくれるヒーロー。世の中にはそんな単純な認識を持っている者が多い。
ティースの態度などから、実際にはそれほど楽観的な状況でないことをシーラは悟っていたが、それはおくびにも出さなかった。
「じゃあ、あなたもデビルバスターさんの仲間なんですね」
そんな問いかけにシーラは少し意表を突かれる。
「仲間? いいえ、私は」
知人ではあるが仲間ではない、と、シーラは否定した。
しかし問いかけた女性は不思議に思ったようだ。
「でもあの煙幕はあなたがやったんですよね? デビルバスターさんもそれで助かったように見えましたけど……」
そんな女性の言葉をシーラは意外に思う。四人の中では一番年下のように見える女性だったが、あんな中で状況をそれなりに把握していたらしい。
「私は……いえ。それよりも」
シーラは衝動的にこみ上げた言葉を飲み込んで正面を向いた。今は無駄な自分語りをしていられる状況ではない。彼女たちがいるのはまだ、二つの戦場の中間地点なのである。
「とにかく賊のことは彼らに全部任せて、私たちは――」
「シーラ!」
そんな彼女たちの耳に聞き慣れた声が届く。緩やかな下り坂の向こう、シーラの視界に手を振りながら駆け寄ってくるエルレーンの姿が映った。
手を大きく挙げてシーラも応える。
あちらの戦いが終わったにしては早すぎるから、おそらく向こうに到着したティースと入れ替わる形で迎えに来たのだろう。
「エル。向こうの状況は?」
「ティースとカルヴィナが戦ってる。でも簡単には決着つきそうにないよ」
そばまで駆け寄ってきたエルレーンはシーラが連れてきた女性たちの状態を確認するように視線を配った後、目立った怪我がないことに安堵の表情を見せながらそう答えた。
「リィナは?」
「あっちの乗客を守りながら町に向かった。敵もそっちには興味なさそうだったから大丈夫だと思う」
「そう。……ねえ、あなたたち」
そんなエルレーンの回答に少し思案げな顔をして、シーラは後ろの四人を振り返った。
「この中で、誰かに命を狙われる覚えのある人はいる? あなたたち自身じゃなくても、親に敵がたくさんいるとか、誰かに脅迫されていたとか」
「え……」
シーラの問いかけに四人は意外そうにしながらお互いに顔を見合わせ、そしてほとんど同じタイミングで首を横に振る。
「そう。そういうことね」
シーラは納得してうなずいた。
……敵がリィナたちと逃げた乗客に興味を示さなかったということは、今回の襲撃の狙いはかなり絞られることになる。ここの四人の女性たちか、あるいは単なる金品狙いでないとすれば、敵の狙いはシーラたちの中の誰かということになる。
狙われたのはティースだろうと、シーラは単純にそう考えた。彼がどこかで魔の恨みを買ったのか、あるいはデビルバスターを無差別に狙う組織の仕業か。いずれにしてもシーラ自身に魔に個人的に狙われるような覚えはなかったし、リィナに興味を示さなかったのなら、エルレーンが狙われた可能性も低いだろう、と。
それは決して誤った予測というわけではなかったが、もちろん彼女がこの時点で気付くはずもなかった。
それらの元凶――彼女が今も懐に抱えている“黒い背表紙の本”の正体に。
“影神の右腕”が捕まえるのは心の“余分”だ――と、シュナークは、その神具の以前の所有者からそう教えられた。精神はなみなみと注がれた杯のようなものでできていて、何らかの刺激を受けると徐々に波立っていく。それが一定量を超えると水しぶきが跳ねて杯の外に“余分”が溢れるのだ。
巨大な影の右腕は、それを捕らえる。
「“焦り”ましたね? メイナード=ストーリー」
右腕に巻かれた包帯が禍々しい黒靄をまとっていた。はっと息を呑む音。余裕を失い、どこか信じられないという表情のメイナードがシュナークを睨み付けている。
