(5)
七月に入り、少し汗ばむ様になった週末金曜日の夜。
「ただいま~」
いつもの様にいつものごとくの筈が…
「どうした? 今日はえらく早いな」
只今、午後の十時過ぎ。
週末ごとと言っていいくらいに花の金曜日を謳歌して、午前様は当り前の蓮の姿を玄関に見て、翔は思わず、疑問の声をあげた。
正直歓迎すべきことではある。いくら大の男を五、六人平気でのしてしまう技量の持ち主とはいえ、蓮は紛れも無く女で、しかも、見かけだけは極上と言っていい部類に入る。夜中に一人で徘徊させるなんてとんでもない。
翔が中学の頃から口を酸っぱくして言い続けた甲斐があったのか、一人で呑む時は近所の行きつけを利用してくれるようになっていて。それ以外の時もタクシーなどを利用してくれるようになってきた。
お陰で、翔の負担も少し軽くなっている。
蓮は呑む。
とにかく呑める。
酒豪と言っていいくらい酒には強い。その辺の男でも敵わないくらいには。
しかし、自分の限度を余りにも理解しようとしない。
楽しくて呑み過ぎ、哀しくて呑み過ぎ、人の相談に乗ってやけ酒に付き合い。何のかんのと理由をつけて、歩けないくらいにまで酔っぱらうこともしばしばあったりする。
その度に、迎えに行くのは何時の間にか翔の仕事の一つになっている。
中学の頃は身長の関係で、迎えに言っても引きずっているのか引きずられているのかと言った状態で、見かねた店の店員がタクシーに一緒になって押し込んでくれたこともあったりしたが。
今では翔の身長も伸び、体つきも細身ながらしっかりと筋肉が付き、決して小柄ではない蓮を背負うなり抱えるなりして近所の行きつけぐらいからは帰ってこられる様になった。
―――― 此処までが長かった…
と、翔は思う。
中学卒業まで、翔の身長は学年平均に比べても少し足りないくらいでしかなくて。やっと高校に入って伸び始めたそれは、やがて段々とその勢いを増し、高校の三年間で18センチ。その後も少しずつ順調に伸びを続け、今現在で182センチ。小学生の頃から念願だった、蓮の身長を追い越すこと成功した。
蓮は現在168センチ。女としては低い方ではないが、中学で止まってしまったそれを翔の身長とひき比べたまに翔への愚痴が飛んでくる事があったりするが。
―――― 愚痴なんぞ、いくらでも聞いてやる。
痛くもかゆくもあるもんか。
何のために毎日毎日、苦手な牛乳に小魚に、カルシウムを一生懸命摂取し続けたと思ってる。
一人で蓮を運べるように。
情けないが、これが翔にとって最大の理由なのだから。
しっかりとその効果は、主に金曜日の夜遅くに、月二ペースで発揮されている訳で。
だから、翔は今日も呼ばれる事を覚悟して、さっさとそれに備えていた。
メールでいつもの居酒屋「よしのや」だと聞いていたから、これは午前様コースだと思ってそのつもりでいたのだが。
「…あんまり、呑んでも無いな、お前…」
くんっと嗅いだ匂いからも何時も程のアルコール臭がしない。
「うん。すこ~しだけ、ね。今日は」
珍しい…
「お腹、空いたな~ なんか、ある~? 翔のご飯、食べたい」
「…今頃からか…?」
だから、蓮にとっては早いとはいえ午後十時。いくら翔でも、もう晩飯はすませている。
「ごはんごはんごはん~~~!!」
お腹すいた~
普段ビールを取りに行く時くらいしか開けない冷蔵庫の前で、ドアを開けてしゃがみ込まれてはどうしようもない。
「…卵雑炊でいいか…?」
何のかんの言っていても、こんな時の蓮に翔はとてつもなく甘い。
さっと翔しか使わない黒いエプロン着け、冷蔵庫から卵を二つ…鍋に昆布を入れて出しを取って。朝用に保温しておいた飯をさっと煮たてて、常備しておいた葱のみじん切りを散らす…
この間、わずか十五分。否応なしに身に付けた翔の家事能力は、そん所そこらの新米主婦など足元にも及ばないほどの年季入り。
「うわ~~!!おいしそ~!!」
いっただきま~す。
そう言って食べ始めた蓮にぬるめの麦茶などを差し出してやる気配り付きだ。
実のところ彼無くして、この家の生活状態は決して正常に機能しない。
それと言うもの、さかのぼれば翔を引き取ってくれたじい様と言う人が、これが近所では折り紙つきの家事無能力者であった事に由来する。
たった一人の息子夫婦を若くして相次いで失った時、じい様は当時三歳だった蓮を自分たち夫婦で育て上げる事を決意した。この時には存命だったと言う蓮のばあ様――― じい様の連れ合いと言う人と共に。蓮のばあ様と言う人は、これがまた、主婦の鏡ともいえるくらい完璧な家事能力を有していて、その時はじい様もそして蓮も、ばあ様の至れり尽くせりとも言える心配りに支えられ、家の事は何の心配も無く暮らしていくことが出来ていたらしい。
