その4『苛立ち』
「あれ? ティース、どこ行くの?」
その日の朝食を済ませてすぐのことである。
外出の支度を済ませて部屋の外に出たティースは、ちょうど二階から下りてきたエルレーンと廊下でバッタリとはち合わせた。
「シーラとの約束は今日の正午だよ。いくらなんでも早すぎない?」
不思議そうなエルレーンの問いかけに、上着の袖に腕を通しながらティースは答えた。
「いや、別件さ。ほら、昨日話しただろ? あの用事を済ませるのにデビルバスター協会の支部までね」
「昨日のって、敵討ちの?」
一昨日、デビルバスター協会支部で出会った女デビルバスター、カルヴィナの話は、昨日のうちにエルレーンたちに話してあった。できる限りの協力をしたいというティースの提案に対し、当初はエルレーンとリィナの二人が、
『ディバーナ・ロウのサポートがなく、情報も少ない中では危険すぎる』
と、反対したが、もっと詳細な情報を集めた上であくまでサポートとして無理のない範囲で協力するという条件で、ひとまず納得させることに成功していた。
なお、シーラについてはいつもどおり、勝手にやれば、という反応であった。
「まだ時間もあるし用事を済ませるのはいいけど、シーラとの約束には絶対に遅れないようにね。少しでも遅れたら帰るって言ってたから」
「ああ、そうだ、エル。そのことだけど」
正午に噴水公園でシーラと待ち合わせ。
ティースがその話をエルレーンから聞いたのも昨日のことだったが、そのときから彼の頭にはいくつものハテナマークが浮かんだままだった。
用事があるからといって付き合わされること自体は珍しいことではない。ただ、それを伝えに来たのがエルレーンだったということがまず不思議だし、同じ宿にいるのにわざわざ時間を決めて外で待ち合わせをするというのもおかしな話だ。少しでも遅れたら帰るという発言も、それが彼女自身の用事であることを考えれば少々違和感がある。
とはいえ、彼女たちが悪意を持ってティースを騙そうとしているとは考えられなかったし、シーラの用事ということであればそもそも彼に断る選択肢などなかったため、その場ではひとまず疑問を口にすることもなく了承していたのだった。
改めてその疑問をぶつけると、エルレーンは少し曖昧な笑顔を浮かべて、
「たまにはいいでしょ? それにデビルバスター協会ならちょうど噴水公園の方角だから、こっちに戻ってくる手間も省けるじゃない」
と、言った。
もちろんティースがデビルバスター協会に行くことになったのは偶然であり、彼女の返答はまるで答えになっていない。
ただ、あえて深く突っ込む気もティースにはなかった。
「あ、そうそう。ボクも一つ、ティースに聞いておきたいことがあったんだ」
「ん?」
その場を離れかけていたティースは、エルレーンの言葉に足を止めて振り返った。
「ねぇ、ティース」
そう言ってエルレーンはつま先立ちのような軽やかな足取りでティースに近付く。空気を挟んで薄っすら体温が伝わるほどの距離まで接近すると、約四十センチほどの身長差のため、彼女の視線は自然と上目遣いになった。
「キミはシーラの進路のこと、どう考えてるの?」
「え?」
少し潜めた声で投げかけられた問いかけに、ティースは少しドキッとした。そしてその焦りが表に出ないように苦心しながら答える。
「進路って、ジェニスに戻って薬師になるって話のことか? ……いいんじゃないか。そのほうが色々やりやすいみたいだし」
そんなティースの模範的な回答に、エルレーンはそれを予測していた様子で小さく頷くと、
「でもボクはシーラと離れ離れになりたくない。親友だからね。キミは?」
「俺だって、そりゃ、同じだけど……」
