(3)
大学から少し離れたパーキングに車を入れ、翔は車を降りた。
中古のヴィッツ。去年夏中バイトして買った翔の愛車は、こうして蓮の為に使われる方が多い。
鍵を掛ける。
手に二つ、大きなスポーツバックをぶら下げているのはもう、御愛嬌だ。
この程度の荷物、重いとは思わないが、当り前の様に積んだままだった蓮の分の荷物にもう、溜息も出やしない。
初めて出会ったその時から、翔は蓮に勝てた試しがない―――― 翔としては内心、忸怩たるものが無い訳ではないのだか。
いかんせん、五歳で翔の両親が二人まとめてあの世へ行ってしまった時、引き取ってくれたのが蓮と、その唯一の家族だった蓮のじい様で。
その当時、七十は軽く超えていた筈の元教師と言う蓮のじい様は、とてもそんな年とは思えないほど矍鑠としたその勢いで、現役当時教え子だったと言う翔の父のたった一人の忘れ形見を迷うことなく自分の家に引き取った。
その時に、色々とあったであろう周囲との軋轢を、その傍若無人さで粉砕してのけたと言うじい様は、いざ翔を迎えに来ようという段になって、はり切り過ぎた挙句のぎっくり腰をやってしまい、しかたなく、まだ中学生でしかなかった蓮を一人、翔の引き取りに差し向けてきた訳で…
いくら外堀が全て埋まっていたとはいえ、今思い返しても結構半端無く空気の悪かっただろうその中に、たった一人で乗り込んで翔を引っさらい、ついでにしっかり両親の骨壷と位牌を奪取してきた蓮に、翔はどうやったって勝てる訳がない。
連れてこられて、十五年。
同じ屋根の下に十五年。
蓮が二十歳、翔が十二の冬にじい様がそれぞれの両親と同じ場所に旅立ってしまってからでももう八年。
「八年か…」
実際の年の差以上に、翔にとって蓮は遠い存在だ。
追い駆けても追い駆けても、するりするりと逃げて行く。
掴まりそうで、捕まらなくて。
こんなに近くに居るのに掴めない。
―――― けれど、どうあっても、あきらめられない。
先の見えない結末に想いを馳せてしまっていた翔は、ポンっと肩を叩かれて、慌てて振り返った。
「由さん!」
「は~い、どうした、青少年。な~んかしけた顔してるね~」
振りむいた視線の先には、翔よりも少しだけ背の高い穏やかな顔をした青年が、にこにこと笑いながら立っていた。
この青年。名を安藤 由樹と言う。
爽やかに、にこにこと微笑む外見に反して、実は翔と蓮が通う空手道場「秀明館」の跡取り息子。しっかり、師範代を務めるほどの結構な手練である。
蓮は八つ、翔は六つ。日名子も八つの時から由樹の道場に通っている。
いわば同じ釜の飯を食った仲であり、空手の基礎を、一から三人に徹底的に叩き込んだ人間でもある。
「由さん、これから、大学ですか?」
「そうそう。なんか、女子部の勧誘でおもしろいことやるって聞いたから。指導している立場としては、やっぱり立ち会わないとね~」
「…あいかわらず、耳の早い…」
自分自身が大学OBでもある由樹は、道場への勧誘も兼ねて、大学の空手部のコーチを引き受けている。
「久しぶりだから、俺も、蓮に会いたくなってね~」
この頃、忙しい忙しいって道場にもお見限りだから。
「…あんなのに会っても、面白くもなんともないでしょうに…」
「あれ~? 翔が、それを言うかな~」
いっくら自分は毎日会えるからって。
「一人占め?」
独占欲強過ぎ。
―――― 否定はしない。
隠せるものなら隠しておきたい。
わかっていて、翔をからかってくるこの人が少しばかり翔は苦手だ。
「な~んてね。蓮を引っ張り出そうってひなに進言したのは俺だから」
「なっ!?」
「翔もわかってるだろ? 型を見せるならやっぱり出来るだけ整ったものが良い。蓮以上に適任がいるかい?」
「……」
「翔!由兄!!」
思わず反論の言葉を飲み込んだ翔は、前方から掛けられた声に由樹と共に反応した。
小柄な体が弾む様に駆けてくる。
同じ空手をやっているとはいえ、蓮と日名子とはその雰囲気がまるで違う。
耳までのショートボブ。157センチの小柄な体つき。その雰囲気は、まだまだ年端もいかない少女の様なあどけなさが垣間見える。
「やあ、ひな。相変わらず可愛いね」
「由兄も相変わらず口が上手いわね」
由樹は日名子を『ひな』と、日名子は由樹を『由兄』と呼ぶ。
―――― そう言えば、親戚同士だったっけ…
また従兄妹だったか、ハトコだったか。
そのあたりの関係は、いくら説明されてもこんがらがるので、翔などはすぐ忘れてしまうのだが。
「中森、蓮はどうした?」
一向に姿が見えない蓮に、翔は日名子に問いかける。
「え? 翔たちと一緒じゃなかったの?」
「いや、時間に遅れそうだから、先に、此処に落としといたんだが…」
「あたし、11時5分ぐらいに此処に着いたけど… 蓮さん、いなかったよ?」
だから、てっきり翔と一緒に来ると思って…
嫌な予感に翔は、思わず眉根を寄せた。
あんな目立つのを見つけられない訳がない。なのに、此処にいないとなると…
ばたばたばた…
その時、構内から二人の学生が声高に話しながら、駆けてきた。
「なあ、良いのかよ。あいつら、タチ悪いって有名だろ…」
「でも、どうするよ。五、六人いたぜ、何とかったって…」
「警備に知らせるか?」
「おい! いきなり警備って…」
―――― まさか…!?