「ギリギリ、でした。本当に」
体勢を崩し地面に付いていた片膝を伸ばして立ち上がると、シュナークは左手の剣を握りなおしながら言った。
「私の体力よりも、この剣の耐久力がもつかどうか心配になったぐらいです」
常識を遥かに超えるメイナードの攻撃を、受けて、受けて、受け続けた。その連撃の苛烈さは慎重なシュナークの予測すらも上回り、ほぼ達人の域にある彼が守りに専念してもなお、耐えて一、二分だろうと、一時は死を覚悟したほどだった。
しかし、紙一重の天運は最終的にシュナークに味方したのだ。
「その右腕、やっぱり、か……」
悔しそうに呟くメイナードの足元には巨大な腕の形をした影が浮かんでいる。
焦りから生まれたメイナードの心の“余分”。メイナードの攻撃がシュナークの肉体に及ぶ、まさにその直前。シュナークの“影神の右腕”がそれを捕らえたのだった。
「抵抗しても無駄ですよ、メイナード。その拘束は絶対です」
呪縛から抜け出そうともがくメイナードに、シュナークは静かにそう言って左手の剣を構えた。
……“影神の右腕”が捕らえるのは体ではなく心である。動けないようにするのではない。動かないようにするのだ。
その効果時間はわずか九秒弱。
しかしこの距離なら、死に至る一撃を与えるには充分すぎる時間だ。
「あなたの悪行もここで終わりです。メイナード」
メイナードを拘束し、勝利が確定的になってもなお、シュナークの言葉には喜びも達成感もない。ただただ平坦。
それこそが、この“影神の右腕”所有者としての条件でもあった。
もともとゼロに近かった距離を詰め、間合いに入る。シュナークが左腕の剣を振り上げたところで、メイナードの瞳が赤く光った。
衝撃波。
しかし最後の抵抗を予測していたシュナークは僅かに体を捌いてそれを避けると、ためらうことなく剣を振り下ろした。
再びメイナードの瞳が赤く光る。
しかし、もう遅い。
「ふぅ……ッ!」
シュナークの詰めた息が辺りに小さく響いて。
その剣は、メイナードを右肩から袈裟懸けに切り捨てたのである。
一方、ティースたち二対二の戦いも佳境へ差し掛かりつつあった。二対二とはいっても、実際には一対一の戦いが二組あるといったほうが正確だろう。ティースとカルヴィナはこれまで共闘の経験がないことから個別での戦いを望んだし、メイナードの部下であるエレオノーラとグラハムは、もともとそういうスタイルなのか、彼らを分断しようとしたティースたちの思惑に抵抗することはなかった。
ティース対グラハム。
カルヴィナ対エレオノーラである。
闇の上位魔、グラハム=ブレイズウェストは、一般的には長身の部類であるティースをさらに数センチ上回っていて、横幅はその二倍近い、いわゆる巨漢だった。手にしているのは大きめの両刃の剣で、闇の力を行使するよりもその恵まれた身体能力を活かして戦う正統派である。
(この、感覚……)
何合か打ち合った後、ティースの脳裏にはある既視感が生まれていた。
(……試験の、あのときみたいだ)
ティースの頭をよぎっていたのは、デビルバスター試験のトーナメントで剣を交えたイストヴァン=フォーリーの姿だった。彼は巨漢ではなかったが、身体能力を高める“心力”の一つ“剛力”によって圧倒的なパワーを発揮し、昨年のデビルバスター試験をトップで合格した、三十年に一人の逸材と言われた人物である。
ティースにはそのイストヴァンとトーナメントの一回戦で当たって善戦したものの敗北し、その後の敗者復活によりどうにか合格したという経緯があった。
そのイストヴァンとグラハムの戦闘スタイルが重なって見えたのだ。