ティースにとっては確認するまでもないことだった。彼にとってシーラは、かつて仕えた敬愛する人の娘であり、彼自身にとっても守り抜くべき家族のような存在である。別れが惜しくないわけもない。
しかしそういう存在であるからこそ、彼女の進路を決して邪魔してはいけないという強い思いもあった。
そんな彼の思いを揺さぶるように、エルレーンが続ける。
「ジェニスに帰ることは、本当にシーラのためになるのかな?」
「そんなこと、俺にわかるわけないじゃないか……」
少し情けない顔をしてティースがそう返すと、エルレーンは再び小さく頷いて、
「だからちゃんと確かめてきてってことだよ。時間はあまりないけどね」
「確かめるって、なにをだ?」
「もちろん」
エルレーンが人差し指をティースの胸に向ける。
「……!」
それに反応して、女性アレルギーであるティースの体には一瞬だけ悪寒が走った。が、彼の体質を知っているエルレーンはもちろん、触れる寸前でその指を止める。
そして穏やかに言った。
「キミとシーラの本当の考え。本当の気持ち。……今回のことはきっと取り返しのつかないものだから。曖昧なまま終わらせないほうがいいと思うんだ」
「……本当の、気持ち?」
「そう。簡単でしょ? それはキミたちの中にあるものなんだから」
そう言ってエルレーンはニッコリと微笑んだ。
幼い容姿に無邪気な笑み。しかしティースは不思議と、まるで年上の女性と会話をしているかのような錯覚に襲われてしまった。
(……まいったなぁ。この中じゃ俺が一番年上のはずなのに)
「じゃ、行ってらっしゃい」
ソプラノの甘い声で小さく手を振ったエルレーンに、ティースはそんな自分のことが少々情けなくなりつつも、わかったよ、と、平然を装いながら宿を出たのであった。
「よぅ、来たな」
デビルバスター協会支部の建物に入ると、支部長のバルフォスが気難しそうな無精ひげの顔に満面の笑みを浮かべてティースを出迎えた。
「もう来てるぜ。右から二番目の部屋だ」
そんなバルフォスの言葉に従って部屋のドアを開けると、そこには飾り気のない木製の大きな丸テーブルと椅子が無秩序に置いてあり、そこに腰掛ける二つの人影があった。
「こんにちは、カルヴィナさん」
と、ティースは軽く挨拶する。
その二人とは、一昨日ここで出会った女デビルバスター、カルヴィナと、その師匠のシュナークであった。
「こんにちは、ティーサイトさん。バルフォスさんからお話は伺いました。私たちにご助力いただけるとのことで」
カルヴィナが立ち上がって礼儀正しく一礼すると、先日一度も口を開かなかったシュナークも席を立った。
ティースは一瞬たじろぐ。
後ろ髪以外綺麗に剃られた頭、眉毛がなく、頬から顎にかけて奇妙な文様の刺青が入ったその容貌はやはり異様で、ティースが一歩後ろに下がってしまいそうになったのも無理からぬことであろう。
が、しかし。
「はじめまして。僕はシュナーク=フォルリッチ。このクリーヴランドで十年ほどデビルバスターをやらせてもらっています」
「え?」
一瞬、呆ける。が、すぐに慌てて、
「あ、え、えっと、ティーサイト=アマルナです。よろしくお願いします」
異様な風貌からは想像もできない、ややハスキーな声と丁寧な口調で左手を差し出したシュナークに、ティースは別の意味で呆気に取られてしまったのだった。
人は見かけによらないというのは、まさにこのことだろう。
外見だけで無愛想な人間だと決め付けていた思い込みを恥じながら、ティースは差し出された左手を握り返そうと手を伸ばす。
そして、シュナークのさらなる異様に気付いた。
(……右腕に、包帯?)
