(18)
「坊やにあったぞ」
一瞬何を言われたのか蓮にはわからなかった。
いつもの、仁お気に入りのバーのカウンター。
久しぶりに顔を合わせて、落とした照明の中で告げられる。
翔の家出からこっち、仁にプライベートで会う事を、蓮は思いっきり避けていた。
揺らされる自分が見たくない―――― 違う。もう揺れない自分を見たくない。
なのに今日、しっかり仕事だと確認して待ち合わせて。
ほんの一分前まで、確かに仕事の話しかしていなかった筈なのに。
―――― いきなり何の爆弾?!
って言うか、
「何であたしの知らない所で会ってたりしてるの!?」
「あっちから、乗り込まれてな」
「あっち?」
「坊やの方。…しっかり、事務所の方にアポイントとって会いにきやがった」
事務所? アポイント?
「…なんで、翔が…?」
「なんでも何も… なかなか、肝の据わった坊やだな。流石に、蓮が仕込んだだけの事はある」
「―――― 人聞きの悪い事、言わないで」
何処か、面白がっている様な―――― それだけではない仁の声の響きが、蓮の何処かを掻き毟る。
「そんな、褒めてんだか貶してるんだかわからない様な台詞を吐かれて、笑ってられるほど人間、出来てないの。残念ながら」
仁のシニカルな毒舌には慣れている筈なのに。
「―――― 蓮は渡さないと言われた」
「――――!!」
「何が有っても、離れないとな」
振り向いて、真横に腰を下ろした男を見る。
男の眼は、真っ直ぐに正面に向けられたまま動かない。
「仁…」
どう、言おう。
どう告げる。
今…今しか告げられない。そのチャンスを、この男は今、蓮にくれている。
けれど…
「…仁…」
「そんな顔するな」
苦笑が男の顔に浮かび、ゆっくりと向けられた視線が、思いもかけず温かくて言葉を飲み込む。
「わかってたさ」
わかってたんだがな。もう、遅いって。
「俺は一度、お前を手放した。―――― そこで、ジ、エンド。リターンマッチは無かったって訳だ」
紡がれるのは、仁の気持ち。仁の悔恨。
こんな事、あたしが聞いちゃいけないのに。
「そうなるかもしれないって、わかってたんだが…」
一瞬だけ、仁の瞳に影が滲む。
「…お前が迷ってたのは俺の為か? 自分の為か? それとも…」
それとも…?
――――― 聞くまでも、無い、か…
不意に逸らされた視線が、何よりも雄弁に蓮の気持ちを仁に伝えてくる。思わず煽ったウイスキーの、苦い味が仁の喉を焼く。
「坊やに言った」
「…え?」
「俺は、お前の初めての男だと言った」
「仁!」
「お前が俺を忘れる事はないとも言った」
蓮はうつむいて唇を噛む。
追い詰めたいのか、苦しめたいのか… こんな感情が有る事に最後まで気付かなかった自分はバカだ。
「卑怯だと思うか?」
お前が、一番触れられたくない部分を暴きたてて突き付けた事を。
蓮は応えない。仁も答えなど求めない。
ただ、
「それほど、俺はお前が欲しかった…」
そんな事をほざいてしまうぐらい、俺はお前に本気だった。
だが。
「それでも、良いとさ」
「…!?」
「それも、ひっくるめて今の蓮だから良いと言いきったよ、あの坊や」
目を見開いて、ただ仁を見詰めてくる蓮の顔に、あの日の翔の眼を思い出す。
射抜くような、その癖何もかも呑み込んでしまう澄んだ湖みたいな透明な瞳。
受け止める。
全てを。
それで、何の後悔も無い。
その覚悟を、あんな年でしちまって…
負けた――― 完敗だ。
これ以上みっともなく足掻くのは、俺の信条に反する。
「いっそ、潔いくらいの失恋だな。このぐらいきっぱりとやられたら、もう笑うしかない」
そして本当の苦笑が仁の中から込み上げる。
「言ってやれ」
「仁…」
「言ってやれよ」
「…」
「まだ、言ってやってないんだろ? あの坊やの事だ。お前が動かなきゃ、何時までたってもそのまんまだぞ」
苦笑が、本当の笑みに変わって行くのがわかる。
ここで、手を放す事を、俺は後悔しなくて済むのだろう。
「仁」
欲しかった―――― 好きだった、女。
過去形にしてしまうにはまだ、少し、未練はあるが。
「言ってやれ」
そして、幸せになれ。
「お前にはその値打ちが有るさ」
こんな台詞を吐いてしまうほど、俺はお前に惚れていた。
「心配か? なんなら俺が保証してやるぞ」
「…あんたの保証なら、安心ね…」
泣き笑いの様な声がする。
見てしまったら、気持ちがぐらつくから、もう目を合わさないままで告げる。
「―――― もう、会わない」
「仁」
「今日で、最後だ」
「…仁」
気配だけをお互いに探り合って、蓮の呼ぶ声が震えているのがわかるけれど。
もう、会うことはないだろう。
きっと、それでいい。
「ありがとう…」
絞りだされた彼女の言葉は、聞きたかったはずのものじゃない。
それでも、この事実を仁はしっかりと受け止める。
「ありがとう。貴方に会えてよかった」
昔も―――― そして今も。
「グッドラック、で良い?」
少しだけおどけた声が耳朶を打つ。
「ああ…」
だから、心を込めて強く告げる。
「Goodluck!」
―――― 幸運を。
君に、全てに幸運を。
二度と会わないから、愛した君が、何時までも幸せで有りますように。
その為に、この手を放そう。
Goodluck!―――― 幸運を。
別れの言葉は、もう涙では無かった。
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初めてです。ありがとうございました!
いよいよ、ラストが近付いてきました。
どうか、最後までよろしくお願いいたします。




