その5『影神の右腕(アサシンズ・ブロウ)』
アグノエルの町から二十キロほど離れた林の中に、ひっそりと立つ小屋がある。そこはかの町に住む猟師が毎年狩猟シーズンに訪れ利用している場所だ。
フードを深くかぶった旅人スタイルの男がその小屋を訪れたのは、ティースがシーラとの約束を反故にしてしまった日の翌日の明け方のことである。
男が右拳を握り締めて木製のドアをノックすると、乾いた音が林の中に響いた。一拍、二拍……返事がない。
取っ手をつかむと鍵はかかっておらず、ドアはあっさりと開いた。
小屋の中はおよそ二十畳ほどの広さ。顔を覗かせたばかりの朝日はまだ弱く、家の中は暗いままだった。
微かに鼻腔をついた匂いに、男は少しだけ眉をひそめる。
「やあ」
まったく気配を感じなかったはずの小屋には、三人の人影があった。
「シア。君か」
入り口の正面、備え付けられたベッドの上には一人の男。
残る二人は――
「おい。……こいつぁ何の真似だ? メイナードさんよ」
小屋の中に足を踏み入れかけた旅人風の男――シアボルドは、入り口のところで足を止め、そう言って左右に視線を動かした。
「仲間を歓迎するにしちゃ、ずいぶん手荒いじゃないか」
彼が不服そうにそう言うのも当然だった。入り口の左右にあった二つの影は、それぞれに手にした刃物をシアボルドの喉元に突きつけていたのだから。
「すまないね。俺はこう見えてお尋ね者だからさ。過剰反応するなといつも言っているんだけどね」
軽い口調でそう言うと、ベッドの上で足を組んだ青年――メイナードは、シアボルドの左右の男女に向かって手を振る。
「レナ。あまりシアを怖がらせちゃいけない。彼は一応、クライアントの一員なのだからね」
その言葉に、シアボルドの右にいた女性はフンと鼻を鳴らし、小馬鹿にしたような目で彼を一瞥したあと、仕方なさそうに刃物を下ろした。手にしていたのは刃渡り十センチほどの柄のない両刃のナイフのようなものだ。
「グラハム。君も控えていいよ」
左にいた大男が大きな剣を収め、こちらは無言のままで後ろに下がっていく。
「……」
シアボルドは不機嫌そうに左右の男女をそれぞれ一瞥し、正面のメイナードへ視線を戻した。
「こいつらがあんたのご自慢の部下か。ずいぶん礼儀を知らないやつらだな」
「君に会うのは初めてだったか。紹介しよう。右の彼女はエレオノーラ。左の彼はグラハム。いずれも闇の上位魔で、俺のためなら何でもする忠実な部下だ」
少し気だるそうな表情で二人の紹介を終えると、メイナードはゆっくりとベッドから腰を上げた。そのまま入り口付近に立ったままのシアボルドに近づいていく。
「それで? 昨日は標的に追い回されて大変だったそうじゃないか」
「そこ、座らせてもらうぜ」
近付いたメイナードの問いかけを無視するようにして、シアボルドは部屋の中央にある椅子に勢いよく腰を下ろした。
「ま、近付きすぎて失敗したのは事実だ。けど、最終的に捕まらなきゃなんの問題もないさ」
目を合わせずにそう言ってのけたシアボルドに、メイナードはわずかに口元を緩める。
「ふぅん。ま、俺はどっちでもいいけどね。……で?」
「目当てのモノはやっぱり女が持ち歩いているようだ。特別なものって意識はあるらしいな。人目に付かないようにはしている。……おい」
言いながら小屋の中を見回していたシアボルドは、ふと、部屋の隅にあった黒い塊に気づいて声を低くした。
「そこにある、そいつぁ……なんだ?」
「なにって」
メイナードはチラッとその塊を見やって言った。
「この小屋の主さ。つい先ほど、運悪くここを訪れてしまったようでね」
まるで他人事のようだ。
シアボルドは改めてその塊、いや、死体を見た。血の匂いはまだ新しい。本当につい先ほどの出来事だったようだ。
人の死体など見慣れたものだし、同情を覚えるほどできた人間でもないが、かといってこの状況に気分が良くなるはずもない。
シアボルドは不快な顔をして、
「……そういうのは客人が来る前に片付けておくもんだろーが」
「君がそういう細かいことを気にする男だとは思わなかったよ。グラハム。片付けておいてくれ」
メイナードの言葉を受け、大男が無言のままで動く。
「そんなことより」
かなり攻撃的な調子で口を開いたのはエレオノーラだった。
「その女が目的のものを持っているとわかっているのなら、どうしてさっさと奪わない? 貴様程度の人間でも、そのぐらいのことはできるだろうに」