先日は遠目だったので気付かなかったが、シュナークの右腕は拳から肩口まですべて包帯で覆われていた。それは特段不思議なことでもなんでもなかったが、異様なのは、包帯が拳を握った上からぐるぐるに巻きつけられていて指がまったく動かせない状態になっていることと、その全体に顔の刺青と似たような文様が描かれていたことである。
そしてその右腕は、まるで神経が通っていないかのようにダラリとぶら下がっていた。
片腕が利かないのだろうかと思いつつ左手で握手を交わし、ティースが空いていた席に座ると、シュナークも元いた場所に腰を下ろしてカルヴィナが口を開いた。
「正直言うと、手伝っていただける方がなかなか見つからず困っていました。先日もお話ししたと思いますが、メイナードには優秀な部下が二人います。シュナーク先生がヤツと一対一で戦える状況を確実に作るには、どうしてもあと一人協力者が必要で……本当に助かります」
ホッとした表情のカルヴィナに、ティースは質問する。
「俺の役目は、そのメイナードの部下、闇の上位魔の相手、ということでいいんですよね?」
「はい。ただ、この上位魔もかなりの実力者と噂に聞いています。ティーサイトさんは――」
「あ、ティースと呼んでください。俺、普段はそう呼ばれていますから」
じゃあ、と、カルヴィナは表情を崩す。女性というよりは少女、あるいは少年のような笑顔だった。
「ティースさんも私に敬語はやめてください。私のほうが一つ年下のようですし」
「あ、いや……」
あまり面識のない女性に対してついつい敬語になってしまうのは癖のようなものであったが、自分から言い出したことである以上、断るわけにもいかないだろうと思い、ティースは軽く咳払いをして心の準備をする。
「じゃあ……カルヴィナ。話を続けて」
カルヴィナは満足そうに頷いて続けた。
「ティースさんと私は、メイナードの二人の部下が戦いの邪魔をできないように押さえます。メイナードのことはシュナーク先生にすべて任せてください」
「メイナードはかなりの実力者なんだよね? シュナークさん一人で大丈夫なのか?」
言ってから、少し失礼な発言だっただろうか、と、ティースはシュナークの顔色を窺ったが、シュナークはその容貌に似合わぬ穏やかな表情で小さく頷いた。
「勝てるかどうかは僕にもわかりませんがね。ただ、今回の作戦は僕が勝てなければそこまでのつもりでいます。何が何でもとは考えていませんし、あなたの善意に対して命を捨ててくれなんてことを言うつもりもありません。僕が劣勢になったらティースさんはすぐにでも逃げてください」
これはあくまで私怨の戦いですから、と、シュナークは小さく息を吐いた。椅子に座っていても包帯の右腕はダラリとぶら下がったままだ。
「あとは正直言うと、あなたの実力をよく知りませんので、付け焼刃の共闘ではかえってやりにくくなる可能性もありますから」
「役割分担を明確にして、私たちはあくまでメイナードの部下の相手をする、ということです」
カルヴィナが最後にそう付け加えた。シュナークの言葉は結局のところティースが足手まといになる可能性を指摘したもので、カルヴィナはティースが気を悪くしないかと気を遣ったようだったが、もちろんティースがその程度のことで気分を悪くするはずもない。実際、ティースのデビルバスターとしてのキャリアはカルヴィナよりも短く、おそらく実力的にも大差はないだろう。
「メイナードの居所は?」
「まだ掴めていません。ただ、ヤツはいわゆる殺し屋です。この近辺にやってきたということは、おそらくこのアグノエルの町に標的がいるのでしょう。これまでのヤツのやり口からして、今は仲間がこの町に入り込んで情報収集を行っている段階ではないかと考えられます」
殺し屋か、と、ティースはやや嫌悪感のこもった呟きを口にして考えると、
「メイナード自身が人に化けてすでに入り込んでいるとかは……」
即座にカルヴィナは答えた。
「それは考えにくいですね。メイナードはこの近辺では有名人です。人に化けても人相は割れていますから、密かに入り込むことは難しい。もちろん無理やり入ってくる程度のことはできるでしょうが、そうなればすでに大騒ぎになってこのデビルバスター協会にも何らかの連絡が入ってきているはずです」
