(7)
開けて、月曜――――
結局、土日、金曜の夜からだから二日二晩。みっちりと拘束された翔は、今、疲れ切った足取りで大学内の道を日名子がいるであろう学部棟へ向かっている。
――――― 昨晩寝かせてもらえただけでも恩の字か…
疲労困憊の翔の前で由樹が下した結論は。
『まず、敵を知れ』
…今さらだと言わないで欲しい。確かに、余りにも色んな事を知らなさすぎた。
とにかく相手の情報を集めて、事態の収拾を図り、早急に叩く。
『兵法の基本だぞ』
『……そんなもん、実生活で必要になる訳ないじゃないですか!』
『仮にも、武道と名の付く物を修練し、なおかつ黒帯まで所有している奴の台詞じゃないな。どんな極限に於いても、情報は何よりも大切なツールだぞ』
敵の性格を知り、弱みを握り、一番確実な方法で仕留めてこそ戦う価値が有る――――― などと、真剣な顔で力説してのけた由樹の顔が、実はとんでもなく楽しそうだったのはこの際こちらに置いておいて。
由樹の普段の温和な雰囲気に、だまされているもののなんと多い事か。
温和なだけで、師範代など張れるわけは無いのである。
一撃必殺。
そう呼ばれる、由樹の戦い方は良く知っていた筈なのだが…
―――― 中森が、絡んで、キレたな…
とりあえず、翔のやる事は今までと余り変わらない。
ガードに徹しろ。
『お前に、恋人の真似をしろとは言わんから』
『向き不向きって有るわよね~』
軽い調子で蓮にまで慰められるなど、情けないにも程が有る。
『翔は見かけに関らず、硬派だからな…』
いや、褒めてないでしょう、それ…
硬派とか、軟派とか、そんなくくりで一纏めにしないで欲しい、切実に。
一人だけ。
物心ついた時から、一人だけしか見てないだけだ。
それ以外いらない。欲しくない。
―――― そう思うのは異常なんだろうか…
欲しくも無い腕を求めようともしない翔と違って、当の蓮は、いつも、何時までも翔以外のものを追い駆ける。
まだ大丈夫。
まだ、誰のものにもなっていないから、耐えられる。
もし蓮が、誰かを―――― 自分ではない誰かを選ぶ日が来たら…
―――― その時、俺はどうなるんだろう…
今の翔には、自分自身さえつかめない。
「おっとっと…」
考え過ぎて、日名子の教室への出入り口を通り過ぎるところだった事に気付いた翔は、慌てて足を止めて引き返す。
「ガードに徹しろってな~…」
もう、早い事終わりにしたい。こんな事。
他人様の色恋沙汰に関っている暇も余裕も今の翔には有る訳がない。
蓮が知った。
由樹が動いた。
それほど長引く事にならないだろうと思うとそれだけで救われる。
「翔ちゃん!」
「中森」
今日、講義の有った学部棟から、軽い足取りで日名子が近づいてくる。
周囲には―――― ありがたい事に虫の影は無い。
「お迎え、御苦労さま」
毎日、ありがとね。
にっこりと笑う日名子は確かに、守ってやらねばと思ってしまわなくもないが…
「…今日は…?」
「…今のところ、無事」
四六時中付き従って居る訳では無いので、こんな会話がまかり通る。
顔を寄せ合ってひそひそと。
それでも、どうやったって甘い雰囲気が漂わない事に、本人たちだけが気付いていない。
「中森ちゃん!」
「うわっ!!」
出た!!
声に出さなかっただけでも褒めて欲しい。
「待ってたよ~、ねぇ、どっか遊びに行こう!」
「…お断りします…」
「じゃ、お茶。この先に良いカフェみつけたんだよね~」
「結構です」
「あ、映画の方が良い?今からでも、レイトショーなら、バッチリ!」
「……」
あ、まずい…
日名子の機嫌が色を変えて悪くなっている。
なんで、この空気が読めないんだ!?
「田端、だっけ? 悪いけど…」
遠慮してくれないか?――――と続ける筈だった翔の言葉は途中で遮られる。
「あ、春日井先輩もこんにちは。相変わらずきれいっすね~ 本当に、妹さん居ません? あ、お姉さんでも良いですけど」
―――― だから!!
なんで、そんな風に話を持っていけるんだ?!この状況下で!!