見た目こそ大きく違っているものの、正面から剣を合わせるだけで体勢を崩されるほどの圧倒的なパワーと、それでいて無駄のない鋭い動きは、そのトーナメントの戦いをティースに思い起こさせたのである。
あまり手入れされていない、刃こぼれのある大きな剣が風を裂き、うなり声のような音を立てながらティースを襲った。
その強烈な一撃を、細波で受け流す。
(同等か、あるいは上か……)
あくまでも“当時の”という注釈付きになるが、実力的にはイストヴァンよりも僅かながら上かもしれない。とても上位魔とは思えない難敵だ。
しかし。
(集中しろ……)
不思議とティースの心に焦りはなかった。一歩判断を間違えば一気に押し込まれかねない凶悪な攻撃の一つ一つを、足を細かく使い、左右に流すようにしながら正確に捌いていく。
決してまともに受けず、攻撃もほとんど仕掛けることなく守勢のまま。
(集中、しろ――)
視界が広がる。
時間の流れが徐々に遅くなる。
グラハムがほんの僅かに眉をひそめたのがわかった。戦いが始まって約五分。ほとんど休む暇なく攻撃を続けながら成果が出ないことに焦れたのか、あるいはスタミナが切れ始めたのか。
ティースはそこに、好機を見出した。
さらに集中する。
自らの意識の中に潜り込むように、深く、深く。
やがて、好機は訪れた。
(……ここだッ!)
人に知覚可能な限界ギリギリの刹那の時間。
攻撃を振るった後に生まれたグラハムの緩慢な動作を、ティースは見逃さなかった。
「!?」
グラハムの顔が驚愕と後悔に歪む。
攻撃から構えに戻る際に生まれた一瞬の気の緩み。本人に自覚があったとしても傍目には決してわからないし、剣を合わせていても普通は見逃してしまうであろう、薄紙一枚ほどの隙。
しかしティースの眼は、確実にそれを捉えていた。
グラハムが喉を鳴らしながら下がる。ティースは引き波に合わせるように攻撃に転じた。
両者の間は先ほどまでよりも半歩近い距離――そこはティースの間合いだ。
「ッ……!」
防御が間に合わないと気付いたグラハムが、再び攻撃に切り替えた。
しかし、遅すぎる。
「くらえぇぇぇぇぇッ!」
大地に沈む右足。高らかに掲げられた細波が艶やかに太陽の光をその身にまとう。
その直後、ティースの手の平に伝わった確かな感触は、彼に勝利を確信させた。
「く……か……ッ!」
グラハムの喉から空気を絞ったような静かな断末魔が漏れる。手から大剣が落ち、グラリと巨体が揺れて、ティースが飛び退ると同時にその体は前のめりに地面に倒れた。左肩から袈裟懸けに切り裂いた細波の刃は、肩骨と肋骨を砕いて心臓にまで達しており、もちろん即死だった。
「ふ……ぅ」
敵が事切れたのを確認し、ティースは詰めた息を吐く。そしてほんの数秒のクールダウンのあと、まだ続いているカルヴィナたちの戦いを振り返った。
「……カルヴィナ!」
思わず声が出る。
そんなティースの目に飛び込んできたのは、全身を自らの血で汚したカルヴィナの後姿だった。
「ッ……はぁ……」
一瞬、すでに勝負が決したのかと思ったが、どうやらそうではない。カルヴィナはまだ自分の力で立っていたし、荒い息を吐いてはいるが戦う姿勢を崩してはいなかった。
ただ、体の無数の場所から出血している。
どうしてそんなことになったのかと目を凝らしたティースは、カルヴィナの周囲にある奇妙な光景に気付いた。
(なんだ、あれは……?)
チカ、チカ、と、カルヴィナの周りで何かが光っている。いや、光っているのではない。何かが太陽の光を反射しているのだ。しかしそれ以上は見えない。
カルヴィナが微かに動いた。左手に持った短剣を何もない空間に向かって振るう。
すると。
「!?」
甲高い金属音が響いた。見えない何かがカルヴィナの剣に弾かれたのだ。
それを見てティースは察した。
(見えざる攻撃――“陰撃”か!)