「じゃあ、さっき言っていた二人の上位魔のどちらかが潜入してるってことか?」
ティースの問いかけに、カルヴィナは小さく首を傾げた。
「いいえ。今回の件は魔の組織、ベルリオーズも絡んでいると聞いています。ベルリオーズには人間の協力者も多いので、潜入しているのはおそらくそちらでしょう。今、私たちもそっちの可能性を軸に情報屋を使って色々当たっています」
「なるほどね」
どうやら現状ではメイナードに繋がる有力な情報はないようだ。とすれば、長期戦になることも覚悟しなければならない。
「なにか新しい情報があれば私たちのほうからティースさんへ連絡します。……ティースさんはこの町に別の用事もあるんですよね? バルフォスさんへ伝言役をお願いしていますので、宿を半日以上離れるときは一報をお願いします」
「わかった。じゃあ……」
その後、ティースたちはお互いの連絡先を教え合い、ひとまずこの日の話し合いは終わることとなった。
「……あ、ティースさん。この後、もう少しだけ時間いいですか?」
「うん?」
先日と同様にシュナークが先に席を外し、ティースもその後に続こうとしたところでカルヴィナが彼を呼び止めた。
「報酬の話、まだしていませんよね」
「え? ああ、そういやそうだ」
サポートとはいえ危険が伴う仕事である以上、そこに報酬が発生するのは当然のことだ。ティースは今の今までそのことを完全に失念していたのである。
そして少し考えた後、言った。
「そちらの付け値でいいよ。実は相場をよく知らないんだ。そういうの普段は他の人に任せているから」
そんなティースの言葉に、カルヴィナは怪訝そうな顔をする。
「どうして、ですか?」
「なにが?」
テーブルを挟んで、カルヴィナはティースの顔を下から覗き込むようにしながら続けた。
「あなたが手伝ってくれるらしいとバルフォスさんから聞いて、正直、かなりの額を提示されるものだと覚悟していました。相手が相手ですから」
どうやら何か企んでいると思われたらしい。
ティースは苦笑する。
「そんなつもりはないよ。今回はあくまでサポートだし、それにメイナードという魔はかなり前から悪さしているヤツなんだろ? それを退治する手伝いができるんだから、むしろありがたいことじゃないか」
「……」
そんなティースの返答にカルヴィナは少し困ったような顔をした。視線が宙を泳ぎ、ティースの真意を覗こうとするかのように何度か顔の上で止まる。
やがて。
「……あの」
カルヴィナの視線は最後に申し訳なさそうに伏せられた。
どうやら疑いは晴れたようである。
「シュナーク先生も言っていましたが、少しでも体勢不利になったらティースさんは逃げてくださいね」
「そのつもりだよ。仲間にも、新米のくせに無茶するなっていつも言われてるしね」
ティースは頭を掻きながら冗談っぽく笑ったが、カルヴィナは視線を伏せたままだった。
そこに浮かんでいたのは後悔――いや、罪悪感、だろうか。
心配になってティースは尋ねる。
「カルヴィナ? どうしたんだ?」
「……いえ。協力者が見つかって喜んでいたんですけど、なんだか急に申し訳なくなって。本当は観光で来ていたんですよね?」
「まあ、観光とはちょっと違うけど。……そんなの気にすることないよ。俺のほうから申し出たことなんだから」
「それでも、ごめんなさい」
そう言ってカルヴィナは小さく頭を下げた。
「本来は他の人を巻き込むことじゃないんです。でも、メイナードを倒すにはどうしても最低一人は助けが必要で……それに私、どうしてもユアンの仇を討ちたかったから……」
「……」
そんなカルヴィナを見て、ティースは初めて目の前にいるのが年下の少女であることを実感した。デビルバスターの称号を持っているとはいえ、彼女はまだ精神的に未成熟さが残っているらしい。……あるいは兄弟子を失ったことで感情をコントロールできなくなってしまっているのかもしれない。
なんにしろ、そんな姿を見せられて、このお人好しであるティースという男が発奮しないわけもなく。ちょうど気を利かせたバルフォスが紅茶を運んできたタイミングで、ティースはここぞとばかりに話題を変えることにした。
「そういやさ。シュナークさんって右腕が利かないみたいだったけど、あれは?」
「え? あ、ああ、そうですね」