ところが悪い事は重なるもので。
蓮が小学五年になった時、ある日突然、ぽっくりとばあ様が逝ってしまう言う緊急事態が勃発した。
嘆きのどん底のに引き落とされたと言うじい様と蓮が、二人して茫然とした中から立ち直ってみると、事態は恐ろしい事になっていて。
パーフェクト主婦に甘えて、何一つ家事などやってこなかった還暦を過ぎた爺が一人と、「もう少し経ったらね」とまだ、ばあ様から家事の極意を受け継いでこなかった幼い娘。
その頃、2人がどうやって生活していたか。近所の親切なおばさんたちは、一斉に口をつぐんで誰ひとり翔にその詳細を教えてくれはしなかったが。
今になってみれば、翔にはその惨状が容易に想像できる。いや、本当はしたくないが。
そんな状態で自分たちですらアップアップのその家に、もう一人。今度は幼い―――― 本当に幼い五歳児を引き取ってきたのだから、その時のご近所さんの驚きときたら、それはもう大変なものだったらしかった。
―――― 俺ってば、良く生きてたよな…
かろうじて微かに残るそのころの記憶から、翔は思わず逃避したくなる。
あの頃、親切なご近所の皆さまの温かい援助の手が無かったら、はたしてどうなっていたのやら…
今思い返しても、翔は思わずその方々を手を合せて拝みたくなってしまう。
毎日の差し入れ、本当に本当にありがとうございました。
そして、その後、何がどう転んでこうなったのかはわからないが。
何時の間に、誰に仕込まれたのかも解らないまま、この家の家事一切はやがて翔の手に委ねられることとなり、翔の日々の研鑽とも相まって、今ここに、一人のパーフェクト主夫候補が出来あがってしまっている。
―――― 別にその事をくやんでなんかいねぇけど。
むしろ、そうやって自分の仕事が与えられたことで、救われた部分がある。その頃の翔にはきっと。
それに翔としては、こうして眼の前で美味しそうに自分の作ったものを食べている蓮が居る。この光景だけで報われてもいるのだから。
「―――― ごちそうさま!!」
美味しかった~~
そう言って、へたんと体をテーブルに倒した蓮に、「行儀が悪い!」と一言小言を言い置いて、食べ終わった食器を片づけようと流しに向かった翔の背に、今日一番の爆弾はいきなり降ってきた。
「翔」
「ん?」
「あんた、日名子ちゃんと付き合ってるんだって?」
ガシャン!!
「うわっ!!」
茶碗!!ちゃわん!! わ、わ、割れちゃって…
「な、な、な…」
何で知ってる――――!!
と言いかけて慌てて口を押さえる。
「しょ~お?」
「…」
「ほんと、なのかな~?」
にっこり。
久しぶりに怖いぞ!その顔!
「ど…ど…ど…」
「何処から聞いたって?」
コクコク…
「おしえな~い」
「蓮~~~!!」
やっと発した言葉はこれだった。
「慌てるって事は、本当に…マジ?」
「違う!」
「違うって、付き合ってないって事?」
「いや、それも…」
違う―――― と、この場で言えたらいいのだが。
――――― 誰かに言ったら、承知しないからね!
敵をだますにはまず味方からって言うんだから!!
そんな事にまでこだわる日名子に、翔はあの場で約束をさせられてしまっている。
約束は守る。
これは翔が、常日頃から心がけている事でもある。
それに、何のことかははっきりとわからないが、日名子にばらされるのは困る。
マジ、それが蓮への気持ちとかって事になったら…
「つきあってるの?」
「…」
「付き合ってないの?」
「……」
ふーっ…
「黙秘権――― ってことかな? 翔君」
怖い…怖いぞ、蓮!
「ま、そういう態度なら、しょうがないわね」
と言って、蓮はおもむろに携帯電話を取り出した。
ピッピッピッ…
軽いプッシュ音が響いて…
「―――― あ、もしもし? うん。あたし。…え? うん。駄目だった。吐かないんだよね~」
どうする?
どうするって、誰に聞いてるんですか、蓮さん…
ピッ!パシッ!
折りたたみの携帯を片手で閉じて、蓮は翔を振り返りにっこり笑って言った。
「今から来るって」
―――― 誰が…?
なんだか、怖くて聞けないんですが…
ピンポーン!
いきなりのチャイムに翔は心底驚いた。
「あら~早かったね~」
弾む様な足取りで玄関先まで出て行く蓮を追い駆けて、
ガラっ!
引き戸を開けてそこに佇む人影に気づいて、翔は思わず天を仰ぐしか無かった。
こんなところで終わってしまってゴメンナサイ!
次回は明日、掲載予定です。