“陰撃”は、闇に属する魔のごく一部が使う能力の一つである。自らが持つ武器の周囲を闇の力で覆うことにより自然の光の反射を抑えて視認を困難にする。扱うには魔力の強さよりもコントロールが重要かつ困難で使用者は少ないとされている。
エレオノーラはその能力の使い手だった。
しかも厄介なことに、カルヴィナとエレオノーラの距離が十五メートルほど離れているところを見ると、武器は飛び道具のようだった。カルヴィナはエレオノーラの直前の動作や気配でどうにか致命的な一撃を回避し続けているようだが、無闇に近付くことができず手を焼いているらしい。カルヴィナの武器は通常の八割ほどの長さの剣と、それよりさらに二割ほど短い短剣の二刀流だ。その距離では戦いにならない。
一方的だった。
(加勢しないと!)
ティースが地面を蹴ると、カルヴィナに向けられていたエレオノーラの視線が彼を捉える。そしてティースに対しナイフを投げるような仕草をした。
「ッ……!」
ティースは僅かに速度を緩め、飛んでくるであろう刃物の気配に備える。
が、しかし。
「な……ッ!?」
突如、正面ではなく視界の隅、右側面の足元辺りにきらりと光を反射する物体が映った。
反射的に上に飛ぶ。
「ッ……」
その物体はティースの右足のかかと辺りを掠めた。鋭い痛みが走る。
(なんだ、今の……ッ!?)
着地と同時に片膝を地面につきながら周囲を警戒した。が、どうやら追撃はないようだ。
右足を押さえると、かかとの側面に鋭い刃物で切りつけたような傷が出来ていた。戦いに支障が出るほどの深い傷ではないが、しかし。
正面のエレオノーラをにらみ付けると、彼女は薄い笑みのようなものを浮かべていた。
ティースの脳裏に警戒の音が鳴り響く。
(ただの飛び道具じゃない……)
投じたのがナイフのようなものなら、当然その軌道はエレオノーラからティースに向かって直線になる。が、たった今ティースの右足を掠めたものは明らかにそれとは異なる軌道だった。
予想外の軌道にもかかわらずティースがそれを避けられたのは、通常では視認できないその物体を特殊な眼の恩恵によってかろうじて捉えられたおかげだ。普通なら右足首を切断されていただろう。
うかつには近づけない。
細波を握りなおし、膝を上げる。
まずは敵の武器の形状を見極める必要がある、と、ティースは考えた。幸いにして一対二の状況だ。どんな武器であれ操作者が一人である以上、対応できる範囲には限界がある。
しかし。
「ティースさん。下がってください」
「え?」
静かなカルヴィナの声に、ティースは怪訝な声を返す。
「加勢は不要です。彼女は私一人で」
横目でティースを見るカルヴィナ。彼女の頬にも刃物で薄く切り裂かれたような跡があった。
笑い声が響き渡る。
「意地ってやつかい? 馬鹿な女だね。せっかくメイナードに見逃された命だってのに」
エレオノーラがそんなカルヴィナの言葉をあざ笑う。ティースは不快に顔をしかめたが、それでも彼女の言葉にも一理あると思った。
意地を張っているのなら、それは命取りになる、と。
エレオノーラが笑いながら続ける。
「あたしはメイナードと違うよ。男だろうと女だろうと容赦なくブチ殺すからね」
「……そのほうがどれだけ気が楽だったか」
「なんだって?」
エレオノーラが眉をひそめる。穏やかだったカルヴィナの口調が微かに起伏していた。
「でも今は屈辱の中を生き延びて良かったと思っています。こうして彼の仇を討つ、その手伝いをする機会に恵まれたのですから」
くる、と、左手の短剣が半回転する。
右は順手、左は逆手。
「加勢は不要です。なぜなら――」
カルヴィナの視線がエレオノーラを射抜く。
その横顔に浮かんだ覚悟の表情に、ティースはハッと息を呑んだ。
「勝敗は決しました。自信過剰な愚か者は間もなく地に伏すことになるでしょう」
エレオノーラの笑みが引きつった。
「……面白いことを言うじゃないか。その無様な状況で」
「先ほどの言葉そっくりそのまま返そう。メイナードの犬、名も知らぬ上位魔よ」
敵意のこもった言葉を投げつけて、しなやかにカルヴィナが体勢を低くする。
「救いようのない馬鹿女だ。この私に、こんなにも長く見極めるための時間をくれるなんて」
「見極められるものなら――」
「貴様の負けだ、上位魔ッ!」
カルヴィナが地面を蹴った。
エレオノーラが応戦する。
空気がうねった。
(また、あの……ッ!?)