カルヴィナもティースが気を遣ったことに気付いたのか、軽く咳払いをして声のトーンを一つ高くした。
「たぶん、使えないんだと思います」
「たぶんって?」
怪訝に思って尋ねると、カルヴィナはちょっと笑って、
「実は私もよく知らないんです。先生が右腕を使っているのを見たことはありません。でも、巻いている包帯は破魔具らしいです。いえ、もしかすると神具かも」
「包帯が、神具?」
「はい」
そう頷きつつも本当によく知らないらしく、カルヴィナはテーブルに置いた紅茶のカップをクルクルと回し、たびたび首をかしげながら答えた。
「“影神の右腕”という名称だけ、ユアンから聞いたことがあります」
「影神の右腕? いわゆる非武具型の神具ってことかな?」
破魔具あるいは神具には、武器として使用するものの他に、聖力の増幅だけを目的とした非武具型の神具も多く存在する。包帯そのものが武器になるとは思えず、さらに装着している右腕が動かないのだとすると、そう考えるのが自然だろう。
しかしカルヴィナはやはり首をかしげながら答えた。
「たぶん、そうだと思います。……シュナーク先生って人付き合いが極端に苦手で、仕事をするときも必ず一人。私やユアンでさえ一度も手伝わせてもらったことがなくて、本当によくわからないんです」
「へぇ……」
どうやらあの異様な容貌と同じように、謎の多い人物のようだった。
会話が途切れ、ティースは何気なく時間を確認する。思ったより長く滞在していたらしく、シーラとの約束まであと二時間を切っていた。
「じゃあカルヴィナ。俺、そろそろ」
立ち上がると、カルヴィナもティースに用事があることを察したのかすぐに頷いて、
「あ、はい。引き止めてしまってすみません。報酬の件は次回、正式に決めさせてください」
「わかった。じゃあ、また」
ティースは軽く手を振って部屋を出ると、バルフォスに挨拶をしてから建物を出た。
肌寒い風が通りを吹き抜ける。
思わず身が縮んだ。
「さむっ……ネービスじゃ、もう春の真っ只中だってのになぁ」
一人呟いて通りに足を踏み出した。
ただ、この気温にもかかわらず、通りには多くの人々が行き交っている。中には見ているだけで寒くなるような薄着の者もいて、ティースとは寒さへの慣れ具合が違っているようだった。
空を見上げると、今にも落ちてきそうな分厚い雲。
(雪、降るかもな……)
そんなことを考えながら、ティースは待ち合わせ場所である噴水公園へと足を向ける。時間的にはいったん宿に戻ることも可能だったが、何かあって遅刻してしまっては後が怖い。のんびり向かって一時間程度待つ覚悟だった。
(……にしても待ち合わせ、か)
まるでデートのようだ――と、一瞬頭に過ぎったその感想を慌ててどこかへ追いやると、出かけ際、エルレーンに言われたことを思い出した。
(あいつの進路……あいつの本当の気持ち、か)
再び曇り空を見上げ、ため息。
……いつの間にか疎んじられるようになって、数年。そこから目を逸らそうとしていたのは間違いない。
ただ、エルレーンの投げかけた問いかけは、ネービスに来てからこの方ずっと、シーラの気持ちが理解できなくなったと嘆いているティースにしてみれば、デビルバスター試験に合格するよりも難しい問題かもしれなかった。
鏡の中には水飴のような金髪をポニーテイルにした、人形のような少女がいる。黒いノースリーブのトップスは上から厚手のストールを羽織ることを考慮したとしても、今日のこの気温では少々肌寒いのではないかと思えたが、結局そのままの格好で行くことにした。
鏡に顔を近付ける。
染み一つない綺麗な肌。我ながら本当に人形のようだと一人で苦笑し、化粧台から立ち上がってベッドの上のストールを手に取った。
そこへノックの音。
「シーラ様。……あ」
ドアの隙間から顔を覗かせたリィナが、入り口に頭をぶつけそうになって、少し身を屈ませながら部屋に入ってくる。
そしてシーラの格好を見るなり嬉しそうな顔をした。
「その服、なんだか久々に見たような気がします。普段はあまり着ていませんよね?」
「そうだったかしら」
素っ気なくそう返したシーラに、リィナはにっこりと微笑んで言った。
「私、シーラ様にはその服が一番似合ってると思います」
「……ありがと、リィナ」