「いちいち気に障る女だな、おい。……あの町じゃ、綺麗な女をさらうのは大金持ちのおっさんを誘拐するより難しいんだよ。あの街角にいる男どもは百人中百人が常にあの女を目で追ってやがるんだ。その場であの本を奪えたとしても、逃げ延びることができなきゃ意味がねぇ」
「矮小な人間らしいまどろっこしい考えだな」
「なんだと?」
腕を組んで挑発的な視線のエレオノーラに、シアボルドが気色ばむ。
そこへメイナードが口を挟んだ。
「いいじゃないか、レナ。それで済んでしまっちゃ、俺たちがここに来た意味がない。……それでシア? 標的に追い回されるほど頑張ってきたんだ。何か新しい情報があるんだろ?」
シアボルドは舌打ちしてメイナードへと視線を戻した。
「カルヴィナ、ってデビルバスターを知ってるか?」
「カルヴィナ? どこかで聞いた気もするが、それがどうかしたのか?」
「標的とそいつが接触しているらしい」
「ああ」
メイナードは思い出した顔をする。
「最近殺したデビルバスターと一緒だった女剣士だな。カルヴィナに、ユアンとかいったか」
シアボルドは鼻を鳴らした。
「事情は知らんし興味もねぇが、もう一人、シュナークって名の知れたデビルバスターと一緒にあんたのことを探しているらしい」
「ふぅん」
「どうするんだ?」
「なにがだ?」
とぼけたメイナードの返答に、シアボルドは少し苛々した様子で言った。
「今回の障害になるんじゃないのかってことだよ。あんたが仇討ちされようとどうしようと知ったこっちゃないが、そっちの連中に邪魔されて標的を仕留められないなんてことになったらこっちはたまったもんじゃないんだ」
「……ふむ」
メイナードは小さく首をかしげて少し考え、それから無造作な動きで再びシアボルドに近付いた。そしてゆっくりとその顔に向けて右手を伸ばす。
「誰に、口を聞いている?」
「……!」
シアボルドの背筋に突如、得も知れぬ恐怖の感情が走った。別に凄んだわけではない。口調も変わらないし、表情は穏やかなままだ。しかし、エレオノーラたちに刃物を突きつけられたときよりも強く、はっきりとした死の予感が全身を駆け巡っていた。
目隠しで奈落の底へ続く崖の縁に立たされているような、そんな光景が脳裏に焼きつく。
「デビルバスターが一人や二人増えたところでどうということもない。君が気にかける必要もない」
「……く」
「どうしたんだ? すごい汗だぞ、シア」
微かに笑いながらメイナードが離れた。
「そんなことより標的はいつになったらあの町を出るんだ? 俺たちも少し待ちくたびれてきたぞ」
「あ、ああ……」
シアボルドは首筋の汗をぬぐい、軽く深呼吸をしてから答える。
「明日観光馬車があの町を出る。女も、あんたの標的もその馬車に乗る予定だ」
「オーケー」
満足そうに頷いて、メイナードはシアボルドに背を向けた。その視線の先で小屋の扉が開き、服をどす黒い血の色に染めたグラハムの巨体が戻ってくる。メイナードは労うようにその肩をポンと叩くと、ようやく明るくなってきた林の景色を眺めながら言った。
「シア。君の仕事はただ標的の動きを俺たちに伝えるだけだ。それ以外のことは何も心配することはない」
「……そう、願いたいな」
かろうじて憎まれ口を叩いたシアボルドだったが、恐怖の残滓に、体は金縛りにあったように固まったままだった。
バッタリ、という効果音が聞こえてきそうな、そんなタイミングだ。
「お、おはよう、シーラ」
どうにも寝つきの悪い夜を過ごし、眩しい目を擦りながら部屋を出たティースは、まったく同じタイミングで出てきた隣室のシーラと心の準備なしに顔を合わせることとなってしまったのだった。
それは昨晩、小雪の降る噴水公園で彼女と別れてから初めての対面で。
『これ以上、私を苦しめないで――』
薄青の光の中で見た彼女の切なげな表情が蘇り、ティースは息が詰まったような感覚に襲われた。いくつもの謝罪の言葉が脳裏をよぎる。が、どれも適切とは思えず、結局彼は何も言葉を紡ぎ出せなかったのだ。
しかし。
「おはよう。頭、寝癖のままよ」
「……え?」
「ほら、ここ」
シーラは近付いて、背伸びするようにティースの右後頭部を軽く押さえた。
「部屋を出る前に鏡ぐらい覗いてきなさい。毎朝完璧にしろとまでは言わないけれど、最低限の身だしなみには気を遣うべきよ」
たしなめるようにそんな言葉を残し、シーラはティースとすれ違っていく。
(……あれ?)
