(16)
それでも…
どうしても蓮の事がほっておけない、自分がどうしようもなく情けない。
翔は鍵を開けて家に入り、もう当り前の様に廊下の洗濯物を拾い上げる。
二、三日に一度。
こうして蓮のいない間を見計らうようにして、翔は住み慣れた家を訪れて家事をこなしている。
相変わらず順次の所に世話になったまま帰る決心など付かないのに、初めて様子を見に帰った三日後、どうしても心配になって再びやってきた家で、三日前となんら変わらない惨状に、もう溜息一つ出さずにかたずけを始めていた。
まるで通い夫の様な生活も、もうそろそろ三週間。窓を開けて風を通し、掻き回した空気はひんやりと思いのほか冷たくて。
暖房など入れないまま、いつもの様に一人分の夕食を準備し終えて流し台を片づける。
まな板を洗い流す水が、キン!と冷えた感覚を指先に染み込ませてくる。
冬の一番厳しい時期。寒がりの蓮は、ちゃんとあったかくして出かけているのだろうか。
人一倍寒がりの癖に、すぐ薄着で出歩いてしまう蓮の癖を知っているからどうしても案じてしまう。
「…これじゃ、なんにも変ってねぇな…」
誰も居ない部屋の中で、翔の呟きだけが冷たい空気に消えて行く。
そばにいても、居なくても。
考えるのは蓮の事。
思うのは、やはり蓮の事だけだ。
嫌われたのに。
絶対、どうやったって許されない事を俺はしたのに。
まだ、放せない。
まだ諦められない。
『諦められないんです』
ちゃんと向き合って、確実がゼロじゃないのなら諦めない。
『…俺が言うセリフじゃ有りませんけどね』
ちゃんと、自分の言葉で態度で伝えて、相手がそれに向き合ってくれたなら、そしてもらえた答えならたとえ失恋しても、満足かなって。
―――― そうだな…
そうだよな、順次。
自分のしたことと向き合って、許してもらえなくてもあやまって。
そして、もう一度だけ、蓮に向き合ってみよう。
このままでは、進めない。
俺は何処にも行けないから。
とことん蓮と向き合ってみる―――― もう少し、俺に自分と向き合う勇気が持てたなら。
蓮が好きだ。
どうしたって、この気持ちは変えられない。
でも、蓮には、いつも、笑っていて欲しいから。
初めて会った五歳の時の、あの時のままの顔で、いつも笑っていて欲しいから――――
ガタっ!!
自分の気持ちに沈みこんでいた翔は、突然後ろで起こった音に弾かれた様に振りかえった。
台所の入口に、茫然として立つ人影。
「…蓮…」
足元の大きいバックを、落とした音だったのだろうか、今のは。
蓮――――
ああ、やっぱり、駄目だ。
蓮しか居ない。
俺には蓮しかありえない。
見ただけで、その姿を目に入れただけで。
翔の中の身体の細胞全てが騒ぎ出す。呼吸が動悸が高鳴って、それと共に体中の血が一気に溢れ出す様な充実感。
蓮が傍に居るだけで、その姿をみるだけで、翔の中の凍てついていた全てが蘇る。
ぽたっ…
濡れたままの翔の指先から水の欠片が足先に落ちて、その冷たさに翔ははっと我に帰る。
「…ご、ごめん、勝手に入って…」
―――― しまった…
蓮が帰るまでに此処を出て行く筈だったのに。
「今、出るよ。勝手に色々やってごめん…」
ごめん―――― 本当に謝りたいのはそんな事じゃないのに。
「鍵、いつもの所に入れとくから。飯は、大体出来てるから、良かったらあっためて食べて…」
ああ、何言ってるんだ、俺は。
言いたい事も言えない事も何もかもがごっちゃになって、どうでも良い事だけが口を付く。
蓮は動かない。
ただ、くいいる様に翔を見詰めて動かない。
その様を見てられなくて目を逸らす。
表情のない瞳が、動かない体が、あの日の蓮を思いださせて、翔の罪悪感を思い切り揺さぶってくる。
「じゃ、俺、行くから…」
蓮を極力見ない様にして、翔は置いておいた自分のバックを引っつかむ様にして、廊下に出る。
行きたくない。ここに居たい。何処にも行きたくない。蓮の傍に居たい。
それでも、まだ、向き合えない。
蓮の傍に居られない。
嫌われたくない。
蓮の眼に侮蔑の色が浮かぶ様を見たくない。
今更――――― 今更なのに情けない…
けれど…
けれど、もう少しだけ…
そのまま、早足で玄関へ。靴を履こうとして屈み掛けた体に衝撃が走る。
ドン!