エレオノーラのモーションは一つ。だが、カルヴィナの周囲で複数の気配が動いた。
その背後に微かに見えた刃のきらめき。
「カルヴィナ、後ろッ!」
思わずティースは叫んだが、カルヴィナは彼が叫ぶよりも早く動いていた。前に進む速度をほとんど緩めず体をコマのように一回転させると、右手の剣が背後から襲い掛かった刃物を打ち落とす。
一つ、二つ、三つと金属音が鳴り響く。
体をひねるようにしながら地面を蹴って、再びエレオノーラに向かって突進するカルヴィナ。
「な……ッ!?」
そこで初めてエレオノーラの表情に焦りが浮かんだ。何もない空間に腕を振るうと、再びカルヴィナの周囲で何かが波打つ。
(……波?)
そこでティースは気付いた。
(あの武器、もしかして……)
飛び道具ではない。そしてよく見ると、投擲しているように見えるエレオノーラの手は、指が奇妙な動きを見せていた。
目を凝らす。
時折反射する光。その点と点を繋ぎ合わせて形にする。ティースの特殊な眼の力がそれを可能にした。
そして導き出された答え。
(……鞭か!)
とてつもなく細長い鞭に刃をつけたもの。おそらくはそれを指と魔力で操作しているのだろう。投擲のモーションは誤認させるためのフェイクだ。
しかしティースは声を上げようとして思いとどまった。……言うまでもなく、カルヴィナもすでに見抜いている。だからこそ彼女は勝利を確信したのだろう。
波打つ複数の鋭い鞭がカルヴィナを襲う。
しかし。
「何故……! 貴様、見えているのかッ!?」
エレオノーラが戦慄の表情を浮かべた。
「気配だけでそんなにも正確に防ぎ続けられるはずが……!」
「愚かな上位魔。この剣がなぜ短く作られているのかもわからないのか」
二人の距離は十分の一にまで縮まった。
わずか一メートル半。
そこはカルヴィナがもっとも得意とする距離だった。
「この間合いで私の剣よりも速いものは存在しない。襲ってくるものの形さえわかっていれば、気配を感じてからでも充分」
エレオノーラが鬼の形相を浮かべた。
「……このあたしが、貴様のようなひよっこに――ッ!」
カルヴィナの背後に複数の気配が現れる。しかしカルヴィナは視線を向けることもなく、逆手に持った短剣でそれらをことごとく打ち落とした。
エレオノーラがハッとして下がろうとするが、もう遅い。
「その慢心が敗因と知れッ!!」
右手の剣が弧を描き。
そして言葉どおりの高速の剣閃が、エレオノーラの体を真っ二つに斬り裂いたのだった。
「ティース!」
シーラとエルレーンが合流したのは、戦いが終わってわずか二分ほど後のことである。彼女たちの後ろについてきていた四人は、グラハムとエレオノーラの遺体を見てヒッと息を呑んだが、疲れか、あるいは慣れか。それ以上の大きな反応は見せなかった。
「二人とも大丈夫? 怪我は?」
エルレーンが一足先に駆け寄ってきてティースとカルヴィナの体を気遣う。どちらも互いの相手から浴びた返り血で汚れていて、怪我をしているかどうか一目で判別できないような状態だった。
ティースは後ろのカルヴィナを振り返りながら、
「俺は大丈夫。だけどカルヴィナは……」
「かすり傷ばかりですよ。心配は要りません。それよりも」
と、カルヴィナは血に汚れた布で剣身を拭いながら言った。
「みなさんはこのまま町のほうへ。敵はあと一人のはずですが、他に仲間がいる可能性も否定はできませんから、どうかお気をつけて」
