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「坊やにあったぞ」


一瞬何を言われたのか蓮にはわからなかった。

いつもの、仁お気に入りのバーのカウンター。

久しぶりに顔を合わせて、落とした照明の中で告げられる。


翔の家出からこっち、仁にプライベートで会う事を、蓮は思いっきり避けていた。

揺らされる自分が見たくない―――― 違う。もう揺れない自分を見たくない。


なのに今日、しっかり仕事だと確認して待ち合わせて。

ほんの一分前まで、確かに仕事の話しかしていなかった筈なのに。


―――― いきなり何の爆弾?!


って言うか、


「何であたしの知らない所で会ってたりしてるの!?」

「あっちから、乗り込まれてな」

「あっち?」

「坊やの方。…しっかり、事務所の方にアポイントとって会いにきやがった」


事務所? アポイント?


「…なんで、翔が…?」

「なんでも何も… なかなか、肝の据わった坊やだな。流石に、蓮が仕込んだだけの事はある」

「―――― 人聞きの悪い事、言わないで」


何処か、面白がっている様な―――― それだけではない仁の声の響きが、蓮の何処かをむしる。


「そんな、褒めてんだかけなしてるんだかわからない様な台詞を吐かれて、笑ってられるほど人間、出来てないの。残念ながら」


仁のシニカルな毒舌には慣れている筈なのに。


「―――― 蓮は渡さないと言われた」

「――――!!」

「何が有っても、離れないとな」


振り向いて、真横に腰を下ろした男を見る。

男の眼は、真っ直ぐに正面に向けられたまま動かない。


「仁…」


どう、言おう。

どう告げる。

今…今しか告げられない。そのチャンスを、この男は今、蓮にくれている。

けれど…


「…仁…」

「そんな顔するな」


苦笑が男の顔に浮かび、ゆっくりと向けられた視線が、思いもかけず温かくて言葉を飲み込む。


「わかってたさ」


わかってたんだがな。もう、遅いって。


「俺は一度、お前を手放した。―――― そこで、ジ、エンド。リターンマッチは無かったって訳だ」


紡がれるのは、仁の気持ち。仁の悔恨。

こんな事、あたしが聞いちゃいけないのに。


「そうなるかもしれないって、わかってたんだが…」


一瞬だけ、仁の瞳に影が滲む。


「…お前が迷ってたのは俺の為か? 自分の為か? それとも…」


それとも…?



――――― 聞くまでも、無い、か…


不意に逸らされた視線が、何よりも雄弁に蓮の気持ちを仁に伝えてくる。思わず煽ったウイスキーの、苦い味が仁の喉を焼く。


「坊やに言った」

「…え?」

「俺は、お前の初めての男だと言った」

「仁!」

「お前が俺を忘れる事はないとも言った」


蓮はうつむいて唇を噛む。

追い詰めたいのか、苦しめたいのか… こんな感情が有る事に最後まで気付かなかった自分はバカだ。


「卑怯だと思うか?」


お前が、一番触れられたくない部分を暴きたてて突き付けた事を。


蓮は応えない。仁も答えなど求めない。

ただ、


「それほど、俺はお前が欲しかった…」


そんな事をほざいてしまうぐらい、俺はお前に本気だった。


だが。 


「それでも、良いとさ」

「…!?」

「それも、ひっくるめて今の蓮だから良いと言いきったよ、あの坊や」


目を見開いて、ただ仁を見詰めてくる蓮の顔に、あの日の翔の眼を思い出す。


射抜くような、その癖何もかも呑み込んでしまう澄んだ湖みたいな透明な瞳。

受け止める。

全てを。

それで、何の後悔も無い。

その覚悟を、あんな年でしちまって…


負けた――― 完敗だ。

これ以上みっともなく足掻くのは、俺の信条に反する。


「いっそ、潔いくらいの失恋だな。このぐらいきっぱりとやられたら、もう笑うしかない」


そして本当の苦笑が仁の中から込み上げる。


「言ってやれ」

「仁…」

「言ってやれよ」

「…」

「まだ、言ってやってないんだろ? あの坊やの事だ。お前が動かなきゃ、何時までたってもそのまんまだぞ」


苦笑が、本当の笑みに変わって行くのがわかる。

ここで、手を放す事を、俺は後悔しなくて済むのだろう。


「仁」


欲しかった―――― 好きだった、女。

過去形にしてしまうにはまだ、少し、未練はあるが。


「言ってやれ」


そして、幸せになれ。


「お前にはその値打ちが有るさ」


こんな台詞を吐いてしまうほど、俺はお前に惚れていた。


「心配か? なんなら俺が保証してやるぞ」

「…あんたの保証なら、安心ね…」


泣き笑いの様な声がする。

見てしまったら、気持ちがぐらつくから、もう目を合わさないままで告げる。


「―――― もう、会わない」

「仁」

「今日で、最後だ」

「…仁」


気配だけをお互いに探り合って、蓮の呼ぶ声が震えているのがわかるけれど。

もう、会うことはないだろう。

きっと、それでいい。


「ありがとう…」


絞りだされた彼女の言葉は、聞きたかったはずのものじゃない。

それでも、この事実を仁はしっかりと受け止める。


「ありがとう。貴方に会えてよかった」


昔も―――― そして今も。


「グッドラック、で良い?」


少しだけおどけた声が耳朶じだを打つ。


「ああ…」


だから、心を込めて強く告げる。


「Goodluck!」






   ―――― 幸運を。

      君に、全てに幸運を。



二度と会わないから、愛した君が、何時までも幸せで有りますように。


その為に、この手を放そう。




Goodluck!―――― 幸運を。



別れの言葉は、もう涙では無かった。






前回の更新で一日のユニークアクセス1000を突破いたしました。

初めてです。ありがとうございました!

いよいよ、ラストが近付いてきました。

どうか、最後までよろしくお願いいたします。

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