「おい!ちょっと待て!」
もう、もの凄いぐらいの嫌な予感に翔はその二人を呼びとめる。
「え?」
「あの…?」
ほけ…一瞬固まられて、溜息を付く。
新入生だろう。慣れてない人間は、たまにこうして翔の顔に見とれて固まる―――― いや、もう、果てしなく、めんどくさい事なのだか。
しかし、今はそれどころではない!
「―――― さっきってなにかあったのか!?」
勢い込んだ翔に、見とれていた二人の金縛りが解けた。
「あ、あの、さっき、女の人が、あっちへ…」
「が、学生だと思うけど、男五人に連れてかれたみたいで…」
「どんな女だった!?」
「「すっごい美人なおねえさん!」」
ハモるな! などと、突っ込んでいる暇は無い!
「ビンゴ! 翔!」
「わかってます!」
あと、頼みます!
それだけを言い置き荷物を放り投げて、翔は示された方向へ猛ダッシュを掛けた。
体育倉庫の裏、人気のない林の中に翔が飛び込んだ時、眼の入ったのは蓮の蹴りに揺らいだ男の体。
その顔面をめがけ、蓮の渾身の正拳突きが――――!
「―――― 蓮!!」
ぴたっ!
あと一瞬。髪の毛一筋ほどの隙間を残して、かろうじて蓮の拳が止まるのが眼に入った。
「―――― あら、翔」
「あら、じゃねぇ!」
見渡せば、五人。
今、蓮の拳をお見舞いされかけてへなへなと座り込んだ男も含めて、全て地面に這いつくばって体を抱えて唸っている。
「…なに、やった?」
「何って、『ちょーっと、面白いモノが有るから見に来ない?』って言われて、囲まれて。めんどくさいから付いてきたらいきなり押し倒しかけるんだもの。『ちょっと、何すんのよ!』って振りはらったら、こうなった」
「こうなった… そりゃ、こうなるのは解り切ってるだろうが…」
やっぱり…やっぱり、一人になんかするんじゃなかった。
中森がすぐ来るだろうからって油断した。蓮が一人であんなところに突っ立って、眼ェ付けられない訳が無かったってのに。
それにしても…!
「だから! ここから動くなって言ったよな、俺は! たった十分もどうにか出来ねぇのか、お前は!」
「え~?だって~ 日名子ちゃんが来たら、かえって眼、付けられそうだし。こんなのの考える事って決まり切ってるしめんどくさいし。やっつけちゃった方が早いかな~って」
「お前がやったら、半殺しは確実だろうが!」
「やーねー。正当防衛よ、正当防衛。素手の女に五人がかり。充分それで通るわよ~」
「てめぇがやったら、過剰防衛になっちまうだろうが!」
「だいじょーぶ。あたし、段持ちじゃないし」
「お前に段が取れねぇのは、ただ単に、寸止めができねぇからだろうが!!」
だんだんとヒートアップしていく会話に、いつのまにか少しずつ人だかりが出来てゆく。
しっかりその野次馬の中に合流しているのは由樹と日名子。
「ねぇ、由兄」
「なんだい、ひな」
まだ立ち上がれそうにもなく、這いつくばったままの五人の男と、平然としている蓮を見比べながら日名子が由樹に問いかける。
「蓮さんって、もしかして、強い…?」
「あはは… そうだねぇ…」
強いかな。
あっさりと言ってしまうのが、この男の怖いところだが。
「そっか。ひなはあんまり、蓮と立ち会ったことなかったね」
この頃、蓮は型の練習ぐらいしかする時間もなさそうだし。
「少なくとも、まだ、ひなよりは上だよ。真剣勝負ならね」
「真剣って…」
「さっき翔が言ってたろ? 蓮は寸止めが出来ないんだ」
空手の試合に於いて、対戦相手を怪我させない様にする為の大切な方法。
「どんだけ練習しても出来なくてねぇ~ 手加減は出来るんだけど、どうしても寸止め以上やっちゃうんだよね~ 昇段の試合でも、反則ばっかり取っちゃうから、昇段出来ない」
実力は、師範の折り紙付きなんだけどね~
「ヘタしたら、翔でも、勝てないよ」
蓮が、本気だしたらね。
にっこり。
その言葉を聞く気は無いまま聞かされた周囲の男たちが一斉に引いて行くのがわかる。
―――― それって、すごく怖い事だよね…
そう思ったけれど、日名子は口をつぐむことにする。自分と周囲の精神安定の為に。
でも、つまり…。
―――― あたしが蓮さんに勝つのって、まだまだすんごく大変だって事だよね!?