容姿に関してはおそらく、この世のありとあらゆる賛美の言葉を耳にしたことがあるシーラであったが、服に関することを褒められたことはそこまで多くない。だからリィナの賞賛は純粋に嬉しかったし、それが一番だという言葉がシーラ自身の認識とピッタリ一致していたことも喜ばしいことだった。
「ごめんリィナ。背中のボタン留めてもらえる?」
「はい」
自分の手では届きにくい場所のボタンをリィナにお願いし、ストールを羽織って再び鏡の前へ。
見飽きた顔。面倒ごとばかりを引き寄せ、あまり有難いと思ったことがないその容姿も、今日はそれほど悪いと思えなかった。
「さて、と」
指定の時間まではあと二時間ある。
「そろそろ行ってくるわ」
「まだ早くないですか?」
リィナが不思議そうな顔をしたので、シーラは少し笑って答えた。
「途中で何人かに声をかけられて時間をロスするのが目に見えてるもの」
「はあ。……そういえば私も昨日、何人か男性の方に声をかけられました」
「大丈夫だったの?」
シーラが問いかけると、リィナは不思議そうな顔のまま、
「エルさんがなんだか無理に低い声で、『俺の女にちょっかい出すなー』なんてことを言って、皆さんきょとんとした顔をしていましたけれど……」
「……あの子、それで昨日は男の子の格好してたのね」
昨日、彼女たちに声をかけた男はさぞかし困惑しただろうと、その光景を想像してシーラは思わず笑ってしまった。
かつてジェニスでリィナたちをかくまっていた頃、ティースがずっとエルレーンのことを男の子だと勘違いしていたというエピソードはあるが、それはもう六年も前のことである。いくら小柄で幼い容姿だといっても顔の作りや声の質は間違いなく愛らしい少女のものになっていて、今の彼女が少年に扮するのはいくらなんでも無理があるのだ。
「ま、なんにしてもリィナ。あなたはこの町を一人で歩かないようにね。変な男に騙されでもしたら大変よ」
「はあ」
男女の感情をまったく理解しないリィナにとって、いわゆるナンパ行為というのはもっとも理解しがたい行動の一つに数えられることだろう。そこに付け込まれて悪質な男に連れ回される可能性も充分に考えられる。……もっとも”いざ”という状況になれば身の危険を感じて抵抗するだろうが、そうなると今度は相手の男の安否が気になるところだ。
シーラ個人としては、もしそんな卑怯な男がいたとすればどうなろうと自業自得だと考えるのだが、それで大事になって警邏隊に事情聴取されたり、リィナの正体がバレてしまうような事態になるとそれは困るのである。
「でも、それはエルさんにも言われました。この町は私にとってすごく危険なんだそうです」
よく意味はわからないのですが、と、困った顔をするリィナに、シーラはやはり笑いながら軽くその肩を叩いた。
「じゃあ留守番お願いね。ティースもいないから、また空き巣に狙われないように荷物の番をしてもらえると助かるわ」
「はい。お任せください」
力強く頷いたリィナに見送られ、シーラは宿を出た。
(そういえば、どこに行くかも決めてなかったわね……どうしようかしら)
シーラの用事ということでセッティングされた今回の待ち合わせだったが、もちろんそれは嘘である。シーラにも目的がない。そのままでティースと顔を合わせれば、次の行動をめぐって途方に暮れるのは目に見えていた。
(あいつにその辺の機転を求めるのは無理があるし……)
そんなことを考えながら、さっそく声をかけてきた若い男を比較的丁寧な対応でいなし、成り行きで受け取ったおそらく連絡先が書かれているのであろうメモ紙を手提げのバッグに放り込んでさらに歩く。
すると、
「……あら?」
道端で泣いている小さな少女の姿が視界に入った。
どうやら迷子らしい。見たところ六、七歳だろうか。
辺りを見る。
(……まだ時間はあるわね)
忙しなく行き交う人々が誰も反応しないのを見て、シーラはその少女に声をかけることにした。
「どうしたの?」
まずは優しく声をかけ、ひとまず泣き止ませるのに五分。迷子であることを確認し、親とはぐれたときの状況を確認するのにさらに五分かかった。
どうやら母親が知人と話している間に虫を追いかけていてはぐれてしまったらしい。
なかなかお転婆な少女のようだ。
(でも困ったわね。私じゃ土地勘がないし……)
途方に暮れて辺りを見回す。