ぶつけられた力の強さに、一瞬翔の息が止まる。
後ろから、体一杯に廻された腕。
今、こんなに力を込めて、俺にしがみついているには、誰…?
「…れん…?」
決まっている。蓮しか居ない筈なのに。
今のこの状況が信じられなくて、翔の全ての動きが止まる。
「…行かないで…」
「――――!」
「行っちゃ駄目…」
くぐもった声。背中に直接響く蓮の声。
動けない。何言ってる…? わからない… 蓮は、今なんて言った…?
「…どこ、行くって言うの…?」
翔の家はここでしょう? あんたの家は、此処にしか無いでしょう?
――――― そうだ… その通りだ…
俺の家は此処。俺の居る場所は此処にしか無い…
「なのに、行くの? 何処行くって言うの?」
どこ? 何処も、行く所なんて無い。
でも… だけど、俺は…!
「……置いて行くの…? あんたもあたしを置いて行くの?」
低い声… 本当に怒った時の蓮の声。
めったに聞かない、その響きが背中から翔の全身を揺らして。
「駄目…許さない…」
「そんなこと、絶対に許さない…!!」
「――――― いいのか…」
―――― れん…
「……いて、いいのか…?」
出た声は、自分の声とは思えないくらいにかすれていて。
「…ほんとに…おれがいて、いいのか…?」
俺は、まだ、此処にいて、いいのか?
――――― 蓮と、いて。
「…お前と一緒に、暮らしていいのか…」
「良いに決まってるじゃない!」
間髪を入れずに返された。
「この家に住んでいいのは、あたしとあんただけなんだから…!」
あたしたち以外に、この家に居て良い人間なんて、居ないんだから!!
叫ぶような声に涙が混じっているのがわかって、翔は耐えきれずに向き直る。
目の前の、もう、少しだけ低くなったその体を思いっきり抱きしめる。
ギュッと…
ただ、ぎゅうっと、蓮のその体を想いの全てを込めて抱きしめる。
「蓮…」
「…」
「れん…」
「……翔」
翔―――― もう、二度と呼んでもらえないと思っていた。
「―――― 好きだ」
最後だから。
「好きだ、蓮」
もう、言わないから。
「蓮が好きだ」
お前が俺に許すまで。だから、心を込めて言葉を綴る。
「ずっとずっと、…初めて会った時から好きだった。俺にはお前しかいなかった」
ずっと蓮だけしか見えなかった。
「翔…」
翔の胸に押し付けられていた蓮が身じろぐ。
「しょう、あたし…」
紡ぎかけた蓮の言葉を、強く抱きしめる事で翔は塞ぐ。
「いい」
「…」
「答えなくていいから」
「…翔…」
「…答え、なんかいらない…」
少なくとも今は。
「蓮が、どう思っていようと、良いんだ」
俺が、蓮を好きなだけだから。
それだけ、なんだから。
「ごめん…」
「…」
「あんなコトしてごめん」
蓮を傷つけてごめん。
「もうしない。もう、あんなことはしないから」
二度と、蓮を傷つけるようなことはしないから。
「此処にいて良いか…? 」
蓮のそばに。この家に。
「…当り前じゃない…! あんたとあたし以外の誰が此処に住むって言うの…!」
ぎゅっと強く抱き締め返す蓮のその腕の力の強さに、潤み掛けた瞼を強く閉じる事で翔は涙を止める。
何時の間にか、蓮を見下ろす程背が伸びて。
何時の間にか、自分の腕はこんなにも蓮をすっぽりと抱きしめられるほど大きくなって。
でも、変わらない。
何時までも、変わらない。
いつも、いつでも、俺は蓮に救われる。
蓮が居るだけで、生きていける。
「あんた以外のご飯なんて、まずくって食べられたもんじゃないのよ! 餌付けした責任取りにさっさと帰ってきなさい、このバカ!」
馬鹿!―――― 何時もなら翔の方が言い慣れていたその言葉がこんなにも優しくて、もう一度だけ、翔は蓮を強く抱きしめた。