ティースはそんな彼女の後姿をやや拍子抜けしながら見送った。昨晩の出来事がまるで夢だったかのように、彼女の態度はいつもどおりである。
いや、もしかすると本当に夢だったのだろうか――と、まだ少し寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、ティース、と、彼の名を呼ぶ声がして、シーラと入れ替わるようにエルレーンが現れた。
彼女には昨晩のうちに事の顛末をすべて話してあり、どうやら気になって様子を見に来たようである。
「おはよう、ティース。今、シーラに会った?」
おはよう、と返しながらティースが頷くと、エルレーンはシーラが去っていった方向を眺めながら、
「実は昨日、キミに話を聞いてからすぐシーラの部屋に行ってみたんだけどね。別に怒ってはいなかったみたいだよ」
「そっか。確かにさっきもそんな感じはなかったけど……」
昨晩遅れて噴水公園に辿り着いたときも怒っているという感じではなかった。ただ、そうだからといってシーラを雪の中で待たせてしまったという事実が消えるわけでもない。
ティースはエルレーンに軽く頭を下げる。
「悪かった。お前もなんか色々気を遣ってくれてたみたいなのに」
「ううん、ボクのことは。それに仕方ないよ。そのシアボルドって人、もしかしたら今キミが追っている魔に繋がるかもしれない人だったんでしょ? シーラもきっとわかってる。だから怒ってないんだと思うし」
「まぁ、そうなんだけどさ……」
しかし結局、数時間尾行した挙句に逃げられてしまったというオチなのである。カルヴィナにはシアボルドの存在を伝え、彼女たちのほうでも当たってくれることになったから、完全に無駄だったというわけではないが、それでも。
沈んだ顔をするティースに、エルレーンは明るく笑って言った。
「落ち込まないで。ボクもまた後でシーラと話してみるし。次の機会はきっとあるよ」
「……すまん」
元気付けようとするエルレーンの気遣いを察し、ティースはかろうじて笑顔を浮かべたが、彼女の言うような“次の機会”はなんとなくないような気がしていた。
そして再び考える。
昨晩のシーラの態度は、なんだったのだろう、と。
そのときの彼女は、少なくともティースがこれまでに一度も見たことのない表情をしていた。
……いや。
本当にそうだろうか――と、ふと疑問を覚える。
見たことはない。
ないと思う。
ないはず、なのに――
昨晩、噴水の前に立っていた見知らぬ少女の顔を、ティースは“知っていた”ような気がして仕方がなかった。
(……それに俺、なんでこんなに)
思わず胸の辺りを押さえる。
と、そこへ。
「ティース。……あら?」
聞こえてきた声にハッとしてティースが振り返ると、先ほど去っていたばかりのシーラが廊下の向こうから戻ってくるところだった。
「エル、あなたもいたのね。ちょうど良かったわ」
「どうしたの?」
エルレーンの問いかけに、シーラは昨晩とは明らかに違う、精巧に作られた人形のように澄ましたいつもの表情で、二人を交互に見ながら言った。
「宿の人に聞いたんだけど、明日、ようやく観光馬車が出るそうよ。これでクローゼルの花が手に入るわ。朝早いから、準備よろしくね」
「あ、うん。えっとボクとリィナも一緒でいいんだよね?」
「そうね。ただ二、三台出すそうだから、もしかしたら別々の馬車になってしまうかもしれないわ」
「向こうで合流できれば問題ないよ。ね、ティース」
「え、あ、そうだな……」
同意を求めるエルレーンの言葉に、ティースの返答は上の空だった。
「じゃあそういうことだから、よろしくね」
シーラが用件だけを言って自分の部屋に戻ろうとする。
その瞬間。
「……あ、ちょっと!」
考えるよりも早く、ティースは彼女を呼び止めていた。