「俺は、これから中森と、行く所が有るから」
「え?どこですか?」
「…なんで、お前に教えなきゃなんない…」
「良いじゃないですか。一緒に行きましょ。俺、先輩が居ても、全然気にしませんから」
いや、そこはお前が気にしろ!!
「…行くぞ、中森」
業を煮やして、翔は日名子の手を引いてこの場を抜けようとした。
「あ~ん、まってよ~ひなちゃん!」
ピキッ!!
その瞬間、日名子の身体が思いっきり強張った。
「ねぇ、ひなちゃん?――― あ、中森さんって日名子って名前なんだって? 可愛いね~、もう、そのままって感じ?」
「……」
「中森さんなんて、他人行儀だよね。ねぇねぇ、これから、名前で呼び合わない?お互いに」
「……中森?」
翔が思わず、心配になるほどに日名子は体を強張らせてそのままそこに突っ立っている。
その状態に気付かないまま、足を止めれた事に気を良くしたのか田端は言葉を続けて行く。
「ね?その方が、お互いに親しくなっていいじゃんいいじゃん! 俺も、ジュンジでいいからさ~
ねぇ、ひな?」
ビキッ!!
突然の破壊音に翔が慌てて見下ろすと、日名子の手の中、持っていたペンケースが思いっきり握りつぶされている。
「…呼ぶな…」
「は?」
「その名前で、あたしを呼ぶな…!」
ヤバい!
「なか…!」
止めようとした翔の手を振り払い、荷物を放り投げて日名子が体に力を込める。
「待て!それは!」
一撃必殺。
日名子の身体が構えの体制に入って…
「あたしを、あたしを…」
ぐっと、握り締めた拳に力が入る。
「あたしを『ひな』って呼んでいいのは、一人だけだ~~~!!」
「――――!伏せろ!」
咄嗟の判断で、翔は日名子ではなく、ぼうっと突っ立っている田端の足を払い受け身を取らせ、かろうじて日名子の第一撃を防ぐ。
「ちっ!」
そのまま、裏拳で第二撃。
翔が両手でブロックして、ガードする。
「中森!落ち着け!」
「これが、落ち着いてなんかいられるもんですか!!」
第三撃。的確に翔ではなく、田端に狙いを定めているそれを翔が体を張って止める。
「翔ちゃん!どいて!」
「ばか! どけるか!」
日名子は空手の黒帯を持っている。
ヘタに素人に手でも出せば―――― わかっていない日名子ではない筈なのに。
「中森!」
「どいて!」
「中森!!」
「――――― あたしを、あたしを…」
思いっきり、息を吸い込んで、
「あたしを『ひな』って呼んでいいのは、あたしが大好きな、たった一人の人だけなんだから~!!!」
怒号の様な叫びと同時に、翔の防御を掻い潜って日名子の右拳が田端の顔面に――――
「―――― はい、それまで」
「由兄!」
「由さん!」
間一髪。田端の顔面に力加減なくヒットしかけた日名子の右腕を、自分の掌で掴みとめた由樹がにっこりと笑う。
ふっと日名子の身体から力が抜け、しゃがみこみかけたその体を由樹は後ろから腰に手を廻し支える様にして言った。
「君」
視線の先にはへたり込んだ一人の男。
「もうそろそろ、あきらめてもらっていいか?」
これ以上やって、死にたくないよな。
「な…な…な…何だよ、あんた…」
「う~ん… 折角、顔面ヒット止めてやったのに、お礼も無しか? …まあ良いけど」
よいせっと日名子を抱え直し、そっと傍のベンチに座らせて由樹は日名子の前にしゃがみこんだ。
「ひな」
「…」
「ひな」
「…由兄…」
日名子の視線を、しっかりと自分に合わせて由樹は言葉を続ける。
「わかってるな、ひな。ひなは黒帯で有段者なんだ。そのひなが一般人にその拳を振るうって事はどう言うことか」
「…」
「段を持っているって事はそれだけの責任が伴う。ひなは、それがわかってる筈だな」
「…由兄…」
「気持ちを暴走させちゃいけない。精神を自分から手放すな。―――― もう一度、初めから教えなくちゃならないのか?」
「…ごめんなさい…」
ごめんなさい…でも……でも…
ぽろっと日名子の眼から涙が零れる。
その涙をそっと指で受けて、由樹は微笑む。
「翔が居てくれてよかった。俺の大事な『ひな』が犯罪者になるところだった」
にっこり。
「え?」
―――― へ?
今更ながらの疑問符がその場に居た全ての人間の頭を駆け巡る。
今、なんか、変な所にアクセントついてなかったか?