一度は泣き止んだ少女が、不安そうにシーラの顔を見上げていた。
「心配ないわ。お姉さんに任せておきなさい」
安心させる言葉を口にしながら、手当たり次第に親を探すとすると時間的にどうだろうか――などと悩んでいると、
「あっ!」
急に少女が顔を上げる。と同時に、通りの向こうから心配そうな若い女性の声が聞こえてきた。
どうやら母親のようだ。
声のほうへ駆け出した少女の背中をホッとしながら見送り、母親に抱きついたところまで見届けてシーラはその場から離れた。
そしてふと、
(……あいつだったら母親が見つかるまで付き合うんでしょうね、きっと)
待ち合わせの時間ギリギリに、今と同じように迷子に出会ってしまったティースの姿を幻視する。
そうなったら、彼はどうするだろうか、と。
――考えるまでもない。
すぐにそう結論付ける。
ティースはそういう人間だ。だからこそ彼はデビルバスターになった。富のためでも、名声のためでもなく、ただ、目の前で不幸になろうとしている人を救うために。性格なのだ。デビルバスターになる前からそうだった。いつだって自分のことより他人のことが優先なのだ。
「……」
胸にモヤモヤしたものが産まれる。
人によってはそんな彼のことを偽善者呼ばわりする者もいるだろう。理想を語る彼の言葉を馬鹿にする者もいるだろう。
だが、少なくともシーラにとってそれは否定の対象ではなかった。むしろ好ましいといってもいい。
……にもかかわらず。
(なんなの、これ……)
僅かに苛立った。
それは初めて感じるものではない。ティースがファナと出会い、デビルバスターを目指すようになる前から何度も抱いた感情だった。その正体を深く考えたこともなく、それはずっとティースに対する冷たい態度へと変換されてきた。
一昨日のエルレーンの言葉がなければ、今後もその正体を探ろうとすることはなかっただろう。
しかし。
(なんでこんなに嫌な気持ちになるのかしら……)
考えてみれば確かにおかしいのだ。
好ましいと思える彼の行動に、苛立ってしまうのだから。
その対象が見知らぬ人々であれ。
彼女自身であれ――
(……私“自身”……?)
その瞬間、ピタリ、と足が止まる。
一昨日のエルレーンの言葉が頭の中を行き交った。
事故。
失った――いや、奪い去った記憶。
重なった人格。
消えたのは――
――ああ、もしかして、と。
シーラはついにその可能性に気付いた。……いや、本当はずっと前から気付いていて。だけど真実から目を逸らそうとしていただけなのかもしれない。
いずれにしても――と、シーラは足を速める。
早く目的地に辿り着いて。
早く確認しなければならない。
少しでも早く、“本当の自分”のことを――。
そうして彼女は微かに雪が舞い落ちる中、待ち合わせの場所――噴水のあるその公園へと辿り着いたのである。
そして、待ち合わせの場所へ向かっていたティースがその道を外れたのは、彼女の待つ噴水公園まであと十五分程度という距離まで近づいたときのことだった。
もちろん約束を忘れたわけではない。
彼女のことをないがしろにしたわけでもない。
ただ、ティースがそこで見つけた人間は、その約束を一瞬忘れさせてしまうのに充分な相手だったのである。
(シアボルド=マティーニ……!)
大きな通りからまるで人目を避けるように細い路地の中に入っていった人影。それはデビルバスター試験で一時ティースと行動を共にした男、シアボルドだった。
(なんであいつが、この町に……)
デビルバスター試験において、魔の協力者として受験者殺しをしていた男、ルドルフ=ティガー。そのルドルフを殺したのがシアボルドだった。それだけ聞けば彼が悪党に誅を下したようにも聞こえるが、実際にはティースに敗北して戦意を失ったルドルフを後ろから攻撃して命を絶ったものである。
そんなシアボルドに対し、ティースは彼が実はルドルフの仲間であり、“口封じ”をしたのではないかと疑った。そのことを試験官へも訴えたが、結局は証拠不十分でシアボルドは解放されたのだ。
それ以来の邂逅である。
……しかもこのタイミングで。
魔の協力者。
ベルリオーズ。
潜入。
情報収集。
いくつかの単語が頭を駆け巡って――
「……」
そして僅かな逡巡の後。
ティースはシアボルドの消えた路地へ足を踏み入れることにしたのだった。