「なに?」
短い反応。
「シーラ、昨日のことだけど……」
「謝らなくていいと言ったでしょう?」
ドアに手をかけたまま、シーラはまるでティースの言葉を遮ろうとするかのように強い調子でそう言った。
「あんなに待っていたのはただの気まぐれよ。私が気にしていないのだから、お前も忘れなさい」
「いや、でも……あ、そ、そうだ。結局誕生日のお祝いもできなかったし――」
「旅先で無理してやるようなことでもないわ」
「まあ、そうだけど……」
彼らの故郷であるジェニス領では、誕生日は産んでくれた親に感謝する日である。だからティースもシーラも誕生日を迎えた本人を祝うという風習にそれほど強い馴染みはないのだ。
結局はそれ以上会話を繋ぐことができず。
シーラは部屋の中へと戻っていった。
(……確かに怒ってはいない、けど)
昨晩の彼女の態度がどうしても頭から離れず、ティースはもどかしい気持ちを押し出そうとするかのように重いため息を吐いた。
そんなティースを横目に見て、エルレーンがやはり明るい声を出す。
「ティース。ほら、とりあえず明日のこと」
「うん?」
「宿を離れるときはあっちに連絡しとかなきゃならないんでしょ?」
「あ、ああ、そうだな」
観光馬車の目的地であるクローゼルの花の群生地までは馬車で四時間ほどの道のりだ。朝早くに出発して戻ってくるのは夜。ほぼ丸一日、このアグノエルの町を離れることになるから、そのことをバルフォスを通してカルヴィナたちへ伝えておかなければならない。
「……じゃあちょっと出かけてくるよ。朝食は戻ってからにする」
「うん。気をつけてね」
軽く手を振ったエルレーンに見送られて。閉ざされたシーラの部屋に少し後ろ髪を引かれながらも、ティースはデビルバスター協会支部へ向かって出かけていったのだった。
コン、コン、というノックの音がした瞬間、シーラはドアの向こうにいるのが誰かをすぐに悟った。
「エル? どうぞ、空いてるわ」
静かにドアが開く。
「……昨日は大変だったね」
エルレーンは後ろ手にドアを閉めて部屋に入ってくると、先日と同じように飛び乗るようにしてベッドの上に腰を下ろした。
「寒かったでしょ? 体調は大丈夫?」
ええ、と、シーラは机の上で本を開いたまま素っ気ない返事をした。その手元にあったのは標題のない、黒い表紙の本である。
エルレーンはそんなシーラをチラッと横目で見ると、
「そういえばさ――」
床に届かない足をブラブラと揺らしながら何気ない調子で世間話を始めた。天気のことや明日の観光馬車のこと、リィナと歩いたこの町でのハプニングなど。シーラは時折笑みを浮かべながらそんなエルレーンの話に相槌を打っていたが、しばらくして手元の本を閉じ、軽く体の向きを変えてようやくエルレーンに向き直った。
「エル。本当はそんな話をしにきたわけじゃないでしょう?」
「……わかった?」
「わかるわよ」
と、シーラは苦笑する。
「あなたも大変ね。あの優柔不断な男のフォロー役だなんて」
「ボクがやりたくてやってるだけだよ。……でも余計なことしてるんじゃないかってちょっと心配になってきちゃった」
そう言って珍しく弱気な顔をするエルレーンに、シーラは優しく答えた。
「そんなことないわ。少なくとも私は、あなたに本当のことが言えて気が楽になったし、昨日待ちぼうけを食らったおかげで、色々と心境の変化もあったもの」
そんなシーラの言葉に、エルレーンは意外そうな顔をする。
「心境の変化って?」
「“本当の”私はね――」
僅かに視線を流し、閉じた黒い本の表紙を人差し指で軽くなぞるようにしながら、シーラはポツリと呟くように言った。
「結局のところ、ただあいつの関心を引きたかっただけなのかもしれないわ。ジェニスを出て、ネービスに来て、それからずっとね」