『ひな』
ひな―――― 中森 日名子を『ひな』と呼べる人間。
たった一人、日名子が『ひな』と呼ぶ事を認めた男――――
「――――と、言う訳で、申し訳ないけど、あきらめてくれるかな?」
いきなり振り向いて満面の笑みで由樹は言ってのける。
これはこれで、もの凄く怖い。
実際、視線の先の田端は先ほど日名子の攻撃に合い、へたり込んだまま、今度は由樹の眼光に縫いとめられて動けない。
「これ以上、この子に近づかないって、約束できるか?」
出来るよなぁ~
バキッ!
由樹の拳が日名子の座っているベンチの木の背もたれに叩きつけられる
真っ二つに割れたそれに、田端だけでなく周囲のもの全てが固まった。
「さて、帰ろうか、『ひな』」
今日は、俺が送るから。
「これからは、ずっと俺がひなを送るから」
「……何もかも、ほったらかしで逃げんじゃないわよ…」
何時の間に来たのだろう。
翔の横に、蓮が腕組みをして溜息を付きながら立っていた。
「れん…」
「お疲れ様、翔。―――― 思い通りになって満足?由樹」
「残念ながら、思いどおりなんかじゃないけどな。…まあ、ひなの気持ちがわかっただけでも良しとしよう」
「日名子ちゃんの気持ち、ね… …でも、残念ながら、あんたの気持ちは伝わってないみたいよ」
「え? 本当か?」
そう言って、由樹は日名子の顔を覗き込む。
「ひな」
「…」
「ひ~な」
「由…にぃ…」
覗きこんだ日名子の視線が揺れている。
それを見て、由樹は溜息をひとつ付く。
「こんな衆人環視の中で言うつもりじゃなかったんだけどな」
「…」
「仕方ない…」
そっと、日名子を引き寄せその耳元に唇を寄せた。
「――――…」
「―――――!!!!!」
途端に真っ赤になった日名子の顔を見れば、例え聞こえなくても何を言ったか丸わかりであろう。
「はいはいはい… もうわかったから… あとは任せて行っていいわ」
「恩に着るよ、蓮。あ、この壊したベンチの修理代は俺に廻して良いからな」
―――― いや、それは言わずもがなでしょう…
しらばっくれなかった事を褒めるべき?
なんにせよ、逆らってはいけない人間がこの世には居ると言う事を周囲に思いっきり認識させて、由樹は真っ赤になったままの日名子を引きずる様にして去っていく。
「――――さて」
「…」
「怪我は無いわよね、後輩君。ま、翔が守ったんなら、大丈夫だと思うけど」
「…お前の後輩じゃねぇぞ」
「煩いわね翔。あんたの後輩なんだから、どう転んだってあたしよりは年下。後輩君で十分よ」
ヘタって座り込んだ人間に、これまた立ったまま腕を組んで。何んとも高飛車な態度だが。
「これに懲りて、少し相手を見る事も覚えるのね」
何もかも、自分の思い通りに行くなんて思わない事。
「あれで、由樹は日名子ちゃんの数倍強いから。これ以上なんかやったら本当に消されるわよ」
「物騒な事言うな、蓮」
「あら、ホントの事じゃない」
「本当だから、怖いんだ。あの人なら、マジにやりかねないだろ? それも証拠も残さずに」
「…ありえるわね…」
「だから、言うなって。狼が来たらどうする」
これ以上は、俺はしらねーぞ。
そう言いながら、がっくりとしたままの田端を置いて、二人して歩き出す。
「蓮、会社は?」
「由樹に頼まれてね。有給」
ま、あんまり心配する事も無かったかな?
「面白いモノは見れたけど」
「笑い事じゃねぇぞ」
マジ、どうしようかと思った。
「キレた中森は半端無いからな」
実力、総合力では確かに翔に軍配は上がるのだが。
キレた時の日名子の瞬発力は、他に例をみないほど凄くなることが有る。
「…もしかして、こうなる事を予測していたとか言わないよな…」
ボディガードって、もしかしてこっちの意味だったとか…
「ま、ま。その辺もひっくるめて、おねーさんとお話しましょう」
こんなとこで、立ち話も何だから。
「家でってのもなんだから、寄ってく?」
「ああ」
二十歳を過ぎて、こうして蓮と連れ立って呑みに行けるようになった。
久しぶりのその機会に、こんな時だと言うのに翔は心が浮き立つのを押さえられなかった。