と、カルヴィナは剣を鞘に収めることもなく歩き出す。まだ戦いは終わっていない。そう言っているようだった。
確かに敵はもう一人残っている。
だが。
ティースはそんな彼女の意志を確認するために声をかけた。
「カルヴィナ。シュナークさんは……」
「わかっています。足手まといだと言われるでしょうけど、でも。せめて見届けるぐらいはしないと。それに万が一、先生が負けたときには……」
ピタリ、と、カルヴィナはティースのすぐそばで足を止めた。
「ティースさんはみなさんを連れて町へ戻ってください。メイナードの標的はどうやらあなたのようです。あなたが見かけたシアボルドはやはり彼らの一味でした」
「シアボルドが? そうか。それで助けに来てくれたのか」
どうしてカルヴィナたちがこんなにもタイミングよく現れたのかの疑問が氷解した。
カルヴィナはうなずいて、
「戻ったらすぐに協会へ行ってバルフォスさんに今のことを話してください。町の中ならメイナードはそう簡単に手を出せません」
「……」
ティースはすぐには返事をせず、唇を結んで考え込んだ。
あとから近付いてきたシーラがエルレーンをチラッと見て、それから何も言わずにティースの顔を見る。話の中身をすべて理解してはいなくとも、彼が何を迷っているのかはすぐに察したらしかった。
そして、
「……シーラ。エル」
「わかった」
その先を続けるまでもなく、エルレーンが即座にうなずく。
「本当はボクも付いていきたいけど、でも、シーラたちを安全な場所に連れて行くのが先だね」
「ああ。頼む」
話が早くて助かる、と、ティースはわずかに笑みを浮かべた。その会話に、カルヴィナもティースの意図を理解して声を上げる。
「ティースさん。私が行くのはただの意地です。あなたまで付き合わせるわけにはいきません」
ティースはすぐに返した。
「だったら俺が行くのは義務だ。もともと狙われてたのは俺だったんだから、君たちに全部押し付けるわけにはいかない」
「ですが、メイナードの強さは……」
「わかってる。ただ、シュナークさんはああ言ったけどやっぱり三対一で戦うほうが有利だ。俺も今ので君の戦い方が多少なりとも把握できたし、こっちがうまく片付いた以上、協力しない手はないよ」
「ティースさん……」
カルヴィナは視線を泳がせて迷っているようだった。ただ、彼女がなんと言おうとティースはシュナークの元へ向かうつもりだ。
返事を聞くより先に、ティースはその視線をシーラへと向ける。
「シーラ。お前はエルと一緒に戻っててくれ。リィナはもう先に行ってる」
「……」
一拍。
小さな唇から深いため息が漏れた。
「わかってるわ。でも」
と、シーラはエルレーンに視線を送る。
「この先は私だけで大丈夫よ。エルはこいつを手伝ってやって」
「いや、ダメだ。エルと一緒にだ」
即座に拒絶したティースに、シーラは怪訝そうな目を向けた。その視線はすぐに疑うような色を帯びる。
「……わかったわ」
仕方なさそうにうなずいて、シーラはティースの足元に屈みこんだ。
ティースはびっくりして思わず足を引く。
「シーラ? なにを……」
「足の怪我は戦いに影響するでしょう。三十秒で終わるからじっとしてなさい」
そう言いながら、シーラは手際よく腰の袋から薬を取り出し、軟膏状のものを指ですくって右足のかかとに塗りこんだ。
「な、なんか冷たいぞ?」
「そういう薬よ。痛みが気にならなくなるわ。あなたは?」