「関心? ティースの関心はいつもキミのことばかりだったじゃない」
シーラは小さく笑う。
「違うわ。だってあいつが見ているのは私じゃないもの」
「……」
ああ、そういうことか、と思い、そしてエルレーンは悩ましい表情をした。
難しく、根の深い問題だ。事実がどうなのか、外部の人間はもちろんのこと、当事者たちでさえはっきりと知ることはできない。それが明らかになるのは、一番の当事者であるティースの記憶が完全になったときのみだろう。
シーラは続けた。
「“シーラ”はあいつのことが好きだったけど――この前あなたが言ったとおり“シルメリア”だって別に嫌っていたわけじゃない。あんなお人好し、嫌うことのほうが難しいものね」
「ティースが見ているのは今のキミだよ。本当のキミをまったく見てないってことはないんじゃないかな?」
「あなたもルナと同じことを言うのね。でも、ここにいるのは“シーラ”を演じる見知らぬ誰かよ。本当の私なんて、今はもうどこにもいないのだから」
そう言って苦笑するシーラの顔に、エルレーンは初めて、人形のように精巧に作られた半透明の仮面を見た。ネービスに来てからずっと近くにいたエルレーンでさえ気付けなかったほど、巧妙に隠されてきた人形の仮面。
しかし今、その裏にある素顔がかろうじて透けて見える。
愛する妹を失った悲しみ。
少年の心を守るために罪を犯し、妹の代わりを演じてきた苦悩。
抑圧され続けた彼女自身の心――
「でも、明日にはすべて終わるわ」
左手の親指が黒い背表紙の本のページを無造作にめくり始める。
「あいつが記憶を取り戻せば“見知らぬ誰か”の居場所はなくなる。私はようやく私に戻れるの」
「……キミがジェニスに帰ろうとするのは、それが一番の理由なんだね」
「そうかも、しれないわね」
本当の自分の居場所はネービスにはない、と。ほぼ無意識的だったにせよ、シーラはそう考えていたのだ。
エルレーンはその否定を試みる。
「ティースがキミの行動を糾弾するとでも?」
「どうかしら。少なくともいい気はしないでしょうね」
「結果を知るのが怖くて、逃げ腰になっているだけじゃないの?」
「否定はしないわ」
「……ねぇ、シーラ」
エルレーンは悲しい顔をする。
「ティースが本当のキミのことをまったく見ていないなんて、ボクはそんな風には絶対に思わない。キミがどれだけ完璧に演じたとしても、ここにいるのはキミ自身なんだから」
シーラは小さく息を吐いてゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。あなたは本当に優しいわ。……あなたみたいな子を放っておくなんて、屋敷の男たちも見る目がないわね」
「シーラ。茶化さないでってば」
エルレーンは不満そうに口を尖らせたが、その表情にシーラはますます頬を緩めた。
「なんにしろ、あいつの記憶が元に戻れば私がネービスにい続ける理由もないわ。なんだったらあなたも一緒にジェニスに来る?」
「……ボクはティースの仕事をサポートしなきゃならないから」
「残念ね」
最初から冗談であることはわかりきっていた。
「でも、ちょっと羨ましいわ」
無造作にめくっていた本のページがなくなって、何も書かれていない黒い表紙があらわになる。
「あなたたち二人はそうやって、彼が進む道の先で必要とされているんだもの」
「それはキミだって――」
少し寂しそうなシーラの表情に気付き、エルレーンは途中で言葉を止める。
なにを言っても今は推測にしかならない。もはや小手先の言葉で彼女の心を動かすのは不可能だと、そう悟ったのだ。
閉ざした唇をきゅっと結び、目を閉じる。
あとは天の采配に委ねるしかない。
すべては明日。
……その明日という日に、強大な悪意の力が迫っていることにはもちろん気付くこともなく。運命の日の前日はその後、何事もなく過ぎ去っていったのだった。