思わず、すぐ傍でにこにこしている背の高い十歳以上年上のこの思い人を見やってしまう。
そう。日名子の片思いの相手。
それは何を隠そう、この、何処か飄々とした跡取り息子に他ならない。
翔に惚れず、由樹に惚れた自分の審美眼を日名子はとっても誇りに思ってはいるが、実のところライバルも多い。ほとんどはこの優しそうな外見にだまされているだけだから問題ないが。
蓮は違う。
蓮は、日名子よりも先に由樹のそばにいる事が出来た。
二人の間に恋愛感情がある様には見えないが、蓮が由樹に現在一番近い位置にいる異性であることには間違いない。
そして、お互いそれぞれを認め合っている事も間違いのない事で。
年周りもいい。
由樹は今年三十。蓮は二十八。共にしっかり適齢期。
それに比べて、日名子と由樹は…
――――ただでさえ、ひとまわりよ!
ひとまわり―――― 十二歳もの歳の差が、ハンデとして圧し掛かっているのだ。
――――― がんばんないと…!
せめて、由樹の横に立って、皆に認めてもらえるように。
あきらめるなんて、出来ないんだから。
それが出来るんなら、始めっからこんな人に惚れたりしない。
ぐっと両手のこぶしを握り締め自分の向上を誓いながら、少し離れた場所で繰り返されている翔と蓮の舌戦に気持ちを向け直す。
「だから~~ 手加減はしたでしょ?手加減は。半殺しにもしてないんだもんいいじゃない」
「手加減すりゃいいってもんでもねぇ! 何で、俺が来るのを待ってないんだ!」
「だって、なんとかなったでしょ? …半殺しまでやりたかったのに…」
つまんない…
「蓮~~~~!!!」
―――― 自分を頼れって言いたいだけなんだろうけど…
通じてないなぁ~翔ちゃんってば…
きっと翔にとっては、守りたいのに守らせてくれない蓮が、歯がゆくて仕方ないだけなのに。
実は翔の気持ちなど、日名子に取ったら余りにもあからさまで、バレバレで。
あのとんでもなく整った翔の顔が、蓮の事が絡むたびに崩れたり、ゆがんだりするのが面白くて。
でも…――――
でも、蓮の事はわからない。
翔の事も、由樹の事も。好き以上なのか、違うのか。
ひらひらひらひら。
蓮はまるで蝶のようだ。大人の様で子供の様で、捕らえ処がなくて色っぽい。
モテるのも恋人がいるのも当り前。
振って振られてまた振って。
屈託がなくて飾らなくて、気持ち一杯そのままの笑顔で笑いかけてくる。
―――― ステキ…なんだよね…
嫌いになんか、絶対なれない。
その存在自体が、もの凄く素敵過ぎて困ってしまう。
由兄のそばには居て欲しくない。
なのに、ずっと見ていたい。
―――― あんの、へたれ!
無駄に顔だけはいいくせに!
翔への罵倒はどうしたって日名子の八つ当たりだ。
さっさと、捕まえてしまえばいいのに。
ずっと、ず~っと見てる癖に。あきらめるなんてしない癖に。
日名子が由樹しか見ていない様に、翔は蓮しか見ていない。
年上も年下も、この際気持ちには関係ない。
けれど、わかる。あたしも同じ。
言いたい気持ち、言いだせない気持ち。
解りたくないのにわかっちゃう。
壊したい。変わりたい。変えたい。掴みたい。
同病相哀れむ―――― 恋を病と言うのなら。
囚われたのは、お互いさま。追い付けない相手は違うけど。
いつか、変わってしまうかもしれない日常を、日名子は望みながら踏み出せないでいた。
とりあえず、主要キャラが出そろいました。この後は、本当にゆっくりの更新になると思いますので、どうか、気長に待ってやってください。
今後、この本筋と並行する形で、翔と蓮、二人の過去のお話を別のシリーズでオムニバスの様な感じで掲載します。よかったら、そちらも楽しんでやってください。
尚、空手に関しては一応調べましたが、素人ですので矛盾が有るかもしれません。ご容赦ください。