と、シーラは立ち上がってカルヴィナを振り返った。
「私は平気です。……ごめんなさい」
と、カルヴィナが申し訳なさそうに視線を伏せる。シーラはその言葉の意味をすぐに察し、片手を腰の薬袋に添えたまま視線を横に流した。
「あなたが謝ることじゃないわ。無茶なのも後先考えないのもこいつの元々の性分だもの。それで死んだってただの自業自得よ」
「……縁起でもないこと言うなよ」
と、不服そうに抗議したティースだったが、シーラはそんな彼を不機嫌そうな目で睨んだ。
「自信もないくせに偉そうに。エルを連れて行かないのはそういうことなんでしょう?」
「……」
言葉を失う。図星だった。メイナードはティースやカルヴィナでさえ戦力になるかどうかわからない相手である。エルレーンを連れて行っても無駄に危険な目に合わせるだけなのだ。
返す言葉を探すティースに、シーラはやや苛立ったように首を振って珍しく声のトーンを上げた。
「でも止めないわ。止めたってどうせ聞かないし、私に手伝えることはなにもない。勝手にすればいい。それでお前が死んだって誰も」
「シーラ。大丈夫だよ」
と、エルレーンが肩に手を置くと、シーラは言葉を止めた。
エルレーンが幼い声に大人びた口調で続ける。
「心配しなくても大丈夫。キミはまだ知らないだろうけど、ティースはこれまでだってずっと強い敵と戦ってきたんだから。今回だけが特別じゃないよ」
シーラが口を噤む。一瞬だけ後悔の色が過ぎり、すぐに表情を隠すようにティースたちに背中を向けた。
エルレーンはそんなシーラを見てそっと微笑むと、
「ティース。シーラやこの子たちのことはボクに任せて。何も気にしないで思いっきり戦って」
「ああ。サンキュ、エル。シーラ、お前も――」
ピク、と、背を向けたシーラの肩が動いた。
「まだ礼を言ってなかった。助かったよ」
「……ただのおせっかいよ。かすり傷だったのだし」
「それもあるけどさ。その前に助けに来てくれたときの礼だよ。本当に助かったんだ」
「……」
シーラは背中を向けたまま何も返さず、しばらくして、行きましょう――、と、エルと四人の女性たちを促した。
四人がティースの顔とシーラの後姿を見比べながら、その後に続いて。
最後にエルレーンが真剣な表情で、勝ってよ、と、力強くそう言って背中を向ける。
今回だけが特別じゃない――、その言葉が決して真実でないことは、エルレーンにもよくわかっていたのである。
そして――
長く緩やかな上り坂の途中。陽射はいつしかもっとも高い場所から大地を照らしていた。
融雪が作り出したぬかるみからの照り返しに目を細める。
静かだった。
緊張がティースの背筋を襲う。隣のカルヴィナも同じことを考えていたらしく。
小さく喉を鳴らしたのはどちらだったか。
壊れた馬車。
地を滑るように風が吹き抜けて――
彼らの視界の先に立っていたのは、一人だけ。
「っ……」
息を呑む音。
カルヴィナが小さく震えたのがティースに伝わってくる。それでも声を出さなかったのは覚悟していたからだろうか。
そしてティースもまた同様に震えた。
戦慄か。
憤怒か。
「……おや。戻ってきたのか」
言葉とともに振り返った男の姿には、異様な文様も、右腕を覆う包帯もなく。
「レナとグラハムは敗れたか。これで互いに仇討ちの間柄になったわけだ――」
紛れもなくこれまでで最強最悪の敵。
メイナード=ルヴィア=ストーリーがそこで彼らを待ち受けていたのである。