そして翌日。
観光地へ向かう三台の馬車がティースたち四人を含む十五名の客を乗せてアグノエルの町を発ったのは、太陽が昇ったばかりの早朝。
夜明けの光に煙るその街角に、遠くから馬車を見送る男の姿があった。
予定通り――
その男、シアボルドは事がつつがなく運んでいることを確認して満足していた。
憂慮していた二人のデビルバスター、シュナークとカルヴィナはその馬車に同行していない。護衛の傭兵が三人ほどついているが、メイナードたちにとっては何の障害にもならないだろう。心配があるとすれば、“宗教上の理由”によって“女を殺せない”というメイナードの特性ぐらいだが、最大の障害であるティースに対しては問題になることはなく、その禁忌はメイナードの二人の部下には及ばない。
となれば、夕方にはすべての決着がつき、そして目的の物がシアボルドの手に渡ることになるだろう。
ヴァルキュリスの口を開く五つの鍵の一つ。
光と闇の魔導書“アズラエル”。
それがあれば、もうデビルバスター試験で受験者を陥れ、ちまちまとポイント稼ぎをする必要もなくなるだろう。その功績により、ベルリオーズの中でのシアボルドの地位は確固たるものとなる。
さて――と。
シアボルドは結果を見届けるため、その場所を離れた。馬を借りてのんびりと追いかければ、追いつく頃にはすべて終わっているだろう――と。
そんな成功の幻に、注意力が散漫になっていたのは紛れもなく彼の失態だった。
「久しぶりですね、シアボルド=マティーニ」
「!」
振り返った視線の先。
通りの一角に二本の剣を差した一人の少女が立っていたのだ。
「二年前の試験でも受験者の妨害をしたという噂がありましたが……まさか魔の側の人間だったとは思いませんでした」
「……カルヴィナ=スペンサーか!」
しまった、と、シアボルドは即座に身を翻す。そうしながら、事前に頭に叩き込んである町の地図を頭の中に思い浮かべた。
逃げ足には自信がある。小娘の一人や二人――と、逃亡ルートを計算しながら十数メートルを駆けた。
そのときだ。
「ッ!?」
ガクン、と。
膝が突然重くなった。何かに足を取られたのかと思ったが、そうではない。
「……んだ、こりゃ……!」
足だけではなかった。
体全体。全身がまるで重たい鎖に絡め取られたかのように動かなくなっていたのだ。
コツ、コツと迫る、カルヴィナの足音。
かろうじて自由の利く首を懸命に動かして振り返ったシアボルドは、そこに異様なものを発見した。
「なんだよ、こいつぁ……!?」
旭日の光で作られ、地面に投影されたシアボルド自身の影。
そこに巨大な手のような影が重なっていたのだ。
「くっ……!」
抜剣の音。
カルヴィナが腰の剣を抜いて彼に迫っていた。
再度、束縛に抵抗する。しかしどれだけの力を込めてもシアボルドの体はそこから一歩も動けなかった。
それどころか――
「か、はぁ……ッ!」
体の締め付けが強さを増す。肺の空気が押し出された。脂汗を浮かべ、血走った目を目標なくさまよわせる。
そして――そこに見た。
「……」
無言のままで立つ、顔に異様な文様を刻んだ一人の男。
一振りの剣を携えた左腕。
包帯に覆われた右腕。
その右腕は――ぼんやりと黒い靄のようなものに包まれ、禍々しい気配を放っていた。
(まさか……)
聞いたことがあった。
シュナーク=フォルリッチ。大陸の西方において最強の一角に数えられるデビルバスター。
その神具。
(こいつが“影神の右腕”か……ッ!)
意識が遠のいていく。
(メイナードのヤツ……こりゃデビルバスターの一人や二人、なんてレベルじゃぁ……)
結局、抵抗することすら許されず。
シアボルドの記憶はそこでプッツリと途切れたのだった。